「牧師の子供として育った私は…」

牧師の子供として育った私は、幼い頃から聖書や教会には慣れていました。しかし、小学校4年生の時牧師である父が亡くなってから、少しずつ教会との間に距離ができていて、気がつけば完全に教会から離れていました。でも、中学校時代の激しい部活動が終わると同時にまた教会に足を運ぶようになり、高校1年の時に洗礼を受けました。

この洗礼も今考えると周囲から急かされるように受けたので、本人は自分の罪の事、またイエス様の十字架の意味などまるでわからず、ただなんとなく受けてしまったのですが、それでもその時が明らかに信仰生活のスタートであったことは間違いないと思っています。

事実、その後、いろんな出来事を通して自分の罪が示されイエス様の十字架が私の為であったとわかってきました。

その中でも自分が一番忘れられないことを、今回は証しさせて頂きたいと思います。

毎年イースターが近づくと、胸が痛くなります。きっと一生忘れない様にと神様がこの時に定めてくださったのでしょうか。

今から6年前のことです。会社の先輩であった主人に、純粋に神様のことを伝えたいということから、だんだんとお付き合いが始まりました。私がしきりに教会へ行く事を勧めたので、半年ほど経ってから彼は教会に行き始め、その後まもなく、突然洗礼を受けると言い出しました。何でもその年のイースターが自分の誕生日と同じ日であるということ、またその他にもいくつか神様の導きを感じることがある、とのこと。

ふつうなら、クリスチャンになってほしいと願い祈っていた人が、洗礼を決心したら嬉しくて神様に感謝、感謝、なのですが、そのときの私は違っていました。ちょっとビックリ!!そんなに早く受けちゃって大丈夫なの?という気持ちと、まずい・・・その教会で受けちゃうの?でした。

というのも、私が育った教会が、あまりにも彼の教会に対するイメージとかけ離れていて、この教会では信仰を持って行く自信がないと言われ、でも、せっかく行こうという気になっているのだから今は彼の行きやすい教会へいけばいいと思い、別の教会へ行くことに賛成していました。神様はひとつ、どこへいっても同じなのだから、なんて物分かりのいいことを言いつつ、私のシナリオはこうでした。「もう少したったら自分の教会へ引っ張ればいい。」

まさかこんなに早く洗礼を受けると思っていなかったので、焦りました。そして、次の瞬間私は完全に頭が真っ白になりました。洗礼の仕方が「滴礼」であると聞いたからです。

洗礼には「浸礼」(全身水につける洗礼)と、「滴礼」(水滴を頭にかける洗礼)の2種類があります。NJ日本語教会でも滴礼でされていますし、今思えばほんとうにバカみたいな話です。でも、私は洗礼の仕方も浸礼が当然というような風潮の中で育ってきたので、「滴礼」で洗礼を受けるなんてことを受け入れることができませんでした。たくさん奉仕もして、知識もだんだん入ってきて、でもそういう事ばかりに心が奪われて一番大事な事が見えなくなっているとは思ってもいませんでした。

今年4月の洗礼式の時に牧師が言った事、「滴礼でも浸礼でも神様の前では同じです。」という言葉に今は全くそのとおりだと思っています。

とにかくそんなわけで、私はこの事を受け入れたら妥協することになる、一度妥協したらずっと尾をひく、と変に恐れて彼の洗礼を反対し始めました。当然、彼も戸惑いました。今までイエス様は救い主でね、なんて言っていた人が、これから洗礼を受けようという人に「浸礼」は良いけど、「滴礼」はダメとか訳の分からない事を言い出したからです。

2ヶ月ほど平行線の状態が続き、私たちは行き詰まりました。私自身も疲れ果ててしまいました。というのもだんだんと将来にかかわってくる問題もからんできて複雑になってきたからです。「イースター=洗礼式の日」がどんどん近づいていき、ある日彼はこう言いました。「祐子と別れたとしても僕は洗礼を受ける。これだけは変わらない。」私は愕然としました。ここまで言わせて私は何をしているんだろう…。

本当に情けなかったでした。本来なら、神様の素晴らしさを証しして彼を導いていく立場である私が、洗礼を反対し、しかも教会の伝統の違いによって出てくる問題の事で醜い言葉を吐いている・・・。

イエス様は十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られましたが、まさに私の事でした。

いよいよイースター前日、彼は洗礼を受けるというのに私はまだそのことをどう受け止めたら良いのかわからないままでした。

その当時、私は教会学校の先生をしていて、夜その準備をしていたときのことです。お話の準備をしていたのは、「種まきのたとえ話」のところでした。(マルコによる福音書4章3~9節)その話をイエス様が解き明かされたところにきたとき、私はハッとしました。

「種まきは御言をまくのである。道ばたに御言がまかれたとは、こういう人たちのことである。すなわち、御言を聞くと、すぐにサタンがきて、彼らの中にまかれた御言を奪って行くのである。」(同14~15節)

この「サタン」て、今の私????今蒔かれようとしているのに私が奪おうとしている…何てとんでもないことをしてしまったのか。もうその場で泣き崩れました。「神様、私を赦してください・・・。」

「私を赦してください。私は自分の教会が一番と思っていて他の教会を見下していました。神様の御計画に委ねず自分の考えで彼を導こうとしていました。そして何よりも自分が一番正しいと思っていました。本当に傲慢でした。あんなに神様の喜ばれることをしたいと思っていたのに、実際は悲しまれる事ばかりしている・・・。神様、今から、今からでも間にあうでしょうか、どうか明日まで、彼の心を守って下さって、祝福のうちに洗礼を受ける事ができますように。」と祈りました。それはもう交際相手としてではなく、ひとりの人の救いを願う、まさしく私の最初の純粋な気持ちに戻っていました。ひとりの人が洗礼を受けるという事をイエス様はどれほど願っておられ、また大きな喜びであるのか、洗礼の仕方なんてもはやどうでもいいことなんだ、ああ、神様は彼の洗礼を喜んでくださっている、ということがひしひしと感じられました。

そのあと彼に電話で今までの事をすべて謝り、明日の洗礼を心から祝福すると伝えました。

神様はいちばん大事な事を見せてくださいました。その後も結婚まで、また結婚してからも同じような問題にぶつかりましたが、クリスチャンの常識のようなものにとらわれそうになるときはいつも、この事のためにもイエス様は十字架にかかられたことを思い出して、イエス様は何を望んでおられるのか、イエス様だったらこんな時どうされるのかをまず初めに求めるように変えられました。

ほんの少しずつですが、でももう二度とあんな事をしてしまわないように神様がチェックしてくださっているのを感じます。

「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」

エペソ人への手紙2章14~16節

月報2001年8月号より

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