説教: 錦織学牧師
聖書箇所: ヨシュア記5章13−15節
神を王として歩む。・・・「ははー」とひれ伏し、 嫌なこともしないといけなくて、無理してやらないとダメ、 と思っている?
⇔神を王として歩むことは、祝福にあふれ、 平安と喜びにあふれている。
1)何を王とするのか?
自分・・・自分のやり方、自分のビジョン、自分の考え。
人の声、人の顔色・・・結局、自分の評価、 自分の評判が気になる。
サウル王・・・民が去っていこうとするときに、 サムエルを待てずに、自分で犠牲を捧げてしまう。( サムエル上13章8-15節)
滅ぼすべきもの中から、それには惜しいものを取っておく。「 民が神様への犠牲にするために・・・」
神よりも人を恐れた。・・・自分のため。
ヨシュアも、自分の作戦を捨てて、神の作戦を聞いた。
この作戦実行のために人の声ではなく、 神を王とする必要があった。
2)神の前の降伏
この主の軍勢の将の「NO」は「敵ですか?」に対する「NO」 であると共に、「味方ですか?」に対する「NO」でもあった。
「足の靴を脱ぎなさい」・・・全面降伏。
「あの人を取り扱ってください」という祈りから「 私を変えてください、私があなたに従います」という祈りへ。
崩されなければいけないエリコの城は何?・・・自分の心の中に。
テイクアウトQuestion
1)あなたは、クリスチャンになる前に、 何を王としていましたか?今も、 自分が何を王としやすい傾向があると思いますか?
2)神を王とするということはどういうことでしょうか?
3)あなたの心の中にはエリコの城はないでしょうか? それはどんな城でしょうか? それを崩していただくためには何が必要だと思いますか?