「罪深い人間の心さえも作り直して下さる神様」

最初にこの証しを書く機会が与えられたことに感謝いたします。

私は在日韓国人として生まれました。父は一般的な常識とはやや違う考えを持つ人間で、私たち子供をとても愛してはくれましたが、それは父に対する服従を前提とするものでした。「勉強でも何でも一番になれ」の父の教えに逆らわないように顔色をうかがいながら育った私は、結局自分だけを愛し、他人に興味を持たない独りよがりな人間になりました。何でも一番というなら、人を愛することにも長ければ良かったのですが、残念ながらそうはならず、この世で大切なのは私だけ、他人の痛みは完全に人ごと、自分の欲望・利益・悦楽が最優先、これらの嫌な表現が全てあてはまるようなかなり強い自己中心性を持つ人間になりました。と同時に一方では、”他人からの評価に依存する”という自己評価の低さ、自信の無さも私のなかに共存していました。自己中心性と自信の無さの共存、つまり自分自身をこよなく愛しているのにもかかわらず、実はその自分に自信が持てないという裏腹さが私の心をとても不安定にしていたのです。そしてさらに悪いことには、そんな自分ときちんと向き合うことを避け続け、”私はとてもいい人間だ”、ときには”私はかなり思いやりがあるほうだ”などと全く見当はずれな自己解釈をして無意識に自分を慰めていたのです。私は常に第三者の評価を求め続けました。それはまるでアイドルスターか漫才師のように。いつも観客の顔色を異常なほど気にして、誰かと話をするときも、話し相手当人ではなく周りの人の反応をちらちら見るのが私のクセでした。全ての行為の動機は第三者からいい点数をつけてもらうことだったのです。こうして私は空虚なうわべに厚い上塗りを繰り返していました。

その弊害は結婚生活に見事に現れました。当然です。

自分にしか興味が無い男をありがたがる妻や子供がどの世界にいるでしょうか。だれかが点数つけてくれなければとたんに動かなくなる私。もちろん家事の手伝いへの動機なんてどこにも探しようもありません。うちに帰ればやる気を保てずゴロっとするだけの生活でした。それでも日本では仕事の忙しさを言い訳にできましたし、妻もなんとかそれで納得しようと努力してくれていたようです。しかし、家族再生を安易にスローガンに掲げてやってきたニュージャージーでも同じことを繰り返せば、夫婦の溝は自ずと深まるばかりでした。自分を省みるわけでも変えようとするわけでもなく、私の心は変化を拒み続けました。変化には痛みをともなう膿み出しをしなければなりませんから。

そして心の革命は「教会にいらっしゃいよ」の暖かい言葉から始まったのです。

どんどん信仰に引き込まれて行く妻を不安な気持ちでながめる日々でした。教会員のクリスチャンホームに頻繁に子供を連れて遊びに行く妻を見ながら、正直なところ、”同年代の子供と遊ばせてもらうためだけだ。キリスト教に勧誘されているわけじゃないはずだ。たまに話を聞いてもらってるだけだ”、と自分に言い聞かせていました。しかしそれはある日突然訪れたのです。「明日から牧師先生の家で個人的に聖書を教えてもらうことになったから」。妻からこの言葉を聞いた時は、”ああ!やっぱりそれが目的でうちに近づいてきたんだな!ついにやつらも本性を見せたな!意外に早かったな!”、と腹立たしい気持ちになったのを覚えています。喜々としている妻の機嫌をむざむざ悪化させるのが怖くて、行くなとは言えなかった。それでもなんとか口にした「大丈夫なのか?」に、無言の反駁が返ってきて、あわてて「いや、別に深い意味はないんやけど。。」で投了でした。

ああ、妻よありがとう。あのとき私の意に反して行ってくれて。

しかし、神様を追いかけてどんどん速度を増して遠ざかる妻の後ろ姿を、私は今にも見失いそうで気が気ではありませんでした。万が一ここで私が立ち止まってもし夫婦関係に決定的な亀裂が生じてしまったらどうしよう、考えただけでも空恐ろしい、けれど自分で追いかけるまでの気分にはなれない、などとジタバタしていた私のところに妻はいつもすっと戻って来てくれ、ぐいぐいと手を引っ張ってくれました。

ああ、妻よありがとう。君が私をいつも正しい道に連れ戻してくれたね。

とうとう2006年7月16日に妻と一緒に洗礼を受けることになりましたが、その決断にはまだ多くの人の後押しが必要でした。特に印象深かったのが職場の助教授でした。彼は韓国からの移民のクリスチャンで、私が同じ血を持つということもあり、公・私・信仰にわたりとても力になってくださった方です。このときも、「100%完璧に準備してから洗礼を受けようなんて考えちゃだめだよ、10%いや1%で十分なんだ。洗礼を受けてからゆっくり始めればいいんだから」、と導いてくださり本当にありがたかったです。それでも、受洗の朝になってさえも、まだ私の心は晴れきってはいなかったのです。朝食中にふとしたことから妻と口論になり、「今日はやっぱり洗礼は受けない!まだオレには早すぎたんや!」とけんか腰になっている私にさっときびすを返し、黙々と電話を掛け始めた妻。

錦織先生、早朝にご足労いただき本当に申し訳ありませんでした。

それ以後は神様が本当に働いてくださいました。とくにJOY JOY CAMPを存分に楽しんでいる頃から、私の心は急速に晴れ渡り、自分の醜い部分と向き合うことができるようになり、心の目が少しずつ開かれて行くのが自分でもよく分かるほどでした。そして今、

妻に感謝しています。
家事を一緒に手伝おうと思う気持ちが生まれました(まだ生まれたてです)。
人に純粋に興味を持つようになりました。
約束を守ろうとするようになりました。
身を低くして人に仕える人間になりたいと思っています。
誠実な人生を送りたいと思っています。
感動しやすくなり涙腺がすぐゆるむようになりました。(年のせいかも?)
なんだかおだやかでハッピーな気持ちでいることが多くなりました。
イエス様は途方もなく大きな愛のお方です。すごいです。
神様に感謝しています。本当です。

どうやら神様は複数の方法を用いて私を変える作業に当たられているようです。一つは礼拝のメッセージ、二つは教会員との親しい交わり、三つは聖書の御言葉、四つは妻の支え、五つはクリスチャンのための本です。どれが欠けても神様の作業は著しく滞るように思います。今、かなりの時間をこれらのことのために捧げていますが、神様がそう望んでいらっしゃるに違いないと感じています。

まもなくに迫った我が家の帰国の後におそらく信仰の試練がやってくることでしょう。神様どうかせっかく開きかけている私の心の目を閉じさせないようにお守りください。そして家族みんなの信仰ときずなをいつまでもお守りください。

神様あなたを心から賛美致します。アーメン。

月報2006年11月号より

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です