<牧師室より>2019年10月「あなたは何者?」

「わたしは〜である」というのをできるだけたくさん、最低でも10個以上は書いてください、と言われたら、皆さんはどんなことを思いつきますか?「私は牧師である」「私は夫である」「私は父親である」「私は日本人である」「私は錦織学である」「私はクリスチャンである」・・・自分で書いてみると、自分が自分のことを何者だと思っているか、自分が無意識のうちに何を大切にしているのかが、わかってきます。まず「肩書き」や「勤務している会社名」が思いつく人、「母親」「父親」と、「親」が最初に出てくる人、「夫」「妻」が出てくる人(ちなみに、お母さん方で「母親」より先に「妻」が出てくる人はなかなかおられません・・・)、「日本人」「アメリカ人」「中国人」「韓国人」「関西人」と国籍や民族、出身地が出てくる人、「男」「女」とジェンダーを思いつく人、それぞれ、自分が何を大切に思っているか、それが現れてくるのです。私もまず「私は牧師である」と最初に出てくる、ということは、いつの間にか、「職種」「肩書き」が自分のアイデンティティーの中で、大切なものになっているんですね。皆さんはどうでしょうか?

でも、よく考えてみると、職種や肩書きは、自分という人間の一番大切なものではないですよね。たとえそれを失ったとしても、私は私でなくなってしまうわけではない、だから、もっと自分の存在深くに関わっている「私はこれだ」というものがあるのではないか、そのように思うようになりました。

私自身の存在深くに関わっている、大切な「私は〜である」は、なんだろうか?これがなくなったら、自分が自分ではなくなってしまう、そういうものはなんだろうか?そう考えた時に、「私は神様に愛されている者である」と言うことができるなあ、と思います。他の全てを失ったとしても、これだけは変わらない、自分自身と分けることなど決してできない、自分の一番深いところにあるアイデンティティーです。そして、これがあるから生きていける、そのように思わされます。

そして、これは、すべての人々に与えられているものなのだと語ります。

「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。」エレミヤ31:2

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。」ヨハネ3:16

「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」ローマ5:8

「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。」第一ヨハネ3:16

あなたもまた、神様に愛されている方です。

「私の主、私の神。」

私が2~3歳の頃に両親が救われ、家族で教会に通い始めました。教会には同じ年代の子どもたちが大勢いました。当時の記憶は沢山はありませんが、ひとつはっきりと覚えていることがあります。教会学校で先生がイエス様のお話をして下さった後、質問をしました。「イエス様のことが大好きなおともだちー?」次の瞬間、周りの子どもたちが皆「はーい!」と元気よく手を挙げたのです。私はびっくりして戸惑いました。…聖書からイエス様の話をきいて、聖書もイエス様も本当だとは思う。イエス様は神様の子であり、よいお方で、すごいお方だとも思う。でも…“大好き”? 私はその時、自分がイエス様のことを毎週学んでもイエス様に「大好き」という感情を持っていないことに初めて気づかされました。急にまわりのお友達がまぶしく見えました。どうしたら、他のお友達のように「イエス様を大好き」になれるのだろう、イエス様を信じているなら大好きになるはずだし、なるべきなんだ。ならなくては…。でも、聖書のお話をいくら聞いても読んでも、心に残る箇所といえば、弟を殺してしまうカインとか、妬みと恐れに駆られるサウル、神の箱を触ってしまうウザ、群衆の声に押されてイエス様を十字架につけるピラト、そしてイエス様を裏切ったことを後悔して絶望するユダなど…。子どもながらに彼らの物語はとても残念で切なく、彼らが今頃は暗い黄泉で「泣いて歯ぎしり」しているのかなと想像し恐ろしく思いました。一方でダビデやマリヤなどは幸運な人だなと思いました。教会学校の先生方の意図に反して、自分もダビデやマリヤのように神様に愛される神の家族になれるとは思えず、将来には泣いて歯ぎしりしているような予感がしてなりませんでした。

小学校に上がると、夏のキャンプなどをきっかけに同年代の子どもたちは次々に神様との関係を深めているようでした。さっきまで一緒にふざけていたお友達が、夜のキャンプファイヤーで聖書のメッセージをきいた後に涙を流して悔い改め、イエス様の十字架を喜んで「もっとお祈りしたい」「まだまだ賛美したい」と先生にせがんでいる姿にショックを受けました。…私もこんな風に神様に出会わなければならないんだ。でもどうしたら神様と「出会える」のか分かりませんでした。お友達のほとんどは小学生のうちに受洗し、私も先生に受洗を勧められましたが、受ける気持ちになれません。…先生は私をクリスチャンとして見てくれている。でも神様の目から見て、私はどうなのだろう。私は神様を信じているのか、愛せているのか、そう神様は認めて下さっているのか自信がありませんでした。学年が上がるにつれて自分の罪がたくさん見えるようになり恐ろしさやふがいなさでいっぱいになる一方で、さらにその罪深さにいくらでも開き直れてしまう心、私のための十字架や復活という言葉も心を素通りするような、神様を畏れられない自分の心をどうしたらよいか分からず、先生にも説明できませんでした。

こうして「洗礼準備クラス」を3~4年程も受け続けたある日、ヨハネ20章のイエス様とトマスのやりとりの箇所が目に留まりました。…トマスもイエス様に呼ばれ弟子として共に長く過ごしていたのにイエス様が分からなかったのかな。ヨハネのようにイエス様に寄りかかったり、ペテロのように積極的にイエス様に近づこうと水の上を歩こうと思いつかなかった。12人の最前列ではなく他の弟子達の背中越しにイエス様を見ることが多い人だったかもしれない。でも、復活のイエス様に出会い損ねた時、やっぱり人越しではなく自分でイエス様と出会うことの必要や勇気、出会いたいと願う気持ちが爆発したのではないか。トマスがそうでなくても私はそうだと気づきました。私も他の誰かの背中ではなく、イエス様の前に行き、イエス様と向き合わなければならない、イエス様が私に与えて下さった信仰で、イエス様が私に与えて下さった道を歩み始めなければならないと思いました。そうして中学2年の時に洗礼を受けました。

その後も、時に同年代の教会の友人達の姿がまぶしく見えることはたびたびあり、聖書の約束が自分だけうまく実を結ばないと焦っては努力したり失敗したり、委ねてみたりあがいてみたり…を繰り返すような不信仰生活でしたが、やがて成人し、今や宣教師や牧師などそれぞれの場所で神様に仕えるようになった友人達と共に子ども時代を過ごせたことは神様からの大きな祝福だったと思えるようになりました。また、私を造られた神様は、私が本当は何が好きで心地良いかを知っておられ、実際にその道へと導いてくださっていることを実感し始めました。一度きりの人生、クリスチャンたるもの一生独身で宣教の働きに、などと若い決心で意気込んでも、いざ岐路に立たされるとその道を捨てて結婚を選んだ時は神様にうしろめたい思いがありましたが、結婚式の次の日に新居から外に出たときに、目の前に見える比叡山にくっきりとした半円の虹がかかっているのを見て、ふと、神様がこの道も許されておられること、この道を確かに用意され、共にいてくださると感じました。次の日曜に初めて主人の教会の礼拝に一人で出席する時も、前の教会との宗派や雰囲気の違いに戸惑いもあり不安な気持ちで向かっていましたが、行きの電車の窓から琵琶湖にかかる鮮やかな虹を通して、神様はもう一度私を励まして下さいました。

数年後、不思議な導きでアメリカに滞在することになり、そこでの3年間で神様は私のひそかな願い、神様の益になるものではなさそうなので祈りもしなかったような願いをことごとくかなえて下さいました。学生時代から憧れていたNJ日本語キリスト教会に通うこともそのうちの一つで、兄姉とのお交わりや学びもただただ楽しく、私は次第にこの神様のお計らいに何か意味や意図を見出さなくてはならないのではと思うようになりました。ただ感謝していて大丈夫だろうか、この滞在期間中にどんなことを学んで成長すべきなんだろう、などと楽しさと焦りが入り混じる日々が続きました。そんな帰国の迫るイースターの礼拝で、錦織先生がイエス様とトマスの描かれた絵を見せて下さいました。トマスを見ると自分に重ね合わせるクセのある私は、その絵の中でトマスがイエス様の十字架の傷にずっぷりと指を差し込んでいるのを見て、私の姿だと思いました。

信じないものにならないで、信じるものになりなさい、と今まで導いて下さった神様は、さらに、恐ろしくも十字架の事実を聞くだけでなく十字架の刺し傷までさわらないと分からないような私に、心ゆくまでと向き合って下さっているんだ。ことばによって信じられないのならわざによって信じなさいと、私の不信仰や愛のなさ、鈍感さと傲慢さをご存じの神様は、私の成長を上からご覧になっていたのではなく身をかがめてでも私がさわれるように付き合って下さっていたのだと感じました。自分の出来のなさを受け入れていないのは自分だけで、神様はあらゆる方法で私を「信じる者」の人生へと導いて下さり、そのための必要を満たし、愛を私に分からせようとして下さっているのだと思いました。トマスがあの時告白したようにイエス様は「私の主、私の神」なのだと分かりました。

アメリカ滞在中の3年間、特に教会の兄姉のご親切や交わりを通して神様が下さった大きな恵みを、どれだけ今後の人生でお返しできるのか自信がありませんが、神様の一方的な愛をたくさん経験することができて、ただただ感謝です。感謝しつつ、きっとまた時々行きつ戻りつしながらも…、神様が用意して下さる道を神様と共にこれからも歩んでいたいと思います。

「人生を導かれる主」

「蒔かれた信仰の種」

第2次世界大戦が終わり、数年が経ち、復興途中にあった京都にヨーロッパから2人の女性宣教師が来日しました。祖国での優雅で便利な生活を捨てて、日本人へ福音を届けたいという二人の熱い思いと祈りによって京都で伝道が始まりました。最初は高級住宅街の集まる北区で伝道が始まったのですが、より市民の集まるところへという思いから、下京区に拠点を移し、そこで開かれた土曜学校に父が導かれ、信仰を持ちました。

数十年後滋賀県の大津で家庭集会を始めた父はやがて母と結婚し、両親は地域の人を招いては伝道を続けてきました。私は、クリスチャンホームで育ったため、子どものころから「聖書は神の言葉であること」、「イエス様が私の罪のために十字架にかかって下さった」ことを信じて疑いませんでした。素直に、聖書の御言葉を受け入れることができたのも、多くの兄弟姉妹からの祈りの支えがあったからだと思います。

毎年クリスマスの時期になると、京都での働きを終えイギリスへ帰国した宣教師に手紙を送っていました。いつも丁寧な返信をくれ、そこには私たちのことを覚えて祈っていると書いてくれました。その言葉が子ども心に私の信仰を支えてくれました。

「聖地旅行」

小学校5年生になった冬休み、教会のメンバーと一緒にイスラエル旅行へ出かけました。初めての海外旅行。ドキドキワクワクしながら関西国際空港から出国しました。イギリスまで12時間、空港で6時間待ち、イスラエルへ6時間。合計24時間のフライトでした。長距離移動&時差ボケで、テルアビブ空港に着いたときは入国審査を待つ列で思わず座り込んでしまったのを覚えています。しかし、現地は朝の6時。ホテルで休むわけもなく、すぐにバスに飛び乗ってイスラエル各地を見て回りました。ガリラヤ湖、エルサレムなど、小さいころから聞いてきた聖書の舞台が次々に現れ、今もその光景が目に焼き付いています。この経験を通して、聖書の御言葉がより具体的で現実的なものへと変わりました。

「受洗」

中学・高校はソフトテニス部で活動しました。心は神様から離れていたわけではありませんが、中高の6年間は試合などで教会に行かない時が増えていた時期でした。周りはスポーツで勝つこと、よい成績を獲ることが大きな価値観である中、自分の人生にはどんな意味があるのか。信仰を持つとはどのようなことかをぼんやり考えていました。高校3年の時に大学受験に失敗した私は、高校卒業後、浪人をしました。それまで次の目標、次の目標と追い回されるように過ごしてきた人生で初めて。自分とじっくり向き合い将来についてじっくり考える大切な一年となりました。当時はクリスチャンとして歩むことの窮屈さや教会生活への反発から、洗礼を受けていませんでした。一人で毎日聖書を読み、信仰生活を守れば良いと考えていた私に、神様は「神の群れの中に入り、私に仕えなさい。」と語り、次の御言葉を与えてくださいました。

『何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」ピリピ4章6-7

受洗することは、神様に従う第一歩だという確信が与えられ、受験勉強渦中でありましたが、同時に洗礼準備クラスをお願いし、数か月の準備期間を経て、洗礼にあずかることができました。

「従弟からの一通のメール」

大学に入学し、私のクリスチャン生活もスタートしました。私の周りには、信仰に命を懸けている信仰の篤い先輩が多く、聖書の読み方や教会への仕え方、メッセージの仕方など、ビシバシとトレーニングしてくださいました。そんな大学生活も一年が終わろうとしていた頃、従弟から一通のメールが入ります。
「プロテスタントのクリスチャンが集まる全国集会があるらしいけど一緒に行かへん?」
それまで、自分の教会のグループのキャンプしか参加したことがなかったので、クリスチャンが多く集まる集会には興味がありました。
そこで「いいけど、申し込みの締め切りはいつ?」と返信すると。
「締め切りは今日!!今日中に〇〇の口座に33000円振り込んで!!」
おいおい、振り込め詐欺かと思いましたが、まだクリスチャンになっていなかった従弟がせっかく誘ってくれているので、その足でATMへ向かいキャンプ代金を支払いました。

この日の振り込みが、その後の人生を大きく左右することになります。実はこのキャンプが3年に一度行われるキリスト者学生会(KGK)の全国集会でした。5日間行われたキャンプで従弟ははっきりと信仰告白をし、洗礼を受けることができました。また私にとっては、このKGKとの出会いを通して、その後KGKと強く関わっていくこととなります。初めて、他の教団の人と一緒に聖書について話をすることは、とても新鮮な体験でした。熱く語り合い、共に祈り合う仲間が与えられ、出会った信友との交流は今も続いています。

「就職」

大学卒業後は教員になることしか考えてなかったので、大学3・4年生になっても就職活動は一切せず、また受験生のように教員採用試験勉強をしていました。そんな中、KGKの主事からの薦めもあり、金沢にあるキリスト教学校へ就職します。初めての仕事と一人暮らしとで最初は慣れませんでしたが、同僚や北陸地区のKGK友人、教会のみんなに助けられて楽しく仕事をスタートしました。

就職した学校は毎朝礼拝から始まる一日でした。生徒と一緒に御言葉を聞き、一日を始められるのはこの上ない幸いなことでした。また毎月講壇から全校生徒へ御言葉を語ることができることもすばらしい経験でした。「多くの子どもたちに福音を伝えたい」という、その夢がかなった瞬間でした。教科を教えることの他、キリスト教も中心になって仕事をさせてもらい、充実した日々を送ることができました。

「京都へ」

金沢での生活が3年目を迎えた頃、母親が体調を崩し長期入院しました。これをきっかけに、実家に戻ることを考え、京都の公立の教員採用試験を受け直し、京都の公立へ再就職しました。金沢を去るときは後ろ髪をひかれる思いでしたが、神様はこのことを通して新たなステージを開いてくださいます。

関西に戻った私は、学生時代にKGKで共に過ごした信友たちと再会します。その一人に妻の優子がいました。数年後、結婚に導かれ、京都での新しい生活が始まりました。

比叡山がよく見える部屋で、毎朝聖書を読んで一日をスタートする結婚生活が始まりました。私たちが住んでいたのは、地球温暖化防止京都会議で京都議定書が制定された国立京都国際会館のすぐ近くでした。

数年後、2013年10月、国際会館でエンパワード21全日本大会という大きなクリスチャンの大会があると聞き、大会の最終日に部活が終わったあと、ちょっと寄ってみるかと軽い気持ちで訪ねてみました。

https://www.christiantoday.co.jp/articles/12147/20131014/news.htm

会場には2000人ほどのクリスチャンが集まっていました。あまりの人数に驚かされると共に、伝統的な教会で育った私にとっては、聖霊派の先生方のメッセージや祈りはとても新鮮で心にストレートに伝わってくるものでした。賛美と祈りと熱いメッセージで燃やされた後は、派遣集会が持たれました。全員が1列に並び、一人一人メッセンジャーから額に油を注がれ、それぞれの場へと再派遣されていったのです。

その時は何も感じませんでしたが、後から振り返ると、この時をきっかけに私たち夫婦は新たな導きの波に乗りました。

「滋賀に引越」

エンパワード21が終わると、不思議と滋賀の不動産情報がたくさん手元に集まるようになりました。当時京都から滋賀の教会へ通っていたので、ちょうどよい機会だと思い滋賀に家を探し始めます。そして、通っていた教会の近くによいマンションが見つかり、そちらへ引っ越すことに決まりました。

引越をして半年後、子どもが誕生し3人での新たな生活がそこで始まりました。忙しくも楽しい日々でした。私たちのマンションは教会から近いこともあり、いろんな教会員の方との交わりや相談の機会を持つ場所を提供することができました。

「アメリカへ」

当時、滋賀の教会は試練の時を迎えていました。開拓から10年ほど経ち様々な問題が教会内で起こり、教会員の愛と信仰が試される時期となっていました。私たちもその渦中で心身共に疲れ切り、どうにもできないことにただ祈り、待つしかできませんでした。そんなときに不思議にアメリカ行きが決定します。

バタバタと準備が始まり、2016年3月に家族3人で渡米しました。渡米先には妻がずっと行きたかったニュージャージー日本語教会が家からすぐ近くにあるということがわかり、渡米3日後から教会に通わせていただきました。アメリカでも主にある兄弟姉妹と日本語で礼拝できる機会に恵まれたのは、本当に感謝なことでした。またスモールグループでは錦織先生を通して、どのように生活の中で神様を知り、神様との関係を深めていくかについて学びをしました。日本でずっと奉仕に追われてきた私たち夫婦にとっては、大切な学びであり、その後の信仰生活にとって大きな財産となりました。

Perspective World Christian Movementという非宣教地域、他宗教への伝道の学び会に参加しました。そこでは、50人ほどの参加者と共に、聖書に基づいた福音とは何か、異文化へのアプローチ方法、教会形成など実践的な学びをしました。そこで気づかされたことは、日本は世界で最も福音伝道の進んでいない地域の一つだということです。世界宣教について共に学ぶ中で多くのアメリカ人が真剣に、熱く日本のために一緒に祈ってくれました。アメリカから日本を見ることを通して、日本への福音の必要性を再認識することができました。

「日本へ」

3年間のアメリカ滞在を経て日本へ帰国しました、改めて思うことは、これまでもこれからも私の人生は主が導いておられるということです。主はご自身の計画の中で私を生かし、訓練し、導いてくださいます。どのような導きに対しても、主が共におられるので、ただ私は信頼して歩むことができます。これから日本で主に仕えていくなかで、ただ主の栄光だけが輝くことを祈りつつ歩めたらと思います。

ニュージャージーでの主にある兄弟姉妹との愛の交わりを感謝します。教会のお働きが益々祝福され、多くの方が主に出会うことができますように。

『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』詩篇119篇105

牧師室より 2019年9月号 「ゲームやテレビに負けてたまるか!」

♫ わくわく・・・どきどき・・・うきうき・・・どきどき・・・
お金じゃ買えないものってあるよね〜♫

今年も8月の初めのJOY JOY キャンプでは子どもたちの元気な声が教会のジムにあふれました。今年のテーマは「わくわくタウン2」。教会のジムに突然現れた不思議な町で「〜のためにどうすればいいか?」という使命を受けて、買い物をする、という設定です。18年前の「わくわくタウン」が楽しかった、という声を当時の子どもたちから聞いて、いつかもう一度JOY JOY キャンプのテーマにしたいと考えてきて、今年ついにそれが実現!今年も「買い物の時間」は大盛り上がりでした。私は個人的には「探検」とかをテーマにしたほうがいいんじゃないかなあと思うのですが、何で子どもたちは、そんなに買い物が楽しいのでしょうかね。一説には「いつも、お父さんやお母さんが買い物をしているのを見てるけど、お金とかさわれないし、『自分ももっと自由に買い物したい!』と思っているんじゃないかな?」ということですが、さて、どうなんでしょうか?

今から50年くらい前、私が子どもだった頃は、教会はたくさん子どもであふれていました。クラスの中でも必ず何人か、友達が教会に来ていたものです。そして、みんなで聖書を覚えたり、休まないで来たりすることを競ったものです。でも、いつ頃からか、教会に来るのは、ほとんどが、「親が来ているから」という子どもたちになりました。他の子たちには教会は「関係のないところ」になったのです。「テレビとかゲームとか、他の楽しいことがあるから・・・」と言われたりするのですが、もしそうだったとしたら、それは他の楽しいことに負けている教会の問題でしょう・・・ということで、とにかく楽しいプログラム、そして、でも、楽しいだけでは終わらない中身のあるプログラム、をと考えてきました。子どもも大人も、楽しいことって、大切ですよね。でも、楽しいだけじゃ物足りなくなる。だから、これからも、本当に楽しい、本当に心に届く働きを続けていきたいと思います。

今年も思ったのですが、もしかしたら、今年のJOY JOY キャンプに来た子どもたち、会うのがこの時だけかもしれない、もしかしたら、来年は都合が悪くなったり、日本に帰国したり、他の地に引っ越したりして、もうJOY JOY キャンプには来られないかもしれない、そう思うと、何としてでも、「十字架にかかって、私たちの罪を赦してくださったイエス様」「そこまでして、私たちを愛してくださる神様」のことを話さなければ、と思うのです。そのことをなんとか伝えたい、子どもたちの心に残るものとして受け止めてもらいたい、そのように思うのです。これから、いろんな楽しいこともある、でも、それに負けないくらいの、辛いことや悲しいこと、やるせないこと、悔しいこと、全てを投げ出したくなること、そんなことを経験するだろう子どもたちに、「神様は、君のことを本当に大切に思っているんだよ」ということをわかってほしい、わかって、何かあった時に、また「教会に行ってみようかな」と思ってほしい、そのように思って準備してきました。

「わくわくタウンで買い物する」という毎日だったのですが、でも、本当に大切なものはお金では買えない。目にも見えない、そして、その大切なものを神様はくださるんだよ、と子どもたちにお話ししました。伝わったかなあ、どうかなあ、と思います。なんとか、子どもたちの心の中で、その聖書の言葉の種が、芽を出し、実を結ぶ時が来ますように。

「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」コリント人への第二の手紙4:18

秋からも、教会の働きはそのことを伝えていく、また表していく、生きていくことが中心になっていきます。一人でも多くの方に、この神様の愛が届きますように。

2019 年8月11日 『買えるものと買えないもの』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: コリント人への第二の手紙4章18節

 

  • 「買えるもの」と「買えないもの」どんなのがある?
  • 「わくわくタウン」では、買い物をした。子どもたちは買い物が好き。
  • でも、本当に伝えたかったのは「お金じゃ買えないものがある」ってこと。

 

  • 「見えるもの」と「見えないもの」もほぼ、「買えるもの」と「買えないもの」に同じ

 

  • 聖書が語る一番大切な「買えないもの」「見えないもの」はなに?
    ・・・神の愛
  • 神は私たちを神と共に歩むべきものとして造られた。
  • しかし、人間は神に背を向けて、自分だけで生きられると考えた。
  • 神から離れた人間の世界に入ってきたのが「死」
    肉体の死
    霊的な死
  • そこから私たちを救うためにイエスが送られた。
  • イエスの十字架は私たちの罪のため。罪の身代わり。

 

  • この神の愛は無料、フリー、プレゼント、ギフト。
    私たちはそれを感謝して受け取るだけ。
    第一ヨハネ4:10

 

  • しかし、それと共に、そのために大きな犠牲が払われていることを忘れてはいけない。
    第一ヨハネ3:16

 

<テイクアウトQuestion>

1)    「買えるもの」と「買えないもの」どんなものがあると思いますか?

2)    神の愛はどのように表されているでしょうか?

3)    神の愛を受け取るために必要なのは何だと思いますか?

4)    神の愛は無料で受け取れるけれども、そのために大きな犠牲が払われているのだということは、私たちにどんな生き方を求めているでしょうか?

 

牧師室より 2019年8月号 「ほんとうに大切なもの」

「今度の土曜日、こちらの公園の南口で、うちの息子がお話をするから、ぜひ、来てくださいよ」

それは、20年以上お会いしていなかった友人の誘いでした。私がサバティカル休暇期間中、5月に日本に3週間ほど帰ることを人づてに聞いた彼は、日本に着いたばかりの私に声をかけてくれました。それは、東京の大きな公園のホームレスの人たちのための集まり。社会的にはある程度認められる地位にある彼が、毎週土曜日の朝、そんなに一生懸命ホームレスの方々のためにご奉仕しているのはどうしてなんだろう、という気持ちと、その息子さん、小さい時からちょっと天才肌だったなあ、どんな青年になっているのかなあ、という気持ちとで、幸い、時差ぼけで朝早く目が覚めたこともあり、出かけてみました。

最初に賛美歌を歌って、お話があって、そこまでは想像通りだったのですが、そのあと「さあ、食べ物や援助物資を配って解散かな」と思ったら、なんと、そこから15人くらいずつのグループに分かれて、今聞いた聖書の話の感想や、自分がどうしてここにいるのか、という話を始めたのです。それが、みなさんなんだか、生き生きと話をされるのです。「興味はあるんだけれども、まだ信じられないんだよねえ」という方が、一生懸命質問をしたり、すでにこの働きを通してクリスチャンになった方が、「僕も本当に惨めだったけど、イエス様に出会って、変わったんだよねえ」と自分の体験を話されたり、みなさんが心を開いて、本音で話をされているのです。「ああ、なんだかいいなあ」と思いました。モノや肩書きを失って、プライドも奪われた人々(「いや、自分はプライドがあったから、ホームレスだったんだなあ」と今は援助を受けて、家も仕事も得た人が言っておられて、それはそれで、また考えさせられましたが・・・)が、一人の人間として、神様を求めて、互いに向き合って、話をしている、住むところや仕事を見つけた人たちも、やはり、同じところに立って、話している。いや、この世では立派な肩書きを持っているような人も、そんなことはどうでもいいこと、として、一人の人として、向き合っている。それは美しくもエキサイティングなひと時でした。

それがあまりに魅力的な集まりだったので、私もそれから毎週土曜日の朝、その公園に通いました。

私たちはいつの間にかいろいろなものを身にまとって、身につけて、持ち物を増やして、でも、それによって失ってしまっていることもあるんじゃないかなあ、と思います。そういうものを一度全部おろして、一人の人間として互いに向き合ったり、神の前に出たりすることができればいいのに、と思います。

今年のJOYJOYキャンプのテーマは「わくわくタウン2」。お金じゃ買えないものあるんだよ、神様は、それをみんなにくださるんだよ、ということを子どもたちに伝えることができたら、と、また日々の教会の歩みの中で、そのことが自然と伝わっていくような働きができればいいなと思っています。

「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」コリント人への第二の手紙4章18節

第二の放蕩息子

アメリカ、フロリダの地であなたは愚かで汚れきっている私を一番近くで見ていたのにもかかわらず、私をこれでもかと愛し、優しく包んでくださいました。あなたの愛をこの世界、そして日本に伝えるために私のからだを用いてください。

自分がどれほど愚かで無知であったかを思い知らされたのです。ああ神よ。私は獣のように見えたことでしょう。しかし、それでもあなたは私を愛し、私の右手をしっかりつかんでくださっています。 詩篇73:22~23(リビングバイブル)

去年の6月から今年の1月まで、アメリカのフロリダにあるディズニーワールドで約6ヶ月間のインターンシップに参加していました。これは、当時大学3年生の世界一流のホテルマンを目指していた私にとって素晴らしい機会であると同時に、親元を離れられる最高の機会でもありました。親が嫌いであった訳ではありません。むしろ大好きです。問題だったのは、私の信仰が神様を信じる信仰ではなく、神様を熱心に信じる親に対する信仰だったということです。クリスチャンファミリーに生まれ、物心つく前から教会にいました。洗礼は10才の時に受けて、高校生活が終わるくらいまでは特につまずくこともありませんでした。しかし、大学に入ると、徐々に自分の中でたくさん疑問が湧いてきました。「なぜ私は毎週日曜日に教会にいるのか」「この世界にはたくさん神様がいるのに、なぜ私はこの神様を信じているのか」――このような問いが自分の中にたくさん湧いてくる時に、立ち返る信仰という土台が私はしっかりしていなかったため、すぐに崩れてしまいました。この時は、教会に行かないと親に言ったら親を悲しませると思っていたので、しかたなく行っていました。そして、教会に行ったら熱心なクリスチャン両親を持つ息子として自分なりに良いクリスチャンのフリをすることをいつも考えており、偽りの自分で教会にいるのが嫌でしょうがなかったです。このタイミングで親元を離れて行く6ヶ月のインターンシップは、自分の中で大きな意味がありました。それは、自分自身の神様に対する信仰を自分で見つけられるかもしれないという期待の意味でした。

大きな期待を胸にアメリカに行きましたが、そんな甘くありませんでした。池田恵賜先生に勧められた日本人教会はタクシーで往復8000円かかり、日々を過ごすお金を稼ぐのにやっとの私は、教会にそれほどのお金を払って行く価値が見出せませんでした。そして持っていった聖書は一度も開かず、祈りもしなくなりました。週三回くらいのペースで同僚と夜のダウンタウンに行き、二日酔いになるまで遊んでいました。どんどん神様から離れていきます。かつて自分がアメリカに来る前に抱いていた期待を楽しさと酔いで忘れようとしていました。

帰国1ヶ月半ぐらい前になり、私は二つのことをずっと考えていました。一つ目は、日本に帰ったら親と違う教会に行こうということです。なぜなら、また偽りの自分でいなければいけないと思ったからです。二つ目は、こんな汚れきっている自分は教会に戻る場所すらないということです。自分のしていることが愚かで、もう神様に合わす顔がないと逃げていました。

そんなある日、「恵賜先生とマーティ宣教師がアメリカのフロリダにスポーツミニストリーの会議で来ているので、もし都合が合うなら会いなさい」と母からメールがありました。私は、この時正直「恵賜先生は帰国したらいつでも会えるし、マーティ宣教師って誰やねん!」と思っていました。しかし、ここでの出会いが私と神様の関係を大きく変えました。最初に恵賜先生と少し話し、そのあと初めて会うマーティ宣教師に、忙しい会議と会議の間の時間をとって頂きました。会話を始めるとすぐに、マーティは「君のスピリットはすごい!」と私に言い、マーティがすごく興奮していたのを覚えています。私は、彼がなぜこんなに興奮しているのか、そしてスピリットがなんのことを指しているのかもわからない状態でした。しかし、私が覚えているのは、こんなに明るくて楽しそうな人をディズニーでも日本でも今まで見たことがないということです。次のミーティングが始まるとのことでお別れすると思いきや、次のミーティングにぜひ参加してほしいと、参加費も払っていない私に対して言ってくださいました。そして飛び入りで参加したミーティングでは、オーストラリアのサーフィンミニストリーを代表する方がオーストラリアでのミニストリーの現状やこれからの課題を共有してくださいました。ずっと教会や神様から離れていた私としては、久しぶりに聞く神様の話でした。とても新鮮で神様のことをサーフィンで伝えたいという熱心な思いが、私には輝いているように見えました。そのミーティングに参加している皆が眩しかったです。

ミーティングが終わると、マーティは「私は今、フェスティバルを通して神様を伝える働きをしていて、日本全国を回っている。君に通訳をしてもらいたいから、早く戻ってきなさい」と言ってくれました。なぜか涙が止まりませんでした。もう帰る場所すらないと思っていたのに、神様はこんな私でさえも、とりこぼすことなく帰る場所を用意してくれました。すべてを知っている神様は、汚れていてもう自分ではどうしようもできない私に手を差し伸べてくださいました。マーティは泣いている理由も聞かずにただ自分を抱きしめ、「神様はあなたを愛しているよ」と言ってくれました。神様の愛は偉大です。私は神様の深い愛によって変えられました。今は、神様によってホテルマンへの夢が完全に取り去られ、献身する道に導かれています。神様がどのような計画を私に持っているか、まだしっかりわかりませんが、主に期待して歩んでいきます。

高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主イエス・キリストにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。 ローマ8:39(新改訳第三版)

2019年3月28日本郷台キリスト教会木曜祈祷会での証し:ご本人と教会の許可をいただき転載

2019年7月28日 『聖書の力』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: テモテへの第二の手紙3章14節〜4章5節

 

• 神はいろいろなものを通して、私たちに語っている。
• 例えば自然界。宇宙は、神の大きさを示し、私たちの小ささを教えてくれる。
科学者たちは、その科学を通して、神の大きさを示す。詩篇8:3−4
• 聖書を通して、神は一番語ってくださる。

1) 御言葉は私たちを救いへと導く
• 神は聖なる方+神は私たちを愛しておられる。
• 人は神のかたちに造られた。神と共に歩むために。
しかし、人は神に背を向けて、神なしの歩みをするようになった。・・・罪
• その罪の赦しのために、再度神と共に歩む道を開くためにイエスが十字架で罪の代価を払われた。→信じる者が救われる。

2) 御言葉は私たちを成長させてくださる
• 信じて完成ではなく、成長させていただく。
• 励ましの言葉もたくさんある。
しかし、ここでは、「教え、戒め、矯正し、訓練する」ものとしての聖書
• 聖書が私たちを料理する。・・・いのちがあるから。
• ヘブル4:12

3) 私たちは御言葉の力を信頼する
• 「あくまでも寛容の心で」・・・忍耐の限りを尽くして・・・「あきらめない」
• 時がよくても悪くても・・・聞いてくれても、くれなくても。
• 聖書の言葉には命があるから。タネは芽を出すから。
• 使徒行伝20:32

<テイクアウトQuestion>
1) あなたは、どこで一番神を感じるでしょうか?
2) 聖書が私たちに必要なのはどうしてだと思いますか?
3) 聖書によって、自分が大きく変えられたこと、整えられたこと、どんなことがあるでしょうか?分かち合ってみましょう。

2019年7月21日 『夫婦の愛・神の愛』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: エペソ人への手紙5章22節〜33節

 

 

  • 聖書は結婚を重んじ、結婚を祝福している。
  • 聖書は夫婦のことについて、多くのことを教えている。
  • 聖書は夫婦の問題を簡単にやり過ごさないで、真剣に取り扱っている。

 

1)    妻への教え

  • 「主に仕える(従う)ように夫に仕え(従い)なさい」
  • 「仕える」「従う」という動詞は出てこない。・・・21節の「仕え合う」から。
  • この時代、妻は夫の所有物のように考えられていた・・・聖書は革命的
  • 自由に仕えていく。神様を信頼して、従っていく。

 

2)    夫への教え

  • 「キリストが教会を愛して、自分を与えられたような愛で妻を愛する」
  • 結婚してわかること・・・自分には愛がないなあということ。
    自分に都合のいいところを愛している。・・・全てをありのまま愛しているのではなない。

 

3)    夫婦を支える神の愛

  • 「相手が変われば、私ももっと愛せるのに」と、相手のせいにする
    ・・・これが問題。あなたからスタートする。
  • キリストが教会を愛した愛。教会に集う人々が立派だからではない。

罪人を愛されたイエス。

  • 力がないから力を与えるのが神。それを信頼するのが信仰
    エペソ1:19, ヘブル11:1

 

<テイクアウトQuestion>

1)    自分には愛がないと感じる時がありますか?それはどんな時でしょう?

2)    愛するために必要なのはなんでしょうか?

3)    神様が男性と女性を(また一人一人を)違った存在として、造られたのにはどんな意味があるのでしょうか?

牧師室より 2019年7月号「痛みの中で見えてきたこと」

月報でもおしらせしてきましたが、4月のイースターの後、6月半ばまで、サバティカル休暇として2ヶ月間のお休みをいただいて、教会の牧師としての働きを離れて、休息と研修の時をもってきました。多くの皆さんのお祈りに支えられて、また、留守の間を守ってくださった信徒の方々、近隣の教会の先生方、日本からご奉仕に来てくださった加藤義人先生など、みなさんのお働きによって、このような時を持たせていただいて心から感謝します。

2ヶ月にわたる特別なサバティカル休暇の最後の2週間、いよいよ復帰に向けて、心の準備をしたり、学んできたことのまとめをしたりしようと思っていた時でした。なんだか、胸から背中に痛みを感じるようになりました。普段はそういうことがあっても、いつの間にか忘れてしまうのですが、今回は、どんなに時間が経っても無くなりません。というよりも、何をしていても忘れていられないほどの痛みになっていきました。帯状疱疹でした。夜は眠れない、昼間は痛みで何もできない、市販の痛み止めを飲んでもおさまらない、そんな痛みが数日続きました。最後はお医者さんに行って、抗ウィルス剤と、市販の痛み止めの量を増やして、何種類か併用して、なんとかおさまっていきました。この原稿を書いているのは痛みが始まってからちょうど4週間後ですが、まだ痛み止めを少し飲んでいます。

サバティカル休暇が始まる時に、この2ヶ月間が終わった時には、リフレッシュして生まれた変わった自分、確信に満ちて、今までと違ったレベルのリーダーシップを発揮する自分を夢見ていました。「こんなことを学びました」とプレゼンテーションができるようにと思っていました(確かにいくつかのよき学びの機会も与えられました)。しかし、実際、このサバティカル休暇で学んだことの一番のことは、自分の弱さであり、愚かさであり、情けなさだったのです。普段は講壇から「クリスチャンは困難の中でも、賛美をすることができます。感謝をすることができます」と語っていました。しかし、自分が痛みの中で出てくることといえば、「なんとかしてくれ!」「この痛みを取り去ってくれ!」だけでした。感謝も賛美も出てこない。それどころか、一番身近な家族に当たってしまったり、傷つくことを言ってしまったりする自分がいました。その自分の姿を見せつけられ、肉体的にも、霊的にも弱さを思い知らされたのです。

それは自分にとって必要なことだったと思います。いや、そのことこそ、今の自分にとって大切なことだから、この痛みが神様から与えられたのだと思います。神様は私が本当の自分の姿に気がつくようにと導いてくださったのだと思います。これからも、「自分」が何をしたか、何をしているか、ではなく、「神様が」どれほど大きな方で、弱い私の人生にどれほど素晴らしいことをしてくださるのか、それを見せていただきたいと思わされています。そのことを証ししていきたいと思います。これからも神様が私の歩みの中で必要なものを与えてくださいますように。

「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(コリント第二の手紙12:9)

「平安、愛、そして歓びを、洗礼から」

救い主のお導きに、心から感謝します。

JCC of NJ関連の諸先輩、及びこれから信仰を目指す皆さんへ!

私の体験談が、何かの好影響になれば幸いと念じ、拙い情報を思い出し、まとめてみました。

 

実は私、13ヶ月前、当教会にて、錦織牧師のご采配を得て、晴れの席で “受洗”を致しました。75歳の老齢であるにも係わらず、当日は、一寸感情の高振りがあったのを、今でも覚えておりますが、洗礼に至る背景は、こんなものでありました。

 

東京ベースの家電関連企業の駐在員として、米国本社にて業務に専念し、私なりに成果も出せたので 引退しました。しかし、仕事オンリーで有ったが為か、退職後、交じりあう人も少数で、暇でしょうがない現実に遭遇し、寂しさを感じ、ガッカリしていました。

(皆さん、仕事以外で交じえる人を、常に確保しておいたほうが宜しいですよ、天のお父さん[=神さま]と会話出来れば最高でありましょう)

 

問題解決には人の紹介で、シニアーセンター参加が実現しました。日本人主体で集まる会。そこでは毎回聖書解説と礼拝が、教会の牧師方の派遣で開催されています。何回かの集いに参加して、聖書に対する興味が湧いて参りました。錦織牧師を始めとする、数名の先生方の懇切丁寧な指導に依る影響があっての事だと思います。

 

当初は無知の世界ゆえ、とっつきにくく、モヤモヤの状況が続きましたが、幸い音楽が好きなので、賛美の歌には好感を持ち、その内容を理解すると楽しくなる経験を踏んでおりました。そのうちに、創世記が理解出来るようになり、天地の創造、人が造られる等々、読み進むにつれ、私は救いの主を 「これだ!絶対信ずるに値する!」と感じ、驚きと感動に浸りました。新たな世界が開かれたのです。

 

更にその他に経験した事も併記せねばなりません。

引退後、健康上の諸トラブルについてです。加齢からと想像致しておりますが、こんな病を次々と経験しました:

Dental Surgeries

Open Heart Surgery

Prostate cancer

Cataract Surgery

Pacemaker Implant 等であります。

 

これらの病への治療が開始される頃、教会の先生、教会の兄弟姉妹(教会では互いのことを神の家族として「兄弟姉妹」と呼ぶことがあります)らが、天のお父様へ祈って下さっていました。私も祈りました。そして家族も祈りも加わった為か、次々と無事、療養を終了致しました。医療関係の諸先生方に依る尽力も含められますが、忘れられないのは、主への真摯な祈りが多くささげられたことです。そして、私が今でも私なりに生存している事実を、誠にありがたく思います。

 

祈りを捧げてくれた 結果 今日になった次第です。

初期に於いては、私に対する親切なお祈り行動をありがたいと思いつつも、心にピーンと来るものではなく、むしろ混乱気味でした。しかし、今では皆さんのお祈りに、天のお父様が応えてくださった結果と心から思うようになりました。

 

3年前に、私は家族とマイアミに移住しましたが、そこでも、サウルさん(牧師先生)と彼の奥さんに懇意にして頂け、土曜日の集まりに、日本、米国、ラテン系信徒さん達と共に集い、聖書の学びをしてきました。そして、その中で、神さまとの関係が、更に深くなっていると信じさせられます。

 

このような経過によって、昨年の誕生月、4月には自分のこれからの生き様を“余生をお祈りで感謝、感激”と位置付け、神さまを受け入れるに至りました。聖書から、

1)創世記第一章の我々が生きる場としての、天地創造に感銘したこと。

2)総じて、福音書に散りばめた多々なる言葉、(4つの福音書の全てにイエス様が十字架にかけられ、 三日後に復活されたということが書かれていますが、神秘的で驚くべきで、信じるに充分、と私の心に収まったこと。

3)詩篇150篇等に感化を受け、そうだ!そうだ!と神さまに同調したこと。

それらが信仰の決め手になりました。

 

そして、NYに短期滞在で前立腺癌の治療に専念している時、神様に私の罪の悔い改め、昨年の5月13日にバプテスマを受けました。

 

以来、私が明るくなったと周囲から言われたりするので、皆さんの親切なる応援の祈りの力が作用したと信じ、主の御言葉を深く、広く、理解し、福音を更に深く理解することに専念しようと思っています。

只今はマイアミに住んでおりますが、JCC of NJを大切な拠り所として、皆様の懇意で接触を続けていければと期待しております。

2019年4月28日『とにかく信じてほしい』

説教:栗栖信之牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書(John) 20:24-31

 

◆結論・最重要点:イエス様は私たちに、とにかく信じてほしい。 なにを?:イエスが神の御子キリストであることを。 なぜ?:信じる者がイエスの名によって命を得るため。 どのように?:イエス様を「見ないで」信じてほしい。

◆「見て信じた」弟子たち ・マグダラのマリヤ(18節)・トマス以外の弟子たち(20節、25節) ・500人の弟子(第一コリント15:6)・40日間現れたイエス様(使徒1:3) ★「見なくては信じることのできない」不信仰な弟子たち。イエス様はどうしても信じてほしかった。それで姿を見せて、信じる者にして下さった。

◆「トマス」という人物(ヨハネ11:16;14:5) ・トマスはイエス様を心から愛し、特別な感性を持ち、思ったことを素直に表現し、人の評価を気にしない、妥協しない、強い意志を持った人。 ★こんなトマスだからこそ「イエス様をこの目で見たい!手で触れたい!」と思った。イエス様はとにかく信じてほしくてリクエストに応えられた。

◆イエス様の私たちへの願い「とにかく信じてほしい」 ・私たちは今、イエス様を見ることができない。でも「見ないで信じる者は幸い」であることをペテロが教えてくれた。(第一ペテロ1:8-9) ★見ないで信じる者の内側に神様の愛と聖霊が働いてくださる!

 

<テイクアウトQuestion>

1.イエス様を見たいですか?見たい、見たくない、見る必要がない理由は?

2.「見ないで信じる」ことは難しいですか?簡単ですか?なぜですか?

3.「見ないで信じる」ことの素晴らしさは何ですか?それを体験しましたか?(した人は今週だれかにシェアしましょう!)

4.「見なければ信じられない」と言う人に、どのように寄り添いますか?その人の気持ちがわかりますか?何を伝えますか?

“2019年4月28日『とにかく信じてほしい』” の続きを読む

「御手の中で」

私は東京都品川区に生まれ育ちました。6歳離れた兄がいます。
両親共、育ったのは典型的な日本の仏教の家です。仏教の行事は、私も全て行って育ちました。

大学卒業後は、稽古事の学校に入学し、その頃、アメリカを旅行したのが、私が将来、アメリカに住みたいと思うきっかけとなりました。

その翌年、サンフランシスコ近郊の、アメリカ人の家にホームステイをし、近くの英語学校に通いました。学校でよりも、私を家族の一員としてくれたファミリーとの生活の中で、英語を覚えていきました。また、家族の知人に日本人の奥さんを持つクリスチャンの夫婦がいて、私を娘のように可愛がってくださいました。私を教会にも連れて行ってくれました。

その後、日本に戻り、当時、女性のための外資派遣会社がスタートしていて、英語を少しでも話せると、すぐに仕事がもらえました。私は、数ヶ月働いては、この夫婦の家に遊びに行くというような日々を過ごしていました。

数年たち、産休に入るワシントンDCの友達に、半年間、日本の旅行会社で彼女の代理を頼まれました。この仕事が終わる頃、日本で、機関投資家間の国債の取引を始める外資の証券会社が、大蔵省より、男女雇用機会均等法に沿って、夫を含む、外人男性ブローカー3人に対し、日本人女性を3人雇わなければいけないという条件を出され、私は、債券ブローカーになりました。数年後に結婚をし、退職しました。

2000年、カリフォルニアの夫婦の奥さん(Yさん)が、バイブルクラスに行き、そこで会った方の家に招かれ、その家が売りに出ていると、聞きました。その家は、すでに買い手が決まりかけていたのですが、最終的に、私たちがこの家を買うこととなりました。

2001年、夫の仕事は、ほとんどコンピュータ化されてしまっていたので、会社からWorld Trade Center のNY Officeへ転勤か、退職をするかと提言されました。カリフォルニアに家を買った後だったので、私たちは退職を選びました。その2ヶ月後、9/11が起き、ノースタワーの上階にあった、夫の元の会社の殆どの方が、召されていきました。

その頃、長女は、アメリカのkindergartenにショックを受けたのか、泣き続ける日々が続きました。それを聞いたYさんが、ウォールナットクリーク日系キリスト教会(JCCWC)で同じくらいの歳の娘さんを持つ方を紹介してくれて、わが家に遊びに来てくれました。そののち、長女は学校でも、友達ができて、自分の居場所を作って行きました。

これをきっかけに、私と子供達はJCCWCの交わりに入るようになりました。

夫は、カリフォルニアに引っ越してから1年後の2012年9月にNYで就職し、私たちは、東海岸に引越そうとしました。その時、私は受洗を決意しました。1年間、自分を愛してくれたクリスチャンの皆さんとの絆を守りたくて、また、私もクリスチャンとして、NYでの生活をスタートしたいと思ったからでした。

しかし、夫の仕事は順調ではありませんでした。また、家を売ろうとしていた知り合いが直前にキャンセルをしたので、私と子供達は、カリフォルニアに残ることとなり、母娘3人にとって、教会生活が大切なものとなっていきました。
結局、夫も、翌年に帰ってきました。

夫の長い失業、株式での大損、経済的には、かなり厳しくなりましたが、そのころ、カリフォルニアの家の値段が急騰して、家を担保に、銀行からかなり借り入れをして、それまでと、変わらない生活を過ごしていきました。

私は、礼拝、集会、奉仕、信徒の交わりを多くすることによって自己満足し、“私は、一生懸命なクリスチャンだ”と、自負していました。
当時、神様に委ねるということは全くできずに、私が神様との関係を作っていました。自分に都合の良いように、神様を使ってさえいました。
祈りは、自分の希望、欲望を、ただ並べるだけでした。
もちろん、それらは御心ではありませんでしたから、ほとんど聞かれることはありませんでした。そうすると、私は不幸だ、神様に試練を与えられている、私の祈りは聞かれないのだ、と言っていました。

その頃、私は、いつもヨブ記を読んでいました。最後に、ヨブが、神様から与えられる多くのものを羨ましいと思いました。
自分が持っているもの全ては、自分のものだと勘違いしていたので、“なぜ、神様はこれすら私から奪うのですか”と聞いていました。

自分の家族(夫)に対しても、自分は、平和の基とは、かけ離れていました。
私たちは、毎週末、家族みんなで外出することを楽しんでいました。
私が、救われた後は、私は好んで、教会、信徒と、多くの時間を過ごすようになり、日曜日は、朝早く、子供を連れて教会に行き、夕方まで帰ってこないこともありました。
当時、子供と過ごす週末を、とても楽しみにしていた夫が、一人で過ごすことが多くなってしまいました。失業していたこともあり、私と夫の間には、平安は全くなく、常に、言い争いをしていました。信仰深いカソリックの家に生まれ、カソリックスクールに行った夫に、教会から距離を置かせているのは、私の過去の歩み故だったと思っています。

カリフォルニアで6年が過ぎ、2007年夏、夫にアジアでの仕事が決まり、私たちは日本に引っ越しました。やっと神様が私の祈りを聞いてくださったと思いました。もう大丈夫だと思いました。

しかし、サブプライム問題が起き、まだ持っていたカリフォルニアの家の価格は、やがて半分になりました。また、リーマンショックの後、2009年春、夫もレイオフされました。東京の家は、会社から支給されたものだったので、家族で実家に移りました。
当時娘たちは、私立に通っていたので、その一年後には、NJの義理の母のところに居候しながら、現地の公立学校に行けるようにと、頼みました。夫は、東京のある会社から、出来高払いという仕事をいただいたので、私の実家にそのまま残りました。

私たちは、家族や、周りの人に助けてもらわなければ、日々の生活ができないという状態でした。
私と子供達は、NJへ、各自、スーツケース1つに洋服、ダンボール1個にパーソナルグッズで、引っ越してきました。
その頃、私は、自分の家、生活、車は、一生持てない、と思いました。

しかし、この経験で、自分の全てを神様に明け渡すという信仰が産まれました。
古い“私“から解放されました。
本当に、自分では、どうしようもできないという現実の中で、“神様、私には、もう、どうすることもできません、助けてください。”神様は、長い間、辛抱強く、私のこの言葉を待っておられたのです。全てのものは、神様から与えられていて、自分のものではないということに、ようやく気がつけました。
私の祈りは、我が罪のためのイエス様の贖いの死―十字架の恵みを感謝すること、全てのことを御手に委ねること、地上で自分が与えられている使命を全うすることへの導き、へと変えられました。

2016年10月、私は交通事故に遭いました。夫と次女がカレッジヴィジットのために家を出て、1時間経った、夜の7時ごろ、犬と散歩に行き、横断歩道を渡っているときに、98歳の男性の運転する車にひかれました。
骨盤骨折、脳内出血、太腿と腰にかけて15センチと35センチの2箇所の裂傷、首、腕などのステッチ、全身の打撲や切り傷、私の怪我は生死に関わるものでした。数日間、集中治療室で手当てを受け、事故から3週間後には、腐敗した腿の一部の組織を取り除き、そこに皮膚移植をするという手術も受けました。
当初は、1週間に1度くらいは、痛みを苦痛に思ったり、ひと月に1度は、“なぜ私は事故にあったのだろう”と考えたりしていたように思います。しかし、家族は、私がそのようなことを言っていたのを聞いたことがないと言います。それは、神様が当時の私に平安を与え続けてくださっていたからでしょう。

事故の3ヶ月後、執刀医の一人の先生の診察で、“二度と事故の前の体には戻らない、痛みも残るだろう”と言われましたが、私は、この言葉を冷静に受け取りました。それは、たとえ、足は元に戻らなくても、それとは異なる恵みが与えられるという、神様の御業を信頼していたからです。将来の後遺症への恐れなどからも解放されています。事故前の姿が、私なのではなく、今の状態が、“私”なのだと思えるようになったことで、以前の体とは比べなくなりました。

事故から1年後に、裁判所であの車を運転していた人を見ました。この人が今まで事故を起こさなかったのが不思議なくらいの方でした。神様は、この事故に、私を選ばれたのだと思いました。そして、神様は、その日から、これまで以上に、私に絶えず働きかけてくださって、希望を与えてくださっています。

また、神様からいただく使命=軛というのは、自分が想像していたよりも、はるかに軽いものでした。神様の軛のおかげで、昨年2回行った手術や、全ての回復の道のりの中にも、思い煩いはありませんでした。
また、今年予定している数回の手術も、全き癒しへのステップだと、感謝しております。

見えないものを信じる信仰の中にいた私は、神様のご臨在を実感することによって、実際に見たもの(経験したもの)と共に歩む信仰へとなりました。そして、この事故も、恵みへと変えていただきました。

私が愛する神様が何もかもを最善にしてくださります。私は、ただ神様を信頼するだけでいいのだ、という平穏に包まれています。
そして、ヨブのように、多くの祝福をいただいています。
その祝福とは、以前私がヨブを羨んでいた、物質的な豊かさではありません。
万能なお方が、いつも私と一緒にいて、私を強くしてくださり、喜びと感謝に溢れた日々を与えてくださるのだという確信が、今の私を豊かにしてくれています。

また、慈しみ深い神様は、サプライズの祝福までもくださいます。2012年に夫と二人で会社をスタートしました。神様が日々、私たちに知恵を与えてくださり、そのビズネスは年々増え続けています。
2017年4月には、自分たちの家さえ持つことができました。

私を愛する神様の、私のための、最高のシナリオである、そのご計画は、時には、悲しみや痛みを味わうこともあるかもしれません。しかし、全てのことを相働かせて益となさる方です。
その先には必ず祝福への扉が開かれていることを、私は知っているので、いかなる時も、いかなることへも、恐れず、強く、雄々しくありたいと祈っています。

神さまのなさることは、全てが時にかなって美しいのです。

主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである     ―エレミヤ書29章11節

神様は、本当に、私たちを愛しておられます。

アーメン

牧師室より2019年5−6月号「内側から溢れるもので」

イースターの礼拝、礼拝後の愛餐会(お食事会)には久米小百合さんをお迎えしました。久米さんは今から40年くらい前に「久保田早紀」という名前で歌手をされていた方です。私も高校時代に彼女のミリオンセラーの「異邦人」をよく聞いていました。というかいつもテレビで流れていたのを見ていたんですね。ですから、今でも、どうしても「あの久保田早紀さんね」という目で見てしまうのですが、今回、ほんの少しですが、個人的にお話をさせていただいて、また音楽やお話を生で聞かせていただいて、やっぱり、その人の魅力というのは、内側から溢れてくるものだなあ、と思いました。

とても素敵な方です。とても楽しい方です。そして、イエスに出会って、その喜びにあふれている方です。それはYouTubeで昔の映像を探し出して見てみても、わからないものです。伝わってこないものです。でも、個人的にお話をする時には、その心にあるものがビンビン伝わってくるのです。今回久米さんをお迎えすることができて、本当によかったなあ、と思います。

私は4月23日から6月16日まで長いお休みをいただきます。その中で一番大切にしたいのは、自分の内側がどうか、ということです。どんなにノウハウを学んでも、どんなに正しい教えを語っていても、自分の内側が渇いてしまっているとするならば、心の中にあるものが枯れてしまっているとするならば、それは虚しいものです。内側に溢れるもの、それが周りに流れていく、そのような歩みをしたいのです。

「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。」ヨハネ4:13-14

私のライフメッセージです。このイエスの言葉を語り続けるために、もう一度、命の水の源である神様との関係に集中して、そこに目を留めて過ごしたいと思っています。どうか、お祈りください。神様が素晴らしいことをしてくださいますように。

牧師室より2019年4月号「いのちの勝利」

先月の月報で「今年は雪が少ないですねえ」と書いたとたんに雪が降って、その後も肌寒い日が続きました。私は庭に最初に咲くクロッカスの花で春の訪れを感じるのですが、一昨年は3月1日に、昨年は3月15日に咲いた花が、今年は3月26日にやっと開花。いよいよ春だな、と心から感じます。

そして、春の訪れを告げるお祭り、イースター。今年はこのイースターも4月21日と、いつもより遅いです。それはイースターが「春分の日を過ぎた最初の満月の次の日曜日」と決められているからです。今年は春分の日の翌日が満月だったので、次の満月は4月19日。その次の日曜日ということで4月21日となるわけです。

いつお祝いするかよりも大切なのが、その意味。イースターはイエスが十字架にかけられた後、三日目によみがえられたことをお祝いする日です。ですから、イースターのメッセージは「死に対するいのちの勝利」です。私たちすべての者がいつかは迎えなければならない死。その前には私たちは全く無力であり、そこに佇むことしかできません。ある人は、「人間は生まれた瞬間から死に向かって生きているのだ」というようなことを言うほどです。しかし、イエスはその死を打ち破ってよみがえってくださったのです。

それにはいくつかの意味があります。

まず第一に、イエスを復活させた神の力が今も私たちのうちに注がれているのだ、ということです。人類最大の敵、最後の敵である死を打ち破る力が、この世の中で、いろいろな悩みや困難の中を通っていく私たちのうちに注がれている、それはなんと心強いことでしょうか?どんなに大きな問題だとしても、この死の問題よりも大きな問題はありません。その一番の問題を打ち破った神の力は、私たちの人生の問題に、勝利を与えてくださるのです。

第二に、死の意味が変わってしまったということです。死はもはや無敵ではありません。絶対のものではなくなってしまったのです。恐れる必要は無くなってしまったのです。神はイエスによって永遠の命を約束してくださって、私たちを永遠の世界に迎えてくださるのです。「死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」(第一コリント15:55)

まるで死んでしまっていたかのようだった木々も芽を吹いていのちのあふれる春。イースターはこの自然界と一緒に、私たちも、イエスによって死の問題に勝利することができることを告げるのです。

今年のイースター、子どものためのJOYJOYイースターは4/7の午後3時半から。イースター礼拝と愛餐会(どなたでも歓迎の食事会)は4/21の午後1時半から。お待ちしています。

「神の業が現れるため」(ヨハネ9-3)

317日はセントパトリックデーでした。今まで「アイルランドのお祭り」と、あまり気に留めていませんでしたが、4世紀末から5世紀にかけて働かれたパトリック宣教師の辛い少年期を知りました。そして彼が残した言葉に目が止まりました。
Christ beside me.  Christ before me.  Christ behind me.  Christ within me.
Christ beneath me.  Christ above me. (St. Patrick)

目の前が真っ暗になったあの日から、全く変わってしまった状況の中に封じ込められてもがく中で 、神の存在を喪ったかの様な時にも、パトリック宣教師の言われるように、確かに私を支える存在は、一番近くで囲み守り抱えてくださって、深い慰めを持って立ち上がらせて下さろうとしておられたと、その足跡を振り返る毎に感謝に溢れます。

2017年後半、私達は多くの友人を天に送る不思議な年でした。12年間病と闘い続けた親友を含め10人の友を失いました。しかし最後に健康な主人が召されるなど?思いもしない事でした。「私達は明日のことはわからないのです。」(ヤコブ4:14)の通りです。

11月15日、どの位心臓マッサージが続けられたのでしょう? 救急医の「残念ですが。。」と言う声に、映画のシーンを見ている様な錯覚を覚え、主人の死に一人直面しました。まるで 生きている様な顔に思わず声をかけていました。「ね〜Aki—–     当たり前ですが、
返事が返ってこない、静けさの中に涙も出ずに立ちつくしていました。
主人が横たわるベッドと私の間の距離は僅かなものなのに、でもそこは全く声の届かない断絶の隙間でした。取り返すことのできない真っ暗闇「死」の壁がありました。
ヘンリー・ナウエンの慰めの手紙の中には、「死は私達のコントロールや影響が及ぶ領域から完全に外れたところにある。死は決定的な終わり、見たこともない終止符、完全な破壊。」と書かれていますが、そんな壁の前に立たされました。

「人間には一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが決まっている」(ヘブル9:27)
神の言葉が迫りました。  これが? 神の言われる、全ての人間が迎える「肉の死」なのですか?   元気だった主人が突然迎えた命の終わりという現実を突きつけられて、答えを求めるようにつぶやきました。
全く聖い神の前に立つことが出来る人はいるだろうか?
裁きの前に、この世での多くの立派な働き、功績や財産などは何の力もないのでは無いか?

その時、十字架にかかられて血潮で真っ赤になったイエス・キリストの姿が、リアルに目の前に何度も迫って来ました。イエス様、わたしたちでなく、なぜ聖いあなたが、罪のないあなたが? 人間が掛かるべき十字架にかかられたのですか? 何故そこまでしてくださったのですか?言葉で表現出来ない程の重みを持って、十字架のあがないのすごさを受け取りました。

「私を通してでなければ、だれひとり神のもとに来ることはありません」(ヨハネ14:6b)
突然の主人の死でしたが、この一方的な御愛を信じ受け止めていた主人が、ただ恵みによって神のもとへ帰って行ったことをハッキリと感じました。      聖なる神の前に立つ時も、
このイエスご自身が執り成して下さる方であることも。
🎶 
ああ感謝せん〜  、ああ感謝せん〜 🎶 不思議に静かに賛美が心に響き始め、
断絶の闇だと思っていた死の絶望の中に、希望の光が圧倒的な力で迫り覆いました。
「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。
やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:4~5)

十字架にかかられて死に、3日後に復活された主、死に勝利された方の約束が響きます。
「私は蘇りです命です。私を信じる者は死んでも生きる、あなたはこれを信じるか」
「これを信じるか?」 はい信じていました、でも今はっきりとわかりました。
主人からの別れの言葉はありませんが、この約束が残された言葉であると感謝します。

召天から1年5ヶ月。 彼は最高の場所に帰ったことが段々とクリアに信じられるようになりましたが、当初、主人に頼りきっていた私は、空虚さ喪失感から抜けきれない毎日が続き、眠れず、運転も出来ず、聖書も読めず、祈れない、ただひたすら主の憐れみの中に弱さを留める時間でした。主人に何回か「アメリカで、貴方が居なくなったらどうするの」と聞いたことがありました。主人の答えは何時も「イエス様がいるから心配ない」でした。
全てを主にお委ねする状況に追いやられました。

「主の祈り」が私の祈りとなりました。「御心の天になるごとく 地にもなさせたまえ」!
寂しくなると、「Pray」という賛美を主に叫ぶように歌いました。
In time of sorrow, season of pain.
When all seems hopeless
One thing Remains
Our God is Faithful
His word is true, He said call on his name
And He will answer you.  Pray
  Pray
He has promised He will answer when you pray
Jesus is answer when you pray

詩篇を声を出して読みました「私のうちで、思い煩いが増す時に、あなたの慰めが、私の魂を喜ばせてくださいます様に。」詩篇94:19
「我が助けは天と地を造られた、主から来る」(詩篇121) 強められて行きました。

11/18=ハワイでお葬式。3/24 =主人の誕生日にNJでの記念会。5/30=日本の大和カルバリー教会での召天記念礼拝、沢山の皆様のお祈りとサポートによって無事に終えることが出来たことを感謝いたします。主人の死を知らせた時、父親っ子だった娘はどんなに辛かった事かと思いますが、あれからズーと私を支え続けてくれています。ありがとう!
「私は私を強くして下さる方によって」又歩み出しました。 お祈り有難うございます。
主人は「神の栄光の中で」、私はこの世で「神の業が現れるために」生きて行きます。
聖霊様どうぞ宜しくお願いします。   

『足を洗うイエス』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書13章1節〜15節

 

  • 最後の晩餐・・・大切な人たちと、大切な話をする。
  • イエスが足を洗われたことは、イエスの愛の現れ。
  1. 弟子たちに仕えたイエス
  • 当時の社会の中で、足を洗うのは奴隷の仕事。
  • ここには奴隷がいなかった。誰が?互いに一番格下の存在を探した。
  • イエスは自分が立って、弟子たちの足を洗われた。
  • イエスは言われた。「あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と。
  • 今で言うならば、どういうこと?
  • 教会でいうならばどういうこと?
  • 注目されることでもなく、感謝されることでもなく、互いに「誰かやってくれるといいけど」ということ・・・。
  1. 弟子たちの足を洗われたイエス
  • 6-11節のペテロとイエスのやりとり
  • イエスの十字架は、私たちの罪を洗い流すことを象徴的に表していた。
  • 「もしも、私が洗わなければ、あなたは私となんの関わりもなくなる」
  • 「私の足は洗わないでください」・・・自分でやります?
  • それと同じことを私たちは神様に対してしていないだろうか?
    一生懸命自分で準備をして、「さあ、イエス様を受けいれます」と。
  • イエスは今も、私たちにそのままの心で来るようにと招かれている。
  • 洗うのはイエス様。自分の力できれいにするのではない。
  • 一番隠しておきたい、一番恥ずかしいと思うところをイエスに差し出すこと。

<テイクアウトQuestion>

  1. 人々の足を洗う、ということは、今の時代に当てはめるとどんなことになると思いますか?
  2. 教会で「互いに足を洗い合う」とは具体的にどんなことが考えられるでしょうか?あなたは何ができるでしょうか?
  3. あなたはイエスに、「自分の足を洗ってもらう」経験をしたことがありますか?どんな経験でしょうか?

2019年3月3日『十字架への道』

説教 : 錦織学牧師
聖書箇所:マタイによる福音書16章13節〜28節

 

  • イエスの「公生涯」の転換点になる時。
  • ここから受難(十字架)のことを、弟子たちに語り始める。
  1. ペテロの信仰告白
  • 「あなたは何と言うか?」という問い。
    他の人の意見は聞いた。でも、あなたは何と言うか?
  • ペテロの答え・・・「生ける神の子キリスト」・・・救い主
  • この岩の上に教会を建てよう。
    ・・・教会はこの信仰ゆえに一つになっている。
  • あなたの答えは?
  1. イエスの使命
  • 十字架への道を語り始めたイエス。
  • 弟子たちはそれを受け入れることができなかった。
    ペテロ「そんなことがあってはなりません」
  • イエスはその言葉の中にサタンの声を聞いた「十字架なんかやめろ」
  • 弟子たちは自分たちの期待にイエスを当てはめようとした。
  • イエスは一貫して、そのサタンの言葉、人々の期待を退けた。
    十字架への道・・・私たちを救うため。
  1. イエスに従う者たち
  • イエスは自分が、十字架への道を歩むだけではなく、
    イエスに従う人々をも、自分を捨て、十字架を背負う歩みに招かれる。
  • 十字架を負う・・・死刑判決を受けた者として歩む。
    自分の夢、自分の願い、自分の考え、自分の主義主張にこだわらない。
  • 自分を捨てる時にこそ、本当の自分を取り戻すことができる。
  • 捨てるべきもの、結局はプライド?

<テイクアウトQuestion>

  1. あなたは自分の言葉として、イエスをどんな方だと告白しますか?
  2. あなたにとって、一番大切なものは何でしょうか?それをイエスのためにささげることができますか?
  3. 自分を捨てた時に、どんなものを得ることができるでしょうか?

 

「人智をはるかに越える神様の御計画を見るとき」

私の名前、“日和(ひより)”には二人の名付け親がいます。

一人は私の両親の共通の親友である“ひより”さんという方です。ひよりさんはクリスチャンではなく、両親が主の招きがあるよう祈っていた友人の一人でしたが、私が生まれる10年ほど前にグアム旅行でスキューバダイビング中に現地のインストラクターに海中に置き去りにされ、行方不明となったまま、帰ってきませんでした。母はその頃たまたま読んでいた本の中で、ある宣教師が海で難破に遭い水底に沈んでいく体験をした時、非常な恐れよりも神様の大きな御手の中に包まれていくような平安を感じた、と書かれていたのだということをひよりさんがグアムへ出発する前日に彼女に話したのだそうです。ひよりさんが最期、海の中で何を思っていたのか私たちには知るすべもありませんが、きっと母が伝えた宣教師の話と平安を思いながら願わくば主の御光の中天に上げられたことを両親は信じています。

もう一人の名付け親は母方の祖母である和子さんです。和子さんはクリスチャンとなった私の母である娘に連れられ教会へ行き、自身もクリスチャンとなりましたが、私が生まれる1年前に兵庫県を直撃した阪神大震災の後、地震による酷い粉塵で肺炎に侵され亡くなりました。私は阪神の震災の翌年、1996年2月22日の午後2時22分に2220gで生まれました。2の羅列という驚きも去ることながら、和子さんも昭和2年2月22日生まれで、両親は祖母をなくした悲しみがこのような形で喜びに変えられたことに神様の壮大な御計画を見、祖母の名前から“和”の字を、また天での再会を願いひよりさんから名前を借りて、私を“日和”と名付けてくれました。

そんなわけで、神様のユーモア溢れる御計画のもと10年間子どもに恵まれなかったクリスチャンの両親の間に一人娘として生を受けた私は、自分を認識するよりも前に神様の存在を教えられ、祈ること、御言葉を読むこと、聖日(日曜日)の日に教会へ行くこと、が当たり前として育ちました。両親は私を諭す時も、祝福する時も、励ます時も、いつも御言葉をもって語りかけました。父も母も共に芸術系の仕事をしていた為、私も物心ついた頃には既に紙とペンさえあれば幾時間も過ごせてしまうような子どもで、振り返ってみると、私の周りにはいつも祈りと御言葉と、そして芸術が寄り添っていたことに気づかされます。母は厳しかったですが、早生まれで他の同年代の子どもたちよりも要領の悪い上のんびり屋な私に忍耐強く付き合ってくれました。芸大で若い芸術家の卵たちを教えていた父はとても頭の柔らかい人で、私が昆虫に興味を示せば林に虫捕りに連れて行ってくれ、私が道端のカラスノエンドウの弾ける様子に見入っていれば気が済むまで一緒にしゃがんで見てくれ、私が絵を描きたいと言えば床一面に紙を敷いて広々と描かせてくれました。私は他の子どもたちよりも鈍いところがあったので、幼少期はよくいじめられ悲しい思いをすることも多かったですが、“芸術”という吐き出し口を与えられていた私はのびのびと育ったと思います。ただ、幼少のその頃植えつけられた他の子たちよりできないことが多いという劣等感は年齢が少しずつ上がってもなかなか拭えず、その不安をかき消すように勉強もクラブ活動の練習も人の倍以上頑張って取り組んでいた子ども時代でした。教会にも楽しく通っていて、神様という目に見えない存在を幼い頭を一生懸命働かせて理解しようとしていましたが、ある時は大洪水を起こして全人類を滅ぼす恐ろしいお方、またある時は子どもたちをその膝の上に乗せ愛でられる優しいお方、そしてまたある時は右頬を打たれたら左頬を差し出しなさいと諭され自ら十字架の道を歩まれる苦しみと忍耐のお方、とそのイメージが時にいろんな形に変わっていき、迷走していたように思います。しかし、一人っ子で紙とペンが友達のようなところがあった私は、周りの子どもたちと関わるにあたって自己主張の全然できない子どもで、大抵の場合“我慢”して自分を押し殺すところがありました。その分を両親が大きな愛情を持って受け止めてくれていたのですが、自分の性質上、神様というのも“忍耐”を強いる方だというイメージが次第に強くなっていきました。

時は進んで高校2年生の頃、中高一貫校に進学した私は中学の頃から弓道部に所属し、“文武両道”を掲げて友だちと遊ぶこともなくただひたすら勉強と部活動に打ち込んでいました。自由と自主性を重んじる、日本の教育機関にしては珍しいリベラルな学校であったので勉強のプレッシャーを生徒に与えない長閑な雰囲気でしたが、勉強好きな生徒たちが多いのか進学校に類される学校でした。私も周囲の空気に押されるように、国公立大学への推薦入学を目指して勉強に励みつつ部活動も精力的に取り組み、部内の誰よりも練習をして副部長の任も務めていましたが、そのあまりの熱心さ故に同学年の部員たちとの間に熱の差が生じ部活動でトラブルを抱えてしまいました。部活に行けなくなった私は、勉強への意欲も失せ家に引きこもりがちになり、授業の欠課時数は貯まり、担任の先生からもこのままでは進級も危うい、と言われました。当時の私は頑張って積み上げてきたものが全て崩れどん底に落とされたような心地で、どうして神様はこのような残酷なことをなさるのだろうと絶望しました。小さい頃から共に教会学校に通っていた子たちはみな中学へ進学する頃には教会を離れた中、私は毎週教会にもきちんと通っていたし、部活動も勉強も誰よりも真面目に一生懸命に頑張っていたのに、そして何より聖書の教え通り“忍耐”を実行していたのに、なぜ神様はそれに報いてくださるどころか全部奪われたのだろう、と。自分の置かれた状況への不満や怒りはそのうち、いつまでもそうして八方塞がりの中惨めにうなだれている無気力な自分に対する不甲斐なさと失望に変わり、クリスチャンなのにこんなにもたくさんの負の感情に覆われていることに自分はこの世界で一番情けない者だ、ととても落ち込みました。教会にはかろうじて行っていましたが、兄弟姉妹にかけられる「祈ってるよ。」の言葉はその時の私にとっては重荷で、自分のみっともない姿を周りから、そして神様からも隠してしまいたい、とさらに引きこもるようになってしまいました。

そんな時、母は私に旧約聖書に出てくるヨブの話をしてくれました。神様の前にも正しく、富も地位も家族にも恵まれたヨブがその全てを奪われた上酷い皮膚病も患い、妻からも「神を呪って死になさい」とまで言われた時、ヨブは自分の生まれたことを呪うほど苦しみましたが神を決して呪わなかった、

そして神様はその後ヨブに以前持っていた物以上の祝福をお与えになったこと。

私が自暴自棄になって大泣きしながら自分の体を傷つけた時、母は涙を流しながら私の隣で静かに祈ってくれました。日和は生まれた時から神様に守られているから、必ずこの先に神様の御計画があるよ、と。ひたすら沈む娘の姿をどんな気持ちで支えてくれていたことか、と今振り返ります。母があの時流した涙は、私には小さな者たちのために主が流してくださった清い涙と重なるのです。それまでは神様との祈りにおいても“いい子”でいようと努めて本心を出さないままでいた私でしたが、その頃初めて、神様に悪態をつきました。神様ひどいです、私はもうこれ以上忍耐なんかできません、と、どうしようもない自分のままで祈りました。

転機となったのは、弓道部を辞め先生から誘われるがまま美術部に入ったことでした。酷い落ち込み方をしていた私を見兼ねてだったのか、美術の先生が余っている50号の大きなキャンバスに絵を描いてくれないか、と声をかけてくれたのです。前述した通り、美術の溢れる環境で育った私だったので、もちろん絵を描くことは変わらず好きだったのですが、美術というフィールドにいるとどうしても芸術家である父の存在が大きく、「親の七光りだ」とか「サラブレッド」だとか評されることに抵抗感があったため、しばらく美術から敢えて遠ざかっていたところがありました。久しぶりにじっくり制作する時間を与えられて、始めこそキャンバスの前に呆然と座っていたものの一度筆を下ろすと時間も忘れて描き続けていました。その頃は、教室には相変わらず行けないことが多かったですが、美術室には夜まで入り浸っているような生活でした。

次第に、散らかって何も見えなくなっていた自分の心が美術を通してクリアーになってきていることを感じました。私の前にも後ろにも左右にも道はない、八方塞がり、と思い込んでいたけれど、それならいっそうのこと真上に飛び上がってしまってもいいのではないか、と思った時、逆に言えば今私はとても自由なのだ、と気づいたのです。神様は私が固執していたこの世的なもの、良い大学へ進学して安定した将来を築くことだったり部活動で良い成績を納めて周囲からの賞賛を得ることだったり、そういうものを一度全て取り除けてくださったのだと思いました。また多くの立派な信仰と称される聖書の中の人物たちも、多くの場面で困難に頭を抱え、苦しみ悶え、そして神様に叫び、その弱さを神様に明け渡しながら歩んでいる様子が聖書にはたくさん書かれていることにも気づきました。人間である以上、苦しみの中で情けない自分の本性にうなだれるのは共通で、そこで神様に全身全霊で叫び呼ばわった時、神様は視界の霧を晴れさせそのビジョンを示してくださるのだ、と教わりました。

 

“私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行き詰ることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。〜たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。”

コリントII 4:8-9,16

高校3年生に進級できるかどうかも怪しかった私でしたが、側でずっと祈り支えてくれた両親や教会の方々と、私を信じて励まし続けてくださった学校の先生方、心配してたくさん話を聞いてくれた友人たち、そして愉快で無邪気な感性で疲弊した私の心を癒してくれた美術部の後輩たちに救われて、なんとか高校最後の学年を迎えることができ学校にも通常通り通えるまでに回復したどころか、その頃私は神様から新たな道を示されたのでした。美術の力を改めて身をもって経験したことで、将来は美術を媒体として誰かの心に寄り添うことがしたい、という思いが私に与えられました。特に、子どもと大人の間で大きなうねりにさらされる10代の若者たち、将来への限りない可能性に勇み歩もうとする一方、未知の世の中に踏み込む手前の不安で揺れる時期、私自身がそうであったように多くの10代の青少年たちが不安定な心の浮き沈みと格闘していることに私は心を砕くようになりました。私は幸いにも良い大人の方々に囲まれて立ち直ることができましたが、悲しいことに、多くの若者がそういう機会に恵まれていないというのが現実です。アートセラピーという、美術制作を通して自分自身と対峙し、対話し、そして整理する機会を提供しその過程をサポートするというお仕事があります。日本では未だほとんど認識すらされていない分野ですが、美術を通して青少年の心に触れることのできるアートセラピーを勉強したいという思いが私に与えられました。しかしながら、日本では勉強できないということで、それなら勉強できる国へ行こう、と自分でも拍子抜けしてしまうくらい私はあっさり異国の地での学びを決めたのでした。

 

“あなたは口のきけない者のために、また全ての不幸な人の訴えのために、口を開け。口を開いて正しくさばき、悩んでいる人や貧しい者の権利を守れ。”

箴言31:8-9

周りの同級生たちが大学受験に向けて必死な形相で勉強に励む中、私は担任の先生に「大学受験しません。アートセラピーが勉強できるアメリカの大学に行きます。」と大胆に宣言しました。それまでの慎重派な私だったらこんなリスキーな道を選択しなかっただろうと思いますが、なぜかそう目標を掲げた途端、普通の生活を送ることすらままならなかった空っぽの私の中にみるみる力が湧いて、高校卒業後はアメリカの大学へ進学するための英語の勉強やVISAの取得、渡米に当たっての資金調達のためのアルバイトの掛け持ちや派遣の仕事など、積極的に動くことができるようになりました。辛かった高校2年の大きな挫折はここに繋がっていたのかと思うと、本当に神様の御計画の素晴らしさを覚えずにはいられません。

“あなたがたは、さきの事を思い出してはならない。また、いにしえの事を考えてはならない。見よ、わたしは新しい事を成す。やがてそれは起こる、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、砂漠に川を流れさせる。”

イザヤ43:18-19

顎関節の不調のため2度ほど手術を受けなければならず、直ぐにはアメリカに来ることができなかったのですが、高校卒業から2年半の準備期間を経て、満を持して20歳の夏、2016年の秋学期からロングアイランドのコミュニティカレッジでの学生生活をスタートしました。念願叶ってのアメリカでの大学生活でしたが、文化も仕組みも右も左も全く分からず、言語の壁もまた大きく、幾度となく心を挫かれました。未知の土地での暮らしは、どんなに頑張っても自分一人の力ではどうにもならないことばかりで周りの方々に助けを仰がなければ生活できず、一丁前に自立して努力して進んでいると驕っていた自分を省みました。そして、自分の力で解決しようとする前に、まずは神様に委ね祈ることの大切さをレッスンされました。また、今まで当たり前のように近くにあった家族や友人たちという“支え”から離れたことで、これまで以上に聖書の言葉が私の拠り所となるようになったのです。

昨年末まで住んでいたロングアイランドの地元の教会にパラパラと足を運んだりはしていたものの、やはり英語で執り行われる礼拝では霊的な満たしが得られず、母国語でメッセージを聞き、賛美をし、交わりをしたい、との気持ちが次第に高まっていきました。正直なところ、生まれた時から教会に通い、小学生の頃に洗礼も受け、聖書の言葉も祈りの文句も諳んじれるというのに、私はこれまで心の底から神様を求めたことがありませんでした。気づいたら当たり前のごとくそこに神様の存在があったからこそ、その御恵みと本質を見失っていたのです。昨年末、個人的なことでいろいろと不安や悩みを抱え、かつてない霊の渇きを覚えた時、日本の教会の宣教師の先生から繋げていただいて、昨年のサンクスギビング特別礼拝の際初めてNJ日本語教会の礼拝に参加する恵みに預かりました。ロングアイランドから電車と地下鉄を乗り継ぎ、送迎の車に乗せていただいて教会の建物の前に降り立ったとき、私の霊が震えたのを感じました。聖霊様が働いてくださったのだと思いますが、なぜだか「私はこの場所をよく知っている」と思ったのです。確かにここには霊の癒しがあると感じ、教会の建物を見ただけだというのに、涙が止まりませんでした。久しぶりに日本語で歌う賛美、語られるメッセージ、全てがとてつもない勢いで私の渇いていた霊を潤していき、これまでのクリスチャンとしての歩みの中で一番恵まれた礼拝の時となりました。その時、錦織先生を通して語られたメッセージは導きについてでした。神様は私たちが気づいていなくてもいつも導いてくださっていて、私たちが“涙の谷を過ぎるときも、そこを泉の湧くところとし”てくださるというのは、その苦しみの渦中にあっても潤いと慰めを与えてくださるのだ、ということ、その時非常に心を悩ませていた私に直に響くメッセージでした。

神様の御力はこれだけに留まらず、NJの教会へ足を運んだのを合図にしたかのように次の数週間はものすごい恵みの連続でした。NYクリスチャンユースのバイブルスタディのVineへの参加で同世代のクリスチャンの仲間との出会いに分かち合いの機会が与えられ、高額なアメリカの大学の学費に頭を悩ませていたところに日本の教会の姉妹から学費援助の申し入れを受け、またその姉妹からの提案を聞いた同日に編入の願書を出していた数校の大学のひとつであったCUNY Hunter Collegeからの合格通知…恵みと驚きのドミノのような日々でした。Hunterはマンハッタン市内にある大都会の学校なので、マイペースに勉強したい私のような者にはあまりに忙しなく、合っていないだろうと願書を出した当初は第2〜3志望くらいに考えていました。第1志望であったアップステイトの私立校からも合格通知と高額な奨学金のオファーをその1週間後に受け取りましたが、NJの教会へ行けたこと、新たなクリスチャンの兄弟姉妹と出会ったこと、そして日本の姉妹からの学費援助の申し入れ、サンクスギビング礼拝の時に語られた神様からの“導き”を私の霊がそこに感じていました。このまま続けてNJの教会へ行きたい、兄弟姉妹との分かち合いに足を運びたい、今神様により与えられたこの場での繋がりを大事にしたい、その思いが募り2週間ほど祈った後、続けてNJの礼拝も守れる上バイブルスタディなどにも参加できる市内付近での生活を選び、第1志望を断ってHunterに進学することを決めました。

“あなたの道を主に委ねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。”

詩篇37:5

こうして新しい学校での学びと共に、新しく与えられた多くのクリスチャンの兄弟姉妹との分かち合いを毎週持つことのできる生活が始まり、今私はこれまで感じたことのない霊の喜びを感じています。毎週礼拝の中で神様からの課題や問いかけを与えられ、毎朝のディボーションの中でさらにその問いかけに対する神様からの追求があり、その日その日を聖霊様からの語りかけに自分の思いを寄せながら過ごし、週に何回か参加させていただいているスモールグループやバイブルスタディなどの場で兄弟姉妹とその週自分と神様との間で持たれた対話について分かち合うという、とても霊において充実した日々を送ることができています。この度、正式にNJ日本語教会への準会員としての転入を承諾していただく恵みにまた預かり、兄弟姉妹とともに主に仕える機会が与えられたことにさらなる喜びと感謝に溢れています。振り返ってみると、出生時から主の祝福はいつも私の上にあり、私が塞がって主の光も声も届かなかった重たい時期においても神様は私に必要な助けと慰めを常に側に置いてくださり、私の思いやその先に見ていたビジョンをはるかに超えた素晴らしい御計画と道へ誘ってくださいました。そしてその導きにようやく私の霊も気づいた時、これまで経験したことのない満たしと喜びを受け取ることができました。アメリカでの生活はまたチャレンジで闘いの日々ではありますが、神様に全てを委ねて共にゆく道は、人智をはるかに越えた神様の御計画に期待し歩む喜びの道である事を私は今確信しています。

“それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。”

ローマ5:3-5

私たちの前に絶え間なく試練こそあれ、それによってさらに主との関係が強められ祝福されるのであれば、それは私の喜びです。昔のようにただ自分を押し殺す忍耐ではなく、主に全てを明け渡して、主に手を引いていただいて挑む日々に、希望を寄せて歩みたいと思います。

牧師室より2019年3月「春を待つ」

今年、ニュージャージーでは、本当に雪の少ない冬を過ごしてきました。11月に突然雪が降って、大混乱しましたが、そのあと、12月から2月まで寒い日はあっても、降るのはいつも雨。こんなに雪が少ない冬は今まであっただろうか?と思って調べてみました。すぐ見つかるのはニューヨーク市のの記録。教会のあるNJのメイウッドよりも雪が少ない場合もあるのですが、こちらの記録を見ると、ほんの7年前、2011-12年の冬は7.4インチしか降っていません。そして、2001-2年の冬はなんとたった3.5インチしか降っていないんですね。こんなにお天気バカの私でも、意外と覚えていないんだなあと思いました。

でも、3月に入っていきなり連日の雪の予報、早く春になってほしいなと思いますね。どんなに穏やかな、雪の少ない冬でも、早く春になってほしいものです。

そして、教会は3月6日にレントの期間に入ります。この言葉を初めて聞いた時には「アパートのレントと紛らわしいなあ」と思ったものですが、英語では「Lent」、アパートの方の「R」で始まる「レント」とは全く違う言葉。イエスの十字架への道をたどり、イエスの苦しみに心を向け、イエスの復活をお祝いするイースターを待ち望む時です。

21年間ずっとこの教会の牧師としてレントのテーマを考え、その学びを導いてきて、イエスが十字架に向けて歩んでいかれた思い、以前よりも深く感じるようになってきました。それまでは「イエスの十字架によって、自分も罪赦されてありがたいなあ」という程度だったのですが、このレントの学びを続けていく中で、「イエスはどんな思いで十字架に向かっていかれたのだろうか」というイエスの思いに心を向けるようになってきました。もちろん、ただの人間である私たちにはイエスがどんなことを考えておられたのかは完全にはわからないのですが、そこに思いを向けることによって、イエスの歩まれた道をたどること、イエスが人々を愛されたように、私たちが人々を愛するとはどういうことなのだろうかを考えることの大切さを感じています。

「キリストは、・・・おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」ピリピ2:8-10

今年のテーマは「イエスの苦しみ・私たちの苦しみ」です。私たち自身はどうして苦しみを味わうのか、3月8日から毎週金曜日夜7時半から9時まで、教会で学びをしています。是非お出かけください。

そして、「Lent」は語源をたどると「春」という意味があるそうです。春の喜びを少しずつ味わっていくこの季節に、私たちのために命を与えてくださったイエスの恵みを少しずつ味わっていくことができますように。

2019年2月24日『主の祈り』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: マタイによる福音書6章9節〜15節

  • 「主の祈り」・・・イエスが「このよう祈りなさい」と教えられた。
  • 毎週の礼拝の中で祈っている。
  • 意味はどれだけわかっているだろうか?
  1. 主の祈りは何か?
  • 神の国を求める祈り
    →神様の素晴らしさ、神様の愛、神様の思いが、この地上でも、豊かに表されるようにと祈っている。
    →その視点で、後半を見ていくと、私たちの人生の中に神様の支配が溢れますように、という祈り。
  • 私を通して
  • 私を超えて
  1. 主の祈りの中心である赦し
  • 主の祈りの後で、イエスは赦しのことを改めて言われた。
    神の国、神の愛の支配の中で、大きな問題は赦しの問題。
    神の国を壊す問題・・・赦せない、という問題。
    神様の愛の支配は、赦しを通して表される
  • マタイ18:23-35・・・100デナリの借金を赦せなかった。・・・確実に相手が悪い。でも、自分はそれをはるかに超えるものを赦されている。
  1. 主の祈りの土台である神との信頼関係
  • 「父よ」からはじまる。・・・信頼の呼びかけ。
    それを可能にするイエスの十字架の恵み。
  • 山上の説教の前提は・・・「神が私たちを愛し、私たちを救ってくださったのだから」・・・あなたは10000タラント赦されているのだ。

<テイクアウトQuestion>

  1. 「主の祈り」をどのような思いで祈ってきましたか?
  2. 主の祈りの中で、どの祈りが、今あなたの心にぴったり当てはまるでしょうか?どこかに引っかかる言葉はありますか?
  3. あなたには赦すべき人がいるでしょうか?どんな人でしょうか?

2019年2月10日『神の報い』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: マタイによる福音書6章5節〜6節

  • 一緒にいるだけで嬉しい、楽しい、って究極の関係。
    神の報いって、そういうものではないか?
  1. 神様の報いって何?
  • この世でいいことがある?天国でいいものがたくさん準備されている?
  • 「天に宝を積む」→「献金をしたら天国銀行にたくさん貯金がある」
    「神様のために一生懸命やったから、神様はたくさんいいものを天国で準備してくださる」
  • でも、祈りの報いって何?隠れて祈ったら、天国の報いがある?
  • 天国・・・神の愛に満たされていること。神とともにあることこそが、「戸を閉じた祈り」に与えられる報い。
  • 神様ご自身と、神様が与えてくださる何か、とどちらを大切にしているか?どちらを期待しているか?どちらを喜んでいるか?
  • 神様の与える平安・・・ピリピ4:6-7
  • ヤコブのペニエルの経験・・・創世記32章
  1. 戸を開けておきたい気持ち
  • イエスはあえて「戸を閉じて」と言われた。⇔開けておきたい気持ち
  • 「私は祈っていますよ」と言いたい時。誰かへの励ましならいい。
  • でも、そうではなく、自分が祈っていることを認めて欲しい気持ち。
  • また反対に「恥ずかしいから」というのも「認められたい」の裏返し。
  • 放蕩息子のたとえ・・・ルカ15章
    兄息子・・・こんなにやったのに!認めてくれ!
    でも、父は兄も弟も、そのまま受け入れた。
  • 神とともにいることを喜ぶ。人に認められて満足なんてもったいない!

<テイクアウトQuestion>

  1. 神様は私たちにどんな報いを与えてくださると聖書は語っていますか?その中で一番素晴らしいものは何でしょうか?あなたは何が一番嬉しいですか?
  2. あなたは祈りについて、後ろの戸を開けて祈りたいと思うことはありません

2019年1月27日『真理はあなたを自由にする』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: ヨハネによる福音書(John) 8:31-32

  • 今年、教会のために与えられているみことば。
  1. 自分を縛っているものを知る
  • イエスを信じた人たち→最後はイエスを殺そうとした。
    ・・・33節「私たちはもともと奴隷になんてなったことはない」
  • 第一コリント8章2節「知っていると思っている人は知らない」
    自分が何かに縛られていると知ることがまず大切。
  • 何に縛られているのだろうか?
  • 「罪」「死」「律法主義」「過去の傷」「恨みや怒り」
  • 全ては認めるところから始まる。
  1. 神の子の自由
  • イエスを信じる者たちは自由を与えられる。
    神の子としての自由。ローマ8:15
    神の子として、神を信頼して歩める自由。⇔ 奴隷として、ビクビク歩む。
  • もう2度と奴隷のくびきに繋がれてはいけない・・・ガラテヤ5:1
    奴隷のくびき ⇔ イエスが私たちのために準備してくださっているくびきマタイ11:30「わたしのくびきは負いやすく」・・・「ぴったりフィットする」カスタムメイド。
  • 他の人とは違う。違っていい。違わないといけない。
  1. 隣人のための自由
  • ガラテヤ5:13-14
  • 私たちの与えられた自由は、自分勝手に生きるためではない。隣人に仕えるため。隣人を愛するための自由。

<テイクアウトQuestion>

  1. あなたは自由ですか?あなたは何かに縛られていますか?あなたを縛っているものは何でしょうか?
  2. イエスはどのように私たちに自由を与えてくださるのでしょうか?自分が今まで経験した「解放」はどのようなものだったでしょうか?
  3. あなたはイエスによって与えられた(与えられる)自由を、これからどのように用いていきますか?

「Trust God Always」

家族の歴史
私の父は1920年に日系二世として東海岸で生まれました。その後、子供時代に家族と共にニュージャージー州南部に移り住みました。第二次世界大戦が起こった時は、父は祖父の足跡をたどるようにメディカルスクールで学んでいる最中でした。そして、父は戦争に協力するために医学生としての歩みを諦めなければなりませんでした。父はアメリカ軍に加わろうとしましたが、父の兄がすでに陸軍442部隊(日系アメリカ人部隊)に入隊していて、母が一人残されることになるため、それは許されませんでした。父は大学を中退して南ニュージャージーの実家に帰り、農園を手伝うことになりました。日本軍による真珠湾攻撃が起こってからは、日系アメリカ人を隔離するため、多くの強制収容所が造られました。それらのほとんどが西海岸に造られたと思われていますが、実際はニュージャージーのシーブルックにもあったのです。父も日系アメリカ人ではありましたが、強制収容所に送られることは免れました。教会が彼をクリスチャンとして保証したからです。
戦争の後、父はメディカルスクールに戻ることはありませんでした。家族を養うために、週7日、24時間働く農園の仕事を続けることにしたのです。農夫としてなすべきことは多くあったのですが、父はいつも神のために時間を使い、安息日を安息日として守っていたのです。私たちきょうだいが生まれてからも、父は神に仕え続けて、クリスチャンホームを築きました。農家の子どもとして、兄も私も妹も農園を手伝い、教会や日曜学校を、日々の雑用から解放される「ミニバケーション」のように思っていました。私は、子どもの頃に教会に通っていたこと、教会のクリスマス劇での私たちの「飼い葉の桶で」の歌の調子外れの録音を、母が何度も繰り返し聞いていたことを思い出します。夏には「Vacation Bible School(夏季聖書学校)」に通い、高校に入ってもユースグループで出かけたりすることを楽しんでいました。しかし、高校を出てからは全てが変わってしまったのです。

大学時代
人生には色々なチャレンジがありますが、大学生活には、それが自分で生活することの第一歩であるがゆえの特別な困難があるものです。私の問題は大学に進んで学生としてバランスをとった生活することと、青年期を迎えることの難しさでした。それはどうしようもない、ということではなかったのですが、ドレクセル大学でエンジニアリングを学んだ5年間、わたしは全く信仰的ではない生活を送りました。教会には行かず、何か信仰的なものに参加するのは、ただ、超教派の集まりくらいでした。いうまでもなく、私は人生を真剣に考えることもなく、ただ、学位を取って、仕事を見つけることだけを考えていました。卒業した後、日本で1年ほどインターンをしたのですが、その後、アメリカに戻って、他の会社で働くことにしました。全てが仕事ばかりで、神からは離れる一方でした。そして、ついには完全に信仰を失ってしまったのです。それはその頃の自分にとって、大きな問題ではありませんでした。しかし、間違った道に進んでいることはわかっていました。

人生これだけなの?
仕事上の能力を向上させてはいましたが、何年も同じことを繰り返していました。朝起きて、運動をして、仕事に行って、家に帰って・・・その繰り返しでした。何かが足りないような気がして、自己啓発を学び始め、仕事以外の自分に投資をするようにしました。ITエンジニアとして働きながら、色々なことを学び、最後には金融関係のビジネスを始めるための勉強を始めました。この努力をしている中で知り合いになった人々の中には成功したビジネスリーダーもいました。驚いたことに、その成功したリーダーたちの共通項は神に忠実な人々であり、皆、神を中心とした価値観を持っているということでした。
私は一つの大きな決断をしました。それは教会に帰るということです。この時、私はホーボーケンに住んでいたのですが、ニューヨークのアッパーイーストにある教会に通うようになりました。電車を乗り換えて、歩いて合計1時間かかりましたが、もう一度教会に通うことが楽しくて、人生の意味を見つけたようでした。良い友人に恵まれ、人生は良いものでした。しかし、2001年の世界貿易センタービルへのテロ攻撃の後、ニューヨークの教会に集う人々の生活は変わってしまい、以前のようではありませんでした。のちに妻になるKayoと私はホーボーケンから引っ越して、教会に行くこともやめてしまいました。
9-11の1ヶ月後、私のITエンジニアとしての仕事はなくなり、ほんの少しの解雇手当が与えられ、私は一夜のうちに失業者となりました。私の生活のルーティーンは全て変わってしまいました。その時はITの世界は混乱していて、ITの世界に帰ることはとてもリスクの高いことでした。ですから、私は思い切って、金融の仕事にかけることにしたのです。これはたやすいことではなく、チームをトレーニングすることはとても難しいことでした。何ヶ月かの後、私の貯金は減り始めました。ビジネスを立ちあげようとすることは多くの歪みを生み出していきました。借金は増えていく中で、自分に「あと何ヶ月か経てば軌道にのる」と言い聞かせていました。
経済的にストレスがさらに大きくなっていく中で、のちに妻となるKayoと私はどうしても必要なもの以外をどんどん捨てていきました。ビジネスを立ち上げていこうという中で、とてもシンプルな生活をするようになっていったのです。ある夜、私はあまりのストレスの大きさに、膝をついて、泣きながら神の助けを求めました。おそらく祈りは応えられたのでしょう。あるビジネスの集まりで、最後に登場した講師がFrank Bolellaという名の成功したコーチであり、牧師である人でした。私は彼のメッセージを聞き、とても良い印象を受けました。私が彼のメッセージを聞くということは神のご計画の中にあったのでしょう。二週間後に、他のビジネスのイベントで再度彼に出会うのです。私は彼の教会に行きたいと思いました。そして、同僚の一人がそこに連れていってくれました。そこで、彼のメッセージを聞いた後、私はイエス・キリストを私の主、救い主として受け入れたのです。
ついに私は霊的な土台を据えることができました。しかし、私たちは仕事もなく経済的な困難は続いていました。その時に、私はその教会に何人かいる牧師のうちの一人に霊的な賜物を持つことの祝福について説明してもらいました。彼はそのために祈るようにと勧めてくれました。そして、私はそのことを心に留めていました。この頃、それまで本当に苦しい時に共に歩んできたKayoと私は結婚することにしました。これからも一緒に歩んでいけば、大丈夫だとわかっていたのです。日本に引っ越すことも考えました。しかし、それほど大きな決断をする心の準備はできていなかったのです。

方向転換
私たちの状況を聞いて、義理の両親は私たちを日本に招いてくれました。そして、驚くことに、タイ行きの航空券も準備してくれたのです。その旅行は、私の頭がクリアになって、物事を整えるために助けになるように、というものでした。タイに着いた時、全てのストレスが体に出てしまたのでしょう、私は体調を崩し、計画していた各地を回ることは一切できずに、バンコクでじっとしていなければならなくなりました。妻は私に旅行者がよく行くような観光地巡りはやめて、ストレスなしに周りをゆっくり歩こう、と提案してくれました。
ワットポー寺院のそばに滞在していたので、私たちは、リラックスするために、そこでなされているタイ式マッサージを経験してみることにしました。マッサージで私は気分がよくなりました。そこを出る時に「7日間でタイ式マッサージをマスターしよう」という看板が目に入りました。私たちにはあまりお金がなかったのですが、妻がそこでタイ式マッサージを学んでみるようにと強く勧めてくれたのです。
そのカリキュラムの一環として、タイの大学の一つを訪問したのですが、そこで人体の解剖の展示がなされていたのです。私は圧倒されてしまいました。そして、しばらく感じていなかった感動を覚えたのです。一週間の学びでタイ式マッサージの免許をもらったのですが、旅行をする体力はまだなかったので、足のリフレクソロジーのコースも受けました。このコースが終わった時には、私はすっかり元気になり、3日間の観光をした後に、新しく得たインスピレーションを心にアメリカに帰ってきました。
私たちはトンネルを抜けました。しかし、次に何をするかを見極めるのはまた簡単なことではありませんでした。住んでいたところの近所に病院がありましたので、そこでボランティアをしながら、医療の現場がどのようなものかを学ぶことにしました。看護の道も考えましたが、それは私の望んでいたことではないことはすぐにわかりました。ボランティアをまとめるディレクターはフィジカルセラピー(物理療法)科に尋ねるようにと勧めてくれました。その頃、私はそれが何であるかを全く知りませんでした。そこで、私はセラピストが患者に対してしている治療を見、それが多くの患者にどれほど大きな効果をすぐにもたらしているかを見て、とても感動しました。

正しい方向への一歩
この時の私にはまだ仕事がなかったので、ボランティアとして、4時間働けば食べさせてもらえる無料の食事が給料のようなものでした。ですから、できるだけボランティアをすることにしました。そして、そこで出される食事だけが私たちにとって、食事と言える食事であるようなこともしばしばありました。タイミングがいいことに、受付の責任者の方がバケーションで留守にするので、私に電話に出たり、スケジュールを作ったりする仕事をしてほしいとディレクターが言ってきたのです。私は2週間一生懸命働きました。そして、自分で稼いだ収入が入った時にはとても嬉しかったです。ディレクターは私のことをパートタイムで雇ってくれました。そして、彼女の部署のスタッフで入れるようにポジションも作ってくれたのです。何ヶ月かが経って、人生は良い方向に向いていきました。
ディレクターは私が大学院に進むようにと勧めてくれました。最初はそれに抵抗していたのですが、神に祈って、願書を送りました。大学院からは合格通知が来ましたが、9ヶ月入学を延ばして、入学のために必要な基本的なヘルスサイエンスのコースの勉強をしました。
大学院への道は簡単ではありませんでした。大学院に入る6ヶ月前、いとこが大腸癌であることがわかり、義母が胃癌になりました。妻は日本に義母の世話に日本に行かなければならず、私はいとこをできるだけ訪問するようにしました。妻が不在の間、私は一人でこつこつ頑張っていましたが、今度は私の父が、大学院のクラスの始まる1ヶ月前に亡くなったのです。私は打ちのめされました、しかし、目標に向かって、神の力を求めて、この困難な時を通り抜けさせてください、と祈ったのです。そのあとの3年間の大学院での学びにも困難がありましたが、神は日々、私の祈りに応えてくださり、一日一日乗り越えさせてくださったのです。そして、ついに大学院を卒業しました。このあとのことはご想像がつくと思います。多くの犠牲とサポートによって、この転職は私の人生で最高の決断になりました。

学んだこと
この旅路を通して、多くのことを学びました。自分の力でしようとしていたことはすべて失敗しました。神に信頼して祈ったことに対しては、神は私を導き、私に知恵を与え、より良い決断ができるようにと助けてくださいました。もちろん、日々困難はあります。しかし、聖霊様と神の恵みによって、罪ある人間の本質に打ち勝つ人生を生きるように努めています。
人生はパーフェクトではありません。そして、私は妻が救われて、神の恵みを受けることができるようにと祈っています。私に今できることは、できる限り、神と共に生きる人生を生きることです。
それは完全な人生ではありません。神様はいつでも必要な答えを与えてくださるとは限りません。しかし、それによって私は忍耐することを学びます。日々、神が私のような者に与えてくださる豊かな愛と溢れる恵みを教えられています。私は、なんの恥ずかしい思いもなく、証しをしたり、クリスチャンとしての自分の人生について話をすることができてとても幸せです。ある会社ではそのようなことができなくなっていますが、私は自分の職場で、何のためらいもなく誰かのために祈ることができます。私たちは神に仕え、イエスの大宣教命令にお応えし、他の人々が救いを求めるのを助けるようにと招かれているのだと私は信じています。それこそが、そして、やがて天国に入れていただく時に「よくやった」と言っていただけることこそが、私たちすべての者にとっての究極的な目標なのだと信じています。

“Trust God Always” Original English Version

Family History
In 1920, my father was a first generation born (Nisei) on the East Coast US and at a young age his family migrated over to southern New Jersey right outside of Atlantic City. When WWII broke out, my father was attending medical school following his own father’s footsteps, but he was forced to abandon his life as a student to help with the war effort. My father tried to enlist in the U.S. military, but was denied due to his widowed mother, and an older brother who had already joined the US Army under the 442nd (Japanese American US Army). He left college and came home to help the family farm down in Southern Jersey. After the Imperial Japanese army’s attack on Pearl Harbor, many internment camps were established to segregate Japanese Americans. It’s common to think that these internment camps were mostly along the West Coast, but there was also one in Seabrook, New Jersey. Despite being a Japanese-American, my father was spared from being sent to the internment camp when the war broke out because his church vouched for him for his Christianity.
After the war, my father never returned to medical school and remained living a life as a farmer to support his family, a life of never ending work 24/7. Despite the amount of work demanded as a farmer, my dad always made time for God and was wise in his ways to keep a Sabbath a Sabbath. After my siblings and I were born, my father remained committed to God and raised us successfully in a Christian home. As children of a farmer, my older brother, younger sister and I also helped with managing the farm and even viewed church and Sunday school as a “mini-vacation” to briefly get away from our daily chores. I remember attending church at a very young age and remember my mom playing a tape recording of a church Christmas show of us singing “Away in A Manger” totally off key! We continued with Summer VBS (Vacation Bible School) and youth group outings until we were well into high school, but things were to change after high school.

College Years
Life has its own challenges, but college life introduces in it own unique set of obstacles and for most the first big step on trying to live on your own. My problems occurred once I started to attend college, trying to balance a life as a student and also experiencing the challenges of becoming a young man. It was not unmanageable, but I was never really spiritual throughout the 5 years I studied engineering at Drexel University. I never attended church, and the only time I participated with something spiritual was a nondenominational get-together. Needless to say, I was not taking life seriously, only focusing on obtaining a degree to graduate and getting a job. After graduating, I had the opportunity to move to Japan for about a year for an internship, but returned to the U.S. to work with another company. Everything was about work, and I became distanced from God more and more; eventually I completely lost my spiritual faithfulness. I wasn’t in trouble, but I knew I was heading down the wrong path.

Is this all there is to life?
While improving my skills professionally, years would go by living a life of routine: getting up, working out, going to work, and coming home…repeat. I felt something was missing so I started to learn about self-improvement and started to invest in myself outside of work. While still working as an IT engineer, one thing led to another and ultimately I started learning about building a business in financial services. The professional relationships I made pursing this endeavor allowed me to meet some very successful business leaders. I stumbled upon common denominator with all these successful leaders; all were faithful to God, and all had God-based values.
I made one of the biggest decisions in my life and decided to go back to church. At this time, I was living in Hoboken and started to regularly attend church up in the Upper East Side in NYC. Despite the hour commute with all the transfers and walking, I enjoyed once again attending church and life started to have some meaning. I was making really good friends and life was good. However, after the World Trade Center Terrorist Attack in 2001, life changed for everyone and attending church in NYC was not as easy as it used to be. Kayo, my wife-to-be and I decided to move out of Hoboken and ultimately I stopped going to church.
A month after 911, my job as an IT engineer was eliminated and overnight I was unemployed with only a small severance package. My life of routine was forever changed. During this time, the IT world was in turmoil; returning to IT was very risky, so I decided to go “all-in” and try and build a full time income stream with financial services. This was not easy at all and training a team was rather difficult. After many months, my savings began to dwindle and the stress of trying to build a business caused a lot of strain. My debt began to rise as I tried to convince myself that I was only a few months away from becoming successful.
Despite the ever-growing financial stress, my wife-to-be and I started cutting out non-essentials. We lived a very simple life, while still trying to build a business. I remember one night that stress got so bad that I actually got down on my knees and began to cry and prayed for God ‘s help! Perhaps my prayers were answered. I was attending a business event in the city and in the audience was a special guest, the closing speaker, Frank Bolella, who was a success coach and pastor. I listened to his message and was very impressed. Listening to his message must have been God’s plan all along, because within two weeks, I met him once again at another business event. I became very interested in going to his church and one of my co-workers invited me to go there. After his sermon, I accepted Jesus Christ as my Lord and Savior.
While I was finally getting spiritual grounding, we were still having financial challenges as I was still without a job. During this time, I spoke to one of the other pastors at this church who explained to me the blessings of spiritual gifts. He told me to pray about it and I kept that in the back of mind. By this time, Kayo and I decided to get married as we had already stuck by each other through some very bad times. I knew that we would make it if we stuck together. Conversations of moving to Japan crossed our minds, but we were not ready yet to make that drastic decision.

Changing of the Guard
Hearing of our situation, my mother and father-in-law invited us to visit Japan, and then surprised us with a ticket to Thailand. The vacation was supposed to clear my mind and help to organize things out. When we arrived in Thailand, all the stress must have gotten to me as I fell very ill and unable to backpack as planned; instead we were stuck in Bangkok. My wife suggested that rather than sightseeing tourist hot spots, it would be better to go around locally with nothing stressful.
We happened to be near Wat-Po, and in one of their temples we decided to try Thai massage to help me relax. The massage made me feel better. As we were leaving, I saw a sign that read “how to learn Thai massage in just seven days”. We didn’t have a lot of money, but my wife insisted for me to stay and at least learn Thai massage.
As part of the curriculum there was a field trip to one of the universities in Thailand, where an exhibition of the human anatomy was on display. My mind was blown away, and I felt inspired, an emotion that I’ve lacked for so long. I completed my training in a week and was now certified in Thai massage, but I was still too ill to travel so instead I took another course in foot reflexology. After taking the course, I finally was strong enough to travel and we completed a short 3-day exertion and then headed home to the States with newfound inspiration.
We were both exited, but I was challenged trying to figure out what to do next. There was a local hospital not too far away from where we lived, so I tried to volunteer there to learn more about working in the healthcare field. I tried looking into nursing, but I quickly realized that nursing was not the kind of work I wanted to do. The volunteer director offered a special suggestion that ultimately would change my entire life. She recommended for me to go check out the physical therapy department; I had no idea what it was back then. I was impressed by the treatment the therapists provided for the patients and the immediate positive impact expressed by many satisfied clients.

A Step in the Right Direction
I was without a job during this time, so as a volunteer I was allowed to “earn” a free meal for every four hours of time. I decided to volunteer as much as I could and sometimes it was the only “real” food we had for the week. Timing couldn’t have been more perfect, when miraculously the primary receptionist was going away for vacation, and the director asked me to fill the role to cover phones and scheduling. I worked hard for the next 2 weeks and was so proud to actually have “earned” income. The director decided to hire me part-time and created a special position for me just to stay on staff with her department. Months would go by and life was starting to turn around.
Ultimately, the director convinced me to go back to graduate school. I was at first resistant to her suggestion, but I prayed about it and submitted my application anyway. After getting accepted to graduate school, I had to first complete pre-requisites that delayed my start for about 9 months; having to go back to school to fulfill basic health sciences courses.
The road to graduate school was not easy. About 6 months before graduate school, my cousin discovered he had colon cancer and my mother in law fell ill with stomach cancer. My wife had to return to Japan to take care of her and I checked in on my cousin as best as I could. I kept plugging away alone while she was away, but then my own father passed away one month before the start of classes. I was a wreck, but I had to stay focused and prayed for God’s strength to get through some tough times. The next 3 years of graduate school had it’s own challenges, but every day God answered my prayers to get through another day! Ultimately, I graduated and as they say the rest is history. All the sacrifices and support made this career change the best decision of my life.

Lessons Learned
This journey is full of many lessons learned. Whenever I tried to accomplish things on my own, it always failed. Whenever I trusted God and prayed, he guided me and provided the wisdom that helped me to make better decisions. Of course, conflicts still routinely occur daily, but through the Holy Spirit and the Grace of God, I am working towards trying to live a life rejecting the sinful nature of man.
Life is not perfect, and I am continuously praying for my wife’s salvation to be saved and receive the grace of God. The only thing I can do right now is live a life with God the best as I can.
It’s not a perfect life. He doesn’t provide me the answers I need every time, but I am learning to be patient. I am learning every day of his abundant love and his full grace for a man like me. I’m lucky that I was able to give my testimony, to be able to speak of my life as a Christian without any shame. I am not bothered to pray for someone where I work, as some companies today shy against that. I believe we are called to serve God and complete the great commission and help others seek their salvation. I believe that’s the ultimate goal for each and every one of us, and to enter heaven hearing the words , “Well done”.

「牧師室より」2019年2月号「あなたは自由ですか?」

「真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ8:32)

子どもの頃から、教会は好きでしたが、そこは「自由」なところ、という印象はありませんでした。「ちゃんとしていないといけない」「終わったら遊べるから、それまではガマン」という感じだったと思います。ですから、初めてこのイエスの言葉に出会った時、とても新鮮だったことを覚えています。「そうか、イエスはわたしに自由を与えてくださろうとしているんだ!ああ、自分もこの自由が欲しい!」そう思ったことでした。

この自由を感じることができたのは、イエスの十字架の意味を深く知った時でした。いつも教会の建物に掲げられている十字架、キリスト教のシンボルのように使われている十字架、それが、私の罪のための身代わりだったことは子どもの頃から聞いていました。そして、それを信じてはいました。しかし、ある時、一つの出来事を通して、自分の罪深さを見せつけられ、打ちのめされていた時に、そんなわたしをも愛して、イエスは命を投げ出した、そのことの重みを感じました。それまでは、心のどこかで「自分は一生懸命やっているから、神に愛されるのは当然だ」という思いがあったのでしょう。でも、そうではない、自分がどうしようもない奴なんだ、とわかった時に、初めてこの十字架に表された神の愛がどれほど大きいのかを感じました。その時から、その神の愛への感謝、これによって、私は生かされています。それは「なんでも好きなことをしていい」という自由ではなくて、「この喜びをどのように表していこうか」「この与えられた愛にどのように応えていこうか」と内側から溢れる思いによって生きていく自由なのです。

イエスは「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28-30)と言われました。この「わたしのくびきは負いやすい」というのは、「あなたにぴったりフィットする」という意味です。私たち一人ひとりを造ってくださった神は、私たち一人ひとりにぴったりフィットする使命を準備してくださっています。そこに生きることです。

この一年、私たちの教会はこのことを強調して歩んでいきます。お一人でも多くの方々が、この神様が与えてくださる自由、内側から溢れてくるいのちの力を経験することができますように。

2019年1月6日『イエスに触れる』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: ヨハネによる福音書20章30節〜31節

  • 4つの福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)
    一つのイエスの生涯を、4人の人が書いた。
    4つの角度から書いた。・・・でも共通のメッセージもある
  • マタイ・マルコ・ルカは似ている。・・・共観福音書。
    マルコが最初に書かれて、マタイとルカはマルコを参考にした。
    イエスの伝記→「この方はほんとうに神の子だった」
  • ヨハネ・・・最初からおられた神の子→人となってくださった。
  • マタイ・・・ユダヤ人に向けて書かれた。イエスは旧約聖書に予言されてきた救い主。ユダヤ人の王。→世界の救い主。
  • マルコ・・・イエスは神の子、神のしもべ。人々に仕える方。イエスの言葉よりも、イエスの働き。「すぐに」という言葉の多用。
  • ルカ・・・テオピロというローマの高官宛。イエスは「ほんとうの人」として歩まれた。「良きサマリヤ人」「放蕩息子」「ザアカイ」など。
  • ヨハネ・・・最初からおられた神の子であり、言であり、光であり、命を与える方が、この世に来られた。私たちに命を与えてくださる。

→4つの角度から見ることによって、イエスの生涯が本当に豊かなものとして分かってくる。・・・聖書を通してイエスに触れる。

  • 共通するメッセージ。・・・イエスはご自身を与えてくださった。
  • 当時の当たり前の「王」「神のしもべ」「神の子」「救い主」「ほんとうの人」とは違う、革命的な形でご自身を表された。
  • 十字架の人々の言葉。「神の子なら、イスラエルの王なら、救い主なら、そこから降りてきてみろ」・・・サタンの誘惑の延長。
  • イエスはその期待には応えず、自分を与え尽くされた。
    →私たちはどのように応えるのか?

<テイクアウトQuestion>

  1. どうして、聖書には4つの福音書が入っているのだと思いますか?
  2. その4つの福音書に共通するメッセージはどんなことがあるでしょうか?
  3. あなたは全てを与えられたイエスにどのようにお応えしようと思いますか?具体的にお応えすることができるのはどんなことでしょうか?

「クリスチャンになるということ」

「クリスチャンになるということ」

2018 年が暮れようとするこの時、静まって多くの恵みを数え、神様がどれ程素晴らしい方であるかをもう一度覚えて、主のみ名を崇めます。 振り返ってみると、なんと多忙な一年を過ごしてきたか、その 中にあった主の御手による支えと励まし、慰め、またどれ程の祈りに支えられてきたかを思う時に、感謝の思いで一杯です。今年はただ神様の前にひれ伏して、その力にすがることを通して、クリスチャンとなることを一から学び直した年でありました。

『とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある。』 (申命記33:27)

教会においては、今年初めて代表役員をさせていただきました。昨年末に神様から召命とビジョンをいただき、どうすべきかと数日間悩み抜いた末、ある人に相談しようとを決心しました。その日の夕方、 私が電話をする前にその方からメッセージが残っており、かけ直してみると、”あなたが思い悩んでい ることを示されたので、励まそうと思った。勇気をもって皆に話をしなさい。”と言われました。

その後神様から、『私は全能の神である。あなたは私に従って歩み、全きものとなりなさい。』 (創世 記 17:1)という聖書の言葉が与えられて、神様を信頼する姿勢において全き者でありなさい、と語られ ました。 昨年 12 月の役員会では神様に示されたことを全て語りました。そして、役員会のメンバーた ちは信仰を以てそれを受け入れてくれました。各世代から選ばれ、信仰面でも尊敬できる有能なメン バーに恵まれました。

しかし、自分の力量を越えるご奉仕を担っていく上では、上からの知恵、また、不足する愛と忍耐を増 し加えていただく必要があります。近くには、いつも”祈ってます。”と愛をもって声を掛けて下さる祈り 手たちが備えられていました。神様からの助け手でした。『あなたがたの父は、願う前から、あなたが たに必要なものをご存じなのだ。』 (マタイ6:8)

主イエスのサーバント・リーダーシップに倣って、神様と教会、そして地域に仕えていくことを目標とし ました。教会運営に関しての多くのビジョンが与えられ、一つひとつを祈りながら進めてきました。

教会では、一年の後半に選挙や次年度予算など、多くの重要議題を取り扱います。それを前に、教会 内外を取り巻く様々な状況を分析しようとしていた私に対して、神様は、『神と、恵みの、み言葉に委ね る』(使徒 20:31)、『(主イエスから)白い衣を買う』(ヨハネ黙示録 3:18)、そして、『己れ自身と群れ全体 に気を配る』(使徒 20:28) との聖書の言葉を与えて下さいました。そして状況分析ではなく、み言葉を 土台に、祈りと聖霊様の導きで教会運営を進めていくことを示して下さいました。悔い改めて、方向転 換をしました。 『私のことばを聞いて行なう者は、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。』 (マタイ7:24)

様々な議論や結論が自分の思いとは異って進むことも多くありました。しかし、いつも最善をされる神 様を信頼し、決まったことには委ねて従うことも学ばされて来ました。 『人の心には多くの計画がある。 しかしただ主のみ旨だけが堅く立つ。』 (箴言19:21)

来年のご奉仕に関しては、昨年のような強い召命感は与えられず、ただ状況的には継続することが 良いように思われるだけで迷いがありました。しかし、ギデオンは召命が与えられているにも関わらず、 何回も神様から印を求めた(士師記 6:36-40)ように、私自身も神様にある事を通して印を求め、コンフ ァメーションをいただく形になりました。 『主は今からとこしえに至るまで、あなたの入ると出るとを守 られるであろう。』 (詩篇 121:8)

来年は神様の前に静まることと、教会の力のベクトルは内側ではなく、もっと外側に向けて使うべきで あることを示されています。

職場においても変化があり、今年は、駐在員の人事異動により、量的にも質的にも自分がハンドルで きるとは思えない企画業務を担当することになりました。従来から違う仕事をしたいとの願いがありま したが、いざそれが実現すると、喜びが戸惑いと恐れに変わるのに時間はかかりませんでした。

プロジェクトマネージャーとして、イベントや新規プログラムの企画・調整をいくつか担当しました。社内 外には多くの関係者がおり、一体どういうタイミングで、誰と何を進めていったらよいのだろう?誰かに 背中を押されるように、プロジェクトがスタートしました。しかし、最初の打合せでは見事にリードを失敗 し、“上司は、私には出来ないと思っているだろうな。”と失望感が溢れました。もう辞めたい、でももう 少しはやるべきでは・・・?その狭間を回り決心がつかない中、翌日も、翌週も次々とミーティングを進 めていかねばなりません。“イエス様、この仕事を与えて下さり、有難うございます。でも、私にはこれ をやり切る力はありません。どうぞ助けて下さい” と毎日神様の憐れみにすがっていました。一緒に スモールグループで聖書を読み祈り合っている教会の女性たちにも伝えて、祈っていただきました。

特に、社長などエグゼクティブとの打合せが入っている時の緊張感は大きく、入念に準備をしても前日 から心がそわそわしました。直前には小部屋かトイレに行って、祈りました。『イエス様、分かりやすく プレゼンすることが出来ますように。言うことがアホに聞こえないように助けて下さい。』 と、主イエス の御名で祈りました。彼らとの打合せが終わった後はどっと疲れましたが、忘れる前に、『イエス様、 有難うございます。終わりました!』と感謝の祈りを捧げました。ただただ神様の憐れみにすがるのみ で、一年生のようにクリスチャンになることを日々学びました。 『主は、ご自分を恐れる者を憐れまれる。主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。』 (詩篇103:13-14)

大成功ではありませんでしたが、数か月かけて何とか最初のイベントを終えることが出来ました。そう すると、もうこのような仕事はやりたくない、やらないぞ、という気持ちになりました。そして上司にもそ のように言い放ちました。その時の彼の悲しげな顔が忘れられません。しかし、その日の夕方には、 聖霊様から “感謝の気持ちがない”との責めを受けました。私は何と罪深いのだろう、と一晩眠れず、 翌朝早く出勤して、朝一番で傲慢非礼であったことを上司に謝罪しました。彼は、”そう言ってくれてあ りがとう。”と寛大にも許してくれました。 『真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き 入れます。』 (ヨハネ16:13) そして、今も続けて同じ業務を担当しています。

今、クリスマスで語られたメッセージに思いを巡らせています。ベツレヘム近くで羊たちと野宿していた 羊飼いたちに天使の軍団が現れ、救い主イエスの誕生を知らせました。飼い葉おけに寝かされている ことが印です。羊飼いたちは直ぐに出発して赤子を探し出し、礼拝を捧げ人々にも伝えました。(ルカ2:8-17) “信仰とは神様からの語りかけへの応答です。神様のメッセージを聞いて自分のものにする には、心にゆとりが必要です。” と語られましたが、私は真逆で、自分の限界を探るような歩みをして きました。息もつけない忙しさの中、ゆっくりと神様の声を聴き応答することなど出来ない一年であった ことを主イエスの前に悔い改めています。

しかし、主イエスの恵みは十分であり、その御手による支えがいつもありました。私が知らないところ で、イエス様がくびきを押してくださるので、イエス様にお任せして、ただついていけば良いのです。“His york is easy and his burthen is light.” (私(イエス)のくびきは負いやすく、私の荷は軽いか らである。マタイ 11:30) 先週、マンハッタンの教会で、この賛美を心から歌いました。

全てのご栄光が主イエスの上にありますように。

牧師室より2019年1月号「新しい年に」

「新しい年に」

あけましておめでとうございます。

今年もどうぞよろしくお願いします。

イエスは「救い主なんて私には関係ない」と思っている人々と、「救い主なんて私には必要ない」と思っている人々、その2種類の人々の狭間に「居場所のない」方としてこられました。

つい先日、クリスマスイブのキャンドルライトサービスでお話ししたことです。今の時代も「救い主?そんなの関係ない」「救い主?そんなの必要ない」と思っておられる方々も多いのでは?と思います。けれども、神は、その両方の種類の人々に「そんなことないよ」と語っておられる、と。

神はまず「関係ない」と思っていた人々に「かいばおけ」に救い主を送ることによって、彼らの誤解を解こうとしました。救い主が生まれたのが「お城のふかふかのベッド」だったら、おとぎ話のお姫様、王子様に憧れることはあっても、自分と関係のあることとは思えないでしょう。「高級ホテルのスイートルーム」も別世界だと思うのです。しかし、救い主が「かいばおけ」に寝かされていたがゆえに、お告げを聞いた羊飼いたちは、それが自分たちとは別世界の出来事とは思わなかったのです。

新しい年、私には何ができるだろうかとずっと考えています。神様がしてくださったように、私も「関係ない」「必要ない」と思っている方がおられたら、「そんなことないんですよ」ということを少しでも伝えることができれば、と思っています。

年末年始、我が家にゲストで来られていた方は、あるテレビ番組に出演されて、その収録の時に、まさに、そのことを感じておられたそうです。番組のパーソナリティの方が「私には関係ない」と思っておられる・・・と。しかし、その収録(3時間!)の間に、そのパーソナリティの方の心が開かれていくことを感じられたそうです。番組として編集されたもの(3時間→30分!)を見た私も同じことを感じていました。おそらく、そのゲストの方の人柄なんだろうな、と思います。

「関係なくなんかないよ!」「必要なくなんかないよ!」という神のメッセージをどのように一人でも多くの方々に伝えられるのか、チャレンジは続きます。まずは、あなたにこの神の思いが伝わりますように!

「あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである。」ルカ2:12

2018年12月30日 『注がれた愛を知る』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: ヨハネ第一の手紙3章1節

  • 今年のみ言葉・・・神の愛を味わう。
    →外側を飾るのではなく、内側から溢れるもの。
  • 私たちはどれだけその恵みをあじわってきただろうか?
  • キャンドルライトサービスから「関係ない」と「必要ない」
  1. 「救い主は関係ない」と感じている人への神の愛
  • 「教会は自分のような者の行くところではない」と思っておられる方がおられる。
  • イエスの誕生の場面の羊飼いたち。・・・飼い葉桶のしるし「これこそが救い主なんだ!」という神からのメッセージ。
  • 放蕩息子の弟息子。・・・自分には資格がない。
    でも、父は彼を抱きしめ、息子として受け入れた。
    洗ってこい!誠意を見せろ!ではない。
  • 神は、イエスの十字架ゆえに、私たちのことをそのように受け入れてくださる。
  1. 「救い主は必要ない」と感じている人への神の愛
  • 自分は大丈夫、と思っている人。
  • 放蕩息子のお兄さんの方。
    「自分はこんなに頑張ってきた!」
  • ほとんどの方々がこうだろう。
  • 私の使命がここにあることがはっきりした。
    自分もそうだったから。
  • 本当に神の愛がわかっていますか?
    ・・・第一ヨハネ3:1は教会の人へのメッセージ。
  • 頑張っても偽善者にしかなれない私たちも愛されている。

<テイクアウトQuestion>

  1. あなたは放蕩息子のストーリー(ルカ15章)を読む時には、兄と弟、どちらに自分を重ね合わせて読んでいるでしょうか?
  2. 神様の愛はあなたの人生のどこに注がれていると思いますか?
  3. この一年、あなたはどのように神様の愛を味わうことができたでしょうか?

2018年12月23日 『王としてこられた救い主』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: マタイによる福音書2章1節〜12節

 

 

愛の反対語は何?
  • 憎しみ?
  • 無関心?
  • 恐れ?
    「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く」(1ヨハネ4:18)
  • 今日の聖書箇所に出てくる二人の王。
  • ヘロデ=恐れに支配されている王
    多くの功績をあげて、「大王」と呼ばれている。
    しかし、恐れに支配されていた。
    自分の地位を脅かすものを抹殺していった。
    周りの人々も恐れていた。「ヘロデ王は不安を感じた」
  • 周りの人々も恐れで支配しようとする。
    自分が恐れで支配されていると、周りの人も恐れさせる。
  • もう一人の王=「ユダヤ人の王としてお生れになった方」=イエス
    権力も、軍事力もない。
  • 自分を与えることによって、人々の心を掴み、王となられた。
  • サタンの誘惑・・・豊かになって満足せよ。
  • 十字架の下の人々の声・・・他人を救ったが自分を救えない。
⇔イエスは自分を十字架に与えることによって、私たちの王となる。
  • 愛に支配されると、恐れる必要がない。自分を守ろうとする必要もない
  • 今、ヘロデを王とする人々はいない。しかし、イエスを王とする人々は世界にあふれている。あなたは誰を王とするか?
<テイクアウトQuestion>
  1. 「愛」の反対語、どんなことが心に浮かびますか?どうしてそう思うのでしょうか?
  2. 恐れに支配されている時、私たちはどのように行動するでしょうか?
  3. 愛に支配された生き方ってどんな生き方でしょうか?

2018年12月16日 『主を喜ぶ』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: ネヘミヤ記 8章1節〜12節

 

  • 「主を喜ぶことはあなたがたの力です」
    「主を喜ぶ」ってどういうこと?
    「神様がこんなことをしてくださったから喜ぶ」とかならわかりやすい。「病気が治った」「商売がうまくいった」「学校に合格した」・・・
    「神が愛してくださったから」「イエスがお生まれになったから」
    ・・・これは近い。
    でも、「神を喜ぶ」とは?
  • ローマ5章に出てくる3つの喜び。
    「永遠の希望を喜ぶ」(2節)「患難をも喜ぶ」(3節)「神を喜ぶ」
  • 神を喜ぶ・・・経験するしかない。でも、この世にも似たようなこと。
    • 恋愛・・・どうして好きになったかわからない。存在自体が嬉しい。
    • 子供が生まれた時・・・「無条件でかわいい」
    • 誕生日・・・存在自体を喜ぶ、お祝いする。
  • まず、神様が私たちの存在を喜んでくださったから。
    罪人のために死なれたイエス。
  • インマヌエル・・・神が我らと共にいる
  • 放蕩息子のお父さん、その息子をそのまま、丸まま、受け入れた。
<テイクアウトQuestion>
  1. 「神様がこうしてくださったから喜ぶ」という場合にどんなことを思いつきますか?それらのことと「神を喜ぶ」とはどのような違いがありますか?
  2. 神はあなたを喜んでおられると思いますか?どうしてそのように思うのですか?
  3. 日々の生活の中で「神を喜ぶ」ために、どんなことをしていますか?あなたはどんな時に神を喜んでいるでしょうか?どんなことが助けになるでしょうか?

2018年12月9日 『羊飼いなる救い主』

 

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: エゼキエル書34章11節〜16節

 

 

羊は迷いやすい。
イスラエルの指導者たち、羊を養うのではなく、食い物にする
→これからは私が羊飼いだ、と神は言われる。→救い主の預言。
1)羊を養う救い主
神様は、私たちを探してくださった。
気がつかない時にも、あなたを導いてこられた。
神様は私たちを集めた。違う存在を集めた。イエスの弟子たちも。
養う。・・・泉のほとりで養う。
・・・愛で養う。愛されているなあ、という経験、肯定。
基本的信頼。「幼子のようにならなければ」
2)弱い者に注目する救い主
失せたもの、迷い出たもの、傷ついたもの、弱ったもの、そのようなものに対する神の特別な思い。・・・これが公平。
イエスがこの世に来られた時に、飼い葉桶の中に寝かされていた。・・・「それがしるしだ」(ルカ2:12)・・・このしるしは、シンボル。
羊飼いに神様はご自身をidentifyされた。
降りてきて、私たちと同じところを歩まれた。底辺を歩まれた。
イエスは「私は仕えるために来た」(マルコ10:45)と言われた。本当に私たちに仕えて、ご自身を十字架に与えてくださった。
イエス様が仕えてくださったその恵みをいっぱいに味わうこと。
イエスが弟子たちの足を洗った時のペテロに対するメッセージ。
<テイクアウトQuestion>
1)あなたは迷うことはありますか?どうして迷うのでしょうか?どんな時に迷いますか?何があなたを迷わせるのでしょうか?
2)神が、私たちの羊飼いであると宣言してくださいました。イエスは羊飼いとして世に来られました。神は、あなたにとってどんな羊飼いでしょうか?
3)神は弱い者に注目することによって公平であると言われました。そのことについて、あなたはどう思いますか?

2018年12月2日 『希望を与える神の計画』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: エレミヤ書29章1節〜14節

 

今日からアドベント
どれくらい待つことができるか?どう期待するかによる。
1)神が与える平安
平安・・・シャローム。
 問題がないことではない。波風が立たないことではない。
 問題の只中で、与えられる平安。
「神はご計画を持っておられる」
あなたを捨てるのではなく、あなたをtake careする計画
2)神の時間軸
問題・・・バビロン捕囚・・・「すぐに帰れるよ!」という偽預言者。
エレミヤのメッセージはそこに腰を落ち着けなさい、バビロンの祝福を祈りなさい。70年後に解放を与えられるのだ。
究極的には救い主が送られてくるという約束。
主の計画の中心は私たちの救いの計画。
500年以上・・・主のご計画は私たちの人生の長さには収まりきらない
3)神と共に歩み幸い
神の究極的な計画・・・イエスによる救い・・・によって神と共に生きることを知ることができた!
12−13節「神に祈りなさい」「神に求めなさい」ということ。
13節の「尋ね求める」を2回(口語訳)、「尋ね求める」「求める」(新共同訳)「捜し求める」を1回→「探し求める」「求める」(新改訳)
元々は、これは2つ違う言葉が使われている。バーカシュ(情熱的)とダーラシュ(理性的)。熱い想いと、冷静な頭で。
<テイクアウトQuestion>
1)あなたは待つことができる方ですか?できない方ですか?
2)神の時間軸と、私たちの時間軸はどのような関係になっているのでしょうか?
3)神に祈ることはどんな祝福でしょうか?どんな喜びがあるでしょうか?

「あなたの若い日に・・・」

今年の4月に主人と共に日本語教会に転入してから半年余り、錦織先生をはじめとして、主にある兄弟姉妹との嬉しい出会いをたくさん経験させていただきました。決して模範的なクリスチャンではありませんが、私がどのようにしてイエス様を救い主として受け入れたのかを証しさせていただきます。
私の両親は台湾人です。私には2歳年上の姉と2歳年下の弟がいます。私は次女として3人兄弟の真ん中に生まれました。私が5歳の時、家族で台湾から日本に引越しました。当時、父の兄が神奈川県の平塚市で中華料理店を経営していました。父はその縁で日本に招かれ、料理人として働くようになりました。20代だった母は、日本語が不自由ながら仕事をして、3人の幼い子供を育てました。父は仕事がら夜遅くまで帰宅せず、私たち3人が同じ公立小学校に通いはじめた頃も、顔を合わせない日も少なくありませんでした。家でも学校でも使うのは日本語だけで、中国語も台湾語も忘れました。学校では友達やクラスメートといっしょに楽しく勉強したり、遊んだり平凡な子供時代を過ごしました。ところが、私が中学1年を終えた時、家族全員で渡米することになりました。ブルックリンに在住する知人の薦めに父が独断で決めたことでした。ただ私にとっては迷惑な話しで、日本の友達とも別れ、英語もわからぬまま、現地の公立中学校に編入させられてしまいました。英語も話せず、友達もできず、大学に進学するまでの6年間は、ただ学校と家を往復するだけのつまらない毎日でした。
なぜか小さい頃から、母の愛情は学校の成績がよかった姉と弟にだけ注がれていたようです。台湾では男の子の方が女の子よりも望まれていたからでしょうか、2番目の女の子として生まれた自分は、母にとっては期待はずれのやっかい者だったのかもしれません。日本にいた時から父は仕事で忙しく、日本の生活に戸惑う母は、3人兄弟の中で一番成績が低かった私に、その鬱憤と不安に荒れた心をぶつけました。優秀な姉や弟と学校の成績を比べられ、ささいなことで叱られる毎日。私はヒステリックな母の怒りから逃れることばかり考えていました。小学校時代の自分のバイブルは少女マンガでした。「ベルサイユのばら」のオスカルに憧れ、「生徒諸君」のナッキーを目標に、正義感と友情に厚い人間を目指していました。そんな少女時代に「自分は何のために生まれてきたのか。」といつも考えていました。
ようやく高校を卒業し、私は母から離れて自立するために、看護師を目指してマンハッタンにある市立大学に進学しました。後に看護師の勤務が不規則で、おまけに夜勤まであることを知り、2年生の時に専攻を薬学に変えました。自分には看護師よりも薬剤師の方が合っていると考えたからです。姉と弟は私立の有名大学に進学しました。私は親の経済的な援助を一切受けまいと心に決め、学費の割安な市立大学に進学し、アルバイトで学費を稼ぎながら、自力で大学を卒業して薬剤師の免許を取りました。私が大学3年の時に両親はルイジアナに引越して、レストランをオープンしました。私は母と顔を合わせずにすむようになりほっとしました。そんな時、アルバイト先で今の主人と知り合いました。彼は日本から語学留学でニューヨークに来たばかりでした。大学を卒業して5年後に彼と結婚し、ニュージャージに引越しました。主人は米系の金融システム会社に就職し、私も病院の勤務に多忙な日々でした。
その頃、勤めていた病院で知り合ったフィリピン人の医者夫婦に誘われて、はじめて超教派の福音集会に参加する機会がありました。ホテルのボールルームに設置さえた会場は2000人ほどの人で埋まり、コンテンポラリーな賛美歌と聖書メッセージが続き、まるでコンサートのような雰囲気でした。メッセージの内容は、今まで思っていたキリスト教の教えよりも、ポジティブで現実的でした。そこで母との長年の確執によって、生きることの意味をずっと考えてた私の心が、伝道者の書の12章1節の言葉を捕らえました。「あなたの若い日にあなたの造り主を覚えよ。」自分は母ではなく、神に造られ、神に生命を与えられ、神に生かされていることを知りました。母の批判的な言葉に心傷ついていた私には、それは大きな救いであり慰めでした。同時に、母を赦せない心、姉と弟を妬む心も教えられました。それは神の愛と聖さからほど遠い自分であり、贖いきれない自分の罪でした。その罪のためにイエス様が十字架で死なれたことを知った時、私はこの方を救い主として受け入れました。その後、主人といっしょに教会に集いはじめ、1993年10月に洗礼を受けました。イエス様を受け入れたとは言え、心は寛大さに欠け、人を赦すことさえ難しいのです。それでも神さまはそんな自分をありのままに受け入れ、見放すことなく、見捨てることなく、ずっと導き続けてくださいました。これからも家族といっしょに愛なる神と恵み深い救い主なるイエス様に従っていきたいと思います。