「神様に造りかえられた喜びを伝える器に」

私は日本の小さな田舎の町で、無宗教、冠婚葬祭にだけ仏教をつかうような家庭で育ちました。私が神様と出会うきっかけとなったのは、3歳のとき。近所に引っ越してきたセブンスデーアドベンチスト(SDA)というキリスト教団の婦人伝道師のK夫人です。
自分たちの家を、家庭集会所とし、そこでは毎週礼拝が行われ、子供のための神様のお話もたくさんしてくださいました。子供が好きなK夫妻は、自宅を近所の子供たちのために開放し、誰でもいつでも遊びにこれるような環境を提供していました。テレビもトランプもおもちゃもない家でしたが、K夫妻の家は近所の子供たちの人気の場所でした。学校から帰ると多くの子供たちが、K婦人の家に行き、おやつをもらったり、紙芝居をみせてもらったり、オルガンにあわせて賛美歌を歌ったり。礼拝学校の教材を一緒に作ったり、家庭菜園をお手伝いしたり、お料理を一緒にしたり。K婦人の家は、私の家にはない暖かさや穏やさがありました。私はK婦人が大好きで、子供のいないK婦人も私を実の娘のように可愛がってくださいました。
小さいころは、そうは思っていなかったのですが、今考えると、私は、少し複雑な家庭環境の中で育ちました。両親はそれぞれ、とてもいい人なのですが、ふたりとも、親兄弟からひどい虐待を受け、愛のない環境で育ちました。お互いに不幸な家庭で育ったので、理想を持ち、いい家庭を築こうと一生懸命で、それは子供の私たちにも、とてもよく伝わってきました。でも、愛されたことのない人は、人をどのように愛していいのかわからないというのは、本当です。子供に対する接し方も、また、夫婦関係も、とてもぎこちないものでした。
妹たちのように、両親のいうことを素直にきければよかったのですが、私は生まれつき、桁外れのおてんばで、あばれんぼうでした。悪いことをしようとしてるつもりはないのですが、自分でも気がつかないうちに、結果的にそういうことになっているのです。今思うと、多動症かなにかの病気だったのかもしれません。とにかくスーパーアクティブで、落ち着きがなく、授業中はうわのそらで先生のいうことを聞いていないので、学校の忘れ物グラフでは、だんとつ一位。小学生の低学年のときは「どもり」もあり、最初の言葉が足踏みを何回も何回もしないとでてきません。学校の友達に笑われ、だんだん人前で話すことが好きではなくなってしまいました。学校では借りてきた猫のようにおとなしくすごし、その反動で、家に帰ると、とたんに元気になって、近所を走りまわるのです。
この生傷の絶えない近所のガキ大将は、母にとっては目の上のたんこぶ、頭痛の種でした。あちこちでいたずらをするので苦情が絶えないのです。親から愛されたことがない母にとって、こんな問題児を愛すことはどんなに大変だったでしょう。私がいたずらをするたびに叱られますが、言っただけではきかなかったのでしょう。時々押入れや倉庫に閉じ込められたことを覚えています。やっと出してもらっても、懲りずに大声で泣くので「うるさいから外で泣きなさい」と、また玄関のとびらを閉められました。
このようなことが起こるたびに、泣く泣く、いつも足が向かうのは、数軒先にあるK婦人の家でした。K婦人は、私がどんなに大きな声で泣いていても、いつでも両手を広げ「ここで好きなだけ泣きなさい」と、私を抱きしめてくださいました。これは、一度や二度のことではありません。いつも、いつもです。私が泣いていても、怒っていても、またK婦人がどんなに忙しくても、自分の手を休め、私を受け止めてくれました。
K婦人の愛と信仰に支えられ、15歳、私は神様を受け入れ、バプテスマを受けました。そして、その後、高校時代をSDAのキリスト教全寮制の学校ですごしました。その3年間の寮生活のあいだ、K婦人から毎日のように葉書が届きました。書かれているのは、日常のたわいもないことがほとんどなのですが、その文の最後に、必ず「あなたのことを、いつも祈っている。恵里ちゃんが、一番可愛い」と書かれていました。
その学校で、私は信仰に燃え、あんなに授業中、集中力がなかったのに、勉強が面白いと思うようになりました。何かに没頭することを覚え、一生懸命すれば、私にも何かができるという自信がつきました。内側から、自分自身が造りかえられていくような感じがしました。
高校3年生のとき、聖書にあるいろんな性格をとりあげ、クラスメートの誰がそれに近いか投票するという企画がありました。私はそのなかで「柔和な人」に選ばれ、びっくりしました。高校生活、毎日忙しく夢中で過ごしましたが、気がつくと、私を「暴れん坊」と呼ぶ人は、もういなくなっていました。
夏休み、冬休みと帰省で家に帰るたびに、両親が、私がみちがえるように変わったと、目を丸くし、驚いていたことを覚えています。中学時代は親への反抗がひどく、父は私が不良になるのではないかと、本当に心配していたようです。

SDAと今の教会では、神様、イエス様と私との関係、神様の愛、悔い改め、十字架の許し、そのようなキリスト教の中心的な教えの部分については、なにも違いを感じることはありません。でも、SDAは旧約聖書にもとづいた生活上の規則がたくさんあり、その部分に、私は、高校卒業後から疑問を持ち始め、葛藤が始まりました。その後、色々なことがありましたが、神様は、様々な出来事を通し、サンフランシスコにあるフリーメソジスト派の榊原先生の教会に導いてくださいました。そしてまた、その先生の紹介で、この教会に来る事ができました。
その榊原先生の教会では、SDAの中にあったような様々な規則はなく、自由に神様を信仰できる教会で、こんな教会があったのかとびっくりしました。その開放感からか、それまでクリスチャンである自分を隠す傾向にあったのですが、堂々と「私は教会に行っている」と、言えるようになりました。礼拝のメッセージが、とても素直に心に響き、賛美をしていると涙があふれました。礼拝に出席するたびに、漠然と悩んでいたこと、どうしたらいいか迷っていたことへの答えが与えられました。教会に義務感で行っていた私が、教会に行きたくてしかたない自分に変えられました。

様々な理由から離れることにしたSDAの教会ですが、私にとっては、信仰の土台を築くことのできたふるさとのようなところで、忘れることはできません。3歳のとき、あの婦人伝道師K婦人に出会い、神様が私に働きかけてくださっていなければ、またその後の導きがなければ、今の私はなかったと思うからです。当たり前のように受けてきたK婦人の愛ですが、今、自分がその年になって、よその子をあのように愛すことができるかと考えると、本当によくしてくださったと、感謝の気持ちで一杯になります。
錦織先生が、私に示してくださった聖句があります。ガラテヤ人への手紙、3章の23節から26節です。「しかし、信仰が現れる前には、私たちは律法の下で監視されており、やがて掲示される信仰の時まで閉じ込められていた。このようにして律法は、信仰によって義とされるために、私たちをキリストに連れて行く養育係となったのである。しかし、いったん信仰が現れた以上、私たちは、もはや養育係のもとにはいない。あなたがたはみな、キリストイエスにある信仰によって、神の子なのである。」 先生ありがとうございます。私は今、まさにこのような心境です。

この年末年始に名古屋の実家に帰り、5年ぶりくらいに両親兄弟の集まりに参加しました。久しぶりで懐かしく、楽しいときでした。でも、それと同時に、自分がどんな家庭環境で育ったのか、改めて実感する機会となり、胸が痛くなりました。それは、実家の家族が、精神的にとても病んでいるように見えたからです。彼らにとってはそれが当たり前の状態なので、それを問題とは思っていません。でも「彼らが信仰を持ち、神様のある家族関係になれたら、どんなに心穏やかに暮らせるだろう」と強く思いました。
あんなにおてんばで落ち着きのなかった私を、変えてくださった神様ですから、熱心に祈れば、きっと私の家族をも救ってくださるでしょう。でも、私の実家は、K婦人がもう数十年ごしに働きかけても、誰も「神様の話に全く耳を傾けなかったつわもの」たちです。
家族のことを祈り始めて気づいたことがあります。自分が忘却のかなたにおいて忘れてしまった方が楽だと思うほどの人のことを祈ると、いろんな過去の出来事や感情がよみがえってくるということ。そして、嫌な気持ちが多くなってくると、真剣に祈る気持ちが弱くなっていくということです。自分の好きな人のために祈ることは比較的簡単ですが、そうでない人のために祈ることは、未熟な私にとっては簡単なことではありません。
この祈りの経験を通して私は、問題は母よりも私の方にあると気づかされました。母が聖霊によって変えられることを祈るよりも前に、まず私自身がもっと信仰的に成長し、この気持ちを克服しなければ、祈ることすらできません。
私は、今まで自称「隠れクリスチャン」で、伝道なんて、とてもできないと思っていました。でも今は、神様によって造りかえられた喜びと信仰による心の平和を私のまわりの人に伝える器になれたらと、心から思うようになりました。
すばらしい信仰の先輩がたくさんいるNJ教会に導かれ、神様のみわざに感謝します。少しでも多くのことを学びたいです。どうぞ、よろしくお願いします。

月報2007年2月号より

「20年間に13回」

これは、私と私の家族が過去20年間に引越しした回数です。今でこそ使われる事がなくなった言葉ですが、私は典型的なメ企業戦士モでした。営業利益率50%の、世間では超優良企業と呼ばれるメーカーで、より大きな責任と権限の持てるポジションに着く事、上司から高い評価を受ける事は私が仕事をする原動力でした。同年代の友人より倍以上の収入を得ている事は誇りでもあり、ハードな仕事も一度も辛いと感じた事はありませんでした。子供達がまだ幼い頃は、彼らが朝起きる前に家を出て、夜は彼らが寝てから帰宅しますので、平日は子供たちと顔を合わせる事もなく、まして平日に夕食を家族で共にする事は絶対にあり得ない様な生活でした。

会社の業容が急拡大するのと合わせて3年に一度位の頻度で転勤があり、日本で数回転勤した後、米国へ初めての海外駐在に来たのが1998年でした。海外でも仕事のペースは相変わらずハードで、妻は隣人からメお宅のご主人は何の仕事をしてるの?モと聞かれる程でした。米国での滞在2年目に生まれて初めて結婚式以外で教会に家族と一緒に行きました。その教会がJCCNJでした。それまでは多くの日本人と同様に特定の宗教を信仰することもなく、むしろどんな宗教に対してもNegativeな印象、思い出しかありませんでした。高校時代のガールフレンドから成人後メ選挙の時はXX党の候補に投票して、、モと電話が掛かって来た時はなぜかとても嫌な気分になり、たまたま会った友人のXX学会の人達は弱い人の集まり、他人の批判ばかりしてる人々にしか見えませんでした。

初めて米国で礼拝に行った時もメ献金モと言う言葉を聞いた瞬間に、献金の意味も良く知らず、やけに冷めた気持ちになり、メ何や やっぱり最後はお金かモと一人でつぶやいていました。その後も何度か礼拝に行きましたが、その時は特に自分自身に変化が訪れる事はありませんでした。ただそこに集まっている方々が皆さんとても親切で明るく、日本のXX学会の人達とは全く違った印象を受けた事は憶えています。その最初に行った礼拝で後藤兄を紹介頂いたのですが、その出会いがその後の人生を大きく変えるとは夢にも思いませんでした。何となく将来日本へ帰国後、もう一度NJに戻って仕事をする様な予感めいた妙な感覚になったのも憶えています。その予感は日常的に常に意識するような大きなものではなかったのですが、確実に心に刻み込まれて行った様に今思い返すことが出来ます。

米国駐在が4年目に入る頃(01年7月)、英国への転勤が決まり教会の皆さんにも見送られNJを後にし、ロンドンから約1時間北の郊外へ引っ越しして、少しして家の近くの日本人教会に毎週家族で礼拝に行くようになりました。1年を過ぎる頃から牧師先生の自宅で礼拝前にメ聖書の学びモをする様になり、私も途中から一緒に学ぶ様になりましたが、その頃は家で自ら聖書を開く事は一度もなかった様に記憶しています。

英国での駐在が3年目になろうとする頃(03年3月)、また転勤が決まり今度はタイに行く事になり、私はいつもの様に家族を英国に残し一足先にタイへ赴任しました。時を同じくして聖書の学びを進めていた妻からメ洗礼モを受けることを考えていると聞きましたが、余り実感がなく他人事の様でした。

ところが一人で一足先に来たタイでは、なぜかまず教会を見つける必要があると強く感じ、すぐに日本人教会を見つけ、毎週欠かさず礼拝に行くようになりました。自ら進んで読んだ事もなかった聖書も、時間を見つけては読むようになり、メ4つの福音書て同じイエス様の生涯を書いてるねんな!モとか今から考えると常識的なことに気付いては、喜んで家内と電話で話した事を憶えています。タイでの単身赴任中に英国残っていた家内と上2人の息子が洗礼を受ける事が決まり、その事を聞いた瞬間に自分もすぐに洗礼を受ける事を確信しました。牧師先生と礼拝後欠かさず、聖書の学びと洗礼準備を進めるにつれて、神様や聖書についての理解が深まると同時に、自分の罪を強く意識させられる様になりました。

その頃心に染み渡る様に自分の中に入ってきた聖書の御言葉がありました。

メ夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会の為に御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。モ (エフェソ人への手紙5章25節)

自分は今まで何の為に生きていたのか、如何に自己中心的な人間であったか、妻や家族にどれだけの時間を使ってこれたのか 妻をどれだけ大切にし、愛してこれたのか等々が具体的な出来事と共に次々と思い出され家族、妻や息子達に対して申し訳ない気持ちで一杯になりました。

03 年7月に家族の到着を待ち兼ねた様に3男も一緒にタイで洗礼を受け(彼は英国で洗礼を受ける事も出来たのですが、パパが一人でタイで洗礼を受けると寂しいと思い待っていてくれました!)神の家族の一員になる事が出来ました。それからも神様からの働きかけがあり、このまま今の仕事を続けていて良いのか?という疑問が頭の中にもたげて来ました。考えれば考える程今のままではいけないと思う様になり、ある日家内に相談した所意外にもにあっさりと賛成してくれました。夏休みにタイからJoy Joy Campに参加しに行った家族に私も1週間遅れでNJに行き、その週の礼拝で後藤兄からメ転職を考えているの?モと話かけて頂き、(妻が後藤兄に事前にそれとなく話をしていました)それがきっかけで転職が決まり翌年の04年4月から現在勤めている会社に転職しました。日本での1年余りの勤務の後に希望していた米国にそれもNJに戻って来ました。予感が実現しました。

神様は人によりそれぞれ違った方法で、違ったタイミングで、時には弱く継続的に、時には強く瞬間的に私達に働きかけて来られます。私は妻と家族の為に信仰を持ちましたが人それぞれに神様様を受入れるきっかけは異なるかも知れません。信仰を持ってもあまり自己中心的で短気な性格は大きくは変わってはいませんが、腹を立てた時は神様にその事を告白し、素直に謝る事が出来る様になりました。また穏やかな生活を送れる様に、心に平安がある様に祈る様になりました。これからも神様はどの様にして私たちに働きかけて下さるのか、どの様に私たちを用いて頂けるか楽しみです。これからは時間を掛けてでも1人でも多くの人々に神様のすばらしさを知って貰えればと思います。

いつか妻が望むメ穏やかな性格の夫モになれる様に Amen

月報2007年1月号より

「弱さの中に現れる神様の力」

韓国のピアニスト、イ・ヒアさんを御存知ですか?
先月、家の近所にある韓国人教会でこのイ・ヒアさんのコンサートがありました。
指が左右2本ずつしかないのにピアニストということで、一体どうやってピアノを弾くのか不思議に思い、集わせていただきました。

会場で、イ・ヒアさんを始めて見た時、彼女は私がいる席より少し斜め前の方にお母さんと一緒に椅子にちょこんと座っていました。「あれ?子供なんだ・・」と思いましたが、コンサートが始まり、ステージに上がってい行く彼女の姿を見て、「あ!」と思わず息を呑みました。子供だったのではなく、脚がなかったのです。その背丈から小さな子供のように見えたのです。子供用のワンピースが21歳の彼女にはロングドレスになるのです。脚は、ももがほんの少しはえているだけで、足の指もないその部分に履いているスニーカーを脱いで、ピアノの椅子によじ登り、演奏が始まりました。モニターが上から鍵盤をスクリーンに大写しにしていますが、一体どのように指が動いて鍵盤の上を流れるているのか目にもとまらないほどです。演奏ももちろん素晴らしいのですが、なにより彼女の純粋な愛らしさに心が惹きつけられました。

イ・ヒアさんが生まれた時、周りの人は、こんな体では韓国では育てられないから外国へ送りなさいと勧めましたが、お母さんはヒアさんを見て、何もおかしい所は全然ない、と思われたそうです。二つに割れた指も、まるでチューリップのように可愛い!と思い、自ら韓国で育てる事にしたそうです。このお母さんの目は、きっと神様が私達をご覧になる時に思ってくださっている気持と同じなのだろうと思いました。

演奏が終わって、家に帰って購入したDVD__ヒアさんの生活の様子を記録した__を見てからも私は一日中考え込んでしまいました。今、私自身が抱えている問題など何でもないことであり、何とつまらない事に自分は悩み、振り回されているのだろうということに気がつかされました。が、それだけではありません。

沢山のものを持ってる私たちが、持たない人を見た時、
その生き方に感動し、心を打たれ、励まされる・・・・
ないものを通して、私たちは与えられる、と言う事実。
それは、勇気だったり、癒しだったり、悔い改めだったり・・・・
あるものを失った人が、または初めから持たない人が、
持っていても満たされない人々を満たしてくれる・・・
一体この事実は、何なんだろう・・ということです。

体にハンディを持つ人に対して、助けになりたい、役に立ちたいなどと考える自分が、
この事実の前に打ち砕かれます。

私は今年、念願の人に2人もお会いする機会が与えられました。お会いしたと言ってもコンサートに行けたとか、実際にお証を伺う事が出来たということですが、ひとりは、生まれつき両腕がなく、足にも重い障害がありながら、ゴスペル歌手として活躍されているレーナ・マリアさん、もうひとりは交通事故で全身が丸焦げになる大火傷をおいながらも、それを信仰によって乗り越えたイ・チソンさんです。会場でそのお姿を拝見しただけで心が打たれ、涙が出そうになりました。そして今回、イ・ヒアさんを初めて知ったのですが、やはり同じような印象を受けました。

私にとって人間の目から見たらネガティブにしか写らない事柄の中に、圧倒的なポジティブを見る時、想像を絶する逆境の中にあっても輝いている人たちを見る時、そこに人間の力を超越した何かがある、と思わずにいられません。それが、弱さの中に働かれる神様の力だと思います。神様は霊なので眼には見えませんが、神様が何かをされようと思う時、人を用いられます。神様に用いられたレーナマリアさん、イ・チソンさん、そしてイ・ヒアさん、彼らが持っているものは、失ったからこそ、見えたもの、知ったもの、初めからなかったからこそ、その弱さの中に現れた神様の完全な力です。それは、この世の基準では計り知れない恵みであり、それらで満たされている彼らを通して、神様は私たちひとりひとりを目的を持って神様の御計画によって作ってくださったということを教えてくれます。

私が苦しみの中で、なぜこんなことが起こるのだろうと考える時、この神様の御計画__きっと何か神様の意味があるのだろう、と思えることは幸いです。この世の価値観、基準だけに振り回されることがないことも幸いです。こうでなくては私の人生は意味がないなどと思っていたものから解放された時、神様の声が聞こえてくる事もあります。
イ・ヒアさんのお母さんが神様の基準でなく、この世の基準だけでヒアさんを育てたら、神様が用意していたギフトに気がつかなかったことでしょう。

最後にイ・ヒアさんの書いた詩をご紹介します。
実は、私自身、数年前から体に不調をきたし、出来なくなってしまったり、諦めなければならないものが沢山ありました。運動や大好きだった手先を使った趣味も何一つできなくなりました。体の痛み同様、精神的にも辛いことでしたが、(いつもお祈り下さり感謝です!)でもそこで、韓国語の勉強を始めました。おかげで今日、イ・ヒアさんの書いた韓国語の詩を訳す事が出来てとても嬉しいです。私もどうにもならない時、どうしてよいか分からない時、只その弱さを神様にゆだねてゆくことしかできません。でも弱さの中に働かれる神様が必ず最善を用意してくださることをこれからも信じてゆきます。イ・ヒアさん、頑張れ!

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10本の指がなくても 悲しくなったりしない。
残っている4本の指に感謝する時、私の心に光を下さった神様が、
10本の指があったら持つ事の出来ない喜びを
私に届けてくださった。

2本の脚がなくても、恨んだりしない。
わずかに残ったこのももに 靴を履いて、主に向かって踊りを踊る時、
この世を作られた神様が、私を世界に遣わし、
希望を語れるようにしてくださった。

外なる人は古くなるけれど、
内なる人は日ごと新しくなるのだから、
外見の理由によって、泣いたりしないで、
内なる人の命に喜びましょう。
神様は、そんな外見の理由で泣いたり、笑ったりしている人たちに
伝える主の言葉を、私に託してくださったのです。

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月報2006年12月号より

「罪深い人間の心さえも作り直して下さる神様」

最初にこの証しを書く機会が与えられたことに感謝いたします。

私は在日韓国人として生まれました。父は一般的な常識とはやや違う考えを持つ人間で、私たち子供をとても愛してはくれましたが、それは父に対する服従を前提とするものでした。「勉強でも何でも一番になれ」の父の教えに逆らわないように顔色をうかがいながら育った私は、結局自分だけを愛し、他人に興味を持たない独りよがりな人間になりました。何でも一番というなら、人を愛することにも長ければ良かったのですが、残念ながらそうはならず、この世で大切なのは私だけ、他人の痛みは完全に人ごと、自分の欲望・利益・悦楽が最優先、これらの嫌な表現が全てあてはまるようなかなり強い自己中心性を持つ人間になりました。と同時に一方では、”他人からの評価に依存する”という自己評価の低さ、自信の無さも私のなかに共存していました。自己中心性と自信の無さの共存、つまり自分自身をこよなく愛しているのにもかかわらず、実はその自分に自信が持てないという裏腹さが私の心をとても不安定にしていたのです。そしてさらに悪いことには、そんな自分ときちんと向き合うことを避け続け、”私はとてもいい人間だ”、ときには”私はかなり思いやりがあるほうだ”などと全く見当はずれな自己解釈をして無意識に自分を慰めていたのです。私は常に第三者の評価を求め続けました。それはまるでアイドルスターか漫才師のように。いつも観客の顔色を異常なほど気にして、誰かと話をするときも、話し相手当人ではなく周りの人の反応をちらちら見るのが私のクセでした。全ての行為の動機は第三者からいい点数をつけてもらうことだったのです。こうして私は空虚なうわべに厚い上塗りを繰り返していました。

その弊害は結婚生活に見事に現れました。当然です。

自分にしか興味が無い男をありがたがる妻や子供がどの世界にいるでしょうか。だれかが点数つけてくれなければとたんに動かなくなる私。もちろん家事の手伝いへの動機なんてどこにも探しようもありません。うちに帰ればやる気を保てずゴロっとするだけの生活でした。それでも日本では仕事の忙しさを言い訳にできましたし、妻もなんとかそれで納得しようと努力してくれていたようです。しかし、家族再生を安易にスローガンに掲げてやってきたニュージャージーでも同じことを繰り返せば、夫婦の溝は自ずと深まるばかりでした。自分を省みるわけでも変えようとするわけでもなく、私の心は変化を拒み続けました。変化には痛みをともなう膿み出しをしなければなりませんから。

そして心の革命は「教会にいらっしゃいよ」の暖かい言葉から始まったのです。

どんどん信仰に引き込まれて行く妻を不安な気持ちでながめる日々でした。教会員のクリスチャンホームに頻繁に子供を連れて遊びに行く妻を見ながら、正直なところ、”同年代の子供と遊ばせてもらうためだけだ。キリスト教に勧誘されているわけじゃないはずだ。たまに話を聞いてもらってるだけだ”、と自分に言い聞かせていました。しかしそれはある日突然訪れたのです。「明日から牧師先生の家で個人的に聖書を教えてもらうことになったから」。妻からこの言葉を聞いた時は、”ああ!やっぱりそれが目的でうちに近づいてきたんだな!ついにやつらも本性を見せたな!意外に早かったな!”、と腹立たしい気持ちになったのを覚えています。喜々としている妻の機嫌をむざむざ悪化させるのが怖くて、行くなとは言えなかった。それでもなんとか口にした「大丈夫なのか?」に、無言の反駁が返ってきて、あわてて「いや、別に深い意味はないんやけど。。」で投了でした。

ああ、妻よありがとう。あのとき私の意に反して行ってくれて。

しかし、神様を追いかけてどんどん速度を増して遠ざかる妻の後ろ姿を、私は今にも見失いそうで気が気ではありませんでした。万が一ここで私が立ち止まってもし夫婦関係に決定的な亀裂が生じてしまったらどうしよう、考えただけでも空恐ろしい、けれど自分で追いかけるまでの気分にはなれない、などとジタバタしていた私のところに妻はいつもすっと戻って来てくれ、ぐいぐいと手を引っ張ってくれました。

ああ、妻よありがとう。君が私をいつも正しい道に連れ戻してくれたね。

とうとう2006年7月16日に妻と一緒に洗礼を受けることになりましたが、その決断にはまだ多くの人の後押しが必要でした。特に印象深かったのが職場の助教授でした。彼は韓国からの移民のクリスチャンで、私が同じ血を持つということもあり、公・私・信仰にわたりとても力になってくださった方です。このときも、「100%完璧に準備してから洗礼を受けようなんて考えちゃだめだよ、10%いや1%で十分なんだ。洗礼を受けてからゆっくり始めればいいんだから」、と導いてくださり本当にありがたかったです。それでも、受洗の朝になってさえも、まだ私の心は晴れきってはいなかったのです。朝食中にふとしたことから妻と口論になり、「今日はやっぱり洗礼は受けない!まだオレには早すぎたんや!」とけんか腰になっている私にさっときびすを返し、黙々と電話を掛け始めた妻。

錦織先生、早朝にご足労いただき本当に申し訳ありませんでした。

それ以後は神様が本当に働いてくださいました。とくにJOY JOY CAMPを存分に楽しんでいる頃から、私の心は急速に晴れ渡り、自分の醜い部分と向き合うことができるようになり、心の目が少しずつ開かれて行くのが自分でもよく分かるほどでした。そして今、

妻に感謝しています。
家事を一緒に手伝おうと思う気持ちが生まれました(まだ生まれたてです)。
人に純粋に興味を持つようになりました。
約束を守ろうとするようになりました。
身を低くして人に仕える人間になりたいと思っています。
誠実な人生を送りたいと思っています。
感動しやすくなり涙腺がすぐゆるむようになりました。(年のせいかも?)
なんだかおだやかでハッピーな気持ちでいることが多くなりました。
イエス様は途方もなく大きな愛のお方です。すごいです。
神様に感謝しています。本当です。

どうやら神様は複数の方法を用いて私を変える作業に当たられているようです。一つは礼拝のメッセージ、二つは教会員との親しい交わり、三つは聖書の御言葉、四つは妻の支え、五つはクリスチャンのための本です。どれが欠けても神様の作業は著しく滞るように思います。今、かなりの時間をこれらのことのために捧げていますが、神様がそう望んでいらっしゃるに違いないと感じています。

まもなくに迫った我が家の帰国の後におそらく信仰の試練がやってくることでしょう。神様どうかせっかく開きかけている私の心の目を閉じさせないようにお守りください。そして家族みんなの信仰ときずなをいつまでもお守りください。

神様あなたを心から賛美致します。アーメン。

月報2006年11月号より

「あんしん」

シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。  ルカ 22:31-32

「シモン、シモン。」は、「り」を入れると、「しもりん、しもりん。」で、やはりこのみことばは、今もなお、自分に語られているように思います。
「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」
「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

離婚という経験は、誰でもできるものではなくて、確かにそこには傷みが伴ないます。苦しかったし、辛かったし、何度も何度もひとりで涙を流しました。何が辛かったのか、どうしてそうなったのか、それを説明することは今でも上手にできません。
それでも、今、こうして確かに生かされています。それは、自分の力によって生きているのではなくて、ただ、神さまの力によって生かされているだけです。そして、神さまは、消極的な気持ちで、いやいやながら生かしてくださるのではなくて、愛と情熱をもって、生きなさいと語ってくださり、共に歩んでくださる方です。神さまは、間違えることも、失敗することもなく、いつでもどのような時でも、その祝福の約束のみことばのままに、最善をなしてくださる方です。だから、なにもかもすべて、安心して、神さまにゆだねていい。

昨年、聖書を開くことも、お祈りすることもできない時間がありました。「神はいるか」と問われれば、「いる」と答えることができても、「自分は祝福されていない」、そう思う時がありました。あるいは、礼拝に集うことができない時もたくさんありました。「ハレルヤ」と元気に讃美する人々の中に、自分はとてもじゃないけれどいられないと感じました。苦しい、辛い時間の中で、いろいろな思いが頭の中を駆け巡っていて、何をどうしていいのかわからずに、暗闇の中に道を失っていました。
その時間の中で、何人かの友達とメールのやり取りをしていましたが、今になって見返してみると、自分が綴った言葉に、胸が痛くなります。なんと声をかければいいのか?と、その言葉を受け取った相手も心を痛めたのではないだろうかと思わされます。けれども、誰も彼 (女)も、必要な言葉を与えてくれて、そのことは本当に感謝で、ありがとうの気持ちでいっぱいになります。
そのようなやり取りの中で、なぜか僕はいつも、聖書のみことばに戻っていました。聖書のみことばはこう語っている、神さまの約束はこう言っている、などなど。そして、ある時、ふと気付かされたことは、みことばからは逃れられないということでした。自分の状況が、辛くて苦しいものであっても、あるいは、自分の力で何をどうすることもできなくても、神さまの祝福の約束のみことばはいつもそこにあって、それにがっちりと捕まえられていて、逃れることができないのです。

私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、
そこでも、あなたの御手が私を導き、
あなたの右の手が私を捕えます。
詩篇 139:9-10

逃げようとしても、逃げられないんだということに気付いて、逃げることを止めることができたのだと思います。神さまの祝福の約束のみことばは、決して変わることがなく、いつもそこにあります。自分が信じるとか信じないとか、そういったことの前に、みことばは確かにそこに存在するのだということに気付かされました。

そして、その後、もう一つ。気付かされたことは、自分の弱さでした。
自分の力で何とかすれば状況を打開できる、そのような思いにどこかで捕われていたのは事実で、でも、ある時、自分の弱さを目の当たりにさせられました。
何とかできると思ってみても、実のところ、自分自身は精神的にいっぱいいっぱいな状況にあって、まだ頑張れると口にしてみたところで、もう頑張れない。自分はそんなに強くない。というよりもむしろ、自分は弱い。自分の力では何をすることもできない。
そのことに、気付かされました。そして、その自分の弱さに、どうしようもなく涙がこぼれてきました。
「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」 (ルカ22:33)とまで言ったシモンさんは、その後、 3回イエスさまを知らないと口にします。自分で言ったその約束を守ることもできずに、自分自身の弱さに気付かされて、激しく泣くシモンさんの姿に、僕自身の姿を見るような思いがしました。けれども、イエスさまは、そのすべてのことを知っていて、だから、前もって、「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」と語ってくださり、また、「あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と語ってくださいました。このことは、僕にとっては、本当に慰めであり、また大きな励ましでした。
神さまとの約束を守ることもできなくて、自分の力では何もできないほど弱くて、でも、既にイエスさまが祈ってくださったのだから、安心して、自分の弱さを認めて、それに泣いていいんだと思いました。
そのような僕自身の弱さや罪をゆるすために、イエスさまの十字架と復活があり、イエスさまを十字架に付けたのは、確かにこの僕の弱さと罪なのだと思いました。

そして、今、生かされています。
昨年の苦しい/辛い時間の中で、どこかで、信仰を失うことや、教会を離れることや、あるいは崩れ落ちてしまうことがあり得たのかもしれません。けれども、そうはなっていなくて、今、こうして、礼拝に集うことも、讃美をすることも、お祈りすることも、奉仕をすることもゆるされています。だから、そのようなことの一つひとつは、自分の力によるものではなくて、ただ、生かしてくださる神さまの力のゆえです。

「あなたは、わたしのしもべ。
わたしはあなたを選んで、捨てなかった。」
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
イザヤ 41:9-10

そう約束してくださる神さまに、安心して、自分自身を空っぽにして、なにもかもすべて、ゆだねていい。間違えることも、失敗することもない神さまが、時にかなって、その最善をなしてくださる。

時々、それでも、せっかく神さまが生かしてくださっているのだから、もっと(自分の力で)頑張らなければというような思いに囚われます。そして、何もできていない自分の姿に、 “焦り”のようなものを感じたりもします。けれども、先日のファミリーキャンプにおいて、神さまが再び語りかけてくださいました。

恐れないで、ただ信じていなさい。
マルコ 5:36

だから、あんしん。

月報2006年10月号より

「ホノコン ’06」

私は今年の夏、姉と2人でJCFNの15周年記念ホノルル・コンファレンスに行きました。私はどうしてもハワイに行きたかったんです。私にとってハワイは世界で一番好きな場所で今年の夏もハワイのビーチへ旅行したいと思っていました。あの爽やかな海風、暖かい気候、綺麗な海と素敵な風景はこの地上でハワイしか持ってない特徴だからこそ行きたくてしょうがなかったんです。そういう理由で私は、ホノコン(以下ホノルル・コンファレンスの略)に参加したのですが、神様は違う目的で私をハワイに送ったのです。では、ホノコンで何が起こったのかを書きたいと思います。

今年のホノコンのテーマは「You Gotta Paddle! Can’t You See It? ~主の波はもう来ている~」でした。そこで気がついたのですが、実は皆私の周りの友達はこの「~主の波はもう来ている~」に気付き、洗礼を受け、Strong Christianになっていたのですが、なぜ私だけがいつも置いてけぼりになっていたのか悩んでいました。でも考えてみると私ももうとっくに神様を信じてました。それは赤ちゃんの頃から教会で育ったような環境だったからかもしれませんが、「神様が私のためにイェス様を地上に送り、私の罪のために十字架につけられ、よみがえったからこそ私の罪は赦された」は100%信じていました。小さい頃から何か問題があれば神様に祈り、彼はいつも絶対に私の横にいる事を学んできたからいつも何かが起こったら神様に頼っていたんです。「…じゃあ、なんでまだ洗礼を受けてないの」の疑問にいつもたどり着きました。それがホノコン、そしてそこで出会った皆のお蔭で解決できたのでした。

私がホノコンに行きたかった No.1 の理由はハワイでした。別に信仰を深める目的もなかったし、何を期待するかも知りませんでした。でも、そこで歌った意味深い賛美のせいか、先生方の説教が本当に心に突き刺さったせいか、特別に最高だった Small Group で分かち合った時間のせいか、いつの間にか毎回賛美を歌った時や話し合った時、私の目はいつもウルウルしてて、涙が止まりませんでした。神様の十字架の愛、そして感謝の気持が溢れて、初めて賛美の意味が心に突き刺さって来た気分でした。

この気持の変化はDay2 の Small Group の ディスカッションからです。一体そのディスカッションで何が起こったかというと、荒井牧師が教えてくれたことです。Small Group の皆に私が持っていた悩みを相談したら、荒井牧師がニコッと笑って「レナさん、あなたは一人じゃないんですよ。本当の事を言うと、幼い頃から教会に行ってた人の方が洗礼を受けるのが遅いんですよ。それは、そうゆう人は神様に初めて出合って人生が全く変わった、すごい証をする人じゃなくて、何気なく信じているみたいだからからです。レナさんはもうすでに救われています。レナさんが波に乗りたい気持、ちょっと考えてみなさい。もう Paddle していると思いますよ。レナさんはもうすでに波に乗っていますから、あなたが言ってた洗礼への道、もう歩んでいますよ。これからは同じく神を信じ、洗礼を受けるだけですよ。もうクリスチャンなんですから。」と話してくれました。だけど私はまだ足りない気分を持っていたら、同じグループだった下部ゆうこさんがこう言ってくれました「もしかしてレナちゃん、何かが起こるのを待っているんじゃないかな。ちょっとしたアドヴァイスね:自分で波を作らなくていいんだよ。自分で作っても、神様の波の方が全然大きくて素晴らしいんだよ。『私はこんなすごい事が起こってクリスチャンになったんだ。人生、180度回転しました。』みたいな証できる事を待っているんじゃないかな。そんなのいいんだよ。最終的には皆で波を Surf できる事が一番重要なんだよ。だから自分の力で何かを作ろう!と思ってないで、レナちゃんを乗せようとしている神様が特別作ってくれた波を皆で Paddle すればいいんじゃないかな。」その一言で私が何かすごい事が起こるのを待っているのに気付き、そして人生を変えてくれるような出来事なんか必要じゃない事に始めて気付きました。

それから次の日賛美していた時、ただ歌ったんじゃなく、本当に歌詞を味わって初めて神様への「賛美」をしました。その日の一つの賛美は:

「主は導きをもって私をここまで支えられた
主の十字架の後をただついていきます
あなたのみかお見つめて みこえをたよりにして
みあしのあとをついていかせてください 愛する主よ」

でした。そして、やっぱり神様一番! と思いながら人生を振り返ってみました。本当に一歩一歩イェス様が共に歩んできてくれた事、そして今まで神様がすごく人生を祝福してくれた事に感謝でした。神様は頼れるお方でずっと気付いてなかったけど、いつも支えてくれていた事を賛美し、ホノコンで出会った皆の事を考えました。「こんなに暖かくて明るい皆に恵まれて、神様ありがとう!笑顔で本当に人生を無駄にしてない、楽しそうに毎日生きてる皆…神様の力はすごい!私も皆みたいに人生を生きて、神様の後をついていきたいな」と思いました。

それから Small Group の皆にその燃えていた気持を告白し、洗礼を受けたい事を分かち合いました。皆は感激してくれて、本当に支えられている気分でした。その時から神様が私の事を愛してくださって、愛してくれる人たちに囲まわれている事を本当に感じて、喜びで溢れて、スマイルが顔から離れませんでした。

次の夜、ホノコンの最後の夜、友達四人で徹夜しました。ゲームを遊び、話し合っていたら、もう日が出る時間になりました。その朝日が言葉で表せないぐらい綺麗で、やっぱり神様すごい!こんな素晴らしい地球を造ってくださったすごいお方だ!とまたまたおもいました。そしてその朝日を見ていた食堂の屋上で四人で賛美をし、最後のホノコンのお日様を迎えました。

そして帰りの日。ホノルルのアラモアナビーチで BBQ Party を持ちました。野外礼拝をして、皆でお昼ご飯を食べて、2,3人証しました。ビーチで遊び、とうとうお別れの時になりました。親しくなった皆にお礼とあいさつをして送迎のヴァンに乗りました。飛行場へ着いて、ハワイにお別れして、この洗礼を受けたい燃えている気持だけを持ってニュージャージーに帰って来ました。

その帰って来たその日に錦織先生、そして教会学校の中高科の立石先生と鬼頭先生にメールを書いて、洗礼を受ける決心の事を伝えました。先生三人とも私の気持をサポートしてくれて、一ヶ月後に洗礼を受けることができました。

教会、そして、私を励ましてくれた皆様、いつも祈って私の事を覚えていてくれてありがとうございます。どうかこれからのクリスチャンとしての歩みも支えてください。本当に教会を通して出会った皆様が応援してくれていた事に感謝しています。

月報2006年9月号より

「神様の恵みを受けて」

7月16日。私達夫婦の渡米2年目に家庭崩壊寸前の状態から夫婦揃って洗礼式を迎えるまでに至った経緯を「証し」としてお話ししたいと思います。

私達夫婦が3人の子供と渡米したのは、2004年7月、夫の2年間の留学のためでした。突然の留学話。2年間自費留学するための資金は無かったものの留学のためより『家族再生』のため、(何でもいい、今の状況が変るなら!)と生命保険や学資保険を解約し、売れるものは全て売り払い、どうにかこうにか渡米準備完了。荷物は5人家族で段ボール箱4つとスーツケース2つ、犬一頭が全てでした。
友人も知人もいない初めてのアメリカでの生活を思うと不安と寂しさ、心細さで一杯。でも一方で『家族再生!』をスローガンに「家族で過ごす時間さえ有れば何とかなる」と、期待も一杯でした。

――娘が1歳過ぎた頃、夫の転勤で大学病院勤務に戻ると、夫は帰宅が週に2日の激務になりました。そして、娘が1歳半のときに2番目の子供を妊娠。単身赴任の様な状況で、まだオムツも取れていない上の子を抱えて2回目の出産を迎えるのかと思うと、嬉しさよりもまず不安でした。漠然と親の援助を期待する事などを考えて行った2回目の検診で、実は2番目の子供だけでなく3番目も妊娠している事が分かり、嬉しいのか不安なのか、もう何が何だか分からず頭の中が真っ白な状態で娘と帰宅しました。上の子の妊娠時とは比べものにならない勢いで、みるみる膨らんでくるお腹に不安を感じていた頃、ある人に「双子を授かる人は神様に選ばれた人なのよ、」と言われ、私にとってはその後、子育てで辛い時いつも思い出し、心の支えになる言葉でした。幸い経過は順調で管理入院のため3ヶ月入院したものの、予定日の2日前に出産、しっかり一人分ずつの体重で生まれてくれたお陰で4日目には退院できました。しかし、自宅に戻ると私一人の先の見えない育児の始まりでした。2歳2ヶ月の娘と双子の乳児の世話で母乳も1ヶ月で止り、毎晩1、2時間おきの授乳で昼夜逆転、心身共に疲れ時々はっと、気付くとオムツを替える時も沐浴させている時も無表情で無言の自分。かわいい盛りの娘と生まれたての赤ちゃんの成長をゆっくり見る事の出来ない仕事に追われる夫も気の毒なはずでした。でも、(望んで産んだのに。)(私だけの子供じゃないのに。)そんな思いばかりが心を埋め尽くしていました。

双子の誕生から4ヶ月後、実家の父が脳内出血で倒れ、週に一度来てくれていた母の手助けが無くなりました。一命は取り留めたものの、それ以降約2年間続く父の入院では、娘として何も力になってあげられず申し分けない気持ちと裏腹に、いつも思いやってくれる母に対し、「たまには、手伝いに来てよ。病院に居るお父さんには看護婦さんやヘルパーさんがいるけど、私にはお母さん以外、誰も頼る人がいないのよ!」と、母に暴言として吐いた時、『夫と子育て』という意識は完全に消えていました。母との子供ではないのにおかしな話です。娘は放ったらかし状態になる事が多く、それに比例するように愛情の飢えも強く感じられる様になりました。息子達も日増しに活発になり、気分転換で公園に行っても四方に散らばる子供達を追いかけに行くだけで、ストレス解消どころか逆に疲れ、次第に引きこもり親子になっていきました。(一人になりたい!せめて3時間続けて眠りたい!)そう思うばかりで、娘に抱っこをせがまれても、すでにその気力は残っていませんでした。その頃の娘の「ママー!だっこだよぉ!」と泣く声は今でも耳から離れません。と、同時に(子供より自分の方が大事なんじゃないか)という疑問がいつも着いて回り、息子達の言葉の遅れも気になり始め、“無言育児”を思い出し、苦しみました。(このまま、こんな母親に育てられる子供達は、一体どんな子になってしまうのだろう、夫の知らない間に子供達は成長を続け、分かち合う思い出もなく思春期になった頃に、父と子の会話、夫婦の会話なんて出来るんだろうか。。。)と思うとどうしようもなく不安になり、焦り、その気持ちを話したい夫は居ないという状況で、一点の光も見いだせない暗い穴の中に居る様でした。夫も相変わらず多忙を極め、お互い日々、自分のやらなければいけない事で精一杯。お互いを労り合うなんてとても考えられない状況が続いた、そんな時に舞い込んだ留学話だったので、一も二もなく飛びついたのでした。

しかし渡米3ヶ月後、元来、前向きで自信に満ちあふれていた夫が一変しました。
この時娘は6歳、「このあいだ産まれたはずの赤ちゃん達」もいつの間にか4歳になっており、夫にとってほぼ“初めての子育て”は“初めて思いどおりに行かない対象”だった様です。“初めて”の事は他にも、子育てを通して“初めて向き合う自分の感情”にも戸惑い、“初めて心底向き合った夫婦問題”、“初めての慣れない環境と言葉”、これらの“初めて”によるストレスから体も心も荒んでいきました。常に体調が優れず、気持ちはマイナス思考、自己否定モードに入ってしまった夫。子供達は次第に夫を恐れる様になり、私自身もそんな夫の姿を初めて目の当たりにし、パートナーとして何もしてあげられない無力感と、夫自身のこの問題を(彼は乗り越えられるんだろうか?)という不安。ようやく一人ぼっちの子育てから解放されるはずだったどころか、夫と子供の仲介役。(なぜ?)(どうして?)(どうすればいいの?)の繰り返しでした。実はその過程は、私達の『家族再生』のために不可欠だった通るべき道で、神様が用意して下さっていた試練であった事はまだ知る由もなく、実際はすでに家族再生のために前進していたのに「家族再生はどうしたの?!」と、夫を責めました。(こんな状態になるために渡米したんじゃない!)と。それだけでなく、息子達の言葉の遅れや、型にはまらない二人は学校で問題児に。今まで見ない振りをしてきた小さな心配事が、後から後から大波になって押し寄せて来る様に感じていた時、小さな出会いがありました。

このアメリカ留学自体が、我が家にとっては長期旅行と決め込んでいたので旅行も観光も無し。同じ週末の繰り返しに煮詰まりつつあった渡米1年後のある日、
犬の散歩で大清水姉(*)と出会ったことがきっかけで、JOYJOYキッズクラブや日本語教会に、気が向いたときだけ行く様になりました。錦織先生のメッセージや中高生の面倒見の良さに触れ、(自己否定どっぷりの夫のために!)(子供達に隣人愛を!)という私の勝手な理由で行っていたものの、実は、夫や子供達を変えようとばかりしていた私へのメッセージだった事に気付いたのです。私自身の今までの傲慢な気持ちを神様はずっと見透かしていらしたのだ、と思うと恥ずかしく情けない気持ちでした。そして、何度となく聞いていた「人は生まれながらの罪人」ということばも、次第にその意味が自分のものとして実感する様になりました。確かに“何かモにすがりたい気持ちでいました。(信仰を持てたら楽になれるんだろうなぁ、)と。しかし、私も夫も多くの日本人の様に無宗教に近い環境で育ったため、信仰を持つという事に今ひとつ、積極的にはなれませんでした。しかし、錦織先生のメッセージ、教会の方との交流を通して自然な気持ちで神様、イエス様の深い愛に触れ、(聖書の事、神様の事をもっと知りたい!)という気持ちになり、バイブルスタディを始めて1ヶ月程経った頃、息子達の緊急入院がありました。親としての至らなさ、バイブルスタディも自分が救われる事ばかり考えているんじゃないか、と子供達に申し訳ない気持ちと自分を責める気持ちでいっぱいでした。そんな中、私や私達家族のために、お礼拝で教会の皆さんがお祈りして下さったそうです。以前から私達家族のために祈って下さって、私の学びを導きサポートして下さっていた小林葉子姉(*)、錦織先生ご夫妻の熱いお祈り、全てが私にとって衝撃的でした。私が神様の愛を実感するという事は、こうしてクリスチャンの方を通して実感出来たのです。

今思えば、双子を授かったのは「子供は3人欲しい、」と願っていたわたしがもしあの時、双子でなかったら夫の激務が続く中、3人目は望まなかったでしょう。私達が『家族再生』の為にアメリカに来たのも、私達が選んだのではなく、私達が知る前から、神様が全てを備えておいて下さった事を強く感じずにはいられない事ばかりです。日本から犬を連れて来るのにバックヤードにはフェンスが必須でした。
百件ほど見て語学力に自信の無い私達の借りたフェンス付きの家は、日本語ペラペラの大家さん。日本人なんて誰もいないだろうと思っていた娘の学校には同じクラスに日本人の女の子。しかも歩いて2分のお家。この方達には学校の事から犬、前述の息子達の入院など本当にお世話になってます。そして、どん底状態だった私達のために神様は、近くに教会や一緒に苦しみを分かち合ってくれる教会の方達まで用意しておいてくださったのです。まるで、「不自由しない様に色々揃えてあるから、とにかくいらっしゃい。」と。それでも神様を信じずに、「私がなんとかしなくちゃ、」という傲慢な心を悔い改めずにイエス様を救い主として受け入れない理由は、もうどこにもありませんでした。

私の少し後から夫も学びのときを持ち、私達の長女として、いっぺんに双子の弟の姉として我慢を強いられる事ばかりだった娘の8回目の誕生日に、私達夫婦も洗礼の恵みに預かる事ができました。本当に感謝です。もう一人で、夫婦で悩む必要も無く、それどころか祈りの先輩、祈りの友、まで与えられ聖書やメッセージを通して神様からのラブレターをいただき、どんな時も希望を持っていけるのです。
本当に感謝です。。。

『あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものは無かったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共にそれに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます。』 第一コリント10:13

(*) 教会では、キリストのもとに互いに兄弟姉妹、という気持ちで、お互いのことを「~兄」「~姉」と呼ぶことがあります。

月報2006年8月号より

「イエス様の命と私たち」

僕らクリスチャンは、「私はイエスに愛されている」とか「キリストは罪びとのために死なれた」というようなことは「知って」いる。僕らはこのような言葉を数え切れないほど耳にしてきたが、しかし、「慣れ」というほこりが、これら素朴な真理を鈍らせることがある。こんなほこりを払い落として、神様の愛をもう一度新たに考えるべきである。

何度も何度も人生の道を歩いている私達なら、あたる壁。それは、「慣れ」である。人と人の関係の上で。神様と僕の関係の上で。常に「慣れ」というのは生じるものであってしまう。

ここで「慣れ」とは一体どのようなことかを下記のトピックをあげて考えたい。

Examination

問1:イエス・キリストを信じているのか

あなたは、イエス・キリストを信じていますか。クリスチャンであれば、もちろん答えは「はい」でしょう。実際、イエス・キリストが十字架にかかって、死んでくださった。それは、私たちの罪を赦すためである。わかりきっている事実である。しかし、信じているとしても素直に愛しているだろうか。本当に好きな人のためにはなんだってできる。しかし、私は、神様のために全力を尽くしているのだろうか。まさに、命の恩人。そんな神のために具体的に何をしているだろうか。疑問符がついてしまうことがある。

問2:命を捨てる準備はできているのか。

明日、地球は滅びます。あなたは、その日に死ねるか。「もちろん」イエス様を信じているのだから当然天国にいけるから準備はできている。
果たして、そんなに簡単に命を捨てられると言えるのだろうか。なにかやり残していないだろうか。
私たちは、事故を起こす電車の中で、非常口を知っている者だ。だが、その非常口のありかを誰にも「伝道」しないでいないだろうか。あなたが伝道していない友達はみんな、事故の中で亡くなってしまうのだろうか。
伝道をあまりしていない僕としての答えは、「いいえ」だ。まだ時間が必要だ。
焦らずとも、怠けずやり遂げたいことである。

問3:本当の愛とはなんだろう。

「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私はこう考えました。また、キリストが全ての人のために死んだ以上、全ての人が死んだのです。また。キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」 コリント人への手紙第二5章14~15節
イエスは、罪の色に染まりきった人間を十字架にかかって死ぬことで赦した。それはわたしたちに見せてくれた最大の愛であったと信じている。
では、なぜ人間は恋愛ができるのだろうか。神様の愛を実感できる今、自分の立場から他の人を好きになることは必要なのだろうか。必要であるのだろう。あるクリスチャンの雑誌にはこう書かれている
「異性との関係は、そこから何かを受けるためではなく、与えるためのものとなる。クリスチャンにとってすべての人間関係は、神が僕たちを愛してくださったように他の人を愛するための機会なんだ。」
私たちは神が私たちを愛してくださったのと同じ経験を私たちにさせてくださっているのである。それは、けして私たちが「きもちがいい」という経験をするためではないのである。

世間がそうだから。まわりの環境がそうだからと言って、慣れてしまっていることはないだろうか。伝道をしているなんてかっこ悪く見られるから。みんなやってないのだから、あとでいいや。世間は、恋愛なんて気持ちがよければいいと思っているから。そのような環境にいたらその色に染まってしまうのも当然のことであろう。だが、クリスチャンならば、そうならないことは容易のはずだ。ただ、「困難」に「慣れ」ているのだ。
大変なことではない。
バスケットボールでも同じことが言えるが、「感銘を受けた。」「生きがい。」と思いながら、練習するバスケットと、「ねむたいのに練習しなきゃ。」と思いながら練習するのでは上達率も全く違う。
そう。クリスチャンを好きになればいい。イエス様を純粋に好きになればいい。イエス様を信じることが、「感銘をうけるもの」であり、「生きがい」になるのであれば、そして聖書にあることを純粋に従うならば、私もあなたも救われる。
僕は、このようなことを、親がいないアメリカ・NJの教会の人のところに泊まることで、また、ユースのみんなと交流することで、改めてスタートラインに立たせてもらった。
このイエス様を信じる「喜び」を慣れなどには負けず、流されず、他の人に伝えることを惜しみなくしたい。天国の手帳に「伝道100回」と記されることを目標にしようと考えている今日この頃である。

「そこで、あなたがたに言うが、何でも祈り求めたことは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」 マルコによる福音書11:24

祈り:「天にいます父なる神様。ハレルヤ。日々を感謝します。神様、僕にどうか伝道できる勇気をください。伝道できる力をください。もちろん慶應の人だけではありません。自分の祖父母への伝道。YOUTHに来るみんなへの伝道。そして、慶應のみんなへの伝道。どうか、置かされている範囲は広いですからどうぞ、この口をきよめてお使いください。あなたが、NJにとってもすばらしい方々を送ってくださったことを感謝します。泊まれる家を感謝します。中高科のみんなを送ってくださったことをありがとうございます。今ぼくの頭の中に浮かぶ方々に祝福ありますように。素敵な人を送ってくれてありがとう。主イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

あなたへの祈りは聞かれましたよね。守ってください。祝福してください。

「僕は、イエスさまの命を無駄にはしたくない。」

月報2006年7月号より

「家族」-母の日に思うこと-

私は1998年のNYでの初めての個展がきっかけでNYに引越してこようと決めました。日本ではイラストレーションやデザイン業をやっていたのですが、バブルがはじけて企業が広告費を使わなくなり、仕事が減ってきたのと、何処にいても大変であるのなら、NYで頑張ってみようと、無謀な計画を立てたのでした。

学生ビザを取り、インターネットで調べた語学学校の寮を2週間予約し、友達も知り合いもいないNY生活が始まりました。

日系の新聞を買って、まずは日本語の通じる不動産屋に電話して、マンハッタンで一番安いアパートを貸して下さいと言うと、チェルシーに小さなスタジオを探してくれました。寮からの引越はイエローキャブで充分なほどの荷物しかなく、画材と折りたたみ式の自転車が、そのほとんどを占めていました。個展をやった画廊のオーナーは顔を覚えてくれていたので、電話をかけて布団を貸してくれるかと尋ねると心良く貸して下さり、ついでにお茶碗やお箸などもいただいて、とても助かりました。

マンハッタンにいるだけでワクワク幸せで、絵のイメージがどんどん出てくるので、学校や自宅でのデザイン業の合間は絵ばかり描いていました。日本では、締切りに追われ、睡眠時間も充分に取れないで、忙しい社会の中を飛び回っていたので、NYに来てこんなに時間があるのは社会人になってはじめてぐらいのことでした。

学校の友達が近くに教会があると教えてくれたのは半年後くらいのことで、偶然にも、10階の私のアパートの窓から日米合同教会が見えたのです。さっそく日曜日の礼拝に行ってみることにしました。

初めて礼拝に参加した日のことをよく覚えているのですが、私の頭の中は自分の子供の頃の家族の想い出で一杯になり、だんだん呼吸困難状態になってきました。すぐに、その原因が涙がこぼれるのを必死に我慢しているからだと気がつき、長い間ずっと緊張していた何かが初めてゆるんで、懐かしい感覚に包まれていました。今思うと、それは、『守られている』という安心感のようなものだったのかもしれません。

私は、都内のクリスチャンの幼稚園に3年間通い、今思うと、この頃が一番良い子であったと思います、小学校は、父の転勤もあり、3つめの小学校が北九州でした。その時私は5年生で、校庭の遊び場の取り合いでいつも喧嘩している東京の子供達とちがって、限りなく広い校庭の九州の子ども達は、純真で優しかっ たし、大自然が毎日の遊び場になっていました。東京では仕事で夜も週末もほとんどいなかった父が早く帰ってくるようになり、祖母もとても元気で、母もいつもニコニコしていました。当たり前なのかもしれませんが、いつも家族が一緒に食事したり、テレビを見たりしているというこの北九州の2年半が、私の家にとっては、最も家族らしい時期でした。

中学は姉と一緒に、クリスチャンの女子校に通いました。日曜日には教会に行き、通信簿にも聖書という欄がありました。いつも牧師先生からイエス様のお話 を聞いて、神様と家族からの愛情をたくさん感じながら、安心して生きていた時代だったのです。

しかし、中学2年の時に東京に戻ることになり、今度は、授業も成り立っていないような恐ろしい公立の中学に転校することになりました。それから、兄弟のように育ったコリー犬が死に、おばあちゃんもボケがひどくなり、母も疲れ果てていて、父もまた仕事人間になっていきました。私自身も、姉と一緒の高校に入ったのですが、バスケットボールクラブだけは熱中した後、このまま大学には行きたくない、美術系に進もうと毎日美術大学受験のための夜間学校に通うようになったので、ほとんど家にいない生活になりました。

私は小さい頃から、よく母に『あなたには、いつもビックリさせられる。。』と言われています。それは未だにそうなのかのしれませんが、子供の頃よく学校で熱を出して迎えに来てもらったり、頭に包帯グルグルだったり、松葉杖をついて帰宅したりしました。警察によくお世話になる方で、たびたび、警察から家に電話がかかってきました。
『新宿警察ですがお宅にK子さんいますか?』
『ハイ、K子はうちの娘ですが、、、』
お財布を落とす、大宮八幡の夜店で補導される、期限切れの定期券で改札で捕まる、オートバイ事故で病院に運ばれる、、、、等々、そのたびに母は、心臓が止まるほどビックリし、それでも次の瞬間には私のために母はお財布を握って走っていました。

私は大学時代からどこへ行くにもオートバイに乗っていて、実は、母にも言っていないのですが、もう1つ事故を起こしました。徹夜で仕上げたイラストレーションの仕事を届けに、表参道のあたりを渋滞の車の間を走り抜けている時、タクシーのドアが急に開き、そこに突っ込んでしまいました。救急車まで来てしまって、私は、『忙しいから病院には行かない』とか言ってもそうはいかず、警官は『家の人に連絡するので、電話番号を教えて』と言います。私は『いません。家族はいません』と、これ以上母に心配させたくないので、大丈夫ですと言い張りました。母が知ったら、ショックも受けるし、『なんでみんなのように徹夜なんてしないで、9時から5時みたいな会社員にはなれないの?死んでしまいますよ!バイクはやめてちょうだい!』、などと言われるのが目に見えるようで、私は、『家族はいません。大丈夫です』と、必死に言っていました。本当は一番心配してくれていて、愛していてくれている母親のことを『いません』と言っている私には信仰のかけらもありませんでした。『誰にも迷惑かけてないし、ちゃんと仕事もしているし、大丈夫です。』家族がいなくても、神様がいなくても、一人で生きていると強がっていました。

そうは言っていても、本当にボロボロでした。ろくな物も食べていないし、ほとんど寝ていないし、いつも時間に追われていて、時間ができると不安にかられて仕事を探さなければならなくて、合間には、過激に遊んでもいたのですが、ホットしたり、安心したりすることなく、ずっとあわただしく生きていたのです。

そんな中、大人になってはじめてゆっくりする時間をもらい、NYの生活の中で、教会に行きついたのです。それから毎週教会に行くようになりました。NYの教会はバイリンガルで賛美歌は英語でも日本語でも歌っていいのですが、私はあえて英語を選びました。日本語の賛美歌は懐かしすぎて、泣きそうになるからです。
私は父を早く亡くし、姉とも仲違いをしてしまっていて、病気の母を一人日本においているということで、家族に対するコンプレックスがあったのですが、2000年のイースターに洗礼を受けて、イエス様の家族となり、家族というものはまたできるのだということを感じました。

2002年には結婚し、いきなり15歳の娘もでき、正に神様のご計画(?)で、また『家族』を与えられました。この母の日には、母も交えて4人で教会に行き、賛美歌を歌いました。もう日本語で歌っても涙は出てきません。

私はいつも感謝しています。母に、家族に、そして、それらを与えてくださった神様に。。。

月報2006年6月号より

「私は、1999年5月末に、22年間勤めた会社を…」

今月は、JCCNJ教会員花崎由紀姉のお母様で、今年2月に日本で洗礼を受けられた内田真紀子姉のおあかしをご紹介させていただきます。

「私が幼い頃から何十年も毎週笑顔で母を訪ねてくる新興宗教の方々がいました。母は当たり障りのない返答で対応していたのを覚えています。宗教と名の付くものには何一つ耳をかさなかった母が、神様、イエス様に出会い、聖霊の働きによって導かれる姿を目の当たりにし、人の力ではどうしようもないことが成されるのを実感しました。途中でくじけるのでは?と思っていた一年間の受洗の学びも教会の方々に励まされ最後まで頑張る事が出来ました。受洗後も今までと変わらずマイペースで、でも神様、イエス様と向き合うときには襟を正し、気持ちは正座で、クリスチャン生活を送っています。」 (花崎由紀)

私は、1999年5月末に、22年間勤めた会社を停年退職しました。その時にすでに椎間板ヘルニアになっていて、半月後に入院し、2ヶ月間入院しました。見舞いに来られた人が熱烈な新興宗教の信者で、枕元で、信仰しないと直るものも直らない、と言われましたが、寝たきりで人に便器の世話をしてもらっている時に、話に耳を傾ける余裕など私にはありませんでした。

しかし、少し良くなった頃、今までの人生は何だったのだろう、と考えるようになりました。退職するまでは、働かなければ生活できないので必死で、人生のことをゆっくり考えたことがなかったのですが、時間ができたことと、病気をしたことが大きいと思います。退院してリハビリに励みましたが、身体が思うように動かず、情けない気持ちと空虚な気持ちで過ごしていました。

その頃、娘一家がアメリカのニュージャージーに居たのですが、一家も日本のお友達との出会いがあり、お友達に、野外礼拝があるのでご一緒しませんか、と誘われ、教会に行くようになりました。すばらしい牧師と沢山の日本人のお友達との出会いがあり、それから毎週教会へ行くようになったと聞いています。2001年にイギリスに転勤になり、ミルトン・キーンズの教会に日本の女性牧師が来られ、全員で学びをし、2003年4月に娘と長男と次男が洗礼を受けました。その頃から、私のほうに、毎週、牧師のメッセージや学びのテープが送られて来るようになりました。また、電話でもいろいろ神様の話を聞きました。

娘一家が今度はタイに転勤になり、タイの日本人教会で娘婿と三男が洗礼を受けました。その頃、娘が電話で、一度教会に行ってみたらと勧め、4つほどの教会を調べてファックスで送って来ました。私は娘があまり熱心に勧めてくれるので、一度覗くだけのつもりで行ってみようと決心しました。ファックスで送られて来た教会の中にチャペル・こひつじがあったのですが、私は迷わず、チヤペル・こひつじを選びました。何故だか分かりません。今になって思えば、それも神様の導きでした。私は勇気を出して、チャペル・こひつじに電話を掛けました。恵子さんが出られ、場所を聞きましたが、その後で恵子さんが、ぜひ一度いらして下さい、お待ちしております、と言われた言葉が心に残りました。2003年5月の第1週目の日曜日に、恵子さんの言葉に引かれ、白転車で行きました。これが私が初めて教会に行ったいきさつです。

教会に行ったものの、知合いの方がだれも居ない中で心細い思いをしていましたところ、三宅さんが私に声を掛けて下さいました。そのとき、三宅さんは「私は神様から内田さんの世話をするように導かれています。」と言われたのです。驚きましたが、心細かった気持ちがホッとし、とても嬉しかったことを記憶しています。すばらしい牧師に出会い、沢山の方々に出会い、優しい言葉を掛けていただき、メッセージよりも皆さんに会えるのが楽しみで、毎週礼拝に出かけるようになりました。

その頃、娘の長男が内臓に異常があり、タイの病院に入院していましたが、急遽日本に帰国することになり、歩くこともできない孫は、担架で飛行機に乗せ、日本の空港に着くと、救急車で病院に直行し、タイの日本人教会の牧師が手配して下さった順天堂大学病院へ入院することができました。紹介された教授もクリスチャンだったので、毎日祈って下さったそうです。孫が入院しているとチャペル・こひつじで話したところ、皆さんで祈って下さいました。そして、無事退院できました。

また、娘がひどい腹痛におそわれ、外国は日本のようにすぐに診療してもらえず、予約を取らないと診療してもらえないとのことでしたが、娘が祈り続けたら、腹痛がおさまったそうです。私は電話でこのことを聞いて、「あっ、やっぱり。神様は本当に働いておられる。働いて下さった。」と思い、感動し、確信を持ちました。私自身も今までにいろいろな出来事がありましたが、大きな事にならず、無事に過ごさせていただいているのも神様のおかげだと思います。

私は犬とのら猫2匹とで生活しています。娘にしたら、遠く離れているので、私が淋しくないだろうかと色々心配です。娘は自分が神様を信じ、心豊かに暮らしているので、日本に居る私にもその心の豊かさを持ってほしいと、一家で私が心淋しくないように、もっと信仰が深まるようにと、いつも祈ってくれています。私が娘一家を訪ねてイギリスやタイに行ったときに、皆でお祈りする姿を目にし、私もその輪にはいりたい、そのために神様を本当に信じて祈れたらと思い、もっと神様のことを勉強してみようと思いました。孫も全快し、私は神様が本当におられる、神様の働きは本当だと確信しました。それからは、礼拝が私の生活の一部になり、聖餐式も納得して受けることができるようになりました。

教会に行き出した頃、三宅さんが私にイエス様は内田さんのために死なれたと思いますか、と言われ、その頃は、イエス様は人間のために十字架にかかられたが、私のためにとは思えません、と返事したことを覚えています。でも今は違います。こんな罪深い私のために十字架にかかられたと確信しています。今までのことを梅い改め、これからの人生を神様と共に歩めたら、とても幸せです。

クリスチャンになれるのは徹底的に勉強した人、そして善の生活を行なっている人だけと思っていましたが、神様はありのままの私を受け入れてくださると、学びで牧師に教わり、神にゆだねなさいと学びました。孫は、洗礼はゴールじゃなくスタートだと、イギリスの牧師から学んだ、と教えてくれました。

神様、私の心を満たして下さい。そして、神様のあふれた力で人と接して行くことができるように導いて下さい。証をする機会を与えて下さった主に感謝いたします。

一回ただお言葉を下さい。
(マタイの福音書8章8節)

月報2006年5月号より

『「天使の涙」・・・ 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。』

母が転落事故で亡くなった。68歳。5月の深夜祈祷会から帰った夜中。姉からの電話。
「家裏の高台の石垣から落ちたらしく、頭を強く打って意識がない。
しばらく経っていたようだ。心臓がどんどん弱っている・・・。」
悪い夢を見ているのだと思った。
何度も電話が行き交い、震えがきた。必死で神に叫び求め、祈り続けた。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。・・・」ヨハネ14章が飛んできた。
意識が戻らない。手術も難しい。もうだめかもしれない。「泣くな。」弟が叫んだ。救急車が呼ばれた時間、主のみ前に出て祈っていたではありませんか。どうぞ助けてください。回復させてください。もう一度奇跡を起こしてください。でも、もし・・・・助からないの
でしたら、母の人生のすべての罪を私のこのとりなしの祈りゆえに、主にあってどうぞ赦してください。イエス・キリストの名を思い出
させ、今、信じることが出来るようにしてください。どうぞあわれんで母を天国に導いてください。神と長く真剣勝負の格闘をした。
朝を待って、みなさんのお祈りをお願いした。しかし、日本時間の深夜、その日のうちに、意識も戻らないまま亡くなってしまった。
夫婦の喪服が入っているス-ツケ-スが乗り継げなかった。私は母の喪服を着た。顔も頭もひどくつぶれているのだろうと覚悟していたが、実にきれいな安らかな顔をして横たわっていた。傷もシミもしわもなく、髪も黒々として若いきれいな母だった。神は、あの叫びを聞いて、母を救ってくださったのだと思った。
父に促されて母に触った。死人の冷たさだった。聖書に出てくる死人の復活を思い、大声で主のみ名によって、神に叫ぼうか。叫んでみてはどうか。もしかしたら、息を吹き返すかもしれないと思った。でも、しなかった。
2004年、私たちがアメリカに来た夏、父に胃がんが見つかり、二度の手術で全摘した。母は病院に泊り込み、つきっきりで看病した。そのとき、父の死を一度は覚悟したが、まさかの母の死だった。
父は深い悲しみの中、腸閉塞と胆石の激しい痛みに度々襲われ、あれから何度も入退院を繰り返している。
そして、去年の夏、とても元気だった主人の父が急に脳出血し、倒れた。右半身が完全に麻痺し、言語障害があり、認識も十分でない。一ヶ月の治療入院の後、四ヶ月、リハビリセンタ-にいて一月末に、施設に移った。回復は望めなく、自宅に帰ることもないだろうと思われる。義理の母はこの突然の悲しみと、先の見えない不安と痛み、疲れの中、心身ともに弱りきっている。
あっという間に取られる命と、障害を持ちつつも残され、与えられている命がある。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。・・・」イザヤ55:8そのような頃、私たちに帰国の内示が出た。ここはまだ二年。ビザも残っている。次男の高校を長男と同じNYの高校に決めて、願書を詰めている時だった。「とにかく、辞令までの15日間、祈り続けます。はい。そうですか。と今は言えません。日本を向けませ
ん。」と夫に話した。まだまだここに私の心があった。日本の実家のことを考えると、「ありがとう。丁度良かったです。」と言える
ことなのかもしれないが、そう言えない自分がいた。旧約聖書の「エステル記」が頭によぎり、自分のことと重なり、この内示は必ず流れる、と思った。また既に、神様が導いておられると思うことが5つも6つも始まっていた。
私たちは思うこともなかったNJ転勤になった。ドイツを離れる時、神様は何度も美しい虹を見せて、私が導くから心配いらない、と語られた。聖書の約束に信頼しつつ、時には弱る心を注ぎ出して二人でよく祈った。
そして、やっと少しずつ少しずつ山が小さくなって動き出し、さあ、ここから・・・という矢先の辞令だった。何だか力がどっと抜けた。
そんな10月。多くのことが重なり、疲れ果てていた私の心に「天使の涙」は届けられた。「あっ」。天使の赤ちゃんの小さな小さな涙。たくさん次々、赤ちゃん天使の涙が連なっている。かわいい鉢植えの天使の涙、葉っぱたち。熱いものがこみ上げてきた。無言の優しさと熱い篤い祈りが迫り、慰めに満たされた。名前で決めたという鉢植え「Baby’s/Angel’s Tears」。毎日毎日、いっとき一時、眺めて祈るうちに、ドンドンドンドン元気が与えられてきた。一つ一つ神様の恵みを感謝しつつ、数えられるようになってきた。
「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」ヨハネ13:7変えられないことを受け入れる信仰を私にもください。
また、神様は全ての道を造り変えられることができる、という信仰をも与えてください。
全てのことを用いて、人の痛みがわかる位置に私もどうぞ置いてください。
そして、約束どおり、やがて私も義の実で満たしてくださいね、と祈ります。
「天使の涙」はNYに残る長男に引継ぎ、託します。祝福の管理を委ねます。
きっと寮で、あなたもあなたの友達も励まし続けてくれるでしょう。
2008年6月。卒業する時に、彼女の元に返してください。あの時のあなたの優しさは、こんなに大きく広がりました、と。枯らさないでね。水も忘れないでね。大きく立派にして必ず返してね。
一人ひとり、ここで出会った多くの方々のために祈ります。
熱い篤い祈りを共にしてくださった信仰の友、祈りの先輩。
みなさんの優しさと祈りを決して忘れません。本当にありがとうございました。
「主にある者は幸いである。」と喜んで、「私と私の家とは、主に仕えます。」ヨシュア24:15 と告白して新たな心で出発します。

月報2006年3月号より

「人を許す恵み」

私達一家が、このニュージャージー日本語教会の礼拝に参加するようになってから5ヶ月になります。この間に神様は本当にたくさんの恵みを下さいました。その中で、私が最初にいただいた恵みについて証をしたいと思います。

私達夫婦は2001年に 10年以上住み慣れたロサンゼルスと、心から信頼し愛する兄弟姉妹のいる教会を後に、夫の仕事のためにニューヨークに来ました。旅行では何度も訪れ楽しい思い出の多いNYでしたが、いざ、住んでみるとのんびりしたロサンゼルスとは全く違う文化、価値観、ライフスタイルに戸惑うことの連続でした。また、新しい土地というだけでなく、夫の新しい職場はとても忙しく帰宅するのが午前一時二時になる事も頻繁でした。その上、引っ越してまもなく妊娠したので、友達も親戚もいない見知らぬ土地で妊娠、出産、子育てをする事に不安でした。その頃住んでいた地域の教会に行って見ましたが、ここと思う集会に出会えず、ロサンゼルスの教会の兄弟の紹介で、クイーンズのフラッシングの集会に参加するようになり、ようやく私たちの心に平安がもどって来たように感じました。しかし、夫の仕事は年々忙しさを増し、それと共に私たちの会話は減り、私は一人で子育てをしているような孤独感と体力的な疲労で、いつも体調を崩していました。特に子供が二歳くらいのころは、子育ての方針のことで口論が絶えず、その頃の私たち夫婦は、二人共信仰をいただいているという大きな恵みを受けていながら、二人で祈る時間もなくお互いのストレスを気遣うという心の余裕もなかったと思います。教会の礼拝に行くことも、「礼拝に行きたいから行く」というより、「行かなければならないから」という義務感にさえなっていました。ただ、主は、そんな私でも、礼拝の中で、励ましと休息を与えてくださいました。自分では、義務感で礼拝にでているつもりでも、心のどこかで主にすがりたい一心で礼拝に出ていたのかもしれません。しかし、礼拝の中でいただいたその平安は、日常の生活にもどると、なんとなく消えてしまっていました。

その後、育児は少しずつ楽になり、夫の仕事も忙しいなりにペースができてきて、少しづつ心身ともに落ち着いてきたと感じはじめました。そして昨年の3月に転居したことをきっかけにNJで教会を探すことにしました。私達はそれまでずっと現地の教会に参加してきたので、日本人の教会を探そうとは思っていませんでした。ところが、NJに転居してすぐに日本に一時帰国することになり、私はその帰国中に、まだ信仰を持たない私の妹に福音を伝えたいという強い負担を心に覚えました。しかし、現地の教会で救われ、養われてきた私は ずっと英語で御言葉を読み、祈り、賛美してきたので、日本語で神様のことを語ることに少なからず困難を感じ、日本語で御言葉を読もうと決心してアメリカに帰ってきました。
その頃夫は相変わらず毎日仕事で遅かったのですが、ある日、深夜に帰宅すると
「日本語教会があるらしいよ」と言って、彼にこの教会のことを教えてくれたリムジンの運転手さんのおぼろげな記憶をたよりに、教会のホームページを探し当てました。その時、夫も私も、何か特別な神様の導きをすでに感じていました。そして、8月の最後の日曜日の礼拝に出かけてみることにしました。その日は、プリンストン日本語教会の栗栖牧師が説教をされました。その中で、ルカの「良きサマリア人」の箇所を通して隣人を愛するということを話され、御自分の結婚生活で、夫として、一番身近な隣人である妻を愛することを忘れていた、ということを打ち明けられました。そして、この説教を聞きながら、私は涙があふれて止まりませんでした。自分でも気がつかない隠されていた心の中の傷がひとつひとつ浮かび上がってくるような感じでした。その傷は古く、ニューヨークに引っ越して以来少しずつ夫との関係の中で受けた傷でした。それは、私にとっては驚きでした。学生の時からの知り合いである私達夫婦は、問題はすべて話し合って解決してきたと思い込んでいたからです。確かに、話し合い(口論?)によって、その「問題」は解決しましたが、私の心の「ゆるし」には至らず、いつのまにか、心の中に多くの resentment を抱え、夫を罪に定めていたのです。それは、罪とは呼べないような些細なことの積み重ねだったと思います。夫は心優しい人です。故意に私を傷つけるような事はなかったはずです。そしてそれは、夫の問題ではなく、私の問題であると神様は示されました。

それから数日間、私は夫を許そうと思い主に祈りましたが、どんなに許したいと祈っても、心の中に「許した」という平安の感覚は訪れず、そんな自分の心の「罪定め」というもっと大きい罪に苦しみました。ひとが生きていく中には、いろいろな罪がありますが、「人の罪を許せないという罪」がこんなにつらいものだとは、知りませんでした。数日後、もうどう祈っていいのか解らず、「主よ、私にはどうしても許せません。」という気持ちになった時、突然、心の中に主の十字架が浮かんだのです。その十字架の上で主は傷ついて血を流されていました。そして、私はその時、夫の罪はもう主によって許されている、というクリスチャンとして当たり前の、ごく基本の事実に気づいたのです。主は、私の罪も、夫の罪も、世界中の罪をも背負って、命を捨てられました。私が夫の罪を責める理由など存在しないし、私が「がんばって」それを許すこともできないのです。もうそれらの罪は主によって許され、私達はあがなわれているのですから。そう思ったとき、突然、目に涙が溢れ、心が温かく、軽く、自由になり、それまで心に負ったと思っていた一切の傷が癒され、消えたと思いました。その時はじめて、夫を心から「許せた」、そして、私も許されたと思いました。そして、これが主の許しの平安なんだという思いで満たされました。

以上のことや、その他のさまざまなお導きによって、私達夫婦は益々この教会を私達家族のホームチャーチとすることを神様は望んでおられるのではないか思うようになりました。そして会員にしていただくことをお願いするに至りましたが、その陰には、たくさんの兄弟姉妹が私達家族のことをお祈りして下さっていたとお聞きしました。感謝して、主の御名を賛美いたします。

しかし今では 御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえにたたせてくださったのである。 コロサイ人への手紙 1章22節
注) 「教会では私たちはイエス・キリストにあって家族なのだという思いでお互いのことを『兄弟姉妹』と呼ぶことがあります。」

月報2006年2月号より

「Good News(福音)を知った喜び」

私には4つの名前があります。一つ目は教会でも呼ばれている名前のファンオクスン(樊玉順)。これは結婚してから使っている名前なのですが、この「樊」という苗字は主人のもので中国の名前です。下の「玉順」は韓国の名前です。二つ目の名前は、権友子(ごんともこ)という名前で、小学生の時まで使っていました。三つ目は、権玉順(クオンオクスン)という名前です。中学から結婚するまでこの名前を名乗っていました。四つ目の名前は、 木下友子(きのしたともこ)という「通名」で、 場合によってはこの名前を使ったりもしていました。なぜこんなに色々な名前を持っているのかというと、私が在日コリアンだからです。私の両親は韓国で生まれ、4,5歳の頃にそれぞれの両親と日本に渡ってきました。 その両親のもと、日本で生まれ育った私は幼い頃からこのようにいろんな名前を持ち、状況によって名前を使い分ける、というのは否応なく自分のアイデンティティーを探し求めることになり、自分はどこから来てどこに行くのか、ということを考え続けることでもありました。

1992年、結婚を機にアメリカに住むことになり、メリーランド州のBaltimoreで生活がスタートしました。誰一人知り合いもない異国の地で、まったく育った環境そして国が違う二人が一緒に生活を始めるのは困難の連続でした。それでも時間が経つにつれ、いろんな人と出会い、親切にしていただいたのですが、どういうわけか私たちが本当にいい人たちだなあと思う人は決まってみなさんクリスチャンで、私たちが理想とするような家庭を築いていられるのを見て、いつも主人と二人でクリスチャンってどういう人たちなんだろう、と話すようになっていました。

1999年にニュージャージーに移り住み、近所で仲良くなったアメリカ人家族が通うマンハッタンの教会に連れて行ってもらったり、モールで教会の勧誘をしていた人がとても感じがよく、話がよさそうだから、という主人の意見で、確かTrentonだったと思うのですが、 何百人もの様々な人種の人たちが集まる体育館のような大きな教会に行ったこともありました。でもなかなか自分たちに合った教会を見つけるのも大変なことなんだと思っているうちに、主人の友人で同じ研究者である石井さんという方が一年の予定で日本から来られました。石井さんはクリスチャンで、以前から日本語の聖書を下さったり、クリスマスには娘に聖書のお話の本をプレゼントして下さったりしていたのですが、ニューヨークに来られてからは、私たちの為にMaywoodの日本語教会を探し出してくださり、一緒に連れて行ってくださって、それから家族でも通うようになりました。

いつも教会で聞く聖書のみ言葉に共感し、聖書を読む会や家庭集会にも行くようになり、 その時その瞬間はいつも共感するのですが、家に帰ればいつもの生活に戻り、なかなか点と点が結ばれることがありませんでした。しかしそれからしばらく時が経った後のある日の礼拝で、「天国には国籍はありません」という聖書のみ言葉を聞いた瞬間、魂がゆすぶられる思いがして、このみ言葉がストレートに私の心の中に入ってきたのです。物心ついた頃からさまよい続けていた自分のアイデンティティーの答えとその終着点が天国にあったんだという驚きと喜びは、なんて表現すればいいのかわからないくらい心ふるえるものでした。そして結婚生活をスタートした時から二人の間にあった様々な問題も 「すべて神様におゆだねします。」という私の初めての祈りを神様が聞いてくださり、多くの祝福を与えてくださったという信じられないような経験を通して、イエス・キリストを自分の心の中におむかえして、いつも神様が私の中心にいてくださり、神様に導かれて人生を歩んでいきたいという思いから受洗の恵みにあずかることになりました。昨年のクリスマスに洗礼を受け、ちょうど一年が経とうとしています。私のクリスチャンとしての歩みは人間の成長と同じように、ようやくフラフラしながらもヨチヨチと歩けるようになったばかりですが、日々神様への感謝の言葉が口から出るような私に作り変えてくださった神様に心から感謝しています。

月報2006年1月号より

「二度目のアメリカ」

僕は神様、イエス様に出会ってから沢山感じたことがあり、変わった事があります。
1つ目は、毎日祈るようになったことです。 洗礼を受ける前も毎日祈っていましたが、今は前よりも祈るようになりました。 今は1日に最低5回はお祈りしています。 ご飯の前3回と朝起きた時と、夜の寝る前です。 僕は夜の祈りが一番長くかかります。それは、1日の感謝とその日あった出来事、毎日家族ともお祈りしている事と、あと自分が言いたいことをお祈りしています。 2つ目は、いつも神様やイエス様が一緒にいて下さると言う事を知りました。 そして、いつも一緒にいて下さっている事で僕に安心感を与えてくださり、僕は1人でも大丈夫という気持ちになりました。

僕が、アメリカに来てすごく心に残っている集まりがあります。11月24日にNJの教会で中高生のLock Inをやりました。NJの教会の人と、NYから2人、そしてコネチカットからの4人が参加しました。 夜の9時にみんな集合して教会に泊まりました。最初はゲームなどをやって楽しくやっていました。 そして途中で証しをする時間がありました。 証しの時間で僕は、他の人の証しを聞いて沢山学んだことがあり、考えさせられた事、そして心に残る証しを5人の人から聞かせてもらいました。 まずその場で学んだことの一つは、証しをするのは「勇気」が必要だと言う事です。 自分の事を相手に伝えるのはすごい難しいことであり、凄い勇気が必要です。 それは、相手に自分の事を言ったら変な風に思われたりするかもしれないという思いが出てきます。 僕も他人に発言するときはついつい気にしてしまいます。 「これを言ったら嫌われるかも。」 「これを言ったら何かされるかも。」 などと気にします。 そして、言うには自分の前にある「壁」を越えなくてはなりません。 僕は今までこういった壁には何度も直面してきました。 だからその壁を越えるのは凄く難しい事だと言うのが分かりました。

次に学んだことは、教会は自分のかぶっている仮面を取れる所であるという事です。 僕は学校などではめったに泣きません。 ですが教会では泣けるような気がします。 教会に来る前に辛いことの考え事などをしていて礼拝の賛美の時になって賛美すると自然に目から涙が出てきます。 こういった事から教会では自分の仮面を外せる場所ではないかと思いました。 そして僕が一番大切だと思ったことは、相手を「信頼」する事です。 今僕の行っている学校では100%信頼できる友達はおそらくいません。 でも僕はこのような集まりにいる人達なら僕はその人達を信頼できます。 何故ならば、その人達はクリスチャンの人がほとんどで、そうでない人も教会にも通っていて神様やイエス様の事を知っているから僕はその人達を信頼して話をできます。 でも今回僕はその集まりで証しを出来ませんでした。信頼はしていましたが勇気が足らなかったのかもしれません。 次このような集まりがあったら是非自分から進んで証しをしたいと思います。 これから僕は、この集まりで学んだこと、思ったこと、心に残ったこと、そして今まで学んだことをもう一度しっかり考え直して、お祈りして神様と共に生きて行きたいと考えています。

月報2005年12月号より

「One Voice – 4年目の9月11日に思う事」

“Father we ask of You this day, come and heal our land.”
これは、 私たちの教会で4年前から、 しばしば歌っている曲の原詞の出だしの一節です。
あれは確か2001年の7月頃だったと思います。 教会のある方から 「日本で良い歌集を見つけたから、 うちの教会でも使いましょうよ」 ということで、アメリカやオーストラリアなどの教会で歌われている歌を集めた楽譜集をいただきました。 そして、 その中で最初に目が止まった曲が “One voice” という先程の一節で始まる曲でした。 しかし、 同時に私は原詞の中に歌われている肝心な部分が訳詞の中に反映されていないことに気がつきました。 それは実のところ、 教会で歌われている他の歌の中でも頻繁に起きていることなのでした。 原曲のメロディを優先させるあまりに歌詞の方を妥協せざるを得ないわけです。

ここで、 少し話をはずして理屈っぽいことを説明させていただくと、 私たちの多くの者にとっての母国語である日本語と英語の大きな違いの一つは音節にした時に顕著に現れます。 たとえば “I love you” は3音節ですが、 これを正確に日本語にしてみると “わたしはあなたをあいしています” となり、15音節にもなってしまいます。 これほど違うと同じメロディーには乗りません。 これはたった一つの例ですが、 他にも挙げてみてくださったら、 一つの曲の中で沢山語るのに日本語は圧倒的に不利であるということをご理解いただけると思います。 英語で1小節要らない内容に対して、 日本語では場合によっては4小節のメロディがあって初めて云いたいことが歌える、 ということがよくあるのです。 つまり “One voice” の歌詞の中で歌われている内容を原曲のメロディで、 そのまま日本語でも全部歌い切ろうとするならば、 同じ曲を3、4回歌わないとならない単純計算が成立してしまうことになります。

英語の“I”や“you”にのように、 よく使われる言葉で、同じように日本語で一音節で済む言葉がどれだけあるでしょうか? “歯”とか“毛”なんてあまり歌には出て来ませんね。 教会の歌なら“目”とか“手”などなら使えるでしょうけど、 体の部位を並べても歌にはなりません。 要するに言葉としてどちらが良いとか悪いではなく音楽的に不利な言葉だということが云えるでしょう。 歌われる内容によっては、 8小節まで聴いて初めて内容が呑み込めるということもあります。 それが音楽の中での日本語なのです。 ちなみに日本語で少ない音節で済む音楽的な言葉は、実は文語体に多いようで、 そのため教会で歌われる讃美歌や聖歌は、 訳される際に文語が多く使われたのかも知れません。 しかし現代においては、 文語を理解しにくい世代が多くなってきましたよね。 私もその世代に属しています。

そんなわけで、 その歌集で訳詞をされた方も苦しんだあげくの訳をつけたというのが真相でしょう。 そして、 残念なことに冒頭に紹介した一節は決して取り除いてはいけない言葉であったのに、 その訳には表現されなかったのです。 気持ちはわかるけど本当に残念だなぁと思いました。 そこで自信はなかったのですが、 「この歌詞を訳し直してみます」 と提案して、結果的に最初の一節をこのように訳してメロディに当てはめることにしたのです。
“この国をあわれみ、癒してください”
実際に教会で歌うようになったのが、 その9月9日の礼拝でした。 その2日後にあの日がやってくるとは誰も知りませんでした。

私たちは時に、 いつも語っていることや思っていること、信じていることと正面から向き合わないといけない場面に遭遇します。 それをわきまえたうえで、 私たちがクリスチャンとして語る言葉、 歌う歌、 そのすべてに正直でありたいと願っています。 “One voice” この歌を演奏する度に、 私はあの日を思い出し、 私たちに最善を用意していると約束しておられる神様を見上げるのです。

そういえば英語の歌の中で、 神様を表す “You”や“He, Him”などは、 文頭になくても必ず大文字で書かれますね。 気がつかれた方もおられるでしょう。 他の誰でもない、 唯一の神様を表しています。 私たちも賛美を歌う時に、 この歌の対象は誰なのかを意識しながら歌詞を味わうのも悪くないですね。礼拝や各集会で、 さらに音楽の時間を楽しみましょう。 “彼”は、 もっと楽しんで聴いておられます。

月報2005年10月号より

『本音の祈り 「時を忘れて」』

次の歌も私の代表曲となった歌です。 『時を忘れて』と言う歌です。 イエス様を信じたのは1978年。病気を通して、またキリスト教のラジオ番組を聴いて聖書を頂き、 その番組を通して教会を紹介していただきました。 山口県生まれの岡山育ちですが、 その当時は岡山に住んでおりましたので、 岡山聖約キリスト教会を紹介していただきました。 そしてその年のクリスマスに洗礼を受けました。 当時、 私が持っていた悩みは、病気で将来に対する不安があったということ、 両親が中学3年生の時に離婚しまして、 親に対して憎しみを持っていました。さらにその憎しみや病気のことを取り除いたとしても、 私にはもう一つ大きな問題がありました。 それは罪責感ということでした。 罪の意識、 どうしてあんな事をしてしまったんだろう、という思いにかられておりました。 心の奥の奥から変えられなければ、私は幸せにはなれないと思っていました。 そのような心で聖書を読み始めて、 最初に心の中に入ってきたみことばは、『だれでもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』(コリント人への手紙第二5:17)でした。 この聖書のことばをいただいて、「確かに変わることができるかも知れない」という一筋の希望を持ちました。 「もっと聖書を読んでみよう、イエス様ってどんな神様なのかしら、 知りたい!」 という思いを強く持ちました。 そしてイエス様を知る中で、 私が心に持っていた罪の問題「どうしてあんなことをしてしまったんだろう」という思いから解放してくださるのはイエス様だということを知りました。 「罪から解放されたい、罪責感から解放されたい」ということが私にとって一番の問題だったのです。 イエス様が十字架にかかって、 私のそうした罪のすべてを赦してくださることをわからせてくださったことをとても感謝しています。教会に導かれ、 もっと深く罪のことを知りました。 まことの神様から離れていることが、 人間にとっての一番大きな罪であること、 そして個々に犯している罪、 罪には刑罰が伴うこと、イエス様が身代わりに私の罪と刑罰を負ってくださったこと、 救われたことの大きさや、 神様の愛の深さは、 今も私の人生を変え続けています。

【上京し、テレビ伝道に携わる】

その後、 1981年に「イエス様と一緒に働きたいな」 という思いが与えられて、 聖契神学校で学ぶために、 上京しました。きっかけは岡山で行なわれた聖会でのメッセージでした。 古山洋祐先生が講師でした。 ハガイ書を開いてくださったのですが、『あなたがたの現状をよく考えよ』 聖書ハガイ書1:7)、 このみ言葉が心に残りました。 自分の現状を考えて、 病気であるけれども、 身体が弱いという以外、 学ぶことには支障が無いのではないかということで上京して来ました。 そして3年間学ばせていただいて、 その後、 PTLクラブというテレビ伝道に導かれて中川先生とご一緒に働くことになりました。 でもそのテレビ伝道もいろんな問題を抱え、 現在PTLクラブはありません。 また私はその頃、 体調がとっても悪くなったことと、人間関係にも行き詰まって、 テレビ伝道団体を辞めました。 しかし辞めたくなかったと言うのが本音です。 でも、 今では神様のご計画だったことを確信しています。

でも辞めた後はとても辛い思いをしました。またクローン病の症状が本当にひどくて大変でした。今年のように’88年も寒い夏だったんですね。 思い出すと、色々な方がアドバイスをしてくださいました。 「甘いものを食べたら駄目、白米駄目」、「それでは、玄米食はいいかしら」 と玄米食にしたのですが、 圧力鍋も無いので普通に電気釜で炊いて、 硬いんですよね。 それでもあごの運動になるからと一所懸命噛むんですけどあごが痛くなって、 今でこそ笑い話ですが涙が出てきて、 食事をする時に悲しい思いをするのは嫌ですよね。 食事をする時は楽しい方がいい。 そしてたくさん食べることが出来ることがいいですね。 私は情けなくて神様に祈りました。 「私、食いしん坊ですから、食べて治します。よろしくお願いします」 と祈りました。 その時以来何でも食べることが出来ますが、 さすがにお腹の具合が悪い時は、 自分の内から控えなさいという信号が出るみたいです。 今日もしっかり「控えなさい」という信号が出て、 食べることが出来ませんが、 良くなりましたら取り返しますので、 その時はお食事に呼んでください。 このように、辞めた後はしばらく心の状態が良くなくて、 それでまた落ち込む。 でも信仰があるから落ち込むんですよ。 信仰がなかったら、 憂さ晴らしにお酒の一杯でも飲んで皆とパーッと騒いでね、帰ってきてワーッと泣いてね、 たぶんその繰り返しだと思うんです。 でも、 信仰があるから踏みとどまらないといけないという思いがあります。 人に対する批判的な思いも、 許さなければいけないと思いますよね。 しかし、 感情の闘いがありますね。 これが苦しいですね。 こんな本音の話しをしながらいつも歌っていますが、 私は、 本音の中に神様が働いていてくださる、 ということを固く信じています。 ですが、

皆さんは本音の部分を誰にも話さなくてもいいです。 ただ「本当の気持ちは、 こうなんです。 この私の本音のところにイエス様、来てください」 とお祈りして欲しいと思いますが・・・。 『時を忘れて』は、 10月号の『百万人の福音』のフォト&ポエムに掲載していただきました。 ’86年か’87年に書いた歌です。 長く歌っています。 私としては、 この『時を忘れて』の状態からはもう卒業していると思っています。 それでも歌うと、 まだまだ皆さんの心に届くということは、 それだけ多くの方が厳しい中を歩まれていることを思います。 その大変な中にイエス様が働いてくださいますように・・・。 卒業している、 といっても真理は変わることがありません。 目を閉じなければ見えないこと、 口を閉じなければ言えないこと、耳をふさがなければ聞こえないこと、 がありますね。 歩みを止めなければ会えない人が、 会えないお方がいらっしゃいますね。 このことを知ったことは私にとって貴重な体験でした。

_『時を忘れて』_

目を閉じなければ、見えない世界がある。
口を閉じなければ、言えない言葉がある。
耳をふさがなければ、聞こえない声がある。
歩みを止めなければ、会えない人がいる。
少しぐらい遅れたとしても
大切なものを見つけたいから
道であり、真理であり、いのちである主に
尋ね求める 時を忘れて

(山口博子姉のコンサートでのお話の中から、 ご本人の了解を得、 一部を掲載しています。 山口姉のコンサート・略歴は報告・お知らせをご覧下さい。)
月報2005年10月号より

「4月にワシントンDCからボストンに引っ越す時には…」

4月にワシントンDCからボストンに引っ越す時には、3ヶ月そこらでボストンを離れ、NYに戻ってこのようにおあかしを書くということは全く予想していませんでした。神様は本当に人間の考えも及ばないことをなさる方だと改めて思います。

3年間働いた会社を辞め、意気揚々とボストンに引越し、新しい生活と仕事を始めて間もないうちに様々な問題が出てきてしまいました。弁護士にも相談する事態になり、その結果新しい仕事を見つけて早急に転職するしかないとのことで、ボストンに引っ越して早々、再び仕事探しを始めることになりました。いつ仕事が見つかるのかわからず、本当につらい毎日でしたが、思い返すとGod is faithful and never abandon you.という言葉は真実だと思います。

―サブレットさせてくれている人がクリスチャンで、私の状況を考慮し、柔軟にサブレットの期間などに対応してくれました。8月中、面接の結果を待っている間Homeless状態になる私の荷物を快く地下に置かせてくれたりなど、もしもこんなに柔軟に対応してもらえなかったら、リースやらストーレッジやらでもっと大変なことになっていたと思います。

―ボストンではすぐに日本人教会に溶け込むことができ、またそこは同じ年代のクリスチャンが多かったので、十分すぎるくらいのサポートが与えられました。解雇された経験を持つ人も少なくはなく、クリスチャンとして、経験者として良いアドバイスと励ましがもらえました。

―ボストンの教会で一番最初に知り合った女性が、実は数年前に私の前の会社のボストンオフィスで働いており、実は以前にMeetingで会ったことがある人でした。彼女も同じような経験をしているので、本当に親身に励ましてもらいました。
それとは別にDCの方の紹介でお会いした女性も、だいぶ前に同じ会社のボストンオフィスで働いており、励ましをもらいました。

―本当に落ち込んで、泣きながら地下鉄に乗っているとき、たまたまその日にホームでギターを弾いている人がクリスチャンソングを弾いており励まされました。

―1週間のうちに、4回も違う形で違う人から聖書の同じ部分が示されました。へブル人への手紙11章。つらくなるたびにこの御言葉を読みました。

―同僚は本当に良い人たちで、いつも励まされました。

挙げればもっとあると思いますが、ボストンでの夏は、お金もなく、最後の方には無職に近い状態になってしまったので、今までで一番教会に通い、すべての教会行事に出席し、暇があれば聖書を読んで祈る生活でした。そうする中で神様に頼ること、本当に神様にゆだねることを学んだと思います。

就職活動をする中で、6月にNYでずっと夢に見ていた教育機関から面接の機会をいただいたのですが、面接が良い印象で終わり、本当にそこで働きたいと思うことがありました。神様に毎日強く祈ったのですが、そこで働けなければ生きていけないという感じの強い祈りでした。神様、今なら私はNYに行ってもあなたのために働けます。NYに戻ったら、これもこれもこれもやって、あなたに近づけるようにします。だからこの仕事を私に下さい、と毎日祈りました。1ヶ月ほど面接の返事はなく、落ち着かない毎日が続きました。しかし、結果のわかる1週間前、ふと、この仕事は私のものではないということを感じました。そのとき、あんなに欲しくて欲しくて、泣きながら祈っていたのがうそのように静まり、「神様はこの仕事は望んでいない」と不思議に平安を感じることができました。結果はやはりだめだったのですが、まわりの人が驚くほど私が落ち着いていたので、神様が私の心を準備なさっていたのだと思います。同時に、自分が勝手に「神様これをくれたら私はこういうことができるんですよ。そうすれば神様はうれしいでしょう?」と勝手に神様に家を作ってあげようと決めたダビデのような状況になっていたことに気づきました。すべては神様が決めるのであって私が何をするかを決めるのではないのです。

その後もNY,Boston,DCを中心に面接をしていましたが、ボストンに残るのかなあと感じるようになりました。
ひとつボストンでうまく行きそうなところがあったので、私は勝手に自分で「何日までに決まれば引越しなんかもちょうどいいかな」とプランを立てていました。しかし、そこの選考プロセスも私が思ったようには進まず、結果がわからないまま、ボストンでの仕事を辞め、アパートを出ることになりました。面接の結果待ち中にホームレスになり、仕事もなく、どこに行けばいいのかもはっきりしない状況だったので「神様いつまでこんなはっきりしない状態が続くのですか?」と思っていましたが、ボストンを去る数日前、NYのある教育機関から電話があり、面接に来ないかと聞かれました。Applyしたのがだいぶ前だったため、どのポジションに応募したのか、どんな会社なのかも思い出せなかったのですが、ホームレスなので、NY経由でDCの西郷先生の家に行こうと考えていたため、ちょうどいいタイミングということでNYで面接を受けました。私の期待に反してそこはとても印象の良い会社で、面接を受けて数日後にオファーをいただきました。そこから手続き関係で時間がかかり、ようやく9月13日から仕事が始まるのですが、そのおかげで西郷先生の家に1ヶ月も滞在することができ、子供夏期学校をはじめいろいろな奉仕をすることができたことを本当に感謝しています。西郷先生の家での時間は朝から晩まで神様を第一とする生活で、ものすごく忙しい毎日でしたが、西郷先生たちの神様に対する熱意が本当に伝わる生活に加わることができとてもうれしいです。

この数ヶ月間、短い期間にいろいろなことが起こり、たくさんの人に出会い、いろんなことを感じたので文章できちんとまとめることができるかわかりませんが、今回神様は本当に神様の計画を持っていて、私が自分で考えた計画というのはなんのあてにもならないことを学びました。また、ボストンで同じ年代のクリスチャンたちとの交わりを持てたことも本当にすばらしい体験でした。そして、私は今まで大学も仕事も人間的に見たらいわゆる「良い大学、安定した職業」についており、それは自分の努力や能力で達成したという気持ちがどこかにありました。しかし今回、教育分野で働くことに迷い、ボストンでの建築オフィスでの仕事に移り、その中で困難に会うことで、自分がやっぱり国際教育の分野で働きたいということを再確認できたことを感謝します。今回NYで得た仕事は私の努力でも何でもなく、本当に神様が私に与えてくれた仕事だと思うので、大事に毎日神様のために働きたいと思います。今後また様々な試練があると思いますが、どんなときも神様はFaithfulで決して私たちを見捨てたりしないということを実際に体験したのでいつも神様の計画を信じていきたいと思います。

月報2005年10月号より

「EXODUS で受けた恵み」

この夏、私は今年からMessiah College の一年生になる生徒たちのために行われたbackpacking trip に参加しました。そのプログラムは ”EXODUS” 神様が守ってくださると約束された土地に行くために荒野の中を旅をする、と言う聖書の「出エジプト記」と同じテーマのものでした。10日間完全に文明から離れ、シャワーもトイレもない中、毎日 森のど真ん中でcampsite を作り、重い荷物を背負いながらハイクをし、神様が私たちに与えてくれた素晴らしい自然の中で leadership trainingを受けながらお互いのfellowshipを深めることが目的でした。でも本当は行く直前まで、こんなの本当にできるかな? と悩み、キャンセルするつもりでした。でもディレクターの人と話し、『絶対良い経験になるから来なよ!』と励まされ、結局行くことに決めました。でもその時はどのようにして神様がこの旅を私にやり遂げさせてくださるか全く分かりませんでした。

初日は一日中準備をして、ペンシルバニア州にある大学から3時間ほど離れた森の中に行き、美しい星の下で寝ることが出来ました。二日目からハイキングが始まり、5-6マイルのコースを歩いた後、毎晩違う場所に寝ました。思っていたキャンピングとは全く違い、何もない森の中に入り、生徒たちで寝れそうな場所を選ばなければなりませんでした。ビニールのシーツとロープ四本でテントらしき物の作り方を学んだりしました。また食料は、熊が来ないよう高い木に吊るさなければなりませんでした。そして、毎晩バイブルスタディの時間がありました。その中で、私達人間は、神様が創造されたこの大自然の“管理人”としての役目を神様からまかされていることを学びました。はじめ、森での生活は、食べ物も残り物を出してはいけないので全部食べてしまわなくてはいけないとか、使ったトイレットペーパーも持ち帰らなくてはいけないとか、なんて厳しいんだろうと思いましたが、神様が作られた自然を守り育てるためには、やらなければならないことだとわかりました。

そして、毎日変わりばんこで生徒二人がペアーになり、 “leaders of the day” (L.O.D.) となりました。その二人だけに時計と地図が与えられ、「今夜はこの辺に泊まりたいからどうにかして午後4時までにみんなを無事にここまで連れて行くんだよ。」と大人のリーダーに言われるだけでした。ハイクの途中間違えて LOD が違う方向に行ったとしても、大人たちは何も言いません。責任は全部その日のLODのもの。どこで休むか、どこで水を川から汲んだら良いかも全部LOD が決めます。私が初めて LOD だった時は、地図に書いてある様々な川が乾いてしまっていたため、水を汲もうと思っていた場所が使えず、計画していたことが台無しになってしまいました。でも神様は力と知恵を与えてくださったため, 無事皆をリードすることが出来ました。

ハイキングの他に、一日  “solo experience” と言う物も体験しました。それは、断食しながら24時間森の中で全く一人で過ごす時でした。皆それぞれ離れた場所で、寝袋、聖書、雨具、そしてテント代わりのビニールだけを持ち、祈ったりデボーションをしました。その間、たぶん聖書を半分ぐらいを読むことが出来たと思います。でも、長い間何も食べていなかったのでめまいがして、気分が悪くなってしまい、日が暮れる前に笛を吹いてリーダーに助けを求めました。でもそんなついらい思いをしても本当に恵まれた時が持てました。毎日の生活の中でどれだけの物が与えられているか、どんなに神様は私たちのことを愛してくださってこの地球を創造してくれたかが改めて分かりました。そして、鳥と虫の声以外完全に静かな場所にいたため、聖霊様が風となり、私の心に優しく「愛しているよ」と語ってくれるのを感じることが出来ました。人生の中で一番平和で落ち着いた時が持てました。

でも、一番神様の奇跡を体験したのは、2回目にLOD になった日でした。その日は突然 「今日は生徒だけの日です。僕らリーダー達は明日の夜までいなくなります。」と言われてしまい、頭の中では 何-?? と少しパニックしましたが、パートナーのクレッグが、「大丈夫だよ。地図とコンパスもあるし、僕ら二人なら出来るよ」と励ましの言葉をくれました。最初の内は皆のんきで、平らな道を歩きながら、「何だ、この位だっだらリーダーたちなんて要らないね!」、と言っていたのすが、道が狭くなり崖のような所を歩いている間に、何と3箇所も蜂の巣に出会ってしまいました。初めの2回は、皆1~2箇所刺されたのですが、3回目は、運悪く、蜂は私の所だけに来て、何十匹の蜂が映画のように私を襲ってきました。走ろうとしたけれど、シャツの中に入るは、長ズボンの中にも来るし、何十箇所も刺されてしまいました。しかし、今いる崖の所からリーダー達に助けを求めてもどうにも出来ないので、とにかく日が暮れるまでに普通の道路の所まで行かなければならない、と思い、頑張ってクレッグと一緒に先頭を歩きました。その間、皆は心配して、私の荷物を分け合って持ってくれました。暗くなった後リーダー達に電話し、夜中に来てもらいましたが、私はその時、本当に具合が悪くなってしまい、もうこれでこのままここで死んでしまうのかと思ったほどでした。それに気がついてくれたケイトは、夜中中2時間おきに私がまだ呼吸をして生きているかどうか起してくれました。そして翌朝まだ疲れて気分が悪かった私を皆寝せてくれて、クレッグとケイトはチェックしに来たり、ご飯を持ってきてくれました。

本当にその日は神様に守られたと思います。沢山の蜂に襲われ、森の中で何も治療をしなくても助かったのは、神様が守ってくれたとしか考えられません。そしてまた、神様は素晴らしい仲間達を与えてくれたと思っています。参加した生徒は6人だけでしたけれど、初めて出会ったこの仲間に一人一人違う面で助けてもらい、励まされました。皆神様に特別選ばれた子達のようでした。その日だけではありません。この旅の間、ずっと神様に守られて愛されました。何よりも、体が小さな私が25kg 以上のbackpackを背負いながらずっとハイキングを出来たことは、自分の力ではなく、神様が私を通して働いてくださっていたからです。この旅の間中、私を支えた聖書のみことばは、
「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲の様に翼をかって登ることが出来る。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」― イザヤ書 40:31-でした。
そして、教会の人たちや家族が毎日この旅のために一生懸命祈っていてくださっていたのも大きな力になったと思います。本当に祈りの素晴らしい力とそれを聞いてくださった神様は、今も生きて私を支えてくれているんだと感じました。
最後に私が好きなクリスチャンシンガーの歌(旅の間、心の中で歌っていました)を紹介します。

“When I call on Jesus, all things are possible. I can mount on wings like eagles and soar. When I call on Jesus, mountains are gonna fall. “Cause He’ll move heaven and earth to come rescue me when I call.” -Nicole C. Mullen

本当に神様、そして皆様の祈りに感謝します。

(礼拝で英語通訳のご奉仕を努められ、 今回お証を書いて下さった市ノ渡真奈姉はメサイア・カレッジ入学のため、 ペンシルバニア州グランダムに引っ越されました。 姉の新しい歩みのためにお祈り下さい。)

月報2005年9月号より

「クリスチャンホームに生まれた者の遠回り」

私はクリスチャンホームに生まれました。
私が生まれた時, 父はもう牧師を辞めてジャーナリストになっていましたが、大学は神学部を卒業、戦前は牧師だったと聞いています。母は父が神学生時代に教師をしていた教会学校の生徒だったと言う関係でした。

そういう事で教会と言う所は物心がついた時にはすでに生活の一部でしたので、 教会を遊び場として、礼拝堂の裏を走り回ったりして我がもの顔で遊んでいましたし、又、教会学校では話を最後まで聞かず、聖書の大切な箇所を先生が語られる前に結末を先に言って邪魔をしたりしていました。

しかし、反抗期に入るに従い、教会に集まる信徒の方々の言動・行動が偽善者のように感じたり、父の後輩にあたる牧師先生の裏表を見て幻滅を感じる様になって行きました。いつからか自分の教会には行かず別の教会に行ったりしていた時もありはしましたが次第に足は遠のいて教会にはクリスマスとイースター位しか行かない状態になっていました。

ただ、神様の存在は漠然とは信じていました。そしてイエス様は十字架に掛かって我々の罪の身代わりとして死んでくださった事は「知識」としては知ってはいましたが、自分とは関係がない話の様で、 聖書の内容もおとぎ話の様にただ記憶として入っているだけで、それが全部関連付けられて一つになることはありませんでした。

大学を卒業してからある小さな商社に就職しました。大変な就職難で大きな会社には入れませんでしたし、 大学の時にグリークラブ(男声合唱)の演奏旅行で行ったアメリカに住みたくて、その会社なら早く、駐在の可能性があるかも知れないと言う理由で決めた様なものでした。

会社に入って2年めで早くもチャンスは来ました。上司から、海外出張に行ってみないかとのチャレンジを与えられたのです。

同じ会社に居た、高校からの親友と二人でどちらが初海外出張の最年少記録を塗り替えるかと競争しようと話し合っていた矢先だったので、もちろん、その申し出を受けて準備を始めました。

出張先は、パキスタンでした。私は単純に、「選ばれた」という様な変な「錯覚」にとらわれて、有頂天になって一生懸命準備に取りかかりました。そして、出発の数日前に当時、営業責任者であった常務に上司とも一緒に呼ばれ出張の打ち合わせをしたのですが、その常務が打ち合わせの中で「何もまだわからない、経験も無いこんな者を出張に行かせるなんて何を考えているのだ。」 と上司に向かって突如、怒り出しました。それから私をそっちのけで上司と延々と議論を始め、喧嘩寸前の言い合いにまで発展し、自分が行くのは大変なことで 「失敗したら会社には居れない!」とまで追い込まれ、一転、プレッシャーのかかった気の重い結末となってしまいました。

単純な男ですので、それまでの「選ばれた」なんて思っていた「変な自信」はあっけなく砕かれてしまいました。 上司は新人を育ててやろうと思ってチャンスを下さったと思います。しかし、それまで新入社員を厳しい指導で辞めさせていたと言う「新人殺し」としてのうわさが思い出させられて、その上司が私を早く辞めさせる為の罠だったのではないかと疑いだしたりしました。今さら止めるとも言い出せず、会議の終わりには出張がうまく行かなければ責任を取って会社を辞めなければならないと悲壮な思いになっていました。

いよいよその日が来て、 まだ海外出張の珍しい時代(1977年)でしたので会社の社員と家族に見送られて出発しました。大阪伊丹空港、フィリピンのマニラ、バンコク、カルカッタを経て真夜中にやっと現地に着いてみると、航空会社でチェックインしたトランクはパキスタンには届いておらず、パリに行ってしまっていました。着いてから、英語も大してわからないのに、夜が明ける頃まであちこちたらいまわしにされて、やっとクレームのフォームを記入して、着のみ着のままで、仕事の書類のぎっしり詰まった書類鞄だけでその出張が始まりました。

食事は、どこへ行っても不潔きわまりない薄汚れた食器で出てきて、すさまじい匂いと、何を頼んでも質の悪そうな油の中に浮いていて、なんとか食べようと思っても喉がきゅっと締まって拒絶状態に陥り、全くのどを通らず、一昼夜何も食べられない状態でした。猛烈な暑さと湿気と匂いの中でお客を廻り、食事も食べれない状態で、いったいこれからの20日間、たった一人でどうなるのかと不安になったのを覚えています。もっとも人間とは良く作られたものでそのような状態が一昼夜続くと、その翌日から少しずつ食べる事が出来る様になりました。

しかし、今度は為替が大きく円高に変わり、本社からはいままで受けていた注文の残り(注残)を全部値上げせよとの命令が来て、全ての注文の残りの値上げが出来るまでは帰ってくるなとのテレックスが入ってきました。

受注どころの話ではありません。毎日、延々と時間をかけて値上げ交渉、そして、新規注文交渉と顧客を廻るのですが、 交渉は難航して疲れきってホテルに戻るという毎日で、ただ、むなしく日だけが過ぎて行きました。

とうとう、2週間程経ったある日、心身共に疲れきって、登校拒否の子供の様な状態になって、仕事に行く気がせず、ベットでやけになって大の字になって寝そべって、 「もう駄目だ、もう駄目だ」、「会社も辞めさせられる・・・、」 「自殺した方が・・・」 とつぶやいていました。 暗い穴の様な所に落ちて行く自分を見て居る様でした。 長い間、 同じ事をぶつぶつ言っていたと思うのですが、言い疲れて、放心状態になって居た様ですが、しばらくして、 ふと別の思いが出て来ました。

自分の出張の是非を巡る上司同士の言い争い、荷物が紛失し、食事が食べられず、為替の急騰、等々あまりにも偶然に悪い事がこんなに一度に重なるのは誰かが特別の思いをもって、意志を持って、自分にぶつけて来ているのではと、急に思わされ、最終的に、これは自分を「だめ」にするのではなく、「試され」ているのでは? という思いに変えられていきました。

そして次に思いついた事は「 ひょっとしたら、神様がなさっているのかも知れない」でした。そう思い始めると、どんどんその思いが強くなり、暗かった心の中に突然、光がさして照らされるような、何とも言えない熱い喜びが沸いてきているのを感じました。それまでは悪態の限りをつぶやいていたのに今度は一転、何年もしていなかった祈りの気持ちが溢れてきました。「神様、自分はこんな方法で試されるほどに、あなたから愛されていたのですね。・・・ありがとうございます。」と言う様な祈りだったと思いますが、その感謝の「祈り」とも「つぶやき」ともわからない事を何度も繰り返し、していたのを覚えています。

最終的に、この出張がもし神様ご自身が仕掛けられたのだったら、たとえ失敗に終わっても何か別の道が絶対用意されているのだと強く思わされました。そうすると絶望的だった心がすっと軽くなるのを感じました。

それから不思議な事が起こり初めました。翌日からは苦労していた値上げの交渉が進むようになり、注文も少しずつではありますが取れる様になりました。最終的に、1週間の滞在延長を申請して、値上げが出来たばかりかその地域での新記録の売上になる注文を持って帰ることが出来ました。仕事の方法が変わった訳でも特別な能力が与えられた訳でも無く、明らかに何かの意思で物事が変わって行く今までに無い体験でした。

その時から、「神様は絶対に居られる事、そしてこんな取るに足らない者でも特別扱いして愛してくださり、 訓練をして下さる。」との確かな思いが与えられました。その後、あちらこちらと中近東を一人で出張して、 いろんな目にも会い、問題に突き当たる事も多々ありましたが、その都度、訓練の時と信じて進む時 いつも、 守られ、回答が与えられて来ました。

そんな経験をしてから数年後、 父が脳血栓で倒れ、 2年半闘病の後、 亡くなった事も、 全てが家族一人一人への意味のある、 訓練の時であり、 自分達を愛するゆえに神様ご自身が許されてそれが起こっていると心から思わされましたし、 その様になりました。
又、体が動かせず、 失語症になった父が、他の患者とは違ってその苦しさを表にはださず、周りの者ばかりを気遣う姿を見ることができ、クリスチャンとは凄いものだと思わされました。

その頃の私は、信仰は自分と神様の個人的な関係なので自分さえ信じて神様につながっていれば洗礼を受けなくても良いと思っていました。しかし、父の死をきっかけに、子供時代、偽善者だと思っていた教会員の方々のさりげない配慮のある行動を見て、自分には出来ない、他の人に対する愛を感じ感謝しました。そして、一人よがりの信仰では何も成長出来ない自分の弱さを知らされ、教会に繋がって神様に仕えて行くことが、これらの信仰の先輩方のように成長していく秘訣だと信じ、イースターに洗礼を受けました。28才とずいぶん遠回りをした洗礼式で、教会員の方々の涙を見て、自分の知らない所で多くの方の祈りが積み上げられて来た事を知り、 心から感謝をしました。

洗礼を受けてから、教会生活を始めて、自分がいかに強欲で汚い、罪深いものであるかがだんだん心からわかる様になり、その為にイエス様が十字架で死ななければならなかった事も実感として思わされ、それまでのばらばらでただの知識だった聖書の箇所がだんだんがひとつになり、イエス様の十字架の意味が実感として判るようにさせていただきました。

色々な方が色々な形でイエス様に出会い、クリスチャンになられますが、私は「本当に凄い方に愛されている」と言う暖かい、心の中に日が差して行くと言う実感で始まりました。 神様が個性の違う人それそれぞれの為にご用意下さっている特注の愛に感謝します。

歳を取るに従って、益々自分の汚さが自分自身に明らかにされて、何も変わっていない罪深い者である事を思い知らされる事が多いのですが、その時、そのような者をそのままご自身の命とひきかえに、許そうとされたイエス様の愛の大きさに感謝します。そして仕事においても、個人の事においても家族の事においても、全ての辛いことを通して何かを与えようとしてくださっている神様の愛を思うとき大きな喜びと信頼感を持つことを得させてくださっています。

ヘブル12章6節~10
「主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。
あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。(中略)肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。」

ヘブル10:章35~36「 だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。 神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。」

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『イエス様と歩む喜び』

イエス様は、僕の罪のために十字架にかかって死んでくださり、それ程までに、僕を愛してくださった。罪の全てを消し去って希望を与えて下さったその十字架の愛に答えたい。イエス様からいただいた希望を力にして仕えていきたいと思うようになっている。
この希望を実感する場になったのが、英語を学ぶために行っていた語学学校だ。僕が通った語学学校では、 様々な国の人がいて、皆英語を学ぶ目的で来ている。
その語学学校では、月曜日になると必ず聞くことがある。「週末は何をしましたか。」
実は、僕は日本人学校にいるときから、他人に「日曜日に教会に行った。」と言ったことがなかった。もしかすると言いたくなかったのかもしれない。だからその時もあいまいに答えた。しかし、ある何人かの韓国人が、 「教会に行った。」 と口々に言った。彼らの言葉が、僕に希望を与えた。人に、自分はクリスチャンであると言うことに抵抗があった僕にとって、心が開かれた瞬間であった。
またさらに別の日、ある韓国人はこう言った。
「アフリカに行って、ゴスペルがしたい。」このような言葉は、僕に勇気と希望を与えてくれた。彼は、本当にイエス様だけを信じて従っているから、そのようなことが言えるのだと思った。イエス様の光を信じて歩んでいる姿を見ていると僕も心から喜びがあふれてきた。彼を尊敬すると同時にイエス様の素晴らしさを知った。英語を学びに行った僕は、同時にイエス様のことを学んでいた。また、そこにはクリスチャンの先生もいらっしゃった。 その先生との個人的な会話で先生は言われた。「It is important for us to know the God in our life.」 同感だった。そのままそう感じた。そして、その時クリスチャンであるということの特権に感謝し、喜びが満ちあふれてきた。
ビリーグラハム大会で、僕は、日本語のプラカードを持つ係になった。横にも「カミール」と書いてあるプラカードを持っている中学生ぐらいの男の子がいた。その彼と話す機会があった。彼は、インドのクリスチャン。僕は、正直、驚いた。クリスチャンが決して多くないインド。クリスチャンが全世界にいて、全世界でイエス・キリストを賛美している。文化、国民性が全く異なる場所でもイエス様によってつながっている喜びを感じ嬉しくなった。
世界中で賛美されるほどイエス様は偉大な方。世界中どこを見てもクリスチャンはいる。これは他ではない唯一の神様であるという証拠だと言える。ビリーグラハム大会で痛感した。
もう一つ僕にとって喜びを感じることがある。それは友情である。教会の友達はやはり特別なものだと改めて思う。どんなときでも受け入れてくれる。どんなときでも頼れる。どんなときでも祈ってくれる。そのような友達が周りにいるということが喜びをくれる。イエス様を通して兄弟であるクリスチャンの仲間がいることに感謝したい。
これから僕は、イエス様の御名だけを信じてこの心から湧き上がる喜びを世界中に伝えていきたい。それがイエス様の十字架の愛に対しての答えであると信じて。
「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」 マルコ16章15節
「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝を持って祈と願いとをささげ、 あなたの求めるところを神に申しあげるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いをキリストイエスにあって、守るだろう。」ピリピ人への手紙4章6節7節
全世界に出て、福音を伝えていく。試練のときには神様に祈って生きていきたい。
韓国語では神様のことを「ハナニム」という。これは、三位一体である神様だから、「一」と言う意味の「ハナ」を含めた「ハナニム」と言うようだ。世界で唯一の「ハナニム」に委ねていきたい。
これからも神様の恵みを全て受けることができますように。

月報2005年8月号より

6.「帰国後のクリスチャンとしての歩み」

主イエスを信じること、毎週日曜日に教会で礼拝を受けること、これらは私には平安の時を与えるものです。人は愛されると思うことが喜びであるというのは本当にそのとおりだと思います。そして主イエス様が生きておられると信じること、 これによってそれが叶えられるわけですから、 そのことを教えていただいた錦織牧師に感謝するとともに、そのように導いていただいた主に感謝しています。

洗礼を受けたあと、 帰国に向けて引越しを行いました。 丸三日掛けての引越し作業でした。 木曜日に日本に向けて帰国しました。金曜日の夕方に到着した後、 土曜日はガスの開栓、 ケーブルTVのセットアップ、 電話のセットアップ等々であっという間に一日が終わりました。

ケーブルTVのアレンジは帰国前に連絡を取っていましたので、帰国した翌日に使えるようになりました。 インターネットのセットアップのアポはTVセットアップの時にして下さいという説明を受けていました。 そのためインターネットでの情報収集は直ぐには出来ないだろうと諦めていました。 ところが、ケーブルTVのセットアップと同時にインターネットも開設していただきました。 ケーブルTVに限らず、 日米を問わず、 この種のカスタマー・サービスによる説明は必ずしも実情を正確に表していないことがよく有ります。 結果的に良い方向で間違いが分かるというのは大歓迎です。 そのお陰で錦織牧師から薦めていただいた大阪一麦教会のホームページにアクセスが出来まして、 礼拝のスケジュールが分かりました。その結果、 翌日の日曜礼拝に早速出かけることが出来ました。 些細なことですがこれも主の導きだと思っています。
一麦教会ではニュージャージー日本語教会のような生演奏による讃美は行われませんが、 ピアノあるいはオルガン伴奏による讃美が行われます。 富山の一麦教会で牧師をされている原村牧師のご兄弟が最近天国に召されたとのことで、 この日の礼拝ではその時のことを紹介されていました。

礼拝の後、 同じマンションにお住まいの杉山姉と交わりの時間を持つことが出来ました。 姉妹は土曜日に英会話教室のお世話をされているとのことで、 私がニュージャージーに赴任していたとい言うことから英会話教室へのお誘いをして頂いたのがきっかけで、その後姉妹から英会話の案内を含めて色々な案内を封書に入れてマンションのメールボックスに届けて頂きました。 その中に大阪クリスチャンセンターでの講演会の案内が含まれていました。 元カネボウ取締役の三谷兄の証の講演とともに向日かおり姉による特別讃美が行われるという案内でした。 実は帰国前に梅本兄から向日かおり姉のことを伺っており、 杉山姉からのご案内に同姉妹の特別讃美のことが記されていたことには驚きました。 このような偶然に、不思議な神からの導きを感じざるを得ませんでした。

講演会は大阪朝祷会主催でした。 前半は向日かおり姉の特別讃美が行われました。向日かおり姉のゴスペルはCDで聞く以上に声量の大きさが印象的でした。 全部で8曲を唱歌されました。 「あなたのそばに」、 「アメイジング・グレイス」、 「主の祈り」、 「強くあれ、雄々しくあれ」、 等々。 特に最後は司会の方の配慮でアンコールがあって、 そこでニュージャージー日本語教会の2月の讃美歌であった「きみは愛されるため生まれた」を讃美されまして、ニュージャージー日本語教会での色々なことを思い起こしながら、私は胸が熱くなる思いでした。 このような喜びを与えて下さった主に心より感謝します。

三谷兄の証は「逆転勝利の人生」と題する自叙伝に基づいたもので素晴らしかったです。 一回ではなく何度か、 降格・左遷の憂き目に合いながらも、 最後はカネボウ薬品の社長、 会長も歴任され経営手腕を発揮されたとのことでした。 兄弟はこれも偏に主を信じて、 主とともに人生を歩まれた結果、 逆境にあっても常に心の平安を持って物事に対処できたと言うことを述解されていました。

講演会の席上、 三谷兄も向日姉とも直接お話しする機会はありませんでしたが、 以前ニュージャージー日本語教会に来られた事があるということを後ほど知りました。 私は3ヶ月という短い期間しかニュージャージー日本語教会に伺うことが出来ませんでしたので、三谷兄と向日姉にニュージャージーではお目にかかることが無かったわけですが、 日本に帰国してからこのような機会を得ることが出来たことも神によるお導きであり、 あらためて主に感謝しています。

日本でクリスチャンとして歩むのはアメリカで歩むより困難が多いと伺っています。 これから何処の教会にするかを決めてと思っていますが、 これもイエス様の知るところです。 果たして何処の教会に行くと思われますか?? 私は、 主イエス様を信じて、 主の愛と救いを享受しながら、 これからの人生を楽しくすごしたいと思っています。

追記: 皆さんからメッセージを頂くときに、 聖書からのみ言葉を一緒に頂くことが良くあります。 皆様からご紹介いただく御言葉は全て心に残るものばかりです。 私もそのようなことがしたいと思っていました。 先日参加した教会の礼拝の中で参考として引用されていたローマ人の手紙13章を読み返している時に良い御言葉に出会いました。 New International Versionで読み返している時のことなので、 敢えて英語で紹介します。”…Love your neighbor as yourself.” Love does no harm to its neighbor. Therefore love is the fulfillment of the law. (Romans 13: 9-10)

主に在りて

月報2005年6月号より

5.「信じること、救いと受洗」

受洗という言葉を始めて伺ったのが実は愛餐会のときに三村兄と一緒にポトラックパーティーの食べ物を取るために列に並んでいる時でした。今から思えばこれも主の導きでした。もし三村兄と一緒に食事を取るために並んでいなかったら、受洗の恵みを授からなかったかもしれません。そしてその後の週にお二方の受洗式に立ち会うに及び、私も導かれたいと強く思うようになりました。

それから私が洗礼を受ける決心をするまではいくつかの紆余曲折がありました。ひとつはお墓のこと。ひとつは時間的なこと。一番大きかったのは自身の気持ちだったでしょう。

まだ十分に決心がついていない状況でしたが、錦織牧師とのman-to-manの学びが始まりました。学びの中で、牧師は余り難しいことは言われませんでした。ただ、イエス様が私たちの罪を負って、十字架に掛かられて、三日の後によみがえられ、今も聖霊様を通して、私たちと共に居られることを信じなさいということでした。それから、私たちは罪深い存在なので、それを主の前で悔い改めなさいとも教えていただきました。

私にとって、すぐに主を信じることが出来るようになっていたのは、その時点で自身の無力さを悟っていたためかもしれません。それまで自分が如何に自惚れていたか、如何に自信を持ちすぎていたかが、直ぐに分かりました。そのため悔い改めることに余り抵抗がありませんでした。また、2000年前に十字架の後復活した主を信じること、それによって主より愛され救われるということ、これらも私にはたやすい事でした。

そして、2005年2月20日に錦織牧師の手によって主に祝福されながら洗礼を受けることが出来ました。洗礼を執り行って頂いた錦織牧師とともに主イエス様に感謝しています。

(神林兄の証は4月号の月報からの続きです。 この後次回の6月号の
月報で完結です。)

月報2005年5月号より

「神様との会話」

少なくとも私にとって、神様との会話は、ほかの誰かとの会話とは随分違うものである。

“あ”と言えば“うん”と言うように、すぐに反応があるものではなく、返事が自分の思いと全く違う方向にころぶことも多い。こちらからの語りかけは、かなり自分の都合を並べたものが多い。そして最後に取ってつけたように、ご用のために何かできることがあれば..、などと言ってる。それなのに、神様からのメッセージは、いつも驚くばかりに不思議な形で届けられる。人の目にそれは“まるで一方通行どうしの会話”と映るのだが。

或る時は、誰かとの会話の中でひらめきを与えられたり、礼拝や集会のメッセージから励ましを得たりする。聖書を読んでいると心に響く聖句に出会う。“聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅い者であれ”(ヤコブ1:19)と、ただ人を諭すだけでなく、神様は、勝手な祈りを辛抱強く聞いて下さり、祈りが自分のことばかりなってしまう時には、或る人々のことを脳裏に浮かばせ、自我の思いを阻む。ハッとして、この人のためにも、あの人のためにも祈れということだ、と理解し、指し示しめされた人々のために懸命に祈りを始める。

或る日、新しい仕事のことで小さな悩みを抱え、直ぐにでも答えが欲しい時があった。教会に行くも当番で聖日メッセージを聴けないことが分かっていた。そんな時、礼拝前の勉強会で答えとなるみ言葉に出会った。“知恵の欠けた人がいるなら、その人は、誰にでも惜しげなく、咎めることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし少しも疑わずに、信じて願いなさい。”(ヤコブ1:5-6)励まされ、気持ち新たになることが出来た。それ以降、“このしもべに知恵を与えたまえ”という心からの願いは、主の祈り、ヤベツの祈り共に通勤電車の中で捧げる祈りの一つとなった。

真っ直ぐに答えが出る時もあるし、ヒントを感じるだけの時もある。メッセージをもらった、と喜んでも、暫くすると同じような問題に再度ぶつかることもある。どうして人(私)は反省しても、すぐ同じ失敗を繰り返してしまうのだろうか。そんなことを考えていると、アフリカ女性伝道者が車内に乗り込んで来た。”Jesus loves you! Jesus died for your sin and for my sin, too…”下手な英語で彼女はしきりに繰り返していた。“そうなんだ。もう何度も聞いていることだけれど、まさにそれなんだ。”三浦綾子さんがかつで言っていた。“人間の一番大きな罪は自分と他人を計る物差しが違うことだ”、つまり自己中心の罪ってことを。同じことを繰り返し、進歩の見えない、そんな私のために、そしてあの人のために、イエス様は十字架に掛かって下さったのだ。黄泉に下り、よみがえり、いつも生きてとりなしをしてくれている。だから、人の苦しみにも、一方的な叫びにも神様は最善の時にベストな方法で答えて下さる。“神様のなさることは時に適って美しい”(伝道者の書3:11)という、み言葉どおりに。でも、悲しいかな、私には、その不思議なわざに気づくのに時間がかかることが多いのである。

神は霊ですから神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。
(申命記 8章14節)

月報2005年5月号より

4.「ハーベストタイムとニュージャージー日本語教会」

ハーベストタイムとの出会いは、私にとってはクリスチャンとして歩むきっかけを与える大きな出来事でした。

もともとハーベストタイムを見始めたのは妻でした。私は教会には興味がありましたが、ひとりで行くことには躊躇があって、妻が一緒で無ければおそらく教会の扉をノックできなかったと思います。ハーベストタイムを見るのもそうであったかもしれません。何時しか、妻と二人で毎週見るようになっていました。

ハーベストタイムでは毎回ゲストを招いてその方の証についてのインタビューと関連した聖書の御言葉の紹介をされるのが非常に印象的でした。そして毎回何か頷けるようなものを感じていました。私の帰国が決まった直後、何か寂しいものがあったのでしょう、あるいはこれが心の渇きだったのでしょうか、ハーベストタイムと関係のある教会にとにかく行ってみたいと強く思うようになっていました。そんな中で見つけたのがニュージャージー日本語教会だったのです。私が住んでいたのはニュージャージーのMadisonという町でしたが、ここから一番近いのがMaywoodのニュージャージー日本語教会でした。

とにかく私にとってニュージャージー日本語教会は不思議な力を持っていました。最初にノックした扉はなんと裏口だったのです。扉を開けてくださったのは大清水姉でした。礼拝堂に導かれた後、まず驚いたのは生演奏による讃美の時間でした。そして礼拝堂に集まっておられる皆さんが首を左右に振りながら楽しく讃美をされている光景を見たとき、Nashvilleの教会の神秘的なクリスマスミサの雰囲気と余りにも異なっていたので、とても不思議な印象さえ受けました。しかし、それもつかの間で、これまで歌ったことも無い讃美歌を口ずさんでいたのです。

暫くすると、greetingが始まり、教会に集まっている方々が誰彼となく握手を始められたのです。私はこれで礼拝は終わりなのかなと勘違いしましたが、このgreetingの時を通して、初めて出会った方々から本当に厚い歓迎のお言葉を頂くことが出来ました。初めて飛び込んで行った妻と私でしたが、皆さんは本当に友達のようにして歓迎してくださったのです。このような暖かい歓迎は、私のおぼえている限り初めてのことでした。これで私の教会に対する考え方が変ったのでしょうか、次の週も、またその次の週も何故か足を運ぶようになっていました。

月報2005年5月号より

3.「二度目の渡米生活」

何時しか基礎分野での研究者としての生活に終止符を打つことになり、 臨床試験のマネジャーとしての職務につき、 2003年から、 海外臨床試験マネジャーとしてニュージャージーに赴任することになりました。 臨床試験はかなり困難を伴うものですが、 依然として私は自分の能力を過信していました。 きっと成功するという自身を持って取り組んでいました。

ところが、臨床試験というのは本当に難しいもので、単に自然科学の力だけでは解決できない難しい問題を持つものなのです。

そんな中で、 突然の帰国命令を受けました。 これは本当に予想外の展開だったのです。 海外赴任している者にとっては決して驚くには足りないことなのかもしれませんが、 高校二年になる娘の学校のこと等を考えると、 3ヵ月後の帰国というのはやるせないものでした。 と同時に、 自身が本当に無力な存在であることをつくづく感じました。

そしてこれが神を求めるきっかけになりました。

* この後、 神林兄の「証」は 4. 「ハーベストタイムとニュージャージー日本語教会」 5. 「信じること、救いと受洗」 そして 6. 「帰国後のクリスチャンとしての歩み」 と来月号以降へ続きます。

月報2005年4月号より

2.「米国留学時代におけるキリスト教との出会い」

1991年から1993年までの2年間米国ナッシュビルのVanderbilt大学に留学する機会を得ました。 娘が近所の教会に所属する preschoolに通っていました。 教会からの案内もあってクリスマスの時にその教会へ行きました。 印象に残っているのはハンドベルによる賛美でした。 礼拝堂の中を薄明かりにして、 とても神秘的な雰囲気の中でのハンドベル演奏でした。 初めてのアメリカ生活の中で体験した神秘的な教会の雰囲気というのはすごく新鮮でした。 それでも私は救いへとは導かれませんでした。

その後も私はキリスト教に何となく興味を持っていたのでしょう。神を信じるというよりはむしろ歴史的なキリスト教的な考え方を持つということにとても興味がありました。 ある書物の中で、現代の自然科学はキリスト教的な背景が無ければ生まれて来なかったかもしれないと示唆するものがあって、 とても興味を抱いたことを覚えています。 これは必ずしも、キリスト教哲学に基づいて現代科学が築かれたということを意味しているのではありません。 神の存在があったからこそ、 対立する概念の中で自然科学に対する理解が深められていった、 つまり現代科学の基礎を築くように主イエスが導いてくださったのではと理解しています。 それほどに主イエスの存在は偉大であったと思わざるを得ません。 エジプト文明、 メソポタミア文明、 インダス文明、そのほか中国においても文明は芽生えしたが、 実際に現代の自然科学の基礎はキリスト教社会・文化の中で活躍された哲学者、 自然科学者から生まれてきたといっても過言ではないと信じています。

私は大学では理学部の化学科を専攻しました。その後製薬会社の研究所に勤務し、一研究者としての人生を歩みました。 研究に関してはそれなりの自信を持っていました。 研究の世界ですから、 もちろん結果はやってみなければならない世界ですが、 どのように自身の仮説を実証していくかという科学的な考え方についてはかなりの自信を持っていました。 それは私自身が当時無神論を自負できた理由の一つになっていたかもしれません。

私は人生の中で三度自然科学の分野で成功を収めたと自負していました。 ひとつは大学院の時、ひとつは入社した後に研究に携わりそれによって留学前に学位を取得したとき、 三度目は留学期間でのことでした。 そういう自分は神をも知らず、 ただ自身の力を信じたおろかな科学者であったのでしょう。 今から考えると不思議なものですが、 特に三回目の成功を収めたのは、折も折りクリスマスの頃で、 家族とWashington DCでクリスマスの休暇をすごした直後に研究室で結果を見て成功していたことに気づいたという経緯がありました。 その時には思わずクリスマスプレゼントと関係者に知らせたように記憶しています。 もしその時に主を信じていたならば、 その後はもう少し平安な人生を歩み始めていたかもしれませんが、 実際にはその成功は自分の行った業績という考えを持つことしか出来ず、 結果的にそれが間違いであったと悔い改めています。

月報2005年4月号より

1.「幼少時代におけるキリスト教との接点」

多くの日本人がそうであるように私は無神論の家庭で生まれ育ちました。 幼少のころは神道のことすら知らないにもかかわらず、毎年正月には近くの神社をおまいりするという、昔ながらの日本の文化の中で育ちました。 しかし、それがどのような意味を持つのか、そしてそれがかつて日本を戦争へと導いた神道と関係があるということすら教えられることも無く、 単に文化の一つとして肌で馴染んでいたに過ぎません。 何故か人が他界すると手を合わせて拝むということも、 宗教的な背景について一切教えられることなく、 これも単に習慣として馴染んで来たに過ぎません。 このようになんとなく習慣としてごく普通に日本人が行っていることを習ったものの、 そこにはなんら宗教的な背景はありませんでした。 このような無宗教な背景が、 おそらく他の多くの日本人がそうであるように、 私もまた神とは無関係の無神論者として育った理由になっていると思います。
一方では必ずしもまったくキリスト教と無関係でもなかったかもしれません。 敢えて記憶をたどり寄せてキリスト教との接点を探るならば、 私の小学校時代の知り合いの父親が牧師をしていたように記憶していますので、 それぐらいかもしれません。 こんな形で「牧師」、「教会」には少し触れる機会はありましたが、 それ以上のものはありませんでした。 また、 それ以後も、成人して米国留学をするまではキリスト教徒の接点はまったくといっていいほどありませんでした。

月報2005年4月号より

「ラザロよ。出て来なさい。」

アメリカに来て初めての大雪。青空の中、キラキラ輝いて美しい。 1月23日。 日曜日。 大雪のため外出禁止令が出され、いつもの午後からの日本人教会の礼拝も思いがけなく「お休み」となった。 へぇぇ。 こんなこともあるものだ・・・。
前夜、三人の子供たちに雪かきをしてもらっていたので、その朝はとても楽だった。 良い天気だったこともあり、雪の中でキャッキャッ。子供と共にワイワイ楽しく雪かきを続けた。
初めて海外に出た12年前。みんなあんなに小さくて、三人の年が続いていたこともあって、それはそれは大変だった。 多くの方々に助けていただいたなぁ。 それが今、こんなに大きく成長して、力仕事では戦力にもなり頼もしく、多くの面で支えられている・・・。 何とも言えない深い感謝に包まれて、祝福も真っ白な雪の中にあふれていた。
そして、昼過ぎ。その朝の連絡で「今日はそれぞれの家庭で礼拝を・・・」 ということでもあったので、母はその提案をした。 意外にも素直に応じた息子たち。 早速 一番日当たりの良い暖かい寝室に集合。 ベッドに入り込んだり腰を掛けたりしてそれぞれの姿勢で臨む。
「礼拝が雪で休み」ということに少々興奮気味の末っ子六年生が急に「僕が司会。 今日は大スケ牧師がメッセージ。賛美のリードはショウ平さん。 証はいとうナルミさんにお願いします。」と一人で勝手に仕切り出す。 夫は別室での仕事を片付けて、遅刻出席。
毎週の礼拝の流れを参考に、懐かしい聖歌をそれぞれ手に選曲。 この教会で良く歌われている乗りの良い「今風の賛美歌」は歌詞もなく、うろ覚えなので、残念ながらパス。 無茶苦茶元気良く、数曲賛美。
「使徒信条」も「主の祈り」もある。 そして、聖書朗読。 賛美しながら、今日はどこを読むべきかと思い巡らす。 そうだ。教会学校の今日の箇所「ラザロの復活」にしよう。 それがいい。 ヨハネの福音書11章の1節から44節までを一人一節ずつ家族五人で順に読む。 長い箇所である
イエスが愛しておられたマルタとマリヤの兄弟ラザロが病んでいた。 助けを求めたけれど、イエスには考えがあって、すぐに駆けつけることはされなかった。 死んで四日も経ったとき、弟子たちをつれて悲しみの姉妹のもとにやって来られた。 イエスは涙を流された。 多くの人たちがあれこれ言ったり思ったりしている中、父なる神に祈った後、大声で「ラザロよ。出て来なさい。」と叫ばれた。 すると、死んでいたラザロが長い布で巻かれたまま出て来た。 という有名な箇所である。
多くの奥義で満ちている。 一つ一つの隠された深い部分をみんなで一緒に考えてみようと思った。 「わたしは、よみがえりです。 いのちです。 わたしを信じるものは、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じるものは、決して死ぬことがありません。」
この部分からリョウ太に迫ってみた。 もし、事故か何かでリョウ太が急に死んでしまうことがあったとしたら、リョウ太は必ずイエス様のもとにいるという確信があるのか・・・と。 お母さんは、リョウ太がイエス様のところにいるのかな、どこにいるのかな、と思いながら悲しみ過ごすのはいやだ、と以前にも何度か聞いたようなことを質問してみた。
すると、少し照れて「うぅぅぅん。80%ぐらいかな。」とはにかむ。 「えぇぇぇ。80%の確信か・・・。」「じゃぁ。うぅぅん。90%・・・。」「・・95%・・・。」母の顔を見ながら、少しずつ少しずつ数字を上げてきた。 そうか。でも、お母さんは100%イエス様のところにいるから心配しないでね。 お葬式も盛大に教会で伝道葬式にしてね。 といつものように結んだ。 祈っているよ。早い時期に(最終的には)100%の確信の三人でありますように。
そして、司会者が大スケ牧師にメッセージを振ってきた。 すると、何を思ったのか、この牧師。 何の熟慮も感じさせない思いつきの口調で、「ラザロよ。出て来なさい。」というこの言葉は、ラザロだけに言っているのではありません。 リョウ太くん、あなたのことでもあるのです。 「リョウ太よ。出て来なさい。」という意味でもあるのです。 と、急に初めからおかしなことを言い出した。 何言っているの。 これはラザロに言ったんだよ。と一笑した母はその後しばらくして「はっ」とした。 本当にそうかもしれない。 そういうメッセージでもあるのだ、と神様から語られた気がしてうなった。 そうだ。みんな一人ひとり、名前を呼ばれて、深くて暗い墓の中から今の状態から「出て来なさい。」と声をかけられているのだ、と思った。 違う方向から光が差した気がした。
そして、牧師は「声を聞いたら、出て行きましょう。」と締めくくった。 長い布にグルグル巻かれたそのままの状態で出て行ったらいいのだ、と教えられた。 父はすぐに「そうだな。そういうことだな。」と自分の状況を重ねて同意していた。
母の証は「主よ。あなたの愛しておられる者が病気です。」この箇所から。 夫のために結婚前に一度。 今、再びここから切に祈らされていることを話した。 子供たちを前にして深い部分は省略したが「あなたの愛している者が病んでいます。」 「主よ。来てご覧ください。」 「その石を取りのけてください。」と必死に祈っていることを伝えた。 この姉妹たちのあの時の祈りはそのまま今の私の祈りである。イエス様は考えがあって「なお二日とどまられた。」 「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものである。」 この言葉に信頼している母の祈り心を語った。 母は子供たちにも父親のために具体的に祈るように、課題も問題も出している。 よく理解して応援している息子たち。欠けの多い父だけれど、みんな父のことが大好きで、とても尊敬していて、いつもやさしく接している。 母の鋭い言葉も子供たちの「弁護の盾」は見事にポンとはね返す。 時にはこの盾、鋭い矢もきれいに吸収して飲みみ、細かく砕いてしまうこともある。
「Jesus wept.」この小さな家族にも主は心をおいてくださり、痛みを共有してくださっている。 父もこの日、思春期の子供たちの前で、自分の弱さや現状を抵抗なく出しながら、多くの慰めを得ていた。
最後の祈りはショウ平くん。 この子は真ん中でまた丁度難しい14歳。 今、?マークが付くことも多い子だが、この子のこの日の祈りは琴線に触れた。 まぁ。 何と素直で従順なストレートの祈りか・・・。 心に響いた。 今のこの子からこんなにすっきりした祈りが出るとは思わなかった。
新たな発見と驚きの家庭礼拝。 いつもだと誰かに逃げられそうだけれど、また時々しようね。 君たちから声がかかることを大いに期待して・・・
「主があなたを呼んでおられます。」
「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」

ハレルヤ アーメン

月報2005年3月号より

「Equipper Conference 2004 に行って」

私は2004年の年末から2005年の元旦までCAのリトリート、Equipper Conference (EC)に行ってきました。そこで人生最高の時間をすごしてきました。色んな人に出会い、すばらしい先生方のメッセージを毎日二回ずつ聞き、熱い賛美を歌い、燃やされました。ECで神様の愛の事も語られましたけど、今回私を燃やしたのはユースの事でした。ユースでどう伝道していけばいいのか、どうやって皆に神様の事を伝えることができるのか、その事ばかり思わされました。

私はこのECに行く前に少し悩んでいました、『何で私がこの中高生の集まりを仕切っているんだろう。経験はないし、リーダーシップがすごいわけでもない、聖書を端から端まで知ってるわけでもない。』と思っていました。ですが、その日、杉本先生のメッセージでこう語られたのです『何かを変えるのに知識はいらない、過去、どの大学から出たのかなんて関係ない、ただ必要なのは情熱だ。』そして、その同じ日に佐藤先生が言われた言葉は『渡った橋は燃やせ、そうすればあなたはもう後戻りはできない。過去を捨てなさい、過去に戻るな、前に進みなさい。』この日私はああそうなんだ。と思いました。
その日は納得程度で聞いていましたけれど、次の日の盛永先生の説教には悩まされました。先生はおっしゃいました『イエスはあなたの愛す人を救います。そしてその愛した人が救われない限りあなたも救われない、あなたの命の意味がない。』と。そして最後に聞かれました『あなたの願いは何ですか?』私はどうしようかと思いました。何をどうすれば私の命に意味があるのか、必要とされるのかと。そう思っているとポール鈴木先生が高校生用のクラスで話してくれました。私たちの命は短い、私達の命全部を神様にささげてもたりないのに何を待っているのですか?何をのろのろとしているのですか?神様が必要としているのですから早くいきましょう。私は目が覚めたようでした。あ~そうなんだやっぱり私が今やるべきことはユースなんだと思いました。私ができる限りがんばってみよう、一人ではなく皆でがんばろうと。

私が自分の悩みを解決して最後の日を迎えると神様は私が考えていた事よりもはるか超えた事を用意していてくれました。最後の日、杉本先生は日本のクリスチャンの事を話してくださいました。日本は多神教であり、自分がスーパーマンになろうとしている。自分で道を決め、自分の力で生きる。そのせいか今私探しがはやっていると教えてくれました。杉本先生は言いました『人はスーパーマンになれないから、スーパーマンを作ったんだ。私探しなんてできない、私は自分なんだから。探せるわけがない。』皆クスクス笑いながら聞いていたら、先生は『人は安全な所を探しているから色々やるんだ。ノンクリスチャンに神様のことを伝えるのは簡単じゃない、だけどもし伝えなかったら求めている人はどうする。』最後に先生はアインスタインの言葉を教えてくれました『私は天才ではない、ただ一つの事に情熱を持っただけだ。』私は心を打たれました。何もいらない、情熱だけで何かは変わる。その夜、大倉先生の祈りの中で、悔い改めた人は前に出てきなさい、神に仕える人、宣教師、牧師になりたい人は、出てきなさい。その時私は前に行きました。神様は私を宣教師に使ってくれるらしいです。

その夜は400人皆が泣き、半分の人が前に出て、抱き合って祈りました。あんなに祝福された場面は私の人生で初めてでした。そしてそれを体感できた事が本当にうれしかったです。ECに行けたことを心から感謝しています。

月報2005年2月号より

「Equipper Conference 2004 に行って」

私は2004年の最後の一週間、カリフォルニアで行われた日本人クリスチャンのためのEquipper Conferenceに参加しました。初めは高校生の参加者はかなり少ないと聞いていたので、ちょっと緊張していました。でも、神様は私に素晴らしい体験を用意してくれていたのです。

思っていたのとはまったく正反対で、特別の高校生用のプログラムが今年初めてできたぐらい私のようなteenagerの仲間たちがいっぱいいました。一人一人とものすごく仲良くなり、お互いのために祈り会い、本当に賛美と交わりのときが聖霊様に満たされた気がしました。そして、色々な先生たちに会うことが出来て、色々な説教を聴くことが出来ましたが、特に二つの事が心に残りました。一つ目は、ワークショップの時にHi-Ba のポール鈴木先生がペテロがボートから出てイエス様の所に行くために水の上を歩こうとしたときの話を語ってくれたことです。そして、ポール先生は皆に、“あなたたちにとってボートとははなんですか?自分の高いプライドかもしれない。心配事かもしれない。今まで努力してきたことでもいい。でも、そのボートから今日降りて、何も恐れずイエス様の元へ行こうじゃありませんか。イエス様を見上げて毎日を生きようじゃありませんか”と言われました。そして、次の夜の集会で、大倉先生が“ここに私がおります”と言う題で説教をしてくださいました。メッセージの中で先生は、自分がどこにいるのか分からない時でも神様は私たちのことをずっと探し続け、いつも見守っており、生きる目的を与えてくれることを教えてくださいました。その二人の先生方のメッセージを聞いて、改めてこの御言葉を思い出されました:“心をつくして主に信頼せよ。自分の知識にたよってはならない”(箴言3:5)。

Equipperを通して、どんなに自分が努力して頑張って生きていこうとしても、神様の計画、使命、そして導きに耳を傾けていかなければ、人生を無駄にしてしまっていると言うことが明らかになりました。すべて主に委ねれば心に平安が与えられるし、本当の幸せの意味が知ることが出来ると分かりました。最近は、将来どこの大学に行こうか、何になろうかと、ものすごく悩み、自分の力でで行くべき道を選ぼうとしていたということに気づきました。でも、これからはどうしていいか分からない時、心配せずにもっともっと祈りの力を信じていきたいと思います。そして、神様が共にいつもいるというこの安心感と素晴らしさを周りの人々に積極的に口で語るだけではなく、自分の毎日の態度や行動でもっと伝えていけるようにお祈りしていきたいと思います。Equipperに参加できたこと、そしてその一週間学んだことすべてに心から感謝します。

月報2005年2月号より

「僕がキリスト教という‘言葉’に初めて…」

僕がキリスト教という‘言葉’に初めて出会ったのは、まだ日本に住んでいる頃でした。日本の小学生ならこう習うかもしれません。“フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えた。”と。その頃の僕は、キリスト教が一体どういう宗教なのか全然わかりませんでしたが、一つだけは自分の中ではっきりしていました。当時小学3年生の僕は、キリスト教によい印象を持つことができなかったのです。何故なら教科書には、キリスト教徒は迫害され処刑された、というようなことしかのってないからです。“何故キリスト教徒はそんなことをされたのか。そうだ、きっと怪しいことをしていたに違いない。”と勝手に思い込んでしまいました。このことはそのうち忘れてしまい、僕が小学校4年生の時に、アメリカのニュージャージーに引っ越しました。このことが、後に僕の人生を大きく変えることを知っていたのは、神様だけでした。

初めて教会のイベントに参加したのは、確か2000年の野外礼拝でした。僕の目的はただ一つ、友達と遊ぶことだけでした。この後、教会にも家族で行き始めるのですが、僕は礼拝に出たかったわけではなかったのです。ただ友達に会えるから行っていたのです。まだ神様を信じているわけでもありませんし、聖書も自分から読もうとしませんでした。教会に行き続けたら、教会学校で学んで、礼拝にも少しだけ出るようにはなりました。これも、友達がそうしたいるからでした。けれども、今思うと神様はその友達を僕に遣わせてくれたのじゃないのかと感じます。彼らのおかげで教会に行き続けることができたのですから。

しかし、この後の2001年にイギリスに引っ越すことになってそこに住み始めたときに、はっきりとした変化が僕にみることができたのです。イギリスのミルトンキーンズという町にはその頃日本人の教会がありませんでした。しばらく教会にいけない日々が続きました。以前の僕なら、このようなことは気にもかけなかったはずです。けれどもそこには、教会を求めている僕がいました。アメリカを離れるときにもらった漫画聖書を毎日のように読みました。そのうち牧師先生が来ることを信じながら。そして2002年の冬に来てくれました。小島美子先生がミルトンキーンズに来てくれたのです。それからは毎週のように礼拝に出席し、教会でもらった聖書を読みました。2003年になると、家族で学びを始めました。純粋に、神様のことをもっと知りたかったのです。

学びを始めてから2ヶ月ほどたってから、小島先生に洗礼のことについて聞かれました。その頃僕は、クリスチャンになれるのは徹底的に勉強した人だけ、そして何よりも、善い生活を行ってる人だけだと思っていました。僕の考えを先生に伝えると、僕の予想していた答えと違う答えが返ってきました。先生は、そんなことないんだよ、神様はありのままの私たちを受け入れてくださるんだよ、洗礼はゴールじゃなくてスタートラインなんだよ、と教えてくれました。この瞬間、僕は洗礼を受ける決心をしました。洗礼を受けたのは、2003年の4月20日のことです。

洗礼を受けてから11ヶ月ほど経った3月からアメリカに来るまでの間に、今まで以上に神様を感じることができる出来事が沢山ありました。3月半ば、僕は内臓にちょっとした異常があるということで入院していました。その2週間後には日本に引っ越すことが決まっていたので、家族で焦っていました。そんなときに、タイの教会の近藤先生が、知り合いに東京の大学病院の教授をしている人がいるから連絡してみるといってきてくれたのです。順天堂大学病院の稲葉先生はすぐにOKしてくれました。また、日本についたらすぐに入院できるように手配してくれました。彼もクリスチャンでした。最初入院中は食べることも許されず、検査の毎日でした。そんなときに近藤先生がほとんど毎日のように来てくださっては聖書の話をしてくださったことには本当に感謝です。知り合いのクリスチャンの方々も励ましに来てくれたり、日本に帰ってからもしばらく会ってない友達が来てくれたり、錦織先生のお父様や後藤兄*のお姉様との出会いなどがありました。ここまで連続的な出会い方や励ましがあるでしょうか。確実に、神様が働いてるに違いありませんでした。また、アメリカに留学するための交渉がなかなか進まない、もしうまくいっても学生ビザが1年しか出ないというときも、神様は僕にもっと好条件の学校を用意してくれました。その学校の手続きが、信じられないほどにスムーズに行ったのです。父がアメリカに出張中に学校を訪問することができ、入学のためには通常面接が必要なところ、偶然そのとき学校の幹部の方と話すことができたので、面接はいらないといってくれたのです。これは偶然でしょうか。そうではないと思います。

このことで沢山の人が祈っていてくれたと聞きました。本当に感謝です。その祈りに神様が答えてくださったのだと信じます。“わたしはぶどうの木、あなた方はその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなた方は何もできないからである。” (ヨハネによる福音書15章5節)

この言葉を身を持って感じました。神様やイェス様につながっているクリスチャンだからこそ祈りが届き、働いてくださるのだと実感しました。これからの歩みの中でも、多くの人とつながって、神にあって生きていけたらと思います。証しする機会を与えてくださった主に感謝。

注(*) 教会では、皆キリストにあって神の子であるという意味で、互いのことを    『兄弟』『姉妹』と呼ぶことがあります。

月報2005年1月号より

「御手の中で」

こうして、ここに書けるような事柄をあまり持ち合わせない私ですが、忘れられない思い出を2つ程お話しさせていただこうと思います。

1つは、去年の春先のことなのですが、5月頃のある日、アパートの非常階段の隣家の建物側の片隅に鳥の巣をみつけました。小枝を寄せ集めてそれは5,6mも離れた私の窓からは無関心でいたら気付かない程でした。オペラグラスで見ると孵ったヒナの小さな頭が2つ動いていました。朝な夕な見ているうちに忙しなくエサを運んでいる親鳥をみました。この辺りには珍しい山鳩でした。彼等を見ている私に気付いた親は一瞬ドキッとした風で暫くキョトンと私をみていました。その頃の気候はまだ定まらず、かなりまだ寒い日あり,強風あり、なんと強風を伴う大雨の続く日ありで、西側のL字型の踊り場の突端に危なかしくもある巣と中の子供達に随分気をもんだものでした。冷え込む晩には親は子供達といっしょだろうか(暗くて見えないが)、風の強い日には、巣ごと飛ばされないだろうか、嵐の日には、子供達はずぶぬれで大丈夫だろうかとか、野生に対して私が手を出すことがいけないのを承知しているので、ただただ窓から気をもむ日々でした。そして親が戻ってきて子供達のせわしげな食事風景を見る度ごとに、“君達元気でよかったね、神様に感謝しようね”と語っていました。ある時その日がきて、小鳥達は巣から這い出てヨチヨチ歩き始め、なにしろそこはファイアエスケープで、表面はスノコ状で、鋼鉄の板と板の間は3センチ位の板と同じ巾の隙間がありますから、そこに足をとられないかと又々気をもんだものでした。そうしてある日、大きい方の子が一人立ちして私が見た時、チビちゃんひとりが、残っていました。その土曜日の朝、チョコチョコするチビの周りを親鳥が行きつ戻りつしているのを見ました。“サア、貴方はもう飛べるのヨ、ソラ飛んでごらん”と言っていたのでしょう。2羽とも形は勿論、色も同じようで、なんとその時私は初めてエサをやっていたのはこの2羽で交代でやっていたのだと知りました。いつも同じのがやっているみたいなので、これはてっきり母鳥で父鳥は、責任放棄かなと思っていました。そうではなかったのです。感動でした。その美しい朝のうちにチビは一番近い木まで2,30メートルをちょっと戸惑って、でもどうやら飛んで彼等のドラマを見事に完結させました。こうして私が観察できる時間は限られていたのにほぼ全行程を見せてもらったこと、あたかも私が見られるように仕組まれていたかのように......なんと最上階のまるで屋根のない片隅に巣を作り、あの吹き付ける嵐を見事くぐりぬけた小さな命達を守るのには、神様の御手があったとしか考えられません。私はあの初夏の晴れた土曜日の朝、チビの初飛行を決して忘れないでしょう。

2つ目は随分昔の事なのですが、いつもつい昨日の事のように新鮮な想い出です。“今は昔”ある夏の日、私は初めてルーブル美術館のミレーの“晩鐘”の前に立っていました。足が釘付けになったように動けませんでした。ご存じのように“晩鐘”は思うより小さな、夕日に包まれてはいつつも、全体には暗い色彩の絵で農民夫婦が畑の真中で敬虔な祈りを捧げている図です。ルーブルには宗教画が数多くあり、ある一角は宗教画のみといったスペースがあり、当時教会にほとんど行ったことのない私にとっては意味がまるでわからず、素通りしたものでした。それが“晩鐘”の前でピタッと止められたのです。絵の中になにか深い精神性を感じたのです。神の存在を感じたと言ってもいいと思います。周りのほの暗い実りの畑、一日の労働の終わりを象徴する風景のせいでしょうか、祈る農民の姿があまりに自然だからか、あの絵に込められ滲みでる深みはどこからくるのでしょうか。つらい一日の終わり、鐘の音と共に、神に身を委ねて感謝の祈りを捧げる農夫、それは古代から延々と続く人間の日々の営みの基本です。ミレーは19世紀を生きたバビルゾン派の画家で、農民と彼等の生活を数多くテーマにしています。

日本人が子供の頃に教わる画家の一人です。彼の有名な絵の中でこの“晩鐘”は私にとって“超”特別です。私から絵に入って行ったのではなく、絵の方から私に飛び込んできたと言えると思います。大よそ本当に良質のものは、芸術作品とか発明発見でもこっちから探りを入れる前に向こうの方から(芸術作品の方から)語り掛けてくるものだろうと思います。少なくとも私にとってそういうことが多く、こうした所にも神様の御手を感じないではおられません。

さて私自身の信仰ですが、友人に誘われるままに教会に行き始め、錦織牧師や諸先輩の暖かい熱心な励ましをいただいて2年前に洗礼を受けました。今まで私が見、感じてきた神様の色々な御技の確信を私の中にも大きく見せていただけるよう、心から祈っていきたいと思います。
これからもいいものをたくさん観て、感じて、毎日の無事を感謝しつつ神様と共にある実感を味わい、主を見上げて歩んでいきたいと思います。

(なお、ミレー、コロー等、バビルゾン派の作品は貸出し出張中でない限り、今はパリ、オルセー美術館にあります。)

月報2004年12月号より

「涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とする」

「人生に、もし・・はない。」忘れられないドラマの台詞。与えられた三人のすばらしい息子たちと夫の深い愛に「もし、あの時・・」の人生はない。

誘われた「ベン・ハー」の映画がきっかけで、聖書に出会った。牧師と呼ばれる人のいない教会で「○○集会」と呼ばれ、一人の指導者を中心に、信仰篤い兄弟たちが祈りながら進めていく集会であった。

この世界には何か「真理」があるのではないかと、物心ついた頃から考えていた。続けて日曜日の集会にも集い、大きな疑問も反発もなく、聖書に真理があったことを喜び、毎回聖書の言葉やメッセージが深く入っていった。

誕生日プレゼントにいただいた「主の墓」の絵葉書が私に迫った。「ここにはおられません。よみがえられたのです。」聖書の言葉が英語で添えられていた。主が十字架にかかられたのは私の罪のためであったこと。葬られ、約束通り三日目によみがえってくださったこと。今も生きていて執り成してくださっていること。がその場に臨まれた主にはっきりと示され、感動に満たされた。その集会は洗礼に関してもとても慎重で、本当に神によって新しく生まれ変わっている(新生)のか吟味された。やがて、熱い思いと喜びで受洗。イスラエル旅行にも参加し、あの主の墓の前にも立った。

当時、その集会の指導者は「ユダヤ人」のことを聖書から特別に教えられていて、本も出版し、あちこちで講演会も行っていた。特別な賜物が与えられた指導者と集会だった。結婚も祈りながらクリスチャン同士。もちろん、結婚後に信仰を持った人もいたが、独身の姉妹が多かった。また、聖書の霊的な深い部分もよく語られ、信仰が大きく揺さぶられることもあった。

そんな頃、主人とのことがあった。同じ職場の彼にもこの救いを知って欲しいと誘い、彼は日曜日毎に集っていた。結婚を意識して誘ったわけではなかった。しばらくして、ある兄弟から彼のことで話を受けた。あまりにも非情で霊的に重い言葉に動揺し、震えた。耐えることが困難な言葉だった。後に、その言葉に大きくつまずいて転倒し、立ち上がることができずに、苦しみの年月を重ねることになってしまったのである。信仰生活と恋愛感情を心配しての助言だったと今は受け止められるが、当時は誰にも語れない重い言葉となって、私を苦しめ続けた。

純粋に信仰を第一として歩みたいと願っていた私は、教会からの助言を神のみこころだと受けとめ、従おうとして、一度は彼のことを主に返して、手を放した。しかし、次第に喜びのない信仰生活となり、自分の中の偽りと不信仰に苦しむ鬱状態になり、限界の日はやってきた。心配した姉妹方の助言も固くなった心は受けつけず、拒絶して教会を離れた。私は彼と結婚した。

結婚の用意をしながらも、自分を責め、教会が受け入れられない結婚を選択した自分は神に打たれるのではないかと、恐れた。みんな幸せに結婚準備をしていくのに、私はこんなに苦しんでいる。祝福される結婚が、苦しみの中で始まった。クリスチャンであるという事実。キリスト教でない式は挙げられない。彼の両親にも伝えた。全然面識のないその場限りの出張牧師。クリスチャンの出席しない教会式の挙式。後に、違う教会に移った同じ会社のクリスチャンが自分のところの集会に来てみたら、と誘ってくれたが、どこにも行けなかった。集会の駅近くになると、どこかであの兄弟姉妹に会うのではないかと恐れ、顔も上げられなかった。

妊娠、出産、流産・・。結婚生活は忙しく進んでいった。自分を責め、悪夢にうなされ、目覚めて、あぁ結婚したのだと思った。自分の内面や信仰が夢の中でも追ってきた。

そんな中、神様のあわれみの「時」が動いた。私たちはウィーンへと運ばれた。当時、とてもお世話になっていたYさんが家庭集会に集っている、と言い、私を誘ってくださった。事情を知らないYさんを用いて、神は私に「回復の時」を与えてくださったのである。同じ主にある祝福された集いだった。教会に戻ろう、と聖霊に押し出された。

そして、石川牧師夫妻に出会い、今までの重荷を初めて降ろすことができた。誰にも語れなかった、あの兄弟のあの言葉も初めて口にした。霊的なことが強調されすぎる危険性。「もちろん、信者同士の結婚が望ましい。しかし、信者の祈りによって相手が信仰を持つことも結婚生活で望む。」と言われ、信者と未信者の結婚式も挙げていると言われた。その後、ウィーンで、あの集会、あの指導者のことをよくご存知のK先生にお会いし、話を聞いていただく中でも私の傷はどんどん癒され、回復させられていった。K先生は「あなたは高い授業料を払ったのだと思う。」と言われ、本当に高い授業料を払った気がして、涙がボロボロこぼれた。「神は人生をトータルで見られる。」と先生は言われた。同じことを受けても、特別気にしなくて、悩まない人もいる。まじめで若かった私は、余計な苦しみを自分で背負ってしまったのかもしれない。と回復して後、牧師夫人に話したら「そういう性質も神様はあなたに与えてくださったものだから」と言ってくださった。

「他人に深い心の内を話す」ことで人は癒され、軽くなる。私は重荷を降ろす先、信頼できる信仰者を探し求めていたのだ。見えないところ、知らないところでの「祈りの手」も神様は見せてくださった。「私はあなたに誠実を尽くし続けた。」と主は語ってくださった。
人はそれぞれの弱さや性質の故に、回り道をしたり、必要のない苦しみを背負ってしまうことがある。牧師であってもクリスチャンであっても人をつまずかせることがある。そんなつもりではなかったのに、深い傷を負わせてしまう言葉もある。しかし、神様は一人ひとりの弱さもご存知で、しっかり包み込み「わたしの恵みは、あなたに十分である。わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われ、すべてのことを働かせて益としてくださるのである。マイナスや苦しみがプラスに転じて「用いられるもの」となる。
私はこういうことを通して、信仰から離れている人のために、また、ご夫婦そろっての救いのために祈るように導かれている。痛みを知っている者が祈れる祈りがある。主はあの時の私の叫びを聞いて、夫を救ってくださった。
ハンブルクの宣教師夫人は言われた。「主はこの結婚をあわれんでくださったのです。」と。本当にあわれまれたのだと思う。

また、今度はアメリカに運ばれてきた。「もういいです。十分です。」と信仰のない者は新しい地での新しい戦いを恐れ、後ろのものを振り返る。しかし、「見よ。私は新しいことをする。今、もうそれが起ころうとしている。」と言われ、「この戦いはあなたがたの戦いではない。しっかり立って動かずに、主の救いを見よ。」と言われる。目が見たことのないもの。耳が聞いたことのないもの。そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものをここでも体験させてくださるのだと教えられる。確かに主は涙の谷を過ぎるときも、泉のわく所としてくださった。

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたの病をいやし、
あなたのいのちを穴から贖い、
あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
あなたの一生を良いもので満たされる。
あなたの若さは、わしのように、新しくなる。」 詩篇103篇 2-5

月報2004年11月号より

「心の方向性」

1.突如教会へ
私は宗教色の無い家庭に育ちましたが中3の秋、「これからは教会に通います」と家族に宣言しました。ミッションスクールに進学希望で、キリスト教の空気を知っておきたいという下心からです。初めて行った教会は古い学習塾を借りて礼拝を守り、同年代は殆どおらず、お説教は難解。結局入試後も通い続けましたが、何が私の心を捉えたのでしょう。「人はパンだけで生きるのものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである。マタイ4;4」「見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。コリント第二4:18」のん気に日々を過ごす当時の私でしたが、生きていくとはただ働いて、食べて、蓄えて、何か見えるものを残してというだけのことではないだろうとは思い始めていたようです。教会で心の内側が探られる必要性を感じていたのかもしれません。

2.気休めの死生観
その後2年半程して、元気に布団を干していた母が突然気分が悪いとしゃがみこんだきり昏睡、1日もせずに40歳で亡くなりました。1度だけ意識が戻り病室で二人だけになった時、母は限界を悟ったようで私の手を握り、自分はもう助からないであろうから10歳の弟の面倒を頼むということと、その弟を可愛がってくれる人とならば父の再婚を認めて欲しい旨言いました。突然のことに私は「わかったから」としか答えられず、これは大きな後悔となります。なぜ励まして「元気になれるよ」と言わなかったのか。せめて「お母さん死なないで」くらい言えなかったものか。でもそれらは皆気休めにしか思えず、死に行く母の切羽詰った眼差しを前に言葉がなかったのです。今なら、イエス様は重荷に苦しむ人を受け止めて下さること、信じる者には全てを益として下さること、「イエス様はよみがえりであり、命であって、イエス様を信じる者はたとい死んでも生きる。ヨハネ11:25」そう言って手を握り返せるのにと思います。

3.人がつくる神
お葬式は仏式で行われ、母は突然「仏様」と呼ばれるようになりました。葬儀屋さんは勿論、親戚の人々もそう呼び始めます。母は仏様になりたかったのか?旅行の行先にだって皆様々なリクエストがあるのに、こんな大切な問題(死後の行先)を生きて残る人達が決めていいものかと感じました。数日後新しい仏壇と位牌を前に「今日、魂を入れてもらってきたからこの位牌をお母さんと思い拝みなさい」と言われた時には?マークが私の体中から大噴出でした。何故この板切れが母なの?魂って出し入れできるもの?誰にそうする力や特権があるというの?仏壇や位牌は金色飾りの演出で神々しく見えましたがどう考えても誰かがこしらえたものです。神様とは人間を創り、守って下さる方と思っていたのに、これでは人間が作った神様(仏壇、位牌)を人間が守っていくということではないか?ちょっと考えただけでもひっかかる点が沢山ありました。

4.乗り越えるべき壁
聖書の最初に天地創造を宣言され、人が作った物の中には収まりきらないと言われるイエス・キリストの父なる神様こそ本物ではと思うようになりましたが、全知全能の神様は私にとって母がどれ程大切であったかご存知の筈、愛なる神様ならどうして私をこんなに悲しませるのか納得できず、教会に行けなくなりました。大きな壁に心塞がれて9ヶ月が過ぎましたがその間毎週末、次の日曜礼拝のプログラムが切手の無い封筒に入って我家のポストに落ちるのです。牧師先生が黙々と届け続けて下さいました。けれども週報が届く度、その壁に引き戻されるようで苦しく、開封せず引出しに入れてしまうことが何度もありました。

5.応答
週報の封筒には私の名が手書きされていて、その字を見るだけでも聞こえてくる声がありました。「死ぬということについて考えてみなさい」とのメッセージを母は命がけで発してくれたように思え、無駄にはできないと感じました。そして「どうして?」と神様を責め続けていても解決に辿り着かないと考え始めていました。死を考えると命を扱いなさる神様に繋がっていきますが、それはどう生きるのかを考えることにも繋がっていきます。「神様、どうして?」から「その神様の前にあって私はどう生きるのか?」にやがて心は向けられて行きました。では神様を見上げた時私は何を問われたのでしょう。神様を理解できたかということではなく、神様を信じられるかということでもなかったように思います。私には理解する力は勿論、信じる力さえなかったのです。非力な私に神様が問われたのは私の「心の方向性」でした。何を願うのかということです。「あなたは神のすることが理解できず、信じることも難しいと言うので一つだけ尋ねましょう。あなたは神を信じたいのですか?」……人生のどこかで決断せねばならぬこと、少なくとも死ぬ直前にはどちらかの返事をせねばならぬことと思われました。先延ばしにしていると思わぬ時に母のように生涯を終えてしまうかもしれません。「私は神様を信じたいのです」そう答えました。

6.神様の招き
「信じたい」ただそれだけの応答を神様は受け止め、洗礼を授け信仰のスタートラインに立たせて下さいました。それから少しづつ心の中に光が射し込んでくるようになり、以前は聞いてはいても自分との繋がりがピンとこなかった罪や救いについてゆっくりとですが実感し、神様に愛されていることが信じられるようになっていました。自分の決心で教会に通い始めたと思っていたことや、週報が届くこと、それに重苦しさを感じることの中にさえも神様の働きかけと絶え間無い招きが見えてきました。母の命と引き換えと思われていたメッセージはイエス様の十字架によって信じる者全てに与えられる永遠のいのちに覆われ、家族を失う私の悲しみにはひとり子を十字架につけて手放す父なる神様の痛みが繋がっていきました。信じてみて初めて見えてくる景色があることに気付かされました。私の命は死に向かってではなく、神様の愛に励まされながら救いの完成に向けて1日1日進んでいるのだと思えるようになりました。

月報2004年10月号より

「神の導きによる海外勤務12年間」

1992年10月10日、私の海外生活が始まった日でした。それまで海外に行ったこともなく、飛行機に乗るのも初めてでした。最初の勤務地はオーストリアのウィーンでした。
ウィーンには92年10月から97年12月まで約5年間滞在しました。もちろん、会社の命でのことで、特に希望してこの地を選んだのでもありませんでした。赴任当初2年半ほどはただ海外での生活と仕事に慣れるために必死で、知らぬ間に歳月が過ぎていった感じでした。妻も3ヶ月、2歳半、3歳の3人の子育てと言葉のわからない中での生活は大変でした。
95年になると、会社に私を含め3人いた日本人が続けて2人減員され、私一人で現地会社に取り残される状況となりました。これには、私もまいってしまいました。そんな頃、妻はウィーンの日本人教会に集うようになりました。妻は私と結婚する前からクリスチャンであり、ノンクリスチャンである私との結婚には大きな障害がありました。その為に一時的に信仰から離れる状況にたたされていました。彼女の信仰を回復させる機会にめぐりあったのでした。ウィーン教会の石川牧師夫妻を通して神によって完全に回復させられたのでした。私はこのような妻の心の動きに当初は気が付きませんでしたが、石川牧師の誘いにより度々土曜日の午後に牧師宅にて聖書の学びをする様になりました。また、日曜日の午後にはウィーン日本語キリスト教会の礼拝にも出席する機会を持つ様になりました。
しかし、会社生活しかなかった私にはその内容はなかなか入り込めないものでしたが、家族と一緒に礼拝には行く事にしました。そのうちに神の愛と恵みにより、私が生かされていること、その支えがイエス・キリストであることが家族や会社の人々・仕事を通してわかるようになりました。
そんな生活をしている内に、突然、神は私に次なる海外生活をドイツ・ハンブルクに移されました。ハンブルクでも神は私と家族にハンブルク日本人教会をお与え下さり、その地で98年11月に当時の牧師、メッツガー牧師から受洗することになりました。涙が出ました。ハンブルクは兄弟姉妹の少ない教会ですが、現在では河村牧師を中心に神の愛に満たされています。今年の夏にはヨーロッパキリスト者の集いの主催教会として、神の力により成功されたと聞いています。
私たちの海外生活も10年を越えた2003年夏になると、もうそろそろ日本への帰国になるだろうと考えていたのですが、神はまたも、次なる海外生活を米国に与え11月には当地へ異動しました。米国は会社にとっては世界中で最も重要な拠点で、何も力を持たない私などでは勤まらないと思うのですが、今は自分が仕事をしているのではなく、すべてが神様により与えられ、時間が過ぎているという不思議な状態です。いまこそ聖書によって、信仰によって生かされなければならない試練の時期だと思って、日々祈っています。人生は聖書の言葉と信仰です。その中で神により人は生かされています。感謝です。
ニュージャージーの日本語教会は大きな教会で、私にとってそれまで経験した海外の教会とは異なり、兄弟姉妹の年齢のバランスも良く、組織だった働きのできるもので非常に安心できます。

『あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。』
ヨハネの福音書 5章39節

環境の大きく変わる海外での生活には人生観の変化があります。これから、神は何を私にされるのか、私には分りませんが、これからもただ神を信じる事で身を委ねるのみです
妻とのめぐりあわせ、ウィーンとのめぐりあわせ、石川牧師、メッツガー牧師とのめぐりあわせ、これらひとつひとつが別々のものでないことには驚きを感じます。すべてが繋がっているのです。
更に、これが予想もしていなかったドイツでの受洗、そして米国での今日と繋がっているのです。私自身、海外生活を始める前にこんな事があるとは到底考えてもみなかった事です。神の働きです。

月報2004年9月号より

「初心」

神様に初めて出会い、イエス様を救い主と受け入れてから9年が経ちます。以前から、教会や信仰書などを通じて、初心に戻るという表現をよく耳にしましたが、今になってようやくその意味がわかりつつある気がしています。

13歳に母親が急死したとき、私は自分が罪人と知りました。それは、母親に対して生前に犯した自分の罪を見つめるきっかけとなり、いくら悔やんでもどうすることもできない思いをしたのと、私の中で静かに少しずつ消えていった母への思いからです。それでも何とか自分の罪を誤魔化しつつ5年が過ぎた18歳のとき、私は人間関係で初めて苦しみ、自分が罪人であることを認めざるを得なくなりました。教会へ行かなければ、そんな切羽詰った思いを与えられて、友達の教会を訪ねました。教会の方々が新来者の私のために、私の心に聖霊が入ってくださって神様を知ることが出来るようにと祈ってくださる中で、私は私の心に聖霊が入ってきたのをはっきりと感じました。その瞬間、特別な予備知識がなくても、私には神様の存在を知ることが出来ました。本で学んだことでも、人から説明されてわかったのでもありません。私は論理的に物事を捉える傾向があり、頑固な頭の持ち主ですから、自分で納得できなければ信じることなどできなかったはずでした。その私にふさわしく、私が頭で考えて悩んだりする必要はもう何もないというほど明確に神様ご自身が私の前に現れてくださったと思います。神様が生きたまことの神様であること、愛に溢れた方であること、私の罪をも赦してくださった神様であること。そしてイエス様のこと、聖霊のことまでも。その後、教会に集い続け、聖書をよく読みましたが、それはあの瞬間に解き明かされた神様の謎を再確認するようなものでした。それはまるで使徒たちが五旬節の日に聖霊に満たされて、他の言葉で話し始めたかのよう(使徒2:4)、何とも不思議な経験でした。触れられた私は涙に溢れ、どのようにも表現することが出来ない安堵感に包まれました。ハレルヤ!神様の救いとは何とも不思議で何とも素晴らしいものです。

それから私は熱心に神様を追い求めました。求める中で、幾度も壁にぶつかりました。神様を信じているのになぜと思うこともありました。神様が御心を示してくださったと信じて歩んだ道が閉ざされたこともありました。もちろん神様を知った恵みがあまりにも大きいので、何があっても導きと最終的には受け入れることができ、今もかろうじて神様を信じられていますが、正直、神様を信じる前よりも、神様に出会ってからのほうが、苦しんできたような気がします。神様を信じているからこそ期待も膨れ上がっているのでしょう。この世でキリスト者として生きていくのは戦いです。それほどに信仰を妨げようとするものは多く大きく、それほどに罪の性質が私たちにははびこっているからです。信仰の戦いの中で試されたとき、神様を知りたい、神様の御心を知りたい、と激しく求めた時期がありましたが、そのとき私が出会ったのは伝道者の書。ソロモンに深く共感しました。「空の空、空の空、いっさいは空である。…… 私は心を尽くし、知恵を用いて、天が下に行われるすべての事を尋ね、また調べた。これは神が、人の子らに与えて、ほねおらせられる苦しい仕事である。私は日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕らえるようである。(伝道者の書1:2、13-14)」そんな時の私の信仰は求める気持ちは強くても、いくら一生懸命に聖書を読んでいても、決して前向きと言えるものではありませんでした。信仰書に出てくる長老の如く、何も恐れない平安に包まれた笑顔が溢れ出るような信仰や、天国ばかりに憧れを抱いて、今日を生きる姿勢には欠けていました。でも私は一体何をしようとしていたのでしょう。「人は神のなされるわざを初めから終わりまで見きわめることはできない(伝道者の書3:11)」のです。私は自分の頭であらゆることを理解しようとしていました。聖霊の助けがなければ、自分の頭では神様を知りえることができなかったではないですか!クリスチャンとして歩み始めて私はいつの間にか、霊的な範囲を超えて、自分であらゆることを知ろうとしていたのです。神様のこと、イエス様のこと、神様がなされるあらゆることというのは、霊的な助けなしにわかることはできないものでしょう。そしてそれはすぐにわかることばかりでもないでしょう。私たちが信じている神様は偉大な神様なのですから。

信仰にはきっと私がまだ知らない幾つかの局面がこの先もあるのでしょう。そんな局面を幾つか経験して、奥義のようなものを掴んでいくものかもしれません。でも今の私は、信仰とは、何年信じてきたから、どれだけ知識を増したからではなくて、何年信じても、どれだけ知恵や知識を増しても、そんな中で如何に初心に戻り、謙遜になれるか、ということかもしれないと思い始めています。神様に、「私は罪人です、今すぐにでもどうか救ってください」といった、初めて神様を知ったときのような切羽詰った祈りを、今の私は捧げられていないからです。主人の食卓から落ちるパンくずでもいいのでいただきたい(マタイ15:27)、そんな必死な思いをいつの間にか忘れ、神様の偉大な愛に安易にそして軽々しく甘えすぎている自分に気づかされているからです。

初心に戻る。それは本当に永遠に信頼することが出来る。永遠に私を裏切らない。永遠に私を愛してくださる。そんなお方に初めて出会ったとき、自我からも世的な思いからもすべて解放されたあの瞬間です。あの聖霊に満たされた瞬間。喜びと安堵感に溢れ涙が止まらなかった瞬間。私たちが信じている神様がどんなに素晴らしいお方か、私は本当に覚えているでしょうか。13歳で人は私を去っていくと悟った私に、「私は決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。(ヘブル13:5)」そう言って下さった神様を知った喜びはどんなに大きかったでしょう。私は今一度初心に戻り、神様に出会った喜びに溢れたいと願っています。

月報2004年8月号より

「数えてみよ 主の恵み」

♪数えよ ひとつづつ 数えてみよ 主の恵み♪

これは幼い頃から教会でよく歌った聖歌ですが、最近よく頭に浮かんできます。 私は熱心なクリスチャンホームに生まれ、幼い時から教会に通い聖書に触れて育ちました。その頃はただ友達と“遊ぶ”のが目的で教会に通っていましたが、小学5年の秋に映画伝道会『塩狩峠』(三浦綾子作)を通して、自分の罪と神様の大きな愛を知り信仰を持ちました。それまで何気なく覚えていた聖書の言葉が少しずつ理解できるようになりとても嬉しかった事を覚えています。

しかし高校に入学した頃、教会には義務感から出席はしていましたが全くのスランプ状態に陥りました。“自分ももっと劇的な体験がしたい!そうすればもっと神様を信じれるのに”なんて思ったりして...そんな状態を見兼ねてか?両親より“高校生の集まりに参加したら?”と言われhi-b.a.(高校生聖書伝道教会)に参加するようになりました。「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハネ3:3)という聖書の言葉より、“あなたは本当に新しくされていますか?クリスチャンホームだからとか昔から教会に通っているからとか全然関係ないんですよ!”と言われ、甘えていた自分に気づき目が覚めた思いでした。その後、高校・大学生活を通して様々な集会・キャンプ等に参加し、み言葉を学び・多くの信仰の友と出会えたことは私にとって今でも“宝物”です。

就職してからは今まで自由に使えていた時間が減り、日曜日の礼拝の時間ですらだんだん惜しく思うようになりました。“今週は仕事で大変だったから...”色々な言い訳が頭に浮かんできて、第2のスランプの始まりです。仕事の方も“どうして会社はもっと私に良いポジションを与えてくれないのか?もっと良い仕事があるはずだ!”と不平を言いながら全ての面で天狗状態でした。しかしその後、結婚そして離婚という苦しい経験を通して人生に絶望し完全に自分を見失った状態になりました。“こんなはずじゃ。なかったはずだ”と思う毎日が続きました。

ある日、突然上司に呼ばれ“NJの会社に行かないか?”と言われビックリ!入社時より海外勤務の希望を出していましたが、まさか15年目に叶うとは夢にも思っていませんでしたし、NJの会社は今までの仕事と全く別の分野の会社で会社名すら良く知らず、NJがどこにあるのかも知りませんでした。(NJはジャージー牛乳のイメージからアメリカ中部の田舎だと思っていました。ごめんなさい)“人生の再起をかけて、アメリカに行こう”と決意したのでした。

複雑な気持ちを持ちつつも新しい生活に期待してJFK空港に降り立ちました。アメリカでの最初の日曜日に“そうだ。新しい生活のスタートだから教会にも行こう!説教がしっかり理解できる日本語の礼拝がいいなぁ。”と思い、インターネットで調べていたところ高校時代にお世話になったhi-b.aの宣教師(クラーク先生)が協力牧師を務めるこの教会を見つけました。残念ながらクラーク先生はすでにリタイアしてお会いできませんでしたが、教会の皆さんに支えられ励まされ“我が家”に戻ってきた感じがしました。“放蕩息子帰還”です。

NJでの新しい生活も2年が経過しました。昨年は妻と教会で出会い結婚し来月には子供が生まれる予定です。本当に感謝です。

今振り返ってみると、数え切れない神様の恵みを受けて歩んできたと思います。また、多くの方々の励ましと祈りに支えられてきました。神様に感謝すると共にこれからも全てを委ねて歩んでいきたいと思います。

『あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。』 (コリント? 10.13)

月報2004年7月号より

「人の一生は神の計画で始まり…」

人の一生は神の計画で始まり、そして終わる事の教えが与えられ、毎日導きに従って生きる様に務めています。

私が14才の時、母は病気になりました。「神様、母を元気にして下さい。」と必死に祈りましたが、その祈りは聞き入れてもらえず、1ヶ月程入院して母は亡くなりました。子供の私にとって、母は愛のかたまり、私の生きて行くすべてで、その母を亡くしたのはこの世をなくしたのと同じでした。こんなに願って祈っても神様は母を私から取った。神様は何処にも居ないのだと強く感じたのを覚えています。

友達の誘いで神田のYMCAに導かれ、英語を学んでいました。毎年ゴールデンウィークの5月に山中湖のYMCAのキャンプに行き、聖書を読み、讃美歌を歌い、キャンプネームを付けられ、楽しいキャンプでした。私は宗教には関心はありませんでしたが、イエス様が生まれた所、そして死んだ場所をいつか見られたらと思っていました。

その後、主人と出会い、一年後再び日本に来まして、結婚し、ハネムーンに4ヶ月半の世界旅行をしました。アメリカ生活が一年経った頃、姉からの知らせで父の体が良くないとの事で急いで帰国し、父を見舞いました。しかし、その時の2回目の世界旅行の途中レバノンの地で主人は倒れ、急死しました。どうして自分だけ死んだのと・・・。旅先で私だけ一人ぼっちにして。主人に嘆き、悲しみましたが、主人も私一人残して、死にきれない思い、それでも死ななければならないのは私よりもっと辛かった事かと・・・。それを思うと「ごめんなさい。自分勝手で。」と今でも胸が詰まります。主人の死の2ヶ月後に父が亡くなりました。

私にとって大事な人を次から次と失い、何のために生きているのかと思った事が何度もありました。一人でアメリカで生きて行くのは苦労の連続です。しかし神様はアメリカ人(クリスチャン)をそばに置いて下さり、根気強く私を教会に導いてくれました。そして91年のビリーグラハム宣教大会の時にイエス様を私の救い主として受け入れることを決心しました。それまで、私にばかり、どうして不幸が重なるのだろうと思っていましたが、私のような罪深い者を招いて下さるイエス様を信じてから、それらのことは神様の御業が私の上に現れるためという考えに変わりました。主人と2回目の世界旅行で行く予定になっていたイスラエルの聖地旅行も92年にアメリカの教会の人達と素晴らしい旅行が出来た事はかぎりない喜びでした。もし主人と一緒に聖地に旅行をしていたら、何不自由ない旅行で終り、何不自由ない生活をしていたかもしれませんが、神様はクリスチャンになる機会は与えて下さらなかったかもしれません。愚かな罪人の私をも見捨てる事なく、93年に受洗を与えて下さった神様に心から感謝しています。

いろいろの事がありました。その中でも、2002年には病気で入院、そして手術と、私にとっての初めての出来事が起こりました。しかし、それによって神様が本当に生きており、共に居て下さるのを知りました。私には想像も出来ない事がいろいろと起こり、ただただ感謝です。このMaywoodの教会に導かれ、牧師先生、奥様、家族の皆様には大変お世話になり、誠の生きた信仰を見て、私はこの教会にと決めました。教会の皆様のお祈り感謝しております。私の良き友達の助けで今も頑張っています。素晴らしい人達を置いて下さり、神様に心から感謝しております。

「苦しみにあったことは私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」 (詩篇119:71)

月報2004年6月号より

「僕の親は二人とも聖書学院卒業生だったので…」

僕の親は二人とも聖書学院卒業生だったので、僕は小さい頃から絵本になっている聖書など、神様、又はイエス様の存在は知っていました。小さい頃はイエス様が語った百匹の羊の話し、ノアの箱舟、イエス様の十字架等、僕はこう言うのは意味も、何の事を示しているのかも分からなく、只、毎日の様に母さんと父さんと一緒に読んでいたのを覚えています。

三歳になって初めてニュージャージーの教会に来ました(というより、連れて来られました)。最初はイエス様の事を学んだり、そう言う事が目当てで通っていたのではなく、友達と遊んだり、お菓子食べたり、遊びの場として通っていました。その頃もイエス様を信じていました。しかし、それはイエス様を本当に信じていたのではなく、祈りに答えてくれるから、そして、天国と言う所に行ける為に信じていたものでした。

十歳になったから、礼拝の話を聞こうと決心しました。これも神様からのメッセージが聞きたかったのではなく、褒めて欲しかった、又は「良い子だね」と言われて、自己満足を得るためにでした。最初の内はもの凄く眠くなる様な、「良く皆起きていられるな」と皆さんに聞いたい位、詰まらない物でした。
その一年後、ある高校生を始め、次々と僕に近い年齢の友達が洗礼を受けていました。これは僕にとってハッキリ言って悔しいものでした。僕は牧師の子供なのに、僕より友達の方が先に洗礼を受けたからです。ストレスがたまったのか分かりませんけど、何故か関係の無い家族、又は友達に八つ当たり等の罪を犯す回数が日に日に増し、ドンドンイエス様から離れて行き、そんな自分自身がまた嫌いになりました。しかし、少しずつですけど、その内に神様の導きによって絵本になっている聖書、又は漫画化された聖書を又真剣に読むようになり、普通の聖書も買ってもらって、読む様になりました。

二年前の11月、修養会が僕の教会でありました。教会学校の先生の提案、そして僕の自己満足という二つのきっかけがあって、(これも主の導きですけど)僕も大人の集会に参加することになりました。その時、ある集会後の分かち合いの時に、その牧師先生から色々教えてもらって、それから聖書だけじゃなく、メッセージも真剣に聞くようになりました。

それながらも、「人を傷つけ、嘘をつき、罪を犯して平気な顔でいられるクリスチャンなどいて良いのだろうか?」と自分に何度も聞き直しました。そこに、聖書にある聖句、「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちを清めます。もし、罪は無いと言うなら、私達は自分を欺いており、真理は私達のうちにありません。もし私達が自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私達を清めてくださいます。」(第一ヨハネ、一章 七―十節)がある方の証に出てきました。神様の光、そして罪の赦しを示している箇所です。この箇所を読んで、どのような人間でも、どの様な罪を犯しても、神様に自分の罪を言い表すのなら、神様は正しい方であるため、罪を赦し、イエスの十字架によりサタンから解放されることが分かりました。この箇所のおかげで、神様の愛を自分なりに理解出来ていた僕は洗礼を受ける決心が出来ました。

初めは自己満足の為に礼拝に出席し、遊びの為に教会に通っていました。しかし神様の導きによって、その方の証を聞けて、僕は救われました。「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」 (箴言 19:21) 主に感謝します。

月報2004年5月号より

「今亡き私の母は、大正8年生まれでした…」

今亡き私の母は、大正8年生まれでした。私の若い時に、度々聞かされた事を、今でも懐かしく思い出します。それは、母の実家の隣が教会で、讃美歌の美しい歌声をよく耳にしていたこと。その当時の模様を笑みを持って話してくれました。そして又母はクリスチャンではありませんでしたが、聖書を世界最高の文学書とも言っていました。

私もやがて婚期を迎えるようになり結婚相手に選んだ彼は、なりたてホヤホヤのクリスチャンでした。当時の私はクリスチャンではありませんでしたし、特別私は意識してクリスチャンの方を選んだわけではありません。偶然そうだったのです。その私達にも二人の娘が授かり、夫の意志で幼児洗礼を受けさせました。私に関しましては全く強制的な態度はとらず、自ら進んで受けたくなったら受ければよい、という考えでいました。この様に幸せな日々は過ぎ去っていき、私どもの家族に危機が訪れました。クリスチャンである夫は私よりも離婚という事に対して一層の罪悪感を抱いた事と思います。また私もこのアメリカという異国での離婚は、より一層厳しい状態へ追い込まれるのだという不安もありましたが、結局は離婚に踏み出しました。そのような中で、これからは後ろを振り向かず、たとえ茨の道であっても覚悟して突き進んで行こうという力は、不思議とありました。

それから私の子育て奮闘記が始まりました。その当時私は多くの生徒を抱え、とても忙しくしていました。でもそのような中で娘たちにもそれぞれピアノ、ヴァイオリンを勉強させました。精神的に余裕のない私は、娘達にとても厳しい練習を強いました。それはまた技術向上のためでもあったのですが、私は娘達にとりましたら、まるで「サタン」ママのようだった事と思います。勿論音楽的な事も教えましたが、それはあくまでも私の押し付けに過ぎませんでした。彼女たちが自然にわき上がるものではありませんでした。人々からはお褒めを頂ける程の演奏まで成長しましたが、彼女等の音楽の泉は干からびて行く方向に向かっていくように思われました。二人とも比較的素直な性格の子供達なので、それを受け止める力はとてはとても大変なものだったのではなかったかと思います。私も時々は反省する事もありましたが・・・。

そのような中、私の母の重い病気がきっかけでクリスチャンになる洗礼を受ける事になりました。その当時の私は「罪の赦し」という事をはっきりと理解していませんでした。しかし、異国で生活していました私の願い、気持ちを伝えて、受け止めて下さる方は神様以外にないという思いが自然と湧き上がりました。おぼろげに母から聞いていた教会、夫を通じてうっすらと感じていた神様の存在が、今、母の病気を通じて私にとって本当に必要なものになっていたのではないかと思いました。
よく人様から「二人の子供は素直にスクスクと育っているな」と言って頂きましたが、私の心の中は「親はなくても子は育つ」のだという思いと、姿形は目に見えぬ方に守られているのだという満足と感謝の念で一杯でした。しかし、その一方で私の心にはそれとは裏腹に依然自己中心的な考えがはびこっていました。娘達も年頃になり、私によく反抗するようになりました。もう私の言う事を聞く娘達の姿は其処にはありませんでした。二人の娘達は「同じ釜の飯を食った」という処から、とても仲が良く、お互い慰め合い、良き理解者であったようでした。しかし、事私に関しましては、赦せない部分が多くあったようです。その頃から私も娘達に対して反省する事が多くなりました。厳しい練習をすることにより多くの事を犠牲にさせ、苦しい思いを一杯させてしまったという後悔の念に苛まれ、もう一度子育てをやり直せるものであればやり直したい・・・という思いになりました。罪の意識を強く感じる様になり、つらい毎日が続きました。それは自分だけが辛いという事ではなく、娘達の辛さを感じ取って感じる辛さでした。しかし、人間の絆というものは不思議なもので、私が悔い改めの思いに至る中で、娘達との距離が縮まっていくように思われました。聖書からの聖句「さらに、私達が罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、私達の罪をご自分の身に負われた。その罪によって、あなたがたは癒されたのである」(ペテロ第一の手紙2章24節)イエスの十字架に心からひざまずく思いです。そして少しずつ少しずつでしたが、娘達の希望に叶えられる様に私も努力し、今では伸び伸びと好きな道へと進んでいるという満足感で一杯です。

私がつくづく「クリスチャンであって良かった」と思う事は「考え方」の面で、です。生きている間に、小さい出来事から大きい出来事の中で、紙一重の決断の選択次第で良い方向に向くか、悪い方向に向くかという事があります。そこでその人の人生観が伺われると思います。そのような時に、大きく影響を与えてくださる力は、神様を絶対と思う所から生まれてくるものではないでしょうか。神の御手の中で生かされ、心豊かに生きていく希望を与えてくださる神に心から感謝いたします。そして、一人でも多くの方々にこのような考えを伝えるものとして用いてくださる事を強く願います。

アーメン。

月報2004年4月号より

「私は、小さい頃から教会に行っています…」

私は、小さい頃から教会に行っています。私は、一つのきっかけで教会に通い始めました。四歳のある日曜日の事です。私と妹は買い物に行きたかったのですが、日曜日でおもちゃ屋さんが開いていなかったので、買い物に行けませんでした。そしてお母さんが、「日曜日にはみんな教会に行くんだよ。」と言うので、私も教会に行ってみたくなりました。その次の日曜日、私たちはニュージャージー日本語教会に初めて行きました。それから七年間、ずっと教会に通っています。

最初のうちは、日曜日には何もする事がなくて、他の子供達と遊びたいので教会に行っていました。けれど、教会学校で少しずつ神様のことを知るようになって、神様の話を聞きたいから教会に行くようになりました。そしていつの間にか、日曜日に教会に行くことがあたり前なことになっていました。

私は、いつもイエス様の話を教会学校で聞いていました。イエス様が私達一人一人のために十字架につけられ、死んでくださったことも知っていました。でも、三年ぐらい前までは、本当に信じていなかったと思います。そして、二年くらい前になって、イエス様の十字架の本当の意味を知りました。イエス様の十字架があるから、私は救われて神様と共に生きることができることがわかって、とてもうれしかったです。

二年前の修養会の時、2日目の夜の集会の後に、修養会に参加した子供達と栗栖先生とのディスカッションがありました。その時、私は神様が本当に私のことを愛してくれていることがわかって、イエス様と神様のために生きることを決心しました。その年、私は神様のことをたくさん知るようになりました。そして、私の友達は一人一人洗礼を受けて、クリスチャンになりました。クリスチャンになった友達を見て、私も洗礼を受けたいという気持ちが湧き上がりました。私もイエス様と共に生きていきたいと思いました。

2003年6月22日に私は洗礼を受けました。夏休みに日本に行くことになっていましたが、私は絶対に日本に行く前に洗礼を受けたかったのです。日本では子供の誘拐事件やいろいろな事件が起こったりしていて、神様に守ってもらいたかったからです。聖書の中に、「たった一羽の雀でさえ、あなたがたの天の父が知らないうちに、地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえ一本残らず数えられています。ですから、心配しなくてもいいのです。あなたがたは、神にとって、雀などより、ずっと大切なものではありませんか。」(マタイの福音書10:29-31)と書かれています。それを読んで、私は安心しました。私は、神様が日本で私達家族を守ってくれることを信じて、日本へ行きました。そして、無事に帰ってきました。

私はこれからも、イエス様との歩みを続けていきたいと思います。一心不乱に神様のために生きたいです。そして、他の人を教会へ誘って、イエス様のすばらしさを知らせたいと思います。

「大きな力の働きにより」

クリスマスプレゼント、サンタクロース、トナカイ、モミの木。幼いころの私がキリスト教と聞いて思いつく言葉を書き並べてみました。キリスト教、イコール、クリスマスだと、完全に勘違いしていましたね、今思えば。小学校の頃、教会という所は時々ただでお菓子をくれるらしいといううわさを聞き、少し違和感があったこともあります。幼稚園や小学校低学年の頃、何度も繰り返し学校の先生や親に言われたのは、知らない人にお菓子やお金をあげると言われたら、危ない人なので走って逃げなさいという教えでした。高校生になり、見かけたことのあるクリスチャンは、金髪の二人組の若い男性で、真夏の暑い沖縄でもネクタイを締め、自転車で走っている人達でした。自転車用のヘルメットにネクタイ姿は、当時の私には奇異に思われ、友達と笑いのネタでした。クリスチャン人口密度の高いと言われる(ということも最近知ったのですが)沖縄で生まれ育ってもこれくらいの知識しかありませんでした。
私が初めて礼拝に参加したのは、NJに引っ越してくる半年前でした。中国系のマレーシア人の友人がクリスチャンで教会に通っていると聞き、「えーー、アジア人なのに?」と実は思っていました。「ワザワザ西洋の神様を信じなくてもいいのに」とも思っていました。彼の教会は土曜日の夕方にも礼拝を行っていて、別にお金がかかるわけじゃないし、彼が毎回ピックアップしてくれるという送迎付きなので、土曜日の夕方の暇つぶしに通うだけでした。アメリカ人ばかりの教会でしたが、牧師の話し方が面白く(内容より笑いを期待してばかりいましたが)、短い間でしたが通い続けました。NYでの仕事が決まり、最後の礼拝の時に、友人に誘われて牧師に挨拶に行きました。その時の牧師はとても優しく暖かい目をしていたのが印象的だったのと、その友人の強い勧めもあり、引越し先でも教会に通う事にしました。
家から車で5分くらいの所に日本人の教会があるのをインターネットで知ったのがきっかけでした。(すいません、その頃から遅刻ばかりで…)日本語での礼拝に参加して初めて、アメリカ人の牧師が一番伝えたかった事を理解する事ができました。理解できても、罪の自覚とは別な事件の話で、なかなか受け入れられずにいました。少しずつ教会から離れていった頃、一年ほど前の9月11日の事件について考える様になりました。気づかされたのは、あの時の自分の奥底に潜む醜さでした。私は逃げるのに一生懸命で自分の事だけを考え、周囲の事は何一つ考えていませんでした。人を突き飛ばしたり、押しのけたりして逃げる事はなかったものの、イザそういう場面に直面したら、自分の事はさておいて他人を助ける事ができたか、と聞かれても答えられませんでした。ようやく自分の本性と対面し、「これかぁ、礼拝で錦織先生が口をすっぱくして言い続けていたことは」と気づきました。たまたまその後、レストランで友人と食事をしていた時、外から中の様子を覗き込む中国人がいました。よくみると中国人ではなく、教会でお世話になっている(これからも宜しくお願いしまーす)G夫妻でした。満面の笑顔で手を振って下さりました。そろそろ戻ってきなさいといわれた気がし、再び教会に通いだしました。
学びを始めた頃は、いつか受洗したくなったときにできるように、と軽い気持ちでした。というのも、いつ日本に帰るか分からないし、家族の理解を得る事はできないと思っていたからでした。弟は心の病を患っており両親は世話の為に沖縄を離れられず、遠く離れたアメリカでいきなり、私は今日からクリスチャンです、と言えば心配するだけだからです。という、私の小さな思いとは別の所で大きな力が働き、出会いから結婚、そして結婚式の為の両親の渡米、そして受洗と、教会に再び戻ってから大激震の一年でした。これからの歩みにおいて何が準備されているのかとても楽しみです。教会の中で一番の新米ですがこれからもよろしくお願いします。

ロリー・ロナルドさんの証

(旧姓ヘギ、フジテレビで放送された[NY地区では2003年11月]、「通常の8-10倍の速さで老化が進んでいくプロジェリアという病気を持って生きているアシュリーちゃん」のお母さんです。ご本人の承諾をいただいて、http://www.progeriaproject.com/kids/Ashley/thennow.htmに掲載されているものを全文翻訳し転載致します。今から2年くらい前に書かれたものです。)

私の名前はロリー・ヘギ。アルバータ州の南部に10歳の娘、アシュリーと住んでいます。私の人生はアシュリーがプロジェリアという病気であることを知った時に全く変わってしまいました。しかし、もう一つわたしの人生を変えた出来事がありました。それは、3ヶ月前、イエス・キリストが私の罪を赦し、私との個人的な愛の関係を始めて下さったことです。

振り返ってみると、私はいつも愛の神の御手によって、危険から守られてきました。そして究極的には神のことを聞くことができるところへと導いて下さったのです。

12歳の時のことを思い出します。私は氷が割れて、氷の下に閉じこめられてしまいました。その時には友達が氷の割れ目から私の髪の毛をつかんで引き上げくれました。私はどのようにしてそこで助かったかよく分かりませんでした。半分凍った川をどのようにして岸までたどり着いたか何も覚えていないのです。私は自分の人生の中で、そのようにしてたくさんの事故や危うい出来事をすり抜けてきたことをいくつも思い出すのです。

私は自分の人生を自分の方法で歩んできました。私は規則とか責任とかを無視することが得意でした。学校を中退し、家出をして、盗みをはたらき、嘘をつきました。酒に、麻薬におぼれました。

私は17歳の時に妊娠しました。妊娠中だけはお酒や麻薬はやめました。私は自分のお腹の中で育つ赤ちゃんを産みたいと思ったのです。9ヶ月後、とっても素晴らしい贈り物が与えられました。アシュリー・ブルックです。母親となったことによって、私の歩みは少し変わりました。しかし、それでも、私は今までの自分の誤った選択や生活のストレスによる痛みや後悔を麻痺させてくれる、間違ったものに頼り続けていたのです、私はあいかわらず孤独で、すべてのことを何もかも自分一人でやらなければならないと感じていました。だれもあてにできる人なんかいないと思っていたのです。

アシュリーは9ヶ月の時に、プロジェリアと診断されました。同じ病気の13歳の子の写真を見た時に、世界が崩れていくような思いになりました。何を言ったらいいのか、何をしたらいいのか、何を考えたらいいのか、全く分かりませんでした。私は娘を愛していましたし、この子こそ私にとってのすべてでした。そして、心のどこかで「どうにかなる」とも思っていました。彼女は成長するにつれて力や知恵、愛と勇気とを身につける様になっていきました。彼女は私にとっての人生の土台、生きる意味となりました。こんなことが起こるのには何か理由があると思うようになりました。「何かもっと大きなことがここで起こっているにちがいない」と思っていました。自分の考えが正しいことを願っていました。「この人生にはもっと大きなことが起こるにちがいない」と。

それからの10年間、アシュリーの現実とうまくやっていくために助けになってくれるためのいろんなものにどんどん依存するようになっていきました。私はキックボクシングに夢中になり、「NINJA」(Kawasakiのバイク)を持ち、ハーレーに乗り、人々の羨望の的になりました。しかし、心の中では、何か満たされていなかったのです。人生は意味がなく、虚しいものに見えました。

2001年の12月の下旬のある日、私はもう前に進めない、と思いました。このままではもう生きられない、一時たりとも生きられない、と思いました。私は孤独でした。たくさんの過ちを犯してきました。痛みをごまかそうとすればするほど、むなしさを埋めようとすればするほど、それは大きくなっていくのです。私は自分が人間としても、母親としても失格だと思いました。膝をついて泣きました。泣き続けました。私は自分が間違っていたことに気がつきました。自分が悪い人間だと思いました。「赦してください、私は罪を犯しました」という言葉が繰り返し出てきました。それを止めることができませんでした。膝をついて顔を伏せて、涙が川のように流れました。その時のことをはっきりと覚えています。どうして泣いているか、誰に向かって叫んでいるのか分かりませんでしたし、そんなことはどうでも良かったのです。私はどん底にまで落ちました。トロフィーも、バイクも、鍛え上げた体も、羨望のまなざしも、何の意味もない、自分には何もない、と分かりました。私はその時には知りませんでしたが、神はわたしの叫びを聞いておられたのです。そして、神はわたしに答えてくださったのです。幾日かのうちに、私は変わり始めました。私はアシュリーの部屋で赤い聖書を見つけ、それを読み始めました。わたしの心の中のむなしさは癒やされ始めました。私は自分の人生について、私が持っているものについて、新しい見方をすることができ、感謝をできるようになってきたのです。

私はすぐに、誰にも説明もしないで、今まで持っていた関係をすべて捨てて、引っ越しをしました。今までの人生の中で持っていたもの、人間関係、すべて離れました。それらのものは自分の人生にとってプラスにならないことを知っていたからです。私はそれまでの自分の経験から、それらのものは私に平安も、満足も、希望も与えてくれないことを知っていたのです。私に虚しい孤独な思いを与えて去っていくことを知っていたのです。ありがたいことに、私にはアシュリーがいました。私の支えでした。私は100パーセント彼女と共にいてあげられませんでしたが、彼女は100パーセント私と共にいてくれたのです。しかし、それでも、私の中には痛み、罪意識、孤独、悲しみがいっぱいだったのです。

その時、私はイエス・キリストについて聞くことができました。主は私を二人の方々が聖書を教えているところへと導いてくださいました。その時に、はっきりと神の子イエスについて、そして、イエスがこの世に来られたのは十字架の上で死ぬことによって罪人を救ってくださるためだった、ということを聞きました。彼らはイエスが私の罪のために死に、死人の中からよみがえり、私にあふれる命を与えてくださることを教えてくれました。イエスは「私はあなたに命を与え、豊かに与えるために来たのだ」(ヨハネ10章10節)と言われました。このメッセージを聞いた三日後に私は罪の赦しという神のプレゼントを受けいれました。その時のことを決して忘れません。神は本当におられ、私が神を知ることを願っておられたのです。私は救われました。神の恵みによって地獄から天国へと救われたのです。何という救いでしょうか。もう罪に縛られていないのです。私は自由になりました。「あなたがたは真理を知る。そして、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8章32節)

聖書は、私は今キリストの内にいるのだ、と言っています。私は物理的にはここにいます。しかし、私のふるさとは天国にあります。主をほめたたえます。私が見つけたものを紹介します。死の恐れからの自由、悪魔の力からの自由、罪の重荷からの自由を見つけました。信頼できる方を見つけました。神の言葉である聖書を読むと、私は平安と喜びと、満足と、希望を得ることができます。キリストのゆえに、私には永遠の命があるのです。

私はその時からアシュリーが私の人生の土台ではないことに気がつきました。イエス・キリストが私の人生の土台なのです。私もアシュリーも一緒にキリストという岩の上に立つことができるのです。

「神はそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じるものが一人も滅びないで永遠の命をえるためである。」(ヨハネ3章15節)

月報2004年1月号より

「先日、六ヶ月振りに車を運転しました。…」

先日、六ヶ月振りに車を運転しました。
理由は今さら隠しても仕方ありませんが、飲酒運転で免許を取り上げられていたからです。待ちに待った六ヶ月でしたが、正直なところ、いざ運転してみると、自分でも怖いぐらい六ヶ月のブランクはなかったかのように、違和感がなく、すんなり運転できてしまいました。世間的には自分の汚点となるようなことなので、まるで臭いものにふたをするかのように、このまま何事もなかった顔で、六ヶ月前の元の生活に戻ってしまうことは簡単ですが、私にとってこの六ヶ月は、神様が私を個人的に取り扱ってくださり、一緒に歩んで下さった貴重なときであったことを確信していますので、是非今日は皆さんにそのことをお証したいと思います。
まず、最初にショキングなことをお書きしますが、私は同じことで警察に捕まったのは、実は今回が3回目です。一回目は学生時代に、二回目は10年前、そして今回です。二回目の時は車を廃車にしてしまうほどの自損事故を起こしての結果、警察を呼ばざるを得なくなり発覚しました。
その他にも、警察沙汰にはなっていませんが、やはり自損事故で、右側両輪を歩道ブロックにぶつけてパンクさせ、レッカーされたこともありました。このように過去を思い返すと、私は今までに何度も問題をおこしてきたにもかかわらず、改めることができない自分であったことがわかります。毎回、その度に「もうやめよう、もうやめよう。」と思ってはきたと思うのですが、しばらくすると、その時のことを忘れてまた同じことを繰り返してしまう。自分では良くないことはわかっているけど止めることができない。これが私の中にある罪の現実でした。
聖書には罪についてこのように書いてある箇所があります。
「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それをおこなっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」
ローマ7章19-20節
そして神様はそのたびに警察を通して、私に警告を発してこられてきていたのに、私はこれまで無視し続けていたのです。
今回問題となったのは今年4月の初めに、NJ州北部の町で仕事仲間の送別会を4人でした時でした。その日は11時ごろまで食事して、お開きになりましたが、翌日ふたを開けてみると、そのうち2人が警察にお世話になっていました。ただ、もう一人の方は、その送別会の主役で日本に帰国がまもなくだったのでなのか、何のお咎めもなく、「気をつけて帰りなさい」と言われただけで、免除されたそうです。結局、その日私一人だけが捕まったので、周りの皆んなは、そんな私のことを一様に「運が悪かったね。」と思ってくれていたようです。今までならば自分もそのように思っていたかもしれません。しかし今回は、わたしは「守られた」と心から思うことができました。というのも、私が警察に拘束されていて、身元引受人として家内に電話がかかった時、家内は家の電話のコールIDに「Ramsey 警察署」と出ていたのを見て、体が震えたそうです。夜の12時過ぎに警察から電話だと交通事故で人を傷つけたか、傷ついたか。もしくはそれ以上のことが私の身の上に起こったのではないかと思ったそうで、実際は事故ではなく、私が警察にお世話になっているので引き取りに来てほしいとの連絡に、内心ホッとしたと言っていました。確かに家内が言うようにこのままどんどん突っ走っていれば、その不安が現実のものになっていたかもしれません。飲酒運転においては何が起こっても不思議ではなく、一旦、事故となれば、運・不運の問題では片付けられないのです。「これは決して、不運ではなくて、自分で止めることができない私の弱さを神様が知っておられ、神様ご自身がこのような形でストップをかけて下さったんだ。」と思えたからです。
それから家内は夜中の1時頃、眠っていた2人の子供たちを起こして、迎えにきてくれました。私は眠そうな子供たちの顔を見たとき、なぜか涙があふれてきて、ただ、「ゴメンね、ゴメンね」と繰り返しました。後からお兄ちゃんの方には、どうしてお父さんが警察に捕まったのか彼にわかるように説明しましたが、その時彼は、「どうしてお父さんは、やっちゃいけないことをやったの。」と子供なりの素朴な質問をされ、私は返事につまりました。そして、その言葉がまるで、神様からのことばのように思え、私はハッと気付くことができたのです。
聖書にはこのようにも書いてあります。
「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」 ローマ8章11節
私は前の2回までは、まだクリスチャンではありませんでしたので、聖書を読んだこともなければ、神様の存在やその私に対する愛などは知りませんでした。しかし今回は明らかに、この聖書の御言葉通り、死に向かって突っ走りかけていた私の罪のからだを、主があわれみ、そこから救って下さったと身をもって体験しました。六ヶ月免許停止は私にとってこのように主によって取り扱われた大事な「聖め」の時となりましたが、しかし現実的には、この地においての私たちの生活を大きく揺るがす可能性を秘めたものでもありました。なぜなら、私にとって車は単に通勤だけではなくて、顧客周りの大事な足となっていましたので、車が運転できないならば、日本帰国は免れないだろうし、仮にこの地に残れたとしても、この車社会において物理的に六ヶ月を乗り切るのは至難の業と思えたからです。しかし、神様はそのことにも配慮して下さり、道を用意してくれていました。
会社の判断は、「周りの者が協力して助けるなら、特に問題は無し。」となり、車に代わる通勤方法を探すと、なぜか私は New Jersey Transit (鉄道)の最寄駅に歩いて5分の距離に住んでいて、朝6時半の電車に乗ると会社には9時前入ることができるようになっていたのです。幸い私は朝型人間でしたので、朝早いのは、全然苦にならなく、又夏の間だったので、冬のように朝晩暗く寒い中を歩いて行く必要もありませんでした。その他、この六ヶ月間にはいろいろな不自由を経験したり、その度たくさんの方の愛情に助けられてきました。しかしこのように無事乗り越えることができたのは、やはりそのすべてが主の御手のうちにあり、守られたからであったことは、今終えた自分の実感であり、紛れも無い事実として受け止めています。
思えば、今年の半分をこのことに費やし、気が付けば、残すところあとわずかとなりました。去年の今頃はこのような一年になるとは思いも寄らなかったですが、確かに主が私を取り扱ってくださった大事な一年となりました。そのすべてのことに感謝しつつ。
「主よ。まことにあなたはいつくしみ深く、赦しに富み、あなたを呼び求めるすべての者に、恵み豊かであられます。」 詩篇86篇5節
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」 詩篇103篇2節

月報2003年12月号より

「神様への感謝」

2~3年前にアカデミー候補となった映画「About Schmidt」という題名の映画をご覧になりましたか?最近我が家ではDVDを借りて見る機会が多く、家内に「是非見たほうが良い!!」と薦められ一緒に見ました。一度目はなかなか身にしみる場面が多く、「なるほど、気を付けなくてはいけない」と感じました。その後数日、数週間が経過しても、どうもこの映画のことが頭から離れず、今度はDVDを買い、一人でじっくりと見ました。
主人公のWarren Schmidt は66歳、結婚42年、オマハの大きな保険会社のAssistant VP の職を最後にリタイアする当日の場面から映画は始まります。主人公自身の人生への思い、特にサポートをするアフリカの孤児Nduguへの手紙を媒体としての自己発見、妻との関係、娘との関係等を中心に話しが進みます。
映画の一つのテーマは、Warren の不満・怒り、「自分の人生は何であったか、会社仕事、自分は何かに貢献出きたか?」「妻はいつも自分をコントロールする、彼女の小さな仕草や趣味が気に入らない!」「娘はとんでもない輩と結婚しようとしている、許せない!」、そして、もう一つのテーマは感謝、「退職直後に脳梗塞で急死した妻への感謝」、「全く気に入らない娘のフィアン家族への感謝」、「Nduguへの感謝」。
私は今年で50歳となり、Warren の年までにはもう少し時間がありますが、会社・仕事・妻・娘とかなり身にしみる映画の設定で、とても共感できる映画でした。しかし、どうも何かが足りないという思いがずっと残っていました。考えてゆきますと、示される事は、足りないものは「神様への感謝」と思えてきました。自分との関係、家族との関係、知人・友人との関係の前に「神様との関係」。そして、「神様に似せて創られ、生かされていることへの感謝」、この根源的な部分の神への感謝、自分の支配でなく、神の支配への委ね、この大切な部分が描かれていない事が映画への消化不良の原因と確信出来ます。Warren から怒り・不満がなくならない。しかし、ふと自分を振り返ると、Warrenとあまり変わらない姿が見えてきます。自分に対して、そして会社・仕事・対人関係の不安・怒り・恐れ。自分では解決出来ない、どうすれば良い。自分には出来ないが、神様には出来る。全てをゆだね、全てに感謝し、生かされている自分がいると考えると、不思議いや当然、不安・怒り・恐れが去り、平安が与えられます。
1991年12月22日にJCCNJで正木牧師から洗礼をうけ、「あなたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。」 ヨハネ15-16の御言葉を頂きました。洗礼から12年、やっと神様の大きさ、偉大さを痛感しています。洗礼にあたり、この御言葉を語られ正木牧師を通して、特に私に選んでくれました神様に感謝です。
その後のWarren は教会、神様につながり、神様の力により沢山の実を結んだという「About Schmidt 2」を楽しみにしています。日々、働いて下さる神様に感謝!思いやり深い家族、特に妻に感謝です!

月報2003年11月号より

「無言の宣教」

去る4月16日朝、弟の毅が安らかに天に召されました。長い間教会の皆様にお祈り頂きましたことを遅れば
せながら心から御礼申し上げます。

この日は奇しくも私の72歳(年男)の誕生日で弟が俺の命日を忘れるなよと言っているような気がしていま
す。

さて、弟は長い間私達の家族の中で唯一人のクリスチャンでした。彼は小学生の時同級生で親友だった上野さんという方のご一家が敬虔なクリスチャンホームだったことから教会に導かれ高校一年生のとき洗礼を受けた様です。この上野家というのはお父様が東京朝日新聞社の社主というえらい方でありながら子供たちの友達が来るとお母様ともども一緒になって子供たちの話題に入って下さるような素晴らしいご家庭でした。翻って小学校6年生の時に父を亡くし、私とは歳が離れすぎていて家に帰っても話し相手もなかった弟が温かい上野家に惹かれて行きそのベースにあるキリスト教に親しみを感じたのは自然の成り行きだったのでしょう。

弟の偲ぶ会の席上、多くの方々から私の知らなかったことも含めて弟にまつわる様々なエピソードが語られました。その多くは「仲人口半分」に聴いてもいずれも弟は面倒見がよかった、弟に感化された、弟のお蔭でクリスチャンになった、というような話で彼はそんなに「偉大」だったのか!・・・という思いを抱かざるを得ませんでした。そして会の後で前出の上野さんが私に「タックン(毅のニックネーム)と出会えた事は本当に幸運でした。

私たちは真実盟友でした。彼は色々な意味で私の人生を変えてくれました。」と言って下さった時はじーんときて涙が出そうになりました。上野さんに弟が感化されたとばかり思っていたのに逆に弟が上野さんの人生を変えたなんて・・・・盟友というのはお互いに感化しあい向上しあうものなのか、そう思うと今までの人生に盟友といえる友人を持ち得なかった自分が薄っぺらで情けなく思われ、無性に弟が羨ましく感じられました。

同時に今、私が救われているのは実は弟のお蔭ではないのか、という思いが次第に大きくなってきました。弟は私に対して一言も宣教めいたことは言いませんでした。しかし弟の生きざまは全てが愛に満たされ、クリスチャンの生き方を具現していた様に思えます。私が受洗するにあたっては教会の皆様に引っ張り上げて頂いたりお尻を押して頂いたりしました。それは勿論有難く、私の救いの為の直接的なfactorでした。しかし、もし弟の存在がなかったらきっと傲慢で頑なな私は教会に足を踏み入れることすらしていなかったと思います。神様は弟を通して私を愛の道に導いて下さったのではないでしょうか。

天国の毅に感謝をこめて。

月報2003年10月号より

「主の愛に包まれて」

主の愛に包まれていました。八年過ごしたアメリカ生活を終えて、今、それまでのことを振り返ってみると、そう思います。どんなときにも主はともにいて下さいました。孤独、苦しみのどん底にあるときも、自分の力だけを信じていたときも、傲慢になっていたときも、神様の愛を知らないときも、その愛を知っていながら神様が悲しまれるようなことをしたときも、共に居てくださって僕を支えてくれていた。こんなにもどろどろとした心を持った弱い、罪人を。それを思ったときになんと大きな愛なのだと、こんな自分をここまで愛していてくださる方がいるのだと思ったときに抑えられない感動を覚えました。

その感動の中で特に心に残っていることを書かせていただきたいと思います。

二年前の八月だったと思います。その当時教会学校の校長先生をされていた姉妹から教会学校の先生をしてみないかという話がありました。それまでの自分は、絶対に僕には教会学校の先生は頼まれない、もし頼まれたとしても絶対に断ろうと思っていました。僕に頼むなんて血迷ったかとも思いましたが、そのときある御言葉に心を打たれていました。「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた聖なる供え物としてささげなさい。」(ローマ人への手紙12章1節)神様のために何かしたいという思いが与えられていて、単純な自分は何も考えずにその御言葉を信じて引き受けますとその場で返事をしていました。

その後、家に帰って考えてみた時、自分がなんて大変なことを決めてしまったのか気づきました。というのは、自分は話すのが一番苦手だからです。冷静に考えてみると、自分には無理ではないのか、普通に考えたらやっぱりだめだよなーという思いでいっぱいになって、引き受けたことをすごく後悔しました。友達に教会学校の先生をやることになったと話したときには、「向いてないね」と皆に言われ、本当に自分はこの奉仕に向いていないのだと心のそこから思い、自分の至らなさに愕然としたのを覚えています。

その時、自分の心の中に五つのパンと二匹の魚で五千人の人のお腹を満腹にした話が浮かんできました。イエスについてきた五千人もの群集が周りに何もないとことにきて疲れ果て、食べ物を必要としていたが、イエスの弟子たちの手元にあったものは五つのパンと二匹の魚だけだったので、群集を近くの町に行かせるようイエスに提案した。しかし、イエスはそれを持ってきなさいと、五千人を前にして、弟子たちが持っていたちっぽけで何の役にも立たない食べ物を、イエスの元に持ってきなさいというのです。そして見事にイエスは何も役に立たないもので五千人もの人を満腹にしてしまったという話です。この話を思ったとき、自分はこの時の弟子たちと同じなのだ、自分にはちっぽけなものしかないけど、イエス様はそれを何十倍にも大きくしてくれるのだ、大事なのはその至らないところに働く力を信じて、そのままの自分を神様のために捧げることなのだと思わされました。そして教会学校の奉仕を引き受けたことを後悔していた自分に勇気が与えられ、やってみたいという気持ちに変えられていました。

そして二年間この奉仕をさせていただいた中で本当に主は至らないところに働いてくださる方なのだということを経験させていただきました。自分のようなものが担任をして生徒だった子供たちには申し訳ないという気持ちもありますが、自分ではなくて神様が確実に毎回のクラスにいてくださって子供たちを導いていて下さっていたのだと、人間の頭で考えるレベルを遥かに越えた事を日々されているのだと思わされました。

アメリカでの生活を終え、香港、中国本土で新たな生活を始めますが、どこに行っても、今までずっと共にいてくださった神様がこれからも共にいてくださると思うと、新天地での生活への不安が吹き飛んでいきます。これからどんな嵐が襲ってくるか分りませんが、その嵐の中を、僕を愛してくださる神様と共に歩んで行きたいと思います。

月報2003年9月号より

「私はこの6月、ペンシルバニアで行われた…」

私はこの6月、ペンシルバニアで行われた“クリエーション2003”というクリスチャンのイベントに参加しました。これは、1979年から続いているとても有名なクリスチャンコンサートで、イベントは5日間続き、参加者はテントに野宿しながら、コンサートや神様からのメッセージを5日間ノンストップで聞き、主を礼拝し賛美するものです。今回は、友達のデズリーの教会のユースグループで参加することになり、私も誘ってもらえたのです。こんな機会は一生に一度しかない!と興奮しましたが同時に5万人の若者が参加すると聞いた時にはちょっと心配でもありました。
キャンプの初日は、それまでの雨ばかり続いた天気とは打って変わって、90度を超える暑さとなり、この暑さの中どうやって5日間生き延びるわけ?と思い、私もデズリーもめまいがしてきました。でもプログラムがはじまったとたんに気持ちがしゃきっとしてきました。私は神様が私とともにおられることがわかりました。賛美の中には教会でもよく歌う“Above Allモ や メAwesome Godモなどもあり、その日のメッセージは、世界中に出て行って福音を述べ伝えなさい、というもので、夜には聖餐式もありました。
翌日の朝は礼拝から始まり、その日のスピーカーのトーマス牧師はクリエーションが始まって以来100人以上の若者に洗礼を授けた人でした。私は神様がこの私と共にいてくださるのと同じように、こんなにも沢山の若い魂に触れてくださっている事実に驚きすら感じました。その日の夜にはキャンドルサービスがありました。ろうそくを手にしてふと後ろを振りかえると、
5万人が入ったスタジアムがキャンドルでいっぱいになっている光景は、胸を打つものでした。
こんなにも沢山の人がひとつになって、主への賛美と感謝を捧げている姿は忘れられません。
次の日“PrayerTentモで起こったことは、私の人生を作り変えました。その夜のスピーカーのデイビッド牧師の「今、自分の人生を変えて神様にもっと近づきたいと思っている人」という招きに、私は立ち上がって前のテントに進み出ました。私は、昨年洗礼を受けてから、私の信仰生活はローラーコースターライドのようで、霊的な戦いの中にいたので、今私にそれが必要だということを感じていたからです。私は他の招きに応じた人たちと一緒に立ち上がり“PrayerTentモに行きました。友達のデズリーとデズリーの教会のYouth Pastorのデイヴも一緒に来てくれました。テントの中に一緒に座ったとたんに私は、心の中のすべてを注ぎ出す事ができました。クリスチャンになっても、いつも喜びと感謝に満たされているわけではないこと、未だに神様へ対しての飢え渇きがあること、妹とうまくやっていけないことなどを告白しました。デイヴとはまだ会ってから数日しかたってないし、あまりしゃべってもいないのに、彼は私の話を真剣に聞いてくれて、私が神様から目を離さないよう、霊的に強くなれるように祈ってくれました。そして、彼のクリスチャンとしての歩みの中にも同じようなことがあったし、これはクリスチャンが誰でも通る試練でもあることを話してくれました。そして、その試練は神様が私たちを強くしてくださるためであり、ずべての事において神様に立ち返るようにするためだとも教えてくれました。私はこの夜、自分が大きな思い違いをしていたことにはじめて気が付きました。私は、クリスチャンになったらその瞬間からすべてが変えられすべてが良くなると思っていたのです。でも実際は神様は私たちをテストして、私たちに色々な試練を経験させる、でもそれは、私たちを毎日少しずつ強めてくださるためだったのです。
一番大切なことは、そういった試練の中でも神様に立ち返っていくこと、決して神様に背を向けないことなのです。クリスチャンになったからといって一晩で何もかも変わるわけではないのです。デイヴの話のあと、私が“完璧”と思っていたデズリーでさえ、私と同じ体験をしたことを話してくれました。私は2人が私の話を聞いてくれて理解してくれたことをとてもうれしく思いました。そのあと、自分のテントに戻ってデズリーと他の友達と一緒に、夏が終わって、学校に戻ったら、まだイエスさまを知らない友達に対して、イエス様の良き証人となることができるよう、祈り合いました。私は神様がこのように一緒に祈り合える友達を下さっていることに本当に感謝しました。
このクリエーションでは、本当にクリスチャンが変えられるのです。私はこの5日間で、私が求めていたものすべてに出会うことができました。神様は本当に私の必要を全部ご存知でした。
なんて素晴らしいお方でしょうか。神様が私の必要を満たしてくださるために、このクリエーションへ送り出してくださったのです。この暑さの中、耐えられたのも神様が守ってくれた以外に考えられません。(教会の皆さんもお祈りしていてくれたことを後で知りました。ありがとうございます。)私は、こんな素晴らしい神様のことをこれからもまわりの人たちへ伝えてゆきたいです。

月報2003年8月号より

「しかし、わたしが与える水を飲む者は…」

「しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。」(ヨハネ 4:14)。去年のイースターに、私はこの御言葉によって生まれ変わったのです。
この御言葉に導かれるまで、私は毎日が不安で、自己嫌悪ばかり感じていました。常になにかをやって目標を達成していかないと、周りに認めてもらえない、こんな自分は誰にも愛されない、と思っていました。自分に自信がなくて劣等感を感じる時もあれば、友達よりもテストの点数がいいと優越感を感じたり、誰にでもいい顔をする表面的な付き合いに嫌気がさしたり、自分が何なのかわ分からなくなっていたのです。何のために生きているのだろうと思ったことも少なくはありません。あることを成し遂げた直後は、達成感で心が満たされていたのですが、時間がたつと、またやらなきゃ。。。と、あせりを覚えることの繰り返しでした。心にぽっかりと空いた空洞を埋めるのに一生懸命で、「幸せ」というものを感じる余裕さえなかったと思います。埋まったと思ったらまた穴が空いてしまう心。どうしたらこの苦しみから抜けられるのだろう。。。といつも思っていました。
そんな時、私は錦織先生に出会いました。日本で通っていた、ミッション系スクールの聖書の時間と違って、聖書に書かれていることをただ勉強するだけでなく、先生は、私の悩みに親身になって相談に乗って下さり、聖書の御言葉の中に一つ一つの答えを見出して下さいました。その時の先生の言葉は、どんなアドバイスよりも、一番私の心に平安をもたらしてくれました。そして必ず、「どうか沙織ちゃんが心のドアを開いて、あなたの大きな愛を受け入れられるようになりますように。」と一緒にお祈りをして下さいました。その時初めて、私は神様が差し伸べて下さっている手を取っていなかったことに気付きました。そのことに気付いた途端、私は言葉では表せないような暖かいものを感じました。あの生まれ変わった時の喜びは、昨日のことのように鮮明に覚えています。
洗礼を受けてから、本当に毎日が明るくて、神様に愛されることが嬉しくて嬉しくてしょうがない日々を送っています。どんなに辛いことがあっても、苦しい思いをしても、「いつだって神様と一緒だから!」と思うと、何でも乗り越えられる気がします。物事がうまくいかなくても、「これは神様が私にベストだと思って立てて下さった、神様のご計画のうちなんだ。」と思うと、何も怖くありません。切羽詰っている時でも、お天気が良いことを喜んだり、おいしくご飯が頂けたり、生まれて初めて「余裕」というものを感じることができるようになりました。些細な幸せを感じられるほど、素晴らしいことはないと今感じています。
しかし、ある教会の仲間へ送ったEメールに書いたことなのですが、神様に救われて怖いものも怖くなくなった後も、「完璧なクリスチャンになるには」ということで随分悩みました。この一年間を振り返ると、心の中で沢山のことと葛藤していたような気がします。正直に告白すると、聖書をまだ全部読んでいないし、学校とピアノの忙しさにかまけて、教会にもあまり行っていませんでした。自分のお祈りの仕方が間違っているのではないかと悩んだことも何回もあります。更に、「神様なんていないんだよ。」と言いつつ、「ああ、神様助けて!」、「神様恨むよ!」と言う、ノンクリスチャンに腹を立ててしまったり(自分だってついこの間まではクリスチャンではなかったのに!)。。。時には、非クリスチャン的な自分は教会へ行くことも、ましてや聖餐にあずかることなんてふさわしくない!と、思いました。
と、この様に反省点ばかりなのです。でも、そんな私を聖歌隊の伴奏で使って下さったり、Genesistersに仲間入りさせて下さったり、たまに教会へ行っても温かく接して下さったり、一緒にお祈りをして下さる兄弟姉妹を見て、なんてみんな心が広いんだろう!と、感動しました。どんな人でも寛大な心で受け入れる。。。これが、イエス様を信じるクリスチャンなのですね。この一年は本当に兄弟姉妹にたくさん励まされた一年でした。今、皆さんに感謝の気持ちでいっぱいです。
私には今、大きな夢があります。自分と同じ子供が、衣食住に不自由したり、病気で苦しんだり、親を戦争で亡くして寂しい思いをしていることがいたたまれません。「受けるより、与えるほうが幸いである」という教えのように、神様から頂いた充分な恵みを、奉仕を通して多くの子供に分けてあげたいと思っています。皆さんが私にして下さったように、乾く心を持つ人々に、永遠の泉のあることを教えてあげることができたら、どんなに素晴らしいことだろうと思います。まだまだ未熟ですが、これからも神様を愛し仰ぎつつ、歩んで生きたいと思います。
皆様、どうぞお元気で! May God bless you~♪

月報2003年7月号より

「修養会で受けた恵み」

私たちの教会では、去る5月9日から11日まで、Pennsylvania州のStroudsburgのキャンプ場で修養会を持ちました。その時にいただいたフレッシュな恵みをお証ししたいと思います。

私は2歳の時に母を亡くし、母方の祖父母によって育てられました。父とも生き別れの状態になってしまったので、両親の愛を直接体験する機会を持たずに育ちました。祖父母が祖父母なりの愛情を以って私を大事に育ててくれたので、特に問題も感じずにずっと人生を歩いて来ました。ところが、クリスチャンになって、神様の愛、イエス様の愛のメッセージを聖書から学んだり、聞いたりする度に、その愛を自分の中でイメージすることが出来ない自分を発見しました。そして、「自分を愛するように、隣り人を愛せよ」と言われると、はたして私は「自分」を愛しているのだろうかという疑問を持ち始めました。イエス様の愛はアガペーの愛といわれ、犠牲を伴う愛、惜しみなく自分の命を捧げる愛であると言われます。そしてその愛を、親が子供を愛する愛に喩えて私達は理解しようとします。両親の愛を体験せずに育ったので、私には実感としてそのことが分からないのだろうと思いました。今回の修養会には特別ゲストとして、ハワイからRandy & Gay本郷先生ご夫妻が参加して下さいました。そして、ニューヨークで働いておられる息子さんのAndrewも加わって、3人で、本当に素晴らしいハーモニーの賛美を聞かせてくださいました。3人が心を合わせて賛美される中に、ご家族の愛があふれんばかりに伝わってきました。Andrewの清々しい笑顔の中に、ご両親の愛を一心に受けて育たれたことをひしひしと感じました。私のまわりにも、愛情を自然に表現できる方が沢山おられます。私はいつも羨ましい、私もいつかそうなりたいと思っていました。イエス様の愛で心を満たしていただけば解決すると信じて、いつも祈っていました。確かに祖父母(すでに亡くなっているので昔のことを思いだして)、主人や息子、身内の人たち、教会の兄弟姉妹、あるいは友達を通して示されるイエス様の愛によって、少しずつ心が満たされて行きました。それでも、なおかつ、心の中に満たされない部分が残っているのです。イエス様が私の罪の贖いのために十字架にかかってくださったその愛にお応えして、私も「愛の人」になりたいと心から思いました。でもいつも自分の愛の足りなさが示されるばかりでした。

今回の修養会では、ロンドンのJCF(Japanese Christian Fellowship)の盛永進先生がヨハネの福音書4章1節~42節のサマリアの女の箇所から、4回にわたってメッセージを語ってくださいました。先生のメッセージを通して、十字架にかかられ、3日目に甦られたイエス様が、現在に生きている私たちの現実、抱えている問題に深く関わってくださる方であることが伝わってきました。そして私たちの問題に具体的に解決を与えることのお出来になる方であり、「生きた水」を与えたいと願っておられる方であることを強く感じました。それで、2日目の夜の集会が終わった後に、盛永先生に私の問題をお話してみよう、何か解決が与えられるかも知れないと言う思いになりました。「先生、実は私は、、、」と私の生い立ち、私の抱えている問題を先生にお話しました。「うん、うん」と相槌を打ちながら聞いておられた先生が開口一番「無理なんですよね。」と言われました。「無理?」「イエス様の愛で満たしていただいて、人を心から愛せる人になれるようにお祈りしましょう」と言ってくださると期待していた私は、一瞬「ではどうすればいいの?」と思いました。先生は続けて「そういう境遇に育った人は、その部分が閉じ込められているからね。でもイエス様はそれで良いと言ってくださっているのだから良いじゃないですか。神様は愛の足りないまま受け入れてくださっているのだから。親の愛を知らずに育ったことが利点となることもあるのですよ。」と言って、祈ってくださいました。(ご両親の愛情を一杯に受けて育った方と同じように人を愛することは無理だ、という現実を示されて、そのことで頭が一杯になってしまった私は、先生が何を祈ってくださったのか思い出すことが出来ません。)部屋に戻ってからも、「無理だ」と言う現実を理解しようと試みました。確かに、私のような境遇に育った人、つまり、親に愛されることを体験せずに育った人は、その部分が開発されることはなかったのだなということが理解できました。例えば、生まれてから一度も歩いたことがないとすれば、歩くために必要な筋力、歩くために必要なバランスが開発されないままに成長していきます。後から歩く訓練をして歩けるようになっても、自然に歩ける人とは開発される能力が違うかもしれないと納得しました。親に愛されて育った方と同じように、同じ仕方で愛さなくてはいけないと思っていた事が間違いであったことに気づきました。

そして、神様は私の全てをご存知で、そのままで良いと受け入れてくださっているのだ、と言うことが分かりました。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」イザヤ書43章4節のみことばが心に浮かび、神様が受け入れてくださっているように、そういう自分自身を認め、受容する=愛することが出来ました。次に「わたしの恵はあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。」コリント人への第2の手紙12章9節のみことばが心に響いてきました。わたしの内におられるイエス様の愛が、わたしの足りないところに完全に働いてくださるとは、何と心強いことかと感謝の気持ちで一杯になりました。私が精一杯がんばっても、示すことの出来る愛は小さなものです。限りのあるものです。その何倍も何十倍もの大きな愛が、神様の力によって表されるとしたら、何という恵みでしょう! 私にとって素晴らしいというよりは、その愛を受け取る方にとって、何と大きな恵みとなるでしょう。私が愛する以上に神様はその方のことを愛しておられるのですから、きっとその方にとって必要な方法で愛を表してくださるでしょう。そう思った時に、私は捕らわれていた物から全く解放され、喜びに満たされました。翌日の礼拝のメッセージの中で、盛永先生が「この世で大きな功績を残している人、特に文豪と言われる人の中の多くが孤児だったのですよ。それは、『わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』という聖書のみことばの成就です。」と語られた時に、神様がもう一度私にそのことを確認してくださったと、本当に感謝しました。私達は私達に与えられている利点だけを神様からの賜物と考えてしまいがちですが、不利な点も神様が賜物として与えてくださっていて、それを用いての使命も与えてくださっていると思いました。私に実行出来ることは小さなことかもしれませんが、そこに働いてくださる神様の偉大な力に信頼して、小さなことを忠実に行っていくことが出来るように、毎日を歩んで行きたいと思いました。

修養会を開いてくださった神様、盛永先生ご夫妻、本郷先生のご一家、錦織先生、修養会のためにご奉仕下さったお一人お一人、そして、家で不自由を忍んで留守番をしてくれた主人と息子に心から感謝いたします。
月報2003年6月号より

「僕を信仰へと導いてくれました敬愛する楠秀樹先生へ」

ニューヨークは3月に入っても寒い日が続いており、「春遠し」という感じです。こういう時にはカリフォルニアの気候が懐かしく思い出されます。

毎週日曜日に行っているLTG*の交わりを通して、本当に恵みが与えられていますこと感謝しております。また、毎週、先生にお祈り頂いていることで、日々の生活が主によって守られています。ありがとうございます。

さて、これは、昨年11月から開始したLTGにより、確かに神様が僕を変えて下さったことを証しする手紙です。これからもLTGの学びが豊かに祝福されることを祈りつつ、ペンを取りました。

先ず、今回の背景となる僕の置かれた状況についてここで、改めて申し上げます。先月、2年半勤めていた会社を退社しました。その理由は(1)営業マンとして会社が期待する結果が出せなかった(2)結果だけでなく、会社の求める能力が自分自身の能力を超えてしまった(3)会社が急速に変化してくスピードについていけなかった、の3点が挙げられます。誤解のないように申し上げますが、これらの理由は会社との数回にわたる話し合いで双方同じ理解のもとで到達した結論です。

とは言っても、これらのことはビジネスマンとしては致命的な人事考課であり、僕自身の努力不足、勉強不足を考慮しても、仕事中心のアメリカ生活を送っていた僕にとっては、とても受け入れ難い出来事でした。人は自分自身の能力を知らされた時が一番辛い、と言われますがまさにその通りでした。会社に対する過去2年半の貢献が否定されたようで、いわゆる挫折感を抱きました。

しかしながら、このような事実を素直に受け入れることができたのは、ずばり「イエス・キリストを救い主とする信仰」のおかげでした。もし、この信仰がなければ自暴自棄になり、かなり荒れていたことでしょう。そして、何かをスケープゴートにして自分自身を正当化していたと思います。たとえ荒れていなくとも、この事実を受け入れるには多くの無駄な時間と労力が必要であったと思われます。

素晴らしい信仰のおかげで、辛いことを素直に受け入れることが出来ただけでなく、感じていた挫折感が主への感謝にと変わりました。ハレルヤ!です。僕をクリスチャンへと導いてくれました先生に改めて、感謝申し上げます。「ありがとうございました。」そして、神様は今回の出来事を通して僕自身をも変えて下さりました。その変えられた点を下記の3点にまとめてみましたので、お伝えします。

1「ラストチョイス」から「ファーストチョイス」へ
クリスチャンになってから、これまで祈りや聖書の中で求めてきたのは、自分が勝手に決めた行動の結果への安心と平安でした。つまり、クリスチャンとしての歩みの過程で、転び、つまずき、傷つき、壁にぶち当っても、最後の最後には神様の守りがあるから大丈夫だという考えでした。今回の件も、神様が最後には守って下さるので「それまでは自分自身で進めるところまで行こう」という神様を切り札とした自分勝手な歩みでした。これこそ、神様に背を向けることであり、神様が最も悲しむことでした。神様は全てにおいて、最後の最後ではなく、最初の最初として、求めていくお方であると気づかされました。

2「欲望」から「希望」へ
正直言って、これまでの人生のモチベーションはすべてが「何々したい」でした。過去10年のアメリカ生活は特にそうでした。「経済的に成功したい」「社会的に成功したい」「人からよく思われたい」「人からほめられたい」など、満たされない物事をなんとしても満たしたいという心、つまり欲望が僕を支配していました。

そうではなく、神様を第一とする歩みの中に欲望ではなく「希望」だけがあることに気づかされました。それは神様が僕にとって益とされるものを備えておられるという確信です。まさに暗闇の中に与えられた光のようでした。今のところその光は遠くの遠くにポツンと輝いており、何時その光に到達するか知る由もないですが、僕にも僕にふさわしい光を与えて下さるという神様への信頼が希望になりました。

希望を与えられたことで、今回の件も神様の計画の一部であると受け入れることが出来て、神様がこれから僕に何を用意してくれているのかと思うとワクワクします。希望を待ち望むことは喜びでもあります。まさに、希望が「喜望」になりました。もっと素晴らしいのはこの希望は失望に終わることはないと、しっかりと聖書(ローマ人への手紙5章3節~5節)に刻まれていることです。ハレルヤ!です。

3「主人公」から「脇役」へ
僕の人生の主人公はもう僕自身ではありません。これまでは、天動人生(天動説のように自分を中心にすべてが回っているという人生)などという言葉を信念として、自分中心にそして自分勝手に生きてきました。しかし、上記のように神様を第一とする歩みにおいて、すべては神様であり、僕の人生の主人公は神様であると告白できます。

僕は今年10月で34歳になりますが、ここにきて僕の人生の第一幕が終わり、これから第二幕が開こうとしているようです。人生の第一幕では僕という素人芸人がなんとなく舞台に立っていましたが、第二幕では、ステージに上るのはイエス様です。僕は脇役か黒子か、もしくは客席で拍手をもって主人公であるイエス様をたたえることが僕に与えられた役割であると気づかされました。

「神様はラストチョイス」「欲望に支配」「自分が主人公」というこれまでの歩みを振り返ると、それは綱渡りと譬えられます。それでも、ここまで綱から落ちずに歩んでこられたのは神様の愛のおかげでした。もし、このままこの状態で歩み続けるならそれは、綱よりももっと細い糸の上を歩んでいくようなもので、ゾットします。そうではなく「神様がファーストチョイス」「希望に満たされて」「神様が主人公」とする歩みは、硬くて広い舗装された土台の上を進むことであるとイメージ出来ます。

神様のしっかりとした硬い土台の上に、仕事とは何か、家族とは何か、将来築いていく家庭とはどうあるべきか、人間関係はどうか、ということをひとつひとつ神様に導いてもらい、これからの人生を歩んでいきます。その大きな第一歩を今、踏み出しました。

このように毎週行うLTGの学びを通して神様が僕を変えて下さったということに付け加えて、先生にもう一つお伝えしたいことがあります。それは、神様は先生を通してその栄光を僕に見せて下さったことです。毎週の先生との分かち合い、罪の告白、そして祈り合いで先生に「癒され励まされ」「慰められ元気づけられ」ました。それは先生を介された神様の素晴らしい働きによるものであると確信しております。「ああ、素晴らしいではありませんか、そのように神様は私たちのLTGの学びにいつもいて下さったのですね。ハレルヤです。」

先生、お祈りさせて下さい。「愛する天のお父様。あなたの御名を賛美します。神様、あなたに背をむけていた的はずれの歩みをお赦し下さい。悔い改めます。あなたとの和解がイエス様の十字架の死によるもので、私たちの罪を贖ってくれましたことを覚えて、大いなる神の愛とイエス様の恵みに感謝します。また、先生を通してあなたの栄光を現して下さったことを感謝します。今一度、心よりあなたを賛美したい気持ちで満たされています。感謝です。アーメン。」

チコさんにもよろしくお伝え下さい。チコさんの健康が支えられますようにお祈りしております。それでは、また、次回LTGの学びでお話します。

・LTG(Life Transformation Groups):LTGとは2~3人でグループを構成して行う楽しみを備えた双方向のコーチングプログラム。1週間に約1時間ミーティングを持ち、そのグループの中で、心を開き、正直に、人格形成を促す会話と罪の告白を行う。LTGの学びで行うことは次の3点。

(1)あらかじめ決められた人格形成の質問事項に交互に答えていく。その質問内容は「先週、主イエス・キリストの偉大さを、言葉と行いを通して証ししましたか?」「先週、あなたの身近な人の気持ちをよく理解し、やさしく寛大に接しましたか?」「先週、誰かに対して腹を立て、怒りが収まらなくなったことはありませんでしたか?」などを含む計11項目。これらの質問項目に基づいて、罪を告白し合うこと、相互に報告義務を持つことを目的とする。
(2)グループごとにその週に読む聖書の箇所を決めて、同じペースで聖書の御言葉を繰り返し読む。
(3)まだ救われていない人々のために祈る。

詳細参照URL: 日本語  http://homepage3.nifty.com/rac/coach_ltg.html
英語   http://www.missionspokane.org/globalocal_life_transformation_groups.htm

月報2003年5月号より

「備え給う主の道を」

今、私は20年11ヶ月のアメリカ生活に別れを告げようとしています。
過去40年薬学と製薬企業の中で働いてきましたが、良い薬は病気の原因を作っている仕組みを攻撃するけれども、正常な身体の仕組みには悪さをしないで、その使命を果たしたら速やかに体の外に出るべきものなのです。ここ10年余の私の専門は、薬が人の体に入ってから排泄されるまでの経路を追いながら、有害反応の可能性を臨床試験に入る前に見つけ出すということでした。かつてはあまり省みられていなかった領域でしたが、今では新しい薬の開発にとってかなり重要な事柄とみなされるようになりました。特にこの10年余、情報と技術の急激な進歩によって、製薬の研究開発過程で行われる試験の質も量も圧倒的に増加しました。それにつれて良い薬の標準は高まり、かつては死を待つばかりだった人々が新しい医薬のおかげで職場復帰できることがまれではなくなりました。一方、いまやどんな業界でもそうであるように、企業の生き残りをかけた競争のために、大手製薬企業の合併とその後に来る過酷なリストラが当たり前のように行われるようになりました。何と激しい時代に生かされてきたことかとしばしば思います。
あの国際多発テロは、この地での衝撃の体験でした。一人でも多くの命を救おうとする努力が医薬開発でなされている一方で、理不尽な大量殺人が行なわれたのでした。人権擁護思想が進歩して、これこそ人類の成長の証しかと思わせられる一方で、武力行使によって国際正義を打ち立てようとする旧約聖書の時代と変わらない戦術がとられています。平和共存にむけての人類の英知の進歩というものはないのかと心底問わずにはいられません。

女が海外で一人こんな時代を生き抜いてきたことを知って、尋常ならざるものが私の中にあると感じた方が、「ひょっとしてあの人はかつて全共闘の女闘士だったのでは?」と憶測されたと聞いていますが、それはかなりの見当違いです。
アメリカでの仕事の体験を学生に話して欲しいと言われてお話させて頂いたことがありますが、お招き下さった大学教授との昼食の折「私は本当に愚直としか言いようの無い融通の利かない生き方をしてきたのです。」と申しあげたところ、この方は我が意を得たりと言わんばかりに膝を打って 「そういえば、成功の秘訣は『運』『鈍』『根』といいますね!」とおっしゃいました。私が成功者かどうかは多いに疑問がありますが、その方の感のよさに感心したことでした。
私の場合、「運」とは信仰を与えられていたことにほかなりません。「鈍」は正真正銘文字どおり自分に優れた能力の無いことを自覚していましたから、神様の導きにすがって一歩一歩進むしかありませんでした。「根」とはそれに値しない者に神様から与えられた許しと恩恵に対する感謝の応答に他ならないのです。他から観たら馬鹿かと思われるほど、ある意味で私は「根」の続く人間です。

すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。(コリント第一1:19)

神様は確かに信じてより頼む者を担ってくださるのだとつくづく思うこの頃です。私の帰国の目的は老母を最善に介護するためでした。そのために昨夏以来、日本にいる妹達と知恵の限りを尽くして段取りをしてきました。しかし神様は2月28日満90歳の誕生日に母を召されました。それは私のこちらの住まいが売れた翌日でした。「人は心に自分の道を考える。しかしその歩みを導くものは主である」 (箴言 16:9)。私は今すべてを神様の導きに委ね、期待して日本での生活に向けて発ちたいと思っております。

月報2003年4月号より

「私は、小さいときは 神さまや…」

私は、小さいときは 神さまやイェスさまのことを何もしりませんでした。
クリスマスが イェスさまのたんじょうびだということもしりませんでした。クリスマスはサンタさんがプレゼントをもってきてくれる日とおもっていました。

5年前にアメリカにきて、おともだちにさそわれて、 たまにきょうかいに来るようになりました。でも、きょうかいがなにかはしらずに、きょうかい学校やJoy Joy キャンプに来ていました。れいはいのときも、まだgymであそんでいたので、 うえでみんながなにをしてるか、ぜんぜんしりませんでした。

2年前 に、お母さん がなくなってから、 きゅうにきょうかいの人たちとなかよくなって、はじめて「しゅうようかい」に行きました。しゅうようかいのときも、子どもはほとんどあそんでいたので、イェスさまのことはあまりわかりませんでしたが、とてもたのしかったので、また行きたいとおもいました。

それからまいしゅうきょうかいに行きはじめました。さいしょはなにもわからなかったけど、 行っている間に、みことばをならったり、イェスさまのことをすこしづつおしえてもらいました。
アメリカの きょうかいの ユース グループ にいきはじめて、そこのしゅうようかいにも行って、せいしょのお話をきいて、神さまが人間をつくったことなどをおしえてもらいました。

それから2年たって2002年のしゅうようかいに行ったとき、イェスさまについて行こうと思いました。このしゅうようかいでお話ししてくれた、くりす先生が
「イェスさまは わたしたちみたいな 人間 だった。」 って 言ったとき、
それから、「イェスさまが じゅうじかの上にいるとき、どんなにせなかが、すれていたかったか」 っていったときに、じぶんがいたいような気がして、どんなにイェスさまはいたかっただろうかと思って、すごく自分が つみびとだなってかんじました。
そして、それまでもイェスさまのことをもうしんじているけど、今、ちゃんとに神さまに、「しんじている」と、おいのりをして、きもちをつたえようとかんじて、せんれいをうけることをきめました。

その、しゅうようかい のちょっと まえ、ともだちから、あるしつもんをきかれました。
そのとき、じぶんの答えを secret にしたかったから、うその答えを言ってしまいました。
そのときは、べつにへいきだったけど、後になって、すごく guilty に思えました。
つぎの日、ともだちに学校であやまって、ほんとうのことを言いました。そのともだちは、ゆるしてくれました。
でも、あやまるときはとってもゆうき が ひつようでした。でも、あやまって本とうのことを言って、とてもきもちがあんしんしました。

もし、イェスさまが、わたしたちのために、じゅうじかにかかってくださったことをしらなかったら、うそを答えたことにあまり大きなguiltをかんじないで、さいごまで本とうのことを言わず、その子にはあやまらず、すこしたってわすれていたかもしれません。でも、イェスさまのことをかんがえると、とてもわるいことをしたんだなって思って、ゆうきを出してほんとうのことが言えました。
あやまってから、わたしの中で、もう、うそはつかない ようにしようときめました。

2002年12月 15日に、せんれいをうけました。

せんれいを うけた後、クリスチャンでないおともだちに、神さまや、イェスさまのことをつたえたい というきもち が大きくなりました。
わたしは 、おともだちに 神さまがいつもいっしょにいてくれることとか、せかいを作ってくれたのは神さまだとか、神さまはまちがえをしてない、とかをしってもらいたかったから、ほかのともだちがこういうことを しゃべっているときは、じぶんもいっしょにつたえたいと思うことがとてもおおくなりました。おともだちにまず 神さまをしってもらいたいとおもってます。

「しかし、かれをうけいれたもの、すなわち、その名をしんじた人々には、かれは神の子となる力をあたえたのである。」ヨハネによるふくいんしょ、第1章12節

イェスさまにかんしゃします。

月報2003年3月号より

「15年間の大きな恵」

「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」ヨハネ21章22節

2003年1月第2聖日説教が、この「ヨハネの福音書」最後の部分から「一人一人への召命」と題して錦織牧師を通して語られました時、著者ヨハネが自分の事を示すこの聖言葉を通して、この地域に日本語で福音が述べ続けられてきたのは、主のご意志であった事を、主は私に直接語りかけて下さいました。15年間ここまで教会として成長し、そして又、新たな夢と幻を持って新しい16年目をスタートしたこの教会の歩みにおいて、多くの牧師や信徒の献身的な働きがあった事は確かですが、その歴史の中に刻まれるのは個々の人間の名前では無く、ただ主の、私たちを赦し、救って下さった十字架のイエスのお名前だけなのだと言う事を明確に示してくださいました。

それは1通の日本からの手紙で始まりました。それまでいろいろな奉仕をさせて頂いた幾つかの日本語教会での信仰生活から離れて、英語の教会で日曜クリスチャンの生活に満足しきって過ごしていました者にとって、正木牧師からの「60歳の誕生日に裏山で祈っていたら主からニューヨークへ行って開拓伝道をしなさいと示されました。貴方をその責任者に任命しますから直ぐに準備を始めて下さい。」という全く予期していなかった、驚くような内容が書かれたお手紙でしたが、不思議にも非常に冷静に、そしてあたかも主が直接語られたように感じましたのは、長い年月が経った今考えます時、まさに聖霊様の働きであったのだと思わされます。人の思いで判断しますと、「何で数回しかお会いした事の無い牧師から?」とか「何で私なの?」といった感じを受けて当たり前の事ですのに、逆に自分がどこか遠くの方で感じていた使命感のようなものと共鳴して、「期は熟した。今がまさにその時!」といった言葉が語られたように感じました。本当に自然体でそのための一歩を踏み出せましたのは、主の導きが有ったからであり、まさに私にとりましては奇跡と言う他はありません。

今あらためて教会の出発時を思う時、私を洗礼へと導いて下さった主の御愛は、新しい教会をこの地で始めるという主の目的のために、多くの教会でいろいろな経験をさせながら導き、鍛えて下さる事に絶えず注がれていた様に感じます。その時その時の自分は何もそれを意識しておらず、自分で日々の生活を、信仰の歩みを進めて来たと自負していた事を恥ずかしく思い、悔い改めさせられます。サンタクララの教会で救いへと導かれ、多くの経験豊かな信仰の先輩方の中でそのご奉仕の姿を見せて戴き、ロサンジェルスに移され、開拓伝道と会堂建設に携わり、日本へ戻り大川従道牧師の教会で牧師の伝道旅行の鞄を持たせて戴き、他の教会の成長から学ぶ姿勢を教わり、そしてニューヨークでは日米合同教会で日英両語での礼拝と教会運営に触れ、テナフライの長老教会で米国教会の一員としての信仰生活。そのどれ一つも無駄の無い、欠かす事の出来ない素晴らしい経験として、主が活かして下さいました。そして約16ヶ月の準備期間を通して、それまでの信仰生活で交わりを持たせていただいた、牧師・信徒の方々が親身になって相談に乗ってくださり、力になって下さり、共に主に従う喜びを分ち合えました。しかしいざ日本語教会が始まりますと、ここまで導いて下さった主の労に感謝しつつも、この教会が1年間は維持できるだろうが、それ以上は無理だろうといった不信仰の思いが有りました事を今正直に告白いたします。主は私の思い煩いを見事に裏切って15周年を迎えるまでに成長させて下さいました。それは主の聖言葉、「わたしに従ってきなさい」だけがこの教会の支えであった事の証であり、主がお約束通りに導いて下さったのだと確信できます。この新しい年の初めに、一人一人が主に従って行く時、主が教会を成長させて下さる事を信仰の友と共に確認させて頂けました。

信仰生活の約半分を、この教会で過ごさせていただきましたが、これからの新しい15年は果たしてどのような道を主が御用意くださっているのでしょうか? 教会の中では孫もいないのに「爺様」と既に呼ばれる年齢になりましたが、期待に胸を膨らませ、祈りつつ主に従っていきたいと願っています。

「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいて下さいます。」 ヤコブ書4章8節


月報2003年2月号より

「新しい喜び」

1982年の夏、私が乗った伊豆大島へ向かう船の中は、海へ遊びに行く若者達であふれるばかりでした。なんて大きな空、なんて青くきれいな海、時々海面を魚が飛び跳ねる。船の中は賑やかでも、神様が造られたこの自然界のすばらしさ中に、生かされている自分を見つめるときでした。

この時の伊豆大島でのバイブルキャンプに,私は神様から何とか解決をいただきたい1つの課題をもっていました。それは1年以上抱えた心の中の葛藤でもありました。私が参加した学生キャンプには、東日本各地、カリフォルニアから、100人ほどの学生達が集まりました。3泊4日のキャンプは楽しいレクリエーション、きれいな海での海水浴、バーベキュー、バンドの演奏や賛美、聖書からのメッセージと、盛りだくさんのプログラムでした。キャンプ場は明るい話声や歌声が賑やかで、次々に神様の恵みを証して立ち上がっていく人の話を聞くと、自分だけが取り残されて行く思いでした。そんな中、ある方が「一緒にお祈りしよう。」と、声をかけてくださいました。短い祈りの時でしたがとても慰められる思いでした。

その時の私が1年以上抱えていた心の中の問題は、友人の事故死のことでした。当時、手紙のやりとりをする中、私が友人を傷つけてしまったため、生活が荒れ、事故のきっかけになってしまったのではないか・・・と長い間の心の痛みでした。交通事故はテレビでも報道され、その友人のご両親は即死したのは自分の子とは決して認めらないほど、ひどい状態でした。そのニュースを聞いた私はただ泣き叫ぶだけでした。既に教会に通っていた私は、友人を傷つけてしまったこと、キリストの愛を伝えられなかったことに、罪悪感を覚えたり、自分を責めることも度々ありました。この事において解決をいただかなければ、私はもう生きていても喜びが得られないと、解決がないならこのまま海に落ちてしまいたいとまで悩み苦しんで参加したキャンプでした。しかし、最後の晩、この時ばかりは神様に切なる願いをもって祈りました。「私の心のすべてをご存知な神様、既に過去の事であっても、私にはこの事においてはっきりとした解決が必要なのです。・・・」と、すがる思いでした。しばらくの祈りの中で、ヨハネ第1の手紙1章7節「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。」の聖書のみ言葉が心にとまり、イエスキリストの十字架がわたしの心をとらえました。「十字架のもとに泉わきて、いかなる罪もきよめつくす・・・」賛美の中にイエス様の十字架がどんな罪からも私を救い、赦し、きよめてくださると、語られたようでした。そればかりではなく、もう生きていても価値がないのではないかと思っていた私に、神様は“あなたにしかできないことがたくさんある。”と、教えて下さいました。驚きでした。こんな小さな者でも、他の誰でもない、私にしかできないことがたくさんあるとは。そんなこと考えもしませんでした。目が開かれる思いでした。「そのことのために私をきよめて用いてください。」と、祈らされました。

この十字架の愛と赦しの体験は、私を心の底から変えてくださいました。どんな些細な事でも人のためになれる事が私の喜びと変えられる体験でもありました。なぜなら、こんなちっぽけな私が神様から愛され、生かされているのですから。既にクリスチャン生活3年目の出来事でしたが、私の第2の転機とも言えるほど、大島への船の行きと帰りでは全く違った積極的な生き方へと変えられた経験でした。神様はー歩ー歩の歩みを支え、確かな聖書のみ言葉をもって導いてくださいます。これからもイエス様の十字架の愛の深さを更に教えていただきたいと願います。


月報2003年1月号より

「聖書のことは前から知っていたのに…」

聖書のことは前から知っていたのに、大学では「キリスト教学」が必修科目で、試験の度にしっかり読んでいたはずなのに、それが、神様からの言葉としては自分に入ってこず、ずっと神の国からは遠いところにおりました。(でも、ずっと心にかけていただいていたわけですが。)卒業し、就職してからはプロとしての自分の技量を磨くことに忙しくなり、いつしか自分中心の考えを持つ典型的な人間になっておりました。それが...自分は会社に頼っていないとそれまで自負していたのに、アメリカに来て、実際に自分が勤めていた会社が破綻するという事実に直面したときに、実は会社や、自分の役職や、会社を通しての関係にどんなに寄りかかって生きていたかを思い知りました。

その頃、何故かまた教会(ニュージャージー日本語教会)に通い始めておりましたが、ある特別
伝道集会に参加したときの聖書の言葉で、それまでの自分のエゴと了見の狭い自分の人生哲学でコーティングしていた本当の気持ちが緩んで出てきたように感じました。その言葉は、ルカによる福音書8 章50 節の「恐れることはない。ただ信じなさい。...」でした。いや、そのときお話をしてくださった上野先生は、確かに「...信じていなさい。...」とおっしゃっておりました。「信じなさい」というより能動的な言葉ではなく、「そのまま信じていなさい、信じて見ていなさい」、とやさしく語りかけられたように思えました。後でわかったことでしたが、リビングバイブルでは、「恐れないで、私を信じていなさい。...」となっていました。私は、まさにそのように、確かに聞こえました。その言葉が、聖書の前後の意味とは関係なく、直接私に語りかけられたと思いました。そして、集会後のアンケートに洗礼を受けたいと書いたのでした。その後もいろいろと聖書や説教を通して、学び、気づかされたことは多いわけですが、結局このときの想いが私の信仰の中心にあるような気がします。

自分中心の考えはいけないと聖書は教えてくれます。私の信仰生活もそれが出発点でありました。でも、これを実践することはなんと難しいことでしょうか。毎日のいろいろな場面で、これを実践できない自分がいることに気づかされます。でも、最近、私たちは聖書に書かれていることを完全に実践はできないけれども、同時に、反省する機会を多く与えられていると感じております。 今の自分の態度は主が見て喜ばれるものだっただろうか、今の言葉は主をまた悲しませているのではないか、と。また、主はこのときどのようにしただろうか、と。でもまだ、事を起こす前に「主ならどうするか」と考えつかないのですが。

この世のものに執着していないかと見直す。一歩下がってものを見る。でも、一歩下がっているようでも、実は一歩主に近くなっているのではないか、一歩上がっているのではないかと、思えております。

信じること、でも、礎の確かなものを信じなければ、何の意味もありません。聖書の砂の上に家を建てるたとえの通りだと思います。今、私は、揺るがないものを信じている安心感があります。それでも、これからの人生でいろいろな苦難を味わうかもしれません。お金や仕事で渇望感を味わうこともあるでしょう。人間関係でもめることもあるかもしれません。でも、精神的には遠くに明るい光を望みつつ歩めるのではないかと楽観しております。

この私たちを取り巻く安心感に感謝します。

月報2002年12月号より

元Hi-B.A.宣教師 ケン・クラーク先生「主と共にふるさとに」

長年にわたってJCCNJ の協力牧師をしてくださいました元Hi-B.A.宣教師
ケン・クラーク先生からお便りをいただきました。 先生の許可をいた ミ介致します。

「主と共にふるさとに...」

『わたしは山にむかって目をあげる。
わが助けは、どこから来るであろうか。
わが助けは、天と地を造られた主から来る。』 詩篇121 篇1,2 節

2002 年10 月10 日 土曜日

親愛なる友人たちと祈りによって支えてくださった方々へ

きっとこの詩篇の箇所は、私たちにこれから特に大切な思いを起こさせてくれるでしょう。先週の土曜日、私たちはSteve を車椅子に乗せて、Virginia の山々がよく見えるようにと病院のホールからDay Room へ移動しました。そこはThomas Jefferson の故郷Montecello から遠くないところでした。私たちは詩篇のこの箇所を思い浮かべ、共に主を見上げて助けを請いました。

与えられたものは私たちが祈ったようなものでも、また、実際に私たちが願っていたものでもありませんでした。その午後、医師からSteve の肝臓と腎臓は今にも機能を停止しようとしていることを聞かされました。わが息子のSteve は、小さな子供だったころ、銅の排泄ができなくなるWilson 病と診断されました。蓄積される銅は、結局のところ、生命の維持に必要な内臓、器官に毒となります。そのとき医師は、息子は10 代後半までしか生きられないだろうとおっしゃいました。しかしながら、治療により、主は私たちにそれから30 年間の命をくださいました。息子は48 歳になっていました。そして、10 月7 日月曜日の朝、かれは主の許に帰っていきました。

今年の始め、息子の具合が悪くなり、医師と相談して、肝臓移植手術を2 月3 日に行いました。そしてその後2 ヶ月間入院と治療の後彼を家に連れ帰りました。それから3 ヶ月は息子は力を取り戻し、状態はよかったのです。しかし、その後、具合が悪くなり始め、8 月の半ばには状態は悪くなっていました。9 月3 日、再び入院し、ICU に10 日間入り、その後、一般病室に移りました。私たちは息子の両親としてこの間5 週間そばについておりました。コミュニケーションは困難なものでした。なぜなら、息子はささやくことしかできなくなっており、彼が何を言いたがっているのかを理解できないことがしばしばでした。私たちが息子のベッドの傍らで主を求めているときでした。彼が言いました。「お父さん、お祈りしてくれてありがとう。アーメン。」それが、最後の言葉でした。

息子Steve は24 年間連れ添った妻を1 年半前に亡くしました。そして、片親として、7 人の子供の世話をしつつ、書籍関係の仕事を続けていくことに勇敢に闘いました。

24 歳になる長男Jeremy は、結婚して3 人の小さい女の子(12 月に4 人目が生まれる予定です)がおりますが、現在、5 歳から18 歳の弟、妹の保護者になっています。そして、彼の父、すなわち私の息子Steve のビジネス、Virginia Publications を引き継ぐことになりました。

Memorial Service は水曜日の夜、家族Bethany UM Church で持たれました。

私たち家族は主に感謝し、Steve のためにお祈りいただいていた方々、Steve の家族にいただきました数々の愛情に感謝します。キリストの体のフェローシップは主の愛の真の形ある表現であります。

息子は彼のレースを走りぬき、ゴールして、信仰を保った。まもなく彼は主の足元に加わる誉れ
を受けるでしょう。よくやった、息子よ。

感謝して、そしてあなたを誇りに思う親、 Kenn and Jane Clark

以下に、実際に錦織先生がクラーク先生から受け取られましたメールを掲載します。悲しみを和らげる言葉は見つかりませんが、神様の愛と平安のうちに慰めを見出されますようにお祈りします。

“I lift up my eyes to the hills—
where does my help come from?
My help comes from the Lord…” Psalms 121:1,2

Sat.Oct.10,2002

Dear Friends and Prayer Backers:

These verses will always have special significance for us. For just last Saturday we took Steve downthe hospital hall to the day room in a wheel chair so he could see the mountains of Virginia. Not faroff was Montecello, home of Thomas Jefferson. We quoted this verse and looked together to the Lordfor help.

Help came in a way we had neither prayed for nor really wanted. That afternoon the doctors told usthat Steve’s liver and kidneys were shutting down. As a little boy Steve was diagnosed with Wilson’s disease, the inability of the liver to excrete copper. The copper eventually poisons the vital organs. Wewere told then that he would not live past his late teens. With medication the Lord gave us another30 years.He was 48. The Lord took him home on Monday morning,October 7.

Last New Years he felt ill,consulted doctors and had a liver transplant on Feb 3. After two months of hospitalization and therapy we brought him home. In the following three months he gained strength and was doing fine. Later he began to fail and by mid August things did not look good. On Sept 3 he was again admitted to the hospital first in ICU for 10 days and then in a hospital room.

As parents we stood by his bedside for those 5 weeks. Communication was difficult for he could only whisper and many times we could not understand what he wanted to say. As we stood around his bed seeking the Lord he said :”Thanks, Dad for praying,Amen.” It was his last sentence.

Steve lost his wife of 24 years a year and a half ago and was struggling bravely as a single parent to care for his seven children and run his privately owned book business.

Steve ユs oldest son,Jeremy,24 married with 3 little girls(and expecting a fourth in Dec)is now the guardian of the younger children ages 5 to18. The family has decided that he should manage Virginia Publications, his father’s business.

Memorial services were held on Wednesday night at the Bethany UM Church were his family attended.

Our whole family is grateful to the Lord and thankful for each and every one who prayed for Steve as well as all the loving care so many have offered Steve’s family. The fellowship of the body of Christ is a real and tangible expression of His love.

Steve has run his race, finished his course, kept the faith. Soon he’ll be awarded his crown to cast at the Saviour’s feet. WELL DONE, SON!

Thankful and proud parents, Kenn and Jane Clark

月報2002年11月号より

「私は、前から神様を信じていました…」

私は、前から神様を信じていました。でも、心の中では、何か言葉では言えない変な感じがありました。 だからいつも母に、『洗礼受けなくても、信じていれば天国へ行けるよね』と聞いていました。それは私の何かが洗礼は受けたくないと言ってたからです。

私はきっと神様が、『晶子の中にまだ来てないのだ』と思っていました。この気持ちで私は苦しみました。毎日、毎日神様に『なぜ来てくれないのですか?』と聞いていました。そして、一方で、みんなに洗礼受けなくても平気ですか、と聞いて歩いてました。

でも、いつもRachel Joy Scottの本を読んで、なぜRachelは12才で洗礼が受けられたのか不思議でした。私はRachelみたいになりたいとずーと思っていました。

あるとき私が行っていた教会のユウスグループのキャンプへ行きました。そこでは、毎日神様の学びをしました。一日に二回は礼拝がありました。ある日その牧師先生がこう言いました。それは、ルカによる福音書5章3節で、『その一そうはシモンの船であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、船の中から群衆にお教えになった。』というところです。つまり、イエス様はシモンの船をboat jackしたと。そこで、その牧師先生は言いました。『イエス様はあなた達に聞かないであなた達の船に乗り込む。』と。そこで私は、本当は、イエス様はもう私のところに来てくれていたんだと気がつきました。

その牧師先生は、「きっと、魚が獲れずに怒っていたシモンに、イエス様は、『おまえの魚は何処にある』と聞いただろう」と言いました。そこで、私達に聞いたのです。『あなたの魚は何処ですか?』 私は『魚』はイエス様の事だと思いました。イエス様はもう私のところに来てくれていたのに、それに気がつかないで、ずっと苦しんでいたんだと気がつきました。そのとき神様にあやまりました。変な事を言ってご免なさい。その祈りの後に本当に神様が許してくれたように、以前感じていた変な気持ちが消え、救われた気持ちになりました。

神様は私をアメリカに導いて、教会にも導いてくれて、今度はこのキャンプにも導いてくれたのです。心から感謝しています。ルカ5:11『そこで彼らは船を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。』私もすべてを捨てて、神様が用意してくれてた方向へ行きたいと思います。

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Rachel Scott情報
www.racheljoyscott.com
主な書籍
The Journal of Rachel Scott
Chain Reaction
Rachelユs Tears
The Martyrユs Torch
The Untold Stories of Columbine

1999年4月20日、コロラド州リトラトン(デンバー郊外)コロンバイン高校で、2人の男子生徒が、同高校内で13人を射殺後、自分たちも自殺しました。彼らの標的は人種的マイノリティとクリスチャンでした。犠牲になった13人のうち8人がクリスチャンでした。日本のメディアはこのことをほとんど報道しなかったので知らない方も多いでしょう。そして、この事件の本当の影響も。
昼食時間、外で昼食をとる女生徒に銃は向けられました。腹部と足が撃たれました。犯人は銃をその子の頭に当て、”Do you still believe in your God?”と問います。その子は答えます。”You know I do.” ”Then, go be with him.”の言葉とともに銃弾が彼女を貫きました。この女生徒がRachel Joy Scottでした。
犯人はさらに図書館へ向かい、同じような質問をし、Yesと答える者たちに容赦なく銃弾を浴びせていきました。

犠牲になったクリスチャンたちの葬儀では、その子供たちの証しが紹介され、生前の彼らの行動がいかに愛に満ちたものであったかが紹介されました。実に多くの同級生たちがその葬儀でイエスを主と受け入れ、救われました。

波はそれだけでとどまらずに、世界中に届こうとしています。3年以上を経過し、でもさらに強く私たちの心に語りかけてきます。彼らは確かに「一粒の麦」でありました。

月報2002年10月号より

「イエス様に会うために」

親愛なる天のお父様、私を受洗に導いてくださいましたことを感謝申し上げます。
私をこれまで助けてくださいました、錦織牧師をはじめ多くの兄弟姉妹に感謝いたします。

第1章 だまされて、愛されて

どこにでもいる、フツーの日本人のサラリーマンとして、私はキリスト教を全く知らなかったと言ってよいと思います。宗教なるものを理解していなかったと言った方が当たっているかも知れません。そんな私が、何故、洗礼を受けてクリスチャンになったのか。そもそも、イエス様に会う前に、どうやって教会に来るようになったのか・・・。
きっかけは、これもよくあることなのですが、友人の教会員の「Oさん」が修養会に誘って下さったことでした。「こんどの週末、空いてる?」「えー、別に予定ないですけどぉ」「じゃ、修養会いかない?」「しゅー、よー、かい???」「そ、教会の人たちが2泊で行くんだけど、午前中少し先生の話聞いて、午後はテニスしたりソフトボールしたり。結構楽しくやってますよ。子供達もいっぱい来るし」「そー、じゃ、行ってみるかな?」という訳で、完全に「だまされて」教会の方たちと、お知り合いになる1歩を踏み出しました。
参加してみたら、修養会は予想と全く違う。「やられたっ!」
でも、そこで、本当に良い経験をしました。こちらは、何方の顔も知らないのに、多くの方たちが私のことをご存知で、にこやかに声をかけてくださる。「ようこそ、いらっしゃいました」「どうぞこちらへ」「一緒にお食事いただきましょう」等々。ピアノバーでもないのに、こんなに居心地の良い思いをしたのは初めて。皆さんが本当に自分達のことを愛し、相手のことを愛し、すべての人々を愛し、そして、すべてのことに感謝をして生きておられる。人前でこんなに涙を流したのは初めて。こんなに清々しい思いをしたのも初めてでした。「なんで、こんなにいい人ばかり集まってんだ?」
今では、誘ってくださったOさんに心から感謝しています。
「よくぞ、だましてくださいました。ありがとう!」(感謝)

第2章 聖書を「教科書」として

それからは、ほとんど毎週、礼拝に伺うようになりました。修養会で涙をながして感動しておいて、翌週から知らん顔することはできなかったし、やはり、初めて読んだ聖書の御言葉にとても興味を持ったからだろうと思います。礼拝中に、前夜の「罪」のため居眠りをしてしまうことも多かったのですが、それでも週に一度、錦織先生のメッセージに感動して涙を流すのも清々しい思いでした。
「聖書って意外といいこと書いてあるじゃない」という気持ちで、格言や、四文字熟語を覚えるような感覚で、心に感じる御言葉を探しながら読んでいました。
生き方として、学ぶべきこと、感動する御言葉に多くぶつかり、知識としては、充実感が持てましたが、教会でお会いする方達のような、いかにも幸せそうな、あるいは、とても満足そうな生き方が、感覚としてつかめませんでした。
「神様は先生ではありません」「聖書は教科書ではありません」と錦織先生はおっしゃるのですが・・・・

第3章 祈ってみても

聖書を読むことは、神様の御言葉に耳を傾けること、お祈りは神様との対話、と言われます。
聖書を読んでもだめなら、お祈りをしてみよう。という訳で、聞きよう聞き真似で「お祈り」なるものをやってみました。人に聞かれたら恥ずかしいので、通勤途上の車の中で。それもご丁寧にカーステレオでWorship Songなど鳴らしながら。この、Worship Songというやつも、なかなかの代物で、涙もろいオジサンは、これを聞いているだけで、もう涙が出てしまう。それこそ、誰かが見てたら、こんなおかしな光景はない。なにしろ、いいオジサンが一人で涙をボロボロ流しながら、Garden State Parkwayを突っ走っているのですから。それでお祈りしているんだから、どう見ても「あぶないオジサン」。涙で前方も良く見えないし、ほんとに危い。
しかし、そうやって祈ってみても、自分の「罪」は大いに反省するのですが(単に反省するタネが多いだけかもしれませんが)、したがって、日常の行動としては、もしかしたら、やや改善されていたのかも知れませんが、先輩の兄弟姉妹のように、はつらつとした幸福感には導かれないのです。
真剣さが足りないのだろうか? 病気をしたときや、大怪我で死にそうになったとき、本当に苦しみのどん底に陥ってしまったときなどに、イエス様が現れた、イエス様に会えた、などというお話をよく伺います。ギリギリの状況に追い込まれないと祝福は与えられないのかしら? いくら、涙ながしてお祈りしても、毎晩、旨いもん食べて、ワイン飲んでたんじゃ、やっぱりだめかなぁ?

第4章 「信じる」ということ

聖書の御言葉に耳を傾けても、自ら罪を悔い改めようとしても、あるいは悔い改めたと思っても、イエス様が現れてくださらない。どうしても「イエス様が我々の罪のために十字架にかかてくださった」という1点を「信じる」ことができませんでした。(そして、よくしたもので、洗礼式の時に質問されるたった1つのこと、がこの点なのです)。
ある時、ふと、とても簡単な「答え」にぶつかりました。
ただ、イエス様を「信じる」ということをすれば良い。自然に信じられないのなら、先ず自分から「信じ」ればよい。「信じない」という最も大きな罪を先ず悔い改めよう、と。
簡単に、「信じる」、「信じない」などと言うけれど、「信じる」ってどういうことだろう?「私は地球は丸いと信じています」と言うことができます。でも、これは「信じる」というより、「知っている」に近い。「イエス様を信じる」というのは、全く次元の違うことではないだろうか?「私は、お金しか信じない」という人がいます。ことの善し悪しは別にして、そういう人は、お金の存在そのものを信じているわけではない。お金の持つ目にみえない力を信じ、それに従って生きているのです。ある人は、「そのとおり」と言い、また、ある人は、「もっと大切なものがある」と言う(信じている)。「信じる」って、自分の心を自分で動かして、そのものに従って生きてゆくことではないだろうか?
ならば、イエス様に付いて行こう。まず、自分から心を動かしてイエス様に付いて行こう。待っているだけでは、病気になろうが、事故に遭おうが、イエス様は現れない。
まず、私から信じて付いて行こう。

『信じない者にならないで、信じる者になりなさい』ヨハネによる福音書 第20章 27節

主の恵みに感謝します。 アーメン

月報2002年8月号より

「前略 父上、母上」

前略 父上、母上
日本は蒸し暑い日が続いていると聞いています、いかがお過ごしですか。僕は相変わらず、元気です。仕事、趣味、遊びにと毎日、充実した日々を過ごしています。最近はラグビーも再開しました。
留学から始まったアメリカ生活は、先月でちょうど10 年が経ちました。空港で見送られた日が昨日のように思い出されます。ボストンでの語学学校から、ハートフォードでの勉学と修士号取得、そして、ニューヨークにある保険会社への就職、ニューヨークからロスアンジェルスへの転勤、IT ベンチャービジネスへの転職、さらに、ロスアンジェルスからニューヨークへの移動、と文字通り「アット」言う間の10 年でした。
その10 年間に、尊敬すべき人々や大切な友達との出会い、それに伴う貴重な経験、やりがいのある仕事、そして、さらなる大きな夢への歩みなど、本当に多くのものを与えられたアメリカ生活でした。もちろん、その中には嫌なこと、辛いこともありましたけれど・・・。
アメリカ留学という機会を与えてくれたことに改めて、感謝します。ありがとうございました。これからの生活も今まで以上に、より充実したものになると確信していますので、ご安心下さい。
さて、この10 年間での最も大きな出来事を伝えたく、ペンを取りました。それは、昨年5 月にイエス・キリストを救主とする信仰を受け入れ、今年3 月24 日にプロテスタントの教会にて洗礼を授かったことです。僕がクリスチャンになったことを、お二人に喜んでもらえれば幸いです。ここからは、そこに至る経緯を書いています。
僕が、自ら聖書を開くようになったのは、今から3 年半前です。ちょうど、当時勤めていた保険会社で転勤になった時でした。ニューヨークから異動になったロスアンジェルスで、任された仕事は、北はシアトルから南はメキシコ(ティファナ)までの西海岸全地域の日系ビジネスを管轄するという、大役でした。しかも、約300 人働く赴任先のオフィスには日本人スタッフが僕以外にいない環境でした。
そのような状況下で会社から与えらたミッションは「西海岸における日系ビジネスを成功させる」でした。正直言って、その時は悩みました。初めての土地、知っている人はいない、頼るツテも無し。全てが、「はじめまして」の挨拶で始まる生活でした。まさに、孤軍奮闘でしたね。
何をすべきなのか考えました。あれこれ、考える中で到達した結論が「ここで、成功するには一緒に働く米国人の助けが必要になる。助けてもらうには彼らのことを知らなければならない、米国人を理解するために、聖書を読んでみよう!」でした。つまり、この国またはこの国の人々の根底には、腐ってもキリスト教的な考え方が流れている、それを学べば、米国人の考え方、習慣を理解でき、ひいてはビジネスを実践する上で役にたつのでは?という仮説に基づく、考え方でした。
主の導きはこの時から働いていたようです。そのように、僕が独りで、聖書を開き始めた頃ちょうど、新しく友だちになった一人が、ある牧師先生を紹介してくれました。その先生が、それから2 年後に僕を信仰へと導いてくれた、ぶどうの木国際教会、英語部牧師の楠秀樹先生でした。その友人に「牧師らしくない牧師がいるから、毎週土曜日にある聖書勉強会に遊びにおいでよ」というのが、誘い文句でした。牧師らしくない牧師?いったい、どんな人なんだろうと興味本位に、出かけて行ったのです。
牧師らしくない牧師、まさにその言葉通りでした。牧師とは堅物な人、もの難しい人と、僕が勝手に決めつけていたイメージとは、全く正反対で、楠先生はとても気さくな、楽しい、親しみやすい方でした。なんと、初めて勉強会に行った日、突然、ギターを弾き始め、作詞作曲の賛美の歌を聴かせてくれたのです。このパフォーマンスにはびっくりしました。それが、僕の抱いていた牧師のイメージを壊すきっかけとなりました。それから、時間の許す限り、毎週土曜日の午後から行われる、楠先生宅での聖書勉強会に2 年間通いました。
横道にそれますが、勉強会の後は、楠先生の奥さんが夕食を用意してくれていて、家庭料理に飢えていた僕にとって、奥さんのおいしい手料理はいつも楽しみでした。もしかしたら、胃袋で信仰へと導かれたのかもしれません。楠先生はクリスチャンでなかった僕に、いつも、温かく親切に分かりやすく、聖書の御言葉を教えてくれました。また、勉強会に集まってくる数多くのクリスチャン達との交わりも持つようになり、少しづづでしたが、主の御言葉が僕の心に響いてきました。
不思議なもので、独りで聖書を読み、週一回聖書勉強会に通うことで、今まで、見えなかったアメリカの仕組みが見えたり、一緒に働く米国人の考え方が手に取るように理解できたり、また、ビジネスで米国人との交渉が問題なく進むなど、僕の仮説に基づく行動はまんざら間違っていないようでした。聖書を学ぶことで知らず、知らずのうちに恵みを受けていたのですね。
その様な中、一年ほど経ったある時期、仕事において、大口顧客の契約を成立させることが出来ました。それは自他ともに高く評価される業績でした。その嬉しさを楠先生に伝えた時、私に教えてくれた次の聖書の御言葉はとても衝撃的なものでした。
「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くするものは高くされるであろう」(ルカによる福音書第14 章11 節)の一節は、深く考えさせられるものでした。また、はじめて畏れを感じました。しかし、聖書の御言葉に畏れを感じても、結局、信仰を持つには至らず、その後一年経ち、仕事の関係で再度、ニューヨークに戻ることになりました。
ニューヨークに発つ数日前に、お世話になった楠先生のお宅に挨拶に伺いました。奥さんのおいしい手料理を頂き、思い出を語り合い、楽しく時間を過ごしました。それから、時間も遅くなったので、楠先生宅をお邪魔しようとした時に、先生から、「倉田君、なにをためらっているのかね?」と突然、言われました。それは、信仰を受け入れるということでした。それまで、何回かやんわりと勧められていたものの、何か踏み切れない気持ちがあり、お茶を濁していました。
しばしの別れの言葉として、「なにをためらっているのかね」には少々面食らいましたが、その時、先生のその言葉を素直に受け取ることが出来、その場で信仰告白をしました。今から、考えれば、僕はきっかけを求めていたのかもしれませんね。そして、その場にいた、楠先生夫妻、クリスチャンの友達から祝福の祈りを受け、信仰を受け入れてロスアンジェルスを離れました。
クリスチャンになってから、僕のアメリカ生活を振り返ってみると、それは「影踏みごっこ」でした。常に心は乾き、何かを求めて、自己実現という目標に向かって、見ていたものは結局、自分の影だったのです。今まで神に背を向けていた僕が、神の光の前に映されて見ていたものは自分自身の影でした。その自分自身の影を踏もうとして、掴もうと、がむしゃらに生活を送っていました。
踏めそうで踏めそうでない、掴もうとして掴めないのが、「影踏み」です。そして、自分の影を踏む試みほど、愚かで虚しいものはありません。クリスチャンになって、それに気づきました。そして、自分の影を踏む必要もなくなり、神に背を向けることを止めて、今では神に向き合えることで満たされています。その後、ニューヨークに移ってから、通える教会を探していましたが、なかなか良い教会が見つからずにいました。その時、先述ぶどうの木国際教会、日本語部牧師の上野五男先生より、ニュージャージーにある日本語キリスト教会を教えてもらい、今年からその教会に通い始めました。
ニューヨーク、ニュージャージーに住む日本人の集まる教会です。親切で温かい人ばかりで、とても素敵な教会です。そこで、当教会の錦織学牧師先生の導きを受け、3 月24 日に洗礼を授かりました。
と、言っても、まだ初心者クリスチャンで、信仰を受け入れた新しい生活は、葛藤の毎日です。おまけに、自分自身の罪深さが曝け出されて、嫌になることも日常茶飯事ですね。でも、「神が僕の側にいつもいてくれる、イエスキリストの十字架の死によって、罪が贖われている」と信じることで、救われています。
その他に話したいことは多くありますが、それは次回、会った時に話をします。お二人とも体には十分気をつけて、いつもまでも健康でいて下さい。最後になりましたが、お二人、そして兄夫婦、また、親戚一同の上に主の恵みがあることをお祈りしております。
それでは、また連絡します。
草々

(於:ニューヨーク)

月報2002年7月号より

「先日大学の卒業式に出席しました…」

先日大学の卒業式に出席しました。残念ながら両親は来る事ができませんでしたが友達が一緒に来てくれ、お祝いをしてくれました。実際の卒業よりは5ヶ月遅れではありましたが、始めて例の黒いガウンと四角い帽子に身をまとい“卒業できたんだなぁ(涙)”という実感と“いつまでも学生気分ではいられないな”という身の引きしまる思いとがしました。 アメリカに来たばかりのガソリンの入れ方もわからなかったころのこと、Examに追われてベーグルとピザばかりに嫌気がさした日々、そしてなによりも神様に出会いイエス様を受け入れた事。今の自分がこうしてあるのはまさにみ言葉通り、“しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。”(1コリント15:10)と心から思います。

始めて日本の大学で友人に誘われて聖歌隊に入った頃、まさか自分が神を信じるようになるなんて、クリスチャンとして洗礼を受けるなんて夢にも思っていなかったことでした。自分はそんなところから程遠い人間だし、もしもなにかを信じるならそれはいわゆる“宗教”について自分なりのなんらかの納得のいく理解、そして結論が出た時だ、とおこがましくも思っていました。そもそも一般的な日本人の思うように、なにかを信じる=宗教=危ないという図式がわたしの中にもできあがっていましたし、それでも選べというならば、もっとも怪しくなく(!?)、そして自分にいちばん利益のある宗教だとも思っていました。 しかし、“宗教”ではなく“神(イエス キリスト)との個人的な関係”を体験している今、まさに神を選んでやろうと思っていたわたしが神様によって選ばれていて、自分で切り開いていってると思った道が実は神様によってすべて導かれていたのだと思うとき、気恥ずかしさすら覚えます。

数学者で哲学者で有名なパスカルの言葉に“人間の心の中には神の形をした空洞(=God shaped vacuum)がある。”という言葉があります。潜在的に人はその空洞をなにかで埋めようとしますが、それは私達人間が生きていくために不可欠なものを得るために与えられている動物的本能と同じだと私は思います。無意識のうちに私達が飲んだり食べたり息をしていることは、私達の内なる存在が神によって満たされたいと欲求することと同じではないでしょうか。ただそれは物質的な欲求とは違い目には見えませんが。

私は小さい時からの家庭環境からか、知らず知らずのうちにとても厭世的な考えを持つようになっていました。人間は一人で生まれて一人で死ぬんだ、人の心なんてわかりあえるはずがない、と。誰かに頼りたいけど誰にも自分の本当の心の内を打ち明けることはありませんでした。それでいいと思っていましたし、どうせそんなものだという諦めのような気持ちでもありました。自分の心の内に目を向けようとせず、上手くごまかして、無感情になっていました。それでも持ち前のこの性格でそれなりに楽しく過ごしていましたが、やはり私の内なる存在は安らぎを求めて、100%頼れるものを求めていたように思います。 そんな時アメリカに来て何の気なしにルームメイトに連れられていった教会で出会ったクリスチャン達を通して生きた神との関係を見ることになりました。私が彼らに対して一番最初に抱いた印象といえば、“こんなにフツーの人達が神様信じてやってんだー。”というものでした。今思えば偏見も甚だしいところですが私にとっては自分とおなじようないわゆる普通の若い子達が普通の格好をして、当たり前のように“神様?いるにきまってんじゃん!”といわんばかりに礼拝している姿は相当の驚きだったのです。(私のクリスチャンに対するイメージは相当悪かったみたいですね、、!)これがアメリカ人か、と驚きながらも一体この人達の信じているものはなんなんだろうと、興味が沸いてきました。が、しかし聖書を読めば難しい人の名前やら、イエスキリストの言う事の突拍子のなさに(“右の頬を打たれたら左の頬も差出しなさいー?一発殴られたら眼をとばして倍にして返すのが常識でしょう!!”みたいな、、。)つまずくし、自分があっさりとなにかを信じることに抵抗があったのです。単に周りに影響されているだけなら意味が無い、アメリカに来ました、はいクリスチャンになりましたではあまりにも話しが単純じゃないか、とも思ったのです。なんとか納得のいく理解をと、聖書を読み、他の宗教と比較してみたりしました。しかしそうやって、たいしてありもしない頭で理解しようともがく私に神様はただ単純なしかし大きな愛をもって迫ってきました。

十字架の意味について、救いについてすこしずつわかってくるにつれてクリスチャンになりたい、イエスキリストをもっと知りたいという欲望が増してくるのがわかりました。しかし私はまだもがいていて、そして自分がもしクリスチャンになったら人からどう思われるかということを心配していました。キリスト教に対する疑問ももちろんまだたくさんありました。神が愛ならば今この世で起こっているすべてをどう説明するのか、何故救いはもっと簡単でみんなに開かれていないのか、、。 あるとき私はクリスチャンの友人につっかっかって言いました。神は愛といいながら、“救いにいたる門は狭く、滅びにいたる門は大きく広い(マタイ7:13)なんてどうしてこんなに排他的なことが書いてあるわけ?”とつきつけました。その友人は悲しそうに、でも一生懸命にこう言いました。“その門を狭くしてるのは僕たち人間側の問題なんだよ、神はすべての人に一人も漏れることなく入って欲しいと必死の思いで招いているんだよ。”と。そして“罪”について話してくれました。そのとき始めて神様ばかりを見ていて責めていた私が自分の問題に、いわゆる聖書でい言う罪について向き合ったのです。 ここまでくるともう一歩という感じですがそう簡単にもいきませんでした。始めて“自分にも罪がある”という認識が生まれ始めた私はそれをどうにかしたい気持ちになっていましたが、神の存在自体は信じられるとしてもそれがどうしてイエスキリストでないといけないのかという思いになっていました。しかし聖書ではっきりと、“わたしは道であり、真理であり、命である。だれもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。”(マタイ14:6)と言いきるこの人物は、はったりかます大嘘つきか、もしかしてまさかの本物しかないんじゃないか、そしてわたしは今どっちに賭けるか問われているんだ、と何故か人生の一大選択を迫られているような感覚にとらわれてきました。そして始めて心から祈ってみました。“神様、ほんとうにいるなら証明して!”と。そのころの私は自分の内なるイエスを受け入れたいという欲求に一生懸命理性でブレーキをかけていたように思います。そんなとき、私の行っていた教会の牧師がこう言いました。“みき、今君はJesusに恋をしているんだよ、そしてこの人と結婚していいのか一生懸命悩んでいる。大事なことだからもちろん悩んでも仕方が無い。人間は考える能力を、知恵を与えられてい

あるとき、ふとなにがあったという訳でもなくもうGiveUpしようと思った瞬間がありました。素直に心から、イエスは神だ、と。聖霊の押しに感謝! 自分がクリスチャンになったら親との問題はどうするんだ、友達にはどう説明するんだ、日本人としてクリスチャンとして生きることをどう両立するのか、そんないろいろな思いを遥かに超えるイエスキリストへの欲望が勝った瞬間だったと思います。今考えるとそれらのすべての問題は私がイエスを受け入れた瞬間に私がすることではなく神様が解決してくれる問題だったのです。友人の導きにより、なんと人のごったがえす学校のカフェテリアで信仰告白の祈りを捧げた私ですが、祈っている最中にも不謹慎ながら“どうせならもうちょっと思い出に残るような場所でお祈りしてもらいたかったなぁ。”という思いを裏切って神様は私の心のなかの空洞をバッチリ埋めてくれました。パズルの最後のピースがカチッと音を立ててはまるような気分の良さでした。それまで味わったことのない安心感と喜びに満たされてわたしのクリスチャン生活が始まったのです。イエスキリストに恋に落ち、この人に賭けたことを後悔することは決してないでしょう。わたしばかりか、去年の春にはわたしがクリスチャンになったことをあんなに戸惑っていた母までがイエス様にひっかかって!?しまいました。私が母を電話で祈りに導く恵みに預かった時、母の祈りの第一声は“イエス様、今までずうっと私のこころを覆っていたものが今一気に晴れていくようです!”でした。晴れるや!もとい、ハレルヤ!!私達はイエスキリストという色男にひっかけられてとっても幸せ者です。これだからクリスチャンはやめられませんね、みなさん!

月報2002狽6月号より