「ボクにはキライなヒトがいます。…」

ボクにはキライなヒトがいます。

ボクはどうしてもカレをスキになれません。

カレを許すことができません。

ずっと考えていた。自分が存在する理由と、そこに付随する侘びしさについて。勿論、愛する兄弟姉妹を初じめとする御歴々の前で、このように力なき小さな者が、己の存在理由について言及するなどという大それた資格を有さないことは充分承知しているし、全くもって汗顔の至ではあるのだが、きっと主の御前にある証し人としてこの様な機会に恵まれたことをもって諒とされたい。

そもそも、僕がそんなことを考える様になったのは、僕の中で自分という存在が忌むべきものとして捉えられていたからである。もう一〇年程前のことになるが、僕は自分の現実と直面せざるを得なくなり、全く己に潜むモノと対峙するに至って。驚愕、辟易等と形容されるべき感情がそこにあった。あの頃僕は一五歳だった。学校に付随する似た年頃の少年達の集まる小いさな組織の中で、僕は僅かばかりの力を与えられ。もとより奉仕を基本として造られた組織の中で、その与えられた小いさな権力を駆使する僕には、大して歳も違わず年端も行かない後輩達の潤んだ瞳は全く見えていなかった。暴力こそ奮るわなかったが、次ぎから次ぎへと口をついて出る言葉の群は、鋭い矢となって彼等を傷付け、そして何よりその残酷さは僕自身を驚かせ、後に諸刃の剣となって僕を貶めた。今でも僕はその日のことを夢に見る。勿論その時点で一五年しか生きてはいなかったが、恐らく自分の中に自分の未だ見ぬ自分が存在することに薄々勘付いてはいたし、或る程度の覚悟もしていたが、自分の前に現実となって著れたそれは想像を遙かに凌駕し、一五歳のコドモに与えられた思考能力に於ける許容範囲を優に超えていた。自分など居なければいいと思った。存在が許されていることを心の底から疑った。別の人格などという卑怯な手段で片付けたくはなかったし、その様に処理できる程の度胸もなかった。その時の僕にできることといったら、口を開かないことくらいだった。その時の僕にできることといったら。

僕が口を開かなければ、己を表現しなければ、誰かを傷付けることもない。自分が傷付くこともない。辛ろうじて自我にへばりついた意識がそれを示唆し、あらゆる意味に於いて自己を著すことを拒絶していた。一言も口を聴かずに済んだことに悦びを憶えて眠りにつく日々が一年程続いた。暗い道を歩いていた。上を見上げれば木洩れ日の差す暖かい色の空が満面の微笑を湛えて迎えてくれているのかも知れなかった。でも僕は姑息で、孤独で、臆面もなく上を仰ぎ見るような勇気は持ち合わせていなかった。御手は遠かった。

そんな僕にも二人の友人が与えられた。返事もろくにせず、ついてくるだけの人間と友達になろうとは、全く奇特な人間をも造られたものである。依然、その「別の自分」が姿を著すこともあったが、彼等がいずれも肉体と文字を媒体とする表現者であった為か、彼等を通して僕は僕に近づいて行き、僕を通して僕は彼等に近づいていった。そうして僕は少こしずつ言葉を取り戻し、或る程度日常的な自己主張を余儀なくされる場所に身を置くことを決め、ほぼ滞りなく会話をこなせるようになった頃、橋本先生御夫妻を通じて教会に導かれた。余りにも自然だった。必然の流れは、至極当然のこととして僕に受け入れられた。主は見ておられた。これほど小いさき者にも目を掛けて下さっていた。僕は想った。どんな時でも僕は幸あわせだったことに。己に絶望し、下を見て歩くことしか出来なかったあの時でも、僕に生きる道を与えられていたことに。

尤も、一五の後悔を今日まで曳きずって、オトナにも為りきれず、コドモに戻ることも許されず生きてきた僕にとって、今やっとスタートラインに並んだのであって、未だに、他人の家で夜を明かすように己を晒らけ出すことは出来ず、話すことは疲労を産み、書くことは苦痛を伴う。十数年間に渡って学んで来たつもりの聖書についても、己の無知に辟易するのは言うまでもないが、エレミヤ書三一章に示された、「あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰ってくる。」という言葉に励まされ、日々歩みを続けることを許されている。嘗て錦織師が取り次がれた様に、己を愛すことの出来ない者は、「あなた自身を愛するようにあなたの隣人をも愛す」ことも出来ないのであって、自分自身を含めて人を愛することに幼さない僕は、主によって様々な機会を与えられ、悦びをもって日々試される。主の御前にあって、主の御名を賛美し、主の証し人として、また自分を、そしてキリストを表現する者として自分の存在を認め歩み始めた僕にとって、人を愛する為に自分を愛す努力を続け、そうして与えられる日々に感謝する毎日である。

知れ、主こそ神にますなれ。

我らを造りたまえる者は主にましませば、我らはそのものなり。

(詩一〇〇編)

ボクにはキライなヒトがいます。

ボクはどうしてもカレをスキになれません。

カレを許すことができません。

でも、

ちょっとだけスキになってもイイのかなと思えるようになりました。

これがボクのアカシです。

月報1999年4月号より

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