私がキリストを受け入れたのは25歳の時、カリフォルニアで学生だったときでした。しかしその信仰の種は私がまだ5、6歳くらいの子供の時に当時通っていたプロテスタントの幼稚園での礼拝とその日曜学校で、蒔かれていたと思います。たくさんの聖句を習って暗唱したり、いろいろな賛美歌を歌った記憶はありますが、細かい出来事はほとんど忘れました。ただ、大人になっても覚えていたことが三つ。
キ 先生たちの平安と愛に満ちた様子。 こんな人たちは他ではあったことがない。
キ 聖句ヨハネ3:16「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」
キ 賛美歌461番の「主我を愛す」(文語の歌なので、意味は全く理解していなかったが音ですべての言葉を覚えていた。)
このあと、私の人生の表面から、キリストはしばらく姿を消し、学校と塾とクラブに忙しい普通の小中高校時代を過ごします。
その後、大学進学でプロテスタント系の女子大にいく事になりました。その大学にした理由はいろいろありますが、キリスト教を学べるというのもひとつの大きな魅力で、かなり期待感をもっていました。しかし、学内にあるチャペルでの礼拝とキリスト教学の授業で、おおきくつまづいてしまいました。礼拝では、信仰のある学生が祈ったり証をしたのですが、「私はまた失敗してしまいました。本当に私はだめな人間です。」という趣旨の言葉だけが心に残りました。 今思えば、それは、真実な悔い改めの言葉だったのでしょうが、その当時は、そのような暗い悔い改める姿勢など、私の生活のほかの場所では目にしたことのないことでそれにショックを受けて嫌悪してしまったのかもしれません。また、キリスト教学の教授が女性の牧師だったのですが、その牧師先生は、派手な服装で授業態度も悪い数人の学生を嫌って、
「あなたたちは終わりの日に裁かれる」と、とても厳しい言葉で戒めました。それで、クリスチャンというのは、自分の救いのために清く正しく生きて、いい行いをしないといけないと、思ってしまいました。今思えば、礼拝でも、授業でも、福音が語られていなかったはずはないのですが、 聞くには聞くが悟らない、の言葉どおりで、こころの目が閉じていました。
大学卒業後、異文化間コミュニケーションを勉強したくてカリフォルニアの大学に留学しました。留学した大学院の先生たちは、女性が多く、かなりラディカルなフェミニズムの先生が数人いました。そういう先生の講義では、伝統的なクリスチャン思想がどのようにアメリカの父系社会を作り女性を抑圧してきたか、というようなディスカッションが繰り返されました。私も影響を受け、フェミニズム思想に基づいたレポートを書いてすごくいい成績をもらう、という日々でした。まるで、ダマスカスロードでイエスに出会う前のパウロのようで、キリスト教を迫害するようなことを信じてレポートに書いていたと思います。神様を冒涜するようなことをたくさん書いたなあ、と思います。でも、どこか、心の奥底で、本当にこれが真理なのかなあと、暗いものを感じていたのも事実でした。また、勉強している内容が暗いのみならず、学科内の教授間、学生間の人間関係も激しい競争意識から殺伐としていました。このようにしてこの世的な、今にして思えば、暗闇の力に取り囲まれていたような学生生活でした。人間の開放、女性の開放についてレポートに書きながら、自分は何かに抑圧されていました。ここに神様は何人かのクリスチャンを送ってくださいました。
まず、同じキャンパスで、メシアニックジュウ(ユダヤ人のクリスチャン)の女の子に伝道されました。はじめはうっとうしく感じていましたが、ディベート好きの性格と自分が批判しているものをまず知らなくては、との思いから、彼女との対話を続けました。また、この対話によって、逆に彼女をこの抑圧的な宗教から解放してあげようという気持ちもありました。対話の内容よりもその熱心さ、辛抱強さと寛容に感心したものです。また、住んでいた寮でクリスチャンの友達ができました。話を聞くと、驚くような暗い過去をもっているのに、まったく元気がよく、その過去から解放されている感じがしました。また、彼らの信じているものは厳しいのですが、それにもかかわらず、抑圧感はまったく感じられなく、とても自由で明るいという印象で、日本の大学で受けたクリスチャンの暗いイメージと重ならないので疑問でした。さらに、日本人のクリスチャンの友人ができました。彼もとても複雑な家庭環境を抱えているにもかかわらず、なにかに守られているかのようで、私の理解を超えた平安のある人だということに、つよい印象を受けました。彼はクリスチャンだというので、キャンパスで伝道してくれた女の子との間に言葉の壁を感じていた頃でもあり、あ、丁度いい。この人にいろいろ聞こう、という感じで、いろいろ質問したり意見を述べたりしていました。すると、「君はグレイス(神の恩寵)ってしっている?」と聞かれました。神の恩寵。救いというのは、よい行いによってあたえられるのではない。無償で、恩寵によって与えられるものなんだ、というのです。そのときはじめて、清く正しく生きないと救われないという日本の大学時代からの思い込みは大きな誤解だったかもしれないと気づきました。
根本的なことがわかってないことに気づいた私は、とても疑い深いというか、 人にこれはこうなんだから信じなさいといわれるのが嫌いで、じゃあ、自分で読んでみようかと思って、NIV(英語訳の一つ)を購入して読み始めました。というのは大学のころから使っていた口語訳聖書には、キリスト教学のトラウマがあったからです。NIVは平易な言葉で書いてあり、英語の言語的性質もあるのかもしれませんが、理屈っぽくて、いちいち納得しないと前に進めない私にはぴったりで、まるではじめて読む書物のようで面白くて読むのを止められないという感じでした。そのころ、Long Beach にあるGrace Bretheren Churchの礼拝にたまに出ていたのですが、牧師先生が説教の中でローマ人への手紙のシリーズを始められました。そんなある日、ローマ人への手紙を読みながら、ああ、これは、この罪びとは私のことだ、という思いが心を占めました。そのころ大学院の殺伐とした人間関係の中で、自分の中になんと多くの悪意とうそがあることかを日々感じていたので、そのとき、価なしに与えられる救いを本当にありがたい、と思い、これが真理だ、という気分になって、イエスを受け入れたいと思いました。それで、牧師先生に信仰告白をして、一緒に祈ってもらいました。このときから、自分では、信仰を得たと思っていた。しかし、当時の感覚としては、こんな私を許してくれるイエス様って、なんていい人!という感じで、ギフトをいただいてただ喜んでいる、という感じで、自分を低めて、イエス様を主と呼ぶことにかなり抵抗がありました。日本語ではイエス様と様がつきますが、英語ではジーザスと呼び捨てなので、対等な感覚で信仰告白をしてしまったように思います。また、この理屈っぽい性格なのでいちいち 聖書の一見「矛盾」と思える箇所を気にして、これは本当の真理ではないのか、と疑って、間違ったものを信じてしまったのかと不安になっていました。
しばらくそのようなよたよたとした信仰者だったのですが、ある日、ロサンジェルスの高速道路で、車を運転していて、いきなり、子供のころに覚えた唯一の賛美歌が20年ぶりにこころに浮びました。それが、前述の賛美歌461番なのですが、「あ、そういえば、こんな歌あったな」と思って、くちずさんで思い出そうとしました。そして最後のところの「わが主イエスわが主イエス、わが主イエス、われを愛す」を歌ったとき、はっとしました。そのときはじめてイエス様は、私の主で、私はその主に従うべき存在なんだ、しかも、そのわたしの主は、 不平の多い疑い深いわたしでさえもこんなにも愛してくださっている、そして、本当にイエス様は生きていらっしゃる、と感じました。復活されたイエスさまにあったときのトマスの「わが主よ、わが神よ」(ヨハネ20:28)という言葉がありますが、まさにそのような思いでした。自分の低さ卑しさ、主の尊さ、そして その卑しい者のために命を捨てる愛、そしてその主が今、愛によって私に語りかけてくださっている、というさまざまな思いで、もう運転を続けることができなくなって、高速道路の路肩に車を止め、子供のように素直な気持ちでぽろぽろと涙を流して泣きました。そして、ああ、主は実に20年間も、子供のころ心のうちに蒔かれた種を守って下さり、この私が主のもとに帰ってくるのを待ちつづけてくださっていたのだな、と思うと、本当にひれ伏したい思いでした。それは、とても不思議な感覚でした。ひれ伏しながらも、高められているというか、自分はしもべでありながら開放された、という感じでした。また、迷子になった小さな子供が不安と恐怖でいっぱいのときにやさしい親の顔を見つけたような安堵の気持ちでした。
このとき、本当の意味で私は救いを得たのではないかと思います。この後、私はかわりました。それまでの私は頭で理解し、納得していただけだったのですが、それがイエス様を心から主と呼ぶことができるようになりました。また、み言葉を読む中で理解できないことや、納得できないことがあっても、み言葉が真実であることは揺らぎない事実で、人生の歩みの中で、イエス様に従って歩んでいれば、主がその答えをひとつひとつ与えてくれるだろうという思いに変わりました。
ローマ 8章14-15節
すべて神の御霊に導かれているものは、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れを抱かせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によってわたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。
月報2008年4月号より