今回は、私たちの教会を何度も訪問してくださり、(そのうち何度かはハワイアンの歌手であるご両親と一緒に)励ましてくださってきたAndrew Hongoさんが書いてくださった英文のお証しを、日本語に訳してご紹介します。
アンドリュー・ホンゴー

私は今までも宣教の働きに携わってきましたが、ずっと日本に特別な使命を感じることはありませんでした。私は貧しい人々と共に働くことに情熱を感じていたから、ということもあるでしょう。私はもっと冒険的なところ、エキゾチックなところを求めていたということもあると思います。もしかしたら、私が12歳の時に、私はハワイでサマースクールに行って、友達とテニスをしたり勉強をいっしょにしたりしたいと思っていたのに、両親が日本でのサマーコンサートのツアーに無理やり私を引きずって行ったからかもしれません。

けれども、ハワイの教会が日本へのミッショントリップを計画していることを知った時に、それは主が開かれた道だと感じました。ハワイアンの歌手である私の両親は、東日本震災で被災された方々のために、2011年の12月に日本に行く予定にしていましたが、父にガンが見つかり、直前でキャンセルになっていたからです。ちょうど日本に出発するはずだった日に、両親はカルフォルニアの病院で治療を受けるために飛行機に乗っていたのです。両親は私にこう言いました。「アンドリュー、私たちが行けなかったんだから、おまえが代わりに行かなきゃいけないんじゃないかな」と。

私は、このトリップがあの大震災で被災された方々のための働きであることを知っていました。しかし、その地に立つまでは、そのことの重大さがわかっていませんでした。私は「どうして神はこんなことが起こることを許されたのだろうか?」という問いに直面しなければならなかったのです。日本に着いて間もなく、おじのデニスと牧師の藤浪先生と私は、1年半前に起こった被害の大きさを物語る一つの場所に立っていました。そこには、何キロも内陸なのに、何も残っていない土地に、大きな船が打ち上げられていてそのままになっていました。その船の下、右の方には押しつぶされた車がありました。そして、正面には小さなテーブルが置かれて、そこにはソーダやビール、果物、手紙、そして、香炉と小さな十字架がおいてありました。私たちはそこで祈りをささげようとしたのですが、ただ、涙があふれてくるばかりでした。私は、愛の神がどうして、このような恐ろしい状況でたくさんの人々や子供たちが亡くなるということを許されたんだろうか、それを理解することが全くできなかったのです。

私はただ、この震災の被害状況を理解するのが難しかっただけではありませんでした。私たちは、翌日に気仙沼で、ハワイアンショーをする予定にしていたのです。私たちのなすべきことは、希望と喜びを失った人々に、その希望と喜びとを届けることでした。しかし、自分たち自身が悲しみに押しつぶされているのに、どうして、私たちが何かをすることができるというのでしょうか?

翌朝、私は目が覚めた時に、主からの幻を見ました。私たちのチームが公園のステージに立っているのが見えました。おじのデニス、藤浪先生、そして、私が赤いアロハシャツを着て、リリコと二人のダンサーが私たちの前に立っています。そして、私たちの後ろには父なる神が立って、その手を大きく広げて、気仙沼の人々がご自身の元に帰って来られるのを待っておられるのです。それはちょうど、ルカによる福音書の15章の放蕩息子の父親が愛をもって、忍耐深く、情熱的に放蕩息子の帰りを待っているかのようでした。

そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。 (ルカ15:17-20)

私はまだその疑問への答えを得たわけではありませんでしたが、神がどれほど日本の人々を愛しておられるのか、それを感じ始めていました。

それからの日々の中で、私は、そんなことがあるんだろうかと信じられないような証しをいくつも聞きました。ある牧師は津波で流されてしまった漁村で伝道をしていました。以前はその漁師のみなさんは、日々の生活のために忙しくて、聖書の話を聞くことなんか全然できないでいました。しかし、津波の後、漁師の仕事に戻れるまでに時間がかかったために、たくさんの人々が聖書の言葉に耳を傾けることができ、クリスチャンになったといいます。そして、その牧師に言ったそうです。「私たちは津波が来たことを感謝さえしている。それがなければ、私たちは決してイエスさまに出会うことはできなかったから。」ある女性はこう話してくれました。彼女は命からがら津波から逃げることができましたが、高台に逃げる途中に、津波がすぐそばまで迫って来るのを目の当たりにしました。家を失い、仕事も失い、仮設住宅の小さな部屋に住んでいます。でも、それらのことによって、彼女は主を知ることができたのです。彼女の顔は喜びに輝いていました。

神様がどうしてこんなことが起こるのを許されたのか、私にはまだ良くわかりませんでした。この地上にいる限り、わかる日が来るのかどうかもわかりません。しかし、この疑問に苦しみながら、私は自分の父のことを考えないではいられませんでした。父は1年間ガンと闘ってきました。いつまで続くともわからないドクターとのアポイントメント、抗癌剤治療、そして、腎臓透析の日々を送りました。自家造血幹細胞移植の後は話ができないほど弱ってしまいました。熱でうわごとを言うようになり、夜中にトイレに連れて行かなければいけない時もありました。そんな日々のことを思い出していました。そんな時はただただ、神に叫ぶしかありませんでした。でも、そんな時にこそ、今までの人生の中で、イエスの臨在を一番確かで、一番力強く感じたのです。神がどうして、私の父がガンになるのを許されたのか、ということも私には理解できません。しかし、私はすべての疑いを越えて、これらすべての経験の中で、今まで経験したことがないほどに、神が私たちを愛してくださることを知ることができたのです。

去年の8月、私は12歳の時よりもずっと日本が好きになっていました。34歳になって、やっと私は自分の祖先の地に愛着を感じるようになりました。食べ物や文化、言葉、そして、温泉も。私の人生の中で初めて、主の働きのためにそこに戻りたい、という気持ちになりました。今まで何年もの間、両親から「一緒に日本に行かないか?」と聞かれる度に、何の迷いもなく「ノー、サンキュー」と答えてきました。しかし、今、「いつか一緒に日本に行かないか?」と聞かれたら、即座に「ぜひ行きたい!」と答えるでしょう。私の祈りは、主が私の家族を日本にもう一度送ってくださることです。そして、そこで神様が日本の人々を神様の元に導いておられる御業を共に見せていただければと願っています。

月報2013年3~4月号より