1.「幼少時代におけるキリスト教との接点」

多くの日本人がそうであるように私は無神論の家庭で生まれ育ちました。 幼少のころは神道のことすら知らないにもかかわらず、毎年正月には近くの神社をおまいりするという、昔ながらの日本の文化の中で育ちました。 しかし、それがどのような意味を持つのか、そしてそれがかつて日本を戦争へと導いた神道と関係があるということすら教えられることも無く、 単に文化の一つとして肌で馴染んでいたに過ぎません。 何故か人が他界すると手を合わせて拝むということも、 宗教的な背景について一切教えられることなく、 これも単に習慣として馴染んで来たに過ぎません。 このようになんとなく習慣としてごく普通に日本人が行っていることを習ったものの、 そこにはなんら宗教的な背景はありませんでした。 このような無宗教な背景が、 おそらく他の多くの日本人がそうであるように、 私もまた神とは無関係の無神論者として育った理由になっていると思います。
一方では必ずしもまったくキリスト教と無関係でもなかったかもしれません。 敢えて記憶をたどり寄せてキリスト教との接点を探るならば、 私の小学校時代の知り合いの父親が牧師をしていたように記憶していますので、 それぐらいかもしれません。 こんな形で「牧師」、「教会」には少し触れる機会はありましたが、 それ以上のものはありませんでした。 また、 それ以後も、成人して米国留学をするまではキリスト教徒の接点はまったくといっていいほどありませんでした。

月報2005年4月号より

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