「留学生として」

僕がアメリカへ単身留学したのは中学三年生となった春の事でした。それまで意味の無い学校生活を送ってきた自分にとってアメリカへ行く事は新しい人生の幕開けのように思えました。 多くの夢と希望だけを胸に夕暮れの成田を飛び立ち、どす黒く燃える西の空を見たとき親元を離れる淋しさを初めて知りました。

アメリカに渡り、ケンタッキーの学校にたった一人で放り込まれた時は淋しくて仕方がありませんでした。たまに日本から送られてくる小包さえも愛しく感じ、親からの手紙や、友人からの手紙は何十回となく読み返したりもしました。あれだけ嫌っていた過去の生活の思い出が、切ない浜辺の波のように静かに押し寄せてきては引いていきました。 英語はもちろんさっぱり分からず、授業はただ出席しているだけで、質問されても何が何だか全く分からずおろおろしていると、よくクラスメイトから小馬鹿にされました。英語が分からないと言うハンディーキャップは最初から分かっていたので別に驚きはしませんでしたが、馬鹿にされたときに反論できない自分の語学力に極度のストレスを感じ、学校から寮の部屋へ戻ると誰もいないのを確かめ、泣きながら壁を叩いた時もありました。 勉強は英語のせいなのか、自分の努力が足りないせいなのか、数学以外はさっぱりでした。学校の置かれている環境も悪かったとは思うのですが、陸の孤島に押し込められた様な、文明から遠く隔離された様な精神的に孤独な日々が続きました。生活は至って単純で、暇で仕方がありませんでした。日本から送られてくる安物小説を何度も読んだり、友人達といっしょにタバコを吸いながら、クラスで話題の女の子の話をしたり、遠くに光り輝く「大学」の事などを考えていました。

そんなこんなでアメリカで三度目のクリスマスを迎えようとしていたとき、僕は突然、転校する事になりました。 もちろん転校先は決まっておらず、一旦日本へ帰国し、二月の初めに父親と再び渡米しました。 そしてこの父親と二人で過ごした一週間は一生忘れる事が出来ない一週間となったのです。 僕はクリスチャン・ホームに生まれ、10歳のときにイエス・キリストを自分の救い主として受け入れ、秋の大洗海岸で洗礼を受けました。 洗礼を受けているとき「潤君の罪が海の奥底まで沈んでいくように…」っと牧師先生は言っていたような気がしますが、暗い海の底まで罪が沈んで行く…っと言うのが幼心にも妙に現実的に思えたのを覚えています。 「クリスチャン」となった僕は5年生になると少年野球チームに入った為に日曜学校へ行く事はなくなってしまいましたが、食事の前の祈りと、寝る前の祈りは欠かさずしていました。アメリカへ渡った後でも寝る前の祈りは守っていましたが、それまで祈りの対象を、実存する全知全能の「神」としてはいなかったのかも知れません。 しかし、父と二人でアメリカに再び戻ってきたとき、僕は本気で祈ることになりました。

初めに訪れた学校はペンシルベニア州の片田舎にある、小さな私立高校でした。 校舎に入るなり、ケンタッキーでもそうであったように、僕は「外国人」として珍しがられました。 父親と付き添いの宣教師の方が校長先生とお話している間、僕はアメリカ史のクラスを受けさせてもらいました。授業が終わると、校長先生と父親達が待っていて、僕らは握手を交わして帰路につきましたが、途中、入学を断られた事を知らされました。 考えてみれば、ケンタッキーにいた頃、ろくに勉強した覚えの無い自分の成績は他人に誇って見せびらかせるような物ではなく、「入れてくれるはずが無いよ…」っと当然の事のように思ったのですが、車中これからの自分の人生を自分なりに考えて行く内、「拒否された」と云う事実だけが津波のように押し寄せてきました。現実と本来自分が思い描いていた理想とがかけ離れていることを徐々に認識しはじめたのでした。

それからの数日は幕末の如く、心身ともに不安定な日々が続きました。食欲はわかず、口から出るのは消極的な言葉ばかり。三人で祈っていても苦しくて仕方が無く、いっそ全てをかなぐり捨ててどこか遠くの知らない国にでも行ってしまおうか…、そんな事さえ考えました。 なんといっても苦しかったのは、自分には何も誇る事が無い、と云う事でした。 金持ちの家に生まれたわけでもなく、容姿が良いわけでもなく、頭が良いわけでもなく、得意なスポーツがあるわけでもなく、英語がきちんと喋れるわけでもなく…。 冷静に考えれば考えるほど、僕は窮地に追い込まれていきました。しかし、声にならない鳴咽が喉の奥を熱く締め付けている中で、驚く事に神様は何の取り柄も持たない自分に最高の道を備えてくれていたのです。 僕は自分が低いものだと認めました。 自分には何も無い、と認めました。 そして、自分が何も誇る事の無い低い者だと分かった時、真剣に祈る事が出来ました。 そんな現実を自覚した時、雑念が消え、進むべき道だけが見えたのです。進むべき道、それは「祈る」事でした。 小さい時からただ漠然と祈りをささげてきた「神」なるものが、切なる祈りの対象として明瞭に浮かび上がってきたのです。その日から僕は「何も無い者」とされた代わりに、「万軍の主を持つ者」とされたのです。

その後、知人の紹介でニュージャージーにあるイースタン・クリスチャン・ハイスクールを知り、面接に出かけました。 ペンシルベニアでの一件があるため、楽観は出来ませんでしたが、面接の席で代表役員の方と校長先生は自分の成績書には一目もくれず、僕に必要な住まいの事だけを心配していました。帰り際、笑顔で「いつから来られますか?」と聞かれ、彼らに僕を受け入れる意志がある事を知りました。

それから一ヶ月後、僕は外国人の全くいない新しい環境の中で勉強をしていました。友達も沢山でき、素晴らしい先生方も与えられ、大きな愛で僕の心を包んでくれたホスト・ファミリーにも出会いました。苦しみの中で途方に暮れ、立ち止まり祈り、本当の神様に出会えた事に感謝しております。

今回の証しは、ここまでとなりますが、実は本当の戦いはここから始まったのです。自分の人生は、それなりに波乱に満ちていたように思えます。 しかし、神様は苦痛の中にも逃れの道をすでに備えてくれています。今まで通ってきた荒野の道は神様による知恵の道でした。 そして、これからの人生も、これまで以上にエキサイティングになっていく事を疑う事はできません。最後に、僕が毎日の聖書朗読の中で高校時代に出会った素晴らしい聖書の個所を書き記して擱筆させて頂きます。

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐える事の出来ないような試練に合わせるような事はなさいません。むしろ、耐える事の出来るように、試練と共に、脱出の道も備えて下さいます。」

第一コリント十章一三節

月報1998年3月号より

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