「聖書のことは前から知っていたのに…」

聖書のことは前から知っていたのに、大学では「キリスト教学」が必修科目で、試験の度にしっかり読んでいたはずなのに、それが、神様からの言葉としては自分に入ってこず、ずっと神の国からは遠いところにおりました。(でも、ずっと心にかけていただいていたわけですが。)卒業し、就職してからはプロとしての自分の技量を磨くことに忙しくなり、いつしか自分中心の考えを持つ典型的な人間になっておりました。それが...自分は会社に頼っていないとそれまで自負していたのに、アメリカに来て、実際に自分が勤めていた会社が破綻するという事実に直面したときに、実は会社や、自分の役職や、会社を通しての関係にどんなに寄りかかって生きていたかを思い知りました。

その頃、何故かまた教会(ニュージャージー日本語教会)に通い始めておりましたが、ある特別
伝道集会に参加したときの聖書の言葉で、それまでの自分のエゴと了見の狭い自分の人生哲学でコーティングしていた本当の気持ちが緩んで出てきたように感じました。その言葉は、ルカによる福音書8 章50 節の「恐れることはない。ただ信じなさい。...」でした。いや、そのときお話をしてくださった上野先生は、確かに「...信じていなさい。...」とおっしゃっておりました。「信じなさい」というより能動的な言葉ではなく、「そのまま信じていなさい、信じて見ていなさい」、とやさしく語りかけられたように思えました。後でわかったことでしたが、リビングバイブルでは、「恐れないで、私を信じていなさい。...」となっていました。私は、まさにそのように、確かに聞こえました。その言葉が、聖書の前後の意味とは関係なく、直接私に語りかけられたと思いました。そして、集会後のアンケートに洗礼を受けたいと書いたのでした。その後もいろいろと聖書や説教を通して、学び、気づかされたことは多いわけですが、結局このときの想いが私の信仰の中心にあるような気がします。

自分中心の考えはいけないと聖書は教えてくれます。私の信仰生活もそれが出発点でありました。でも、これを実践することはなんと難しいことでしょうか。毎日のいろいろな場面で、これを実践できない自分がいることに気づかされます。でも、最近、私たちは聖書に書かれていることを完全に実践はできないけれども、同時に、反省する機会を多く与えられていると感じております。 今の自分の態度は主が見て喜ばれるものだっただろうか、今の言葉は主をまた悲しませているのではないか、と。また、主はこのときどのようにしただろうか、と。でもまだ、事を起こす前に「主ならどうするか」と考えつかないのですが。

この世のものに執着していないかと見直す。一歩下がってものを見る。でも、一歩下がっているようでも、実は一歩主に近くなっているのではないか、一歩上がっているのではないかと、思えております。

信じること、でも、礎の確かなものを信じなければ、何の意味もありません。聖書の砂の上に家を建てるたとえの通りだと思います。今、私は、揺るがないものを信じている安心感があります。それでも、これからの人生でいろいろな苦難を味わうかもしれません。お金や仕事で渇望感を味わうこともあるでしょう。人間関係でもめることもあるかもしれません。でも、精神的には遠くに明るい光を望みつつ歩めるのではないかと楽観しております。

この私たちを取り巻く安心感に感謝します。

月報2002年12月号より

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