「私の家も流され、家族とも会えず、病院には沢山の方が集まっているのに、食べ物も、薬も限界で・・、私も廊下で寝ているんです・・。」震災5日後に、ニュージャージーから石巻の病院に電話をしたときに、電話に出た看護師はそう言いました。それが始まりでした。
今回4,5月と一時帰国し、東北の被災地でのボランティアに行って参りました。宮城県塩釜/多賀城に2週間、石巻に1週間、一度関東に戻って、再び宮城県山元町に15日間、郡山の友人を訪ねた後、石巻の河北町に1週間、それぞれの避難所で看護師ボランティアの活動でした。
この間、被災地の教会を訪問する時間が与えられ、配るための教会案内を頂いたり、物資や聖書を届けてくださる方、助け人も、活動場所へ送られ、共に祈り会うことも出来ました。それは、私一人の行いではない、主が共にいて下さり、皆様の、多くの祈りとサポートをひしひしと感じ、心が熱くなる2ヶ月間でした。
被災地の悲惨さは、想像を絶するものでした。
くの字に折れた電柱、そこに突き刺さった漁船。小学校のプールや家屋に突っ込んだ、車や船。百メートル以上も流された家屋の一部、粉々になった瓦礫の山。2階建ての屋上に乗ったバス。鉄骨の枠だけ残った教習所とぺっちゃんこのバス。真っ黒焦げの学校と積み重なった真っ黒焦げの車やドラム缶もろもろ。海岸近くは、頑丈な堤防が崩れ、コンテナーやドラム缶がゴロゴロ転がり、家屋は基礎だけ残して完全に流された後が・・。
そこには、3月12日から入っておられる自衛隊や警察の方が安否の確認のため必死で作業をしておられたり・・・。
何か思い出のものを・・・と探しに来られる人。今でも毎日海に家族を探して来る人・・・。
言葉に表せない悲しみや悔しさの叫びもありました。
子どもを守るための涙祈り、そして原発の現場で必死で作業される方々のための祈りも捧げられました。
ボランティア活動は、避難所の診療や往診の介助、健康相談、生活の援助、あるいは夜勤の看護などでしたが、掃除や下痢便で汚れたものを洗って明け暮れた日もありました。その合間に皆さんのお話を聞いたり、聖書を開いて祈ったり、「教会があそこにあるからね。」と教会案内をお渡ししたり・・・。
避難所で出会った9歳のK君、高熱後お部屋にいなかったので探し当て、「お部屋に帰ろうか?」と声をかけると、「うわーっ」と大声を上げ、しばらく泣きじゃくるのでした。お母さんも、「子どもの前でも夫の前でも、涙なんか見せられない。・・・でも怖かった・・・。夫は流れる車の上を飛び越え逃げて来たけど、職場も流され、仕事もなくなった。家も車も流され、借金だけが残った・・・。」「奇跡的に家族が無事だった。」と。共に涙の祈りをしました。
ボランティアの合間に訪問した、海のそばのN小学校では、全員屋上に避難し、無事だったと聞きました。私は消防団の許可をいただき、中に入りました。現場の狭い屋上で、あの雪も降る寒い夜、先生や子供たちはここでどんなに怖い思いをしたか、想像しただけで身体が震え、涙が溢れてきました。
2階建て学校の教室全部は波に飲まれ、もちろん周りの家屋も土台だけを残して流されていました。
帰る家も親も失った子どもたちがいるそうです。そのような中、M先生は、ご自分の家も流されたのですが、「一人の小さな手」を歌いながら子供たちを励ましておられるそうです。
もう一つ訪問した宮城県南部S中学校のクリスチャンの若い女性のF先生、4月から派遣された新任教師です。(他県にも合格していたのですが・・・)、「神さまがここに遣わされたのですね。」と使命に立っておられました。放課後に子どもたちと一緒に瓦礫と泥かきの掃除に汗を流したり、子供たちの為、涙の祈りをしておられました。
避難所で出会った方の中には、涙ながらに「最初、自分が助けられたことを喜べなかった。何をしてもらっても『ありがとう』というのが精一杯で、複雑だった。」と語る方もおられました。「でも、周りの方と少しずつ話してみたら、その人の悲しみや苦しみも知って、夜も寝ないでケアーしてもらって・・・、少しずつ、生きてみようかなって思った。今はありがとうって、心から言えるようになってきて、周りの人に一緒にお茶飲もうって言えて・・・。」
ある男性は、「もう分かったよ。分かったから、あんたは家族の待っているアメリカに帰ったらいいよ。自分にはこれから仕事は見つからないかもしれないけど、ボランティアでもして人のために生きるよ!」と、人前で「生きるよ」声を上げられたことが嬉しくて、私は、ここに来て良かった・・・と思いました。
また、石巻の避難所で、ある晩、教会のボランティアによる豚汁の炊き出しがありました。玄関の外での配膳後、一人の方がゴスペルを歌い出し、踊りの輪が自然に大きくなってきたのです。
それまでは、あまりにも悲しみが大きすぎて、避難所では公に歌ったり、踊ったりなど出来なかったそうですが、不思議なように避難者さんが集まって来ました。
「流された友だちと一緒に踊りたかった。」とさらっと笑顔で語る女性。
「いいなあ、こんなの、一番、妻と一緒に見たかったな・・・。」「でも仲間がいるんだ。ほら!」と語る男性。家族も失った悲しみの中、励ましあいながら生きている姿がありました。
また私は、避難所の中に暖かくてしっかり結び合わされた絆を見ました。それはお互いに苦しみ悲しみを分かち合いながら、支えあっている様子でした。
でも被災地はまだまだ、大変です。仮設住宅に移り、周りは変わっても、心の傷や大きな問題が襲ってくるような、孤独との闘いがあるでしょう。実際、私のいる間にも、避難所から、お一人のご婦人がいなくなって、3日後に山でご遺体で見つかったという痛ましい出来事にも出遭いました。
また、今回の震災で愛する家族も何もかも失った方にとっては、どれほど大きな悲しみでしょうか。孤独と悲しみを担ってくださるイエス様の十字架からの慰めと救いがありますように。ただ、神に生かされていることの奇跡に希望を見出していただきたいとこれからも祈り続けたいと思っています。
そして、私自身、気付かされたことですが、改めていのちの尊さを思い知らされました。今まで当たり前のように生きてきたこと、家族、周りの環境にも、もう一度目を止め、今あるのは神様に生かされていることなのだということを覚えたいと思いました。神の栄光のために生かされている使命があることに喜びをもって生きていきたいと願わされました。
帰米前日の夜、ホームレスの支援を長くされておられる奥田先生とお会いするときがありました。「先生、支援を長くされていると、裏切られることもありますよね?」の質問に、先生は、「そうだな、自分もたくさん裏切ってきたからな・・・。」次の場所に移らなければならず、会話は中断しましたが、神様の前では、支援者も、支援される者も同じ罪人なのです。ただ、多く赦されている者が多く愛することができるのだ、という聖書のメッセージを思い出させられました。
「神は、いかなる患難の中にいる時でも私たちを慰めて下さり、また私達自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。」(第2コリント1章4節)
どれだけ心の叫びを聞き、共に祈ることがどれだけで来たのか分かりませんが、これからもこのNJでできることを続けていきたいと思います。被災地の方々にまた世界中に神さまの救いと恵みがありますように、心からお祈り致します。
月報2011年7月号より