「神様との会話」

少なくとも私にとって、神様との会話は、ほかの誰かとの会話とは随分違うものである。

“あ”と言えば“うん”と言うように、すぐに反応があるものではなく、返事が自分の思いと全く違う方向にころぶことも多い。こちらからの語りかけは、かなり自分の都合を並べたものが多い。そして最後に取ってつけたように、ご用のために何かできることがあれば..、などと言ってる。それなのに、神様からのメッセージは、いつも驚くばかりに不思議な形で届けられる。人の目にそれは“まるで一方通行どうしの会話”と映るのだが。

或る時は、誰かとの会話の中でひらめきを与えられたり、礼拝や集会のメッセージから励ましを得たりする。聖書を読んでいると心に響く聖句に出会う。“聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅い者であれ”(ヤコブ1:19)と、ただ人を諭すだけでなく、神様は、勝手な祈りを辛抱強く聞いて下さり、祈りが自分のことばかりなってしまう時には、或る人々のことを脳裏に浮かばせ、自我の思いを阻む。ハッとして、この人のためにも、あの人のためにも祈れということだ、と理解し、指し示しめされた人々のために懸命に祈りを始める。

或る日、新しい仕事のことで小さな悩みを抱え、直ぐにでも答えが欲しい時があった。教会に行くも当番で聖日メッセージを聴けないことが分かっていた。そんな時、礼拝前の勉強会で答えとなるみ言葉に出会った。“知恵の欠けた人がいるなら、その人は、誰にでも惜しげなく、咎めることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし少しも疑わずに、信じて願いなさい。”(ヤコブ1:5-6)励まされ、気持ち新たになることが出来た。それ以降、“このしもべに知恵を与えたまえ”という心からの願いは、主の祈り、ヤベツの祈り共に通勤電車の中で捧げる祈りの一つとなった。

真っ直ぐに答えが出る時もあるし、ヒントを感じるだけの時もある。メッセージをもらった、と喜んでも、暫くすると同じような問題に再度ぶつかることもある。どうして人(私)は反省しても、すぐ同じ失敗を繰り返してしまうのだろうか。そんなことを考えていると、アフリカ女性伝道者が車内に乗り込んで来た。”Jesus loves you! Jesus died for your sin and for my sin, too…”下手な英語で彼女はしきりに繰り返していた。“そうなんだ。もう何度も聞いていることだけれど、まさにそれなんだ。”三浦綾子さんがかつで言っていた。“人間の一番大きな罪は自分と他人を計る物差しが違うことだ”、つまり自己中心の罪ってことを。同じことを繰り返し、進歩の見えない、そんな私のために、そしてあの人のために、イエス様は十字架に掛かって下さったのだ。黄泉に下り、よみがえり、いつも生きてとりなしをしてくれている。だから、人の苦しみにも、一方的な叫びにも神様は最善の時にベストな方法で答えて下さる。“神様のなさることは時に適って美しい”(伝道者の書3:11)という、み言葉どおりに。でも、悲しいかな、私には、その不思議なわざに気づくのに時間がかかることが多いのである。

神は霊ですから神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。
(申命記 8章14節)

月報2005年5月号より

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