私たちが会堂を使わせていただいているザイオン教会の元牧師のダニエル・ラインハイマー先生が、去る1月27日に突然主のもとに召されて行かれました。先生は、私たちがここで礼拝を持てるようになるために本当に愛を注ぎ、ご尽力された方です。ここに感謝の気持ちを込めて、先生が1999年10月24日に私たちの礼拝で語ってくださったメッセージを掲載いたします。先生が、このメッセージの中で語られた言葉の通り、本当に私たちに深い愛を注いでくださり、私たちに多くのものを与えてくださった、という証言を添えて・・・。

「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」コリント人への第1の手紙13章13節。

神の民である愛する皆さん、錦織牧師とニュージャージー日本語キリスト教会のメンバーの皆さんや、ここに集う皆さん、今日、私がここで皆さんと共にいられることをとてもうれしく思います。またここで日本語を話す皆さんのための働きが進められていることを本当に主に感謝します。
1988年の2月のある夜、そうです、正木茂先生が私たちが聖書研究会をしている時に、この教会に入ってこられたその夜のことを私は思い出します。その夜、その正木牧師は、この教会の鍵をその手に、そして、「このザイオン教会で礼拝を守って下さい」という招きの言葉を胸に、この場を後にしたのでした。正木牧師はわずか4家族のメンバーと共に日本語教会を始めました。正式なメンバーは10人で始まったのです。妻と私は、茂先生とまたすばらしいエネルギッシュな奥様、まさえ先生と親しくさせていただきました。先生はとても誠実な、聖霊に満たされた方であり、主に全てをささげ、福音を伝えるのにとても熱心な方でした。先生はまたブレッド・キャスティング・アメリカを設立され、電波を通して福音を伝えることにも時間を費やされました。現在、先生ご夫妻はインディアナ、イリノイ、ケンタッキー、ミシガン、ミズーリにおられる日本人の方々のためにミズーリ・ルーテル教会の宣教師としてご奉仕しておられます。(注:現在は日本に帰国されています)

その次に来られたのが石賀誠牧師でした。1992年から1994年まで2年間牧会をされました。先生と奥さんとまた素敵なお嬢さん方には、アメリカでの最初のサンクスギビングディナーを私たちと一緒に過ごしていただいたことを始め、よい交わりをさせていただきました。また先生がいろんな国の言葉で神様を賛美しておられたのが印象に残っています。

次に日本語の方々のためにこのザイオン教会に来られたのが池原三善牧師でした。言葉の壁がありましたので、先生や御家族とは願っていたほど深くはお知り合いになれません

でした。しかし、先生の豊かな働きによって教会は成長していったのであります。
そして、私は1997年7月に現在の皆さんの牧師である錦織学牧師の按手(注:牧師としての任命式)に加わらせていただくという栄誉と特権に預かりました。それはあの6000人もの方が亡くなった恐ろしい神戸の地震から2年がたった時で、皆さんの悲しみに深く触れていただく時となったと思います。神は私たちの人生の悲劇を用いて主を愛する者たちに約束されたよきものを与えて下さる方です。
皆さんについて本当にすばらしいなあ、と思うことがたくさんあります。祈りに時間をささげ、聖書の御言葉を愛する姿勢。他の方々に神様の愛のよきおとずれを伝えようという情熱。神様から与えられたものを喜んでささげ、大切に使う姿勢。お会いするたびに礼儀正しくまた親しく挨拶をして下さること。神への力強い賛美などです。
皆さんの主イエスへの信仰もすばらしいと思います。そして、そのことで神様に感謝しています。信仰は神の与えて下さるものです。私たちの働きではありません。だれも、聖霊さまの力によらなければイエスを主であると告白することはできないのです。そして、その信仰は神の御言葉を聞くことから生まれるのです。

ここで、今、この場所で、この時に、神様の霊が聞いておられる皆さんの心に信仰を立てあげるのです。信仰とは何でしょうか?信仰はナザレのイエス、神の御子、約束されたメシヤ、キリスト御自身とその御業への信頼なのです。イエスは人として完璧な人生を歩まれました。そして、その命を私たちの罪のために十字架の上に犠牲にされたのです。信仰によってこのお方を受け入れる者はすべて神の子とされ、永遠の命を受け継ぐものとなるのです。私はイエスを信じています。自分の信仰を信じているのではないのです。私の信仰の大きさが山を動かすのではありません。主ご自身の偉大さへの信仰が山を動かすのです。

聖霊様の与えて下さる最大の賜物は信仰と希望と愛です。

私たちの希望は単に、何事でも楽観的に希望的に考えることではありません。神の約束にしっかりと根を下ろしたもので

す。神様の御言葉は真実であり、真理であるからです。私たちの希望は、今持っていないものを慕い求めることであり、
それが与えられると期待しながら求めることです。信仰は私たちの希望に確信を与えてくれるのです。

私たちがあちらの天国に行った時にはもう、信仰も希望も必要ではなくなります。神は天国の宝の中から与えて下さるものがすべてわかっているからです。

しかし、愛は永遠です。「互いに愛し合いなさい」ということこそ、私たちの主から私たちに与えられているただ一つの戒めです。そのような神の愛のあるところに神はおられます。
愛は自分を与えるものです。犠牲を払うものです。「神はそのひとり子を賜ったほどにこの世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を得るためなのである。」私たちは愛すること無しに与えることはできるでしょう。しかし、与えること無しに愛することはできないのです。愛は自己中心的ではありません。妬むことをしません。高ぶりません。傲慢ではありません。無作法をしません。愛は恨みを抱きません。愛は赦すのです。愛は過ちを数え上げたりしません。古い傷を大事にしたりしません。愛は赦すのです。赦すことができない人は自分が渡らなければいけない橋を壊しているのです。他の人々を赦すことによって神によって赦されるのです。赦すということはクリスチャンだからできる大切なことです。もし私たちがクリスチャンでないならば、別にそんなことはしないでしょう。それは私たちが吸う息であり、私たちが歩く地面のようなものです。赦しのないところに命はありません。愛は赦すのです。神の愛のような愛は忍耐深く、親切で、人を理解しようとします。それはまさにこの世で天国を、パラダイスの雰囲気を、先に味わっているようなものです。愛は永遠なのです。

ですから、パウロは私たちに言っているのです。「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守りますように。

月報2011年3月号より