「私は、物心が付いてから、…」

去る4月25日にJCCNJの清水桃子姉のお母様である清水晴美姉が函館シオン教会で洗礼を受けられました。今月は、函館シオン教会の増井牧師の了解を得て、清水姉が洗礼式でお証された文章に少し手を入れて、ここに掲載させていただきます。ちょうど、日本に一時帰国されて、函館の教会で礼拝を守られた桃子姉も、お母様の洗礼式に立ちあうことができました。神様が特別に道を開いてくださったことに感謝します。ハレルヤ!

1.私は、物心が付いてから、孤独でさ迷っていました。それはきっと、両親の不仲、毎日のように起こるトラブル・・・愛を感じられない生活の中できっといつも愛を求めていたからだと思います。そして、思春期に両親の離婚、置き去りにされた悲しみから、言葉で説明できない寂しさや苦しみをいつも持っていましたが、考えると辛かったので、生きていく手段として、それを封印していました。

2.そんな私も結婚し、二女一男に恵まれて人並みに生きてきたと思っていましたが・・・三年くらい前に夫婦関係の中でどうにもならない苦しみに出会いました。どうやって生きていけばいいんだろうと一日一日をやっと過ごしていましたが、そうしているうちにNYから一時帰国していた長女が、苦しんでいる私を見てとても心配し、このシオン教会を訪ね、「私のお母さんを助けてください」とお願いしてくれました。
しばらくして、教会の方から、「集まりにいらっしゃいませんか?」というお手紙を頂きました。そのお手紙は、会った事も無い私に対する溢れるばかりの温かい言葉で綴られていました。あまりにも嬉しくて、心に沁みて、涙で文字が滲んで見えなくなるくらいでした。お手紙を頂いた直後に長女の牧師先生がNJから日本に来られ、足を伸ばしてわざわざ私に会いに来てくださいました。2,3時間くらいの会話の中で「心の中にイエス様の泉を持ちなさい」というお話がとても印象に残りました。そして「心の泉」という言葉を胸に抱え、招かれたミニチャーチに参加しました。
何回か参加した後にそのミニチャーチが「泉」だということを知り、大変驚きました。それにそこのお宅はお名前が、イエス様が「泉」の話をされた井戸端に関わるお名前だったのです。何ということでしょう!!神さまの素敵なユーモアで作られた、まるでシナリオのような導きを感じました。
それからも月に1,2度参加し、パンパンに膨れ上がった心の内をメンバーの方々に聞いて頂いたり、祈って頂いたりしているうちに、少しずつ自分も変化していきました。そして少し楽になった心の隙間に神さまが入ってくださいました。
クリスチャンである長女とその牧師先生と「泉」の方々を通して神さまを知ることが出来て、本当に良かったと思います。

3.それからいつも、問題が起きたときには、心のお母さんである姉妹にお話をしたり、神様のお考えはどうだろうか・・・と問いかけたり、祈ったりしています。
また時には、長女の牧師先生にお話をして、御言葉を教えて頂いたりしています。すると神さまが、私に知恵を与えてくださり、祈りを聞いてくださいしました。
何故か、夫も少しずつ変わっていったのです。。人格や存在も否定され続けてきた私も以前のように心が動揺することも少なくなりました。他の人に対しても、その人の苦しみを、その立場になって考えられるようになり、私に出来ることがあれば、自然に協力できるようになりました。

本当に日々祈れることを感謝いたします。そして、今、牧師先生の方々、「泉」のリーダーとメンバーの方々、教会員のみなさま、そして長女の立会いのもとで洗礼を受けられる神さまの素晴らしいご配慮に感謝いたします。

アーメン。

月報2010年5月号より

「Blessed Assurance」

母が日本で洗礼を受け、家族で教会へ導かれ、中学2年のクリスマスに父、双子の妹と共にこの教会で正木牧師より洗礼を授かりました。
洗礼を受けた次の夏、日本へ本帰国となり、千葉の松戸へ引っ越しました。反抗期だったのか、家族とけんかするたびに{イエス様は・・・}と促されるのをうざいと思うようになり、日曜日は昼過ぎまで寝て、いつのまにか教会へ行かなくなりました。でも、両親がまた海外転勤となり、一家で暮らしていたアパートでひとり暮らしを始めたとき、寂しさを感じて、教会に戻りました。
放蕩息子は父の元を離れて遊びに明け暮れた後、無一文になり、父親のもとへ戻りました。が、私の歩みは一回離れて戻るに限らず、洗礼を受けたときから5年前まで行ったり来たりでした。それは都合よく、自分勝手に離れたり戻ったりの繰り返しでした。今考えてみれば、サタンの働きだったのでしょうか。洗礼のときにまかれた信仰の種は地面にしっかりと根を張ることができなく、鳥につっつかれたりされていたんですね。
クリスチャンカレッジへ進学して、最初は必須のキリスト教教義やチャペルにも積極的に参加していました。でも、授業やバイブルスタディで信仰を問われたとき、または聖書の話をするときは優等生かのように期待されている答えを口にしていました。週末になれば、大学の近くのクラブやバーへ出かけ、朝早くまで遊んで、その足で教会へ行ったりもしていました。物事がうまくいっていると、自分で何でも出来ると信じるようになっていました。大学3年生の春、ワシントンDCに引っ越して、インターンシップしながら、全米のクリスチャンカレッジから集まった学生ら40名と過ごす機会が与えられました。その一学期の終わりにプログラムの友達らとお祝いに飲みに出掛けました。しかし、そのことがプログラムにばれて、学期終了2週間前にして、停学の危機に陥りました。責任とは、自分の行動の結果を受け入れること。そのときは本当に砕かれ、プログラムの教授、クラスメートの前に罪を告白し、赦されて、プログラムを終了できました。このときのような逆境に遭うと、必死に主を求めていました。でも、それもいずれか冷めていたような気がします。
このパターンは大学を卒業して、大学院のためにニューヨークへ戻ったときも一緒でした。どころか、ニューヨークへ戻ってからは、教会にも全く行かず、以前よりもさらに神様が喜ばれない生活を送るようになりました。子供たちに罪の話をするときに「心がちくっと痛むこと」とか話したりしますね。チクチクする感覚がいつのまにか感じられなくなるんですね。心が麻痺していました。でも、そんな生活はいつまでも続きませんでした。大学院を始めたのは2002年で、それからの2年間、自分で頑張ればどうにかなる、自分さえ頑張ればと自分に言い続け、神様には喜ばれない生活を続けていました。さらに、大学院生助手になり、授業料タダになり、心配されていた就労ビザも就職も、とんとん拍子で決まり、頑張れば自分でなんでもできると思うようにもなりました。でも、疲れが出てきます。体にも心にもよいはずがありません。満たされない思いで、なにか寂しく思うと、いつのまにか賛美歌を口にすることも何度もありました。けど、そのときの私には、教会へ行くことはできませんでした。教会は罪人のためにあるといいますが、自分のしたことを考えると恥ずかしくて、足が進みませんでした。偽善者を装うのもできないほど心が疲れていました。
2004年10月にワシントンDCへ遊びに行きました。日曜日、友達の教会のWashington Community Fellowshipへ行ったところ、ユースの牧師先生のPastor Faithのメッセージは神様はあなたに変化を起こしたい、変えたい、Bring Changes into Your life.とお話していて、もしあなたが主に変えられたいのであれば、そのChangesのひとつひとつのステップに主は確信を持って、あなたを支えてくださるというメッセージでした。このChangeは今までになく難しいとも忠告していました。でも、第一コリント10章13節を引用し、約束しました。神様は真実な方で、私を待っていることを。
「あなたがた会った試練はみな人の知れないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることの出来ないような試練にあわせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」 (第1コリント10:13)
その間自分のしらないところで、家族は祈っていました。大学時代からの友達何名かも私のために祈ってくれていました。私も祈りました。
そして、2004年12月にやっとブルックリンへ引越し、今までの生活を見直す機会が与えられました。今までの生活は自分が頑張ればという生活、物事がうまくいっていると、何でも出来る、自分中心でした。でも、見直していく中、私には神様が必要、いや、神様なしで生活するのは出来ないと思うようになりました。でも、教会には素直にいけませんでした。周りにどう思われるか、と人の目を気にしていました。神さまが自分を受け入れてくれるか、私は清くない、罪人。私のことをよいクリスチャンと思っていただろう教会の兄弟姉妹に顔が合わせられない。教会に行くことは主を賛美し、礼拝することなのに、自分のことで頭がいっぱいで、躊躇していました。
でも、不思議に同じDCの友達の実家でクリスマスを過ごした後の日曜日、小雪が降る中、JCCNJへ向かいました。ルート78からルート80と知らないはずの道を車は自然に教会へ向かったように思えます。この放蕩娘を両手を広げて迎えてくださったのは、他ならず、主イエスでした。
第2コリント5章17節に「古いものは過ぎ去り新しいものが生じた」とありますが、私にもそのような変化があったのです。。それは、自分だけではどうにもできない。主はぶどうの木にたとえて、「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからです。(ヨハネ15章5節)」とおっしゃいました。実がなるにはイエス様につながっていないければいけない、ということを確信しました。 そして、心から私にとって欠けることができない神様の存在を確信しました。
あれから、5年も経ち、みなさんの祈りに支えられ、アンディと結婚し、昨年にははな(Hanna)を授かりました。今までのような信仰の上下はないものの、忙しさの中で自分だけで頑張りすぎていることを発見するたびに本当に学んでいない自分に落ち込むばかりです。今後も課題ばかりの信仰生活ではありますが、主に大いに期待し、自然に自分を主にゆだねてついていけるようにと祈るばかりです。

月報2010年4月号より

「神様の時」

父の体調がおもわしくないと母からの電話があったのは、昨年12月の20日くらいだったと思います。その前から食欲がかなり落ちていたという事でした。その後いくつかの検査を行ったようですが、はっきりとした原因がわからず、その間にも通院して点滴を受けていました。最終的に細胞を取って検査をし、母からその結果を聞いたのは1月21日(木) の夜でした。母はまず「驚かないでね。」と落ち着いた声で言い、病名が胃癌であったと報告してくれました。既に癌の末期であり、手術も抗癌剤治療も受けられない状態でした。父は即入院をし、自分の病気のことも知っていました。いずれは親の死に直面するであろう、と漠然とは思っていたものの、こんなに突然そのような日がやってくるとは夢にも思っていませんでした。その知らせを聞き、大きな衝撃はありましたが、心の中には不思議と平安がありました。もちろん、全てを支配しておられ、不可能なことを可能にする事ができるお方に、「父の病を癒して下さい。父の癒しを通して神様の栄光をあらわして下さい。」という祈りもささげましたが、それ以上に、「このことが神様のご計画であるならば、神様の御心が行われますように。私自身が神様に全てをお委ねすることができますように。」と祈っていました。

子供達のことや仕事のことがあった為、最初は2月の半ばに日本へ戻る計画を立てましたが、23日(土)の朝に再び母と話した時には「それでは遅いかもしれない。すぐにでも帰らなければ後悔するかもしれない。」という思いが押し迫ってきました。また、主人にも「後のことはどうにでもなる。他の事は心配しなくてもいいから。」と励まされ、二週間の予定で帰国する決心をしました。そして、24日(日)の朝、一
人で日本へ向かいました。飛行機のチケットを直ぐに取ることができた事も、半日で出発の準備ができた事も、仕事の引継ぎができた事も神様の導きを感じました。飛行機の中では、「私の心の中の思いをちゃんと父に伝えることができるように。」と祈り続けました。そして「できることならば、もう一度2人の孫達に会えるように、それまで父の命を守って下さい。」とも祈りました。それは、「どうしてもっと頻繁に日本へ帰って、孫達に会わせてあげなかったのだろう?」という、どうしようもない後悔の思いが湧き上がってきたからです。

25日(月)、成田から仙台へ直行し、自宅近くにある父の入院する病院に着いたのは夜の7時頃でした。それから父が天に召されるまでの約5日間を共に過ごすことができたのは、神様が私達へくださったプレゼントだったと思います。それは、日本を離れていた約22年間のブランクを取り戻すかのようでした。

父はアメリカを訪れたことが2回あります。1回目は私の結婚式の時で、2回目は約2年半前の我が家の引越しの時に一人で手伝いに来てくれました。もともと整理整頓が得意で几帳面、手先が器用な父でしたので、荷物を丁寧に箱に詰めてくれたり、掃除をしてくれたり、また引越し後は箱から荷物を出して片付けてくれたりと、大助かりでした。その他にも、時間の空いた隙に庭の雑草をきれいにむしってくれたり、土を掘り起して花の種をまいてくれたり、庭に石を敷いてくれたりと、2週間の滞在中ずっと働き通しでした。せっかく来てくれたのだから、せめて1日か2日どこかへ遊びに行こうと提案しても、「今回は引越しの手伝いに来たんだから時間がもったいない。また今度ゆっくり遊びに来るから。」と言って、結局その2週間の滞在は、最初から最後まで引越し三昧でした。日本へ帰ってからも、庭や一緒に買った植物が気になったようで、しょっちゅう電話で、「ちゃんと雑草取ってる?水をやってる?」と聞かれました。父が種をまいてくれた花は、季節になると、きれいに咲いています。そして、これからも咲き続けることでしょう。

そのアメリカ滞在中のある日、父と私が2人きりになる時間がありました。父は、いきなり私の前に正座をし、「本当に申し訳ない事をした。どんなにか傷つけてしまった事か。どうか赦してほしい。」と頭を下げて謝ってきました。それは父が、まだ幼い私と母の前から当然姿を消し、ある女性と行方不明になったことについてでした。そして父は「本当にバカな父親だったよなぁ。」と、何度も何度も繰り返し言っていました。あまりにも突然の事で、私は何と反応していいのかわからず、「まだ小さかったし、よく覚えてないよ。」と誤魔化してしまいました。父は「そんなことないでしょ。」と言いましたが、その時の私は、父と向き合う事から逃げてしまったのです。

そのことが昨年の10月頃、教会のある学びの中で示されました。知らず知らずのうちに父に対して何となく冷めた思いを持っている自分、心の底から父を赦していない自分、幼い頃に受けた傷がまだ癒されていない自分。人を赦すことをしなければ、本当に癒されることはできないのではないかと思いました。そして、このまま父を赦すことをしないならば、また赦していると伝える前に父が召されるようなことがあれば、どんなに後悔しても後悔しきれないだろうと思いました。そのことを同じグループの数人に分かち合い、祈ってもらいました。ですから、父の病気を知った時には、「こんなに直ぐに、こういった形で私の祈りが聞かれるなんて。神様は本当に不思議なことをされるお方だなぁ。」と思いました。でも、このようなことがなければ、人間はきちんと向き合うことなんて出来ないのかもしれません。しかし、その時にふと、「もしかしたら、あの時には既に父の体に異変が起きていて、神様が私にあのような思いを与えてくださったのでは?」とも思いました。

私が病院に着いた月曜日、父は個室に移されていました。母から電話で聞いてはいましたが、すっかり痩せ細り、体に何本もの管を付け、酸素吸入マスクをしている父の姿を目にした時には、「こんなにも悪いのか、、、」と、一瞬動揺してしまったのではないかと思います。私を見た父は驚いた顔をし、泣いていました。お見舞いに来て下さっていた方々も居られたのですが、すぐに父と2人きりになる時間が与えられました。いつどうなるかわからない様子の父を前にして、「あの事を今すぐにでも言わなければ。」という思いにかられ、勇気を出して話を切り出しましたが、その途端、父は涙を流して頷きました。言葉を選びながら話しているうちに、「自分も罪人の一人にすぎないのに、メ赦すモなど、なんて傲慢なのか?本当に人を赦すことができるのは、神様・イエス様以外の誰でもないのに。」という思いが沸いてきて、途中から何をどう言っていいのかわからなくなりました。しかし父は、私の言いたいことを理解してくれたようで、何度も頷いて聞いてくれました。そして、私が「あの事があったから、イエス様に出会うことができたんでしょ?ママにも感謝しなくちゃね。」と言うと、また大きく頷きました。

その後担当の先生から今までの経過と現在の状況を詳しく伺い、父がいつ危険な状態になってもおかしくないということも聞いたので、早速その晩から病室に泊まって父に付き添うことにしました。病院の先生方、特に看護師さん達は皆さん親切で優しく、誠意を込めてお世話して下さり、本当に感謝の気持ちで一杯でした。父も事ある毎に、看護師さんに「ありがとう。」と言い、また何度も何度も「感謝だなぁ。」と口にしていました。「信仰のすばらしさと難しさを味わっています。この時にも主に感謝。出会いのすべてに感謝。瓶いっぱいの感謝捧げます。妻に感謝。」入院中、父が自分で書いた最後の言葉です。聖書にある『わたしの恵みはあなたに対して十分である。』(第二コリント12章9節)という言葉も何度となく繰り返していました。

父と過ごした最後の夜、父はかなり呼吸が苦しく、何度も何度も看護師さんを呼んで痰を吸引してもらったり、体の位置を直してもらったりしました。しかし私は時間を惜しむように、その合間をみて、子供の時にどこへ行ったとか何をしたとかなど、思い出せる限り父に話しました。私が「覚えてる?」と聞くと、首を大きく振って「うんうん」と頷いたり、「そんなことまで覚えてるの?」とでも言うように、目を大きく見開いたりもしていました。また、「一番好きな聖書の箇所は?」と聞くと、「イザヤ53章」と答え、「好きな賛美は?」の質問には、「たくさんありすぎてわからないから、後で教える。」と答えました。私は、父が一番好きだと言ったイザヤ53章をはじめ、両親が通う教会のジェンキンズ先生が教えて下さった聖書の箇所を次々と読みました。また、以前から聞いてみたかった事のいくつかを質問してみました。母は私が3歳の頃から教会へ行くようになりましたが、父が初めて教会へ行ったのは私が10歳の時でした。その間、父が教会へ行くことは一度もなかったのですが、私は父が母の留守の隙にこっそりと聖書を読んでいたのを何度か見たことがありました。「教会に行く前から、聖書の中に真実があると思っていたの?イエス様が救い主だと信じていたの?」と聞くと、大きく頷き、息をすることもままならない、やっと絞り出した声で、「ママには知られたくなかったから。本当にバカだった、くだらない見栄を張って。」と言って涙を流していました。また、まだ私が幼い頃、家には祖母の位牌(いはい)があったのですが、ある日それがなくなっていたのです。その頃はまだ教会に行っていなかった父ですが、川で焼いたという話を最近になって母から聞いていました。その理由を父に訊ねると、「ただの木だと思ったの。そこには魂がないって。」と言いました。そして、「アメリカに行くことを許してくれて、ありがとね。自分のやりたいと思うことをさせてあげたいと思ったの?それとも、心配だけど、神様にお任せすれば、必ず守ってくださる、と思ったの?」と聞くと、「後の方。」とだけ答えました。

召される日の朝は、「お風呂に入りたい。」と言い、病室に来る先生や看護師さん達が困るほど何度も訴えていました。ある看護師さんからは、「岡崎さん、我慢強くて何にも言ってくれないんだから。もっとワガママ言って下さいよ。」と言われていたくらいでしたので、強い口調で何度も何度も懇願する父の姿に、私も看護師さん達も驚くほどでした。父が召されてから、私は中学生の時に父から言われた言葉を思い出していました。「日曜日は神様の御前に出る聖別された日だから、ちゃんとお風呂に入って体をきれいにして礼拝に行くんだよ。」今になってみれば、あの日、父は天国に行く、神様に会う準備をしたかったのかもしれません。

1月30日(土)の午前11時半頃だったと思いますが、父は突然両手を高く上げ、「主よ、超自然的に、、、」と、繰り返し言っていました。おそらく、「超自然的に神様の元に引き上げて下さい。」と言いたかったのでしょう。病室には母と私の親友も一緒でしたが、私達は父の腕を両方から支え、まるでそれは聖書の出エジプト記に書かれてあるように、アロンとフルがモーセの腕を支え続けた時の光景を思い起こすかのようでした。その父の姿は、本当に神様と話しているようでした。そして、私達は祈り、賛美を続けました。しばらくすると、父が待っていたジェンキンズ先生が到着し、更に祈りはささげられ、聖書が読み続けられました。12時半をしばらく過ぎた頃、いよいよ最期の時がやって来ました。もう自分の力では起き上がることのできなかった父でしたので、ジェスチャーで体を起こして欲しいと訴え、そのようにしてあげると、正気に戻ったようにカッと目を見開いて自ら酸素吸入マスクを外し、指や他の部分に付けていたセンサーも次々と取り、腕に付いていた点滴の管までもむしり取ろうとしました。それまでも音や違和感が嫌だと言い、何度も外そうとしたことはありましたが、その時とは違って、まるで「もうこんなものは必要ない。私はこれから主の御許に行くのだから。」とでも言っているかのようでした。そこに居た者は皆圧倒され、誰もそれを止めることなどできない気迫を感じました。そして、最後の力を振り絞るかのように、それはまるで意を決して天国へ向かって行くかのように、自分の体を更に前へ乗り出したかと思うと、次の瞬間にはガクっと首を垂らして動かなくなったのです。その時まだ心臓は動いていましたが、「あ、行ってしまった。もうここには魂はない。」というような不思議な感覚に包まれていました。先生方、看護師さんも病室に駆けつけ、他にもお見舞いに来て下さった方々
に囲まれる中、聖書の詩篇23篇が朗読され、祈りと賛美で父を送り出しました。まさしく、メ天国への凱旋モという言葉がピッタリで、それは見事な旅立ちでした。

父が召された後に行われた前夜式も告別式も素晴らしく、神様の臨在を強く感じ、主の御名を崇めました。そこでは福音と希望が語られ、一人の信仰者の真実の証しが語られました。クリスチャンではない親戚は、キリスト教の葬儀に初めて参列し、多?の戸惑いを覚えたようではありますが、「クリスチャンは死への考え方が全然違うんね。死が終わりではなくて、その先に希望があるんだね。」と口々に語っていました。神様は、一人の人間の死をも用いて、多くの者の心に触れて下さいました。それは、父の一番の願いだったのではないでしょうか。『私にとっては、生きることもキリスト、死ぬこともまた益です。』(ピリピ1章21節)
今回の一連の出来事が、全て神様のご計画の中で導かれていた事を、いま改めて実感しています。2週間という限られた滞在の中で、父と時間を過ごすことができた事、父が召される瞬間に立ち会う事ができた事。もし病室に父を残したまま、こちらに戻って来る事になっていたとしたら、どんなにか心残りで辛かった事でしょうか。そして、前夜式と告別式に参列できた事。そのことによって、天国の希望と喜びという強い確信が与えられ平安が増し加わった事、懐かしい方々にお会いできた事。その他にも様々な事を通して、神様の絶妙なタイミングに何度も驚かされました。特に感謝したい事は、神様に全て委ねる事ができた(それも神様の助けなしではできなかった事ですが)時から(私が委ねる前から神様のご計画があったとは思いますが)、心に平安が与えられ、全てが備えられ、神様の御心が行われる、不思議なように事がスムーズに運ばれて行くのを目の当たりに見せて頂いたことです。その中で一つの例を挙げますと、ちょうど一時帰国中の錦織先生が、2月1日の夜に仙台に立ち寄り、父のお見舞いに来て下さる予定を立てておられました。父が召されたのが1月30日でしたので、生きている父にはお会いして頂く事はできませんでしたが、先生が他の方々と会われる予定を全く変更する必要もなく、父の前夜式に間に合うように仙台に到着され、式に参列して頂けたのは、神様のご計画とお導き以外の何ものでもないと感じています。『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。』(伝道者の書3章11節)

最後まで感謝にあふれ、謙虚で、優しく、しかし心の中は熱く燃え、強い信仰に立っていた父。一人の信仰者として心から尊敬しています。今回大勢の方が病室を訪ねて下さり、また色々な方のお話を伺がって、いかに皆さんが父の容態を心配し、愛して下さっていたのかを知る事ができました。このように離れて生活し、二人の孫達とも数回しか会ったことがない中で、父のことをメ仙台のお父さん、おじいちゃんモと呼んで慕って下さる方々が回りに与えられていた事は、私にとって大きな慰めでした。また、何十年ぶりに会った親戚から、父の幼?の頃の思い出話を聞いたり、私が知らなかった父の意外な面を発見し、父の事を今までにないほど身近に感じるようになりました。そして、愛おしく思うようにもなりました。今はしばしのお別れで寂しく思いますが、やがていつの日か天国で再会できる事を楽しみにしています。そのような希望と平安が与えられている事に感謝します。

今年の初めに、私が与えられた聖句は、『見よ。わたしは新しいことをする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。』(イザヤ書43章19節)でした。この聖句に目が留まった時、「神様は何をなさろうとしているんだろう?」と思いましたが、また同時に、いつも私が支えれている聖句『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。??主の御告げ。?? それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』(エレミヤ書29章11節)を持って語りかけて下さいました。父の事を通して、「このことだったのか。」と神様の御心がはっきりと示され、またその素晴らしい御業を見せて頂きました。これからも主の御業を見せ続けて頂きたいと願っています。

最後になりましたが、父の事を、また私達家族の事を覚えて祈り支えて下さった皆様、メールやお電話等で励まして下さった皆様、また私が不在の間、こちらに残る家族のために毎日お食事を届けてサポートして下さった皆様、本当に有難うございました。心より感謝を申し上げます。

月報2010年3月号より

「父が日本人、母がスペイン人。僕が生まれたのはイタリアです。…」

父が日本人、母がスペイン人。僕が生まれたのはイタリアです。

それからの20年間の間に、ドイツ、フランス、日本、スペイン、イギリス、アメリカなどに暮らしてきました。ある国の常識はこの国の非常識。違う国には違う文化、違う価値観があること。僕が受けたレッスンでした。モ違うモと言う事に僕は虫歯のように敏感だと思います。例えば、子供の時の僕は外人である事をとても嫌いました。毎日、外見だけで違う目で見られるのが大嫌いでした。それに我慢が出来なくて、日本にいた時に母に酷い事を言った事を今でも後悔してます。

でも文化が違っても、人にはあるモ変わらないモ共通点があると気づきました。

人は人の心を求めると思います。
感謝して感謝されないと心が満たされないと思います。
言葉や文化の常識を超えるようなレベルの心のつながりを人は同じ国でさえ求めてると思います。

どの信仰でも人を幸せにするためにある物だと思います。
どの信仰でも心のつながりを大切にしてると思います。
クリスチャンになることを選ぶ前も後も今でもそう思ってます。

でも一ヶ月前まではそれは神様を信じる理由にはなりませんでした。

信じるキッカケ。

ある日。

NJにある日本人教会の錦織先生に出会う機会がありました。

“信仰のことをどう思ってる?”と先生に聞かれました。

それをキッカケにNJに戻る度に先生のご家族と共に話をしていきました。

“変わる物と変わらないもの。”

いつかこの話をされた時に、

今の家庭関係、今の健康、今の所有物、今の友達関係、今の仕事の夢、今の人の愛、

これら全てに自分の幸せが乗っている事に気づきました。
変わったらどうなるでしょう?想像は大体できます。悪い方に。

自分の人生とクリスチャンのことをもっと真剣に考えるキッカケになった一つです。

変わらない物の中に、モ死モがあります。
“人生の究極である死を明日直面するとしたらどうする?”
これはお父さんから聞かれた事です。

家族にも助けてもらえない。
健康は死に向かって走る。
所有物の何が助けてくれるでしょう。
友達の誰が救ってくれるでしょう。
仕事の夢は。。?

必ず来る人生の最後。何がどうやって想像できない虚しさ、絶望や孤独を癒してくれるのでしょう。
この会話で命拾いをしたのかもしれません。
変わらない物に神様がいるのかもしれない。。

洗礼を受けたのは、その話を聞いた一週間後です。
メ今、生き方を変えたい。。。じゃないと。モと思ったからです。

神様が僕にどんなことをしてくださったのかは正直、今でもわかりません。
でも少なくとも根本的に人生の価値観と優先順位を考え直させるものが僕の中にあると思います。

違う国の文化や言葉、考え、宗教、マイノリティーの人達、友達や家族、
僕はクリスチャンになって、もっと人と人との心のつながりを今まで以上に大切にしたいと思ってます。

最後に洗礼に導かれたことに、僕はどうしても感謝したい事があります。それは母さんと父さんとバアちゃんです。僕がクリスチャ ンにならなくても、酷い事を言ってもずっと愛してくれると感じているからです。それだけは変わらない気がしてたまらないです。彼らみたいになりたいからキリスト教に興味を持ち続けられたと思って います。

そういう人達を僕の周りに置いてくれたのが神様なのかも知れませんね。

月報2010年2月号より

「私にはトモミチという名の友達がいました。…」

私にはトモミチという名の友達がいました。私が初めて幼稚園に行った日に出会った友人の名です。父の転勤の都合のため、他の皆より多分2ヶ月くらい遅れて入園した私にとって、彼の存在は励ましであり、大きな助けでした。「トモミチ君、しんじ君の面倒見てあげてね」と云う先生の言葉に私達の出会いがあったように記憶しています。当時の私の写真を見ると、私の書いた絵がまるで彼の作品のコピーのように似ていることが分かります。私はいつも彼の作るものを真似していたのですから当然のことでしょう。その関係は、卒園するまで、それぞれが違う小学校に通うようになるまで続きました。
そのトモミチ君が亡くなったという知らせを聞いたのは、小学校に入って間もない5月頃のことだったと思います。ある日、母から虫垂炎(当時は盲腸って呼んでました)の手術でお腹を開いたら、腹膜炎を併発していて手遅れだったということを教わりました。小学一年生だった私がその出来事を理解し、その説明が深く心に刻まれたのは、彼が本当に大切な友達だったからに他ならず、死というものが何であれ、もうトモミチ君に会えない!ということは分かったのでした。

それから30年以上もたったある日のこと、私は車を運転しながら「トモミチ!」と突然頭の中で叫んでいました。その2ヶ月くらい前に妻が妊娠したことがわかっていました。初めてのことでしたから、ドクターからの指示の全てが新しく、新鮮なものでした。ところが、ある日の検診の時に血液検査があり、その結果が私達に大きな不安を与えることになりました。「お子さんに何か問題がある可能性があります。でも、血液検査の結果は完璧ではないことが多いので、羊水検査をしましょう」と云った内容の説明があったのです。妻はドクターに云われるがまま羊水検査を受けることになりました。トモミチ君の名前が頭をよぎったのは、その検査結果を待っているある日のことだったのです。結婚した頃から、私には女の子が与えられたらこの名前というアイディアがあったのですが、もし男の子だったらどうするかなぁ?と考えていたからです。そして、何故だか分かりませんが、彼の名前が浮かんだその瞬間、検査結果は思わしくないに違いないという不思議な確信まで得てしまったのです。

私は家に帰ってから妻にその次第を伝えました。そして、男の子だったら「トモミチ」という命名案が私達の間に生まれました。その数日後、私が家に一人でいた時にドクターからの電話がありました。「結果が出ました。ダウン症です。あとはお二人で考えてください。詳しくは次の検診日に、、、」という短い内容の電話でした。血液検査は正しくないことが多いと云って気休めを云っておられたドクターの声は低く、力の無い感情を殺したものでした。その検査結果を妻にその日のうちに伝えたかどうかは覚えていません。でも、伝えた時のことは覚えています。私からの言葉を聞いた時、妻は「やっぱなぁ。そうじゃないかって思ってたんだ。」と云い、多分涙を流していたと思います。多分というのは、私が妻の顔を見る事が出来なかったので見ていないからです。次の検診日にドクターから説明を受けたのですが、なぜか「あとはお二人で考えて決めてください。」というあの同じ一言が加えられました。どういう意味?と思いつつも、私にはその意味を尋ねる勇気がありませんでした。ただ、その日から私の中で葛藤の日々が続くことになりました。考えてって何を考えるんだ? 何を決めるんだ? それって要するにこの子を諦めろってこと? 諦めても良いってこと? その場合、何が起こるんだ? そんなことして良いのか? 医者が良いってんだから良いんだろ? 人殺しじゃない! じゃぁ、普段教会で「命は何によっても取り戻せない。」と聞いているイエス様の言葉は無視して良いのか? 私の心の中は、ぐちゃぐちゃに乱れました。

多くの人が聖書を読むようになって、心に刻まれる言葉はいくつもあります。たとえば、エレミヤ書というところには、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。��主の御告げ。��それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」と書いてあり、ローマ書には、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」とあります。私も既に聖書から何度も、また牧師のメッセージから、いくつかの信仰書からもそれらの事を心に焼き付けられていましたし、時には友人などにその恵みを語ることがある程でした。しかし、このお腹の中に居る子供の存在によって、これらの聖書の言葉に持っていた確信が揺るがされたのです。まるで「あなたがこれまで証ししたそれらの言葉は本当であるか、あなたは本当にこれを信じるか?」と誰かに問い質されているような気がしました。そして、私はなんとかして、聖書が別のことを教えてくれないか、聖書の中をくまなく探したりしたのです。

その数日後のことでした。家に帰ると玄関に奇麗なブーケが届けられていました。「は、なんだぁ?」と思って部屋に持って入ると、小さなカードが挟んであるのが目に止まりました。そして、そこに手書きされていた短い言葉を見た私の目からは止めどなく涙が溢れ出て、私の心は神様のご計画をしっかりと受け止めることになりました。こう書いてありました。「わたしのエンジェルをよろしくおねがいします。天使ガブリエル」 (注:ガブリエルとは、天使の中でリーダーとされている存在で、イエスが生まれる前、母マリアに話しかけたのもガブリエルでした)

私たちは多くの場合、子供を“授かる”と云います。聖書にもそのような表現がありますので、間違えでは全くありません。でも、子供を“預かる”と受け止めるならば、その存在は恐らく“自分の”子供よりもずっと大事な存在になるのではないでしょうか? 私には妻のお腹の中にいる子供を神様から預かっているのだということがよく分かりました。その任務は大変なものかも知れませんが、神様があなたに任せたいと云われるのであれば、お受けしないわけにはいかないのでした。不思議なことに責務を受け取ったその日から、私はこの子供の誕生が待ち遠しくなりました。そして、少しでも元気な状態でお預けくださいと願い、祈る毎日となったのです。聖書のコリント人への第一の手紙にはこうも書いてあります。「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」 私は聖書の言葉を自分自身の考えで解釈するのではなく、更にそれを信じることを選びました。

いよいよ生まれるというその日は、あっという間にやって来ました。どこまで慌てて良いかも分からず、カメラさえ持たずに分娩室に付き添った私でした。9時間くらいの分娩で生まれて来たその子は、「ホ~」という口をしながら、その目ではっきりと私を見つめてくれました。神様から預かったトモミチ君(知道と漢字を付けました。道であるイエス様を知っている、また知らせる人という意味です)との初対面の瞬間でした。その子が私達夫婦の目にどれだけ可愛く映ったかは、親バカの域をはるかに超えて言葉では到底表現出来ません。数日後に家を訪問してくださった錦織先生がこのように祈ってくださいました。「神様、知道君にこのパパとママを与えてくださってありがとうございます。」 まさに“授かる”ではなく、“預かる”を肯定していただいた瞬間でした。

生まれて数ヶ月たったある日の土曜日、私は知道と二人で留守番をしていました。すやすやと眠る子の顔を見つめながら、そっとギターを弾いていた私は幻を見たのです。どこかの広い青空の下にある大きな宮殿のようなところの庭で、この子が楽しそうに走り回っている姿でした。私は白い柵のようなところに座って、ギターを弾きながらその姿を追っていたのです。「あぁ、ぼくはこの子といつまでも一緒に生きていこう。永遠に。何も急ぐことはない。神様から受ける永遠は果てしない。」その幻を見た私の心はとても平安でした。神様から受けた約束からしか得られない平安です。

知道と共に初めて日本に訪れたのは、2003年のことです。彼の祖父母、私達の両親に知道のことを紹介するためでした。彼らにとってもショックな宣告であると分かっていましたので、電話やメールでは伝えられないでいたのです。会ってもどのように伝えることが出来るか悩みましたが、共にクリスチャンである両親は、その孫をそのままに受け入れてくれました。クリスチャンであることがこれほど有り難いことであるかを覚えるひと時でした。

健康上はこれまで、心臓に穴が見つかったり、甲状腺に問題が見つかったりもしましたが、皆様の祈りと励ましによりここまで守られて来ました。何人かの専門医に見ていただいた心臓の穴は、素人の目には分からないほど、自然に塞がってしまいましたし、甲状腺は毎日ご飯粒2つ分ほどの大きさの薬を飲むだけで守られています。イエス様が地上を歩まれた時、多くの病人を癒されたと聖書にあります。しかし、もしイエス様が今、知道の目の前に現れたとしても、イエス様は彼を癒すことはされないと思います。また、私達もそのようなことを願わないはずです。この子が“普通”になってしまったら、それは別人であって、私達が今愛して大切にしている“預かりもの”ではなくなってしまうからです。これまで共にこの子をサポートしてくださった何人ものドクターやナース、セラピスト、デイケアのおばさん、学校の先生、教会の皆さん達にどれだけ感謝しても到底足りません。ある先生は「トモがこのクラスにいてくれて良かった。子供達はトモと一緒に過ごして、人を助けること、人に優しくすることを学ぶことが出来た。」と云ってくださいました。知道が生まれる前に妻に示された聖書の箇所、ヨハネの福音書には「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」という盲目に生まれた人について語られたイエス様の約束の言葉があります。沢山の方々と共に、この子を通して現される神様の栄光を見させていただきたいと願っています。

2歳年下の弟に最近身長が抜かされてしまった小さい7歳です。色々なことが少しずつ他の子達よりも遅れているようですが、誰からも好かれ、友達になってしまうところ、純粋さ、オリジナリティ、頑固さやこだわり、我が道を行く姿、誰にでも世話好き等は私達もかなわない桁外れのものを持っています。かつて幼稚園の時のトモミチ君がそうであったように、私は自分の子として生まれたトモミチ君から沢山のことをこれからも学んで行くことになりそうです。私達夫婦が神様に知道の良き理解者、友達のような弟をと願って生まれた子、真友(まさとも)が成長して行く中で、“知道を受け入れる”という試練が待っていることも想像しています。これもまた神様の栄光が現されるために必要なことと理解しています。教会の皆さんや子供達、これから出会う方々が、知道との関わり合いの中で得るものが沢山あることを願っています。どうか特別視しつつ、でも偏見は持たず、甘やかすことなく、そのままの知道とおつきあいいただけますように。それこそまさに神様が私達一人一人に対して、してくださっていることです。この2009年のクリスマスの時期、永遠におられる方、恵み深い愛そのものであるイエス様の父なる神様のお名前が崇められますように。

月報2010年1月号より

笹川雅弘牧師の証

10月に日本で持たれた『家の教会セミナー』に錦織牧師が参加した時に、15年ぶりに笹川雅弘師と再会しました。笹川師はビジネスマンとして1993年から1997年初めまでNJで生活され、JCCNJで共に歩んだ仲間です。その後、神学校に進み、新潟福音教会の牧師として奉仕されています。今回、どのようにして牧師になるように導かれたのか、2004年時点で書かれたお証をお送り頂きました。感謝して、ここに転載させていただきます。

献身から牧師一年目にいたるまでの証し(2004年7月時点)

1984年のイースターに受洗後、最初に直接献身への召命を意識し始めたのは、その6年後に、NEC米国法人の駐在員として、テキサス州ダラスでの生活が始まってしばらくしてからの頃でした。ダラスで与えられた教会、ダラス第一バプテスト教会は、教会全体では会員一万人以上というメガ・チャーチでしたが、その一部である日本人礼拝部は、多い時でも礼拝出席者20名程度の小さな群でした。ここで神様は私に、幾つかの経験を通し、直接献身へ向けての道を備えられました。
ひとつは、日本人礼拝部の属していたバプテスト教会を中心とする、地域全体を覆う力強い教会の働きです。日本では「少数派」としてのキリスト教会が、そこではダラスという大都会の中でまぎれもなく、社会の柱、人々の誇りとして地域の隅々に浸透し、生きて働いていたのです。 この体験はその後、日本の教会はどうしたらこれに近ずけるのか、なぜいつまでも「1%」なのか、という問いと救霊の思いが強くされる源となっていきました。もうひとつは、日本人教会員の何人かの方々から、たびたび直接献身の勧めをいただくようになったことです。冗談半分ではなく、真剣に「お祈りしています」と言われると、やはり真剣にその祈りを受け取らざるを得ません。一方、ダラスでは二人目の子供が与えられ、家族を養う責任は重くなり、それを支える、会社からの手厚い福利厚生、楽しいゴルフ生活など、それはそれで、文句のつけようがありません。しかし、この頃から、「このままで本当にいいのか」という問いかけが心の奥から聞こえてくるようになりました。
このような心の葛藤を抱えたまま、3年後にはダラスからニュージャージーのオフィスへ転勤となりました。ニュージャージーでは3人目の子供が与えられ、会社での責任も重くなり、状況としては、直接献身は現実からますます遠ざかっていくように思われました。一方、「本当にこのままでいいのか」という心の痛みは、目を向けると、いつもそこにありました。その感じは、大事な手紙を受け取った後、どのような返事を書いたら良いかを迷っているうちに時が経過し、思い出すたびに落ち着かなくなる、という、あの気持ちに似ていました。
アメリカでの、計6年半の勤務を終了し、1997年1月にNEC本社へ戻ると、今度は仕事で超多忙な毎日が始まりました。これは私にとって、仕事の成功を通して主の栄光をあらわすという道が与えられている、自分に言い聞かせるには好都合でしたが、やがて大きな転機が訪れました。それはまず、過労による3週間の入院でした。静かに自分自身の生き方について考える時が与えられました。続いて、自分の信仰の姿勢が、会社文化の中で苦況に立たされることになりました。過労で入院する程身を削って達成した実績で、会社の表彰状と記念品は手に入りましたが、それは残念ながら、主の栄光をあらわすことには、つながりませんでした。直後に行われた社内での昇進試験では、営業実績や部長の推薦よりも、「人に従うよりも神に従う」という毅然とした姿勢が、結果として役員面接などでマイナス評価につながり、昇進は見送られました。「神に従うより人に従う」ということが会社で成功する為の条件であり、仕事の成功を通して主の栄光をあらわす、というビジョンが意味を持たない、という現実に直面した時、私はこの会社を離れる決心をしました。
「収穫は多いが、働き手が少ない」(マタイ9:37)というみ言葉が決心を迫る一方、忘れられなかったのが、アメリカで体験した、神に従う信仰と、仕事の成功が、相反しない世界でした。クリスチャン経営者によって、神に従う信仰と、仕事の実績が正当に評価され、報いられる会社。そして家族との時間も十分に確保できる会社。私は、そのような会社が日本に存在しないものだろうか、と考えて悶々としていました。そんなある日、求人雑誌をめくっていると、IT関連の新興アメリカ企業が営業マネージャーを募集していました。企業データを見ると、ベンチャー企業として10年前に起業してから急成長を遂げ、給与体系は公平な実績連動システムで、成績次第でストックオプションも与えられるという、アメリカンドリームを彷彿とさせる会社でした。日本法人経営幹部のほぼ全員を占めるアメリカ人は、私の願い通りクリスチャンで、若さと力にあふれていました。彼らとの面接の結果採用が決まり、私は、ビジネスマンとしての仕事の成功を通して主の栄光を証しするという生き方に再度挑戦することになりました。
いわゆる、日本の大企業文化の中で育ってきた私にとって、新しい職場は刺激に満ちた訓練の場となりました。アメリカ流の体系的で徹底した営業訓練とその実践は、伝道実践の知恵にもつながるところがあり、また、役職、年齢などにとらわれず、正直で風通しの良いフラットなコミュニケーションの中から生まれる活力は、日本企業のみならず日本のキリスト教会も見習うべきカルチャーでした。しかし、この会社の問題点は、四半期ごとの営業成績で社員が厳格に評価される為、短期決戦で実績を稼ぐことにほとんどのエネルギーが費やされ、購買の稟議に時間のかかる大企業を相手に、じっくりと時間をかけて信頼関係を築いていく、というゆとりが無く、結果として会社としての信頼感を失っているという点でした。私は、短期決戦の積み重ねでがむしゃらに成長する会社から、大手企業との信頼関係構築に十分時間をかけ、結果的に高度成長を長期に渡って持続できる会社へと変わる必要を幹部に訴え、結果として私自身がそのような市場、つまり、短期的には結果は得られないが、1年単位で腰を据えて取り組めば、結果として、大きく継続的な契約につながる可能性のある市場を担当することになりました。
1年以内に結果を出す、という条件のもと、私は某大手企業、及び政府機関との間で関係構築を進め、半年後には、具体的な商談とその規模、契約のタイミングなどが見え始めてきました。このプロジェクトが成功すれば、巨額の報酬と役員昇進への道も開けてくる。そんな皮算用が頭をかすめるようになった頃、私は、長い間、出せないでいた、例の、大事な返事のことを思い出しました。政府機関との信頼関係維持という意味でも、契約が成立すれば、もう会社を辞めることはできなくなる。今回の契約とともに、もう後戻りできない所へ向かって、私は走り続けることになる。このような胸騒ぎは、私が、毎日、激流のような時間の中で、すがるように聖書を読み続けていなかったならば、もしかしたら、おこらなかったのかも知れません。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」というイザヤの召命への応答のことばを読んでいると、この世での自分の人生が終わる時、なぜあの時、私はイザヤのように応答できなかったのか、と後悔している自分の姿が、頭に浮かびました。それは、何ともいたたまれない、人生の敗北者のような気持ちでした。すると、神様は実に不思議な方法で、そのまま突っ走ろうとしていた私の足を、止められました。
私の採用を決め、入社後も私を理解し、支援してくれていた会社の最高責任者が、突然ヨーロッパへ異動することが決まったのは2000年3月でした。結果を出す期日まであと数ヶ月ありました。そして、トップを任された新任のアメリカ人は、私がしばらく全く実績をあげていないことに目を留め、事情を十分に確認しないまま、「最近の実績を見ると、どうも、あなたはこの会社に向かなかったのではないかと思う。」と、私が自主的に退職することを求めてきたのです。その瞬間、私は、たとえようのない平安が訪れるのを感じました。自分でも、なぜ、こんな時に、こんなにうれしいのか、不思議でした。そのせいか、私は、その場で、事情説明や、釈明をしようという気に全くならず、その場で退職に同意し、退職条件の覚え書きにすぐサインをしてしまいました。
こうして私は3月末日から4月30日の正式退社日まで、未消化分の有給休暇を消化することになりましたが、この最後の一ヶ月間は、サタンとの激しい闘いがありました。妻は、会社に対しても、私に対しても、大いに憤慨していました。今、連絡を入れて詳しく事情を話せば、まだ会社へ戻れるかも知れない。そんな思いとの格闘の中で、ダビデのあの告白が、騒ぎ立つ心の波を鎮めてくれました。詩篇16編2節、「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」
弱音を吐いては献身の思いから逃げ回っていた私は、同じように往生際の悪かった、モーセの召命の記事に慰めを感じます。そのモーセが召命に従ってエジプトに向かい出発した直後、モーセは、なぜか、主に殺されかけた所を、妻のチッポラに助けられました。次は私の勝手な想像です。「チッポラは、モーセが突然エジプトへ帰ってイスラエル民族を救い出す、と言い出すのを聞いて、最初は唖然とし、次第に憤慨し、毎日ぶつぶつと文句を言っていってモーセを悩ませた。モーセは、そんなチッポラを、何という足手まといだろう、この先が思いやられるわい、と思っていた。そんな矢先に、この事件が起きて、モーセとチッポラの心は、再びひとつに結ばれた。」少し強引に、このように解釈することで慰めと希望を見出そうとしたりしていました。私が会社を辞めたことを残念に思っている妻と、そんな妻に、つい、苛立ちを感じてしまう私のこころがひとつにされ「私と私の家族は、主に仕える」と喜んで告白できる日が来るのを、日々祈り求めました。
私が意を決して神学校へ通い始めても、妻は断固として反対の姿勢を崩しません。私は仕方なく、授業のある日は神学校の独身寮に身を寄せることに。思いがけない「単身赴任」生活の始まり。このときは互いに真剣に離婚を考えるほどの、史上最大の夫婦の危機でした。妻は祈る。「神様、どうか主人が神学校で挫折して、砕かれて、再び会社員に戻れますように。」一方、私も祈り返す。「主よ、どうか妻が砕かれて、主と私に従うことができますように。」こんな「砕き合い合戦」の末、勝利を収めたのは_そのどちらでもなく、二人揃って主の前に砕かれる、という結果に。妻が反対を続けていたとき私は内心、「とうとう召命に従ったモーセの最初の危機を救った妻チッポラとは正反対だな」と心で裁いていたのだが、自分自身が何年もかけて格闘してきたところを、妻もまた通っているのだ、という配慮もなくただ裁いていた自分を恥ずかしく思いました。ただ今振り返ると、あの時の反対があったからこそ、より真剣に召命の確信を求めつつ学ぶことができたのだと思います。神学校最終年次には、その妻も聴講生として神学校の授業に参加するようになっていました。解決を待ち続ける忍耐の時は長く感じられますが、その忍耐の期間を無理に縮めようと焦らず「主に立ち返って静かにする」(イザヤ30:15)ことの大切さを互いに教えられたように思います。
神学校卒業後派遣された新潟福音教会は、今までキャリア豊かな人格者である牧師によって牧会されてきた、百人教会。社会人経験が17年あるとはいえ、「新卒」教師にとって、受け取ったバトンはずしりと重かったというのが正直なところでした。でも、これまでのさまざまな試練の中で、主のご計画を信じて主にのみ従い、ただ主に委ねることの大切さを心に刻み込まされてきたせいか、この1年間、そのバトンの重みに押しつぶされることから守られてきました。あれほど反対していた妻も、私よりもよっぽど元気に明るく群れに気を使っています。また、派遣されてからこの1年の間に受洗へと導かれた9名の方々のことを思うとき、胸がいっぱいになります。この魂のために、そしてこれから導かれようとしている魂のために、今までの試練があったのか、と思うと。また、自分が主の前に砕かれ、主に謙虚に従うようにされることだけが試練の目的ではなく、その究極の目的は福音による救いが人々の魂に届いていくためであったのだ、と思うと。
この一年間に新潟福音教会で受洗へと導かれた方々の上にも、例外なく、悲しみと試練がありました。けれどもそれらすべてが、イエス・キリストのうちにある新しい永遠のいのちへ移されるために用いられたこと思うとき、耐えがたい悲しみに涙するときにそれが「永遠の祝福のために与えられた天からの賜物」であるということを知ることのできる神のことば、福音の尊さを改めて噛みしめます。
「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」(ヤコブ1:2)
「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。」(第一ペテロ4:12,13)

笹川雅弘プロフィール
1959年、神奈川県横浜市生まれ。1983年日本電気(株)入社、翌年に受洗。その後約6年半のアメリカ駐在を含む計17年間の会社員生活の後、伝道献身者としての召命を受け東京基督神学校へ入学。2003年3月同校卒業後、日本同盟基督教団・新潟福音教会へ派遣され、現在に至る。

月報2009年12月号より

「キリストの体」

「大恐慌以来の経済危機」のさなか、今年一月、私は金融機関からレイオフされた。希望通りの社内転職を果たし、「もう一生これでいける」とまで思ったドリームジョブ(産業調査のアナリスト)を手にしてから、僅か三ヶ月後のことだった。その社内転職から三ヶ月ほど前のこと、私が職場で担当していた顧客のファイルが紛失するという事態が発生、私は上司に、そのファイルが元々存在しなかったと証言するよう、圧力をかけられた。「そもそも存在しなかったのだから、紛失したのではない」との論理を貫きたいがための裏工作である。彼もクビが懸かっているから必死である。私は一瞬たじろいだ。だが、嘘をついてその場を凌いで神様を泣かすよりは、たとえ責任を問われたとしても、寧ろ真実を語る方が正しいと感じた。だから敢えて圧力を撥ね除け、「私はこの目で確かに見た」と主張。果たして、「紛失」は東京本部にも重大視され、私が所属する部全体が始末書を出す破目に・・・。

金融業界におけるリストラに歯止めはかからず、私は求職期間中、労働市場が丸ごと消滅してしまったかのような無力感を覚えた。面接もあるにはあったのだが、反応が悪い。以前と違って、求人側の職務要件に応募側の経歴が完全に合致しない限り、どこも採用には踏み切らない構えだ。長期戦の悪い予感。一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月・・・。これといった話が無いまま、時間だけが過ぎていった。求職中は会社に行かない。勿論残業も無い。だから肉体的には仕事をしている時と比べて楽なことは確か。また、見かけ上は家族と過ごせる時間も多い。ところが実際にはそれを心底楽しめない。早いところ仕事を見つけなければ家族が路頭に迷う・・・。そんな精神的なプレッシャーは想像を遥かに上回った。それとともに夫婦喧嘩も極まってゆき、幼い子供たちへの発達心理学的な悪影響も心配された。分かっていても、お互い罪深い者同士のこと、止めるに止められない・・・。こんな「嵐」のような日々が続いた。

五月始めのある日のこと。いつものように、自宅の地下室にある、私が「会見の幕屋」と呼ぶ一角で、「神様が示される最善の土地で、最善の時に仕事を与えて下さい」、と必死に祈っている最中、聖霊から、「仕事はお前に与えるから心配はいらない」との約束と平安が与えられた。更にその瞬間、私のために祈って下さっている方々一人一人の顔が連続写真のように浮かび上がって見えた。聖霊はその時、「この人たちはキリストを構成する体」であり、「お前(=私)もその一部」なのだ、というメッセージを私に伝えた。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか(第1コリント3:16)」。「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい(1ペテ2:5)。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである(ヨハネ15:5)」。これらの御言葉が互いに混ざり合って一つのイメージとして伝わってきた。祈りのネットワークを拡張してもらい、キリストの「体の働き」を利かせた矢先の、天的啓示である。わたし的には、ダマスコへ向かう途上、自分が迫害していたクリスチャンが実はキリストの体なんだというパウロが神様から見せられた啓示に匹敵するほどの劇的なものだった。

祈りが終わり、即、妻に伝えた。彼女もすんなり受け入れた。我が家に再び平安が戻ってきた。それからの私たちの祈りは、感謝の祈りに変わり、私たちを平安で満たして下さる神様に賛美を捧げた。就職に関する不安がなくなった後、家内と二人で、再就職に関する具体的な希望をそれぞれ書き出して、それを互いに持ち寄って祈ることにした。祈祷課題は、「通勤・勤務時間が短くなること」、「向こう三年間、妻が家で子供の面倒を見られるように、私一人で家計を支えられること」、「仕事が性格と能力にあったもの」、「興味が持て、やり甲斐を感じつつも、忙殺されないこと、」等。「どんな願い事であれ、あなた方のうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれをかなえて下さる(マタイ18:19)」との御言葉に従った。

当初、職のあるところだったら何処へでも引っ越すつもりでいた。だから日本やカリフォルニアにも就職活動は及んだ。いいと思える話も無い訳ではなかったが、いずれの場合にも神様は不思議と道を閉ざされた。しかし、キリストの体に関する啓示を受けた後、当地NJ/NY地域での就職を祈って下さっていた「祈りのセル」の姉妹たちと心が一つになり、NY・NJ地域での仕事が与えられるように祈り始めた。今の仕事につながった第一面接が設定されたのは、それから間もなくのことであった。それはそれまでに持ち込まれた話とは違い、神様が一歩一歩を導いておられることが随所に感じられた。問題もあった。例えば、条件面では以前の水準を大きく下回ること。そして保険業は未知の分野であること。だから、始めのうちは、ただひたすら黙々と神様の導きに従うだけだった。けれども、面接が進み、上席者と会ってみると、その人は「この人の下で働きたい」と思えるような魅力的な人だった。結局、プロセス全体が昨今の常識では信じがたいとんとん拍子で進捗し、あれよあれよという間に採用通知を得た。レイオフから既に7ヶ月が経とうとしていた、8月初旬のことだった。

また、私の職歴の一部分が評価されたのではなく、私のキャリアパスの始めから終わりまですべてが気に入られたので、「この人でもいい」ではなくて、「この人しかいない」という種類の採用となった。条件面でも、求人広告からかなりアップグレードしてくれた。お陰で基本給だけで言えば以前の水準を上回る条件提示をもらった。平安で満ち満たして下さる神様が与えて下さった素晴らしい転職となった。この就職難の時代にあって、万軍の主は、多くの天の御使いを忙しく働かせてくれたことは想像に難くない。逆に、レイオフされなければこんないい仕事は得られなかったであろう。オファーが出た日、私たち家族4人は輪になって座り、手をつないで心を合わせ、神様の御手による大いなる御業を褒め称えた。

蓋を開けてみれば、妻と共に書き出した祈祷課題は全て叶えられていた。「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、その通りになる(マルコ11:24)」との御言葉が、身近な形で成就した。

休職中の「嵐」の吹きすさぶ時にも、皆さんの励ましにも支えられ、主イエスが「船長」である限り、「船」は沈没する訳はないと信じ、毎日荒波を乗り切っていた。しかし、嵐の中を航海したこの経験は、試練を通して救って下さる主イエス・キリストの恵み・憐れみだった。実は、それは主が私たちを愛してくださっているが故の祝福であった。「(私たちは)それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。(ローマ5:3-5)。」

教会内外の兄弟姉妹からの励まし、祈りのセルでの「二人または三人による」祈り、祈りのネットワーク展開、キリストの体の啓示体験、妻との祈りを通して叶えられた具体的な祈祷課題の数々・・・。この7ヶ月間で、私はキリストの体をより深く体験し、クリスチャン生活は一人だけでは成立しないことを学んだ。今後とも、キリストの体の奥義を更に深く知り、自らも「生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられ(1ペテロ2:5)」たいものだと願わされる。

月報2009年11月号より

「8月25日、牧師夫妻は休暇でアトランタに…」

8月25日、牧師夫妻は休暇でアトランタに行った帰り道にノースカロライナ州Ashevilleの田中裕兄・亘代姉をご訪問して、楽しい一時を持たせて頂きました。田中兄姉の一人娘・陽子姉は1993年12月19日にJCCNJで洗礼を受けて、歩んでおられましたが、30歳の誕生日を迎える直前、1997年1月に突然主の御許に召されて行かれました。しかし、そのことを通してご両親は信仰に導かれ、今もBiltmore Baptist Churchで信仰生活を送っておられます。今回、そのお証をインタビュー形式でお伺いしてきました。2009

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<お二人の背景>
錦織牧師(P): 今日はこのような機会を与えてくださってありがとうございます。お二人が、初めて教会とか、イエスさまとか、聖書とかに初めて触れられたのはどのような時だったのでしょうか?

田中兄(Mr): 実は私は母を通して知りました。母が聖書を持っているのを知ったのは大学に行くときでした。父は早く亡くなっているのですが、その後、母は島根でカトリックの神父さんの身の回りのことを手伝っていたんですね。その時に母が聖書を持っているのを知りました。しかし、私はそれに触れたこともありませんでしたし、読んだこともありませんでした。でも、もっと早く、3歳か4歳くらいの頃ですが、「主よ、御許に近づかん」という讃美歌をいつも歌っていたことを憶えています。

P: 奥様のほうは?

田中姉(Mrs.): 私は仏教の家庭に育って、まったく聖書とか、キリストとかに触れるチャンスはありませんでした。彼岸ごと、法事ごとにお墓参りするのが習慣でした。別に仏教を勉強していた訳ではありませんが、それを習慣的にするのが当然の家庭でした。

Mr.: 私のほうは家の宗教としては神道でした。もともとは禅宗であったようですが、神道になりました。ご多分に漏れず、家には神様と仏様の両方がいました。母はクリスチャンの背景から来たのですから、複雑な思いだったと思います。伝統の中に嫁いできたのですから、それに従わないということはできなかったのです。その後、聖書を自分で手に入れたのは、大学の時に、文学の一環として、手に入れたのですが、それはそれっきりでした。信仰の書物として読んだことはありませんでした。嫌悪感とか、そのようなものは一切ありませんでしたが、ただ、関心がなかったんですね。

<生前の陽子姉の姿から>
P: そのご夫妻にとって、イエス様のことを知るためにはやはりお嬢さんの陽子さんの存在が大きかったわけですよね。

Mr. & Mrs.: はい、それがなかったら、今でも迷っていたでしょうし、イエス様のことを知ることもなかったのでは、と思います。

Mrs.: もちろん、陽子はNCに来るたびに聖書を持ってきていましたし、教会に行っていることは知っていましたけれども、それについて、娘は自分からは一言も言いませんし、キリスト教というのはわたしたちの人生とは何の関わりもないことだと思っていたのです。

P: では、陽子ちゃんが洗礼を受けるとか受けたとか、そのような話を聞いたことはなかったんでしょうか?

Mr. & Mrs.: 聞いてませんでした。(笑)

Mr.: ある時、私はニュージャージーの陽子のいたところに行った時に、聖書があることに気がついたのです。そのことには一言も触れなかったのですが、友だちの里香ちゃんが、教会に行っているというんですね。そして、ルームメートになってくれるというのですが、でも、自分が行っているとは一言も言わないわけです。その時に思ったのは、ルームメートになる人が、教会に行くような人だったら安心だなあ、と思ったことです。おまえは何するんだ?といったら何もしていないというのです。で、「土日何しているんだ?」と聞いたら、「教会で遊んでいる」と言うんですね。

Mrs.: そして、里香ちゃんの結婚式が陽子が亡くなる1年前、96年にありまして、私も招待されまして、その時、結婚式の翌日の日曜礼拝に娘が「お母さん、どうしても一緒 に行こう」と言い、強引に連れて行かれました。私はあのユニークな娘のお母さんと思われるのがいやだなあ、なんて思いながら~。教会では聖書をめくるのをてきぱき手伝ってくれたりしましたが、なかなか馴染めなかったことを覚えています。礼拝後皆さんに温かく迎えられ陽子の働きなど聞かされました。それよりも皆さんがすごくいいお顔をしていらっしゃると感じた事、何か違うように思わされました。思えばその時こそイエスさまにつながる出発点だったかもしれません。

Mr.: ある時NYから車で一日でNCに来たことがありました。明くる日、見ましたら、聖書があるんですね。あれ、教会に行っているって言っていたけど、本当に行っているのかな、と思いましたが、ただ、まだ野球したり、遊びに行ったりしていると思っていましたから、聖書に触れている、ということはわかりましたが、娘が教会に行くと言うようなことは想像していませんから、読んでるって、そんな読む資格があるのかよ、と言った覚えがあるのです。

Mrs.:  NY生まれの娘が難しい漢字が読めるとは思っていませんので、どうして聖書が読めるのか、と思ったら、全部カナがふってある、って言うんですね。その時、聖書を初めて見ました。ああ、全部カナが振ってあるんだなあって。(笑)

Mr.: 飾りで持っているのかなあ、と思いましたが、また、ひょっと見ましたら、印がついているんです。ああ、読んでいるんだ、と思いました。だけど、自分からは全然、一言も言わなかったです。

Mrs.: でも、一つだけ抵抗したことがありました。毎年、お正月に交通安全のお守りのお札を日本から取り寄せて陽子にも送っていたのですが、ある時、NJに行ったら、それが放ってあるんですよね。「どうしてそんなことをするんだ」と思いました。未だ私は神様のことを知りませんでしたから、ケンカではないですが凄く怒ったんです。その時は彼女は何も言わなかったのですが、後で、だんだん神様のことがわかるようになって、ちゃんとどうして説明してくれなかったのか、と思いましたねえ。説明されても、その時は反発したと思いますが。

Mr.: 私は娘が何か変わったな、と思ったのは、それまで私がいろいろと頼みごとをすると陽子は一番にしてくれていたんですが、ある頃から、やってくれていないんですよね。「何でやっていないんだ」って聞くと、「忙しいから」と答える。「教会で忙しいんだ」って言う。それで、変わってきたかなあ、と思いました。年と共に変わってきたのかなあ、人間が成長するんじゃなくて、生意気になってきたなあ、と思った、その程度でした。
初めて、本当の意味で陽子がどのように変わったのかを知ったのは、陽子の死の時でした。その時に初めて知ったのです。

Mrs.: もっとクリスチャンのかおりを出してくれていたらよかったんですがね。(笑)

Mr.: でも、もし、あのときに本人がわたしたちに言ってきた場合、果たしてそのように率直に受け入れて、動くことができたかというと、わかりません。あれだけ大きな、彼女の死ということが起こって、初めて動いた、動かされたということの中に神を感じますね。

<陽子姉の召天>
P: そうですか、その陽子ちゃんが亡くなられたのは突然だったんですよね。

Mr.: そうです。土曜日の朝に僕が電話したんです。そうしたら、風邪声だったんで、「大丈夫か」って言ったら、「大丈夫、ちょっと休めば直るから」と言うんです。「ママ呼ぼうか」と言ったら「いい」って言うもんですから、「後から電話するからね」と切ったんです。

Mrs.: そして、私は後から電話したんですが、その時は苦しかったみたいで「後から電話するから・・・」と言って切れたんです。そして、翌日、電話したら、皆さんが集っていて、ギルさんが話してくれたんです。

Mr.: 妻の電話に出ている声が止ったので、「これは何かあったな」と心の中に思いました。

Mrs.: 前の子供の時もそうだったのですけれども、体調に問題はあったんです。やはり薬がずっと必要な体で、一応日常生活には問題はないんですけれども、大病とか熱が出たときは特別なケアをしなければいけなかったのです。普段の薬も忙しい、とか言って飲んでいなかったり、すぐにドクターに連絡しなかったりで、手遅れになってしまったんじゃないかなと思います。それも神様の御手の中にあったんだと思いますが。

Mr.: 忙しかったことは忙しかったようですね。机の上に薬も出ていて、飲まなければいけないと思っていたようです。

Mrs.: 定期的にもちろんお医者さんには行っていたことは確かだったのですが。

Mr.: 今から思うと、行くべき地に召されたんだと思います。30年の短い間でしたけれども。

Mrs.: またそれと共に長かったとも思います。遺伝的な問題があって、前は助けてもらえなかったのですが、アメリカでいいお医者さんに巡り会えて、治療ができて、30年生かされたと思うと、感謝ですね。

<教会に導かれる>
Mrs.: しかし、娘が亡くなった時に、皆さんから励まされたのが、「天国で会えるんだよ」ということだったのです。教会に初めて行った後、その頃から聖書に対する興味というか、あったようにも思ったんですが、やはり、本当に読み始めたのは陽子が亡くなった後です。陽子の聖書を読んでいました。でも、教会には行っていませんでした。ある日、会社のクリスチャンの人に「教会に行きたいんだけれども・・・」と言ったときに、今の教会を紹介して頂きました。それからもう、12年通っています。主人共々もう10年ほど、奉仕もさせていただいています。

Mr.: 本当にタイミングよく、と言いますか、たまたま僕の部下に紹介してもらったんですね。カトリックだけはわかりましたが、メソジストもバプテストもわからない自分が教会に行くとは思っていなかったんですが、とにかく行ったところが今の教会なのです。初めて行った時には、びっくりしました。音楽はやかましいし、人は親切なんだけど、教会に対するイメージと違って・・・。

Mrs.: 太鼓やボンゴやギターやタンバリン 、でもプロ級の方のAmazing Graceよかったです。

Mr.: いやあ、耳が痛くなるほどで、ショックでしたね。

Mrs.: でも、今でも教会はそうですが、好きですね。教会は好き嫌いじゃないんですが・・・。でも、オルガンだけの教会よりも賛美している気持ちになります。英語がわからないからかもしれません。

Mr.: 私の場合は、その時の説教が心に残っているのですが、その基本はどこにあるかというと、NJの教会での1年目のメモリアルサービスと、その前の葬儀の時に与えられた言葉が残っていましたね。後から、ヨハネの14章の言葉だとわかるわけですが、「私はあなた方のために場所を準備して帰ってくる」という言葉でした。その時は単純にそれを受け取りました。普通だったら、そんな夢物語みたいなこと・・・と思っていたと思います。しかし、子供の死に直面して、どこに行ったのか、ということを自信を持って語っておられる、皆さんが本気で信じている、どうしてそうなんだ?という思いがありましたね。

Mrs.: 私が決心したのは、1周年のメモリアルサービスをした時なんですが、いま考えると、どうして1年以上も時間がかかったのかと思うくらいです。でも、その時はまだこだわっていました。親戚とか、友だちとか、その人達に対して、言わなければ言わないで済むのかもしれないのですが、それが気になってのばしのばしになっていました。主人は半年前にこちらで洗礼を受けたのです。こちらの教会でメッセージを聞いて、前に出たんです。でも、私は英語はわからないし、、まだその時は主人は、おまえも来い、とも、行こうとも言わなかったし。未だ先だ先だと思い込んで、1年経って、中野雄一郎先生が背中を押してくださって、一晩で決心しました。「いつまでも廊下で教室を眺めていても進級しないよ」と先生に言われて、飛び込んだのです。もちろん、それまで、聖書は読んでいましたから、すぐに決心出来たのですが。だから、皆さんがおっしゃるように感動して涙が流れて、とか、そういう経験はできなかったのですが、でも、やがてイエスさまの前に立たせて頂けるときには感動で涙があふれるだろうことを思い浮かべます。

Mr.: 私の方は全然妻とは違いまして、おっちょこちょいと言いますか・・・。

Mrs.: だから、主人が洗礼を受けてから、少しは変わってくれるかなあ、と思っていたのですが・・・。(笑)もう、亭主関白は変わらないし・・・。教会に行くと、みんなご主人達は奥さんのドアを開けてあげるのを見たりしているんですよ。椅子を引いてくれるとかね。ああ、クリスチャンってああいう風になるんだって。(笑)

Mr.: 私の場合は、教会に行き始めて、2ヶ月くらい経ったころですか。教会のメンバーの方が訪問して来られたんです。最初は断ったんです。教会のReach Outというプログラムで、最初に教会に行ったときに、住所と名前を書いたのですが、クッキーか何かを持って来られておいて行かれたと思います。その時は事前の連絡もなく、準備もできていなかったので、お断りしたのですが、それからまたしばらくしたら、また訪問があったのですが、今度は牧師が夫婦で来られました。それでお話をしたのです。わたしたちのことをお話ししましたら、「とにかく、飛び込みなさい、信じなさい、後はそれからでいい」ということを言われたんです。私も「こんなところでくよくよしているくらいなら、まず信じることだ」と思ったのです。そして、その時に信じるお祈りをしたのです。その瞬間に思ったことは、私は伝統も周りの人々もすべて失うんだということでした。そう思うと周りが真っ暗のように思えました。しかし、「信じます」と思ったときに、真っ暗な中に白い光のようなものが見えたように思いました。あとはまっしぐら、かどうかはわかりませんが、とにかくやっております。それが65歳くらいの時ですから、若い方々と違って、人生の大半をすごしているわけですから、それはもう一回生まれ変わるつもりになるのは大変なことです。

<信仰者としての歩み>
P: そして信じてから学ばれる、ということだったんですね。こういうことだったのかと。

Mr.: そうですね。悩んだこともありました。知れば知るほど重くなることもありました。クリスチャンになったら、もうわかっているものだと思っていろいろ話しかけてこられるわけですね。私はこれからいろいろ学びたいと思ってクリスチャンになったわけなんですが、周りはみんなわかっていることを前提に話してこられるんです。子供の頃から教会に来ている人々がたくさんいるアメリカの教会で、みんなの前で、「この田中さんは仏教、神道の世界から、すべてをなげうってクリスチャンになった」と非常にユニークな存在として、貴重な存在として紹介されて、期待を持ってみんな話しかけてくるんです。それは重荷でした。(笑)自分はどうかって自分ではある程度わかっている訳ですからね。そして、相談する人が近くにはいなかったですから・・・。

P: クリスチャンとして歩んでいる中で、神様がこういうことを通して支えてくださった、ということはありますか?

Mr.: 私の場合はこういう病気(小脳変性症)を持っていますから、いつ主に召されてもおかしくないので、この人生の中で生かされている中で、神の助けがなかったら、今ここにいないと思います。毎日毎日が生かされているなあ、という思いです。どのようにこの恵みにお応えしたらいいのか、わからないのが今の自分自身です。感謝しているのは、日常の小さなことから、アメリカに来たことも感謝だし、またこうしてノースカロライナに来たことも恵みでしたね。子供が亡くなったことも、子供は天国に行けたし、私も行くのだ、という大きな希望がありますね。ここは教会も近いし、教会を通して神を信じる人たちが、集って一つの場に生き、そこに私が置かれているのも大きな恵みだし、私生活に帰って、この神を信じる人たちのケアセンターにおられることも、この中で生きることを与えられていることも、「与えられている」と信じる僕を造っていてくださることも、妻と共に歩めることも、・・・私はクリスチャンになっても、ホントに余り変わっていないのですが・・・(笑)、彼女と共に歩めるのも、大きな恵みだと思います。こうやって先生達と仲良くなれるのも、誰かが作ったんじゃないですからね。

Mrs.: 私はイエスさまが共にいてくださるということだけで十分ですね。病気の時でも喜びの時でも恵みを数えることができるのですからね。恐れないでいいことですね。これからいろいろなことが起こるでしょうが、イエスさまが共にいてくださる、ということが何ものにも換えられないことです。こういうところ(Deerfield Retirement Community)ですから、お休みの度に家族の方が来られますが、いいなあ、と思ったりすることもあるのですが、喜ぶ人と共に喜び、悲しむ人と共に悲しみたい、とそのような願いが与えられたことが幸せだと思います。

Mr.: 市民権を取ってアメリカ人になるなんてことは、クリスチャンになる前には考えられませんでした。日本人は日本人、アメリカ人はアメリカ人だと思っていました。でも、クリスチャンになって、そんなことは全く問題ではないんだということがスムーズに受け入れられるようになりました。もちろん、日本は愛していますが、もっと広い意味で、神の国に生きるんだ、ピリピ3章20節にあるように、わたしたちの国籍は天にある、わたしたちの市民権は天にあるんだと思わされています。

Mrs.: この世ではわたしたちは旅人なんですよね。市民権は天にあるんですね。そんな気持ちを抱けるのは幸せですよね。私は4歳前に母親を亡くしたり、娘の死を経験したり、それらが試練だと思っていましたが、エレミヤ29:11「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」の言葉が励ましになり、支えになりました。戦争で家が焼けて、集団疎開をして、つらい思いをしたこともありました。父が再婚した母がとてもよい人で、守られたり、いい経験もあるのですが、どうして私はこんななのかなあと思ったこともあります。絵に描いたような幸せな人がいるのに・・・。それも神様のご計画のうちに置かれていたんだと思うとやはり希望が持てます。そして今、最近英語で覚えた聖歌、Turn Your Eyes Upon Jesusを愛唱しています。
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今回、このようにゆっくりお話をさせて頂くときが与えられて、信仰者としての田中兄姉の姿に励まされて帰ってきました。そして、陽子姉が天に召されたこと、それは本当にヨハネ12章24節の「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」その御言葉通りのことだったんだと思わされます。遠く離れて信仰を守っておられる兄姉のために続けてお祈りください。

月報2009年10月号より

「私は1930年にカルフォルニア州のオークランドで…」

私は1930年にカルフォルニア州のオークランドで、日本の秋田県からの移住者の両親の元に生まれました。そのころ、オークランドの日系住民達の社会生活は、プロテスタント教会か、仏教のお寺か、を中心に営まれていました。他の多くの団体がそうであったように、移住者達に提供されていたのは、宗教的なものであるよりも、ソーシャルな、また文化的な活動でした。ですから、そこでは特別に深い個人的なコミットメントを要求されるわけでもなく、自分が何の宗教を信じているか、ということについて、とても受け身的な意識しか持っていなかったと思います。そして、私自身、そのような大人の姿勢を見ていて、宗教的アイデンティティーについては、同じように受け身的な意識を持っていました。

第二次世界大戦の時に、日本人と日系アメリカ人が西海岸から強制収容されたときにも(私たちは、1942年から1945年まで、ユタ州中部に強制収容されました)、この宗教的な受け身の姿勢は続いて、何ら変わることはありませんでした。実際のところ、私は、強制収容所でも教会に行った記憶がありません。そして、1945年、私たちはニューヨークに引っ越してきました。

私の子ども時代、少年時代を通して、宗教一般について、余り真剣に捕らえてはいませんでしたし、もちろん、聖書を読んだこともありませんでした。聖書を読むようにと言われたこともありませんでしたし、私の両親も、普段は聖書を読んでいませんでした。そればかりか、私はすべての宗教というものに対して、軽蔑の念を抱くようになってきていました。この軽蔑の念は、1947年から1951年にかけて、City Collegeで学ぶようになって、更に強くなっていきました。大学時代、私は無神論を当然のように信じている左翼の政治サークルで活動するようになったのです。

私が最初に真に宗教的な経験を持つようになったのはFordham Universityで、イエズス会の司祭と共に哲学を学び始めてからでした。彼は、宗教的な純粋さと、哲学的な緻密さを併せ持っているように見えました。この司祭は私のヘーゲルについての博士論文のメンターであると共に、私のスピリチュアルな指導者でした。ですから、私にとってのカトリックの教えは宗教的であると同時に哲学的なものでありました。今日に至るまで、私は知的な関心と、霊的な関心とを分けて考えることはできません。これは、Fordham Universityでのローマ・カトリックと、イエズス会の哲学との両方にポジティブな出会い方をしたおかげだと思っています。

私は33歳の時に、イエズス会の司祭によってローマ・カトリックの洗礼を受けました。私は1962年にFordham UniversityからPh D.を受けて、Manhattan CollegeというChristian Brothersが経営するローマ・カトリックの大学で教えるようになりました。それからずっと47年間、Manhattan Collegeで教鞭を執っています。

しかし、2、3年のうちに、私はローマ・カトリック教会に失望するようになりました。それは、彼らが告白するキリスト教の理想と、無神経かつ物質主義的な実践との間の大きなギャップを目の当たりにしたからです。私はマルクス、ニーチェ、フロイド、サルトル、カミユなどについて学び、コースを教えるようになっていきました。

私が、妻あやえと出会ったのは、そんな時でした。彼女はNew York Universityで英語を学んでいました。私はそのころ、ポスドク向けの奨学金を受けてColumbia Universityで中国語と日本語を学んでいました。実は、彼女と私の父とがマンハッタンの日米合同教会で会ったのが始まりだったのです。彼女は日本でプロテスタントの洗礼を受けていました。彼女が私のプロポーズを受けてくれたときに、私はイエズス会の司祭に結婚式の司式をしてくれるようにと頼みました。しかし、私の教区の司祭は、ローマ・カトリック教会では、そのようなカトリック以外の人との結婚の時には、カトリックの儀式で結婚式を挙げて、子どもはカトリック信徒として育てなければいけない、と要求しました。私たちはそのような誓約書にはサインはできませんでした。そして、結婚式自体はカトリック教会でいたしましたが、娘はプロテスタントの教会で洗礼を受けました。

結婚してからは、私の父と妻と、娘とが日米合同教会に行き、私は家に残っていました。

1988年の夏に、ニュージャージーで始まったばかりの教会の初めてのファミリー修養会(リトリート)が持たれました。その時、妻は、自分では会場までどうやって行ったらいいかわからないから、車を運転していってほしいと頼んできました。まだ宗教というものについて反感を持っていた私は余り気が進みませんでした。彼女は集会には出席しなくていい、外をぶらぶらしていればいいから、とまで言います。そして、最終的には私は抵抗する思いを乗り越えて、修養会に出席したのです。驚いたことに、私がそこで会った人々、当時の正木牧師を始め、後藤さん、梅本さん、中條さん、催さんといったニュージャージー日本語キリスト教会の創立メンバーの皆さんは、親しく私に語りかけてくださり、またその信仰的に純粋な姿は私に深い印象を与えてくれました。韓国人であった催さんご夫妻は特に、私を歓迎してくださいました。その暖かさが私の抗う気持ちを溶かし、私はMaywoodにある教会に続けて集うようになっていきました。翌年には私はこの教会のメンバーになり、その後、教会が二つに分かれる危機の時には役員にもなったのです。

私の場合はサウロがダマスコへの道で経験したような劇的な出会いがあったわけではありません。それよりも、ゆっくりと、目立たないで、教会生活が浸透していくような歩みがあったのだと思います。キリストの愛を直接感じるよりも、教会のメンバーの生活を見ている中で神の臨在を感じるようになっていったのです。実際のところ、これが多くの人がキリストを知るようになるようになる道であり、最も効果のある伝道の方法であると、私は信じています。

私の人生で一番大きな危機は1997年の春にやってきました。私は67歳でしたが、中程度に進んだ前立腺ガンの診断を受けたのです。私は、同じような経験をした方々と話をして、手術を受けることにしました。そして、1997年6月に、radical prostatectomyという施術を受けました。その時には、教会の皆さんにお祈りをして頂きました。実際のところ、無理矢理、そのようにさせられたのです。礼拝の後に、人々が私の周りに集り祈ってくださいました。

手術の日、錦織牧師(そのころは牧師は空席で、錦織師は教育主事でした)は、私と共に祈るために、lower ManhattanにあるNYUのメディカルセンターに来られました。しかし、その時には私はもう手術の準備のために会うことはできませんでした。その日の午後、手術の後私がリカバリールームにいると、まだ麻酔が覚めない中で、イエス・キリストにお会いしたように思いました。しかし、それはもう一度病院まで来られた錦織牧師だったのです。今日まで、私はこれは幻覚ではなかったと確信しています。私は神様に、錦織牧師に、そして、私のために祈ってくださったすべての方々に深く感謝しています。私の回復は、ちょっとガスがたまった痛みがあった以外は、すべて順調でした。術後の傷の痛みも、合併症も何もありませんでした。5年以内に再発しなければいいというところ、手術から12年も経っていますから、私は統計的には完治した、ということになります。

78年間の人生、そして、クリスチャンとして、ニュージャージー日本語キリスト教会のメンバーとしての21年間、また2-3年のローマ・カトリックとしての日々、そして、宗教に対して無関心だったり、反感を持っていたりした数え切れない年月を通して、私の人生のすべては働いて最高に導かれたのだと確信しています。これこそが、「神の導き(摂理)」ということの本質的な意味だと思います。

マルクスやニーチェ、フロイドのような無神論者についての私の研究は、彼らの洞察力や、自由で制限のない、批判的な思索の価値を認めることによって深められていきました。同じようにローマ・カトリック教会とのつながりは、哲学を大切にすることと、組織の権威の必要性と危険性の両方とを教えてくれました。

最後に、クリスチャンの生活は、普通の限界の中に留めておくことはできず、マザー・テレサが、どうしてあなたは、カルカッタの路上で死んでいく人々、貧困にあえぐ人々を助けるために人生をささげたのか、と問われたときに、「彼らの中にキリストの顔を見るからです」と答えたように、限界を超えていくのだとわかってきました。

最後に証を終えるにあたって、私の好きな聖句を挙げます。

「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。」ローマ14:7

「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」 ローマ8:31、35、38-39

月報2009年9月号より

「主は私を造りかえてくださいました。…」

主は私を造りかえてくださいました。私にとって大きな「奇跡」を与えてくださいました。この「奇跡」は、聖書の中にも書かれているような、主がたびたび人々の間で行っておられたもの、また今のこの世の中でも起こりうる「奇跡」といわれているものとは違って、ある日ある時突然、というものではありませんが、私の場合はそれはそれは長い時間が必要でしたが、これも私にとっては「奇跡」と言えるものです。

私が洗礼を受けるまでの歩みを振り返るときに、「母」の存在が節目節目で大きな役割を果たしていたように思います。

日本で生活していた頃、私は教会との関わりは皆無でした。教会の建物の中に入ったことはありましたが、一度も礼拝に出席することはありませんでした。もちろん、聖書を読んでみたいとも思ったこともありません。でも、そんな中で、私の母は、クリスチャンではありませんでしたが、教会、讃美歌、聖書を良いものとして捕らえていたように思います。

このような私でしたが、この地、アメリカでは、違った者へと導かれていきました。ある時、クリスチャンであった私の知人から、教会の礼拝前の音楽サービスでバイオリンを弾いて一緒にお手伝いをしてもらえないかとの申し出がありました。バイオリンは、そもそも私の意志で習い始めた楽器ではなく、母の思い入れの強い楽器でした。そして、私はその申し出を引き受けました。そこで一年くらいはお手伝いをしていました。その期間はお義理で礼拝に出席していましたが、全く十字架の意味は理解していませんでした。

しかし、このような私でしたが、牧師さんのお説教なさっている姿に惹かれるものはありました。英語の苦手な私は、ジレンマを感じながらでも、何をお話ししているのかをしっかり知りたいという思いに駆られていきました。

そんなある日、別のクリスチャンの友人から、日本語で聞ける礼拝に来られませんか、というお誘いを受けました。お説教の中身に興味がありましたそのころの私は、すぐにお誘いを受け入れました。そこはピーター島田という牧師がしている礼拝でした。初めて出席した礼拝の終わりに、先生はおっしゃいました。「来週は、私が日本への伝道のために行く前の最後の週です。洗礼を望んでいらっしゃる方は是非申し出てください。」それを伺いながら、私にとってはまるで関係ない別世界のことと思っていました。

ところが、その週、不思議なことが起りました。日本から涙声で姉から電話をもらいました。母は、寝込むことこそしていませんでしたが、以前から、決して体の丈夫な方ではありませんでした。しかし、その時、病院に運び込まれて、診察したあとの医師の話で、あと半年持つか持たないかという弱った状況だとのことでした。それを聞いて、私は姉と共に電話口でただただ泣くばかりでした。

電話を切ったあと、私はこれまでにしたことのなかった祈りを、手を合わせて主に向かって真剣にささげました。涙を流した必死な思いの祈りでした。これが私の生まれて初めての主に向けた祈りでした。その時、頭をよぎる思いがありました。「私の思いを母に伝える架け橋になってくださるのは神様しかいない、私は洗礼を受けよう」。その時の私は、あきれるほど無知な者でした。洗礼の意味もわからず、聖書の中身も全く知りません。十字架の意味、人間の罪、悔い改めなども何も知りませんでした。もちろん、信仰告白もできません私でした。しかし、そのような私をピーター先生は快く引き受け、洗礼へと導いてくださいました。

洗礼式はそれはそれは一生忘れられないほど、私にとって感激的なものでした。一生分の涙を出したようにも思われました。その場で「神は愛なり」というお言葉も頂きました。感謝の念が体中に満ちました。それから間もなくして、不思議なことが起りました。母の状態が徐々に良くなり、回復に向かいました。そして退院できるまでになり、私のいるアメリカに来ることもできるようになりました。そして、おまけとして頂いた余生を2年くらい過ごすことができました。

このように洗礼に導かれたのでしたが、しかし、ここからがクリスチャン生活の厳しさを味わう時期でもありました。十字架の重み、御言葉に従う難しさ、祈ることの難しさ、主を仰ぐことの難しさ等が、次々に起ってくる私の人生の中での悩みが、まるで試験の中の難問への答えを生み出す時の苦しみのように耐えられないものでもありました。このような闘いの中でも、決して離れることのできない神の存在を、時には不思議に思ったりしていました。私が神を無視しようと思えば思うほど、私を離そうとしない神の愛を感じながら、まるでお米から良いお酒ができるように、主は長い長い時間をかけてゆっくりゆっくり発酵させて、私のくびきを負うために必要なものを、備え整えてくださいました。少しずつ霊の目が開かれていくような気もしていきました。成長へと導いて訓練してくださる目に見えない神の存在をまざまざと見せつけられたようでもありました。

そして、このような中で、牧師の口を通して語られる説教、聖書勉強、兄弟姉妹(※)との語らいの中で、十字架の意味、罪の赦し、恵み、御言葉のありがたさ、祈ることの大切さ、いつも感謝を忘れないでいることの大切さ、などの教えが深く深く心にしみこんでいくうちに、少しずつ少しずつ造りかえられていく自分があるという思いにかられました。今から思えば、すべての悩みが、私が造りかえられる貴重な機会であったと思います。

「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」                                  ヘブル12章11節

と同時に、私の心の中には、未だ曇りガラスのようにすっきりしていない思いもありました。あのような洗礼の受け方以外に私が洗礼を受ける機会はなかったのだろうか、何もわからないまま洗礼を受けて良かったのだろうか、という思いが、私を苦しめました。長い間、兄弟姉妹(※)の洗礼時の信仰告白を伺う度に、それが、信仰告白をしていない私を劣等感へと追いやるのでした。

そんな私に与えられたのがこの聖書の言葉です。

「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。」
伝道の書3章1節

私はこの御言葉によって慰められ、私に合った時に私は洗礼を受けたのだという確信を持つことができました。

しかし、主はいろいろな出来事を通して、もっともっと私を強く訓練してくださいました。決して私の思いが主から離れなければ、主は私の道を備えてくださると。
私は元々マイナス思考の強い人間でした。それがプラス思考へと造りかえられていくのが自分でも強く感じます。もちろん、今の自分の姿が100パーセントプラス思考だというのではありませんが、御言葉の強いメッセージから与えられる慰め、励まし、戒め、愛を通じて、私は自分自身の殻を砕き、こだわりから解放されてプラス思考へと変えられていきました。まだまだその途上ですが、冒頭に書きましたように、このことが私に起った「奇跡」です。

私は、私の祈りが主に聞かれるという時は、私の信仰が主の御心にかなうものであれば、いつでもそのようになる、という思いに立たされています。私の信仰は「ウサギとカメ」の話の中のカメでありたいと常日頃思っています。到達点までの道のりを焦らずに大いに楽しんで、悩んで、独りよがりにならず、常に主にお伺いして、いつでも人に対して、喜んで差し上げる愛を与えられる人間でありたいと願っています。

まだまだ信仰に対して未熟者ですが、主にあって自分がいるんだという思いに感謝します。

※教会ではキリストにあってわたしたちは家族なのだという思いで互いのことを「兄弟姉妹」と呼ぶことがあります。

月報2009年8月号より

「小さい頃の私はとても怖がりで、…」

小さい頃の私はとても怖がりで、寝ている間に地震・雷・火事が起こらないよう、また泥棒も入らないようにと、“かみさま”(この頃はまだ聖書の示す唯一の神様のことを知らなかったのですが)にお願いをして、どこで覚えたのかわかりませんが、地震の分10回、雷の分10回、火事の分10回、泥棒の分10回、と数えながら胸の前で十字を切ってから眠りについていました。小学校4年生の時、同じクラスの友達に誘われて教会学校に通い始め、そこで教えられた神様を何の疑いもなく信じるようになり、夜寝る前のお祈りも自分で考え出した方法から、教会学校で教えられた神様へのお祈りに自然に変わっていきました。教会学校では、聖書の言葉とイラストが入った小さなカードをご褒美としてもらうのを楽しみに、毎週欠かさず暗唱聖句をしていましたが、その聖書の言葉の意味はほとんど理解していなかったと思います。それでも自分を愛し守ってくださる神様がいらっしゃるということだけは確かに信じていました。

その神様が私を罪の刑罰から救うためにイエス様を身代わりとして十字架につけられたことを心から信じたのは、中学生のために持たれた夏休みのバイブルキャンプに参加した中学2年生の時でした。自分が罪人であることを聖書を通して示され、その罪の刑罰から救うために、私の身代わりとなって十字架で苦しみを受けられたイエス様を自分の救い主として受け入れました。

幼い頃から心の中に蒔かれた信仰の種は、それからしばらくは純粋に神様の望まれるように生きたいという思いを与えられ、何の障害もなく育てられて行きましたが、次第にいくつかの問題にぶつかっていくようになりました。野球が大好きだった私は、高校で野球部のマネージャーとしてはりきっていましたが、春から秋まではほとんど毎週日曜日に試合があり、礼拝に出席できない日が多くなっていきました。礼拝をしばらく休むと教会に行きづらくなり、試合のない日でも礼拝に行かない時がありました。教会の高校生会の先生から礼拝に出席するようにと電話がかかってきますし、何よりも神様が私に望んでおられることはわかっているのですが、言われれば言われる程、それをうっとうしく思うようになり、不遜にも「私のことはもう放っておいてください。愛してくださらなくて結構です。」と思うようにまでなりました。それでも教会の先生や友達からの連絡は続き、心の中で色々な葛藤を覚えながら聖書を読んでいたある日、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2章8節)という御言葉を読んだ時に、神様の愛にギブアップせざるを得ませんでした。なぜか心が素直になり、神様が賜物(プレゼント)としてくださるものを黙って受け取ろうと思いました。
その後、できる限り教会に行くようになり、しばらくして洗礼を受ける決心を促されました。当時一緒に暮らしていた祖母がとても熱心な仏教徒でしたし、日常の生活の中で多くのことが当たり前のように仏教のしきたりで行われていた7人家族の中で、高校生の私がただ一人のクリスチャンとしていくつかの問題にぶつかることは容易に予想できましたし、とてもそのことを戦い抜く勇気がありませんでした。祈りつつも、「自信がありません。」と告げると、教会の先生は「クリスチャンとして完全になったから洗礼を受けるのではなく、イエス様を自分の救い主として信じ、神様から助けをいただきながら、神様とともに歩んでいく決心を表すことが洗礼を受けるということなのです。本当に神様に頼って生きるなら必要な助けは与えられます。」と教えてくださり、洗礼を受ける決心をしました。

洗礼を受けるまでも、また受けた後でさえも、捨てきれない自我やプライド、その裏返しのコンプレックスに苦しんだ時期が多くありましたが、ありのままの私を「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」(イザヤ書43章4節)と言ってくださる神様の愛により、また、「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力がわたしをおおうために、むしろ大いに喜んでわたしの弱さを誇りましょう。」(第2コリント12章9節)の御言葉により、小さく弱い自分を受け入れることができるように変えられました。また自分の思い通りに事が進まないと気がすまなかったのですが、「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。-主のみ告げ。-天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ書55章8~9節)と言われる神様に全てを委ねることができるようになり、平安が与えられるようになりました。

こどもの頃、教会学校でよく歌っていた賛美歌の中に「やさしい主の手にすべてをまかせて旅ができるとは何たる恵みでしょう。」という歌詞があります。小学生の時に教会学校に通い始めた頃から主の手に引かれてここまで導かれてきたことを心から感謝します。今までもこれからも変わらず愛し導いてくださる神様を信じて、平安の中に歩み続けたいと願っています。

月報2009年7月号より

「私はもう大丈夫、といつの日か神様に背を向け、…」

私はもう大丈夫、といつの日か神様に背を向け、毎日慌ただしい生活を何年も過ごしていました。そんなある日(2008年8月)突然の母からの電話でした。その頃私は、すべてがうまく順調に行っているかのような生活(もちろん、悩み・問題は山ほどありましたが。)でしたので、父の事は、穏やかな海に突然襲う災害の様でした。私は娘たちを主人と義母に頼んで、すぐに帰国しました。ICU(集中治療室)に寝ている父は、幾つもの管が頭や体を通り、顔や体中は膨れ上がり、すっかり変わり果てていました。そしてその父の膨れ上がった手をしっかりと握りしめ、このまま父を失ってしまうのではないかという不安と恐れでいっぱいの母や兄妹と父に、この様な状況ではありましたが、会うことができたことを、忘れていたはずの神様に少しだけ心を向け、感謝しました。今まで長い間、神様を無視し、周りにあるこの世のものに満足し、自分の物事がうまく行かない時、ちょっと苦しいなぁと思う時、自分が必要な時だけの神様でした。アメリカに帰って、短かった2週間の滞在を振り返って、この様な悲しい状況ではありましたが、約5年ぶりに父や家族に会えたこと、そして家族をはじめ、周りの皆が人生の中で何かしら問題を抱え、心を痛め、悩み苦しみ、その解決が見つからず、他人には関係ないことだと一人で我慢して苦しんでいること、自分がその場に接した時に、自分の力ではどうしようもなく、何もできないものであること、そして、道行く人々の生活は慌ただしく、外面的な必要は満たされても、自分中心の自分勝手な悲しい生き方だなぁと思いました。まさにその姿は、私自身の姿なのでした。
「 顔が、水に映る顔と同じように、人の心は、その人に映る。」箴言27章19節

そして、病院に入れ替わり立ち代わり来る多くの人たちを見て、一人ひとりが何らかの理由を持ってこの病院に訪れていること、患者さんやその家族たちの信頼に懸命に働くお医者さんや看護師さん達、その背後で働かれている多くの人達、温かく見守る患者の家族達や見舞い客の人達、また中には、見舞いの来ない一人ぼっちの寂しそうな患者さんたちを見て、そこに来る一人ひとりが弱い人達(患者さんや病の人を持った家族に人達)の立場に親身に寄り添って人を思いやり、支え、慰め、励まし合う愛がそこに一番にあったこと、そしてその愛は、私が背を向けて無視していた神の愛なのでした。

「 世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」 ヨハネの手紙第1 3章17~18節
「 神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」 ヨハネの手紙第1 3章23節

自分がいかに自分中心の身勝手な生活をしていたか、今まで周りを見る余裕もないほどに、自分は・・、自分が・・、自分の・・、自分に・・、の毎日だっただろうか。そして私はもう大丈夫なんだと高慢になり、人を見下げ、人を思いやることなど米粒一つほどもない情けない者でありました。

「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』」 ルカの福音書23章34節

と言われたイエス様が、十字架の上で、私の罪のために身代わりとなって死なれ、その流されたあがないの血によって、信じ、救われた恵みに感謝しました。

1994年4月には、恵みによって受洗に与り、神様があふれんばかりの恵みを与えてくださり、内側からの本当の喜びに満ち溢れていました。しかし、数え切れない恵みもいつの日か自分だけのもの、そしていつの日か神様の存在さえ忘れていました。その神様をどんなにか長く悲しませていただろうかと心の目が開かれ、その愛に埋もれ、立つことすらできず、子供の様に泣きじゃくり(迷子の子がやっとお母さんに会えて抱かれて安心して泣いているかの様に)悔い改めました。顔を上げると窓一面にどこまでも広がる青い空が眩しい位輝いていて、吸い込まれるように見上げていると、月報の表紙にあったあの御言葉が心いっぱいに広がるのでした。

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」 詩篇46篇10節 (2008年御言葉)

わたしはここにいる。お前がいかに小さく弱いものであり、無力であるかを知れ、と、それは大変深く、大変重く、大変力強い語りの様な響きの様なささやきの声でありました。神様の目から見る私は、本当に小さな者であり、完全に弱く、無力である自分であることを認めずにはおられず、教え、知らされました。

「私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。」 伝道者の書 3章14節

どんな時にも決して変わらない愛で、こんな私をも愛し続けてくださっていた神様。また、あわれみ深い神様はすでにこの愛の教会をも備えてくださっていたこと、その背後にはイエス様が粘り強い忍耐を持ってこんな私のためにとりなしていてくださっていたこと、そして教会の愛する先生、愛する多くの兄弟姉妹達がずっと祈り、支え続けていてくださったことに心より感謝致します。

「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」 ヨハネの福音書 10章3~4節

毎週礼拝で先生を通して正しく、大胆に御言葉が語られ、その命の御言葉をいただき、いつも私の助けとなり、力となり、生きているのではなく、生かされていることに感謝致します。

「神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」 ヨハネの福音書 6章33節
「イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。』」 ヨハネの福音書6章35節

自分一人でクリスチャンであること、教会を離れてクリスチャンであることはとても難しいことであり、神の家族の一員として常に主が共にいてくださっているこの愛の教会で、
お互いに温かさと光を分かち合い、また、こんな私を覚えていてくださり、祈っていただいて、今は色々な事情でお休みしている愛する兄弟姉妹の皆様方を覚え、お祈りさせていただき、共に分かち合い、共に神様を礼拝することができます様に。

「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」 コリント人への第1の手紙 12章27節

これからもイエス様の十字架の愛を覚え、これからも共にイエス様のことを少しでも多くの人々に伝え、神様が私たちのためにしてくださったすべてのことを人々に分かち合うことができますように、共に神様の御心に生きて従う小さな器として用いていただき、仕える者とさせていただきたいと日々、そのようなものに新しく変えられ、主に喜ばれる正しい歩みができます様に続けてお祈りください。

「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。」 ローマ人への手紙 10章14節

月報2009年6月号より

「先月号の月報に掲載された…」

先月号の月報に掲載された住田美香姉(※)のお証しを私が最初に聞いたのは、3月のレント集会の場所でした。お証を伺いながら、「ずいぶん昔、私にも似たようなことがあったなぁ。」と、様々なことを思い巡らしていました。神様は美香姉の証しを通して、私に忘れかけていたことを思い出させ、神様がどのように私の人生に介入して下さったかを改めて確認させて下さったのです。

美香姉と同じような経験をしたと言いますのは、私にもどうしても入りたい高校があったということです。その学校でなければ駄目だと思っていました。とても仲の良かった友人も同じ高校を志望しており、入りたい部活も同じだったことから、高校生になった時の自分達の姿を想像しては将来のことについて二人でいつも語り合っていました。学校の先生からも塾の先生からも「絶対に大丈夫」という太鼓判をもらっており、自分でもそう信じていました。しかし、試験当日は、どの教科のテストを受けていても手応えがあまりないのです。「あれ?どうして?こんなハズじゃないのに、、、」と思うような問題が少しずつありました。自信のある教科でもそうでした。「え?もしかしたら、私、駄目かもしれない?!」というような思いが何度も頭の中をよぎり、焦りを感じながら問題を解いていたことを今でも鮮明に覚えています。試験が終わり、合格発表の日までの間、私は真剣に祈りました。「神様、絶対にあの学校でなければいけないんです。今まで私は一生懸命がんばってきました。どうぞ、この努力に報いて下さい。合格して神様の栄光をあらわして下さい。」と、何とも自分勝手な都合の良い祈りだったでしょうか。祈りながら、「やはり不合格なのでは?」という思いが湧いてきて、それを打ち消すかのように、ガチガチになりながら何度も何度も同じ祈りを繰り返していたように思えます。それは、とても苦しい祈りでした。しかし、ある瞬間から「やるべきことはやりましたから、あとは神様にお任せします。どのような結果が出たとしても、それが神様の御心だと思えるようにして下さい。」という祈りに変えられ、それからは一気に気持ちが楽になったのです。そして合格発表の日、私は親友と共にその高校へ向かいました。私の中には相変わらず、「もしかしたら駄目かもしれない。」という思いはありましたが、心は平安でした。その思いは見事に的中し、合格掲示板には私の受験番号は見つかりませんでした。しかし、それがわかった瞬間、不思議なように解放感と爽快感が与えられ、「あの(滑り止めで受けていた)高校へ行くのだ。」という前向きな思いに早々と切り替わっていました。そのように思えるように、神様が私の心を守って下さったことを感謝しました。一緒にいた親友は合格していたのですが、「同じ学校に行けない。」と言って泣き出し、私が友人を慰めるという始末でした。親に報告の電話をかけた時も、落ち着いていたように思います。その日の夜、中学の担任の先生から電話をいただきましたが、試験の結果に先生もショックを受けているようでした。その時の15歳の私なりに感じたことは、「人間が言う“絶対”というものは無いのだ。自分の力、人間の力というのは、いかに小さく当てにならないものなのか。神様に委ねることは難しいけれど、委ねた時に神様は平安を与え道を開いて下さる。」ということでした。私が入学した高校は、ミッションスクールの女子校で、のんびりとした校風でした。友人にも先輩にも恵まれ、やりたかった部活動にも熱中し、充実した高校生活を送ることができたのは、やはり神様が私をそこへ導いて下さったのだと思わされます。

さて、大学受験ですが、先にも言ったように、私の入学した高校はのんびりとした校風で、“受験戦争”などというような雰囲気を殆ど感じさせない学校でした。そんな中で過ごした私は、自分の実力を知っていましたし、でも妥協はしたくないという思いもありましたので、初めから現役での合格は狙っておらず、高校卒業後は予備校へ行くつもりにしていました。今はどうかわかりませんが、あの頃は「予備校に行くのは当たり前」みたいな風潮があったのです。予備校生活は本当に楽しく充実したものでした。各地の高校から集まった今まで会ったことのないような様々なタイプの人達、2浪または3浪している先輩達は経験豊かでとても大人に見えました。あっという間にたくさんの友人ができ、多くのことを語り合い、とても良い刺激を受けました。講師の先生方の講義も興味深く、学ぶことは山ほどありました。信仰の面でも、本当の救いの喜びがわかり、クリスチャンの友人が与えられ、燃やされました。たくさんの友人を教会に誘いましたし、水曜日の夜の祈祷会も欠かすことがありませんでした。ところが、私の心の中には大きな問題があったのです。それは、自尊心・プライドの高さ、価値観の貧しさです。確かに学びたいこと、入りたい学部はありました。しかし、私にとって、大学で何を勉強するかよりも、有名大学へ行くことの方が大切だったように思われます。有名大学に入れないのならば行く意味がない、東京の有名大学だけしか受験したくないと思っていました。結果を言いますと、私は予備校生活を2年間送り、東京の有名大学だけを受験し、そして見事に全敗しました。あれだけ受けたのですから、一つくらい受かっても良さそうなものですが、どの大学からも合格通知は届きませんでした。「大丈夫だろう」と思っていた大学にも受かることができませんでした。そうして、アメリカの大学に進むことになったのです。アメリカへは中学2年生の夏休みにホームステイで来たことがあり、「いつかまたアメリカへ行きたい。大学を休学してアメリカの大学に留学するか、大学を卒業してからアメリカで勉強してみたい。」などと、漠然には考えていましたが、その時の私はどうしても東京へ行きたい、日本にいたいという思いがありましたので、すぐに日本を離れるということは全く考えられませんでした。しかし、神様は私のプライドをガタガタに崩し、私に恥をかかせ、そして日本では行く場所がないというところに追い込むという方法をとって、私をアメリカに送りました。そのようなことがなければ、日本を離れる決心は到底つかなかったでしょう。

あの挫折を経験してから早いもので21年が経ちましたが、いま思えることは、もしもあの時日本の大学に行っていたならば、たとえクリスチャンであったとしても、自分の価値観はどのようなものになっていただろうか?どのような人生を送っていただろうか?ということです。私は最近まで自分の学歴にコンプレックスを持ち、日本の受験に失敗した結果アメリカの大学へ入ったことを人に話すことをしませんでした。けれど、今は違います。確かにあの時、神様が働かれ、このアメリカに導いて下さった。神様は私の人生に計画を持っておられる、ということを確信できるようになったからです。私をアメリカに送り出して下さった神様は、私をこの地へ導き、更にはこの教会へも導き、そして仕事も家族も生活の基盤も与えて下さいました。これから先、神様が私を、また私の家族をどのように導かれるのかわかりませんが、今までもそうであったように、この聖書の御言葉を心に留めて神様に委ねて行きたいと思います。

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ。―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』(エレミヤ29:11)

まだまだ自尊心が強く、足りない者ではありますが、最近経験したこと、職場における出来事、与えられた聖書箇所、勉強会での学び、礼拝のメッセージなどを通して、いかに自分が傲慢であるということ、砕かれなければならない存在であるということを改めて示されています。神の子であられるイエス様が、弱く小さな赤ん坊の姿をとって貧しい馬小屋でお生まれになられたように、自分を低くし仕える者とさせて頂きたいと心から願い祈らされています。

※教会では、互いにキリストにあって兄弟姉妹という意味で、男性なら~兄、女性なら~姉という呼び方をするときがあります。

月報2009年5月号より

「3月8日の礼拝で、木戸ブライアン先生の…」

3月8日の礼拝で、木戸ブライアン先生のメッセージの中で語られた「私達はいつ神様に頼ることができるのだろうか」という言葉が心に残りました。その後の中高科のクラスでの分かち合いの時にも、「神様に信頼することの難しさ」を感じました。
私は小さい頃から母と妹とこの教会に通っているので、私にとって神様とイエス様の存在は「なんとなく」当たり前と言うか、いつも存在している、神様のいない世界は考えられないくらいです。でもそれだからと言って、神様に頼るということは簡単ではありません。やはり小さな頃は感情的にだけ神様を信じていて、知識的に信じていないところがあったと思います。ファミリーキャンプの中高科の集会の時にある先生から、「感情だけで信じていると、何かの時にそれが崩れてしまう。頭でも神様を信じていないと、どこかでこけてしまう」という話を聞きました。強い信仰を持つためには、知識も持っていないといけない。それは何故かと言うと、私達の感情はいつも変化しているし、感情は何にでも変わってしまうから、感情ではなくて知識を土台にしないと、本当に神様に信頼することができないということです。
私なりの考え方はこんな感じです。私達は皆「重力」を信じています。今ここでボールを持ってテーブルの上に放すとそのボールは落ちてしまうから、それを見て「ああ、重力は本当にあるんだな」と信じている。けれど、何故そうなるのかは学校で重力について勉強しないとわからないし、物理を勉強して地球と太陽の関係を学んで重力の法則を理解することができて、それで初めて確信をもって「このボールは落ちるんだな」と信じることができるのです。
でもそれとは違って、知識的に神様を信じるということは、やはり難しいことだと思います。学校では理科の時間に「進化論」のような非聖書的なことも習っているし、友達と宗教について話をすると異なった考えの人もいて、自分の中でもどこかで説明できていないところがあるとフラストレーションを感じていました。ファミリーキャンプの先生から、「旧約聖書の中には、キリストの誕生から復活までとても多くの預言が書かれているけれど、それを一つ一つ読んでみるとどれも本当にキリストにあてはまっている」と言われました。確かにすべての預言は無視することのできないほどの多くの証拠となっていることに気づいて、それによって私はキリストを確信することができたんだなと思います。私をこのように導いてくれたキャンプの先生にとても感謝しています。
神様に頼るということは本当に難しいことだと思います。錦織先生もメッセージで何度も話してくださいますが、トラブルや思い煩いだけではなくすべてを神様にお捧げしなければだめだし、自分の夢や希望、計画もすべて捨てて神様に頼るということは、私にとって難しくてとても怖いことに思えたからです。
私はあと3ヶ月で高校を卒業します。振り返るとこの4年間は私にとってとても楽しい4年間でした。多くの友達に出会えたし、いろいろなクラスでたくさん勉強することができたし、いい経験もたくさんしました。しかし、実は私は8年生の時、今通っている高校には絶対進学したくないと思っていました。Bergen Academyという学校がとても気に入っていて、それ以外の学校には行きたくありませんでした。入学試験があって私は筆記試験は合格しましたが、その後の面接と楽器演奏のオーディションで落ちてしまいました。学校の先生や友達からも「美香なら入れるよ」と言われたりしていたこともあって、不合格となった時はとてもショックで、「神様、どうして?なんで?」としか思えませんでした。そして不本意ながら、町の公立高校へ進学することになりました。
今になって振り返ってみると、Bergen Academyに進学していたらそれなりに高校生活を楽しんでいたと思うけれど、Pascack Hills(通っている高校)で経験できたようなことを得ることはなかったのではないかと思います。Pascack Hillsは公立高校だからいろいろな人達がいます。いい人もいれば、ドラッグをやっているような生徒もいます。様々な違った考えを持った人達にたくさん出会えたことがPascack Hillsでのすばらしい経験のひとつです。4年間すばらしい先生の指導の下でコンサートバンドのメンバーとして演奏することができ、また今年はマーチングバンドの指揮者になったり、リンカーンセンターのユースコンサートでの演奏と大好きな音楽でもすばらしい経験ができました。8年生の頃の私にはこんなすばらしい4年間が待っているなどとは当然予想することはできなかったし、たとえできていたとしても、自分が思い描いていたのと違う学校に進学するということに納得できていなかったと思います。今になって考えると、あの時の私は神様のことを聞いていなかったし、神様を信頼することができていなかったと思います。自分で自分の将来を決めようとしていたのだと思います。
去年の夏、6週間の数学キャンプに参加しましたが、その2週目の時、「私はそんなに数学できてなかったんだ。数学ってこんなに難しかったのか」と心細くなった私は、友達が与えてくれた御言葉にすごく励まされました。
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」(伝道者の書 3章11節)
今、私はどの大学に進学するかという大きな選択をしなくてはなりません。「あそこに行ったらこういうことをしよう」と計画を立てるのが好きな私には、神様にゆだねるということはとても難しいことに思えます。たくさんある夢や計画をすべて神様にゆだねるのはやっぱり怖いです。しかし、8年生の時、私は自分の望んでいたのとは違った道に進むことになったけれど、それは神様が私に与えてくれた道であって、その道を進んだことによってとてもすばらしいことがたくさんあったし、後になってみるとそれは美しいということがわかります。そして、その経験によって現在のこういう自分が在るのだと思います。今、私はそのことを神様に感謝しています。この経験があるので、進学する大学を決める時も8年生の時のように「絶対この大学」とは考えずに、神様にゆだねて、神の導きを信じて進んでいきたいと思っています。

月報2009年4月号より

「主の御名を賛美いたします。…」

主の御名を賛美いたします。

3年前の私の病気に際して戴いた教会の皆様のお祈りにあらためて心から感謝します。

2006年2月の末、私は東京の自宅から徒歩3分の所に新設された順天堂大学医学部付属病院で総合的に身体検査を受けました。今後この病院にお世話になろうと思ったからです。

その結果、大腸の上行結腸に3CMくらいのガンが発見されました。私の友人には大腸ガンを切り取って元気に暮らしている人が何人もいるので「あなたはガンです」と言われても「ああそうか、切ればいいんだ」と思っただけでした。しかし「あなたは糖尿があるし、心筋梗塞もしているので、手術にはかなりのリスクが伴います」というので「どんなリスクで確率はどれくらい?」と聞くと、「5分5分の確率で手術の最中または直後に心筋梗塞や脳梗塞を起こす恐れがあります。病院としては、もしそうなってもすぐ対応する準備はしますが」とのことです。これにはちょっと暗い気持ちになりました。

私自身は本来体が弱く60歳くらいまで生きられればいい方だと言われていたのに、もう75歳だから今死んでも十二分に元は取れている。今目標としている日本人男性の平均寿命78歳だってもう目と鼻の先だ。だから死ぬのはそれほど怖くありません。それでこのままにしていて残された寿命はどれくらいでしょうか?と聞くと「2年間は何も起きないでしょう、3年目も大丈夫かもしれない、4~5年目には必ず腸閉塞になって苦しんで死ぬでしょう」とのこと。最後に苦しむのは困るけど、それだけ時間があるなら手術は受けまいと決めました。

その後いろんな方とお会いする機会がありましたが、みんな私も家内も元気そうで明るい顔をしていると驚かれたそうです。とてもガンの「宣告」を受けた人とは思えないと言うのです。それは私にはとても不思議に思えました。しかし私たちが平安を保てたのは私たちがクリスチャンであることにあると気付かされました。勿論、年齢的なことも大きかったと思いますが、私たちには既に天に永遠の命が用意されているのだということが無意識のうちに死を恐れない安心感を戴いていたのだと思います。

ただ私は何もしなかったわけではなく、3月初めに帰ってくる予定を5月初旬まで延ばし、かねてよりガン治療に著効があると聞き知っていた温熱療法に丸2ヶ月通いました。また、この間、気功治療も受けました。その後、6月に新谷先生の内視鏡検査と転移の有無を調べるCT検査を受けたところ、「ガンは治っていません。今なら転移はないようだからリスクはあっても取ってしまった方がいいですよ」と言われました。ここでも私は手術を拒否、そこで、新谷先生は「では10月にもう一度診ましょう。その時治っていなかったら切る他はありませんよ」と言い残して日本に行かれました。

10月に受けた再検査で私のガンが快方に向かっていないことが確かめられ、新谷先生は私に有無を言わせず、その場で手術担当医のアポイントをとり、アレヨアレヨと言う間に、11月1日の入院手術が決まってしまいました。そして手術。私は麻酔にsensitiveだから気をつけてと言っておいたにもかかわらず、2日の朝まで覚醒せず、その間に心筋梗塞を起こしてしまいました。でも、私は目が覚めて神さまに感謝しました。ガンは取れた、そして、心配していたside effectは心筋梗塞でよかった。
実は私は入院の前にお祈りしたのです。「神さま、私に何か起きるのでしたら、脳梗塞だけはならないようにお願いします。もし脳梗塞になるのでしたら、すかさず天に召してください」と。弟を脳梗塞で亡くした私は、脳梗塞のつらさと家族にかける負担の大きさを身にしみてわかっていましたから。こうして2週間後、私は晴れて退院しました。

この経験を通して私は神様に守られていることを実感しました。第一に初期の段階でガンが見つかったこと。第二にガンと聞いても平安を保つことができたこと。第三に代替治療もトライしてうまくいかないことを納得した上で新谷先生が背中を押して手術に向かわせてくださり、ガンの恐れを取り去ることができたこと。第四に脳梗塞を回避できたこと。そしてもう一つ、子供たちが誰か一人付き添いに来ることを相談し、日頃余りコミュニケーションのない一番下の娘が飛んできて、私と家内のサポートをしてくれ、また、ゆっくり話をする貴重な時間を持てたこと、これらはすべて神さまのみ恵みによるものと言う他ありません。本当にクリスチャンであることの喜びを感じて感謝しております。

月報2009年2月号より

「アメリカ滞在も思いがけなく長くなりました。…」

アメリカ滞在も思いがけなく長くなりました。初めての駐在でNew Yorkに来ましたが、その後、2度目はHouston、3度目は又、New Yorkでした。3度目の駐在の話が持ち上がった時は、子供たちと日本に残る積もりでした。長女は高校生、長男は中学生になっていて、日本の生活にやっと慣れて、もうアメリカには行きたくなかったこと、主人のお酒の問題があったことでした。主人は一人で行く積もりでいたところ、2つの条件が出されました。それは 「お酒を止める事」と「家族同伴」ということでした。これまでの2度の駐在で、お酒の上での問題が多々あり、上司がこの条件を出したのでした。

結婚してから、主人がずいぶんお酒飲みだということを知りました。最初のNY駐在時は多くのお酒の上での武勇伝を残し、帰国時には、「加藤はピアノバーを一軒持つほど飲んだ。」と言われ、Houston駐在の時はますますひどく、連日泥酔状態で車を運転して帰ってくるので、心配で眠れずにいても、「酔ってなんかいない。うるさく言うな。寝ていろ。」と、取り合わず、いつも喧嘩になってしまいます。子供たちは海外転勤の度にとけこむまでの苦労、ようやく慣れて楽しくなった頃に帰国、の繰り返しの中で、家庭を顧みない主人への怒りと不満がいっぱいで、どこにこの思いをぶつければよいのか分からない毎日に、子供たちに怒りをぶつけてしまうような日々でした。主人を憎むようになり、離婚を考えましたが、子供が学校を出るまで、と言い聞かせて過ごす毎日で、家庭は崩壊をたどる一方でした。そして帰国。子供たちは帰国子女の受ける様々な悩みを体験しながら、それでも3年経ってだんだん日本の生活にも馴染み始めた頃に3度目の転勤の話でした。長女は大学受験の準備も始め、秋の修学旅行を楽しみにしていて、長男は中学で得意の水泳で力を現し始めた頃でした。主人は日本に帰ってからも相変わらずの深酒で、真夜中に酔って意識をなくすほどになってタクシーの運転手に担ぎこまれるような毎日で、お酒とタクシー代に家計費も消えてしまうような経済的にも苦しい生活で、3度目の転勤には全く一緒に行く積もりはありませんでした。

その頃、テレビで「くれない族の・・」というドラマがあり、くれない族というのは、ああしてくれない、こうしてくれない、と言う主婦たちのことだと知り、私もそうだなあ、と思わされていました。分かってくれない、家族のことを考えてくれない、子供たちのことも協力もしてくれない・・と、不満ばかりで、では、私は主人のことを理解してあげようとしただろうか、何をしてあげてきただろうか、と考えるようになりました。お酒を止めるという条件を受けるのなら、家族同伴という条件も受けて、もう一度なんとかやり直すことが出来るかもしれないと思い、子供たちを説得して、1986年9月、3度目のアメリカにやってきました。

しばらくは主人はお酒を飲まずにいましたが、又、飲み始め、連日、酔っ払って朝帰りをするようになりました。子供たちも暗い表情で学校に通い、長女は日本の高校生活、友達を思って、落ち込んで頭痛や腹痛で学校を休み、泣いて過ごす日々で、どうしたらいいのか途方にくれる毎日でした。日本を発つ前にクリスチャンの友人が聖書を下さって、ピリピ書4章6節を開いて示してくれました。「何事も思い煩ってはならない。ただ、事々に、感謝をもって祈りと願いをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るであろう。」とありました。神の平安とはどういうものだろうか、と思いました。子供の頃、家の裏に教会があって、礼拝にも出ていたことがあったのですが、その頃には聖書を持っていたことすら忘れているほどでした。けれど、そのすっかり忘れていた学生時分の聖書が持ってきた荷物の中にありました。又、その頃読み始めていた三浦綾子さんの本を読んでいるうちに、聖書を読みたい、知りたい、と思うようになりました。そんな時に聖書を読むという家庭集会に誘われました。当時Philadelphiaにおられた島田牧師が近くに来られたその集会の日は長女が頭痛で学校を休んでいたのですが、先生とみなさんが手をつないで祈って下さって、帰ってみると娘はさっぱりとした顔つきで本を読んでいました。祈りがきかれた?・・・と不思議な気持ちがしました。次の集会の時に、誘ってくれた友人と12月のクリスマス礼拝の時に洗礼を受けることになってしまいました。なんの準備もなく突然、洗礼ということになり、戸惑いを覚えましたが、娘も一緒に受けたい、と言います。ふと思い出しことは、Houston時代に近所の教会のサマーキャンプに娘を入れた時、帰ってきた娘は「私、イエス様を信じて神様の子供になったの」と言っていたことでした。そして1987年クリスマスに、友人と娘と一緒に洗礼を受けました。自分の中にこれ程の涙があったのか、と思うほど涙があふれて止まりませんでした。心の中の怒り、悲しみ、憎しみなどが涙で洗い流されるようでした。

洗礼を受けた後は、全てが輝いて見え、嬉しくて仕方がなく、神様が下さる平安というのが分かりました。でも主人はと言えば、相変わらずの深酒で、やめたいと思ってもやめられないでいるみじめな姿に心が痛みました。断食して祈ろう、と思い始め、4月のある早朝から、「神様、主人を捕らえているお酒から解放して下さい。哀れんでください。」と外を歩きながら涙で祈りました。祈り始めて3日目くらいでしょうか。朝帰りの主人が、お酒を止められない、と絶望している時に、島田牧師と会う機会が与えられました。話の後で、先生の後をついて信仰告白の祈りをしたそうです。その日からお酒を口にしなくなりました。飲まなくなったのではなく、飲めなくなったのです。お酒から解放されたのです。本当に不思議なことでした。そして、私達から半年後の6月に洗礼を受けました。その後、日に3箱も吸っていたタバコからも解放されて、神様の圧倒的な御業には、主人も全面降伏という感じで、それからの主人の変わりようは驚くばかりでした。これまでの苦しみは神様に出会うためであったと分かりました。全てが感謝に変わりました。
「苦しみにあったことは、私にとって良いことです。これによって私はあなたの掟を学ぶことが出来ました。」   詩篇119篇71節

信仰を持ったら全ての苦しみがなくなるのではない。でもどんな状況の中でも主がともにいてくださり、全てを益としてくださる、ということは本当に素晴らしいことです。
1989年に乳がんの診断を受け、手術をすることになりました。手術がまじかに迫っていた8月9日の朝、眠りの中で声を聞きました。「そればかりではなく、艱難をも喜んでいる。なぜなら、艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを知っているからである。そして希望は失望に終わることがない。なぜなら、私達に賜っている聖霊によって、神の愛が私達の心に注がれているからである。」飛び起きました。すぐに聖書を開いてみて、ロマ書5章3~5節の御言葉を見つけました。神様の御声を聞いたのです。もう病気も手術も怖くなくなりました。手術後、病院の中で私ほど喜びに満たされていた患者はなかったと思います。点滴のポールを持って病院の廊下を歩きながら賛美があふれました。神様がともにいて下さる喜びでいっぱいでした。
それからも色んなことがありましたし、これからも試練が来ることでしょうがどんな時も神様に信頼することを学んでいます。神様は早すぎることなく、遅すぎることなく、最善の時に最善を成して下さることを知りました。信仰を持ったばかりの時には、20年も経てばもっともっと信仰も成長して、と思っていたのに、相変わらず弱く欠けだらけの足りない者です。それでも、神様の約束は変わることなく、一方的な愛を注いで下さっていることに感謝でいっぱいになります。

「山は移り、丘は動いても、わがいつくしみはあなたから移ることなく、平安を与えるわが契約は動くことがない。」とあなたをあわれまれる主は言われる。(イザヤ書54章10節)
この主に信頼して、生涯、従って行きたい、と願っています。

月報2009年1月号より

「パズル」

アメリカに来て1年半、この教会に来るようになって約半年が経ちました。
生まれてからすぐに日本へ行き、それからずっと同じところに住んでいて、1度も「転勤」を経験したことのなかった私にとって、この引越しはすごく大きな出来事でした。

引越しが決まったのは2006年の秋頃、中学1年のときでした。父の仕事の都合上、いつかは必ずアメリカに引っ越すときが来る、というのは分かっていましたが、実際にそういうこととなると、そう簡単なことではありませんでした。
まずは転校したくないということ。しかも中学受験をしてやっとの思いで入った学校。ちょうど学校にも慣れ、楽しくてしょうがないという時に転校なんて、正直ありえないと思いました。しかし現実は現実。引越しの準備は着々と進んで行き、とうとう引越しはやってきました。初めて転校をし、たくさんの人との別れを経験しました。
また、新しい生活への不安とは反対に、同じクラスだった帰国子女の友達が英語をぺらぺらしゃべっているのを見て、「アメリカに行けばすぐに英語なんてしゃべれるようになる」単純にそう思って羨ましがり、わくわくしながらニューヨークの空港に着きました。

しかし、待ち受けていたのは、想像以上の苦労でした。
新しい学校、新しい友達、新しい環境、カルチャーショック。しかも英語がしゃべれないので、言いたいことも思うように言えず、かなり疲れていました。学校に行っても、日本人が何人かはいるもののなんとなく落ち着かず、毎日のように、日本に帰りたいと思っていました。改めて今までの友達の存在の大きさを感じました。
そして一番大きかったのは、教会がないことでした。
私が洗礼を受けたのは2001年クリスマス、小学校2年生のときでした。母がクリスチャンなので、小さいときから母に連れられて教会に行っていて、教会に行くのが当たり前のような感じでした。たくさんの人たちに囲まれ、神様の愛にあふれた生活でした。
引っ越して最初の頃は、母と一緒に近所のアメリカ人の教会にも行きましたが、なんとなく居心地が悪くて、それも何度か行っただけで行かなくなってしまいました。
それから約一年、教会に行かない日が続きました。まぁ日曜日に教会に行かないんだったら、友達とも遊べるしそれでもいいかなぁ、とか思っていました。
しかし、教会に行かない生活は今までと違っているような感じがしました。自分の中で教会の存在が大きかったことに改めて気づきました。
とは言っても、教会がない。アメリカ人の教会しかないかなぁ・・・。と思っていたとき、母がちょうどインターネットでこの教会を見つけてきて、行ってみることになりました。
初めて行ったときは緊張していましたが、行ったら中高生の人たちが迎えてくれて、すごく嬉しかったです。それから毎週通うようになりました。中高生の集会もあり、教会に来るのがすごく楽しく思えました。

そしてこの前の夏、一人で日本へ一時帰国したときのことです。ずっと帰りたいと思っていた日本。すごく楽しかったけど、1つ感じたことがありました。それは、時間は進んでいるということでした。前の学校に行ったとき、みんなすごく成長していて、自分は全く成長してないかのように思えました。また、教会にも新しい人、知らない人が増えていて、あ、やっぱりものなんだと思いました。一年以上も経っているのだから変わっていてあたりまえなのに、なんとなく寂さと焦りを感じました。
そんなとき、教会のこどもの祈り会でこの御言葉を聞きました。

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。  創世記12:1、2

寂しさと焦りは消え、ふと、神様は何か意味があって私をアメリカに行かせたんだ、沈んでばっかいないで、今おかれている場所で頑張らなきゃいけないんだと思えるようになりました。

8月、アメリカに戻ってくると、Joy Joy Campとファミリーキャンプがありました。いつも以上に神様のことに触れることが増え、すごく祝福されたときでした。
また、キャンプを通して中高科のみんなとも仲良くなれました。学校にも友達はたくさんいるけど、やっぱり教会の友達っていいなぁと思いました。何でも安心して話せるし、何よりも、神様っていう共通点がある。すごく大事な存在です。

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせるようなことはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。コリントの信徒への手紙一 10:13

すべては神様の計画であって、無駄になるようなことはひとつもない。もしここに引っ越してこなかったら、あのときこの教会を知ることがなかったら、すべてのことが今と全く違ったかもしれない。この、パズルのような道を神様はすべてまっすぐにして待っていてくださる。試練があっても絶対に乗り越えることができる。そして、今ここにいるのも神様の計画の内。
すべてを備えてくださり、導いて下さる神様に感謝します。

月報2008年12月号より

「振り返って」

今年の8月で受洗してから3年がたちました。けれども今まで一度もあかしをしていませんでした。次々と受洗された方のあかしを読んでは、わたしはまだしていないとうしろめたい気持ちでいっぱいでした。

なぜ、今までほとんど信仰を持たなかった私が洗礼を受けようと思ったのか。主人の仕事のことでいろいろあって、不安と不満が入り混じり、泣いたり、怒ったり不安定な気持ちの毎日でした。
そんな時、Tenaflyの教会で三浦光世さんのお話を聞く機会が与えられ、元綾子さんの秘書であった方の讃美歌を聞いて涙が止まりませんでした。そんな心に響く歌を聞いて泣いたのは、私だけではなかったでしょうが、私は自分で私の心は病んでいると思い込んだのでした。
それからしばらくして、イースターに今度はMaywoodの教会に招かれ、その後、ほとんど毎週、教会へ足を運ぶようになりました。
教会ではいつも涙が出てきました。その涙が私の心を洗ってくれていたのかもしれません。少しずつ気分が落ち着いてきて、私は心の病から救われた感謝の気持ちとして、洗礼を受けようと決心したのです。

錦織先生に私の気持ちを話し、何週間か洗礼を受ける準備をして頂きました。そのとき、少し今までのことを話しているうちに、全くキリスト教に結びつくものはないと思っていたのが、そうでなかったことを発見しました。

母が近所に住んでおられたクリスチャンの方のお葬式に参列し、白いカーネーションを一本ずつ献花してとてもシンプルでいい式だったと話してくれたこと。
(その方は杉山さんといいましたが、いつもニコニコされていたのを思い出しました。)

中学の時、英語塾に通っていた道にインマヌエル教会と立看板が示されていて、何のことかな、といつも気になっていたこと。
(正直に言いますと「インヌマエル」か「インヌマニエル」とうろ覚えで、先生から「インマヌエル」と訂正して頂きました。)

北海道稚内市で、友だちのレストラン“おつな”に三浦綾子さんが三、四人で来られて、一言、二言、話しかけられたこと、首に大きな十字架をかけられていたこと。
(その時はキリスト教の事のはずもなく、召し上がられたお料理の事でですが・・・)

等々です。

そして、マタイによる福音書第一章を読んだ時、インマヌエルという文字を見つけて、それが“神はわれらと共にいます”という意味であることを知りました。

あかしを少しずつ書き始めていた頃、9月28日の礼拝で「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書13章34節)を聞き、なぜか私に今一番足りないものはこれだ、と心に響きました。初めて聞いたわけではない、何度も聞いてきた言葉のはずですが、そのときには特別に心に届いたのでした。「御言葉が与えられる」というのはこういうことなのか、と思わされました。

働いても働いても楽にならない生活。主人のこと、子供たちのこと、日本にいる母たちのこと、心配で不安なことは、まだまだありますが、これから信仰生活を送る一生の課題としてこの言葉が与えられたと確信しました。どうぞこの言葉に一歩でも半歩でも近づけますよう、導き、見守ってくださいますようにお願い申し上げます。

月報2008年11月号より

「私は3人きょうだいの長女で…」

私は3人きょうだいの長女で、両親や祖父母に大事にされて育ちました。小学校5年生の時、父親の兄に会いました。東京の音大を出た伯父はクリスチャンで、九州のミッションスクールに転任になるのでお別れにと、父が私たちを連れて会いに行きました。「それでは元気で、さようなら。」と別れたことを覚えていますが、その後一度も会ったことはありません。その伯父の勧めで父は私と妹をカトリックの日曜学校に通わせ、自分も聖書を読むようになったようです。その頃よく訪ねてきたエホバの証人の人たちと議論をしていましたが、自分が教会に行くことはありませんでした。私と妹は2年ほど教会に通いましたが、中学生になると足が遠のき、いつか行かなくなりました。でもその教会での思い出はいつも懐かしく、時々こっそり前を通ったりしていました。
結婚してコロラドに住んでいたとき、夫の同僚から、自分の行っている教会のクワイヤーが伴奏者を募集しているのでやってみたら、と勧められて、オーディションを受けたのですが、「私はクリスチャンではありません、家は仏教です。」と言いました。後日採用の知らせがあった時も、「クリスチャンではないけど良いのですか?」とたずねたところ、「良いです。」と言われて、「へえ~」と思いました。お金をいただいて、週一度の練習と礼拝に出ているうちに、子供の頃通った教会で聞いたお話を思い出して、「ああ、そうだそうだ。こんなこと聞いた。」と懐かしく思いながら、毎週の礼拝を楽しみにしていました。皆に温かく接してもらい、女性の祈りのグループや教会のいろいろな行事に出席するうち、私もこの教会の一員になりたいと思うようになりました。居心地がとてもよかったのです。私に子供が与えられるようにと祈ってくれた友達のことも忘れられません。9年間子供がなかったのに与えられ、皆にお祝いしてもらいました。教会での幼児洗礼式を見て、自分の子にも洗礼を受けさせたいと思い、牧師先生に相談したら、「あなたも一緒に洗礼をうけたら?」と言われました。夫に言うと、「いいよ。」とあっさり承諾してくれたので、驚きました。でも、少し不安があったので、「私に従いたいと願うなら家族を捨てて云々・・・とあるけれど、私には捨てられません。」と牧師先生に言うと、癒されてイエスについていきたいと言った男に、家族のところに帰るように、とイエスが言われた、ということを話してくださいました。そして、私を通して家族が救われる、と言われたのです。とにかくその時はまだ聖書の学びもしておらず断片的な知識しかなかったので、「救い」の意味も良く分からず、友人が「I am so happy! You will be saved!!」と言ったのを聞いて、「Saved? Yeahノ,I think soノ」と答えたのを思い出します。
夫の仕事で日本に戻る日が近づいていたので、ろくに受洗前の学びもせずに洗礼式となりました。教会のたくさんの人に祝福されて、夫もその日は教会に来てくれて、喜びの中で洗礼を受けましたが、次の週には、「クリスチャンが1%しかいないという日本に直子を送り出します。直子のために皆で祈りましょう。」と言ってみんなに送られて日本に戻りました。
アメリカから移り住んだ山形には親戚知人が誰もいなくて、6ヶ月の子供を抱え、心細い思いをしていました。その頃モルモン教の人たちがいつも自転車で街を走り家々を訪問しており、うちにも若いアメリカ人や日本人が伝道に来ました。彼らと話しているうちに「やっぱり教会に行かなくちゃ。」と思ったのです。私が導かれたのはウェスレアンホーリネス山形南部教会、ちょうど同じような年代の子供を持つ人たちが何人かいて居心地が良く、娘とふたりで13年間お世話になりました。そこで受洗後の学びをし、勉強会や祈祷会などを通してイエス・キリストのことが少しずつ分かるようになりました。あまり熱心に学んだわけでもなく、ゆっくり少しずつ、時には抵抗も感じたり疑問を持ったり、ほかの事を優先したくなったり、本当にのろのろとした歩みではありますが、背中を押されたり手を引かれたりしながらここまで来ました。
山形での13年間は、子どもを通しての恵みと自分の音楽の仕事での恵みがたくさんありました。自宅でピアノを教えるほか、娘の通ったキリスト教の幼稚園のお母さんコーラスの指導や伴奏、教会での奏楽の奉仕と特別伝道集会でのコンサート、そのほかいろいろなところで音楽を通しての奉仕をさせていただけたのがとても祝福でした。もうひとつ私が10年間続けた活動がありますが、いくつもの国の紛争や内戦を生き抜いている人たちを映像と音楽で紹介するというNGOグループのコンサートでした。初めは山形近辺、東北地方、そして関東に足を伸ばし、もっと遠くの地域まで活動範囲を広げていきました。学校やPTA、公民館や県の国際交流課などの企画で呼ばれ、いろいろなところでコンサートをしました。とても良い内容でやりがいのあることのように思え、楽しくてやっていたのですが、その活動がだんだん忙しくなり、遠くまで出かけて泊まりになったり帰りが夜中になったり、仕事が日曜日にまで入るようになって、礼拝に出るのが難しいときもありました。礼拝に出ても後奏を弾き終えるとすぐ飛びだして行ったり、奏楽が義務のように感じられてきました。毎日忙しく活躍してすごいね、とひとに言われてそれが嬉しい反面、忙しさで気持ちががさがさしていました。そんな時、牧師先生に、「日曜日は礼拝に出る、仕事は入れない、ということにしたらいいですよ。はっきりそう決めたらかえってうまくいきますよ。」と言われました。いつの間にか高慢になって、神様より自己満足のための活動を優先しようとしていた自分の心を示されて、「そうか。そうしてみよう。」と思い、「日曜日は教会に行くので仕事は入れられません。」と言うことができました。するとすんなりとそれは認められて、何も心配することはなかったようにうまくいきました。ところが今度は別の、人間関係の難しい問題が出てきました。良い目的でやっているはずなのに、世の中何が正しいのか何が普通なのか、私がおかしいのか、と信じられなくなってしまうことがいくつかあり、神経の磨り減る思いをするようになりました。それでも続けていたのは、ステージに立つ楽しさと、自分がここまで作り上げてきたのに、という執着でした。もういよいよ耐えられないと思うようになった頃、NGO団体の内部の問題が表面化してごたごたが起こり、何人かがやめ、私もやめる決心ができました。いくら良いことのように見えても、人間の思いによるものでは限界があると思い知らされた出来事です。それからはピアノ教室も心を込めて教える余裕ができ、幼稚園のお母さんコーラスで賛美歌を教えるのが本当に楽しく、教会の奏楽も感謝してできるようになり、さらに牧師先生たちの宣教グループの事務の仕事までいただいて、精神的にも経済的にも恵まれました。クリスチャンになるにもドンと背中を押されるようにして洗礼を受けてスタートを切ったようなものだし、自分の信仰にも自信のない私が教会にずっとつながっていられたのは奏楽の奉仕と教会学校に行きたがった娘のおかげですが、それによっていただいた祝福は計り知れません。そして牧師先生方や教会の人たちによる祈りに支えられてきたことを思い、本当に感謝です。
ニュージャージーに来て一年間、教会を離れて心が弱ってくる思いを経験しましたが、この時期があったからこそ、今の教会に集えることの喜びが大きいのかもしれません。今も辛いことや祈りの課題はいろいろあるし、これからもあるでしょうが、神様が最善をなしてくださると信じ、「あなたが私を選んだのではない。私があなたを選んだ。」という御言葉を信じ、神様が私にどんなご計画をお持ちか楽しみにしています。教会につながり、聖書を学んで、恵みとエネルギーをいただきつつ、「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます。」との希望を持って、祈りつつ歩んでいきたいと思います。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:6-7) 心強い御言葉に感謝です。

月報2008年10月号より

「恐れを恵みに変える一歩」

「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」第二コリント12:9

私がキリストを受け入れ、クリスチャンとして生まれ変わるよう導かれたのは、私の家族の弱さのためでした。私の両親は、年若くして結婚し、またともに家族の愛というものをあまり知らずに育ってきたこともあり、心のすれ違いの多い夫婦でした。私自身も実家にいる頃は、これが普通だと信じてきた面がありますが、その頃は言葉にならない、心の渇きを感じていたのでした。

実家を出てから大学進学、ニューヨークで就職と次々と自分のしたいことや行きたいところで頭がいっぱいで、自分が何に渇いているのか、どこに向かっているのか、全くわからないまま進んで来た感があります。「まず地図を見て行き先を決めるべきなのに、それをせずに、自転車から車へ、車から飛行機へと進むスピードばかりを気にしている」という例えを聞いたことがありますが、まさにその通りで、人が聞いたらニューヨークで大手企業に勤めていると言えば、サクセス・ストーリーのように聞こえなくも無いですが、何の「サクセス」なのか、自分で自分に説明がつかないのです。お金のため?優越感?日本からの逃避?責任回避?

そんな疑問に蓋をして生きていた2006年に、会社の知人が日米合同教会でキリスト教のベーシック講座が毎週水曜日あるから来てみないかと勧めてくれました。それは「アルファコース」というノンクリスチャン向けに作られたプログラムで、教会とは何か、聖書とは何か、祈りの大切さやイエスの救いなどのトピックを毎回ビデオで見てから、スモールグループに分かれて感じたことを話し合うということが行われていました。知れば知るほど、すごい、これは私にはできそうに無い、と思う反面、もっと知りたいという気持ちが沸き出て、昔の青汁のコマーシャルの「まずい~!もう一杯!」状態でした。

そんな中、両親の問題がどんどん深刻化していきました。このままだと大変なことになってしまう、何とかしなければ、という焦りと苦しみばかりが膨らんでいきました。クリスチャンのカウンセラーに両親のことを相談したり、インターネットで「離婚弁護士」のことを調べたり、ニュースで事件があればうちの両親じゃないかと確かめたり、本当に苦しくて悲しい時期でした。しかし、自分の力ではどうにもならず、なんとなくキリストの教えの中に答えがあることを漠然と感じていたのも事実です。

ある時、アルファコースで知り合った人から錦織先生のゼロの会やニューヨーク面談日のことを教えてもらいました。実はNJ日本語キリスト教会へは2000年に一度サンクスギビングか何かの時にお邪魔したことがあり、その時に錦織先生ご夫婦にとても良くして頂いた事があったため、初対面でなかったことから、またまた気軽に足を運ぶようになりました。先生は子供やユース向けの説教に長けていることから、 堅苦しい話の苦手な私には新鮮で、子供のような心で楽しめたのです。一番印象深かったのが、クリスマスの劇に参加した知恵遅れの子供の話で、涙がこぼれそうなほどの暖かさを感じたのでした。

その後、2007年の寒いある日、先生との面談の後、いつものように祈って頂いた時、涙が止まらなくなってしまいました。そしてその日、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れることを告白したのでした。その時から神との対話が始まりました。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」とピリピ人への手紙4:6にありますが、実際、何も思い煩わずに信仰の道を歩める人は、恵まれた人だと思います。私の場合、この1年近く、どこの教会でいつ洗礼を受けるか、悩む日々となりました。

その年の暮れにクリスチャンの友人に勧められて、JCFN(ジャパニーズ・クリスチャン・フェローシップ・ネットワーク)の修養会「Equipper Conference」(EC)に参加することになりました。これは全米から若い日本人クリスチャンがLAに集まる修養会なのですが、彼らのエネルギーと純粋な信仰を目の当たりにして、私も「恐れ」を「恵み」に変える一歩を踏み出すよう強く示されたのです。それは、洗礼にむけて具体的に動き始めなさいということと、家族に伝道しなさい、ということでした。

LAを出発して、1月2日に東京に到着、3日に祖父を見舞った後、夜の便で北海道に飛びました。この時はECでかなりequipされていたので、これまでの帰国時とはかなり様子が違いました。特にECで購入した「日本の宗教行事にどう対応するか」という本から知恵を得ていたので、クリスチャンとして何をして良く、何をしてはいけないか、それがなぜなのかを理解していたので、家族の前ではっきりと自分の立場をあかしすることができたのが、今考えても本当に恵みでした。仏教や神道と対立するのではなく、聖書に反することは皆にきちんと説明して行わないようにし(聖書に反しない事柄に関しては受け入れる)、そのことをも証しや伝道として用いることができるクリスチャンの形を目指すべきであることを示されました。以下は実際にあった私と母のやりとりです。

母「お土産を仏壇に置いて、仏さんを拝みなさい」
私「・・・・・・・」
母「どうしたの?早く拝みなさい」
私「・・・・・・・」
隣の部屋にいた妹が様子を察して「お姉ちゃんまさかクリスチャンになったの?」
母「クリスチャンになったとしても、家族は家族なんだから、仏さんを拝みなさい」
私「お母さんが代わりに拝んで・・・・」
母「・・・・・わかった。でも本当の宗教ってのは他のどんな宗教でも受け入れるものだと思うけどね、仏教みたいに」
私「・・・・・」

私が実家をでてから十数年も続けてきた習慣をはっきりと断ち切るのには、かなり勇気が入りました。正直、父と母に怒鳴られることを覚悟していましたが、そのときは意外とすんなり受け止めてくれました。父も隣の部屋にいて全て聞いていたはずなのに、何も言いませんでした。しかしこのやりとりは母の心にしっかりと刻まれたようです。

その後、母と父との現状について、母と二人きりで話す機会があったときに、母の苦しい立場を聞いてあげていたのですが、今しかないと思い、「お母さん、これからいつも私がしているように祈るから、お母さんは何もしなくていいけど私の祈りに 心を合わせるようにしてて」というと、分かったと言うので、神様に対して父と母のことを声に出して祈りました。

「神様、父はまだ自分の罪に気づいていません、あなたの愛を知りません。どうか私を使って父が、神様あなたの望む人間本来の生き方を求めるように、示してください。神様、母が父の過去の罪も、現在の罪も、将来の罪も赦すことができるように助けてください。そして母が背負っている傷をあなたが癒してください・・・・・」祈り終わって母を見ると、涙ぐんでいました。「ありがとうね・・・・」

その後、ECで知り合った同郷の女性に教えてもらった私一人で教会に行き、牧師先生と話しをしました。アメリカ生活の長い先生なので、とても話しやすく、また純粋な信仰をもっておられる先生でした。母のことを話すと、「教会の婦人会が行っている家庭集会があるから、タイミングが良い時にお母さんにも来てもらったらどうだろう」という話しになりました。

その家庭集会のことを実家に戻ってから母に話すと興味を示し 「教会がメールしてくるって?電話してくるって?」と聞いてくるのです。数ヶ月前に電話口で洗礼だけは絶対にやめてくれと言った母がここまで砕かれたことは、正直びっくりしました。私が出発する日の朝、母が私に「この間のように、お父さんの前でも祈ってくれない?」 「いいよ」 この時は信じられない思いでした。

朝食の前に、両親と一緒に祈りの時間を持ったのですが、父は初めてのことでとまどったようです。そのときの父の一言は「日本にいるときは日本式でやれ」でした。

その後、米国に戻ってから、教会を変え、洗礼を意識するようになりました。またニュージャージーの新しい教会に通うようになった直後に、錦織先生が日本伝道の旅に出発すること、先生のスケジュールが許す限りは日本にいる家族への伝道もお願いできることを知りました。

私「先生!北海道まで母のためだけに、伝道に行くのは難しいですよね?」
先生「うーん、ちょっとまだわかんないなー。祈ってみようね」
私「はい、もし無理だったら、電話だけでもしてもらえませんか?」
先生「電話なら、いつでも喜んでするよ!」

その数日後、先生に青森で面接することになり、函館までその足で行けることを知らされた時は、神様が実際におられ、私達家族の救いへの道を開いてくださっていることを、目の当たりにしたのです。

母と先生が2月4日に面接した時に、先生はヨハネの4章を用いて、神の水を飲む者は誰でも心に泉を持つようになり、決して渇くことがなくなることを母にわかりやすいように、話してくださいました。母は、その話にたいそう興味を持ち、また心に何かを感じたようでした。そして手紙をくれていた地元の教会のメンバーに自分から電話をかけ、婦人会の家庭集会に進んで足を運ぶようになったのです。
そこで母は、クリスチャンの生き方、聖書の持つ知恵やパワー、本当の愛、自分の罪と父の罪、自分が幼い頃から飢えていたこと、様々なことに目が開かれ、スポンジが水を吸収するどころじゃない、
紙おむつが抜群の吸収力で横からもらしませんとテレビで宣伝しているけど、例えるとあんな感じで、学んだこと、感じたこと、一つも漏らさず一字一句覚えていったのです。私など比べ物にならない真剣さと真摯さでした。

「婦人会の家庭集会」と字で書くとぼやーっとした印象しかありませんが、これも神様が母に用意してくれたものでした。母が導かれたグループは、40代から70代くらいの主婦の集まりで、恵まれていたことに彼女らは本当に成熟したクリスチャンたちでした。傷ついている母を心から受け止め、愛で包み、また聖書の言葉を一口一口母の口にスプーンで食べさせるように、伝えてくれたのです。

さらに、私達が今でも驚いているのが、グループの名前が「泉」だったことです。母が錦織先生の話で最も深い印象を受けた「心の泉」という言葉がその会の名前だったことに、グループのメンバーも母も偶然を超えた「導き」を感じたようです。

今、私は母と、過去の傷や父のこと、家族のあり方などを聖書や神様の視点で話すことができることに深い恵みと癒しを感じています。無数の心の傷を受け、自分たちの弱さに打ちのめされていた私達母娘は、この弱さゆえに一段と深い絆で結ばれることができました。今、日本人の家族の多くは、弱さの中でもがき苦しんでいるように見えます。これは、神様の救いが広がる前段階なのかもしれません。私も同じような苦しみを味わっている方に一人でも多く、神様の救いの業を伝えたいとの思いが与えられています。

月報2008年9月号より

「アメリカの生活で変わった人生」

アメリカにやってきてついに約4年の月日が流れた。アメリカのインパクトに押しつぶされそうになった初めてのJFKが目に浮かぶ。あれは、もう4年も前にさかのぼる。あのときから本当に僕は変えられた。教会が好きになり、イエス様の十字架を信じて洗礼を受けた。それもとても重要な出来事だったが、洗礼を受けたあとに発見することがとても多かった。そして、高校生になってから発見することが多かったように感じる。僕は、さまざまな場面で、神様のすごさを経験した。

そしてそれぞれの場面で、目が開かれた感じがした。それは気持ちのいいものだった。これから僕の目が開かれた代表的な場面を証したいと思う。

1)「祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。」             ペテロの第一の手紙3章9節

僕は、慶応NYの寮で生活していた。そこはNY州の郊外である。そのようなところに住んでいる僕がどのようにして毎週NJに来ていたのだろうか。答えは簡単明白。錦織牧師や教会の他の方々が、僕が行ける週末には慶応NYの寮まで迎えに来てくださったのである。所要時間はおよそ片道40分。ガソリン代が高騰している中で、家族が帰国してからほぼ毎週送り迎えしてくださったのだ。何気なく送迎していただいていることもあったが、改めて考えてみると労力がとても必要だったのだ。どう感謝していいかわからない。なぜ、こんなにも僕を愛してくれるんだ。と何度も思わされた。あるとき、こんなに良くしてもらうと、もうどれだけ返しても返しても返しきれない。と打ち明けたことがあった。するとこんな答えが返ってきた。「ほら、私たちも同じように人にいろいろとやってもらったの。だから、大輔君もほかの人にその感謝を返してね。わたしたちじゃなくていいんだから。」目が開かれた瞬間だった。そうか。ほかの人に返すのか。すると、頭の中で神様、イエス様の姿が浮かんできた。僕は罪人。そう。この罪がイエス様を十字架にかけた。それなのに、神様は僕の罪を赦してくださり、今でも僕を愛してくださっている。無条件の愛。僕は、この愛のお返しを神様、イエス様にすることなんて、人生を100回やっても返せない。しかし、この言葉から僕は気付かされた。神様、イエス様に返すだけではなく、ほかの人にその愛を少しずつ返せばいいんだ。分かち合えばいいんだ。と。その瞬間、僕も神様の愛や、教会の皆さんの愛を彼らにだけではなく、別の人に少しずつ分けることができればいいなと思うようになった。そして、そのようなことが聖書の中に記されているはずだと思い、母親の協力の下、ペテロ第一の手紙3章9節を発見したのだ。
将来、「僕も同じようにいろいろとやってもらったことがあったから、君も同じように別の人にその感謝を受け継いでね。」と言いたい。私たちの使命の一つは、祝福をすべての人に受け継ぐことだったのである。

2)「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」箴言3:5-6
僕は、バスケットを部活としていた。うまくはなかったが、チームのメンバーとして多面的に貢献したと自負している。そして、自分がバスケをやっていたことに満足している。それは神様が導いてくれたからである。僕は、バスケのことでたくさん悩んだ。まず日程だ。土曜日、日曜日、関係なく練習は組まれていく。日曜日は僕にとって教会に行く日となっている。しかし、無情にも当然のように日曜日にも練習が組まれ、何度か教会を欠席した。僕は教会にいけないことを恐れた。なぜなら、教会に行かない日曜日はとても楽だったからだ。バスケの練習を2時間したとしても、一日は24時間。したがって22時間は自由なのだ。しかし、教会に行くためにはやはり一日仕事。したがって自由時間は就寝時間を除けば6、7時間程度になる。教会に行かないと楽だったのだ。このまま、自分は教会に行かなくなってしまうのではないかと思った。しかし、休息できているはずなのに疲れがたまっていく。精神的に疲れていくのだ。僕の通っていた慶応NYには「クリスチャン」が多くない。自称クリスチャンはいるが毎週教会に行くのは僕だけだったであろう。そんな中で生活していると教会では聞くはずもない言葉、会話が当然のようにされたりする。そのような環境だったためだろうか。僕は、教会にいけないのこんなにも大変なのかと気付かされた。つまり、教会がどれほど自分の心の支えになっていたことがわかったのだ。
次に、教会の友達の大きな支えだ。祈祷課題を言うとみんなが一つになって自分のために祈ってくれる。これほどの喜びはなかった。
バスケを通してこの御言葉が与えられた。箴言3章5、6節である。僕らは神様に信頼すればいいのだ。教会を休まなければいけない。こんな恐ろしいことはない。などと自分の知識で考えなくていいのだ。(確かに恐ろしいのだが)主に祈って、任せるのだ。すると神様は道をまっすぐにされる。僕にも、教会の大切さ、祈ってくれる仲間のすばらしさを再確認する機会として神様はバスケを与えてくれた。そして、それと同時にバスケをする楽しさも教えてくれたのだ。自分たちがなにを思っても神様の計画にはかなわないのだ。だから、これからも、信頼して歩んでいこうと心に決めた。

3)「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることはない。」                  ヘブル人への手紙13章8節

今まで、どれだけの環境がここに来た当時と今で変わったのだろうか。それは計り知れない。まず、学校が変わった。高校入学するということで、中学の友達と別れることになった。住む場所が変わった。家に住んでいたが寮生活となった。そのおかげで今まで得ることのできなかった自立することを覚えた。そして、一日中友達といることのすばらしさを学んだ。さらには、アメリカにいた家族は、日本に異動した。たった3年で衣食住すべてが変わったといっても過言ではない。すごい変化であると実感している。
しかし、たった一つ変わっていないことがある。それがイエス様なのだ。心の中に、神様、イエス様を迎えてからは、彼らが今で心の中にとどまっていて生きる原動力になっている。そう。洗礼を受けた当時から変わっていないことである。もちろん信仰がそのままであるのではない。信仰は少しずつではあるが成長している。神様だけは、これから生涯生きていく中で常に同じ道を歩んでくれると約束してくださる唯一の方だ。だから、環境が変化しようと、窮地に追い込まれようと、神様は常に一緒だ。この安心感は格別だ。だから安心して次の「異国・日本」というステップにも堂々と進める。イエス様の十字架。それは、勝利の印である。どんな苦難があったとしても、イエス様は復活されたように僕らも最後は乗り越えられる。それをこの御言葉から信じた。
ある人が分かち合ってくれたことだ。「教会があってよかった。」たった、それだけの言葉だったが、僕の人生に教会があったことがどれだけ助けになったことか。「教会があってよかった。」と絶叫したい気持ちでいっぱいなのだ。
だからこそ、これから僕に与えられている使命は明確だ。御言葉を用いて伝道すること。僕は、このアメリカの地で目の開かれる経験をたくさんしてきた。時には、自分の考えとぶつかり大変な思いもするが、すべてを捨て、神様に任せようと決めたとき、御言葉は与えられるのだ。そして、次のステップに行くのである。その経験をできるだけ多くの人にしてほしい。
人に神様を信じたいと思ってもらうには神様の力が必要だ。御言葉という神様の言葉に心を打たれる必要がある。だから、その覚醒のお手伝いができれば「祝福を受け継ぐ」ことになると信じている。だからこそ、僕は頑張る。いや、頑張れる。今こそキリストの愛に応えるときなのだ。

月報2008年7月号より

「わたしの出エジプト」

1970年2月、40年住み慣れた日本を去り一路ニューヨークに飛び立ったわたし、以来早39年目、人生の半分をニューヨークで過ごすことになるとは夢にも思わぬ事でした。
人生は、人の思い、計画の及ぶところではなく、神の計画と導きによって展開されることは、死から命に移された私が今日在ることからも明らかです。
一人の事業家の招きでニューヨーク行きが決まり、当時でもなかなか取れぬE2ビザが与えられ、一年後には家族揃って新しい地での生活が始まりました。

ニューヨークの生活を始めた頃は、この地が人生に結実を与えられる神の約束のカナンの地であることには気がついていませんでした。司祭であった叔父から幼児洗礼を受けていた私がジャスティン春山牧師により信仰生活に導かれ堅信礼を受け、妻も二人の娘たちも夫々自らイエス・キリストとの出会いによってクリスチャンとしての歩みを始まることが出来る喜びに満たされる者になりました。日本にいた時、私自身がそうしなければならないとの魂への迫りを受けながら主に立ち返ることが出来なかったにも拘わらず、主の深い憐れみと御愛がニューヨークの地で家族全員に救いを与えてくださいました。
信仰は人間の努力によって勝ち取るものではなく、聖霊の助けと、罪の告白と主の十字架の赦しによって救いを受けなければ与えられないことを知り、キリストに委ねる人生に望みを抱く者へと変えられました。
イスラエルが囚われの地、エジプトから逃れることが出来たのはモーセの働きによりますが、神が、神自身の民、イスラエルを憐れみ、愛された御心と御働きが、出エジプトのスペクタクルの背後にあったことは言うまでもありません。人生の困難にある時、万事休す状況にある時も神はわたしたち一人一人に出エジプトを経験させ救って下さるお方であることをわたしたち家族も経験させて戴きました。
2000年の夏、主の限りない御愛に答えるために私に示された主の幻は「あなたのイサクを捧げなさい」でした。私のように罪深い者を赦され、愛される主に仕えるには、自分自身をイサクとして神に捧げる道しかなかったのです。
祈りつつ悔い改め、錦織牧師に献身の思いを打ち明けました。
小論文を提出し、入学を許可され、働きながらJTJ神学校の神学部牧師志願科の学びを通信で始めました。
当時はDVDはなく、どさっと送られて来る山積みのビデオテープで教室の学習を見ながらの学びでしたので忍耐と、教室と隔離されている孤独感の戦いを経験しましたが、御霊の助けと家族の励ましとを感謝しつつ学び続けることが出来ました。
通常、通信講座は3年から5年かかると言われていますが、神は私を早急に用いようとされるそのご計画によってか、一年九ヶ月で全講座のクレジット修得を許されました。
卒業式の時、中野雄一郎学長から「最短の卒業だね」と言われた時には喜びと共に、神は生きて働かれるとの確信が与えられ、心から感謝しました。
妻と娘たちは私の学びのためにあらゆる犠牲を払って2年間サポートしてくれたことが何よりの助けでした。
然し厳しい訓練をわたしに課せられる神は、前立腺ガンをもって私にチャレンジを与えられました。毎朝午前4時から7時まで学習し、8時にはマウントサイナイ病院で放射線治療とガンの発育を抑えるホルモン(ヴィアドール)治療を受け、それから仕事に向かう強行軍でしたが、不思議になんの副作用もなく25日連続の治療を完了することが出来ました。
それは主の憐れみと、主の癒しの御業以外の何ものでもないことを覚え、深く感謝しました。
わたしに与えられた主の使命は主キリストを証しすることで、そのためにバイブルクラスの指導を毎週礼拝の前に守ることでした。罪の淵をさまよっていたわたしの霊の目を開かせ新しい命に導いてくださった春山先生が命をかけて(先生はわたしたちが堅信礼と洗礼を授けられて僅か一ヶ月後に内臓のガンで天に召されました)十字架に掛かられたあの犠牲の死がなければ、わたしの献身、家族の救いはあり得ませんでした。
わたしの献身を一番喜んでくれたのは言うまでもなく信仰をもって支えてくれた家族でした。
又、わがことのように喜び支えてくれたのは千葉市川キリスト教会の小野寺牧師(わたしの信仰の兄貴分)で学びのためにたくさんの参考図書、注解書を送ってくれました。
至らないわたしを赦し、今日まで共に聖書を学び、分かち合いをして下さった兄姉に心から感謝しています。
特に、わたしを助け、善きアドバイザーとしてバイブルクラスを支えてくださった呉(オー)兄に感謝します。
長いようで短かくもあった20年のJCCNJでの信仰生活も思いがけない、否、これも神のご計画と信じていますが6月15日をもって終えることになりました。
新たな地に新たな使命をもって遣わされる神の御心を受け、喜んで従って参ります。
20年にわたり、信仰を育ててくださった主の教会の更なる成長を心から祈り、キリストにある友としての交わりに入れてくださった会員の皆様に主の豊かな祝福と励ましがありますよう祈ります。
御心を十字架のビジョンとして受け入れ、信仰をもって、聖書を日々の糧として歩んで行きましょう。
感謝。
ヘブル人への手紙11章8-9節「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。」

月報2008年6月号より

「悲しみの淵より」

昨年12月に、突然、丈夫で元気だった母が脳梗塞で亡くなった。
日本時間で深夜、救急車で運ばれたと父からの電話を受け、私はその頃体調を崩して寝込んでいたのだが、翌日慌てて飛行機に飛び乗った。教会でもすぐに連絡網で祈りの緊急課題がまわされたが、雪で飛行機は欠航、母は亡くなってしまった。
「神様、今、なぜ母なのですか?」最近は父の方が具合が悪く手術や入退院を繰り返し、その世話を母がしていたからだ。アメリカに来て17年、次女も9月には大学に入るので、ようやくこれから両親と共に過ごせる時間がもっと出来ると、そんな話を楽しく母と電話で話したのは1週間ほど前だろうか。空港から葬儀場の霊安室に直行して、眠っているとしか思えない母と会った。「ごめんね、でも今までありがとう」と泣きながら頬ずりをしたその頬は冷たく、レモンの匂いがした。消臭剤だ。しかし母のいない家に戻り玄関を開けたとたん、いつもの母の匂いがした。「神様、こんなことは耐えられません」どうやってこの試練を乗り越えたらよいのか、まったくわからなかった。ショックと悲しみと後悔でもはや信仰さえ失ってしまうかもしれない、と思うほどだった。
翌日から待っていたのは、どこに何があるかわからない家の中の探し物から始まり、身も心も傷心し切った父を励ましながら、家の片付け、遺品の整理、山ほどある事務手続き等、日本の事情もよくわからない、自分も具合が悪い中、まるで戦場だった。自分の身に起きた事が信じられなかった。ただ、祈られていることだけが感謝で、それだけが支えであり、共に悲しんでくれる人たちの存在がありがたかった。親を亡くすことは誰でも通る道だが、愛する人を“突然”失うことがこんなにも辛く大変なことだと初めて知った。これは体験した事がある人でないとわからない苦しみだ。自分はこのまま鬱になってしまうかもしれないと思った。

しかし、神様はおられないと思えるような場所でも神様は働いておられた。きっかけは送られてきた2冊の本だった。一冊は『素晴らしい悲しみ』送ってくれた彼女も数年前NJの教会にいた頃に突然の転落事故でお母様を亡くし、私と同じ経験をされていた。ここにはあらゆる種類の喪失の悲しみから癒されるまでのステップが書かれてあり、喪失体験後に 陥るひとつひとつの症状が、どれも私に当てはまる事ばかりで、‘自分はおかしくなってしまったわけではない、これでいいんだ’と思えたことは救いだった。しばらくして教会の別の友人から『慰めの泉』が届いた。これは、特に家族を失って深い悲しみの中にある人へのショートメッセージが日ごとに書かれてあり、毎日少しずつ読んだ。そのうちに、天国がどのような所か、神様はどのようなお方かに、だんだん目が向くようになり、この地上の悲しみから神様、イエス様がおられる天を見上げる事が出来るようになり、そして母は今どんな所にいるのかが見えてくるようになった。確かにこの地上では母の死は喪失なのだが、天国では新しい仲間をひとり迎え入れた喜びとなる。地から天に視線を移すこと、自分が合わせるべき焦点はどこかがはっきりとわかった。

実は母が亡くなる少し前にどういうわけか、電話でこんな会話をした。「お母さん、もしどこかで倒れちゃうような事があったら、“イエス様、信じます”って言ってね」と言うと、クリスチャンでない母は「あら、難しいわ。ちゃんと言えるかしら」と言うので、私は「大丈夫だよ、今からちゃんと練習しておいてね」と言ったのだ。その話を父から母危篤の連絡を受けた時、沖縄の妹に電話で伝えた。彼女が病院に着いた時、母は酸素ボンベをつけたまま意識不明の状態だったが、私の話を思い出し「お姉ちゃんが言ってた事、今からでもいいからねー」と言うと母の目から涙が流れたそうだ。母は、きっとイエス様信じます、と言ったに違いない。イエス様は信じたその瞬間に、天国の切符を下さるお方だ。
また、母の遺品を整理していた時、毎月の月報の束を見つけた。ちょうど12月号の証が長女の真奈がニカラグアに行った時のものだった。「お母さんがそれを読んで、真奈も大人になったのねえ。と言っていたぞ」と父が言った。日本に届いたのは母が倒れる直前のはずだ。母がこの世で最後に見た月報は孫の書いた証だった、最後の最後まで確かに福音は届いていたのだ。
母に何もしてあげられなかったという後悔と罪悪感にずいぶん苦しんだ。しかし最近になって、一番しておかなければならなかったこと、それは神様の事を伝える事だったのではないか、と気がついた。もっと共に時間を過ごせれば楽しい思い出ができたし、病気になって看病する事ができれば良かっただろう、しかし、とどのつまり永遠の命の事を伝えなかったら、この世の幸せもそれまでなのだ。イエス様の事を伝え、これさ
え握って天国に入ってもらえたら、後は御国で再開した時に何でもできることなのだ。

そうして、2ヵ月半日本に滞在してNJに帰ってきた。母が死んで全ては変わってしまったかのように思われた。確かに状況や計画は変わってしまった。しかし変わらなかったもの、それは神様はおられたという事実だ。人間の目にそうは見えなくても神様の時は確実だ。神様は一番良い時に一番良い場所に母を連れて行ってくれたはずだし、この地上においても最悪な状況が続く中、必要な助け手をいくつも備えてくれた。神様はいないと思える時でも、振り返ればそこに初めから共にいてくれたのだ。母が死んだ時「もう伝道できない」と思ったが、気がつくと今、苦しみの中にある人と一緒に祈れるようになっていた。『わたしはあなたの信仰がなくならないように祈りました。だから立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい。』ルカによる福音書22章32節。今回多くの人の祈りに支えられたが、イエス様ご自身も私の信仰がなくならないように祈ってくれていたのだ。そして、あの深い深い悲しみの淵からここまで引き上げてくださった神様の力、これこそがまさにイエス様を死からよみがえらせた神様の力なのだとわかった。

まだ母のことを思い出すと泣けてくるし、残された父の事も心配だ。試練はまだこれからかもしれないし、いくつもの喪失体験が待っているだろう。しかし起こった出来事に焦点を合わせていく限りこの世は「なぜ。どうして?」の連続だ。でも出来事にではなく、神様に焦点を合わせていけば、今はわからなくてもいつか、神様がすべての事を神様の目的を持ってされていると思える時が来ると思う。聖書の中で信じられないような試練に会った人たちがどうやって歩んできたか。それはどんな最悪の状況の中でもただひたすら神様を信じ、神様に忠実に歩んでいる、今その姿に心が惹きつけられる。私もそのように歩めたらと。
『人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを知らなければならない。あなたの神、主の命令を守って、その教えに歩み、主を恐れなさい。あなたの神、主があなたを良い道に導き入れようをしておられるからである。』申命記8章5~7節。

月報2008年5月号より

「わが主イエス 我を愛す」

私がキリストを受け入れたのは25歳の時、カリフォルニアで学生だったときでした。しかしその信仰の種は私がまだ5、6歳くらいの子供の時に当時通っていたプロテスタントの幼稚園での礼拝とその日曜学校で、蒔かれていたと思います。たくさんの聖句を習って暗唱したり、いろいろな賛美歌を歌った記憶はありますが、細かい出来事はほとんど忘れました。ただ、大人になっても覚えていたことが三つ。
キ 先生たちの平安と愛に満ちた様子。 こんな人たちは他ではあったことがない。
キ 聖句ヨハネ3:16「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」
キ 賛美歌461番の「主我を愛す」(文語の歌なので、意味は全く理解していなかったが音ですべての言葉を覚えていた。)
このあと、私の人生の表面から、キリストはしばらく姿を消し、学校と塾とクラブに忙しい普通の小中高校時代を過ごします。
その後、大学進学でプロテスタント系の女子大にいく事になりました。その大学にした理由はいろいろありますが、キリスト教を学べるというのもひとつの大きな魅力で、かなり期待感をもっていました。しかし、学内にあるチャペルでの礼拝とキリスト教学の授業で、おおきくつまづいてしまいました。礼拝では、信仰のある学生が祈ったり証をしたのですが、「私はまた失敗してしまいました。本当に私はだめな人間です。」という趣旨の言葉だけが心に残りました。 今思えば、それは、真実な悔い改めの言葉だったのでしょうが、その当時は、そのような暗い悔い改める姿勢など、私の生活のほかの場所では目にしたことのないことでそれにショックを受けて嫌悪してしまったのかもしれません。また、キリスト教学の教授が女性の牧師だったのですが、その牧師先生は、派手な服装で授業態度も悪い数人の学生を嫌って、
「あなたたちは終わりの日に裁かれる」と、とても厳しい言葉で戒めました。それで、クリスチャンというのは、自分の救いのために清く正しく生きて、いい行いをしないといけないと、思ってしまいました。今思えば、礼拝でも、授業でも、福音が語られていなかったはずはないのですが、 聞くには聞くが悟らない、の言葉どおりで、こころの目が閉じていました。
大学卒業後、異文化間コミュニケーションを勉強したくてカリフォルニアの大学に留学しました。留学した大学院の先生たちは、女性が多く、かなりラディカルなフェミニズムの先生が数人いました。そういう先生の講義では、伝統的なクリスチャン思想がどのようにアメリカの父系社会を作り女性を抑圧してきたか、というようなディスカッションが繰り返されました。私も影響を受け、フェミニズム思想に基づいたレポートを書いてすごくいい成績をもらう、という日々でした。まるで、ダマスカスロードでイエスに出会う前のパウロのようで、キリスト教を迫害するようなことを信じてレポートに書いていたと思います。神様を冒涜するようなことをたくさん書いたなあ、と思います。でも、どこか、心の奥底で、本当にこれが真理なのかなあと、暗いものを感じていたのも事実でした。また、勉強している内容が暗いのみならず、学科内の教授間、学生間の人間関係も激しい競争意識から殺伐としていました。このようにしてこの世的な、今にして思えば、暗闇の力に取り囲まれていたような学生生活でした。人間の開放、女性の開放についてレポートに書きながら、自分は何かに抑圧されていました。ここに神様は何人かのクリスチャンを送ってくださいました。
まず、同じキャンパスで、メシアニックジュウ(ユダヤ人のクリスチャン)の女の子に伝道されました。はじめはうっとうしく感じていましたが、ディベート好きの性格と自分が批判しているものをまず知らなくては、との思いから、彼女との対話を続けました。また、この対話によって、逆に彼女をこの抑圧的な宗教から解放してあげようという気持ちもありました。対話の内容よりもその熱心さ、辛抱強さと寛容に感心したものです。また、住んでいた寮でクリスチャンの友達ができました。話を聞くと、驚くような暗い過去をもっているのに、まったく元気がよく、その過去から解放されている感じがしました。また、彼らの信じているものは厳しいのですが、それにもかかわらず、抑圧感はまったく感じられなく、とても自由で明るいという印象で、日本の大学で受けたクリスチャンの暗いイメージと重ならないので疑問でした。さらに、日本人のクリスチャンの友人ができました。彼もとても複雑な家庭環境を抱えているにもかかわらず、なにかに守られているかのようで、私の理解を超えた平安のある人だということに、つよい印象を受けました。彼はクリスチャンだというので、キャンパスで伝道してくれた女の子との間に言葉の壁を感じていた頃でもあり、あ、丁度いい。この人にいろいろ聞こう、という感じで、いろいろ質問したり意見を述べたりしていました。すると、「君はグレイス(神の恩寵)ってしっている?」と聞かれました。神の恩寵。救いというのは、よい行いによってあたえられるのではない。無償で、恩寵によって与えられるものなんだ、というのです。そのときはじめて、清く正しく生きないと救われないという日本の大学時代からの思い込みは大きな誤解だったかもしれないと気づきました。
根本的なことがわかってないことに気づいた私は、とても疑い深いというか、 人にこれはこうなんだから信じなさいといわれるのが嫌いで、じゃあ、自分で読んでみようかと思って、NIV(英語訳の一つ)を購入して読み始めました。というのは大学のころから使っていた口語訳聖書には、キリスト教学のトラウマがあったからです。NIVは平易な言葉で書いてあり、英語の言語的性質もあるのかもしれませんが、理屈っぽくて、いちいち納得しないと前に進めない私にはぴったりで、まるではじめて読む書物のようで面白くて読むのを止められないという感じでした。そのころ、Long Beach にあるGrace Bretheren Churchの礼拝にたまに出ていたのですが、牧師先生が説教の中でローマ人への手紙のシリーズを始められました。そんなある日、ローマ人への手紙を読みながら、ああ、これは、この罪びとは私のことだ、という思いが心を占めました。そのころ大学院の殺伐とした人間関係の中で、自分の中になんと多くの悪意とうそがあることかを日々感じていたので、そのとき、価なしに与えられる救いを本当にありがたい、と思い、これが真理だ、という気分になって、イエスを受け入れたいと思いました。それで、牧師先生に信仰告白をして、一緒に祈ってもらいました。このときから、自分では、信仰を得たと思っていた。しかし、当時の感覚としては、こんな私を許してくれるイエス様って、なんていい人!という感じで、ギフトをいただいてただ喜んでいる、という感じで、自分を低めて、イエス様を主と呼ぶことにかなり抵抗がありました。日本語ではイエス様と様がつきますが、英語ではジーザスと呼び捨てなので、対等な感覚で信仰告白をしてしまったように思います。また、この理屈っぽい性格なのでいちいち 聖書の一見「矛盾」と思える箇所を気にして、これは本当の真理ではないのか、と疑って、間違ったものを信じてしまったのかと不安になっていました。
しばらくそのようなよたよたとした信仰者だったのですが、ある日、ロサンジェルスの高速道路で、車を運転していて、いきなり、子供のころに覚えた唯一の賛美歌が20年ぶりにこころに浮びました。それが、前述の賛美歌461番なのですが、「あ、そういえば、こんな歌あったな」と思って、くちずさんで思い出そうとしました。そして最後のところの「わが主イエスわが主イエス、わが主イエス、われを愛す」を歌ったとき、はっとしました。そのときはじめてイエス様は、私の主で、私はその主に従うべき存在なんだ、しかも、そのわたしの主は、 不平の多い疑い深いわたしでさえもこんなにも愛してくださっている、そして、本当にイエス様は生きていらっしゃる、と感じました。復活されたイエスさまにあったときのトマスの「わが主よ、わが神よ」(ヨハネ20:28)という言葉がありますが、まさにそのような思いでした。自分の低さ卑しさ、主の尊さ、そして その卑しい者のために命を捨てる愛、そしてその主が今、愛によって私に語りかけてくださっている、というさまざまな思いで、もう運転を続けることができなくなって、高速道路の路肩に車を止め、子供のように素直な気持ちでぽろぽろと涙を流して泣きました。そして、ああ、主は実に20年間も、子供のころ心のうちに蒔かれた種を守って下さり、この私が主のもとに帰ってくるのを待ちつづけてくださっていたのだな、と思うと、本当にひれ伏したい思いでした。それは、とても不思議な感覚でした。ひれ伏しながらも、高められているというか、自分はしもべでありながら開放された、という感じでした。また、迷子になった小さな子供が不安と恐怖でいっぱいのときにやさしい親の顔を見つけたような安堵の気持ちでした。
このとき、本当の意味で私は救いを得たのではないかと思います。この後、私はかわりました。それまでの私は頭で理解し、納得していただけだったのですが、それがイエス様を心から主と呼ぶことができるようになりました。また、み言葉を読む中で理解できないことや、納得できないことがあっても、み言葉が真実であることは揺らぎない事実で、人生の歩みの中で、イエス様に従って歩んでいれば、主がその答えをひとつひとつ与えてくれるだろうという思いに変わりました。
ローマ 8章14-15節
すべて神の御霊に導かれているものは、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れを抱かせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によってわたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。

月報2008年4月号より

「計り知れない神の愛」

礼拝の後、何人かの姉妹が集まって癒しの祈りをしておられる姿を見て、普通教会ではどこでも見られる光景ではありますが、ただ自分には、聖書の中に出てくるタラントの御言葉(マタイ25章14~29節)がいつも思い浮ぶのです。以前集っていた教会では癒しの祈りを教わっていました。このタラントの喩えと共に、せっかく学んだから用いなさいとよく実際に祈りの中で用いていました。

御子によって、私たちに語られている御言葉は大人から子供まで非常に解り易く語られています。しかしその御言葉一つ一つに神の愛が秘めされている事を、見逃すわけにはいかないと思います。この喩えの中にも一タラントを預かった者は、主人(神様)は、「蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方」だから怖くなり地の中に隠しておきましたと答えています。しかし神様はその様な方でしょうか。決してその様な方では在りません。なぜなら「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほど、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3章16節) タラントすなわち英語でタレントであり、賜物、才能、能力と言う意味で、この教会でもよく用いられています。我々はすでに救われた者であり(「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」ローマ書10章10節)、その私達を神は一人一人にタレントを与えて下さっています。この賜物を一タラント受け取った者と同じ行動をしないで、神の愛に報いていくのが我々クリスチャンの義務と思います。だから癒しの祈りをしておられる中に入って一緒に祈ろうではありませんか。また伝道に、教会の奉仕のためにそれぞれの授かった賜物をフルに使いこなし、神のみこころを成して行く時、我々は「神は大いなることを行って測り知れず、そのくすしいみわざは数えきれない。」(ヨブ記9章10節)神の栄光を体験し、更に信仰を増し加えて行けるのです。

自分はかって、思いを超えた神の愛に触れた事が有りました。それは2003年の秋、クイーンズに有る教会から離れ、マンハッタンの小さなチャペルで礼拝を守っている教団を新聞の広告で見つけ、当時インターネットで教会を紹介していたのは、非常に希でしたが、その教団はインターネットを用いていた為に幾らか理解を持って礼拝に参加する事が出来ました。それと自分にとって、非常に強い魅力が一つ有りました。それはこの教団が毎年一年に一回イスラエル派遣と言う旅行を企画している事でした。一年後、自分もこの派遣の募集をし、出発まで丁度一ヶ月前のある日、クイーンズの教会に集っている姉妹から、H姉が心臓の大手術をした為、これで終わりかもしれないので見舞いに来て欲しいとの要請でした。その三日後、行くか行かまいか心の定まらない心境で礼拝を前に、エルムハーストにあるH姉の緊急病棟を訪れました。何と見てビックリした事に、手術して数日後な為、臓器が十分に機能していないのか、顔から体全身が真っ赤で、しかも風船を膨らませた様に膨れ上っているのではないですか。何とか姉妹を元の元気な姿に返して下さいという一心で姉妹に手を当てて主に祈りました。そして次の週も、どうしても気になっていましたので、同じように礼拝前に、姉妹を見舞いに行きました。何とまた驚いた事に、その日の姉妹は臓器が機能を回復した為か、体全体の膨れも元の状態に治り、肌も正常に治っていました。ただ意識が戻ればと、深い深い眠りの中を漂っている植物状態ではあるものの、一命は避けれたと言う思いを感じ主に感謝しました。そして次の週も、植物状態の姉妹を見舞い、後は意識が回復するのみと主に祈り、もう見舞う事もないでしょうと決めていました。

ところが次の週の日曜日、イスラエルへ出発を前日にして、それは自分自身にとって大変な夢によって目覚めました。その夢とは『自分の前に髪の長く白い着物を着た方が、自分とは反対方向に向いて左腕か何かを枕にして床のうえで横になって寝て居られるのです。誰かと思い、その側を回ってその方の顔を見ると、眠っておられるのではなくハッキリと目が合った』 その所で驚きと興奮の中に目が覚めたのでした。正にその目は、あの御言葉がピッタシの「わたしが道あり、真理であり、いのちなのです。」ヨハネ14章6節 の中にある真理そのものを現していた真実なる目イエス様でした。もうその後は大変、その興奮は覚めることを知らず、予てからH姉の見舞いに行きたいと頼まれていたB姉を伴って病院にバーンと飛ばし姉妹の病室に着いて見ると、何と更に驚きや姉妹は眼を開いて我々を確りと意識しているのではないのですか。 一昨日前、久しぶりにB姉妹から電話を頂き、H姉から手紙が届き非常に元気でおられるとの事でした。H姉は手術当時、以前から糖尿病を患っておられました。その合併症が原因で心臓につながる血管が破裂したという説明で連絡を受けたのですが、それだけではなく、足を片方付け根から切断する大手術でした。その後リハビリ施設に移られたと言うので、再びB姉妹と訪問した時には、車椅子での生活ではあるものの、以前よりも元気な姿で回復され、今は日本で生活を送っておられます。

「真理と愛のうちに、御父と御父の御子イエスキリストから来る恵みとあわれみと平安は、私たちと共に有ります。」ヨハネの手紙第二-3節

月報2008年3月号より

「神様にあって強くなる」

あなたは何に頼って生きていますか?神様ですか?自分ですか?親ですか?友人ですか?名声ですか?社会的地位ですか?頼っているものが崩れたらと不安になりませんか?

私は母に愛されて愛されて育ちました。親の愛、と言っても様々と思いますが、私は右にも左にもこんな愛をみたことがない、それ程にたくさんの愛を注いでもらったと思います。とても幸せでした。私も母が大好きでした。

小学校低学年の時に、私をかわいがってくれた祖母が死に、高学年になって祖父が死にました。私を愛してくれた人は死んでいく、一人になるのが怖い、そんな気持ちが私の心に起こり、無性に不安になりました。いつかはお父さんも、お母さんも死ぬの?、そしたらどうして生きていけばいいの?、私も死ぬの?、死ぬのに何故生きるの?、そんなことを子供の頃から考えていました。死後はどうなるの?、と問う私の疑問に答えてくれる人はいませんでした。

私の父も母も病気持ちでした。特に父は、入院、手術を繰り返していましたし、子供ながら、父の死後を心配し、準備する母の気持ちを感じ取っては、父はいずれか死んでしまう人、と漠然と思うようになっていました。私の心の中には、父は死ぬ人=母は死なない人、という方程式ができていました。母に、「お母さんはいつか死んでしまうの?」と聞くと、よく優しく、「直子が結婚するまでは死なない、死ねない」と言っていました。それを聞いては、早く結婚してはいけないなぁとよく思っていたものです。私の方程式も母の思いも完成されませんでした。父は今も元気に生かされていて、そして、母は私が13歳のとき、亡き人となりました。

母の死は、衝撃的でした。私は、母とは仲が良く、喧嘩をしたことも、また母に我が儘を言った覚えもないのですが、一度だけ母を困らせた記憶があります。それは、母の死ぬ前夜のことでした。あの日に限って私はいらいらしていて、急に体調を崩して横になっている母の前で、次の日の家庭科の授業の宿題を終わらせるために必要なアイロンの場所を教えてくれないと困る、と泣きました。今考えたら、その時は、きっともう母には何も聞こえてなかったのではと思います。それでも私が何かを言っているので、母はだるそうに目を開けて、私を見て、そしてまた目をつむりました。それが最期、次の朝、死んでいました。母がこの世で見た最期のものが、母が愛し愛した私のそんな醜い姿だったと思うと、私は辛くなりました。こうして私は自分の中に宿る罪を知りました。母の死後は、父に言いたいことを言わないように、喧嘩をしないように努めましたし、甘えない子供へと変わっていきました。私が結婚するまで死なないと母は何度も約束してくれましたが、人の言う事や約束は頼れない、一人でも生きていける力を身につけていかなければ、そう思うようになり、高校から単身で留学することを決めました。

私の罪は、イギリスに場所を変えても、私に再び迫ってきました。私は母に愛され、また私も誰よりも母を愛していると思っていましたが、日が経つにつれ、母のいない生活に慣れ、また母のことをを忘れるようになりました。今ではどんな風に母と会話していたのか、母がどのような仕草をしていたか、どんな表情をしていたか、どんな声だったのか、ほとんど思い出せません。顔だって写真がなければはっきりと思い出せなくなっていたかもしれません。母ほど私を愛してくれる人はもうこの世にはいない、その母を自分は裏切っているような気がしました。

18歳のとき、私は人間関係で苦しみ、自分の心に宿った醜い思いが、私が罪人であることを認めざるを得なくしました。そしてそんな中、教会に行けばいいのかもしれない、何とかなるかもしれない、何故かわからないけれどそんな切羽詰った思いが与えられました。日本に一時帰国した折に、親友が通っていた教会へ行きました。そして、その日のうちに、神様に触れられて、神様を信じました。ああ、この神様だ、この神様が唯一の神様、私の罪を赦してくださる、そして私を失望させない、そうわかりました。人は私を失望させるかもしれない、でも私を永遠に失望させることのない神様が存在する。「私は決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。」(ヘブル13:5) 私は喜びに溢れ、私の人生は、がらっと変わりました。それ以来、神様を信じて歩んでいます。常に神様に喜ばれる信仰者でいられているとはとても思いませんが、神様を否んだことはありません。

2003年9月、神様の本当に不思議な導きによりニューヨークの地に足を踏み入れました。ニューヨークに来て、気付かされたのは、如何にそれまで私は、たくさんの友人に恵まれ、人に、仲間に頼って生きてきたかということです。ニューヨーク、アメリカにはあまり馴染みが無く、来た当初は、知り合い、頼れる人はいませんでした。仕事も私にとって全く新しいフィールドでした。私は、孤独、そして不安でした。恐れもありました。でも、当時の私には、他に行くところがなかったのです。私には、神様が私をここに導いたという信仰がありましたので、それだけに頼りました。時に、神様の意図が私たちにはわかりません。でも信仰というのは、私たちが理解できることを信じることではなくて、わかってもわからなくても信じることだと思っていますので、神様が与えてくださった仕事に、教会に、環境に、できる限り誠実でいよう、目の前のことを精一杯やろう、そう歩んできました。

4年半が経った今になってニューヨークに神様が置いてくださった意図が分かってきた気がしています。2008年年初より、錦織先生に薦められた「日々のみことば」を読んでいますが、1月3日の箇所で、御使いはマリアにイエス様の受胎を告知します。「どうして」と問うマリアに、御使いはこう言われました。「聖霊があなたに臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。」(ルカ1:35) この言葉が私を深く捉えました。私は本当に神様に全身覆われていると感じました。気が付いてみると、私はもはや孤独でも、不安でもありません。恐れもありません。まさに神様が常に私を覆って下さっているのです。私は以前の自分とは別人の如く、強くされていました。私は今、とてもハッピーです。悩みが無いわけではありません。すべての事柄がうまくいっているわけでもありません。でも神様が私を愛し、ご計画を持って、私を導き、強め、造り変えてくださっている、それで充分なのです。

「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア1:9)

私たちは大丈夫です。何があっても大丈夫です。神様の覆いがあるのです。神様の愛のゆえに感謝します。そして、神様の御名がもっともっとほめたたえられることを心から願い求めます。

月報2008年2月号より

「私は2歳半の頃から…」

私は2歳半の頃からお母さんとお姉さんと一緒に教会に行っています。なので、日曜日に教会に行くというのは当たり前のことでした。小さい頃は、日曜日には特にすることもないし、礼拝の間はいつも他の子供達と一緒にジムで遊んでいたので、教会に行くことをだんだん好きになってきました。子供達は、私より2 – 4歳ぐらい年上でしたが、その当時、気にしないで、遊んでいるうちに、友達になりました。
10歳頃から、私はちゃんと礼拝に出席することになりました。でもそれは先生のメッセージを聞きたいから礼拝に出たのではありませんでした。私が普段一緒に遊んでいる友達が礼拝に出ていて、私一人でジムで遊ぶのが嫌だったので、みんなと付いていきました。その理由で私はメッセージを聞き始めましたが、先生が言っていることは全然分かりませんでした。だが、11-12歳になると、だんだん分かってきて、先生の話を聞くのが楽しみになりました。そして、その時から私は神様を信じました。

その次の2-3年間、教会の友達がみんな中高科に入って、仲間の中で、私一人がまだ上級科に残っていて、まるで置いてきぼりにされたみたいでした。一年ぐらいたって、私もやっと中高生になって、「やった!」と思いました。でも、その後、中高生のメンバーが一人一人、洗礼を受けていきました。そして、やがて、年上の中高生はみんな受洗をして、次に洗礼を受けるはずの人が私になりました!そのことからすごいプレッシャーを感じて、その上に、ときどき教会の人から「菜美はいつ洗礼を受けるの?」と聞かれる時もありました。私も正直「いつ洗礼を受けるのかな」とか、「13年間も教会に行っているのに、なんでまだ洗礼を受けてないのかな?」とかいろいろ考えていて、いつもそのことで神様にお祈りしていました。
今年の8月に私は毎年行っている中高生のB.I.G.キャンプに行きました。そこで、中高生の先生とone-on-one sessionで話した時に、先生が「神様を信じているなら、それだけでいいんだよ。信じているなら、洗礼を受けた方がいいよ」と言ってくれて、気付きました。私はいつも神様を信じていました。でも、信じるだけだと物足りなくて、もっと聖書を読んで、お祈りしたら、神の子供になれるとずっと思っていました。でも、中高生キャンプで学んだ通り、「 神様を信じているなら、それだけでいいんだよ。」本当に単純でobviousなことかもしれないけど、その一言で、私は洗礼を受けたいと思いました。
中高生キャンプが終わって、何週間後に、聖書を読んでいると、不思議にヨハネ1:12を開いて、こう書いてありました:「しかし、この方はご自分を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」私にぴったりの聖書箇所でした。神様は私の祈りに答えてくれました。
そういうことで、神様を信じて、洗礼を受けて、そして、神様から光をいただきました。そして、私はその光で、人生を生きたいと思います。私が好きな聖書箇所、エペソ5:8にかいてあります:「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」これからは、光の子として、私が信じている神様といっしょに生きたいと思います。そして、もらった光を持って、2008年、新しい一年に私は飛び込んでいきます。

月報2008年1月号より

「ニカラグアの声となって」

半年前の5月、私は Messiah College の生徒達14人と、宣教のためにニカラグアの国に2週間行く機会が与えられました。Food for the Hungryの代表の人たちと一緒に協力し、色々な教会のプログラムや学校の授業を手伝い、建物の修理をしたり、そして地元の人の家を回ってニカラグアの人々のために祈りました。私達は出発する数ヶ月前から毎週会議をし、様々な計画をたてていましたが、旅の詳しい内容は全然分かっていませんでした。ただ祈り、神様がどのように私達を導いて遣わしてくださるかを待つだけでした。
最初からチームのリーダーに メマナ、スペイン語の通訳、頼むね。”と言われていたので、飛行場に付く前からものすごく緊張していました。でも出会えた地元の人々は、
ものすごく心の暖かい人たちばかりで、一生懸命私と話してくれました。初めの1-2日はオリエンテーションで、首都であるマナグアを観光し、歴史を学びました。
そして、2時間ほど離れたチナンデーガと言うスラム街に移動しました。その町の小さな教会の牧師さんと会って、子供たちのプログラムを手伝いました。
辺りの小学校は午前中しか授業がないため、その後はよく教会に来て皆で遊んで、短い礼拝に参加していました。ちょうど母の日の時期だったので、一緒に母のためのクラフトを作り、スペイン語で讃美の時間をリードしました。その後、辺りに住んでいる元ヤクザのメンバー達と一緒にサッカーも遊ぶ機会もありました。
でも私にとって、チナンデーガで一番印象に残ったのは、2グループに分かれて人々の家を回って祈りの時をもてたことでした。町を見歩いてみると、“こんなのでどうやって暮らしていけるの?”と思うぐらいボロボロで、台風に襲われたかの様な家ばかりでした。それなのに訪ねていくと、人々は皆“どうぞどうぞ、早く上がって! 私達の家にようこそ!わざわざ来てくれてありがとう!”と言い、喜んで家を案内してくれました。そして、“何か一緒に祈ってあげられる事はありますか?”と聞くと、出会ってから10分もたっていないのに、皆 私達に心を開いてくれて、色々な個人的な悩みを話してくれました。教会に通えない理由、家族内での問題、体の癒し。。。色々な祈りの課題が出ました。
なかでも一人の女性が次のように言ったひと言は一生忘れられません。
“長い間、私がどんなに辛い思いをしているのか、誰かに分かって欲しかったけど、話をこうして真剣に聞いてくれる人は、今まで誰もいなかったわ。本当にこんな私のことを思ってくれてありがとう・・・“
私たちが出来るのは話を聞いて一緒に祈ってあげることだけでしたが、チナンデーガの人たちにとっては、それだけでも励ましになったことが私には驚きでした。
もう一つの私達の大きなプロジェクトは、ボアコと言う山のど真ん中にある小さな村の辺りの幼稚園と小学校で歯の手入れの授業、そして讃美と聖書の時間をを手伝う事でした。マナグアとチナンデーガとは違い、ボアコの人々は、小さな馬小屋のような家に住み、床は全部土、トイレは外に掘った穴だけ、水も全部何キロも離れた井戸から毎日運ぶ、と言うような生活をしていました。そして学校ではほとんどの子供達は歯ブラシや歯磨き粉を見たこともなく、ちゃんとした歯磨きの仕方も知りませんでした。一度も歯医者に行ったこともなく、かなり歯が痛んでいた子もいました。
そのような状態だったので、私達は先生方と協力し、歯磨きのポスターや、子供たちが分かるように劇も作りました。外国人を見るのが初めてだった子供たちは大喜びで、私たちがアメリカからプレゼントとして持ってきた、歯ブラシと歯磨き粉のセットも笑顔で受け取ってくれました。そしてその後は子供たちと讃美をし、“よきサマリヤ人”の劇を発表しました。ものすごくシンプルで、たいした劇ではありませんでしたが、子供たちは目を真ん丸くしながら真剣に見てくれました。子供たちが大好きだった一曲の歌詞の一部を紹介したいと思います:
“Eres todopoderoso, eres grande y majestuoso. Eres fuerte, invincible, y no hay nadie como tu”
(あなたはは全能の神、威厳のある素晴らしい方。あなたの様に強くて
征服できないお方はいない)。
この旅に行って一番驚いたのは、あんなに貧しく暮らしているニカラグアの人たちが、どんなに私達を厚くもてなしてくれたか、と言うことでした。牧師の家、教会、そしてホストファミリーの家に泊まりましたが、皆私達のために素晴らしいごちそうを作ってくれたり、洗濯をしてくれたり、本当に家族の一員として受け入れてくれました。そして私たちが何か少しでもしてあげたら(例えば家の掃除や料理の手伝いをしたら)その十倍のものを私達に与えてくれました。それから、出会えた人たち一人一人と個人的に話をして、どういう重荷を抱えているのかを少しでも理解できた事が感謝でした。私のあまり上手でもないスペイン語を本当に辛抱強く理解しようとしてくれ、私を信頼し、悩みや祈って欲しい心配事を涙を流しながら語ってくれました。
今振り返って “なんであんなに貧しくて苦労一杯の生活をしている人たちが、毎日笑顔で私達を出迎えられたのだろう?どうして出会ったばかりの私達に色々な話をしたがり、やさしくしてくれたのだろう?”と思うと、それは人間関係を通して神様の愛に満たされていたからだと思います。アメリカでよく見る物質主義な考え方とは違って、ニカラグアの人たちにとって信頼できるのは、お互いの励ましと神様の支えでした。今の時代では自分がどんな家に住んでいて、どんな車を持っていて、どんなにお金を持っているかが一番のプライドと言う人が多いかもしませんけれど、そのような物がないニカラグア人は人との出会いと交わり、そして信仰を第一にしていました。
あと、もう一つ感じたことは、もしかしたら、大学生14人がニカラグアに行けるために集めたお金を大きな小切手にして、色々な団体にドネーションとして送った方が、簡単で役に立ったかもしれませんが、実際に現地に行って人々と出会って、顔を見ながら話をしたり、心から話に耳を傾けたりする交わりに、どれほど価値があるかと言う事が分かりました。
ボアコで出会った牧師さんが私たちが帰る直前にこう言いました:
“You are the voice of Nicaragua nowモ.  私たちが見て経験した事をアメリカに持って帰り、ニカラグア人の物語を伝えてほしい・・・ニカラグアの声となって・・・”
それが牧師さんの願いでした。
本当にこのような経験が出来た事を神様に感謝します。また、私がこの旅に行けるようにサポートしてくださった教会の皆さんに心から感謝しています。

“主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。モ  -詩篇18:2

月報2007年12月号より

「待ちつづけてくださった神様」

私がどのようにイエス・キリストを救い主として受け入れたか、書きたいと思います。

私の家はクリスチャンホームで、物心ついた時は、すでに神様の存在を信じていました。小学校時代は近所の子に聖書の話をしたり、教会へ誘い、連れて行ったり、積極的でした。特に「みことばカード」をもらうのがうれしくて、もらったカードを大切にし、暗唱していました。
しかし、中学校くらいから、友達の誘いを受けることも増え、映画や他校の学校祭、試験の前の勉強等があると、教会を休みたい、と思う気持ちも出てきました。母に聞くと、「日曜日は神様に礼拝をささげる日。神様には余った時間をささげるのではなく、第一にしなければならないんだよ」と許されませんでした。「お父さんやお母さんは自分で選んでクリスチャンになったからいいけど、私はキリスト教を選んだわけじゃないのに・・・」とふくれながら教会へ行ったこともありました。

18歳の時、私は進学のため、札幌で一人暮らしをすることになりました。我が家はけっこう厳しい家庭だったので、私は不安よりも期待と解放感でいっぱいでした。
でも、日中は私の行っていた教会の開いていた救世軍の保育園で、見習いとして働き、夜は学校で3年間学び、保母と幼稚園教諭の資格を取るという生活で、午後9時に授業が終わって、ピアノの練習、バドミントンのサークル、そしてお風呂屋さんへ10時半頃駆け込み、本当に枕に頭が着くともう眠っているという毎日でした。それでも日曜日は、毎日顔をあわせる園長が教会でメッセージなので、もちろん休むことなく、毎週教会に行っていました。(これは一人暮らしの条件として両親との約束でもあったのです)
しかし、私の気持ちは、神様は信じているけれど、イエス様の十字架は遠い昔の物語のようであり、自分と繋がっている実感がありませんでした。

そんな21歳のある特別集会の夜、イエス様が私たちの罪のために十字架で死なれたことが語られていました。いつもは「またその話か・・・」という気持ちでいるのですが、その時は、心の中で「神様、あなたがわたしを求めておられるのは、わかっています。でも勇気がありません。K先生を遣わしてくださったら、私は前へ踏み出します。」と祈ってみました。
すると、離れた所にいたK先生が、私の隣に来ていて「私と一緒にお祈りしませんか?」と声をかけてくださいました。
「神様は私の祈りを聞いてくださっている!!」と心が打たれ、素直な心でK先生から話を聞きました。そして、私の罪のためにイエス様が十字架で死なれたこと、私の罪が赦されたということを信じることができました。
その時、与えられたのは、ヨハネによる福音書15章4-5節の
「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。もし、人がわたしにつながっており、わたしが、その人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」との御言葉でした。

神様はなんと気が長いお方でしょう。21年もわたしがしっかり神様に向き合うのを待っていてくださったのです。
それまで神様は私にとって、いつも見られている、厳しい、息苦しい存在でした。でも、それからは、赦された、愛されている喜びでいっぱいになりました。

神様が私を新しくしてくださったのです。

今、私は教会学校の教師の一人に加えて頂いています。子供たちに聖書が語られ、御言葉を暗唱しているのを見ながら、今、まかれているこの種が、いつ、この子たちの人生で花を開くのかと思うと、希望でいっぱい、うれしくなります。

テモテへの第2の手紙3:15
「幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。」

神様は生きておられ、豊かに私たち一人一人に働きかけ、日々、つくり変えてくださることに感謝しつつ、神様と共に歩んでいきたいと思います。

月報2007年11月号より

「B.I.G.キャンプ 2007 GOD is soooo BIG! – 神様は無限大!」

8月3日(金)から5日(日)まで二泊三日、Shiloh Bible CampにてB.I.G.(*注1)キャンプがもたれました。今年は、プリンストン日本語教会の栗栖牧師を講師としてお招きし、”Think BIG! Live BIG! GOD is BIG!”をテーマに、ダビデの生涯を中心にみことばのときを持ちました。
JoyJoyキャンプ終了後の金曜日、午後6時半過ぎに教会を出発。途中、ナビゲーションシステム(?)の故障(??)に見舞われ道を何度か間違えつつも、無事にキャンプ場に到着、現地集合組だった栗栖牧師及び津波古姉(プリンストン日本語教会)と合流しました。

早速第1回目の集会を持ち、自己紹介の後、ダビデが王として選ばれる過程(サムエル記上 16章6-13節)に学びました。
「わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」 (7節)
人が目で見ているものと、神さまのVISIONとは必ずしもいつも同じではない。そして、God is BIG!、なのだから、神さまが最高のVISIONを持って導いておられるのだから、逃げないで、一歩一歩を歩んでいこうと、みことばから励まされました。私たちはGreen Orange (*注2)です。

参加していた中高生のうち、JoyJoyキャンプスタッフをしていたメンバーは、さすがに疲れていて早く寝るだろうとの予想は見事にはずれ、賛美をし、語りあい、あるいはゲームをともにしつつ、1日目の夜は更けていきました。

翌土曜日、朝7時から祈りのときを持ちました。年齢別に三つのスモールグループに分かれ、ローマ5章6-11節からみことばを分かち合い、またともに祈るときとなりました。

朝食後、第2回目の集会、ゴリアテに立ち向かうダビデ(サムエル記上 17章)の姿から、「神さまはBIGな方だから、どんな敵にも勝つ」ことを学びました。
周囲や味方の声に束縛されて、逃げてしまうのではなく、勇気を持って、神さまを知って、歩んでいく。いつでも、どこにいても、「みことば」と「祈ること」とを握りしめて、歩んでいく。
「神がわたしたちの味方」(ローマ 8章31節)であり、「わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある」(ローマ 8章37節 -新改訳では「圧倒的な勝利者」)、そして、これはただの「理想論」ではなくて、神さまの祝福の約束のみことばなのだから、必ずその通りになるのだと、熱く語られました。

午後はレクリエーション。クイズタイムの後、外に出て「逆かくれんぼ」(?-詳しくは最寄のキャンプ参加者まで)を楽しみました。隠れてもいい範囲の外に出て隠れる者、毎回必ず見つけ出すエキスパート、最後にひとりだけ取り残されてもあわてない者など、各々の個性が、よく見えました。
その後はフリータイム、キャンパーとスタッフが一対一でゆっくり語りあうときを持つなど、恵まれたときとなりました。

賛美のときを持った後、夕食、第3回目の集会をもち、サムエル記下 12章・13章及び詩篇51篇 から、「罪」と「イエス・キリストの十字架と復活」に思いをはせました。
他の誰かが、自分の罪のために死んでくれたのだとしたら、自分は、生きているのなら、生かされているのなら、生きていく。ある北朝鮮のクリスチャンの話をうかがいました。また、栗栖牧師が証をしてくださいました。こころ打たれ、また、確かに神さまの栄光を見ました。

集会後、キャンプファイヤー。今までの罪、忘れたいこと、自分が縛られていることなどを、各自が紙に書き、燃える炎の中に投げ入れ、ひとり一人が、神さまの前にこころを注ぎだすときとなりました。(マシュマロも、とってもおいしかったです。)

翌主日のご奉仕がある栗栖牧師と津波古姉はキャンプファイアー後、帰宅の途につかれ、2日目の夜、さぞ疲れがたまっていたであろうはずのキャンパーは(そしてスタッフも)、しばしのときを惜しむかのように語りあうときをもちました。

最終日、祈り会の後、朝食。土曜の夜の集会に引き続き、錦織牧師が合流され、第4回目の集会がもたれました。参加者ひとり一人が証を語り、ともに賛美し、また祈りのときをもちました。
その後、ヨハネ15章1節-7節から、錦織牧師を通して語られました。イエスにつながっていること、イエスがひとり一人を綺麗にすること、用いられるために選ばれたこと、「行って実をむす」ぶこと(16節)。
最後に来年のキャンプには、少なくとも今年の倍以上の参加者があることを祈りつつ、集会を終えました。

集会後、例年お楽しみの男子グループ対女子グループの掃除対決。部屋及びシャワー・トイレの掃除の出来具合を競います。今年は、公正な審査の結果、男子グループが勝利!連勝中です。(女子グループ、来年はがんばれ!)

それぞれがそれぞれの思いを大切に抱えて、二泊三日を過ごしたShiloh Bible Campを出発、教会へ直行し、主日礼拝をもってB.I.G.キャンプは終了しました。
みなさまの尊いお祈りに感謝します。
プリンストンから駆けつけてくださった栗栖牧師、津波古姉、その他、さまざまのところで祈りとご奉仕をもって支えてくださったお一人お一人に、スタッフ一同感謝しています。
5日(日)の昼食を用意してくださったみなさま、ありがとうございました。(毎週食べたいぐらいにおいしかったです。)
そして、キャンプに参加してくれたひとり一人にも、感謝しています。

栗栖牧師がキャンプ後1週間ほどして参加者宛てにメールをくださいました。
「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」
ヘブル 13章8節

主に在ってひとつ

*注1:B.I.G. :中高生クラスは呼称を変えました。これからは正式名称B.I.G.です。よろしくお願いします。B.I.G.とは、モBelieve in God and Make it Big,モ、メBelieve in God and Make it Grow,モ、メBelieve in God and Be Big,モと、いろいろな説がありますが、ともかく、モBelieve in Godモ - 神様を信じる輪を大きく広げていこうという思いが込められています。

*注2:「KOの証人」さんのコメント(以下)ご覧ください。

キャンパーからの声を紹介します。

-「はじ」さんから
『3日間という短い期間の中高生キャンプに参加した時、その初日のうちからいらいらしていた。
この夏の間そのキャンプとその週の間に行われた Joy Joy Camp 以外は、サッカーと遊び(息抜き?)と勉強とで毎日がただただ過ぎていた。この夏に大きく期待を抱いていた僕にとっては正直信仰の面でとても物足りない気がしていた。その自分の期待に応えられる程の成長をしていなかった事に恐らく苛立っていたんだろう。自分のゴール、自分が作ったハードルを越えることの出来ない事について苛立ちを感じ、その感情を抱きながら参加した中高生キャンプでした。
しかしその僕の心を神様はそのままにはされなかった。

何かキャンプなどのイベントがあると「ボワ」っと燃えるという悪い習慣がいつの間にか身についてしまったのか、「毎日の生活の中で神様との時間を持つ」という事をしていてもいい加減だったり、「何か一つ足りない」と言う思いを常に持っていた日々が続いていた。しかし、神様はその僕の心と姿勢を問いかけ、何かのイベントの時だけ燃やされるのではなく、毎日のありふれた生活の中での神様との交わりの時が、聖霊に満たされた時が必要なのだと思わされました。』

-「あっこ」さんから
『最後の夜私は天の川を見ました。
初めて見た天の川、真っ暗な空を宝石箱に変え、本当に空に輝く道がありました。
その天の川を見ながら本当に神はなんて大きいんだろうと感じました。
このキャンプで神の愛、みんなの愛を本当に感じました。
栗栖先生の証を聞いて、何でこの人はこんなに自分の汚かった過去をこんなガキ12人にも言えるんだろうと思いました。本当に自分たちは愛されてるんだ、栗栖先生にも、みんなにも、神様にも愛されてる。
私はこんなに幸せでいいのだろうか???なんて思いました。

キャンプで神の偉大さ、素晴らしさ、大きな愛を学びました。
自分は愛されてる、この大きな神様が自分を見ていてくれる、本当に心の奥底から喜びがあふれる体験を私はこのキャンプでしました。
キャンプで学んだこと、感じたこと、大学でも忘れずにがんばります。
ありがとうございました。』

-「KOの証人」さんから
『 – ダビデと自分 –
�@ダビデは仲間(兄弟や周囲の人)から『お前はだめだ』とか『勝てるわけない』といわれても頑張った。
�A僕は、心の自分から『お前じゃ無理だ』とか『負ければいい』といわれる。→頑張れる

�@ゴリアテからすごい侮辱を受ける。→でも頑張った。
�A僕らの壁・敵からダメージを受ける。→頑張れる。

�@神様からのプレゼントは勝利
�A神様からのプレゼントは勝利

神様がダビデにビジョンを与えてくれたように僕達にもビジョンを与えてくれる。
神様がダビデに勝利を与えてくれたように僕達にも勝利を与えてくれる。

頑張るとは?
→神様の計画に沿って生きると決心し、神様を信頼すること。

神様の望んでおられること?
→今僕が考えているのは神様の愛している人々に仕えることで神様に喜んでもらうこと。
このキャンプを通してさまざまなことを聞くことが出来た。仕えて生きることも大切だ。

そして神様の計画をかみしめながら(味わいながら)※グリーンオレンジであることを認め生きていくことが大切だとわかった。
※注:まだ熟したみかんではないが、熟した美味しいみかんになるために通る道であるということ。』

-「りょうすけ」さんから
・ Donユt worry about the future: God already has a vision for us
・ Donユt look at the past to see regrets, but to see blessings
・ Our weapons: Godユs word/prayer/faith: defeat our Goliath
→ Made more than conquerors
・ Break our pride

・ Live so that a testimony explaining the love of Christ remains / is made
← Greatest offering to God
・ Stay tied to the tree
・ Felt I need to recharge
– God is NOT most present at retreats and camps
– God is most present EVERYDAY
– When I need to メrechargeモ: I can look to him anytime
・ Bible Verse: 「ところがイエスは、『なんということでしょう!それでも神を信じているのですか?そんなにこわがったりして。』」マタイ8:26
・ He replied, メYou of little faith, why are you so afraid?モモ Matthew 8:26 (LivingアニメBibleより)

<おまけ>
スタッフたちから、ひと言二言。

『キャンプ中、同じ御言葉を何度も与えられました。「これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」 ローマ人への手紙8:37』

『燃えるようなあつ~いキャンプというよりは、じっくりじわ~とみ言葉を温めるあったか~いキャンプでした。
私のために犠牲になった方がおられるなら、私はその方のために生きなければいけない!
そんなキャンプで感じた思いは、今でもしっとりと、しかし強く感じています。
参加した中高生一人一人にもそれぞれ、心に温かな思いを持ち、キャンプを去ったようです。
神さまは本当にBIGなのです。
そして、このニュージャージーの中高生のB.I.G.は何て祝福された愛された集まりなんだろうと改めて思わされました。
神さま、一人一人を、そしてこの集まりを祝福し続けてください。』

『栗栖先生に、「なんで受洗したの?」と問われて、「そこに手が差し伸べられているのなら、その手を握り返したい。そう思いました。」と、素直に(?)答えた自分のことばが、何度もなんども自分の中を、あれからぐるぐる回っています。この、僕の右の手を、イエスさまが、今までも、今も、これからも、いつも、握っていてくださる。僕に、握り返す力がないときにも、イエスさまは、しっかりと握っていてくださる。自分の右の手を見て、開いたり閉じたりするたびに、そこにイエスさまの手の温かさを感じます(イザヤ 42:6-7)。 B.I.G.キャンプに、このメンバーとともに、この時に集えたこと、神さまに、ひとり一人に、感謝しています.。 ありがとう。 これからもよろしく。です。 主に在ってひとつ。』

『本当に私自身が楽しみました。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」エレミヤ 29:11』

月報2007年9月号より

「教会に入って特に印象に残ったものは…」

教会に入って特に印象に残ったものは、人々の、特に子供達の(歓迎の?)笑顔でした。皆さんのお優しい歓待にも感銘を受けました。そして、礼拝が始まってからの十数年ぶりのオルガンの賛美歌の音色。聖句、説教、、、とにかく、涙を隠すのに必死でした。涙の理由はその時は分かりませんでした。「心が癒されているのかな」ぐらいです。

けれども、その日以来、私に芽生えたものがありました。欽定訳の聖書は持っていたので久しぶりに読み進め、やはり難しいので途中で日本語のものを買い求め、日曜日のレッスンを何とか調整して礼拝に参加出来るように試み始めたのです。

そして、決心、というか我慢が出来なくなった感じですが、何回か礼拝に参加して後、1月のある礼拝が終了してからフラフラと錦織牧師のもとへ近づいて言いました。「あのー、2月28日が誕生日なんですけれども、その時に洗礼を受けさせてもらえたらと思いまして、、、」

その時も気持ちが一杯一杯で、どのように洗礼というものをお願いしたらよいのか分からず、皆が生まれ変わるものなんだと言っているし誕生日が近かったので、とりあえず思いつくまま言ってしまったのです。思い起こすと半笑いのシーンで、当然ながら先生は「こいつはミーハーなんじゃないか」と心の中で思われたのかもしれません、返す刀、「いやあ、洗礼って言うのはね、、」と始められ、最後に「いくら望んでも(洗礼を)してあげられないんです」と仰られました。

先生は、ただクリスチャンが最低限信じなければならないことを説明されただけなのですが、最後の言葉でショックというか焦ってしまい、私の次の句を継げずにいると、先生はそれを察したのか「とりあえず話でも」と礼拝堂の中へ招いて下さいました。

そこで前述のような出来事や自分の状況を、上手く説明できませんでしたが、先生にお伝えして、自分が生まれ変わりたいことを訴えました。途中から涙涙で情けなかったのですが、先生はご理解くださり、その場で「最も純粋な福音」であるローマ人への手紙を奉読した後に、自分の言葉で信仰告白を致しました。イエスに執り成しの恵みを信じ祈ることを誓ったのです。

そして、先生のNY面談日に信徒としての基本的な勉強をさせて頂いた後、私の誕生日ではないものの、嬉しい偶然にも尊敬するルターの誕生日にあたる2月18日に受洗させて頂いたのです。コンサートで良い演奏が出来た時のように、その時の事はほとんど覚えていません。

私には何が起こったのでしょうか?

既に書いたとおり、うつ状態の私でした。元来が積極的に外へ出ることのない性格ですから、仕事と学校以外は荒れ放題の部屋に篭っていたわけです。何事もバランスですから、礼拝に初めて参加した時分の私の心は、いわば太陽の光を極端に浴びないモヤシか深海魚の形のように歪になっていたわけです。

今では断言することが出来ます。あの時、私の歪な心は「癒されていた」という次元ではありませんでした。実に、主が心にお触れになられたのです。イエスの磔刑による贖罪を良く知らなかった時でさえ、私の事をご存知だったのでしょう、また丸い形に戻してあげようとなさったのです。それを体験した私には分かります。あのような単純極まりないことが、このように感嘆調で書くのがバカらしくなるくらいのことが、神との出会いであり、奇跡の御印であるということが!そうでないと説明が出来ないのです。まったく理屈じゃないのですから。

もちろん、ヨブの時のように嵐の中に主の声が木霊したわけでも、あの有名な神の弁論を開始されたわけでもありません。しかし、それが何でしょうか?奇跡は目に見えなければならず、神は見えて聞こえなければならず、誰にでも分かるものでなければならないのでしょうか?同じく、私達は神に触れられるためにはなるべく辛い経験をしなければならないのでしょうか?善行を、はたまた悪行を積まねばならないのでしょうか?

神の臨在の個人的な証言という証の本来の目的に加え、私は、自身と関わりの深いヨブ記と自らの体験を通して、これらの疑問はすべて否ではないかということも提起したいのです。

前半部分の掲載後、「驚いた」「すごい」という感想があったことに少し違和感があります。私は、私小説を書いたわけでも、スキャンダラスに体験告白もしたつもりは全くありません。誇張も虚構もありません。努めて客観的に書いてきました。そして、私の人生経験もごく普通だと思うのです。恋愛し、失敗し、悩み、調子に乗り、好きな事にのめりこみ、、、程度の差はあれど、私が経験してきた事は誰もが一度は通り、または通らなければならないものではないでしょうか。

ヨブは、私なぞとは違い非の打ち所のない義人でしたが、想像を絶する苦しみを受けます。勧善懲悪、因果応報的な教訓でもってヨブを慰め悔い改めさせようとする友人達(青年エリフが私にとり未だ謎ですが)も登場し、深遠な神義論が展開されます。しかし、身に覚えの無いヨブは遂に神への疑問を呈します。

人生の不条理から生ずる神への疑念、そして神の「沈黙」。遠藤周作が描かずとも、クリスチャンであれば誰もがぶつかる難問だと思います。幸運なことに、ヨブの場合には「沈黙」が続きに続いたところで主の声が聞こえます。しかし、それはヨブの問いや関心を全く無視したものです。それにもかかわらず、突然ヨブは悔い改めて救われるわけです。普通の人が見ると、答えの無いドラマです。「不合理」なのです。

私の場合、「神(日本的な概念での、またはヨブの友人達のような捉え方での)」を畏れてはいましたが、無論ヨブ程ではないでしょうし、まず彼よりも罪人であることは確かです。同時に、少なくとも私自身が思うに普通の人生を送ってきました。しかし、沈黙の主は確実に私の心に触れてくださいました。そう、ヨブ記が、救いや苦しみは善悪の量とは無関係であると私達に教えるように。そこに言葉の理による「答え」などありません。主の臨在に圧倒されるのみです。

今の私は、昔のように因果応報的に考えることは少なくなり、また、神へ現世利益を願うことはまずありません。けれども、受洗以来、何気ないことに主の祝福を感じています。例えば、今日は天気だ、とか。

受洗からまだ日も浅いですが、愚かな私は既に何度か御心を問うような真似をしました。もちろん、その度に主は沈黙しますが、一度でも突然救われる「不合理」を体験した身には、全く構わないのです。それよりも、単純素朴な事にでも主の祝福を感じられること、共に居てくださるのが分かる歓びが、何百倍もの心強さなのですから。「不合理」は些細なレベルでも起こっているのですし、来るときには再び衝撃的に訪れるのでしょうから。

ゲーテはヨブ記を下敷きに畢生の大作「ファウスト」を書きました。冒頭で、悪魔メフィストフェレスと神が賭けをする設定はそのままです。もちろん、ヨブにあたる人はファウスト博士です。「人間は努力する限り迷うものである」として、神は寛大にもファウストを闇に引き入れることを悪魔に許し賭けが開始されます。

その最終場面、悪魔の所存で悪行も善行も重ねた挙句に今は盲目になったファウストが、死霊が自分の墓を掘っている音を、人々が未来の為に努力している工事の音だと思い込んで、最高の至福の瞬間を味わい(「この瞬間よ、止まれ!お前はいかにも美しい。」)絶息します。悪魔との契約で彼の魂は闇に捕われるはずのところですが、天使たちが唐突にも悪魔より横取りして天に上げるのです。この件は、ヨブの物語と同じく、いつも人生と神との関係について投げかけます。

この稿の目的である神の臨在の証を真に行なおうとすれば、恐らくこの紙面や文字を以ってでは不可能で、それは私自身のこれからの人生によってなされねばならない事です。その人生も、ヨブやファウストが暗示するように、悪魔的なものに突き動かされ邪魔されながら、墓を掘る音か工事の音かも分からず盲目の暗闇を歩いていくようなものなのだと予想します。

罪人であり義人でもあるファウストの魂が天上へ昇った後に歌われる天使達の合唱、―「絶えず努力して励む者を、我らは救うことができる」

残念ながら、これは聖書の言葉ではないですし、イエスの贖罪により救われるという原点からも外れている言葉のように見えます。しかし、愛するイエスの仲介よる神の救いの道が善悪の量に関係なく開かれていることを体験した今、これ以上イエスに私の為の血を流させないように努力し、悪魔の陥穽が待ち受けている実生活を懸命に、けれど今からは笑顔で生きていきたい私には重要な含蓄です。

神とこれからの自分の人生との関係を見つめるとき、聖と俗を象徴するようなヨブとファウストという二人の姿は、私の中で絶えず重なり合い、指針となるだろうと考えます。そして、いつの日か、聖霊の助けとイエスの執り成しにより、私の魂も神に許されて救われることを心から希うのです。(終わり)

訂正:前回の最後、私が始めて礼拝に参加したのは感謝祭の日と書いていますが、感謝祭の週の愛餐会があった日の礼拝です。お詫びします。

月報2007年8月号より

「ハジマリニ カシコイモノ ゴザル。」

「ハジマリニ カシコイモノ ゴザル。コノ カシコイモノ ゴクラクトトモニ ゴザル。」

何だ思われるかもしれませんが、れっきとした「御言葉」です。ただし、口語訳でも新共同訳でもなく、江戸時代の抄訳による、ヨハネによる福音書の有名な冒頭部分です。

イエスの先在性は「賢いもの」でいいとしても、神を「極楽」としていますが、私たちの先祖は、まるで仏教や神道の延長のようにキリスト教もとらえていたようです。そこには、現世利益をもたらす宗教としての期待が感じられますし、日本的な多神信仰の中にキリスト教も組み込まれて信仰されていたのでしょう。

私は幼少からこのような日本的な風習に親しみつつも、「神様」という漠然とした存在は常に恐ろしいものでした。極楽どころではなかったことは確かです。

二十歳過ぎ位まで、私は劣等感や罪悪感の塊でした。自己嫌悪を振りまいて同情を買うようですが、とにかく少年時代は、自分の容貌の醜さや垢抜けない言動を常に気にしていた毎日だった印象が第一です。いじめも受けましたし、それで登校拒否もやったり、逆に開き直って無理やり面白い人間になって笑わせようとしたり。よくある、典型的な屈折気味な人間です。

ヴァージニアの大学で大量殺人をやったあの学生は、自己顕示欲を持ちつつ内向的で傷つきやすいという自己矛盾を他人の責任に帰しましたが、私は大抵の場合「自分が悪いんだ」とか「神様の罰なんだ」と自分の犯した罪に関連を見出す傾向がありました。受洗前の「神様」は、仏教でもキリスト教でも何でも良かったわけです。早くに死んだ祖母の時もありました。いずれにせよ、何か良くないことが起こると、強引に自分の過去にやった悪いことと結び付けて、このせいなんだと信じ込む癖があったのです。ですから、「神様」とは罰を与える怖い存在というのが原点で、大人になってからも引き継いでいます。

そんな仏教とキリスト教を混ぜたような宗教観を持ち合わせていた私ですが、中学はプロテスタント系の学校に入り、毎朝礼拝をして、聖書も少し学びました。実を言うと、志望校に入れずに滑り止めで入った学校ですが、それが今考えると良かったのです。しっかり導かれていました。

そして、その時に原罪というものを知り衝撃を受けましたし、ふと何気なく読んだ「ヨブ記」に何故か特に共鳴するものがありました。聖書の授業は道徳のような内容で、教理はあまり教えられませんでしたから、訳が分からずに読んでいるのですが、神を畏れるヨブがいわれ無き苦難を受け、その原因は最後まで示されず、しかし、終わりに神と出会うことで唐突に解決されてしまいます。

最後の部分「神と出会い唐突に解決」は十数年後まで待たなくてはならないわけですが、私は当時、「もしかしたらこの人が俺を罰しているのか」と感じて恐かったことがありました。恐ろしくつまらなかった別の普通の高校を卒業してアメリカに来たわけですが、私のこの宗教的な感覚とキリスト教との接点は、ずっと心の中に潜んでいました。

さて、ここからが実際に洗礼につながるお話になります。

私は、アメリカに来たのはワシントンDCで政治を学ぶためでしたが、2年生の頃から音楽もやりはじめました。小さい頃は家庭環境から音楽にどっぷり漬かっていたのですが、中学高校は勉強優先の方針でやや音楽から離れていました。しかし、音楽の勉強をやり始めると、それが面白くて仕方ありませんでした。

勉強が分かって、成績が良いからというわけでなく、周りが褒めてくれるから、受け入れてくれるからです。自分の存在が初めて有意義に感じるようになって、本当に嬉しかったのです。それから、歌を作ってライブをしたり、自分の自作の歌でCDアルバムを録音して販売したり、夢中になってやりました。少しずつ劣等感や自信の無さも和らいでいって、彼女もでき、女性とも親しく接せられるようになりました。「異性デビュー」が遅いと調子に乗るものです。

DCでの大学時代は辛いこともありましたが、ピアノや歌に夢中で概して幸せでした。しかし、音楽家になることを決心して、飛躍のために卒業後ニューヨークへ移ってからが苦難の連続となりました。飛躍どころか、度重なるの自信喪失との闘いが待っていたわけです。

まず、ピアニストとしては食べていけないのを悟りました。大事な時期に訓練をしていませんから仕方ありませんが、「井の中の蛙大海を知らず」だったわけです。情けない話ですが、ジュリアードでピアノの生徒の余りの多さに怖気づいて、あわてて希望者の少ないのを探して面接を受けたのが、指揮と作曲のクラスで、最終的に指揮に落ち着いたというのが、私が指揮を始めた直接のきっかけです。

しばらくして、マネス音楽院の指揮科に入り、音楽家としての大学レベルの基礎を3年間固めることに費やしました。経験を積むために合唱指導を始めたのも同じ時期です。人はよく「夢を持て」「個性が大切だ」と力説しますが、真剣に自分の夢と個性と向き合う辛さも知らねばなりません。指揮では何十人ものオーケストラ団員(それは友人やライバル、そして、先輩音楽家の集まりです)の前で恥をかきながら勉強します。その度に自分の気持ちを処理するのに必死でした。人前で弱みを見せるのは指揮者ではあまり褒められたことではありませんし、特にアメリカでは自信をアピールするのが大切です。また、日系合唱団の指導では、自分の目指す音楽を妨げる日本的なしがらみに時として悩みました。

今も大して変わらないのですが、思い起こすと、私生活に関しての私はお恥ずかしい限りでした。自分のドロドロした感情やストレスを紛らわせるために、彼女や少数の親友に甘えて依存していました。普段の人前での私しか知らない人が、音楽指導する私を見て大きな違いにビックリすることがありますが、とても近い人といる時は音楽指導に近く、自分を思いっきり出して際限がないくらいです。

とくに彼女に対して我がままに甘えていました。ごく短い期間に終わった時もあります。「結婚」と言われて怖気づいて一方的に別れたこともありました。プライベートを人に噂されるのが恐くて、あまり外にもデートに連れていってあげたりしませんでしたし、自分のスケジュールが第一でした。そして、上記のように自分の気持ちが一杯一杯のとき、過度の快楽で忘れさせていました。

指揮者として身を立てようと思わなくても、このような状態はいずれ矛盾が噴き出してきます。それが2006年、つまり去年でした。

発端は、春に、大学の次のステップ、大学院指揮科の入学試験にことごとく失敗したことからです。私は失敗を恐れますし劣等感が嫌なので、物事は慎重に進めていく性格です。ですから、失敗らしい失敗は経験したことがありませんでした。しかも、指揮としても大勢の友達の前で幼稚なミスをやったり、ある学校の試験では教授に酷くけなされたりもして、ショックどころではなく、ノイローゼにかかりました。

気付くと線路とプラットホームのギリギリの場所で電車を待っていたり、夜は体中汗だくで起きているのか寝ているのか分からない状態でじっと何か呟いていました。その時に本当に好きな女性がいたのですが、一度だけ電話がかかってこなかっただけですぐさま絶交の手紙を送りました。音楽はもう諦めて就職しなければという強迫観念じみたもので突飛な行動に走ったりもしました。

一旦、通院や周りの温かい愛情で元気を取り戻したのですが、自分の内面から変革した訳ではなく対症療法でしたから、秋から再び下降していきました。春ほどの危険な状態にはなりませんでしたが、それだけに自分についてネガティブに考えることが多くなりました。

私が自分の存在証明や辛いことを乗り越える時に、他人依存だったことが身をもって分かりました。両親にもただお金をもらっているだけで、何の恩返しが出来たか。「神様の罰」「自分が悪い」と考えて自分を責め続けても、根本的な解決にはならない時が多いですし、主体的な行動を起こさずに近い人に甘えて誤魔化すのですから、実は形を変えた勝手な自己愛だといえます。俺はなんて人間だろうと、嘆きました。けれど、どうすれば良いか分からず、ただ悩んで時間が過ぎていました。

そんなとき、ついに、合唱団でお世話になっていた大清水兄の深い深い慈愛によって、ヨブ記の最終部分「神に出会い唐突に解決する」という不合理を、身をもって体験するきっかけが与えられました。感謝祭の礼拝と愛餐会のお誘いを受けたのです。中学時代からのこともありましたし、何か嬉しい予感じみたものがありました。

そして、感謝祭の日、ニュージャージー日本語教会に足を運んだのです。

月報2007年7月号より

「恵みと真とにみちている神」

「胎児の両方の腎臓と心臓に問題があるかもしれない。」 妻・桂子の妊娠5ヶ月目の超音波検診で放射線科医に告げられた。その後の検診で、確かに心臓部に見えていた「影」は消えていった一方で、水腎症と思しき水腫は胎児の成長とともに増大していった。それでも2つある腎臓のうちの片方は腫れの程度がもう片方ほどでないため、排尿には辛うじて支障がないであろうから当面は様子を見る、ということであった。その後の経過によっては予定日前の帝王切開を余儀なくされる可能性もある・・・。

その日は、久しぶりの家族旅行に出発することになっていた。可愛い「赤ちゃん」の影像を見届けたその足で、海岸沿いのホテルへ直行する予定だった。思い切り真夏の海水浴を楽しみ、水族館やサファリにも行く予定だった。家族3人が共に楽しみにしていた一大ファミリーイベントがまさに始まろうとしていた、その矢先の出来事だった。目の前が暗くなった。でも、神様の目から見れば偶然に起こることなど無い。すべては神の御手により起こるべくして起こる筈である。いみじくも、今し方、妻が検診を受けている最中に待合室で以下の御言葉を読んだ。

ある日、空腹を覚えたイエスは無花果(いちじく)の木を覗き込むが、実をつけていないことを知り、その木を呪った。すると瞬く間にその無花果の木は枯れ果ててしまった。それを見た弟子たちはびっくりして、「どうして無花果の木は枯れたのか」とイエスに訊いた。彼は弟子たちに答え言った、「もしお前たちに信仰があって疑わないならば、この無花果に起こったと同じことをすることが出来るばかりか、山に向かい『立ち上がって海に飛び込め』と言っても、その通りに成る。信じて祈れば、求めるものは何でも頂くことが出来る(マタイ21:18-22)」と。

そうか、信じて祈れば、求めるものは何でも頂くことが出来るのか・・・。そのように神様が言って下さっているのであれば、もはや単純に且つ大胆に胎児の健康を願って神様に祈るしかないではないか。すぐに駐車場の車に戻り、3人で心を合わせて祈った。 「健康で何一つ欠けたところのない全き、美しき赤ちゃんを私たちにお与え下さい。」家族旅行どころではない一方で、旅行を取りやめて家に引き戻したところで、気が晴れる訳でもない。やはり予定どおり、夏休みの家族旅行を決行することにした。 いま振り返ると、やはり決行したのは正解だった。気分転換にもなったし、何と言っても真耶が大喜びだった。私たち夫婦もそれなりに楽しんだ。家族に明るい雰囲気が戻ってきた。

一週間足らずの家族旅行はあっという間に終り、また多忙な日常が再開した。それから2カ月ほど経過した頃のこと、救急治療室を舞台にしたテレビ番組「ER」を彷彿とさせる午後の忙しい職場で一人お茶を飲みながらほっと一息ついていたところ、聖霊から心温まる確証がぽっ、と与えられた。曰く「(祈っていた通りの)健康で欠けたところのない全き、美しき赤ちゃんを与えるから心配しなくてよい」と。喜びと共に涙が溢れてきた。瞬時に天を仰ぎ祈りを聞き入れてくれた神に感謝した。しばらくは嬉しさの余りぼう然とオフィスの天井を見つめていた。

帰宅して、職場で聖霊からの確証を得たことを妻に話したが、彼女は未だぴんときた様子がなかった。無理もないことかもしれない。こういう経験はその場にいないと良く分からないものだからである。とはいえ、あれだけのメッセージを私にはっきりと語ってくれた神様が、約束を破る筈はない。御言葉どおり、求めるものは何でも頂くことが出来る、と信じて祈ったのだから、求めるものが与えられるのは至極聖書的なのであろう。そう考え、それまでにしていた懇願の祈りをやめ、それ以降は既に祈りを聞き入れて下さった神様に対する感謝と賛美を捧げる祈りに変えた。自分ではとても自然で当たり前なことと思えた。

しかし、その後も予定日の1週間前まで超音波検診は行われたが、水腫は予定日に向かって大きくなっていく一方だった。だから心配は続いた。でもその間、主が確証を与えてくれたことが嬉しくて、不安は私の心を支配しなかった。イエス・キリストは命である。死の状態から生の状態に再び戻ることが出来る御方である。不治の病を患う無数の人々を癒す御方である。胎児の腎臓如きを癒せない筈はない。そう信じ切っていた。

予定日より2日早く、胎児は元気に生まれた。生後すぐの検診では、小児泌尿器科医が超音波検診で腎臓に異常を見出すことが出来ず「本当に水腎症だったのか」と妻が訊かれたほどだった。1ヶ月後の検診では、腎臓に僅かながら水腫が認められたが、その時点での投薬は不要との判断から、経過観察だけを続けることになった。その後の経過はとても順調で、今日に至るまで排尿等に異常は見られない。小児科病院で見せられた新生児の成長グラフによると、誕生直後は下から約5%のスモールベービーだったが、4ヶ月経った今では身長・体重共に上位95%超のヒュージベービーに育った。先週、教会で献児式をもって頂いた。親ばかながら、「健康で欠けたところのない全き、美しき赤ちゃん」が与えられたことを改めて実感し、感慨深かった。神の御業を賛美したい。

最後に、教会の多くの方々の御祈りの「ゆりかご」の中に生まれてきたEmmaは本当に恵まれている。この場を借りて、神の癒しの御業を信じて御祈り下さった皆様方に深く感謝を申し上げる次第である。因みにEmmaという名前は当時4歳の長女・真耶(まや)が付けてくれたが、それに当てた漢字は「恵みと真とに満ちていた(ヨハネ1:14)」との御言葉から引用した。この「まこと」とは、「神の実体」との意味だそうである。神の実体とはイエスを死から復活させ、また彼を通して不治の病を患う無数の人々を癒した「命」そのものなのではないか、とつくづく感じさせられる今日この頃である。思えば、投獄された使徒たちに主の天使が現われて「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った(使徒5:20)。神は命であられる。幼い娘の癒しを証しするという恵みにあずかったいま、この命のメッセージを伝える者になりたいものだと切に願わされる。

月報2007年5月号より

「救いの証」

イエス様に出会う前の私は、一言で言うと“わがまま”。家族からいつもそう言われて育ちました。大人になってからは、自分は自分だけの力で生きていること、今の自分があるのは自分の努力や能力など、自分の力によるもの、と考え、それをとても誇りに思って生きていました。自分が悪くても人に謝ったことなどただの一度も無く、人を許すとか許されるとかいう概念すら知りませんでした。けれどその一方で私は随分長い間主を求めていました。

周りにはクリスチャンの知り合いも、教会もないところで育ちましたが、神はきっといる、いつもそう思っていました。そして一人で祈っていました。‘どの神’に祈っているかもわからずに。それが、友人の勧めで、三浦綾子先生の‘塩狩峠’を読んで感動し、それがきっかけで先生の世界に完全にはまりました。そこで、自分の求めていた神を見出だしたからです。三浦先生はその著書のなかで、聖書の学び(一人でするのではなく、指導してくれる人のもとで)、と教会へ行くこと、を勧めていました。私は教会へ行って聖書の勉強をしたくなりました。でも一人暮らしをしていた東京でも、結婚して住んだロンドンでも、私にとって教会の敷居は高く、誘ってくれる人もいず、実際に行くことはできませんでした。
それが夫の転勤でしぶしぶ行った香港でその機会は与えられました。香港に移ってすぐに出来た友人が、‘英語のクラスに行ってみない?テキストに聖書を使っているんだけど“と家庭集会に誘ってくれたのです。”聖書”と聞いて私はすぐに参加することにしました。初めて行った家庭集会で、南部バプテスト教会の牧師夫妻に出会い、すぐに長年の友人のように打ち解け、その4日後には共に教会堂に座っていました。そして礼拝前のバイブルスタディーの後で牧師夫人に“神を信じますか?イエスに従いたいですか?“と聞かれ、”はい“と答えました。牧師夫人は涙を流して”あなたはもうクリスチャンです。“と言ってくれました。その1週間の間に私に起こったことは、いつ思い出しても夢のようです。そしてその6か月後、冬の野外プールでバプテスマを受けました。受洗の時、私の心は喜びに溢れていました。それまでの古い私は死に、再び生まれ変わったという喜びです。知り合いと言う知り合いに、受洗したことを伝えました。とにかく嬉しくて仕方がありませんでした。

ただただ喜んで受洗した私でしたが、私の人生はクリスチャンとなってから、いつも喜びに満ちていたかと言うと、そうではありませんでした。それどころか受洗後は特に、クリスチャンとなったことからくる悩みや苦しみを経験しました。今思うと、自分の行いによって、主の愛を得ようとしていたからでした。そんな私も、聖書の学び、祈り、礼拝、クリスチャンの兄弟姉妹との交わり、そして、私のために祈ってくださる方々によって、少しずつ変えられ、信仰が深まっていったように思います。以前は自分の人生は自分のもの、そして一人で生きている、と思って生きていたのが、主が私を生かしてくださる、ということに気づきました。私の人生は私だけのものではありません。人と争った時に素直に謝ること、許し、許されることの喜びもイエス様に出会っていなかったら知らないままだったでしょう。さらに素晴らしいことには、主は私に、試練を恵みに変えてくださることを教えて下さいました。また、その試練の時に、主は私とともに耐えてくださいます。弟が難病にかかり、いのちが危ぶまれた時、主は祈りの大切さを私に教えて下さいました。何度も子をなくし、その度に嘆き、悲しむだけだった私に、聖句、ヘブル人への手紙12章11節「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」を通して、試練の後の大いなる恵み、そして、神様には、私のようなちっぽけなものには計り知れない主のご計画があることに気づかせてくださいました。私は悲しい時、主が泣いている私を背負って、もう止まってしまいたい私の人生という道を私のかわりに歩いて下さっている、と感じることがよくあります。主は厳しく、優しい方です。
ほとんど何もわからずに、ただ主を信じ、喜んでクリスチャンとなった私に、“あなたは何も知らないで、聖書もよく理解もせず洗礼を受けようとしている”、と忠告してくださった方もいました。本当にその通りだったのですが、あの時洗礼を受けたことは少しも後悔していません。私にとって、バプテスマは新しい人生のただのスタート地点に過ぎなかったからです。私のクリスチャンとしての歩みはそこから始まったのです。逆にそれが無かったら、今の私はいませんでした。洗礼を受けようか、もし迷っている方がいらっしゃったら、確信が持ててから、とか、聖書を完全に理解してから、などと言わず、とりあえず、受洗してみたら、後のことは主におまかせしましょう、と言いたい気持ちです。

最後に、昨年夏に、ようやく会員にさせていただきました。過去の日本人教会での経験から、‘日本人教会の会員’になることへの抵抗感があり、なかなか会員になることができませんでした。4年もの間、私のためだけでなく、私の家族の為にもお祈り下さり、色々なところで助けてくださり、待ち続けてくださったJCCNJの兄弟姉妹の皆様に心から感謝いたします。どうぞこれからも家族ともどもよろしくお願い致します。  主に感謝しつつ。

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あかし

アトランタからの夫の転勤により、9月よりNJに引っ越ししてきました。3歳になる長男と、3ヶ月の長女の母です。

信仰を持ったのは小学校6年生の時で、その時すでにクリスチャンであった両親と共に、結婚してアメリカに来るまで埼玉県の坂戸キリスト教会に通っていました。日本では「WINDS」(子供から青年まで30-40人からなる賛美のグループ)での奉仕に励んだ子供時代、青春時代でした。そしてその時の訓練により、「主に栄光を!」と賛美すること、主に仕えることを教えられました。

神様はいろいろな経験を通して様々なことを教えてくれました。

・ 病気のため、6回の入院により「自分の弱さと弱い時にこそ主が働かれること」
・ 失業することにより「主にある平安」を(後に新生宣教団に入社)。
・ 6年間の遠距離恋愛(日本とアメリカ)により、「祈りつつ主の時を待つ」こと。
・ 結婚してからは「夫に仕える」ことを。
・ 今回の妊娠中の転勤により「主にゆだねる」ことを。
・ そして今、子育てを通して「愛すること」を教えられています。

最近の小さな証をひとつ。自分の子供を愛するのは当たり前のことと言われるかも知れませんが、これがなかなかまたノ。第一コリント13章の「愛は寛容でありノ」で始まる箇所は有名ですが、この「寛容であり」のひとつをとってみても「うーん」と首を横にかしげてしまいます。私は子供が与えられるまで自分はかなり優しい性格、「寛容な人」だと思っていました。昔から教会でも子供と接する機会が多かったので、子供への接し方、愛し方をわかっているつもりでした。それがどうでしょう。自分の子供となるとどうにもうまくいきません。優しい母になりたいのに、特に上の子に対しては一日中イライラしている日があります。朝食から始まって、寝かしつけるまで、何かと気にさわるのです。2ファミリーの貸家で上に住む大家さんに気遣いながら、夕方頃には一日のいらいらがたまって、ジュースをこぼしただけでも「なにしてるの!」と大声で起こっていました。寛容とはかけ離れています。

そんな日々の繰り返しの中、ある御言葉が示されました。その日もなかなか夜寝付かずぐずっている長男と泣きやまないBABYにこっちまで泣きたくなり、「もうしらない、一人にして!」とバスルームの戸をバタンと閉めた時、「Be still and know that I am God.」と、閉めたドアにかけてあった御言葉が目にとまりました。「静まって私こそ主であることを知れ」(詩篇46:10)。フーと深呼吸をして心を静め短く祈りました。

「私にはできません。私は愛の足りないものです。どうか主の愛で満たしてください。その愛を持って子供を愛することを教えてください」と。

その後、ドアを開けて泣いている二人の子を抱きしめながら、こんなにも可愛い子供を与えられていることに改めて感謝したのでした。もちろんまったくイライラしなくなったわけではありませんが爆発しそうになったときは「Be still and know that I am God.」

子供たちが大人になるのが先か、私が寛容な母になるのが先か。どちらにしろ成長させてくださる主に感謝です。

月報2007年3月号より

「神様に造りかえられた喜びを伝える器に」

私は日本の小さな田舎の町で、無宗教、冠婚葬祭にだけ仏教をつかうような家庭で育ちました。私が神様と出会うきっかけとなったのは、3歳のとき。近所に引っ越してきたセブンスデーアドベンチスト(SDA)というキリスト教団の婦人伝道師のK夫人です。
自分たちの家を、家庭集会所とし、そこでは毎週礼拝が行われ、子供のための神様のお話もたくさんしてくださいました。子供が好きなK夫妻は、自宅を近所の子供たちのために開放し、誰でもいつでも遊びにこれるような環境を提供していました。テレビもトランプもおもちゃもない家でしたが、K夫妻の家は近所の子供たちの人気の場所でした。学校から帰ると多くの子供たちが、K婦人の家に行き、おやつをもらったり、紙芝居をみせてもらったり、オルガンにあわせて賛美歌を歌ったり。礼拝学校の教材を一緒に作ったり、家庭菜園をお手伝いしたり、お料理を一緒にしたり。K婦人の家は、私の家にはない暖かさや穏やさがありました。私はK婦人が大好きで、子供のいないK婦人も私を実の娘のように可愛がってくださいました。
小さいころは、そうは思っていなかったのですが、今考えると、私は、少し複雑な家庭環境の中で育ちました。両親はそれぞれ、とてもいい人なのですが、ふたりとも、親兄弟からひどい虐待を受け、愛のない環境で育ちました。お互いに不幸な家庭で育ったので、理想を持ち、いい家庭を築こうと一生懸命で、それは子供の私たちにも、とてもよく伝わってきました。でも、愛されたことのない人は、人をどのように愛していいのかわからないというのは、本当です。子供に対する接し方も、また、夫婦関係も、とてもぎこちないものでした。
妹たちのように、両親のいうことを素直にきければよかったのですが、私は生まれつき、桁外れのおてんばで、あばれんぼうでした。悪いことをしようとしてるつもりはないのですが、自分でも気がつかないうちに、結果的にそういうことになっているのです。今思うと、多動症かなにかの病気だったのかもしれません。とにかくスーパーアクティブで、落ち着きがなく、授業中はうわのそらで先生のいうことを聞いていないので、学校の忘れ物グラフでは、だんとつ一位。小学生の低学年のときは「どもり」もあり、最初の言葉が足踏みを何回も何回もしないとでてきません。学校の友達に笑われ、だんだん人前で話すことが好きではなくなってしまいました。学校では借りてきた猫のようにおとなしくすごし、その反動で、家に帰ると、とたんに元気になって、近所を走りまわるのです。
この生傷の絶えない近所のガキ大将は、母にとっては目の上のたんこぶ、頭痛の種でした。あちこちでいたずらをするので苦情が絶えないのです。親から愛されたことがない母にとって、こんな問題児を愛すことはどんなに大変だったでしょう。私がいたずらをするたびに叱られますが、言っただけではきかなかったのでしょう。時々押入れや倉庫に閉じ込められたことを覚えています。やっと出してもらっても、懲りずに大声で泣くので「うるさいから外で泣きなさい」と、また玄関のとびらを閉められました。
このようなことが起こるたびに、泣く泣く、いつも足が向かうのは、数軒先にあるK婦人の家でした。K婦人は、私がどんなに大きな声で泣いていても、いつでも両手を広げ「ここで好きなだけ泣きなさい」と、私を抱きしめてくださいました。これは、一度や二度のことではありません。いつも、いつもです。私が泣いていても、怒っていても、またK婦人がどんなに忙しくても、自分の手を休め、私を受け止めてくれました。
K婦人の愛と信仰に支えられ、15歳、私は神様を受け入れ、バプテスマを受けました。そして、その後、高校時代をSDAのキリスト教全寮制の学校ですごしました。その3年間の寮生活のあいだ、K婦人から毎日のように葉書が届きました。書かれているのは、日常のたわいもないことがほとんどなのですが、その文の最後に、必ず「あなたのことを、いつも祈っている。恵里ちゃんが、一番可愛い」と書かれていました。
その学校で、私は信仰に燃え、あんなに授業中、集中力がなかったのに、勉強が面白いと思うようになりました。何かに没頭することを覚え、一生懸命すれば、私にも何かができるという自信がつきました。内側から、自分自身が造りかえられていくような感じがしました。
高校3年生のとき、聖書にあるいろんな性格をとりあげ、クラスメートの誰がそれに近いか投票するという企画がありました。私はそのなかで「柔和な人」に選ばれ、びっくりしました。高校生活、毎日忙しく夢中で過ごしましたが、気がつくと、私を「暴れん坊」と呼ぶ人は、もういなくなっていました。
夏休み、冬休みと帰省で家に帰るたびに、両親が、私がみちがえるように変わったと、目を丸くし、驚いていたことを覚えています。中学時代は親への反抗がひどく、父は私が不良になるのではないかと、本当に心配していたようです。

SDAと今の教会では、神様、イエス様と私との関係、神様の愛、悔い改め、十字架の許し、そのようなキリスト教の中心的な教えの部分については、なにも違いを感じることはありません。でも、SDAは旧約聖書にもとづいた生活上の規則がたくさんあり、その部分に、私は、高校卒業後から疑問を持ち始め、葛藤が始まりました。その後、色々なことがありましたが、神様は、様々な出来事を通し、サンフランシスコにあるフリーメソジスト派の榊原先生の教会に導いてくださいました。そしてまた、その先生の紹介で、この教会に来る事ができました。
その榊原先生の教会では、SDAの中にあったような様々な規則はなく、自由に神様を信仰できる教会で、こんな教会があったのかとびっくりしました。その開放感からか、それまでクリスチャンである自分を隠す傾向にあったのですが、堂々と「私は教会に行っている」と、言えるようになりました。礼拝のメッセージが、とても素直に心に響き、賛美をしていると涙があふれました。礼拝に出席するたびに、漠然と悩んでいたこと、どうしたらいいか迷っていたことへの答えが与えられました。教会に義務感で行っていた私が、教会に行きたくてしかたない自分に変えられました。

様々な理由から離れることにしたSDAの教会ですが、私にとっては、信仰の土台を築くことのできたふるさとのようなところで、忘れることはできません。3歳のとき、あの婦人伝道師K婦人に出会い、神様が私に働きかけてくださっていなければ、またその後の導きがなければ、今の私はなかったと思うからです。当たり前のように受けてきたK婦人の愛ですが、今、自分がその年になって、よその子をあのように愛すことができるかと考えると、本当によくしてくださったと、感謝の気持ちで一杯になります。
錦織先生が、私に示してくださった聖句があります。ガラテヤ人への手紙、3章の23節から26節です。「しかし、信仰が現れる前には、私たちは律法の下で監視されており、やがて掲示される信仰の時まで閉じ込められていた。このようにして律法は、信仰によって義とされるために、私たちをキリストに連れて行く養育係となったのである。しかし、いったん信仰が現れた以上、私たちは、もはや養育係のもとにはいない。あなたがたはみな、キリストイエスにある信仰によって、神の子なのである。」 先生ありがとうございます。私は今、まさにこのような心境です。

この年末年始に名古屋の実家に帰り、5年ぶりくらいに両親兄弟の集まりに参加しました。久しぶりで懐かしく、楽しいときでした。でも、それと同時に、自分がどんな家庭環境で育ったのか、改めて実感する機会となり、胸が痛くなりました。それは、実家の家族が、精神的にとても病んでいるように見えたからです。彼らにとってはそれが当たり前の状態なので、それを問題とは思っていません。でも「彼らが信仰を持ち、神様のある家族関係になれたら、どんなに心穏やかに暮らせるだろう」と強く思いました。
あんなにおてんばで落ち着きのなかった私を、変えてくださった神様ですから、熱心に祈れば、きっと私の家族をも救ってくださるでしょう。でも、私の実家は、K婦人がもう数十年ごしに働きかけても、誰も「神様の話に全く耳を傾けなかったつわもの」たちです。
家族のことを祈り始めて気づいたことがあります。自分が忘却のかなたにおいて忘れてしまった方が楽だと思うほどの人のことを祈ると、いろんな過去の出来事や感情がよみがえってくるということ。そして、嫌な気持ちが多くなってくると、真剣に祈る気持ちが弱くなっていくということです。自分の好きな人のために祈ることは比較的簡単ですが、そうでない人のために祈ることは、未熟な私にとっては簡単なことではありません。
この祈りの経験を通して私は、問題は母よりも私の方にあると気づかされました。母が聖霊によって変えられることを祈るよりも前に、まず私自身がもっと信仰的に成長し、この気持ちを克服しなければ、祈ることすらできません。
私は、今まで自称「隠れクリスチャン」で、伝道なんて、とてもできないと思っていました。でも今は、神様によって造りかえられた喜びと信仰による心の平和を私のまわりの人に伝える器になれたらと、心から思うようになりました。
すばらしい信仰の先輩がたくさんいるNJ教会に導かれ、神様のみわざに感謝します。少しでも多くのことを学びたいです。どうぞ、よろしくお願いします。

月報2007年2月号より

「20年間に13回」

これは、私と私の家族が過去20年間に引越しした回数です。今でこそ使われる事がなくなった言葉ですが、私は典型的なメ企業戦士モでした。営業利益率50%の、世間では超優良企業と呼ばれるメーカーで、より大きな責任と権限の持てるポジションに着く事、上司から高い評価を受ける事は私が仕事をする原動力でした。同年代の友人より倍以上の収入を得ている事は誇りでもあり、ハードな仕事も一度も辛いと感じた事はありませんでした。子供達がまだ幼い頃は、彼らが朝起きる前に家を出て、夜は彼らが寝てから帰宅しますので、平日は子供たちと顔を合わせる事もなく、まして平日に夕食を家族で共にする事は絶対にあり得ない様な生活でした。

会社の業容が急拡大するのと合わせて3年に一度位の頻度で転勤があり、日本で数回転勤した後、米国へ初めての海外駐在に来たのが1998年でした。海外でも仕事のペースは相変わらずハードで、妻は隣人からメお宅のご主人は何の仕事をしてるの?モと聞かれる程でした。米国での滞在2年目に生まれて初めて結婚式以外で教会に家族と一緒に行きました。その教会がJCCNJでした。それまでは多くの日本人と同様に特定の宗教を信仰することもなく、むしろどんな宗教に対してもNegativeな印象、思い出しかありませんでした。高校時代のガールフレンドから成人後メ選挙の時はXX党の候補に投票して、、モと電話が掛かって来た時はなぜかとても嫌な気分になり、たまたま会った友人のXX学会の人達は弱い人の集まり、他人の批判ばかりしてる人々にしか見えませんでした。

初めて米国で礼拝に行った時もメ献金モと言う言葉を聞いた瞬間に、献金の意味も良く知らず、やけに冷めた気持ちになり、メ何や やっぱり最後はお金かモと一人でつぶやいていました。その後も何度か礼拝に行きましたが、その時は特に自分自身に変化が訪れる事はありませんでした。ただそこに集まっている方々が皆さんとても親切で明るく、日本のXX学会の人達とは全く違った印象を受けた事は憶えています。その最初に行った礼拝で後藤兄を紹介頂いたのですが、その出会いがその後の人生を大きく変えるとは夢にも思いませんでした。何となく将来日本へ帰国後、もう一度NJに戻って仕事をする様な予感めいた妙な感覚になったのも憶えています。その予感は日常的に常に意識するような大きなものではなかったのですが、確実に心に刻み込まれて行った様に今思い返すことが出来ます。

米国駐在が4年目に入る頃(01年7月)、英国への転勤が決まり教会の皆さんにも見送られNJを後にし、ロンドンから約1時間北の郊外へ引っ越しして、少しして家の近くの日本人教会に毎週家族で礼拝に行くようになりました。1年を過ぎる頃から牧師先生の自宅で礼拝前にメ聖書の学びモをする様になり、私も途中から一緒に学ぶ様になりましたが、その頃は家で自ら聖書を開く事は一度もなかった様に記憶しています。

英国での駐在が3年目になろうとする頃(03年3月)、また転勤が決まり今度はタイに行く事になり、私はいつもの様に家族を英国に残し一足先にタイへ赴任しました。時を同じくして聖書の学びを進めていた妻からメ洗礼モを受けることを考えていると聞きましたが、余り実感がなく他人事の様でした。

ところが一人で一足先に来たタイでは、なぜかまず教会を見つける必要があると強く感じ、すぐに日本人教会を見つけ、毎週欠かさず礼拝に行くようになりました。自ら進んで読んだ事もなかった聖書も、時間を見つけては読むようになり、メ4つの福音書て同じイエス様の生涯を書いてるねんな!モとか今から考えると常識的なことに気付いては、喜んで家内と電話で話した事を憶えています。タイでの単身赴任中に英国残っていた家内と上2人の息子が洗礼を受ける事が決まり、その事を聞いた瞬間に自分もすぐに洗礼を受ける事を確信しました。牧師先生と礼拝後欠かさず、聖書の学びと洗礼準備を進めるにつれて、神様や聖書についての理解が深まると同時に、自分の罪を強く意識させられる様になりました。

その頃心に染み渡る様に自分の中に入ってきた聖書の御言葉がありました。

メ夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会の為に御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。モ (エフェソ人への手紙5章25節)

自分は今まで何の為に生きていたのか、如何に自己中心的な人間であったか、妻や家族にどれだけの時間を使ってこれたのか 妻をどれだけ大切にし、愛してこれたのか等々が具体的な出来事と共に次々と思い出され家族、妻や息子達に対して申し訳ない気持ちで一杯になりました。

03 年7月に家族の到着を待ち兼ねた様に3男も一緒にタイで洗礼を受け(彼は英国で洗礼を受ける事も出来たのですが、パパが一人でタイで洗礼を受けると寂しいと思い待っていてくれました!)神の家族の一員になる事が出来ました。それからも神様からの働きかけがあり、このまま今の仕事を続けていて良いのか?という疑問が頭の中にもたげて来ました。考えれば考える程今のままではいけないと思う様になり、ある日家内に相談した所意外にもにあっさりと賛成してくれました。夏休みにタイからJoy Joy Campに参加しに行った家族に私も1週間遅れでNJに行き、その週の礼拝で後藤兄からメ転職を考えているの?モと話かけて頂き、(妻が後藤兄に事前にそれとなく話をしていました)それがきっかけで転職が決まり翌年の04年4月から現在勤めている会社に転職しました。日本での1年余りの勤務の後に希望していた米国にそれもNJに戻って来ました。予感が実現しました。

神様は人によりそれぞれ違った方法で、違ったタイミングで、時には弱く継続的に、時には強く瞬間的に私達に働きかけて来られます。私は妻と家族の為に信仰を持ちましたが人それぞれに神様様を受入れるきっかけは異なるかも知れません。信仰を持ってもあまり自己中心的で短気な性格は大きくは変わってはいませんが、腹を立てた時は神様にその事を告白し、素直に謝る事が出来る様になりました。また穏やかな生活を送れる様に、心に平安がある様に祈る様になりました。これからも神様はどの様にして私たちに働きかけて下さるのか、どの様に私たちを用いて頂けるか楽しみです。これからは時間を掛けてでも1人でも多くの人々に神様のすばらしさを知って貰えればと思います。

いつか妻が望むメ穏やかな性格の夫モになれる様に Amen

月報2007年1月号より

「弱さの中に現れる神様の力」

韓国のピアニスト、イ・ヒアさんを御存知ですか?
先月、家の近所にある韓国人教会でこのイ・ヒアさんのコンサートがありました。
指が左右2本ずつしかないのにピアニストということで、一体どうやってピアノを弾くのか不思議に思い、集わせていただきました。

会場で、イ・ヒアさんを始めて見た時、彼女は私がいる席より少し斜め前の方にお母さんと一緒に椅子にちょこんと座っていました。「あれ?子供なんだ・・」と思いましたが、コンサートが始まり、ステージに上がってい行く彼女の姿を見て、「あ!」と思わず息を呑みました。子供だったのではなく、脚がなかったのです。その背丈から小さな子供のように見えたのです。子供用のワンピースが21歳の彼女にはロングドレスになるのです。脚は、ももがほんの少しはえているだけで、足の指もないその部分に履いているスニーカーを脱いで、ピアノの椅子によじ登り、演奏が始まりました。モニターが上から鍵盤をスクリーンに大写しにしていますが、一体どのように指が動いて鍵盤の上を流れるているのか目にもとまらないほどです。演奏ももちろん素晴らしいのですが、なにより彼女の純粋な愛らしさに心が惹きつけられました。

イ・ヒアさんが生まれた時、周りの人は、こんな体では韓国では育てられないから外国へ送りなさいと勧めましたが、お母さんはヒアさんを見て、何もおかしい所は全然ない、と思われたそうです。二つに割れた指も、まるでチューリップのように可愛い!と思い、自ら韓国で育てる事にしたそうです。このお母さんの目は、きっと神様が私達をご覧になる時に思ってくださっている気持と同じなのだろうと思いました。

演奏が終わって、家に帰って購入したDVD__ヒアさんの生活の様子を記録した__を見てからも私は一日中考え込んでしまいました。今、私自身が抱えている問題など何でもないことであり、何とつまらない事に自分は悩み、振り回されているのだろうということに気がつかされました。が、それだけではありません。

沢山のものを持ってる私たちが、持たない人を見た時、
その生き方に感動し、心を打たれ、励まされる・・・・
ないものを通して、私たちは与えられる、と言う事実。
それは、勇気だったり、癒しだったり、悔い改めだったり・・・・
あるものを失った人が、または初めから持たない人が、
持っていても満たされない人々を満たしてくれる・・・
一体この事実は、何なんだろう・・ということです。

体にハンディを持つ人に対して、助けになりたい、役に立ちたいなどと考える自分が、
この事実の前に打ち砕かれます。

私は今年、念願の人に2人もお会いする機会が与えられました。お会いしたと言ってもコンサートに行けたとか、実際にお証を伺う事が出来たということですが、ひとりは、生まれつき両腕がなく、足にも重い障害がありながら、ゴスペル歌手として活躍されているレーナ・マリアさん、もうひとりは交通事故で全身が丸焦げになる大火傷をおいながらも、それを信仰によって乗り越えたイ・チソンさんです。会場でそのお姿を拝見しただけで心が打たれ、涙が出そうになりました。そして今回、イ・ヒアさんを初めて知ったのですが、やはり同じような印象を受けました。

私にとって人間の目から見たらネガティブにしか写らない事柄の中に、圧倒的なポジティブを見る時、想像を絶する逆境の中にあっても輝いている人たちを見る時、そこに人間の力を超越した何かがある、と思わずにいられません。それが、弱さの中に働かれる神様の力だと思います。神様は霊なので眼には見えませんが、神様が何かをされようと思う時、人を用いられます。神様に用いられたレーナマリアさん、イ・チソンさん、そしてイ・ヒアさん、彼らが持っているものは、失ったからこそ、見えたもの、知ったもの、初めからなかったからこそ、その弱さの中に現れた神様の完全な力です。それは、この世の基準では計り知れない恵みであり、それらで満たされている彼らを通して、神様は私たちひとりひとりを目的を持って神様の御計画によって作ってくださったということを教えてくれます。

私が苦しみの中で、なぜこんなことが起こるのだろうと考える時、この神様の御計画__きっと何か神様の意味があるのだろう、と思えることは幸いです。この世の価値観、基準だけに振り回されることがないことも幸いです。こうでなくては私の人生は意味がないなどと思っていたものから解放された時、神様の声が聞こえてくる事もあります。
イ・ヒアさんのお母さんが神様の基準でなく、この世の基準だけでヒアさんを育てたら、神様が用意していたギフトに気がつかなかったことでしょう。

最後にイ・ヒアさんの書いた詩をご紹介します。
実は、私自身、数年前から体に不調をきたし、出来なくなってしまったり、諦めなければならないものが沢山ありました。運動や大好きだった手先を使った趣味も何一つできなくなりました。体の痛み同様、精神的にも辛いことでしたが、(いつもお祈り下さり感謝です!)でもそこで、韓国語の勉強を始めました。おかげで今日、イ・ヒアさんの書いた韓国語の詩を訳す事が出来てとても嬉しいです。私もどうにもならない時、どうしてよいか分からない時、只その弱さを神様にゆだねてゆくことしかできません。でも弱さの中に働かれる神様が必ず最善を用意してくださることをこれからも信じてゆきます。イ・ヒアさん、頑張れ!

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10本の指がなくても 悲しくなったりしない。
残っている4本の指に感謝する時、私の心に光を下さった神様が、
10本の指があったら持つ事の出来ない喜びを
私に届けてくださった。

2本の脚がなくても、恨んだりしない。
わずかに残ったこのももに 靴を履いて、主に向かって踊りを踊る時、
この世を作られた神様が、私を世界に遣わし、
希望を語れるようにしてくださった。

外なる人は古くなるけれど、
内なる人は日ごと新しくなるのだから、
外見の理由によって、泣いたりしないで、
内なる人の命に喜びましょう。
神様は、そんな外見の理由で泣いたり、笑ったりしている人たちに
伝える主の言葉を、私に託してくださったのです。

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月報2006年12月号より

「罪深い人間の心さえも作り直して下さる神様」

最初にこの証しを書く機会が与えられたことに感謝いたします。

私は在日韓国人として生まれました。父は一般的な常識とはやや違う考えを持つ人間で、私たち子供をとても愛してはくれましたが、それは父に対する服従を前提とするものでした。「勉強でも何でも一番になれ」の父の教えに逆らわないように顔色をうかがいながら育った私は、結局自分だけを愛し、他人に興味を持たない独りよがりな人間になりました。何でも一番というなら、人を愛することにも長ければ良かったのですが、残念ながらそうはならず、この世で大切なのは私だけ、他人の痛みは完全に人ごと、自分の欲望・利益・悦楽が最優先、これらの嫌な表現が全てあてはまるようなかなり強い自己中心性を持つ人間になりました。と同時に一方では、”他人からの評価に依存する”という自己評価の低さ、自信の無さも私のなかに共存していました。自己中心性と自信の無さの共存、つまり自分自身をこよなく愛しているのにもかかわらず、実はその自分に自信が持てないという裏腹さが私の心をとても不安定にしていたのです。そしてさらに悪いことには、そんな自分ときちんと向き合うことを避け続け、”私はとてもいい人間だ”、ときには”私はかなり思いやりがあるほうだ”などと全く見当はずれな自己解釈をして無意識に自分を慰めていたのです。私は常に第三者の評価を求め続けました。それはまるでアイドルスターか漫才師のように。いつも観客の顔色を異常なほど気にして、誰かと話をするときも、話し相手当人ではなく周りの人の反応をちらちら見るのが私のクセでした。全ての行為の動機は第三者からいい点数をつけてもらうことだったのです。こうして私は空虚なうわべに厚い上塗りを繰り返していました。

その弊害は結婚生活に見事に現れました。当然です。

自分にしか興味が無い男をありがたがる妻や子供がどの世界にいるでしょうか。だれかが点数つけてくれなければとたんに動かなくなる私。もちろん家事の手伝いへの動機なんてどこにも探しようもありません。うちに帰ればやる気を保てずゴロっとするだけの生活でした。それでも日本では仕事の忙しさを言い訳にできましたし、妻もなんとかそれで納得しようと努力してくれていたようです。しかし、家族再生を安易にスローガンに掲げてやってきたニュージャージーでも同じことを繰り返せば、夫婦の溝は自ずと深まるばかりでした。自分を省みるわけでも変えようとするわけでもなく、私の心は変化を拒み続けました。変化には痛みをともなう膿み出しをしなければなりませんから。

そして心の革命は「教会にいらっしゃいよ」の暖かい言葉から始まったのです。

どんどん信仰に引き込まれて行く妻を不安な気持ちでながめる日々でした。教会員のクリスチャンホームに頻繁に子供を連れて遊びに行く妻を見ながら、正直なところ、”同年代の子供と遊ばせてもらうためだけだ。キリスト教に勧誘されているわけじゃないはずだ。たまに話を聞いてもらってるだけだ”、と自分に言い聞かせていました。しかしそれはある日突然訪れたのです。「明日から牧師先生の家で個人的に聖書を教えてもらうことになったから」。妻からこの言葉を聞いた時は、”ああ!やっぱりそれが目的でうちに近づいてきたんだな!ついにやつらも本性を見せたな!意外に早かったな!”、と腹立たしい気持ちになったのを覚えています。喜々としている妻の機嫌をむざむざ悪化させるのが怖くて、行くなとは言えなかった。それでもなんとか口にした「大丈夫なのか?」に、無言の反駁が返ってきて、あわてて「いや、別に深い意味はないんやけど。。」で投了でした。

ああ、妻よありがとう。あのとき私の意に反して行ってくれて。

しかし、神様を追いかけてどんどん速度を増して遠ざかる妻の後ろ姿を、私は今にも見失いそうで気が気ではありませんでした。万が一ここで私が立ち止まってもし夫婦関係に決定的な亀裂が生じてしまったらどうしよう、考えただけでも空恐ろしい、けれど自分で追いかけるまでの気分にはなれない、などとジタバタしていた私のところに妻はいつもすっと戻って来てくれ、ぐいぐいと手を引っ張ってくれました。

ああ、妻よありがとう。君が私をいつも正しい道に連れ戻してくれたね。

とうとう2006年7月16日に妻と一緒に洗礼を受けることになりましたが、その決断にはまだ多くの人の後押しが必要でした。特に印象深かったのが職場の助教授でした。彼は韓国からの移民のクリスチャンで、私が同じ血を持つということもあり、公・私・信仰にわたりとても力になってくださった方です。このときも、「100%完璧に準備してから洗礼を受けようなんて考えちゃだめだよ、10%いや1%で十分なんだ。洗礼を受けてからゆっくり始めればいいんだから」、と導いてくださり本当にありがたかったです。それでも、受洗の朝になってさえも、まだ私の心は晴れきってはいなかったのです。朝食中にふとしたことから妻と口論になり、「今日はやっぱり洗礼は受けない!まだオレには早すぎたんや!」とけんか腰になっている私にさっときびすを返し、黙々と電話を掛け始めた妻。

錦織先生、早朝にご足労いただき本当に申し訳ありませんでした。

それ以後は神様が本当に働いてくださいました。とくにJOY JOY CAMPを存分に楽しんでいる頃から、私の心は急速に晴れ渡り、自分の醜い部分と向き合うことができるようになり、心の目が少しずつ開かれて行くのが自分でもよく分かるほどでした。そして今、

妻に感謝しています。
家事を一緒に手伝おうと思う気持ちが生まれました(まだ生まれたてです)。
人に純粋に興味を持つようになりました。
約束を守ろうとするようになりました。
身を低くして人に仕える人間になりたいと思っています。
誠実な人生を送りたいと思っています。
感動しやすくなり涙腺がすぐゆるむようになりました。(年のせいかも?)
なんだかおだやかでハッピーな気持ちでいることが多くなりました。
イエス様は途方もなく大きな愛のお方です。すごいです。
神様に感謝しています。本当です。

どうやら神様は複数の方法を用いて私を変える作業に当たられているようです。一つは礼拝のメッセージ、二つは教会員との親しい交わり、三つは聖書の御言葉、四つは妻の支え、五つはクリスチャンのための本です。どれが欠けても神様の作業は著しく滞るように思います。今、かなりの時間をこれらのことのために捧げていますが、神様がそう望んでいらっしゃるに違いないと感じています。

まもなくに迫った我が家の帰国の後におそらく信仰の試練がやってくることでしょう。神様どうかせっかく開きかけている私の心の目を閉じさせないようにお守りください。そして家族みんなの信仰ときずなをいつまでもお守りください。

神様あなたを心から賛美致します。アーメン。

月報2006年11月号より

「あんしん」

シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。  ルカ 22:31-32

「シモン、シモン。」は、「り」を入れると、「しもりん、しもりん。」で、やはりこのみことばは、今もなお、自分に語られているように思います。
「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」
「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

離婚という経験は、誰でもできるものではなくて、確かにそこには傷みが伴ないます。苦しかったし、辛かったし、何度も何度もひとりで涙を流しました。何が辛かったのか、どうしてそうなったのか、それを説明することは今でも上手にできません。
それでも、今、こうして確かに生かされています。それは、自分の力によって生きているのではなくて、ただ、神さまの力によって生かされているだけです。そして、神さまは、消極的な気持ちで、いやいやながら生かしてくださるのではなくて、愛と情熱をもって、生きなさいと語ってくださり、共に歩んでくださる方です。神さまは、間違えることも、失敗することもなく、いつでもどのような時でも、その祝福の約束のみことばのままに、最善をなしてくださる方です。だから、なにもかもすべて、安心して、神さまにゆだねていい。

昨年、聖書を開くことも、お祈りすることもできない時間がありました。「神はいるか」と問われれば、「いる」と答えることができても、「自分は祝福されていない」、そう思う時がありました。あるいは、礼拝に集うことができない時もたくさんありました。「ハレルヤ」と元気に讃美する人々の中に、自分はとてもじゃないけれどいられないと感じました。苦しい、辛い時間の中で、いろいろな思いが頭の中を駆け巡っていて、何をどうしていいのかわからずに、暗闇の中に道を失っていました。
その時間の中で、何人かの友達とメールのやり取りをしていましたが、今になって見返してみると、自分が綴った言葉に、胸が痛くなります。なんと声をかければいいのか?と、その言葉を受け取った相手も心を痛めたのではないだろうかと思わされます。けれども、誰も彼 (女)も、必要な言葉を与えてくれて、そのことは本当に感謝で、ありがとうの気持ちでいっぱいになります。
そのようなやり取りの中で、なぜか僕はいつも、聖書のみことばに戻っていました。聖書のみことばはこう語っている、神さまの約束はこう言っている、などなど。そして、ある時、ふと気付かされたことは、みことばからは逃れられないということでした。自分の状況が、辛くて苦しいものであっても、あるいは、自分の力で何をどうすることもできなくても、神さまの祝福の約束のみことばはいつもそこにあって、それにがっちりと捕まえられていて、逃れることができないのです。

私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、
そこでも、あなたの御手が私を導き、
あなたの右の手が私を捕えます。
詩篇 139:9-10

逃げようとしても、逃げられないんだということに気付いて、逃げることを止めることができたのだと思います。神さまの祝福の約束のみことばは、決して変わることがなく、いつもそこにあります。自分が信じるとか信じないとか、そういったことの前に、みことばは確かにそこに存在するのだということに気付かされました。

そして、その後、もう一つ。気付かされたことは、自分の弱さでした。
自分の力で何とかすれば状況を打開できる、そのような思いにどこかで捕われていたのは事実で、でも、ある時、自分の弱さを目の当たりにさせられました。
何とかできると思ってみても、実のところ、自分自身は精神的にいっぱいいっぱいな状況にあって、まだ頑張れると口にしてみたところで、もう頑張れない。自分はそんなに強くない。というよりもむしろ、自分は弱い。自分の力では何をすることもできない。
そのことに、気付かされました。そして、その自分の弱さに、どうしようもなく涙がこぼれてきました。
「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」 (ルカ22:33)とまで言ったシモンさんは、その後、 3回イエスさまを知らないと口にします。自分で言ったその約束を守ることもできずに、自分自身の弱さに気付かされて、激しく泣くシモンさんの姿に、僕自身の姿を見るような思いがしました。けれども、イエスさまは、そのすべてのことを知っていて、だから、前もって、「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」と語ってくださり、また、「あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と語ってくださいました。このことは、僕にとっては、本当に慰めであり、また大きな励ましでした。
神さまとの約束を守ることもできなくて、自分の力では何もできないほど弱くて、でも、既にイエスさまが祈ってくださったのだから、安心して、自分の弱さを認めて、それに泣いていいんだと思いました。
そのような僕自身の弱さや罪をゆるすために、イエスさまの十字架と復活があり、イエスさまを十字架に付けたのは、確かにこの僕の弱さと罪なのだと思いました。

そして、今、生かされています。
昨年の苦しい/辛い時間の中で、どこかで、信仰を失うことや、教会を離れることや、あるいは崩れ落ちてしまうことがあり得たのかもしれません。けれども、そうはなっていなくて、今、こうして、礼拝に集うことも、讃美をすることも、お祈りすることも、奉仕をすることもゆるされています。だから、そのようなことの一つひとつは、自分の力によるものではなくて、ただ、生かしてくださる神さまの力のゆえです。

「あなたは、わたしのしもべ。
わたしはあなたを選んで、捨てなかった。」
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
イザヤ 41:9-10

そう約束してくださる神さまに、安心して、自分自身を空っぽにして、なにもかもすべて、ゆだねていい。間違えることも、失敗することもない神さまが、時にかなって、その最善をなしてくださる。

時々、それでも、せっかく神さまが生かしてくださっているのだから、もっと(自分の力で)頑張らなければというような思いに囚われます。そして、何もできていない自分の姿に、 “焦り”のようなものを感じたりもします。けれども、先日のファミリーキャンプにおいて、神さまが再び語りかけてくださいました。

恐れないで、ただ信じていなさい。
マルコ 5:36

だから、あんしん。

月報2006年10月号より

「ホノコン ’06」

私は今年の夏、姉と2人でJCFNの15周年記念ホノルル・コンファレンスに行きました。私はどうしてもハワイに行きたかったんです。私にとってハワイは世界で一番好きな場所で今年の夏もハワイのビーチへ旅行したいと思っていました。あの爽やかな海風、暖かい気候、綺麗な海と素敵な風景はこの地上でハワイしか持ってない特徴だからこそ行きたくてしょうがなかったんです。そういう理由で私は、ホノコン(以下ホノルル・コンファレンスの略)に参加したのですが、神様は違う目的で私をハワイに送ったのです。では、ホノコンで何が起こったのかを書きたいと思います。

今年のホノコンのテーマは「You Gotta Paddle! Can’t You See It? ~主の波はもう来ている~」でした。そこで気がついたのですが、実は皆私の周りの友達はこの「~主の波はもう来ている~」に気付き、洗礼を受け、Strong Christianになっていたのですが、なぜ私だけがいつも置いてけぼりになっていたのか悩んでいました。でも考えてみると私ももうとっくに神様を信じてました。それは赤ちゃんの頃から教会で育ったような環境だったからかもしれませんが、「神様が私のためにイェス様を地上に送り、私の罪のために十字架につけられ、よみがえったからこそ私の罪は赦された」は100%信じていました。小さい頃から何か問題があれば神様に祈り、彼はいつも絶対に私の横にいる事を学んできたからいつも何かが起こったら神様に頼っていたんです。「…じゃあ、なんでまだ洗礼を受けてないの」の疑問にいつもたどり着きました。それがホノコン、そしてそこで出会った皆のお蔭で解決できたのでした。

私がホノコンに行きたかった No.1 の理由はハワイでした。別に信仰を深める目的もなかったし、何を期待するかも知りませんでした。でも、そこで歌った意味深い賛美のせいか、先生方の説教が本当に心に突き刺さったせいか、特別に最高だった Small Group で分かち合った時間のせいか、いつの間にか毎回賛美を歌った時や話し合った時、私の目はいつもウルウルしてて、涙が止まりませんでした。神様の十字架の愛、そして感謝の気持が溢れて、初めて賛美の意味が心に突き刺さって来た気分でした。

この気持の変化はDay2 の Small Group の ディスカッションからです。一体そのディスカッションで何が起こったかというと、荒井牧師が教えてくれたことです。Small Group の皆に私が持っていた悩みを相談したら、荒井牧師がニコッと笑って「レナさん、あなたは一人じゃないんですよ。本当の事を言うと、幼い頃から教会に行ってた人の方が洗礼を受けるのが遅いんですよ。それは、そうゆう人は神様に初めて出合って人生が全く変わった、すごい証をする人じゃなくて、何気なく信じているみたいだからからです。レナさんはもうすでに救われています。レナさんが波に乗りたい気持、ちょっと考えてみなさい。もう Paddle していると思いますよ。レナさんはもうすでに波に乗っていますから、あなたが言ってた洗礼への道、もう歩んでいますよ。これからは同じく神を信じ、洗礼を受けるだけですよ。もうクリスチャンなんですから。」と話してくれました。だけど私はまだ足りない気分を持っていたら、同じグループだった下部ゆうこさんがこう言ってくれました「もしかしてレナちゃん、何かが起こるのを待っているんじゃないかな。ちょっとしたアドヴァイスね:自分で波を作らなくていいんだよ。自分で作っても、神様の波の方が全然大きくて素晴らしいんだよ。『私はこんなすごい事が起こってクリスチャンになったんだ。人生、180度回転しました。』みたいな証できる事を待っているんじゃないかな。そんなのいいんだよ。最終的には皆で波を Surf できる事が一番重要なんだよ。だから自分の力で何かを作ろう!と思ってないで、レナちゃんを乗せようとしている神様が特別作ってくれた波を皆で Paddle すればいいんじゃないかな。」その一言で私が何かすごい事が起こるのを待っているのに気付き、そして人生を変えてくれるような出来事なんか必要じゃない事に始めて気付きました。

それから次の日賛美していた時、ただ歌ったんじゃなく、本当に歌詞を味わって初めて神様への「賛美」をしました。その日の一つの賛美は:

「主は導きをもって私をここまで支えられた
主の十字架の後をただついていきます
あなたのみかお見つめて みこえをたよりにして
みあしのあとをついていかせてください 愛する主よ」

でした。そして、やっぱり神様一番! と思いながら人生を振り返ってみました。本当に一歩一歩イェス様が共に歩んできてくれた事、そして今まで神様がすごく人生を祝福してくれた事に感謝でした。神様は頼れるお方でずっと気付いてなかったけど、いつも支えてくれていた事を賛美し、ホノコンで出会った皆の事を考えました。「こんなに暖かくて明るい皆に恵まれて、神様ありがとう!笑顔で本当に人生を無駄にしてない、楽しそうに毎日生きてる皆…神様の力はすごい!私も皆みたいに人生を生きて、神様の後をついていきたいな」と思いました。

それから Small Group の皆にその燃えていた気持を告白し、洗礼を受けたい事を分かち合いました。皆は感激してくれて、本当に支えられている気分でした。その時から神様が私の事を愛してくださって、愛してくれる人たちに囲まわれている事を本当に感じて、喜びで溢れて、スマイルが顔から離れませんでした。

次の夜、ホノコンの最後の夜、友達四人で徹夜しました。ゲームを遊び、話し合っていたら、もう日が出る時間になりました。その朝日が言葉で表せないぐらい綺麗で、やっぱり神様すごい!こんな素晴らしい地球を造ってくださったすごいお方だ!とまたまたおもいました。そしてその朝日を見ていた食堂の屋上で四人で賛美をし、最後のホノコンのお日様を迎えました。

そして帰りの日。ホノルルのアラモアナビーチで BBQ Party を持ちました。野外礼拝をして、皆でお昼ご飯を食べて、2,3人証しました。ビーチで遊び、とうとうお別れの時になりました。親しくなった皆にお礼とあいさつをして送迎のヴァンに乗りました。飛行場へ着いて、ハワイにお別れして、この洗礼を受けたい燃えている気持だけを持ってニュージャージーに帰って来ました。

その帰って来たその日に錦織先生、そして教会学校の中高科の立石先生と鬼頭先生にメールを書いて、洗礼を受ける決心の事を伝えました。先生三人とも私の気持をサポートしてくれて、一ヶ月後に洗礼を受けることができました。

教会、そして、私を励ましてくれた皆様、いつも祈って私の事を覚えていてくれてありがとうございます。どうかこれからのクリスチャンとしての歩みも支えてください。本当に教会を通して出会った皆様が応援してくれていた事に感謝しています。

月報2006年9月号より

「神様の恵みを受けて」

7月16日。私達夫婦の渡米2年目に家庭崩壊寸前の状態から夫婦揃って洗礼式を迎えるまでに至った経緯を「証し」としてお話ししたいと思います。

私達夫婦が3人の子供と渡米したのは、2004年7月、夫の2年間の留学のためでした。突然の留学話。2年間自費留学するための資金は無かったものの留学のためより『家族再生』のため、(何でもいい、今の状況が変るなら!)と生命保険や学資保険を解約し、売れるものは全て売り払い、どうにかこうにか渡米準備完了。荷物は5人家族で段ボール箱4つとスーツケース2つ、犬一頭が全てでした。
友人も知人もいない初めてのアメリカでの生活を思うと不安と寂しさ、心細さで一杯。でも一方で『家族再生!』をスローガンに「家族で過ごす時間さえ有れば何とかなる」と、期待も一杯でした。

――娘が1歳過ぎた頃、夫の転勤で大学病院勤務に戻ると、夫は帰宅が週に2日の激務になりました。そして、娘が1歳半のときに2番目の子供を妊娠。単身赴任の様な状況で、まだオムツも取れていない上の子を抱えて2回目の出産を迎えるのかと思うと、嬉しさよりもまず不安でした。漠然と親の援助を期待する事などを考えて行った2回目の検診で、実は2番目の子供だけでなく3番目も妊娠している事が分かり、嬉しいのか不安なのか、もう何が何だか分からず頭の中が真っ白な状態で娘と帰宅しました。上の子の妊娠時とは比べものにならない勢いで、みるみる膨らんでくるお腹に不安を感じていた頃、ある人に「双子を授かる人は神様に選ばれた人なのよ、」と言われ、私にとってはその後、子育てで辛い時いつも思い出し、心の支えになる言葉でした。幸い経過は順調で管理入院のため3ヶ月入院したものの、予定日の2日前に出産、しっかり一人分ずつの体重で生まれてくれたお陰で4日目には退院できました。しかし、自宅に戻ると私一人の先の見えない育児の始まりでした。2歳2ヶ月の娘と双子の乳児の世話で母乳も1ヶ月で止り、毎晩1、2時間おきの授乳で昼夜逆転、心身共に疲れ時々はっと、気付くとオムツを替える時も沐浴させている時も無表情で無言の自分。かわいい盛りの娘と生まれたての赤ちゃんの成長をゆっくり見る事の出来ない仕事に追われる夫も気の毒なはずでした。でも、(望んで産んだのに。)(私だけの子供じゃないのに。)そんな思いばかりが心を埋め尽くしていました。

双子の誕生から4ヶ月後、実家の父が脳内出血で倒れ、週に一度来てくれていた母の手助けが無くなりました。一命は取り留めたものの、それ以降約2年間続く父の入院では、娘として何も力になってあげられず申し分けない気持ちと裏腹に、いつも思いやってくれる母に対し、「たまには、手伝いに来てよ。病院に居るお父さんには看護婦さんやヘルパーさんがいるけど、私にはお母さん以外、誰も頼る人がいないのよ!」と、母に暴言として吐いた時、『夫と子育て』という意識は完全に消えていました。母との子供ではないのにおかしな話です。娘は放ったらかし状態になる事が多く、それに比例するように愛情の飢えも強く感じられる様になりました。息子達も日増しに活発になり、気分転換で公園に行っても四方に散らばる子供達を追いかけに行くだけで、ストレス解消どころか逆に疲れ、次第に引きこもり親子になっていきました。(一人になりたい!せめて3時間続けて眠りたい!)そう思うばかりで、娘に抱っこをせがまれても、すでにその気力は残っていませんでした。その頃の娘の「ママー!だっこだよぉ!」と泣く声は今でも耳から離れません。と、同時に(子供より自分の方が大事なんじゃないか)という疑問がいつも着いて回り、息子達の言葉の遅れも気になり始め、“無言育児”を思い出し、苦しみました。(このまま、こんな母親に育てられる子供達は、一体どんな子になってしまうのだろう、夫の知らない間に子供達は成長を続け、分かち合う思い出もなく思春期になった頃に、父と子の会話、夫婦の会話なんて出来るんだろうか。。。)と思うとどうしようもなく不安になり、焦り、その気持ちを話したい夫は居ないという状況で、一点の光も見いだせない暗い穴の中に居る様でした。夫も相変わらず多忙を極め、お互い日々、自分のやらなければいけない事で精一杯。お互いを労り合うなんてとても考えられない状況が続いた、そんな時に舞い込んだ留学話だったので、一も二もなく飛びついたのでした。

しかし渡米3ヶ月後、元来、前向きで自信に満ちあふれていた夫が一変しました。
この時娘は6歳、「このあいだ産まれたはずの赤ちゃん達」もいつの間にか4歳になっており、夫にとってほぼ“初めての子育て”は“初めて思いどおりに行かない対象”だった様です。“初めて”の事は他にも、子育てを通して“初めて向き合う自分の感情”にも戸惑い、“初めて心底向き合った夫婦問題”、“初めての慣れない環境と言葉”、これらの“初めて”によるストレスから体も心も荒んでいきました。常に体調が優れず、気持ちはマイナス思考、自己否定モードに入ってしまった夫。子供達は次第に夫を恐れる様になり、私自身もそんな夫の姿を初めて目の当たりにし、パートナーとして何もしてあげられない無力感と、夫自身のこの問題を(彼は乗り越えられるんだろうか?)という不安。ようやく一人ぼっちの子育てから解放されるはずだったどころか、夫と子供の仲介役。(なぜ?)(どうして?)(どうすればいいの?)の繰り返しでした。実はその過程は、私達の『家族再生』のために不可欠だった通るべき道で、神様が用意して下さっていた試練であった事はまだ知る由もなく、実際はすでに家族再生のために前進していたのに「家族再生はどうしたの?!」と、夫を責めました。(こんな状態になるために渡米したんじゃない!)と。それだけでなく、息子達の言葉の遅れや、型にはまらない二人は学校で問題児に。今まで見ない振りをしてきた小さな心配事が、後から後から大波になって押し寄せて来る様に感じていた時、小さな出会いがありました。

このアメリカ留学自体が、我が家にとっては長期旅行と決め込んでいたので旅行も観光も無し。同じ週末の繰り返しに煮詰まりつつあった渡米1年後のある日、
犬の散歩で大清水姉(*)と出会ったことがきっかけで、JOYJOYキッズクラブや日本語教会に、気が向いたときだけ行く様になりました。錦織先生のメッセージや中高生の面倒見の良さに触れ、(自己否定どっぷりの夫のために!)(子供達に隣人愛を!)という私の勝手な理由で行っていたものの、実は、夫や子供達を変えようとばかりしていた私へのメッセージだった事に気付いたのです。私自身の今までの傲慢な気持ちを神様はずっと見透かしていらしたのだ、と思うと恥ずかしく情けない気持ちでした。そして、何度となく聞いていた「人は生まれながらの罪人」ということばも、次第にその意味が自分のものとして実感する様になりました。確かに“何かモにすがりたい気持ちでいました。(信仰を持てたら楽になれるんだろうなぁ、)と。しかし、私も夫も多くの日本人の様に無宗教に近い環境で育ったため、信仰を持つという事に今ひとつ、積極的にはなれませんでした。しかし、錦織先生のメッセージ、教会の方との交流を通して自然な気持ちで神様、イエス様の深い愛に触れ、(聖書の事、神様の事をもっと知りたい!)という気持ちになり、バイブルスタディを始めて1ヶ月程経った頃、息子達の緊急入院がありました。親としての至らなさ、バイブルスタディも自分が救われる事ばかり考えているんじゃないか、と子供達に申し訳ない気持ちと自分を責める気持ちでいっぱいでした。そんな中、私や私達家族のために、お礼拝で教会の皆さんがお祈りして下さったそうです。以前から私達家族のために祈って下さって、私の学びを導きサポートして下さっていた小林葉子姉(*)、錦織先生ご夫妻の熱いお祈り、全てが私にとって衝撃的でした。私が神様の愛を実感するという事は、こうしてクリスチャンの方を通して実感出来たのです。

今思えば、双子を授かったのは「子供は3人欲しい、」と願っていたわたしがもしあの時、双子でなかったら夫の激務が続く中、3人目は望まなかったでしょう。私達が『家族再生』の為にアメリカに来たのも、私達が選んだのではなく、私達が知る前から、神様が全てを備えておいて下さった事を強く感じずにはいられない事ばかりです。日本から犬を連れて来るのにバックヤードにはフェンスが必須でした。
百件ほど見て語学力に自信の無い私達の借りたフェンス付きの家は、日本語ペラペラの大家さん。日本人なんて誰もいないだろうと思っていた娘の学校には同じクラスに日本人の女の子。しかも歩いて2分のお家。この方達には学校の事から犬、前述の息子達の入院など本当にお世話になってます。そして、どん底状態だった私達のために神様は、近くに教会や一緒に苦しみを分かち合ってくれる教会の方達まで用意しておいてくださったのです。まるで、「不自由しない様に色々揃えてあるから、とにかくいらっしゃい。」と。それでも神様を信じずに、「私がなんとかしなくちゃ、」という傲慢な心を悔い改めずにイエス様を救い主として受け入れない理由は、もうどこにもありませんでした。

私の少し後から夫も学びのときを持ち、私達の長女として、いっぺんに双子の弟の姉として我慢を強いられる事ばかりだった娘の8回目の誕生日に、私達夫婦も洗礼の恵みに預かる事ができました。本当に感謝です。もう一人で、夫婦で悩む必要も無く、それどころか祈りの先輩、祈りの友、まで与えられ聖書やメッセージを通して神様からのラブレターをいただき、どんな時も希望を持っていけるのです。
本当に感謝です。。。

『あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものは無かったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共にそれに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます。』 第一コリント10:13

(*) 教会では、キリストのもとに互いに兄弟姉妹、という気持ちで、お互いのことを「~兄」「~姉」と呼ぶことがあります。

月報2006年8月号より

「イエス様の命と私たち」

僕らクリスチャンは、「私はイエスに愛されている」とか「キリストは罪びとのために死なれた」というようなことは「知って」いる。僕らはこのような言葉を数え切れないほど耳にしてきたが、しかし、「慣れ」というほこりが、これら素朴な真理を鈍らせることがある。こんなほこりを払い落として、神様の愛をもう一度新たに考えるべきである。

何度も何度も人生の道を歩いている私達なら、あたる壁。それは、「慣れ」である。人と人の関係の上で。神様と僕の関係の上で。常に「慣れ」というのは生じるものであってしまう。

ここで「慣れ」とは一体どのようなことかを下記のトピックをあげて考えたい。

Examination

問1:イエス・キリストを信じているのか

あなたは、イエス・キリストを信じていますか。クリスチャンであれば、もちろん答えは「はい」でしょう。実際、イエス・キリストが十字架にかかって、死んでくださった。それは、私たちの罪を赦すためである。わかりきっている事実である。しかし、信じているとしても素直に愛しているだろうか。本当に好きな人のためにはなんだってできる。しかし、私は、神様のために全力を尽くしているのだろうか。まさに、命の恩人。そんな神のために具体的に何をしているだろうか。疑問符がついてしまうことがある。

問2:命を捨てる準備はできているのか。

明日、地球は滅びます。あなたは、その日に死ねるか。「もちろん」イエス様を信じているのだから当然天国にいけるから準備はできている。
果たして、そんなに簡単に命を捨てられると言えるのだろうか。なにかやり残していないだろうか。
私たちは、事故を起こす電車の中で、非常口を知っている者だ。だが、その非常口のありかを誰にも「伝道」しないでいないだろうか。あなたが伝道していない友達はみんな、事故の中で亡くなってしまうのだろうか。
伝道をあまりしていない僕としての答えは、「いいえ」だ。まだ時間が必要だ。
焦らずとも、怠けずやり遂げたいことである。

問3:本当の愛とはなんだろう。

「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私はこう考えました。また、キリストが全ての人のために死んだ以上、全ての人が死んだのです。また。キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」 コリント人への手紙第二5章14~15節
イエスは、罪の色に染まりきった人間を十字架にかかって死ぬことで赦した。それはわたしたちに見せてくれた最大の愛であったと信じている。
では、なぜ人間は恋愛ができるのだろうか。神様の愛を実感できる今、自分の立場から他の人を好きになることは必要なのだろうか。必要であるのだろう。あるクリスチャンの雑誌にはこう書かれている
「異性との関係は、そこから何かを受けるためではなく、与えるためのものとなる。クリスチャンにとってすべての人間関係は、神が僕たちを愛してくださったように他の人を愛するための機会なんだ。」
私たちは神が私たちを愛してくださったのと同じ経験を私たちにさせてくださっているのである。それは、けして私たちが「きもちがいい」という経験をするためではないのである。

世間がそうだから。まわりの環境がそうだからと言って、慣れてしまっていることはないだろうか。伝道をしているなんてかっこ悪く見られるから。みんなやってないのだから、あとでいいや。世間は、恋愛なんて気持ちがよければいいと思っているから。そのような環境にいたらその色に染まってしまうのも当然のことであろう。だが、クリスチャンならば、そうならないことは容易のはずだ。ただ、「困難」に「慣れ」ているのだ。
大変なことではない。
バスケットボールでも同じことが言えるが、「感銘を受けた。」「生きがい。」と思いながら、練習するバスケットと、「ねむたいのに練習しなきゃ。」と思いながら練習するのでは上達率も全く違う。
そう。クリスチャンを好きになればいい。イエス様を純粋に好きになればいい。イエス様を信じることが、「感銘をうけるもの」であり、「生きがい」になるのであれば、そして聖書にあることを純粋に従うならば、私もあなたも救われる。
僕は、このようなことを、親がいないアメリカ・NJの教会の人のところに泊まることで、また、ユースのみんなと交流することで、改めてスタートラインに立たせてもらった。
このイエス様を信じる「喜び」を慣れなどには負けず、流されず、他の人に伝えることを惜しみなくしたい。天国の手帳に「伝道100回」と記されることを目標にしようと考えている今日この頃である。

「そこで、あなたがたに言うが、何でも祈り求めたことは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」 マルコによる福音書11:24

祈り:「天にいます父なる神様。ハレルヤ。日々を感謝します。神様、僕にどうか伝道できる勇気をください。伝道できる力をください。もちろん慶應の人だけではありません。自分の祖父母への伝道。YOUTHに来るみんなへの伝道。そして、慶應のみんなへの伝道。どうか、置かされている範囲は広いですからどうぞ、この口をきよめてお使いください。あなたが、NJにとってもすばらしい方々を送ってくださったことを感謝します。泊まれる家を感謝します。中高科のみんなを送ってくださったことをありがとうございます。今ぼくの頭の中に浮かぶ方々に祝福ありますように。素敵な人を送ってくれてありがとう。主イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

あなたへの祈りは聞かれましたよね。守ってください。祝福してください。

「僕は、イエスさまの命を無駄にはしたくない。」

月報2006年7月号より

「家族」-母の日に思うこと-

私は1998年のNYでの初めての個展がきっかけでNYに引越してこようと決めました。日本ではイラストレーションやデザイン業をやっていたのですが、バブルがはじけて企業が広告費を使わなくなり、仕事が減ってきたのと、何処にいても大変であるのなら、NYで頑張ってみようと、無謀な計画を立てたのでした。

学生ビザを取り、インターネットで調べた語学学校の寮を2週間予約し、友達も知り合いもいないNY生活が始まりました。

日系の新聞を買って、まずは日本語の通じる不動産屋に電話して、マンハッタンで一番安いアパートを貸して下さいと言うと、チェルシーに小さなスタジオを探してくれました。寮からの引越はイエローキャブで充分なほどの荷物しかなく、画材と折りたたみ式の自転車が、そのほとんどを占めていました。個展をやった画廊のオーナーは顔を覚えてくれていたので、電話をかけて布団を貸してくれるかと尋ねると心良く貸して下さり、ついでにお茶碗やお箸などもいただいて、とても助かりました。

マンハッタンにいるだけでワクワク幸せで、絵のイメージがどんどん出てくるので、学校や自宅でのデザイン業の合間は絵ばかり描いていました。日本では、締切りに追われ、睡眠時間も充分に取れないで、忙しい社会の中を飛び回っていたので、NYに来てこんなに時間があるのは社会人になってはじめてぐらいのことでした。

学校の友達が近くに教会があると教えてくれたのは半年後くらいのことで、偶然にも、10階の私のアパートの窓から日米合同教会が見えたのです。さっそく日曜日の礼拝に行ってみることにしました。

初めて礼拝に参加した日のことをよく覚えているのですが、私の頭の中は自分の子供の頃の家族の想い出で一杯になり、だんだん呼吸困難状態になってきました。すぐに、その原因が涙がこぼれるのを必死に我慢しているからだと気がつき、長い間ずっと緊張していた何かが初めてゆるんで、懐かしい感覚に包まれていました。今思うと、それは、『守られている』という安心感のようなものだったのかもしれません。

私は、都内のクリスチャンの幼稚園に3年間通い、今思うと、この頃が一番良い子であったと思います、小学校は、父の転勤もあり、3つめの小学校が北九州でした。その時私は5年生で、校庭の遊び場の取り合いでいつも喧嘩している東京の子供達とちがって、限りなく広い校庭の九州の子ども達は、純真で優しかっ たし、大自然が毎日の遊び場になっていました。東京では仕事で夜も週末もほとんどいなかった父が早く帰ってくるようになり、祖母もとても元気で、母もいつもニコニコしていました。当たり前なのかもしれませんが、いつも家族が一緒に食事したり、テレビを見たりしているというこの北九州の2年半が、私の家にとっては、最も家族らしい時期でした。

中学は姉と一緒に、クリスチャンの女子校に通いました。日曜日には教会に行き、通信簿にも聖書という欄がありました。いつも牧師先生からイエス様のお話 を聞いて、神様と家族からの愛情をたくさん感じながら、安心して生きていた時代だったのです。

しかし、中学2年の時に東京に戻ることになり、今度は、授業も成り立っていないような恐ろしい公立の中学に転校することになりました。それから、兄弟のように育ったコリー犬が死に、おばあちゃんもボケがひどくなり、母も疲れ果てていて、父もまた仕事人間になっていきました。私自身も、姉と一緒の高校に入ったのですが、バスケットボールクラブだけは熱中した後、このまま大学には行きたくない、美術系に進もうと毎日美術大学受験のための夜間学校に通うようになったので、ほとんど家にいない生活になりました。

私は小さい頃から、よく母に『あなたには、いつもビックリさせられる。。』と言われています。それは未だにそうなのかのしれませんが、子供の頃よく学校で熱を出して迎えに来てもらったり、頭に包帯グルグルだったり、松葉杖をついて帰宅したりしました。警察によくお世話になる方で、たびたび、警察から家に電話がかかってきました。
『新宿警察ですがお宅にK子さんいますか?』
『ハイ、K子はうちの娘ですが、、、』
お財布を落とす、大宮八幡の夜店で補導される、期限切れの定期券で改札で捕まる、オートバイ事故で病院に運ばれる、、、、等々、そのたびに母は、心臓が止まるほどビックリし、それでも次の瞬間には私のために母はお財布を握って走っていました。

私は大学時代からどこへ行くにもオートバイに乗っていて、実は、母にも言っていないのですが、もう1つ事故を起こしました。徹夜で仕上げたイラストレーションの仕事を届けに、表参道のあたりを渋滞の車の間を走り抜けている時、タクシーのドアが急に開き、そこに突っ込んでしまいました。救急車まで来てしまって、私は、『忙しいから病院には行かない』とか言ってもそうはいかず、警官は『家の人に連絡するので、電話番号を教えて』と言います。私は『いません。家族はいません』と、これ以上母に心配させたくないので、大丈夫ですと言い張りました。母が知ったら、ショックも受けるし、『なんでみんなのように徹夜なんてしないで、9時から5時みたいな会社員にはなれないの?死んでしまいますよ!バイクはやめてちょうだい!』、などと言われるのが目に見えるようで、私は、『家族はいません。大丈夫です』と、必死に言っていました。本当は一番心配してくれていて、愛していてくれている母親のことを『いません』と言っている私には信仰のかけらもありませんでした。『誰にも迷惑かけてないし、ちゃんと仕事もしているし、大丈夫です。』家族がいなくても、神様がいなくても、一人で生きていると強がっていました。

そうは言っていても、本当にボロボロでした。ろくな物も食べていないし、ほとんど寝ていないし、いつも時間に追われていて、時間ができると不安にかられて仕事を探さなければならなくて、合間には、過激に遊んでもいたのですが、ホットしたり、安心したりすることなく、ずっとあわただしく生きていたのです。

そんな中、大人になってはじめてゆっくりする時間をもらい、NYの生活の中で、教会に行きついたのです。それから毎週教会に行くようになりました。NYの教会はバイリンガルで賛美歌は英語でも日本語でも歌っていいのですが、私はあえて英語を選びました。日本語の賛美歌は懐かしすぎて、泣きそうになるからです。
私は父を早く亡くし、姉とも仲違いをしてしまっていて、病気の母を一人日本においているということで、家族に対するコンプレックスがあったのですが、2000年のイースターに洗礼を受けて、イエス様の家族となり、家族というものはまたできるのだということを感じました。

2002年には結婚し、いきなり15歳の娘もでき、正に神様のご計画(?)で、また『家族』を与えられました。この母の日には、母も交えて4人で教会に行き、賛美歌を歌いました。もう日本語で歌っても涙は出てきません。

私はいつも感謝しています。母に、家族に、そして、それらを与えてくださった神様に。。。

月報2006年6月号より

「私は、1999年5月末に、22年間勤めた会社を…」

今月は、JCCNJ教会員花崎由紀姉のお母様で、今年2月に日本で洗礼を受けられた内田真紀子姉のおあかしをご紹介させていただきます。

「私が幼い頃から何十年も毎週笑顔で母を訪ねてくる新興宗教の方々がいました。母は当たり障りのない返答で対応していたのを覚えています。宗教と名の付くものには何一つ耳をかさなかった母が、神様、イエス様に出会い、聖霊の働きによって導かれる姿を目の当たりにし、人の力ではどうしようもないことが成されるのを実感しました。途中でくじけるのでは?と思っていた一年間の受洗の学びも教会の方々に励まされ最後まで頑張る事が出来ました。受洗後も今までと変わらずマイペースで、でも神様、イエス様と向き合うときには襟を正し、気持ちは正座で、クリスチャン生活を送っています。」 (花崎由紀)

私は、1999年5月末に、22年間勤めた会社を停年退職しました。その時にすでに椎間板ヘルニアになっていて、半月後に入院し、2ヶ月間入院しました。見舞いに来られた人が熱烈な新興宗教の信者で、枕元で、信仰しないと直るものも直らない、と言われましたが、寝たきりで人に便器の世話をしてもらっている時に、話に耳を傾ける余裕など私にはありませんでした。

しかし、少し良くなった頃、今までの人生は何だったのだろう、と考えるようになりました。退職するまでは、働かなければ生活できないので必死で、人生のことをゆっくり考えたことがなかったのですが、時間ができたことと、病気をしたことが大きいと思います。退院してリハビリに励みましたが、身体が思うように動かず、情けない気持ちと空虚な気持ちで過ごしていました。

その頃、娘一家がアメリカのニュージャージーに居たのですが、一家も日本のお友達との出会いがあり、お友達に、野外礼拝があるのでご一緒しませんか、と誘われ、教会に行くようになりました。すばらしい牧師と沢山の日本人のお友達との出会いがあり、それから毎週教会へ行くようになったと聞いています。2001年にイギリスに転勤になり、ミルトン・キーンズの教会に日本の女性牧師が来られ、全員で学びをし、2003年4月に娘と長男と次男が洗礼を受けました。その頃から、私のほうに、毎週、牧師のメッセージや学びのテープが送られて来るようになりました。また、電話でもいろいろ神様の話を聞きました。

娘一家が今度はタイに転勤になり、タイの日本人教会で娘婿と三男が洗礼を受けました。その頃、娘が電話で、一度教会に行ってみたらと勧め、4つほどの教会を調べてファックスで送って来ました。私は娘があまり熱心に勧めてくれるので、一度覗くだけのつもりで行ってみようと決心しました。ファックスで送られて来た教会の中にチャペル・こひつじがあったのですが、私は迷わず、チヤペル・こひつじを選びました。何故だか分かりません。今になって思えば、それも神様の導きでした。私は勇気を出して、チャペル・こひつじに電話を掛けました。恵子さんが出られ、場所を聞きましたが、その後で恵子さんが、ぜひ一度いらして下さい、お待ちしております、と言われた言葉が心に残りました。2003年5月の第1週目の日曜日に、恵子さんの言葉に引かれ、白転車で行きました。これが私が初めて教会に行ったいきさつです。

教会に行ったものの、知合いの方がだれも居ない中で心細い思いをしていましたところ、三宅さんが私に声を掛けて下さいました。そのとき、三宅さんは「私は神様から内田さんの世話をするように導かれています。」と言われたのです。驚きましたが、心細かった気持ちがホッとし、とても嬉しかったことを記憶しています。すばらしい牧師に出会い、沢山の方々に出会い、優しい言葉を掛けていただき、メッセージよりも皆さんに会えるのが楽しみで、毎週礼拝に出かけるようになりました。

その頃、娘の長男が内臓に異常があり、タイの病院に入院していましたが、急遽日本に帰国することになり、歩くこともできない孫は、担架で飛行機に乗せ、日本の空港に着くと、救急車で病院に直行し、タイの日本人教会の牧師が手配して下さった順天堂大学病院へ入院することができました。紹介された教授もクリスチャンだったので、毎日祈って下さったそうです。孫が入院しているとチャペル・こひつじで話したところ、皆さんで祈って下さいました。そして、無事退院できました。

また、娘がひどい腹痛におそわれ、外国は日本のようにすぐに診療してもらえず、予約を取らないと診療してもらえないとのことでしたが、娘が祈り続けたら、腹痛がおさまったそうです。私は電話でこのことを聞いて、「あっ、やっぱり。神様は本当に働いておられる。働いて下さった。」と思い、感動し、確信を持ちました。私自身も今までにいろいろな出来事がありましたが、大きな事にならず、無事に過ごさせていただいているのも神様のおかげだと思います。

私は犬とのら猫2匹とで生活しています。娘にしたら、遠く離れているので、私が淋しくないだろうかと色々心配です。娘は自分が神様を信じ、心豊かに暮らしているので、日本に居る私にもその心の豊かさを持ってほしいと、一家で私が心淋しくないように、もっと信仰が深まるようにと、いつも祈ってくれています。私が娘一家を訪ねてイギリスやタイに行ったときに、皆でお祈りする姿を目にし、私もその輪にはいりたい、そのために神様を本当に信じて祈れたらと思い、もっと神様のことを勉強してみようと思いました。孫も全快し、私は神様が本当におられる、神様の働きは本当だと確信しました。それからは、礼拝が私の生活の一部になり、聖餐式も納得して受けることができるようになりました。

教会に行き出した頃、三宅さんが私にイエス様は内田さんのために死なれたと思いますか、と言われ、その頃は、イエス様は人間のために十字架にかかられたが、私のためにとは思えません、と返事したことを覚えています。でも今は違います。こんな罪深い私のために十字架にかかられたと確信しています。今までのことを梅い改め、これからの人生を神様と共に歩めたら、とても幸せです。

クリスチャンになれるのは徹底的に勉強した人、そして善の生活を行なっている人だけと思っていましたが、神様はありのままの私を受け入れてくださると、学びで牧師に教わり、神にゆだねなさいと学びました。孫は、洗礼はゴールじゃなくスタートだと、イギリスの牧師から学んだ、と教えてくれました。

神様、私の心を満たして下さい。そして、神様のあふれた力で人と接して行くことができるように導いて下さい。証をする機会を与えて下さった主に感謝いたします。

一回ただお言葉を下さい。
(マタイの福音書8章8節)

月報2006年5月号より

『「天使の涙」・・・ 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。』

母が転落事故で亡くなった。68歳。5月の深夜祈祷会から帰った夜中。姉からの電話。
「家裏の高台の石垣から落ちたらしく、頭を強く打って意識がない。
しばらく経っていたようだ。心臓がどんどん弱っている・・・。」
悪い夢を見ているのだと思った。
何度も電話が行き交い、震えがきた。必死で神に叫び求め、祈り続けた。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。・・・」ヨハネ14章が飛んできた。
意識が戻らない。手術も難しい。もうだめかもしれない。「泣くな。」弟が叫んだ。救急車が呼ばれた時間、主のみ前に出て祈っていたではありませんか。どうぞ助けてください。回復させてください。もう一度奇跡を起こしてください。でも、もし・・・・助からないの
でしたら、母の人生のすべての罪を私のこのとりなしの祈りゆえに、主にあってどうぞ赦してください。イエス・キリストの名を思い出
させ、今、信じることが出来るようにしてください。どうぞあわれんで母を天国に導いてください。神と長く真剣勝負の格闘をした。
朝を待って、みなさんのお祈りをお願いした。しかし、日本時間の深夜、その日のうちに、意識も戻らないまま亡くなってしまった。
夫婦の喪服が入っているス-ツケ-スが乗り継げなかった。私は母の喪服を着た。顔も頭もひどくつぶれているのだろうと覚悟していたが、実にきれいな安らかな顔をして横たわっていた。傷もシミもしわもなく、髪も黒々として若いきれいな母だった。神は、あの叫びを聞いて、母を救ってくださったのだと思った。
父に促されて母に触った。死人の冷たさだった。聖書に出てくる死人の復活を思い、大声で主のみ名によって、神に叫ぼうか。叫んでみてはどうか。もしかしたら、息を吹き返すかもしれないと思った。でも、しなかった。
2004年、私たちがアメリカに来た夏、父に胃がんが見つかり、二度の手術で全摘した。母は病院に泊り込み、つきっきりで看病した。そのとき、父の死を一度は覚悟したが、まさかの母の死だった。
父は深い悲しみの中、腸閉塞と胆石の激しい痛みに度々襲われ、あれから何度も入退院を繰り返している。
そして、去年の夏、とても元気だった主人の父が急に脳出血し、倒れた。右半身が完全に麻痺し、言語障害があり、認識も十分でない。一ヶ月の治療入院の後、四ヶ月、リハビリセンタ-にいて一月末に、施設に移った。回復は望めなく、自宅に帰ることもないだろうと思われる。義理の母はこの突然の悲しみと、先の見えない不安と痛み、疲れの中、心身ともに弱りきっている。
あっという間に取られる命と、障害を持ちつつも残され、与えられている命がある。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。・・・」イザヤ55:8そのような頃、私たちに帰国の内示が出た。ここはまだ二年。ビザも残っている。次男の高校を長男と同じNYの高校に決めて、願書を詰めている時だった。「とにかく、辞令までの15日間、祈り続けます。はい。そうですか。と今は言えません。日本を向けませ
ん。」と夫に話した。まだまだここに私の心があった。日本の実家のことを考えると、「ありがとう。丁度良かったです。」と言える
ことなのかもしれないが、そう言えない自分がいた。旧約聖書の「エステル記」が頭によぎり、自分のことと重なり、この内示は必ず流れる、と思った。また既に、神様が導いておられると思うことが5つも6つも始まっていた。
私たちは思うこともなかったNJ転勤になった。ドイツを離れる時、神様は何度も美しい虹を見せて、私が導くから心配いらない、と語られた。聖書の約束に信頼しつつ、時には弱る心を注ぎ出して二人でよく祈った。
そして、やっと少しずつ少しずつ山が小さくなって動き出し、さあ、ここから・・・という矢先の辞令だった。何だか力がどっと抜けた。
そんな10月。多くのことが重なり、疲れ果てていた私の心に「天使の涙」は届けられた。「あっ」。天使の赤ちゃんの小さな小さな涙。たくさん次々、赤ちゃん天使の涙が連なっている。かわいい鉢植えの天使の涙、葉っぱたち。熱いものがこみ上げてきた。無言の優しさと熱い篤い祈りが迫り、慰めに満たされた。名前で決めたという鉢植え「Baby’s/Angel’s Tears」。毎日毎日、いっとき一時、眺めて祈るうちに、ドンドンドンドン元気が与えられてきた。一つ一つ神様の恵みを感謝しつつ、数えられるようになってきた。
「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」ヨハネ13:7変えられないことを受け入れる信仰を私にもください。
また、神様は全ての道を造り変えられることができる、という信仰をも与えてください。
全てのことを用いて、人の痛みがわかる位置に私もどうぞ置いてください。
そして、約束どおり、やがて私も義の実で満たしてくださいね、と祈ります。
「天使の涙」はNYに残る長男に引継ぎ、託します。祝福の管理を委ねます。
きっと寮で、あなたもあなたの友達も励まし続けてくれるでしょう。
2008年6月。卒業する時に、彼女の元に返してください。あの時のあなたの優しさは、こんなに大きく広がりました、と。枯らさないでね。水も忘れないでね。大きく立派にして必ず返してね。
一人ひとり、ここで出会った多くの方々のために祈ります。
熱い篤い祈りを共にしてくださった信仰の友、祈りの先輩。
みなさんの優しさと祈りを決して忘れません。本当にありがとうございました。
「主にある者は幸いである。」と喜んで、「私と私の家とは、主に仕えます。」ヨシュア24:15 と告白して新たな心で出発します。

月報2006年3月号より

「人を許す恵み」

私達一家が、このニュージャージー日本語教会の礼拝に参加するようになってから5ヶ月になります。この間に神様は本当にたくさんの恵みを下さいました。その中で、私が最初にいただいた恵みについて証をしたいと思います。

私達夫婦は2001年に 10年以上住み慣れたロサンゼルスと、心から信頼し愛する兄弟姉妹のいる教会を後に、夫の仕事のためにニューヨークに来ました。旅行では何度も訪れ楽しい思い出の多いNYでしたが、いざ、住んでみるとのんびりしたロサンゼルスとは全く違う文化、価値観、ライフスタイルに戸惑うことの連続でした。また、新しい土地というだけでなく、夫の新しい職場はとても忙しく帰宅するのが午前一時二時になる事も頻繁でした。その上、引っ越してまもなく妊娠したので、友達も親戚もいない見知らぬ土地で妊娠、出産、子育てをする事に不安でした。その頃住んでいた地域の教会に行って見ましたが、ここと思う集会に出会えず、ロサンゼルスの教会の兄弟の紹介で、クイーンズのフラッシングの集会に参加するようになり、ようやく私たちの心に平安がもどって来たように感じました。しかし、夫の仕事は年々忙しさを増し、それと共に私たちの会話は減り、私は一人で子育てをしているような孤独感と体力的な疲労で、いつも体調を崩していました。特に子供が二歳くらいのころは、子育ての方針のことで口論が絶えず、その頃の私たち夫婦は、二人共信仰をいただいているという大きな恵みを受けていながら、二人で祈る時間もなくお互いのストレスを気遣うという心の余裕もなかったと思います。教会の礼拝に行くことも、「礼拝に行きたいから行く」というより、「行かなければならないから」という義務感にさえなっていました。ただ、主は、そんな私でも、礼拝の中で、励ましと休息を与えてくださいました。自分では、義務感で礼拝にでているつもりでも、心のどこかで主にすがりたい一心で礼拝に出ていたのかもしれません。しかし、礼拝の中でいただいたその平安は、日常の生活にもどると、なんとなく消えてしまっていました。

その後、育児は少しずつ楽になり、夫の仕事も忙しいなりにペースができてきて、少しづつ心身ともに落ち着いてきたと感じはじめました。そして昨年の3月に転居したことをきっかけにNJで教会を探すことにしました。私達はそれまでずっと現地の教会に参加してきたので、日本人の教会を探そうとは思っていませんでした。ところが、NJに転居してすぐに日本に一時帰国することになり、私はその帰国中に、まだ信仰を持たない私の妹に福音を伝えたいという強い負担を心に覚えました。しかし、現地の教会で救われ、養われてきた私は ずっと英語で御言葉を読み、祈り、賛美してきたので、日本語で神様のことを語ることに少なからず困難を感じ、日本語で御言葉を読もうと決心してアメリカに帰ってきました。
その頃夫は相変わらず毎日仕事で遅かったのですが、ある日、深夜に帰宅すると
「日本語教会があるらしいよ」と言って、彼にこの教会のことを教えてくれたリムジンの運転手さんのおぼろげな記憶をたよりに、教会のホームページを探し当てました。その時、夫も私も、何か特別な神様の導きをすでに感じていました。そして、8月の最後の日曜日の礼拝に出かけてみることにしました。その日は、プリンストン日本語教会の栗栖牧師が説教をされました。その中で、ルカの「良きサマリア人」の箇所を通して隣人を愛するということを話され、御自分の結婚生活で、夫として、一番身近な隣人である妻を愛することを忘れていた、ということを打ち明けられました。そして、この説教を聞きながら、私は涙があふれて止まりませんでした。自分でも気がつかない隠されていた心の中の傷がひとつひとつ浮かび上がってくるような感じでした。その傷は古く、ニューヨークに引っ越して以来少しずつ夫との関係の中で受けた傷でした。それは、私にとっては驚きでした。学生の時からの知り合いである私達夫婦は、問題はすべて話し合って解決してきたと思い込んでいたからです。確かに、話し合い(口論?)によって、その「問題」は解決しましたが、私の心の「ゆるし」には至らず、いつのまにか、心の中に多くの resentment を抱え、夫を罪に定めていたのです。それは、罪とは呼べないような些細なことの積み重ねだったと思います。夫は心優しい人です。故意に私を傷つけるような事はなかったはずです。そしてそれは、夫の問題ではなく、私の問題であると神様は示されました。

それから数日間、私は夫を許そうと思い主に祈りましたが、どんなに許したいと祈っても、心の中に「許した」という平安の感覚は訪れず、そんな自分の心の「罪定め」というもっと大きい罪に苦しみました。ひとが生きていく中には、いろいろな罪がありますが、「人の罪を許せないという罪」がこんなにつらいものだとは、知りませんでした。数日後、もうどう祈っていいのか解らず、「主よ、私にはどうしても許せません。」という気持ちになった時、突然、心の中に主の十字架が浮かんだのです。その十字架の上で主は傷ついて血を流されていました。そして、私はその時、夫の罪はもう主によって許されている、というクリスチャンとして当たり前の、ごく基本の事実に気づいたのです。主は、私の罪も、夫の罪も、世界中の罪をも背負って、命を捨てられました。私が夫の罪を責める理由など存在しないし、私が「がんばって」それを許すこともできないのです。もうそれらの罪は主によって許され、私達はあがなわれているのですから。そう思ったとき、突然、目に涙が溢れ、心が温かく、軽く、自由になり、それまで心に負ったと思っていた一切の傷が癒され、消えたと思いました。その時はじめて、夫を心から「許せた」、そして、私も許されたと思いました。そして、これが主の許しの平安なんだという思いで満たされました。

以上のことや、その他のさまざまなお導きによって、私達夫婦は益々この教会を私達家族のホームチャーチとすることを神様は望んでおられるのではないか思うようになりました。そして会員にしていただくことをお願いするに至りましたが、その陰には、たくさんの兄弟姉妹が私達家族のことをお祈りして下さっていたとお聞きしました。感謝して、主の御名を賛美いたします。

しかし今では 御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえにたたせてくださったのである。 コロサイ人への手紙 1章22節
注) 「教会では私たちはイエス・キリストにあって家族なのだという思いでお互いのことを『兄弟姉妹』と呼ぶことがあります。」

月報2006年2月号より

「Good News(福音)を知った喜び」

私には4つの名前があります。一つ目は教会でも呼ばれている名前のファンオクスン(樊玉順)。これは結婚してから使っている名前なのですが、この「樊」という苗字は主人のもので中国の名前です。下の「玉順」は韓国の名前です。二つ目の名前は、権友子(ごんともこ)という名前で、小学生の時まで使っていました。三つ目は、権玉順(クオンオクスン)という名前です。中学から結婚するまでこの名前を名乗っていました。四つ目の名前は、 木下友子(きのしたともこ)という「通名」で、 場合によってはこの名前を使ったりもしていました。なぜこんなに色々な名前を持っているのかというと、私が在日コリアンだからです。私の両親は韓国で生まれ、4,5歳の頃にそれぞれの両親と日本に渡ってきました。 その両親のもと、日本で生まれ育った私は幼い頃からこのようにいろんな名前を持ち、状況によって名前を使い分ける、というのは否応なく自分のアイデンティティーを探し求めることになり、自分はどこから来てどこに行くのか、ということを考え続けることでもありました。

1992年、結婚を機にアメリカに住むことになり、メリーランド州のBaltimoreで生活がスタートしました。誰一人知り合いもない異国の地で、まったく育った環境そして国が違う二人が一緒に生活を始めるのは困難の連続でした。それでも時間が経つにつれ、いろんな人と出会い、親切にしていただいたのですが、どういうわけか私たちが本当にいい人たちだなあと思う人は決まってみなさんクリスチャンで、私たちが理想とするような家庭を築いていられるのを見て、いつも主人と二人でクリスチャンってどういう人たちなんだろう、と話すようになっていました。

1999年にニュージャージーに移り住み、近所で仲良くなったアメリカ人家族が通うマンハッタンの教会に連れて行ってもらったり、モールで教会の勧誘をしていた人がとても感じがよく、話がよさそうだから、という主人の意見で、確かTrentonだったと思うのですが、 何百人もの様々な人種の人たちが集まる体育館のような大きな教会に行ったこともありました。でもなかなか自分たちに合った教会を見つけるのも大変なことなんだと思っているうちに、主人の友人で同じ研究者である石井さんという方が一年の予定で日本から来られました。石井さんはクリスチャンで、以前から日本語の聖書を下さったり、クリスマスには娘に聖書のお話の本をプレゼントして下さったりしていたのですが、ニューヨークに来られてからは、私たちの為にMaywoodの日本語教会を探し出してくださり、一緒に連れて行ってくださって、それから家族でも通うようになりました。

いつも教会で聞く聖書のみ言葉に共感し、聖書を読む会や家庭集会にも行くようになり、 その時その瞬間はいつも共感するのですが、家に帰ればいつもの生活に戻り、なかなか点と点が結ばれることがありませんでした。しかしそれからしばらく時が経った後のある日の礼拝で、「天国には国籍はありません」という聖書のみ言葉を聞いた瞬間、魂がゆすぶられる思いがして、このみ言葉がストレートに私の心の中に入ってきたのです。物心ついた頃からさまよい続けていた自分のアイデンティティーの答えとその終着点が天国にあったんだという驚きと喜びは、なんて表現すればいいのかわからないくらい心ふるえるものでした。そして結婚生活をスタートした時から二人の間にあった様々な問題も 「すべて神様におゆだねします。」という私の初めての祈りを神様が聞いてくださり、多くの祝福を与えてくださったという信じられないような経験を通して、イエス・キリストを自分の心の中におむかえして、いつも神様が私の中心にいてくださり、神様に導かれて人生を歩んでいきたいという思いから受洗の恵みにあずかることになりました。昨年のクリスマスに洗礼を受け、ちょうど一年が経とうとしています。私のクリスチャンとしての歩みは人間の成長と同じように、ようやくフラフラしながらもヨチヨチと歩けるようになったばかりですが、日々神様への感謝の言葉が口から出るような私に作り変えてくださった神様に心から感謝しています。

月報2006年1月号より

「二度目のアメリカ」

僕は神様、イエス様に出会ってから沢山感じたことがあり、変わった事があります。
1つ目は、毎日祈るようになったことです。 洗礼を受ける前も毎日祈っていましたが、今は前よりも祈るようになりました。 今は1日に最低5回はお祈りしています。 ご飯の前3回と朝起きた時と、夜の寝る前です。 僕は夜の祈りが一番長くかかります。それは、1日の感謝とその日あった出来事、毎日家族ともお祈りしている事と、あと自分が言いたいことをお祈りしています。 2つ目は、いつも神様やイエス様が一緒にいて下さると言う事を知りました。 そして、いつも一緒にいて下さっている事で僕に安心感を与えてくださり、僕は1人でも大丈夫という気持ちになりました。

僕が、アメリカに来てすごく心に残っている集まりがあります。11月24日にNJの教会で中高生のLock Inをやりました。NJの教会の人と、NYから2人、そしてコネチカットからの4人が参加しました。 夜の9時にみんな集合して教会に泊まりました。最初はゲームなどをやって楽しくやっていました。 そして途中で証しをする時間がありました。 証しの時間で僕は、他の人の証しを聞いて沢山学んだことがあり、考えさせられた事、そして心に残る証しを5人の人から聞かせてもらいました。 まずその場で学んだことの一つは、証しをするのは「勇気」が必要だと言う事です。 自分の事を相手に伝えるのはすごい難しいことであり、凄い勇気が必要です。 それは、相手に自分の事を言ったら変な風に思われたりするかもしれないという思いが出てきます。 僕も他人に発言するときはついつい気にしてしまいます。 「これを言ったら嫌われるかも。」 「これを言ったら何かされるかも。」 などと気にします。 そして、言うには自分の前にある「壁」を越えなくてはなりません。 僕は今までこういった壁には何度も直面してきました。 だからその壁を越えるのは凄く難しい事だと言うのが分かりました。

次に学んだことは、教会は自分のかぶっている仮面を取れる所であるという事です。 僕は学校などではめったに泣きません。 ですが教会では泣けるような気がします。 教会に来る前に辛いことの考え事などをしていて礼拝の賛美の時になって賛美すると自然に目から涙が出てきます。 こういった事から教会では自分の仮面を外せる場所ではないかと思いました。 そして僕が一番大切だと思ったことは、相手を「信頼」する事です。 今僕の行っている学校では100%信頼できる友達はおそらくいません。 でも僕はこのような集まりにいる人達なら僕はその人達を信頼できます。 何故ならば、その人達はクリスチャンの人がほとんどで、そうでない人も教会にも通っていて神様やイエス様の事を知っているから僕はその人達を信頼して話をできます。 でも今回僕はその集まりで証しを出来ませんでした。信頼はしていましたが勇気が足らなかったのかもしれません。 次このような集まりがあったら是非自分から進んで証しをしたいと思います。 これから僕は、この集まりで学んだこと、思ったこと、心に残ったこと、そして今まで学んだことをもう一度しっかり考え直して、お祈りして神様と共に生きて行きたいと考えています。

月報2005年12月号より

「One Voice – 4年目の9月11日に思う事」

“Father we ask of You this day, come and heal our land.”
これは、 私たちの教会で4年前から、 しばしば歌っている曲の原詞の出だしの一節です。
あれは確か2001年の7月頃だったと思います。 教会のある方から 「日本で良い歌集を見つけたから、 うちの教会でも使いましょうよ」 ということで、アメリカやオーストラリアなどの教会で歌われている歌を集めた楽譜集をいただきました。 そして、 その中で最初に目が止まった曲が “One voice” という先程の一節で始まる曲でした。 しかし、 同時に私は原詞の中に歌われている肝心な部分が訳詞の中に反映されていないことに気がつきました。 それは実のところ、 教会で歌われている他の歌の中でも頻繁に起きていることなのでした。 原曲のメロディを優先させるあまりに歌詞の方を妥協せざるを得ないわけです。

ここで、 少し話をはずして理屈っぽいことを説明させていただくと、 私たちの多くの者にとっての母国語である日本語と英語の大きな違いの一つは音節にした時に顕著に現れます。 たとえば “I love you” は3音節ですが、 これを正確に日本語にしてみると “わたしはあなたをあいしています” となり、15音節にもなってしまいます。 これほど違うと同じメロディーには乗りません。 これはたった一つの例ですが、 他にも挙げてみてくださったら、 一つの曲の中で沢山語るのに日本語は圧倒的に不利であるということをご理解いただけると思います。 英語で1小節要らない内容に対して、 日本語では場合によっては4小節のメロディがあって初めて云いたいことが歌える、 ということがよくあるのです。 つまり “One voice” の歌詞の中で歌われている内容を原曲のメロディで、 そのまま日本語でも全部歌い切ろうとするならば、 同じ曲を3、4回歌わないとならない単純計算が成立してしまうことになります。

英語の“I”や“you”にのように、 よく使われる言葉で、同じように日本語で一音節で済む言葉がどれだけあるでしょうか? “歯”とか“毛”なんてあまり歌には出て来ませんね。 教会の歌なら“目”とか“手”などなら使えるでしょうけど、 体の部位を並べても歌にはなりません。 要するに言葉としてどちらが良いとか悪いではなく音楽的に不利な言葉だということが云えるでしょう。 歌われる内容によっては、 8小節まで聴いて初めて内容が呑み込めるということもあります。 それが音楽の中での日本語なのです。 ちなみに日本語で少ない音節で済む音楽的な言葉は、実は文語体に多いようで、 そのため教会で歌われる讃美歌や聖歌は、 訳される際に文語が多く使われたのかも知れません。 しかし現代においては、 文語を理解しにくい世代が多くなってきましたよね。 私もその世代に属しています。

そんなわけで、 その歌集で訳詞をされた方も苦しんだあげくの訳をつけたというのが真相でしょう。 そして、 残念なことに冒頭に紹介した一節は決して取り除いてはいけない言葉であったのに、 その訳には表現されなかったのです。 気持ちはわかるけど本当に残念だなぁと思いました。 そこで自信はなかったのですが、 「この歌詞を訳し直してみます」 と提案して、結果的に最初の一節をこのように訳してメロディに当てはめることにしたのです。
“この国をあわれみ、癒してください”
実際に教会で歌うようになったのが、 その9月9日の礼拝でした。 その2日後にあの日がやってくるとは誰も知りませんでした。

私たちは時に、 いつも語っていることや思っていること、信じていることと正面から向き合わないといけない場面に遭遇します。 それをわきまえたうえで、 私たちがクリスチャンとして語る言葉、 歌う歌、 そのすべてに正直でありたいと願っています。 “One voice” この歌を演奏する度に、 私はあの日を思い出し、 私たちに最善を用意していると約束しておられる神様を見上げるのです。

そういえば英語の歌の中で、 神様を表す “You”や“He, Him”などは、 文頭になくても必ず大文字で書かれますね。 気がつかれた方もおられるでしょう。 他の誰でもない、 唯一の神様を表しています。 私たちも賛美を歌う時に、 この歌の対象は誰なのかを意識しながら歌詞を味わうのも悪くないですね。礼拝や各集会で、 さらに音楽の時間を楽しみましょう。 “彼”は、 もっと楽しんで聴いておられます。

月報2005年10月号より

『本音の祈り 「時を忘れて」』

次の歌も私の代表曲となった歌です。 『時を忘れて』と言う歌です。 イエス様を信じたのは1978年。病気を通して、またキリスト教のラジオ番組を聴いて聖書を頂き、 その番組を通して教会を紹介していただきました。 山口県生まれの岡山育ちですが、 その当時は岡山に住んでおりましたので、 岡山聖約キリスト教会を紹介していただきました。 そしてその年のクリスマスに洗礼を受けました。 当時、 私が持っていた悩みは、病気で将来に対する不安があったということ、 両親が中学3年生の時に離婚しまして、 親に対して憎しみを持っていました。さらにその憎しみや病気のことを取り除いたとしても、 私にはもう一つ大きな問題がありました。 それは罪責感ということでした。 罪の意識、 どうしてあんな事をしてしまったんだろう、という思いにかられておりました。 心の奥の奥から変えられなければ、私は幸せにはなれないと思っていました。 そのような心で聖書を読み始めて、 最初に心の中に入ってきたみことばは、『だれでもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』(コリント人への手紙第二5:17)でした。 この聖書のことばをいただいて、「確かに変わることができるかも知れない」という一筋の希望を持ちました。 「もっと聖書を読んでみよう、イエス様ってどんな神様なのかしら、 知りたい!」 という思いを強く持ちました。 そしてイエス様を知る中で、 私が心に持っていた罪の問題「どうしてあんなことをしてしまったんだろう」という思いから解放してくださるのはイエス様だということを知りました。 「罪から解放されたい、罪責感から解放されたい」ということが私にとって一番の問題だったのです。 イエス様が十字架にかかって、 私のそうした罪のすべてを赦してくださることをわからせてくださったことをとても感謝しています。教会に導かれ、 もっと深く罪のことを知りました。 まことの神様から離れていることが、 人間にとっての一番大きな罪であること、 そして個々に犯している罪、 罪には刑罰が伴うこと、イエス様が身代わりに私の罪と刑罰を負ってくださったこと、 救われたことの大きさや、 神様の愛の深さは、 今も私の人生を変え続けています。

【上京し、テレビ伝道に携わる】

その後、 1981年に「イエス様と一緒に働きたいな」 という思いが与えられて、 聖契神学校で学ぶために、 上京しました。きっかけは岡山で行なわれた聖会でのメッセージでした。 古山洋祐先生が講師でした。 ハガイ書を開いてくださったのですが、『あなたがたの現状をよく考えよ』 聖書ハガイ書1:7)、 このみ言葉が心に残りました。 自分の現状を考えて、 病気であるけれども、 身体が弱いという以外、 学ぶことには支障が無いのではないかということで上京して来ました。 そして3年間学ばせていただいて、 その後、 PTLクラブというテレビ伝道に導かれて中川先生とご一緒に働くことになりました。 でもそのテレビ伝道もいろんな問題を抱え、 現在PTLクラブはありません。 また私はその頃、 体調がとっても悪くなったことと、人間関係にも行き詰まって、 テレビ伝道団体を辞めました。 しかし辞めたくなかったと言うのが本音です。 でも、 今では神様のご計画だったことを確信しています。

でも辞めた後はとても辛い思いをしました。またクローン病の症状が本当にひどくて大変でした。今年のように’88年も寒い夏だったんですね。 思い出すと、色々な方がアドバイスをしてくださいました。 「甘いものを食べたら駄目、白米駄目」、「それでは、玄米食はいいかしら」 と玄米食にしたのですが、 圧力鍋も無いので普通に電気釜で炊いて、 硬いんですよね。 それでもあごの運動になるからと一所懸命噛むんですけどあごが痛くなって、 今でこそ笑い話ですが涙が出てきて、 食事をする時に悲しい思いをするのは嫌ですよね。 食事をする時は楽しい方がいい。 そしてたくさん食べることが出来ることがいいですね。 私は情けなくて神様に祈りました。 「私、食いしん坊ですから、食べて治します。よろしくお願いします」 と祈りました。 その時以来何でも食べることが出来ますが、 さすがにお腹の具合が悪い時は、 自分の内から控えなさいという信号が出るみたいです。 今日もしっかり「控えなさい」という信号が出て、 食べることが出来ませんが、 良くなりましたら取り返しますので、 その時はお食事に呼んでください。 このように、辞めた後はしばらく心の状態が良くなくて、 それでまた落ち込む。 でも信仰があるから落ち込むんですよ。 信仰がなかったら、 憂さ晴らしにお酒の一杯でも飲んで皆とパーッと騒いでね、帰ってきてワーッと泣いてね、 たぶんその繰り返しだと思うんです。 でも、 信仰があるから踏みとどまらないといけないという思いがあります。 人に対する批判的な思いも、 許さなければいけないと思いますよね。 しかし、 感情の闘いがありますね。 これが苦しいですね。 こんな本音の話しをしながらいつも歌っていますが、 私は、 本音の中に神様が働いていてくださる、 ということを固く信じています。 ですが、

皆さんは本音の部分を誰にも話さなくてもいいです。 ただ「本当の気持ちは、 こうなんです。 この私の本音のところにイエス様、来てください」 とお祈りして欲しいと思いますが・・・。 『時を忘れて』は、 10月号の『百万人の福音』のフォト&ポエムに掲載していただきました。 ’86年か’87年に書いた歌です。 長く歌っています。 私としては、 この『時を忘れて』の状態からはもう卒業していると思っています。 それでも歌うと、 まだまだ皆さんの心に届くということは、 それだけ多くの方が厳しい中を歩まれていることを思います。 その大変な中にイエス様が働いてくださいますように・・・。 卒業している、 といっても真理は変わることがありません。 目を閉じなければ見えないこと、 口を閉じなければ言えないこと、耳をふさがなければ聞こえないこと、 がありますね。 歩みを止めなければ会えない人が、 会えないお方がいらっしゃいますね。 このことを知ったことは私にとって貴重な体験でした。

_『時を忘れて』_

目を閉じなければ、見えない世界がある。
口を閉じなければ、言えない言葉がある。
耳をふさがなければ、聞こえない声がある。
歩みを止めなければ、会えない人がいる。
少しぐらい遅れたとしても
大切なものを見つけたいから
道であり、真理であり、いのちである主に
尋ね求める 時を忘れて

(山口博子姉のコンサートでのお話の中から、 ご本人の了解を得、 一部を掲載しています。 山口姉のコンサート・略歴は報告・お知らせをご覧下さい。)
月報2005年10月号より

「4月にワシントンDCからボストンに引っ越す時には…」

4月にワシントンDCからボストンに引っ越す時には、3ヶ月そこらでボストンを離れ、NYに戻ってこのようにおあかしを書くということは全く予想していませんでした。神様は本当に人間の考えも及ばないことをなさる方だと改めて思います。

3年間働いた会社を辞め、意気揚々とボストンに引越し、新しい生活と仕事を始めて間もないうちに様々な問題が出てきてしまいました。弁護士にも相談する事態になり、その結果新しい仕事を見つけて早急に転職するしかないとのことで、ボストンに引っ越して早々、再び仕事探しを始めることになりました。いつ仕事が見つかるのかわからず、本当につらい毎日でしたが、思い返すとGod is faithful and never abandon you.という言葉は真実だと思います。

―サブレットさせてくれている人がクリスチャンで、私の状況を考慮し、柔軟にサブレットの期間などに対応してくれました。8月中、面接の結果を待っている間Homeless状態になる私の荷物を快く地下に置かせてくれたりなど、もしもこんなに柔軟に対応してもらえなかったら、リースやらストーレッジやらでもっと大変なことになっていたと思います。

―ボストンではすぐに日本人教会に溶け込むことができ、またそこは同じ年代のクリスチャンが多かったので、十分すぎるくらいのサポートが与えられました。解雇された経験を持つ人も少なくはなく、クリスチャンとして、経験者として良いアドバイスと励ましがもらえました。

―ボストンの教会で一番最初に知り合った女性が、実は数年前に私の前の会社のボストンオフィスで働いており、実は以前にMeetingで会ったことがある人でした。彼女も同じような経験をしているので、本当に親身に励ましてもらいました。
それとは別にDCの方の紹介でお会いした女性も、だいぶ前に同じ会社のボストンオフィスで働いており、励ましをもらいました。

―本当に落ち込んで、泣きながら地下鉄に乗っているとき、たまたまその日にホームでギターを弾いている人がクリスチャンソングを弾いており励まされました。

―1週間のうちに、4回も違う形で違う人から聖書の同じ部分が示されました。へブル人への手紙11章。つらくなるたびにこの御言葉を読みました。

―同僚は本当に良い人たちで、いつも励まされました。

挙げればもっとあると思いますが、ボストンでの夏は、お金もなく、最後の方には無職に近い状態になってしまったので、今までで一番教会に通い、すべての教会行事に出席し、暇があれば聖書を読んで祈る生活でした。そうする中で神様に頼ること、本当に神様にゆだねることを学んだと思います。

就職活動をする中で、6月にNYでずっと夢に見ていた教育機関から面接の機会をいただいたのですが、面接が良い印象で終わり、本当にそこで働きたいと思うことがありました。神様に毎日強く祈ったのですが、そこで働けなければ生きていけないという感じの強い祈りでした。神様、今なら私はNYに行ってもあなたのために働けます。NYに戻ったら、これもこれもこれもやって、あなたに近づけるようにします。だからこの仕事を私に下さい、と毎日祈りました。1ヶ月ほど面接の返事はなく、落ち着かない毎日が続きました。しかし、結果のわかる1週間前、ふと、この仕事は私のものではないということを感じました。そのとき、あんなに欲しくて欲しくて、泣きながら祈っていたのがうそのように静まり、「神様はこの仕事は望んでいない」と不思議に平安を感じることができました。結果はやはりだめだったのですが、まわりの人が驚くほど私が落ち着いていたので、神様が私の心を準備なさっていたのだと思います。同時に、自分が勝手に「神様これをくれたら私はこういうことができるんですよ。そうすれば神様はうれしいでしょう?」と勝手に神様に家を作ってあげようと決めたダビデのような状況になっていたことに気づきました。すべては神様が決めるのであって私が何をするかを決めるのではないのです。

その後もNY,Boston,DCを中心に面接をしていましたが、ボストンに残るのかなあと感じるようになりました。
ひとつボストンでうまく行きそうなところがあったので、私は勝手に自分で「何日までに決まれば引越しなんかもちょうどいいかな」とプランを立てていました。しかし、そこの選考プロセスも私が思ったようには進まず、結果がわからないまま、ボストンでの仕事を辞め、アパートを出ることになりました。面接の結果待ち中にホームレスになり、仕事もなく、どこに行けばいいのかもはっきりしない状況だったので「神様いつまでこんなはっきりしない状態が続くのですか?」と思っていましたが、ボストンを去る数日前、NYのある教育機関から電話があり、面接に来ないかと聞かれました。Applyしたのがだいぶ前だったため、どのポジションに応募したのか、どんな会社なのかも思い出せなかったのですが、ホームレスなので、NY経由でDCの西郷先生の家に行こうと考えていたため、ちょうどいいタイミングということでNYで面接を受けました。私の期待に反してそこはとても印象の良い会社で、面接を受けて数日後にオファーをいただきました。そこから手続き関係で時間がかかり、ようやく9月13日から仕事が始まるのですが、そのおかげで西郷先生の家に1ヶ月も滞在することができ、子供夏期学校をはじめいろいろな奉仕をすることができたことを本当に感謝しています。西郷先生の家での時間は朝から晩まで神様を第一とする生活で、ものすごく忙しい毎日でしたが、西郷先生たちの神様に対する熱意が本当に伝わる生活に加わることができとてもうれしいです。

この数ヶ月間、短い期間にいろいろなことが起こり、たくさんの人に出会い、いろんなことを感じたので文章できちんとまとめることができるかわかりませんが、今回神様は本当に神様の計画を持っていて、私が自分で考えた計画というのはなんのあてにもならないことを学びました。また、ボストンで同じ年代のクリスチャンたちとの交わりを持てたことも本当にすばらしい体験でした。そして、私は今まで大学も仕事も人間的に見たらいわゆる「良い大学、安定した職業」についており、それは自分の努力や能力で達成したという気持ちがどこかにありました。しかし今回、教育分野で働くことに迷い、ボストンでの建築オフィスでの仕事に移り、その中で困難に会うことで、自分がやっぱり国際教育の分野で働きたいということを再確認できたことを感謝します。今回NYで得た仕事は私の努力でも何でもなく、本当に神様が私に与えてくれた仕事だと思うので、大事に毎日神様のために働きたいと思います。今後また様々な試練があると思いますが、どんなときも神様はFaithfulで決して私たちを見捨てたりしないということを実際に体験したのでいつも神様の計画を信じていきたいと思います。

月報2005年10月号より

「EXODUS で受けた恵み」

この夏、私は今年からMessiah College の一年生になる生徒たちのために行われたbackpacking trip に参加しました。そのプログラムは ”EXODUS” 神様が守ってくださると約束された土地に行くために荒野の中を旅をする、と言う聖書の「出エジプト記」と同じテーマのものでした。10日間完全に文明から離れ、シャワーもトイレもない中、毎日 森のど真ん中でcampsite を作り、重い荷物を背負いながらハイクをし、神様が私たちに与えてくれた素晴らしい自然の中で leadership trainingを受けながらお互いのfellowshipを深めることが目的でした。でも本当は行く直前まで、こんなの本当にできるかな? と悩み、キャンセルするつもりでした。でもディレクターの人と話し、『絶対良い経験になるから来なよ!』と励まされ、結局行くことに決めました。でもその時はどのようにして神様がこの旅を私にやり遂げさせてくださるか全く分かりませんでした。

初日は一日中準備をして、ペンシルバニア州にある大学から3時間ほど離れた森の中に行き、美しい星の下で寝ることが出来ました。二日目からハイキングが始まり、5-6マイルのコースを歩いた後、毎晩違う場所に寝ました。思っていたキャンピングとは全く違い、何もない森の中に入り、生徒たちで寝れそうな場所を選ばなければなりませんでした。ビニールのシーツとロープ四本でテントらしき物の作り方を学んだりしました。また食料は、熊が来ないよう高い木に吊るさなければなりませんでした。そして、毎晩バイブルスタディの時間がありました。その中で、私達人間は、神様が創造されたこの大自然の“管理人”としての役目を神様からまかされていることを学びました。はじめ、森での生活は、食べ物も残り物を出してはいけないので全部食べてしまわなくてはいけないとか、使ったトイレットペーパーも持ち帰らなくてはいけないとか、なんて厳しいんだろうと思いましたが、神様が作られた自然を守り育てるためには、やらなければならないことだとわかりました。

そして、毎日変わりばんこで生徒二人がペアーになり、 “leaders of the day” (L.O.D.) となりました。その二人だけに時計と地図が与えられ、「今夜はこの辺に泊まりたいからどうにかして午後4時までにみんなを無事にここまで連れて行くんだよ。」と大人のリーダーに言われるだけでした。ハイクの途中間違えて LOD が違う方向に行ったとしても、大人たちは何も言いません。責任は全部その日のLODのもの。どこで休むか、どこで水を川から汲んだら良いかも全部LOD が決めます。私が初めて LOD だった時は、地図に書いてある様々な川が乾いてしまっていたため、水を汲もうと思っていた場所が使えず、計画していたことが台無しになってしまいました。でも神様は力と知恵を与えてくださったため, 無事皆をリードすることが出来ました。

ハイキングの他に、一日  “solo experience” と言う物も体験しました。それは、断食しながら24時間森の中で全く一人で過ごす時でした。皆それぞれ離れた場所で、寝袋、聖書、雨具、そしてテント代わりのビニールだけを持ち、祈ったりデボーションをしました。その間、たぶん聖書を半分ぐらいを読むことが出来たと思います。でも、長い間何も食べていなかったのでめまいがして、気分が悪くなってしまい、日が暮れる前に笛を吹いてリーダーに助けを求めました。でもそんなついらい思いをしても本当に恵まれた時が持てました。毎日の生活の中でどれだけの物が与えられているか、どんなに神様は私たちのことを愛してくださってこの地球を創造してくれたかが改めて分かりました。そして、鳥と虫の声以外完全に静かな場所にいたため、聖霊様が風となり、私の心に優しく「愛しているよ」と語ってくれるのを感じることが出来ました。人生の中で一番平和で落ち着いた時が持てました。

でも、一番神様の奇跡を体験したのは、2回目にLOD になった日でした。その日は突然 「今日は生徒だけの日です。僕らリーダー達は明日の夜までいなくなります。」と言われてしまい、頭の中では 何-?? と少しパニックしましたが、パートナーのクレッグが、「大丈夫だよ。地図とコンパスもあるし、僕ら二人なら出来るよ」と励ましの言葉をくれました。最初の内は皆のんきで、平らな道を歩きながら、「何だ、この位だっだらリーダーたちなんて要らないね!」、と言っていたのすが、道が狭くなり崖のような所を歩いている間に、何と3箇所も蜂の巣に出会ってしまいました。初めの2回は、皆1~2箇所刺されたのですが、3回目は、運悪く、蜂は私の所だけに来て、何十匹の蜂が映画のように私を襲ってきました。走ろうとしたけれど、シャツの中に入るは、長ズボンの中にも来るし、何十箇所も刺されてしまいました。しかし、今いる崖の所からリーダー達に助けを求めてもどうにも出来ないので、とにかく日が暮れるまでに普通の道路の所まで行かなければならない、と思い、頑張ってクレッグと一緒に先頭を歩きました。その間、皆は心配して、私の荷物を分け合って持ってくれました。暗くなった後リーダー達に電話し、夜中に来てもらいましたが、私はその時、本当に具合が悪くなってしまい、もうこれでこのままここで死んでしまうのかと思ったほどでした。それに気がついてくれたケイトは、夜中中2時間おきに私がまだ呼吸をして生きているかどうか起してくれました。そして翌朝まだ疲れて気分が悪かった私を皆寝せてくれて、クレッグとケイトはチェックしに来たり、ご飯を持ってきてくれました。

本当にその日は神様に守られたと思います。沢山の蜂に襲われ、森の中で何も治療をしなくても助かったのは、神様が守ってくれたとしか考えられません。そしてまた、神様は素晴らしい仲間達を与えてくれたと思っています。参加した生徒は6人だけでしたけれど、初めて出会ったこの仲間に一人一人違う面で助けてもらい、励まされました。皆神様に特別選ばれた子達のようでした。その日だけではありません。この旅の間、ずっと神様に守られて愛されました。何よりも、体が小さな私が25kg 以上のbackpackを背負いながらずっとハイキングを出来たことは、自分の力ではなく、神様が私を通して働いてくださっていたからです。この旅の間中、私を支えた聖書のみことばは、
「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲の様に翼をかって登ることが出来る。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」― イザヤ書 40:31-でした。
そして、教会の人たちや家族が毎日この旅のために一生懸命祈っていてくださっていたのも大きな力になったと思います。本当に祈りの素晴らしい力とそれを聞いてくださった神様は、今も生きて私を支えてくれているんだと感じました。
最後に私が好きなクリスチャンシンガーの歌(旅の間、心の中で歌っていました)を紹介します。

“When I call on Jesus, all things are possible. I can mount on wings like eagles and soar. When I call on Jesus, mountains are gonna fall. “Cause He’ll move heaven and earth to come rescue me when I call.” -Nicole C. Mullen

本当に神様、そして皆様の祈りに感謝します。

(礼拝で英語通訳のご奉仕を努められ、 今回お証を書いて下さった市ノ渡真奈姉はメサイア・カレッジ入学のため、 ペンシルバニア州グランダムに引っ越されました。 姉の新しい歩みのためにお祈り下さい。)

月報2005年9月号より

「クリスチャンホームに生まれた者の遠回り」

私はクリスチャンホームに生まれました。
私が生まれた時, 父はもう牧師を辞めてジャーナリストになっていましたが、大学は神学部を卒業、戦前は牧師だったと聞いています。母は父が神学生時代に教師をしていた教会学校の生徒だったと言う関係でした。

そういう事で教会と言う所は物心がついた時にはすでに生活の一部でしたので、 教会を遊び場として、礼拝堂の裏を走り回ったりして我がもの顔で遊んでいましたし、又、教会学校では話を最後まで聞かず、聖書の大切な箇所を先生が語られる前に結末を先に言って邪魔をしたりしていました。

しかし、反抗期に入るに従い、教会に集まる信徒の方々の言動・行動が偽善者のように感じたり、父の後輩にあたる牧師先生の裏表を見て幻滅を感じる様になって行きました。いつからか自分の教会には行かず別の教会に行ったりしていた時もありはしましたが次第に足は遠のいて教会にはクリスマスとイースター位しか行かない状態になっていました。

ただ、神様の存在は漠然とは信じていました。そしてイエス様は十字架に掛かって我々の罪の身代わりとして死んでくださった事は「知識」としては知ってはいましたが、自分とは関係がない話の様で、 聖書の内容もおとぎ話の様にただ記憶として入っているだけで、それが全部関連付けられて一つになることはありませんでした。

大学を卒業してからある小さな商社に就職しました。大変な就職難で大きな会社には入れませんでしたし、 大学の時にグリークラブ(男声合唱)の演奏旅行で行ったアメリカに住みたくて、その会社なら早く、駐在の可能性があるかも知れないと言う理由で決めた様なものでした。

会社に入って2年めで早くもチャンスは来ました。上司から、海外出張に行ってみないかとのチャレンジを与えられたのです。

同じ会社に居た、高校からの親友と二人でどちらが初海外出張の最年少記録を塗り替えるかと競争しようと話し合っていた矢先だったので、もちろん、その申し出を受けて準備を始めました。

出張先は、パキスタンでした。私は単純に、「選ばれた」という様な変な「錯覚」にとらわれて、有頂天になって一生懸命準備に取りかかりました。そして、出発の数日前に当時、営業責任者であった常務に上司とも一緒に呼ばれ出張の打ち合わせをしたのですが、その常務が打ち合わせの中で「何もまだわからない、経験も無いこんな者を出張に行かせるなんて何を考えているのだ。」 と上司に向かって突如、怒り出しました。それから私をそっちのけで上司と延々と議論を始め、喧嘩寸前の言い合いにまで発展し、自分が行くのは大変なことで 「失敗したら会社には居れない!」とまで追い込まれ、一転、プレッシャーのかかった気の重い結末となってしまいました。

単純な男ですので、それまでの「選ばれた」なんて思っていた「変な自信」はあっけなく砕かれてしまいました。 上司は新人を育ててやろうと思ってチャンスを下さったと思います。しかし、それまで新入社員を厳しい指導で辞めさせていたと言う「新人殺し」としてのうわさが思い出させられて、その上司が私を早く辞めさせる為の罠だったのではないかと疑いだしたりしました。今さら止めるとも言い出せず、会議の終わりには出張がうまく行かなければ責任を取って会社を辞めなければならないと悲壮な思いになっていました。

いよいよその日が来て、 まだ海外出張の珍しい時代(1977年)でしたので会社の社員と家族に見送られて出発しました。大阪伊丹空港、フィリピンのマニラ、バンコク、カルカッタを経て真夜中にやっと現地に着いてみると、航空会社でチェックインしたトランクはパキスタンには届いておらず、パリに行ってしまっていました。着いてから、英語も大してわからないのに、夜が明ける頃まであちこちたらいまわしにされて、やっとクレームのフォームを記入して、着のみ着のままで、仕事の書類のぎっしり詰まった書類鞄だけでその出張が始まりました。

食事は、どこへ行っても不潔きわまりない薄汚れた食器で出てきて、すさまじい匂いと、何を頼んでも質の悪そうな油の中に浮いていて、なんとか食べようと思っても喉がきゅっと締まって拒絶状態に陥り、全くのどを通らず、一昼夜何も食べられない状態でした。猛烈な暑さと湿気と匂いの中でお客を廻り、食事も食べれない状態で、いったいこれからの20日間、たった一人でどうなるのかと不安になったのを覚えています。もっとも人間とは良く作られたものでそのような状態が一昼夜続くと、その翌日から少しずつ食べる事が出来る様になりました。

しかし、今度は為替が大きく円高に変わり、本社からはいままで受けていた注文の残り(注残)を全部値上げせよとの命令が来て、全ての注文の残りの値上げが出来るまでは帰ってくるなとのテレックスが入ってきました。

受注どころの話ではありません。毎日、延々と時間をかけて値上げ交渉、そして、新規注文交渉と顧客を廻るのですが、 交渉は難航して疲れきってホテルに戻るという毎日で、ただ、むなしく日だけが過ぎて行きました。

とうとう、2週間程経ったある日、心身共に疲れきって、登校拒否の子供の様な状態になって、仕事に行く気がせず、ベットでやけになって大の字になって寝そべって、 「もう駄目だ、もう駄目だ」、「会社も辞めさせられる・・・、」 「自殺した方が・・・」 とつぶやいていました。 暗い穴の様な所に落ちて行く自分を見て居る様でした。 長い間、 同じ事をぶつぶつ言っていたと思うのですが、言い疲れて、放心状態になって居た様ですが、しばらくして、 ふと別の思いが出て来ました。

自分の出張の是非を巡る上司同士の言い争い、荷物が紛失し、食事が食べられず、為替の急騰、等々あまりにも偶然に悪い事がこんなに一度に重なるのは誰かが特別の思いをもって、意志を持って、自分にぶつけて来ているのではと、急に思わされ、最終的に、これは自分を「だめ」にするのではなく、「試され」ているのでは? という思いに変えられていきました。

そして次に思いついた事は「 ひょっとしたら、神様がなさっているのかも知れない」でした。そう思い始めると、どんどんその思いが強くなり、暗かった心の中に突然、光がさして照らされるような、何とも言えない熱い喜びが沸いてきているのを感じました。それまでは悪態の限りをつぶやいていたのに今度は一転、何年もしていなかった祈りの気持ちが溢れてきました。「神様、自分はこんな方法で試されるほどに、あなたから愛されていたのですね。・・・ありがとうございます。」と言う様な祈りだったと思いますが、その感謝の「祈り」とも「つぶやき」ともわからない事を何度も繰り返し、していたのを覚えています。

最終的に、この出張がもし神様ご自身が仕掛けられたのだったら、たとえ失敗に終わっても何か別の道が絶対用意されているのだと強く思わされました。そうすると絶望的だった心がすっと軽くなるのを感じました。

それから不思議な事が起こり初めました。翌日からは苦労していた値上げの交渉が進むようになり、注文も少しずつではありますが取れる様になりました。最終的に、1週間の滞在延長を申請して、値上げが出来たばかりかその地域での新記録の売上になる注文を持って帰ることが出来ました。仕事の方法が変わった訳でも特別な能力が与えられた訳でも無く、明らかに何かの意思で物事が変わって行く今までに無い体験でした。

その時から、「神様は絶対に居られる事、そしてこんな取るに足らない者でも特別扱いして愛してくださり、 訓練をして下さる。」との確かな思いが与えられました。その後、あちらこちらと中近東を一人で出張して、 いろんな目にも会い、問題に突き当たる事も多々ありましたが、その都度、訓練の時と信じて進む時 いつも、 守られ、回答が与えられて来ました。

そんな経験をしてから数年後、 父が脳血栓で倒れ、 2年半闘病の後、 亡くなった事も、 全てが家族一人一人への意味のある、 訓練の時であり、 自分達を愛するゆえに神様ご自身が許されてそれが起こっていると心から思わされましたし、 その様になりました。
又、体が動かせず、 失語症になった父が、他の患者とは違ってその苦しさを表にはださず、周りの者ばかりを気遣う姿を見ることができ、クリスチャンとは凄いものだと思わされました。

その頃の私は、信仰は自分と神様の個人的な関係なので自分さえ信じて神様につながっていれば洗礼を受けなくても良いと思っていました。しかし、父の死をきっかけに、子供時代、偽善者だと思っていた教会員の方々のさりげない配慮のある行動を見て、自分には出来ない、他の人に対する愛を感じ感謝しました。そして、一人よがりの信仰では何も成長出来ない自分の弱さを知らされ、教会に繋がって神様に仕えて行くことが、これらの信仰の先輩方のように成長していく秘訣だと信じ、イースターに洗礼を受けました。28才とずいぶん遠回りをした洗礼式で、教会員の方々の涙を見て、自分の知らない所で多くの方の祈りが積み上げられて来た事を知り、 心から感謝をしました。

洗礼を受けてから、教会生活を始めて、自分がいかに強欲で汚い、罪深いものであるかがだんだん心からわかる様になり、その為にイエス様が十字架で死ななければならなかった事も実感として思わされ、それまでのばらばらでただの知識だった聖書の箇所がだんだんがひとつになり、イエス様の十字架の意味が実感として判るようにさせていただきました。

色々な方が色々な形でイエス様に出会い、クリスチャンになられますが、私は「本当に凄い方に愛されている」と言う暖かい、心の中に日が差して行くと言う実感で始まりました。 神様が個性の違う人それそれぞれの為にご用意下さっている特注の愛に感謝します。

歳を取るに従って、益々自分の汚さが自分自身に明らかにされて、何も変わっていない罪深い者である事を思い知らされる事が多いのですが、その時、そのような者をそのままご自身の命とひきかえに、許そうとされたイエス様の愛の大きさに感謝します。そして仕事においても、個人の事においても家族の事においても、全ての辛いことを通して何かを与えようとしてくださっている神様の愛を思うとき大きな喜びと信頼感を持つことを得させてくださっています。

ヘブル12章6節~10
「主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。
あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。(中略)肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。」

ヘブル10:章35~36「 だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。 神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。」

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『イエス様と歩む喜び』

イエス様は、僕の罪のために十字架にかかって死んでくださり、それ程までに、僕を愛してくださった。罪の全てを消し去って希望を与えて下さったその十字架の愛に答えたい。イエス様からいただいた希望を力にして仕えていきたいと思うようになっている。
この希望を実感する場になったのが、英語を学ぶために行っていた語学学校だ。僕が通った語学学校では、 様々な国の人がいて、皆英語を学ぶ目的で来ている。
その語学学校では、月曜日になると必ず聞くことがある。「週末は何をしましたか。」
実は、僕は日本人学校にいるときから、他人に「日曜日に教会に行った。」と言ったことがなかった。もしかすると言いたくなかったのかもしれない。だからその時もあいまいに答えた。しかし、ある何人かの韓国人が、 「教会に行った。」 と口々に言った。彼らの言葉が、僕に希望を与えた。人に、自分はクリスチャンであると言うことに抵抗があった僕にとって、心が開かれた瞬間であった。
またさらに別の日、ある韓国人はこう言った。
「アフリカに行って、ゴスペルがしたい。」このような言葉は、僕に勇気と希望を与えてくれた。彼は、本当にイエス様だけを信じて従っているから、そのようなことが言えるのだと思った。イエス様の光を信じて歩んでいる姿を見ていると僕も心から喜びがあふれてきた。彼を尊敬すると同時にイエス様の素晴らしさを知った。英語を学びに行った僕は、同時にイエス様のことを学んでいた。また、そこにはクリスチャンの先生もいらっしゃった。 その先生との個人的な会話で先生は言われた。「It is important for us to know the God in our life.」 同感だった。そのままそう感じた。そして、その時クリスチャンであるということの特権に感謝し、喜びが満ちあふれてきた。
ビリーグラハム大会で、僕は、日本語のプラカードを持つ係になった。横にも「カミール」と書いてあるプラカードを持っている中学生ぐらいの男の子がいた。その彼と話す機会があった。彼は、インドのクリスチャン。僕は、正直、驚いた。クリスチャンが決して多くないインド。クリスチャンが全世界にいて、全世界でイエス・キリストを賛美している。文化、国民性が全く異なる場所でもイエス様によってつながっている喜びを感じ嬉しくなった。
世界中で賛美されるほどイエス様は偉大な方。世界中どこを見てもクリスチャンはいる。これは他ではない唯一の神様であるという証拠だと言える。ビリーグラハム大会で痛感した。
もう一つ僕にとって喜びを感じることがある。それは友情である。教会の友達はやはり特別なものだと改めて思う。どんなときでも受け入れてくれる。どんなときでも頼れる。どんなときでも祈ってくれる。そのような友達が周りにいるということが喜びをくれる。イエス様を通して兄弟であるクリスチャンの仲間がいることに感謝したい。
これから僕は、イエス様の御名だけを信じてこの心から湧き上がる喜びを世界中に伝えていきたい。それがイエス様の十字架の愛に対しての答えであると信じて。
「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」 マルコ16章15節
「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝を持って祈と願いとをささげ、 あなたの求めるところを神に申しあげるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いをキリストイエスにあって、守るだろう。」ピリピ人への手紙4章6節7節
全世界に出て、福音を伝えていく。試練のときには神様に祈って生きていきたい。
韓国語では神様のことを「ハナニム」という。これは、三位一体である神様だから、「一」と言う意味の「ハナ」を含めた「ハナニム」と言うようだ。世界で唯一の「ハナニム」に委ねていきたい。
これからも神様の恵みを全て受けることができますように。

月報2005年8月号より

6.「帰国後のクリスチャンとしての歩み」

主イエスを信じること、毎週日曜日に教会で礼拝を受けること、これらは私には平安の時を与えるものです。人は愛されると思うことが喜びであるというのは本当にそのとおりだと思います。そして主イエス様が生きておられると信じること、 これによってそれが叶えられるわけですから、 そのことを教えていただいた錦織牧師に感謝するとともに、そのように導いていただいた主に感謝しています。

洗礼を受けたあと、 帰国に向けて引越しを行いました。 丸三日掛けての引越し作業でした。 木曜日に日本に向けて帰国しました。金曜日の夕方に到着した後、 土曜日はガスの開栓、 ケーブルTVのセットアップ、 電話のセットアップ等々であっという間に一日が終わりました。

ケーブルTVのアレンジは帰国前に連絡を取っていましたので、帰国した翌日に使えるようになりました。 インターネットのセットアップのアポはTVセットアップの時にして下さいという説明を受けていました。 そのためインターネットでの情報収集は直ぐには出来ないだろうと諦めていました。 ところが、ケーブルTVのセットアップと同時にインターネットも開設していただきました。 ケーブルTVに限らず、 日米を問わず、 この種のカスタマー・サービスによる説明は必ずしも実情を正確に表していないことがよく有ります。 結果的に良い方向で間違いが分かるというのは大歓迎です。 そのお陰で錦織牧師から薦めていただいた大阪一麦教会のホームページにアクセスが出来まして、 礼拝のスケジュールが分かりました。その結果、 翌日の日曜礼拝に早速出かけることが出来ました。 些細なことですがこれも主の導きだと思っています。
一麦教会ではニュージャージー日本語教会のような生演奏による讃美は行われませんが、 ピアノあるいはオルガン伴奏による讃美が行われます。 富山の一麦教会で牧師をされている原村牧師のご兄弟が最近天国に召されたとのことで、 この日の礼拝ではその時のことを紹介されていました。

礼拝の後、 同じマンションにお住まいの杉山姉と交わりの時間を持つことが出来ました。 姉妹は土曜日に英会話教室のお世話をされているとのことで、 私がニュージャージーに赴任していたとい言うことから英会話教室へのお誘いをして頂いたのがきっかけで、その後姉妹から英会話の案内を含めて色々な案内を封書に入れてマンションのメールボックスに届けて頂きました。 その中に大阪クリスチャンセンターでの講演会の案内が含まれていました。 元カネボウ取締役の三谷兄の証の講演とともに向日かおり姉による特別讃美が行われるという案内でした。 実は帰国前に梅本兄から向日かおり姉のことを伺っており、 杉山姉からのご案内に同姉妹の特別讃美のことが記されていたことには驚きました。 このような偶然に、不思議な神からの導きを感じざるを得ませんでした。

講演会は大阪朝祷会主催でした。 前半は向日かおり姉の特別讃美が行われました。向日かおり姉のゴスペルはCDで聞く以上に声量の大きさが印象的でした。 全部で8曲を唱歌されました。 「あなたのそばに」、 「アメイジング・グレイス」、 「主の祈り」、 「強くあれ、雄々しくあれ」、 等々。 特に最後は司会の方の配慮でアンコールがあって、 そこでニュージャージー日本語教会の2月の讃美歌であった「きみは愛されるため生まれた」を讃美されまして、ニュージャージー日本語教会での色々なことを思い起こしながら、私は胸が熱くなる思いでした。 このような喜びを与えて下さった主に心より感謝します。

三谷兄の証は「逆転勝利の人生」と題する自叙伝に基づいたもので素晴らしかったです。 一回ではなく何度か、 降格・左遷の憂き目に合いながらも、 最後はカネボウ薬品の社長、 会長も歴任され経営手腕を発揮されたとのことでした。 兄弟はこれも偏に主を信じて、 主とともに人生を歩まれた結果、 逆境にあっても常に心の平安を持って物事に対処できたと言うことを述解されていました。

講演会の席上、 三谷兄も向日姉とも直接お話しする機会はありませんでしたが、 以前ニュージャージー日本語教会に来られた事があるということを後ほど知りました。 私は3ヶ月という短い期間しかニュージャージー日本語教会に伺うことが出来ませんでしたので、三谷兄と向日姉にニュージャージーではお目にかかることが無かったわけですが、 日本に帰国してからこのような機会を得ることが出来たことも神によるお導きであり、 あらためて主に感謝しています。

日本でクリスチャンとして歩むのはアメリカで歩むより困難が多いと伺っています。 これから何処の教会にするかを決めてと思っていますが、 これもイエス様の知るところです。 果たして何処の教会に行くと思われますか?? 私は、 主イエス様を信じて、 主の愛と救いを享受しながら、 これからの人生を楽しくすごしたいと思っています。

追記: 皆さんからメッセージを頂くときに、 聖書からのみ言葉を一緒に頂くことが良くあります。 皆様からご紹介いただく御言葉は全て心に残るものばかりです。 私もそのようなことがしたいと思っていました。 先日参加した教会の礼拝の中で参考として引用されていたローマ人の手紙13章を読み返している時に良い御言葉に出会いました。 New International Versionで読み返している時のことなので、 敢えて英語で紹介します。”…Love your neighbor as yourself.” Love does no harm to its neighbor. Therefore love is the fulfillment of the law. (Romans 13: 9-10)

主に在りて

月報2005年6月号より

5.「信じること、救いと受洗」

受洗という言葉を始めて伺ったのが実は愛餐会のときに三村兄と一緒にポトラックパーティーの食べ物を取るために列に並んでいる時でした。今から思えばこれも主の導きでした。もし三村兄と一緒に食事を取るために並んでいなかったら、受洗の恵みを授からなかったかもしれません。そしてその後の週にお二方の受洗式に立ち会うに及び、私も導かれたいと強く思うようになりました。

それから私が洗礼を受ける決心をするまではいくつかの紆余曲折がありました。ひとつはお墓のこと。ひとつは時間的なこと。一番大きかったのは自身の気持ちだったでしょう。

まだ十分に決心がついていない状況でしたが、錦織牧師とのman-to-manの学びが始まりました。学びの中で、牧師は余り難しいことは言われませんでした。ただ、イエス様が私たちの罪を負って、十字架に掛かられて、三日の後によみがえられ、今も聖霊様を通して、私たちと共に居られることを信じなさいということでした。それから、私たちは罪深い存在なので、それを主の前で悔い改めなさいとも教えていただきました。

私にとって、すぐに主を信じることが出来るようになっていたのは、その時点で自身の無力さを悟っていたためかもしれません。それまで自分が如何に自惚れていたか、如何に自信を持ちすぎていたかが、直ぐに分かりました。そのため悔い改めることに余り抵抗がありませんでした。また、2000年前に十字架の後復活した主を信じること、それによって主より愛され救われるということ、これらも私にはたやすい事でした。

そして、2005年2月20日に錦織牧師の手によって主に祝福されながら洗礼を受けることが出来ました。洗礼を執り行って頂いた錦織牧師とともに主イエス様に感謝しています。

(神林兄の証は4月号の月報からの続きです。 この後次回の6月号の
月報で完結です。)

月報2005年5月号より

「神様との会話」

少なくとも私にとって、神様との会話は、ほかの誰かとの会話とは随分違うものである。

“あ”と言えば“うん”と言うように、すぐに反応があるものではなく、返事が自分の思いと全く違う方向にころぶことも多い。こちらからの語りかけは、かなり自分の都合を並べたものが多い。そして最後に取ってつけたように、ご用のために何かできることがあれば..、などと言ってる。それなのに、神様からのメッセージは、いつも驚くばかりに不思議な形で届けられる。人の目にそれは“まるで一方通行どうしの会話”と映るのだが。

或る時は、誰かとの会話の中でひらめきを与えられたり、礼拝や集会のメッセージから励ましを得たりする。聖書を読んでいると心に響く聖句に出会う。“聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅い者であれ”(ヤコブ1:19)と、ただ人を諭すだけでなく、神様は、勝手な祈りを辛抱強く聞いて下さり、祈りが自分のことばかりなってしまう時には、或る人々のことを脳裏に浮かばせ、自我の思いを阻む。ハッとして、この人のためにも、あの人のためにも祈れということだ、と理解し、指し示しめされた人々のために懸命に祈りを始める。

或る日、新しい仕事のことで小さな悩みを抱え、直ぐにでも答えが欲しい時があった。教会に行くも当番で聖日メッセージを聴けないことが分かっていた。そんな時、礼拝前の勉強会で答えとなるみ言葉に出会った。“知恵の欠けた人がいるなら、その人は、誰にでも惜しげなく、咎めることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし少しも疑わずに、信じて願いなさい。”(ヤコブ1:5-6)励まされ、気持ち新たになることが出来た。それ以降、“このしもべに知恵を与えたまえ”という心からの願いは、主の祈り、ヤベツの祈り共に通勤電車の中で捧げる祈りの一つとなった。

真っ直ぐに答えが出る時もあるし、ヒントを感じるだけの時もある。メッセージをもらった、と喜んでも、暫くすると同じような問題に再度ぶつかることもある。どうして人(私)は反省しても、すぐ同じ失敗を繰り返してしまうのだろうか。そんなことを考えていると、アフリカ女性伝道者が車内に乗り込んで来た。”Jesus loves you! Jesus died for your sin and for my sin, too…”下手な英語で彼女はしきりに繰り返していた。“そうなんだ。もう何度も聞いていることだけれど、まさにそれなんだ。”三浦綾子さんがかつで言っていた。“人間の一番大きな罪は自分と他人を計る物差しが違うことだ”、つまり自己中心の罪ってことを。同じことを繰り返し、進歩の見えない、そんな私のために、そしてあの人のために、イエス様は十字架に掛かって下さったのだ。黄泉に下り、よみがえり、いつも生きてとりなしをしてくれている。だから、人の苦しみにも、一方的な叫びにも神様は最善の時にベストな方法で答えて下さる。“神様のなさることは時に適って美しい”(伝道者の書3:11)という、み言葉どおりに。でも、悲しいかな、私には、その不思議なわざに気づくのに時間がかかることが多いのである。

神は霊ですから神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。
(申命記 8章14節)

月報2005年5月号より

4.「ハーベストタイムとニュージャージー日本語教会」

ハーベストタイムとの出会いは、私にとってはクリスチャンとして歩むきっかけを与える大きな出来事でした。

もともとハーベストタイムを見始めたのは妻でした。私は教会には興味がありましたが、ひとりで行くことには躊躇があって、妻が一緒で無ければおそらく教会の扉をノックできなかったと思います。ハーベストタイムを見るのもそうであったかもしれません。何時しか、妻と二人で毎週見るようになっていました。

ハーベストタイムでは毎回ゲストを招いてその方の証についてのインタビューと関連した聖書の御言葉の紹介をされるのが非常に印象的でした。そして毎回何か頷けるようなものを感じていました。私の帰国が決まった直後、何か寂しいものがあったのでしょう、あるいはこれが心の渇きだったのでしょうか、ハーベストタイムと関係のある教会にとにかく行ってみたいと強く思うようになっていました。そんな中で見つけたのがニュージャージー日本語教会だったのです。私が住んでいたのはニュージャージーのMadisonという町でしたが、ここから一番近いのがMaywoodのニュージャージー日本語教会でした。

とにかく私にとってニュージャージー日本語教会は不思議な力を持っていました。最初にノックした扉はなんと裏口だったのです。扉を開けてくださったのは大清水姉でした。礼拝堂に導かれた後、まず驚いたのは生演奏による讃美の時間でした。そして礼拝堂に集まっておられる皆さんが首を左右に振りながら楽しく讃美をされている光景を見たとき、Nashvilleの教会の神秘的なクリスマスミサの雰囲気と余りにも異なっていたので、とても不思議な印象さえ受けました。しかし、それもつかの間で、これまで歌ったことも無い讃美歌を口ずさんでいたのです。

暫くすると、greetingが始まり、教会に集まっている方々が誰彼となく握手を始められたのです。私はこれで礼拝は終わりなのかなと勘違いしましたが、このgreetingの時を通して、初めて出会った方々から本当に厚い歓迎のお言葉を頂くことが出来ました。初めて飛び込んで行った妻と私でしたが、皆さんは本当に友達のようにして歓迎してくださったのです。このような暖かい歓迎は、私のおぼえている限り初めてのことでした。これで私の教会に対する考え方が変ったのでしょうか、次の週も、またその次の週も何故か足を運ぶようになっていました。

月報2005年5月号より

3.「二度目の渡米生活」

何時しか基礎分野での研究者としての生活に終止符を打つことになり、 臨床試験のマネジャーとしての職務につき、 2003年から、 海外臨床試験マネジャーとしてニュージャージーに赴任することになりました。 臨床試験はかなり困難を伴うものですが、 依然として私は自分の能力を過信していました。 きっと成功するという自身を持って取り組んでいました。

ところが、臨床試験というのは本当に難しいもので、単に自然科学の力だけでは解決できない難しい問題を持つものなのです。

そんな中で、 突然の帰国命令を受けました。 これは本当に予想外の展開だったのです。 海外赴任している者にとっては決して驚くには足りないことなのかもしれませんが、 高校二年になる娘の学校のこと等を考えると、 3ヵ月後の帰国というのはやるせないものでした。 と同時に、 自身が本当に無力な存在であることをつくづく感じました。

そしてこれが神を求めるきっかけになりました。

* この後、 神林兄の「証」は 4. 「ハーベストタイムとニュージャージー日本語教会」 5. 「信じること、救いと受洗」 そして 6. 「帰国後のクリスチャンとしての歩み」 と来月号以降へ続きます。

月報2005年4月号より

2.「米国留学時代におけるキリスト教との出会い」

1991年から1993年までの2年間米国ナッシュビルのVanderbilt大学に留学する機会を得ました。 娘が近所の教会に所属する preschoolに通っていました。 教会からの案内もあってクリスマスの時にその教会へ行きました。 印象に残っているのはハンドベルによる賛美でした。 礼拝堂の中を薄明かりにして、 とても神秘的な雰囲気の中でのハンドベル演奏でした。 初めてのアメリカ生活の中で体験した神秘的な教会の雰囲気というのはすごく新鮮でした。 それでも私は救いへとは導かれませんでした。

その後も私はキリスト教に何となく興味を持っていたのでしょう。神を信じるというよりはむしろ歴史的なキリスト教的な考え方を持つということにとても興味がありました。 ある書物の中で、現代の自然科学はキリスト教的な背景が無ければ生まれて来なかったかもしれないと示唆するものがあって、 とても興味を抱いたことを覚えています。 これは必ずしも、キリスト教哲学に基づいて現代科学が築かれたということを意味しているのではありません。 神の存在があったからこそ、 対立する概念の中で自然科学に対する理解が深められていった、 つまり現代科学の基礎を築くように主イエスが導いてくださったのではと理解しています。 それほどに主イエスの存在は偉大であったと思わざるを得ません。 エジプト文明、 メソポタミア文明、 インダス文明、そのほか中国においても文明は芽生えしたが、 実際に現代の自然科学の基礎はキリスト教社会・文化の中で活躍された哲学者、 自然科学者から生まれてきたといっても過言ではないと信じています。

私は大学では理学部の化学科を専攻しました。その後製薬会社の研究所に勤務し、一研究者としての人生を歩みました。 研究に関してはそれなりの自信を持っていました。 研究の世界ですから、 もちろん結果はやってみなければならない世界ですが、 どのように自身の仮説を実証していくかという科学的な考え方についてはかなりの自信を持っていました。 それは私自身が当時無神論を自負できた理由の一つになっていたかもしれません。

私は人生の中で三度自然科学の分野で成功を収めたと自負していました。 ひとつは大学院の時、ひとつは入社した後に研究に携わりそれによって留学前に学位を取得したとき、 三度目は留学期間でのことでした。 そういう自分は神をも知らず、 ただ自身の力を信じたおろかな科学者であったのでしょう。 今から考えると不思議なものですが、 特に三回目の成功を収めたのは、折も折りクリスマスの頃で、 家族とWashington DCでクリスマスの休暇をすごした直後に研究室で結果を見て成功していたことに気づいたという経緯がありました。 その時には思わずクリスマスプレゼントと関係者に知らせたように記憶しています。 もしその時に主を信じていたならば、 その後はもう少し平安な人生を歩み始めていたかもしれませんが、 実際にはその成功は自分の行った業績という考えを持つことしか出来ず、 結果的にそれが間違いであったと悔い改めています。

月報2005年4月号より

1.「幼少時代におけるキリスト教との接点」

多くの日本人がそうであるように私は無神論の家庭で生まれ育ちました。 幼少のころは神道のことすら知らないにもかかわらず、毎年正月には近くの神社をおまいりするという、昔ながらの日本の文化の中で育ちました。 しかし、それがどのような意味を持つのか、そしてそれがかつて日本を戦争へと導いた神道と関係があるということすら教えられることも無く、 単に文化の一つとして肌で馴染んでいたに過ぎません。 何故か人が他界すると手を合わせて拝むということも、 宗教的な背景について一切教えられることなく、 これも単に習慣として馴染んで来たに過ぎません。 このようになんとなく習慣としてごく普通に日本人が行っていることを習ったものの、 そこにはなんら宗教的な背景はありませんでした。 このような無宗教な背景が、 おそらく他の多くの日本人がそうであるように、 私もまた神とは無関係の無神論者として育った理由になっていると思います。
一方では必ずしもまったくキリスト教と無関係でもなかったかもしれません。 敢えて記憶をたどり寄せてキリスト教との接点を探るならば、 私の小学校時代の知り合いの父親が牧師をしていたように記憶していますので、 それぐらいかもしれません。 こんな形で「牧師」、「教会」には少し触れる機会はありましたが、 それ以上のものはありませんでした。 また、 それ以後も、成人して米国留学をするまではキリスト教徒の接点はまったくといっていいほどありませんでした。

月報2005年4月号より