「何者も神の愛から私たちを引き離すことはできない」

私が洗礼を受けたのは、高校1年生の6月です。父が私たちを収集し、「家族全員で洗礼を受ける」と言い出したのがきっかけでした。

幼い頃から叔父が牧師をする教会に通っていた私は自分自身を生まれもってのクリスチャンと思っていたので、父の唐突な提案にも快く賛成しました。母や兄は反対しましたが、結局一家揃って洗礼を受けることになりました。その時の私は、同時に5人も信仰を告白するなど教会はじまって以来のめでたいことと、ギネスブックに記録をのせるような誇らしい気分でいました。

晴れてクリスチャンとなったつもりの私は、心の中では十字架の愛の意味を理解していません。イエス様が誰かの罪のために死んで下さったことを感謝することが出来る自分は、なんと寛容な人間であろうかと思い込んでいたのです。従兄弟たちと遊ぶのが目的で教会に通っていたので聖書の内容に無関心、持っていくのが面倒で教会の本棚の奥に聖書や讃美歌を隠しては持ち出す、牧師先生のお話の時間は居眠りの常習犯、というありさまです。

そんな私の心を見抜いて、仲の良かった従兄弟は洗礼式をさかいに私を避けるようになります。「なんで話をしてくれないの?」と尋ねると、「とにかくしばらく私に話しかけないで!」という答え。いつも優しく寛容で他人事には干渉しない彼女に突然冷たく突き放され、唖然としました。周囲の励ましの言葉は頭の中で空回り。「こんなことなら洗礼なんて受けなければよかった」と、とんでもない間違いを犯してしまったという直感だけが胸をちくちくと刺すのです。最良の理解者の一人を失ったような気持ちになり、意欲も薄れ、教会から離れていくことになりました。表向きには平常心を装い、「彼女のとった一時的な私への強硬な態度」の記憶をまるで何事もなかったかのように心の奥底に仕舞い込みました。

数年後、友人に誘われてはじめて聖書の勉強会に参加した時です。信仰の土台がしっかりと築かれた友人との宝のような出会いを与えられ、心が安らぎました。しかし、共に賛美する喜びを味わう一方で私の心に徐々に劣等感が蓄積され、どうしても素直になれません。純粋な信仰を妬ましく思い、「そんなに熱心に聖書を読むのもいいけど、私たちの本業は学問でしょ」と、文句ばかり。そんな私の甘えに対しても彼らは一貫して神の愛を与えつづけ、祈りつづけ、励ましつづけてくれました。

その頃から一進一退を繰り返しつつも、聖書の世界にひきこまれます。特に、「何者も神の愛から私たちを引き離すことはできない」(ローマ人への手紙8章38・39節)という箇所は私の魂を奮い立たせてくれました。「離れた私を見捨てずに愛してくださっている・・・これが神の愛」と確信し、涙しました。虚栄とプライドで固まった心を神は砕かれ、悔い改めへと導かれたのです。感謝のほかありません。

今では私の生い立ち、洗礼、勉強会での出会い、ローマ人への手紙、全てが主の恵みと思います。ニュージャージー日本語キリスト教会の聖書通読のプログラムを通して全体をはじめて通読するチャンスを与えられ、私の珍問に丁寧に答えて下さる錦織先生が与えらていることも、感謝に絶えません。心に負った傷が完全に消え去ることなく、「そんなこといったて、神様」と、愚痴をこぼす日々ですが、聖書の言葉によって「救われる」ような体験をさせていただくに違いないという希望があるからこそ、生きる勇気が湧いてきます。内心わくわくしつつ、今日もまたページをめくるのです。

「わたしの命をあらゆる苦しみから救って下さった主は生きておられる。」

列王記上 1章29節

月報2000年9月号より

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