「洗礼を受けてから四年が…」

洗礼を受けてから四年が経とうとしています。その間主の恵みは本当に大きなものでした。全知全能なる主の愛の中にあって日々強められ喜びを与えられました。これからもそうであることを信じています。しかし一時期私は神様の事が分からなくなっていました。

この前、私は神様が悲しまれることをしてしまいました。それが罪だと分かっていて、悪いことだと知っていて、このくらい大した事はないと自分を正当化していました。そしてその事によってそれまで親しくしていた親友をなくしました。何でも話せて自分のことを理解してくれていて、彼のことも理解しているつもりでした。自分のした罪によってその親友を傷つけ、それによって私から離れていったことを赦せなくなっていました。

私は自分のそんな汚い部分を見て落ち込みました。こんなに自己中心的だとは思ったこともなく、どちらかというと人を思いやることの出来るタイプだと思っていました。自分は偽善者だったと思わされました。その事を認めたくなくて、心の隅に隠して逃げていました。その問題に立ち向かうことのできない自分を見て自分の弱さを思い知りました。

頭の中では、そのことを主の前で告白しなければいけないと分かっていましたが、実際にこの問題を目の前にして何もすることができず、誰にも話すことが出来ませんでした。その問題から逃げようとすればするほど自分を苦しめていました。仕事も忙しい時期にあり、そして資格の試験の受験日も近いこともあり、仕事と勉強の毎日で、教会に行けない日々が続きました。一度に色々なことが起こり、心に平安はなく、私は渇ききっていました。

その後身体にいくつか異変が起こりました。まず初めに蕁麻疹が毎日のように出ました。身体中が真っ赤になってかゆくなり何も手につかないときが一ヶ月くらい続き、その後、鼻血が毎日のように一ヶ月以上続きました。

「神様なんなんですか...」と、心の奥底からその言葉が出てきました。

どうしてこんな事になるのかと、神様に疑問を抱きました。でもそんな時も神様は、共にいてくださいました。背を向けていた私を、祈ることもできないほど渇ききった私を、去年の夏に行われたJCFN (Japanese Christian Fellowship Networkという団体) の修養会に導いてくださいました。そこで神様は私の心にダイレクトに語ってくれ、罪意識に苦しんでいた心に入ってきて下さいました。その修養会のテーマが 「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい...」 (ローマ人への手紙12章1節) だったのですが、聖い、生きた供え物のことを思ったときに自分の罪を神様の前で告白しなくてはいけないと思わされました。自分のどろどろとした汚い部分を全部さらけ出して、神様の前に出て祈らなければと強く思わされ、その修養会で同室だった友人にすべてを話し、彼も今まで誰にも言えなかったことを話してくれ、二人で祈りました。

「神様、赦してください」と。

そして主は、大きな愛をもってそれまで隠していた罪を赦して下さり、苦しんでいた心を癒して下さいました。赦されたことによって、それまで赦せなかった友人を赦せるようになりました。今まで私を苦しめていたものから解放して下さったのです。イエス様はこの罪のためにも十字架にかかって下さったのだと思わされました。主は進む道を、頼るものを見失っていた私を捕まえ、またもとの所に、本来あるべき所に私を導いてくださったのです。これから歩む人生の中で、このかたがいつも共にいてくださることに感謝です。

もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、その罪を赦し、すべての不義からわたしたちをきよめてくださる。(ヨハネ第一の手紙1章9節)

月報2002年3月号より

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