2019年4月28日『とにかく信じてほしい』

説教:栗栖信之牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書(John) 20:24-31

 

◆結論・最重要点:イエス様は私たちに、とにかく信じてほしい。 なにを?:イエスが神の御子キリストであることを。 なぜ?:信じる者がイエスの名によって命を得るため。 どのように?:イエス様を「見ないで」信じてほしい。

◆「見て信じた」弟子たち ・マグダラのマリヤ(18節)・トマス以外の弟子たち(20節、25節) ・500人の弟子(第一コリント15:6)・40日間現れたイエス様(使徒1:3) ★「見なくては信じることのできない」不信仰な弟子たち。イエス様はどうしても信じてほしかった。それで姿を見せて、信じる者にして下さった。

◆「トマス」という人物(ヨハネ11:16;14:5) ・トマスはイエス様を心から愛し、特別な感性を持ち、思ったことを素直に表現し、人の評価を気にしない、妥協しない、強い意志を持った人。 ★こんなトマスだからこそ「イエス様をこの目で見たい!手で触れたい!」と思った。イエス様はとにかく信じてほしくてリクエストに応えられた。

◆イエス様の私たちへの願い「とにかく信じてほしい」 ・私たちは今、イエス様を見ることができない。でも「見ないで信じる者は幸い」であることをペテロが教えてくれた。(第一ペテロ1:8-9) ★見ないで信じる者の内側に神様の愛と聖霊が働いてくださる!

 

<テイクアウトQuestion>

1.イエス様を見たいですか?見たい、見たくない、見る必要がない理由は?

2.「見ないで信じる」ことは難しいですか?簡単ですか?なぜですか?

3.「見ないで信じる」ことの素晴らしさは何ですか?それを体験しましたか?(した人は今週だれかにシェアしましょう!)

4.「見なければ信じられない」と言う人に、どのように寄り添いますか?その人の気持ちがわかりますか?何を伝えますか?

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『砕かれた心』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所:マルコによる福音書14章:66-72節

序)

  • ペテロは教会の最初の指導者。
  • その指導者の話は、失敗ばかり。
  • 4つの福音書に出てくるのは、このペテロの否認の話
  • どうして、最初の指導者、信仰の大先生の失敗の話をこんなにするのか
    →私たちの信仰の出発点があるから。大切な信仰の本質
  • →自分の努力の限界、弱さを知らされて、砕かれて、神を頼る。
  1. 自分の力で失敗したペテロ
  • ペテロの決意(マルコ14:27-31)
  • 女中のことば・・・正式な裁判だったら?
  • どうして、ペテロはイエスを否定したのか?・・・人間の弱さ。
  • 自分は大丈夫だと思っている人こそ危ない、と聖書は繰り返し述べる
  • コリント第一8:2「もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。」
  • コリント第一10:12「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」
  1. 砕かれて用いられたペテロ
  • ペテロは泣いた・・・ペテロが生まれ変わる出発点。
  • 自分の弱さを思い知らされた。そこに神の力が注がれた。
  • ペンテコステの日のペテロ「あなた方がイエスを十字架につけたのだ」
  • 使徒行伝4章では大胆にイエスの救いを語った。8-12節、18-20節。
  • ペテロの殉教

<テイクアウトQuestion>

  1. 聖書はどうして、最初の教会の指導者であったペテロの失敗する姿を何度も書いているのでしょうか?
  2. この世では自分の力で生きることの大切さが語られることが多いです。どうして、自分の力で生きていくことに問題があるのでしょうか?
  3. どうして砕かれた人は神に用いられることができるのでしょうか?
  4. あなた自身が砕かれた経験がありますか?どんな経験だったでしょうか?

『足を洗うイエス』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書13章1節〜15節

 

  • 最後の晩餐・・・大切な人たちと、大切な話をする。
  • イエスが足を洗われたことは、イエスの愛の現れ。
  1. 弟子たちに仕えたイエス
  • 当時の社会の中で、足を洗うのは奴隷の仕事。
  • ここには奴隷がいなかった。誰が?互いに一番格下の存在を探した。
  • イエスは自分が立って、弟子たちの足を洗われた。
  • イエスは言われた。「あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と。
  • 今で言うならば、どういうこと?
  • 教会でいうならばどういうこと?
  • 注目されることでもなく、感謝されることでもなく、互いに「誰かやってくれるといいけど」ということ・・・。
  1. 弟子たちの足を洗われたイエス
  • 6-11節のペテロとイエスのやりとり
  • イエスの十字架は、私たちの罪を洗い流すことを象徴的に表していた。
  • 「もしも、私が洗わなければ、あなたは私となんの関わりもなくなる」
  • 「私の足は洗わないでください」・・・自分でやります?
  • それと同じことを私たちは神様に対してしていないだろうか?
    一生懸命自分で準備をして、「さあ、イエス様を受けいれます」と。
  • イエスは今も、私たちにそのままの心で来るようにと招かれている。
  • 洗うのはイエス様。自分の力できれいにするのではない。
  • 一番隠しておきたい、一番恥ずかしいと思うところをイエスに差し出すこと。

<テイクアウトQuestion>

  1. 人々の足を洗う、ということは、今の時代に当てはめるとどんなことになると思いますか?
  2. 教会で「互いに足を洗い合う」とは具体的にどんなことが考えられるでしょうか?あなたは何ができるでしょうか?
  3. あなたはイエスに、「自分の足を洗ってもらう」経験をしたことがありますか?どんな経験でしょうか?