「弱さと信仰」

ニュージャージー日本語キリスト教会は、1987年メイウッドの地に呱呱の声をあげて12年目の春を迎えています。

現在の錦織先生に至るまでその間3人の牧師先生、二人の教育主事が主の僕として務めを果たされ、教会を愛する多くの兄弟姉妹の信仰と尊い奉仕及びザイオンルーテル教会の愛ある計らいによってここまで支えられ守られて来たことは、神のご計画と導きなくしてはあり得なかったことだと感謝いたします。単立超教派、役員会制の教会ですので、教派、教団に属する多くの教会のように教会を監督する上部機構やガイドライン、アドバイザリーボードがないため、全てのことは牧師の霊的リーダーシップと信徒一人一人の信仰に委ねられていますので、10年余の間には困難な時もあり、霊の戦いを経験したこともありました。

振り返って見ますと、わたし自身愛に欠けた者であり、主を自分の側に立たせる不信仰に気がつかないまま教会生活をしていたこともありました。

しかし慈愛の神は何時も聖霊をわたしたちの教会に送ってくださり、よしとされる導きをもって道を切り開いてくださいました。それはきっと、神がイスラエルのようにこの教会を愛し、「使命を与えて起こされた特別の教会」として取扱ってくださっているからではないかと思っています。ある者が種をまき、ある者は水をやり、育てられてきたニュージャージー日本語キリスト教会、そこにはアポロもなく、パウロもなく、ただ主のみいます教会をわたしたちに備えてくださる大いなる父なる神を褒めたたえます。

1997年7月、よき霊の指導者錦織先生を与えられ、新しい一節の成長期を教会は歩みつつありますが、自分の信仰を守るのみならず、そのよき訪れを広く世に伝える働きを委ねられていることを忘れてはならないと感じます。神が日本語を話す人々の魂の救いの使命を与えて立ててくださった教会は、ニュージャージーのみならずニューヨークからも若い兄弟姉妹が聖日、礼拝に集う教会であり、賛美集団として伝道の働きをしています。又ここから多くの兄弟姉妹が日本の各地に散らされて、良い働きをしておられることも、神の業の不思議という他はありません。

聖書を学び、賛美と祈りをささげて礼拝を守ることを教会生活の中心として、早朝、聖書通読と祈りの時を守りつつ信仰生活を続けていますが、「あなたはこの人たちが愛する以上にわたしを愛するか」の主の問いかけを受けることが時としてあることを告白せざるをえません。信仰にはげみ、学びを通して聖書の奥義にも触れ、祈りと感謝の生活を過ごしていても、本当に主の前に裸になり切れないことがあるからです。それはどんなに罪深いことか、わかっていてもできない時があるのです。

先週、錦織先生はメッセージでいわれましたが「自分の弱さを知った人の集まるところが教会です」は、真のクリスチャン像を示された思いでした。現実に社会に生きていると、強くなければ淘汰させる不安にさらされることがあります。自分の弱みを見せないために、真実の姿でない自分を矢面に立たせて、裸であるべき己は、その影に隠れていることもあります。 肉の人間の思いは自己中心だなと、そのような時いつも反省しています。自分の弱さを知ることは、ありのままの姿で神の前にでることだと悟った時、アダムとイヴの話しを思いだしました。「裸で恥ずかしくないように神がつくられたのに、人は罪を着ると神の前にありのままの姿で出ることができなくなる」の教えは聖書の一番初めの部分に示されているのに、人間の祖として神が造られたアダムとイヴの禁断の木の実の話を、自分のことと受け止めず、聖書物語を第三者的な立場で読み過ごしてきた自分を恥ずかしく思います。でも、このように弱くみ心に背くわたしでも神が許してくださっているのですから、ハレルヤ、ハレルヤです。

「わたしを愛するか」の神の問いかけが、エコーのようにわたしの心に響いてくるのを覚えつつ1999年、心を新たにして歩みたいと祈っています。

月報1999年3月号より

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