「イエス様の命と私たち」

僕らクリスチャンは、「私はイエスに愛されている」とか「キリストは罪びとのために死なれた」というようなことは「知って」いる。僕らはこのような言葉を数え切れないほど耳にしてきたが、しかし、「慣れ」というほこりが、これら素朴な真理を鈍らせることがある。こんなほこりを払い落として、神様の愛をもう一度新たに考えるべきである。

何度も何度も人生の道を歩いている私達なら、あたる壁。それは、「慣れ」である。人と人の関係の上で。神様と僕の関係の上で。常に「慣れ」というのは生じるものであってしまう。

ここで「慣れ」とは一体どのようなことかを下記のトピックをあげて考えたい。

Examination

問1:イエス・キリストを信じているのか

あなたは、イエス・キリストを信じていますか。クリスチャンであれば、もちろん答えは「はい」でしょう。実際、イエス・キリストが十字架にかかって、死んでくださった。それは、私たちの罪を赦すためである。わかりきっている事実である。しかし、信じているとしても素直に愛しているだろうか。本当に好きな人のためにはなんだってできる。しかし、私は、神様のために全力を尽くしているのだろうか。まさに、命の恩人。そんな神のために具体的に何をしているだろうか。疑問符がついてしまうことがある。

問2:命を捨てる準備はできているのか。

明日、地球は滅びます。あなたは、その日に死ねるか。「もちろん」イエス様を信じているのだから当然天国にいけるから準備はできている。
果たして、そんなに簡単に命を捨てられると言えるのだろうか。なにかやり残していないだろうか。
私たちは、事故を起こす電車の中で、非常口を知っている者だ。だが、その非常口のありかを誰にも「伝道」しないでいないだろうか。あなたが伝道していない友達はみんな、事故の中で亡くなってしまうのだろうか。
伝道をあまりしていない僕としての答えは、「いいえ」だ。まだ時間が必要だ。
焦らずとも、怠けずやり遂げたいことである。

問3:本当の愛とはなんだろう。

「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私はこう考えました。また、キリストが全ての人のために死んだ以上、全ての人が死んだのです。また。キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」 コリント人への手紙第二5章14~15節
イエスは、罪の色に染まりきった人間を十字架にかかって死ぬことで赦した。それはわたしたちに見せてくれた最大の愛であったと信じている。
では、なぜ人間は恋愛ができるのだろうか。神様の愛を実感できる今、自分の立場から他の人を好きになることは必要なのだろうか。必要であるのだろう。あるクリスチャンの雑誌にはこう書かれている
「異性との関係は、そこから何かを受けるためではなく、与えるためのものとなる。クリスチャンにとってすべての人間関係は、神が僕たちを愛してくださったように他の人を愛するための機会なんだ。」
私たちは神が私たちを愛してくださったのと同じ経験を私たちにさせてくださっているのである。それは、けして私たちが「きもちがいい」という経験をするためではないのである。

世間がそうだから。まわりの環境がそうだからと言って、慣れてしまっていることはないだろうか。伝道をしているなんてかっこ悪く見られるから。みんなやってないのだから、あとでいいや。世間は、恋愛なんて気持ちがよければいいと思っているから。そのような環境にいたらその色に染まってしまうのも当然のことであろう。だが、クリスチャンならば、そうならないことは容易のはずだ。ただ、「困難」に「慣れ」ているのだ。
大変なことではない。
バスケットボールでも同じことが言えるが、「感銘を受けた。」「生きがい。」と思いながら、練習するバスケットと、「ねむたいのに練習しなきゃ。」と思いながら練習するのでは上達率も全く違う。
そう。クリスチャンを好きになればいい。イエス様を純粋に好きになればいい。イエス様を信じることが、「感銘をうけるもの」であり、「生きがい」になるのであれば、そして聖書にあることを純粋に従うならば、私もあなたも救われる。
僕は、このようなことを、親がいないアメリカ・NJの教会の人のところに泊まることで、また、ユースのみんなと交流することで、改めてスタートラインに立たせてもらった。
このイエス様を信じる「喜び」を慣れなどには負けず、流されず、他の人に伝えることを惜しみなくしたい。天国の手帳に「伝道100回」と記されることを目標にしようと考えている今日この頃である。

「そこで、あなたがたに言うが、何でも祈り求めたことは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」 マルコによる福音書11:24

祈り:「天にいます父なる神様。ハレルヤ。日々を感謝します。神様、僕にどうか伝道できる勇気をください。伝道できる力をください。もちろん慶應の人だけではありません。自分の祖父母への伝道。YOUTHに来るみんなへの伝道。そして、慶應のみんなへの伝道。どうか、置かされている範囲は広いですからどうぞ、この口をきよめてお使いください。あなたが、NJにとってもすばらしい方々を送ってくださったことを感謝します。泊まれる家を感謝します。中高科のみんなを送ってくださったことをありがとうございます。今ぼくの頭の中に浮かぶ方々に祝福ありますように。素敵な人を送ってくれてありがとう。主イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

あなたへの祈りは聞かれましたよね。守ってください。祝福してください。

「僕は、イエスさまの命を無駄にはしたくない。」

月報2006年7月号より

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