「嘆きを踊りに変えてくださる主」

ある日、ハモリに負けずに歌い切る!というテレビ番組に、笑いながら共感している自分がいました。
そして身近な録画を見て「あれ?これ私の声?自信を持って歌っていたつもりなのに少し外れてる・・」と自分の歌声に気づき、恥ずかしくなることもあるのですが、「それでもめげずに歌おう!」と、今は心に決めています。

 以前、母が私の出産について語ってくれたことがありました。それは父の母の思いに反して、母の大きな決断によって4番目の子としての出産が私だったことでした。そして、キリスト教や聖書とは無関係だった田舎の家庭に育った私が、イエス様の救いに与るなんて、まさに大きな憐れみでしかありませんでした。運動部に夢中だった中学生の時、姉と一緒に初めて教会に行き、いただいた新約聖書を一人で読み始めました。自分の力で隣人を愛する努力に限界を感じて罪が示され、高校生の時に「神様の愛は罪を赦す十字架に示された!」と知り、クリスチャンになりました。しかし、私が教会に通うことに父は反対で、ある時は茶碗を投げることがありました。そんな時でも罪から救われた喜びと神の愛に感動し、学校や教会の帰り道には「主にすがる我に、悩みはなし、十字架のみもとに、荷を下ろせば、歌いつつ歩まん、ハレルヤ~ハレルヤ~♪」(聖歌498)と歌い、賛美に励まされたり、信仰の友の祈りにも支えられてきました。キャンプに参加したり、聖書を読んで祈る中で、神様と交わることが喜びとなりました。母を通して受けた肉体の命と愛に加え、神様からの霊的な命と愛をいただくことによって、生きる喜びを感じ取っていたように思いました。

 やがて看護の道を歩む中、人が生まれる時には、母も周囲も全力で臨み「命の誕生」「命への畏敬」ともいえるものに感動しました。しかしある時は、厳粛な「人の臨終」にも直面し、本人、家族、医療スタッフが必死になっても限界「人間には立ち入れない世界」があるのを感じる時がありました。遺族の大きな喪失感で悲しむ姿を知り、一人の人の命がどんなにかけがえのない大きなものか・・、神様に問いかけ、深く悩み祈ったものでした。「肉体は滅びても、魂を救うお方がいらっしゃる。」そのことを見出し、それから救いや天国の希望、神様の大きな愛を伝えたいと願うようになり、数年の祈りの後に「私の子羊を養いなさい。」(ヨハネ21:15)のみことばに立ち、聖書学院に導かれました。

 牧会生活の中では共に祈り合い、また恵みを分かち合う中で、主に導かれる方がおられたり、また、離れて弱っていた方が信仰に立ち返った時、一緒に泣いて一緒に笑って、神様が私たちと共にいてくださると感じる時、そして反対していた家族にも神様が’働いてくださった時、それは本当に私の大きな喜びでした。

 しかし、これまでの歩みの中で、ある時には神様は私を訓練してくださいました。髪を振り乱し必死の日々、「睡眠時間を削って、こんなに一生懸命頑張っているのに・・」と、自負や思い違いをしていた時、急に試練の中に落とされます。八方塞がりの中で自分の弱さ、まるでボロ雑巾のような惨めさ、ある時には人を赦しきれない罪深さを示され、悔い改めさせられ、主のみ前にへりくだることを教えられるのでした。それでもイエス様の十字架の愛に戻る時、わたしの心に賛美が湧き上がります。
「恐れは変わりて、祈りとなり。嘆きは変わりて、歌となりぬ。
歌いつつ歩まん、ハレルヤ~ハレルヤ~」(聖歌 498)

あるセミナーの中で、教えられたことです。
「皆さんは祈る時、自分に必要なことを一方的に提示して話していることはありませんか?神様の愛をいただくために、自分を空っぽにして、心の窓を開いて、自分の内側に神の愛の眼差しを求めましょう!」
「想定外の中でも神は働いてくださるのです。言葉も出なくなる時、うめくしかない時、それでも神の前に立つなら、祈りとなるのですから、自らを明け渡す祈りをしましょう。私たちは聖霊が働かれる条件を整えましょう!」と勧められました。
「御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちをとりなして下さるからである。」(ローマ8:26)

私の心のうめきをご存知で共にとりなしてくださる方がいる。そう思うと私の内側に、不思議なほどに平安と、勇気が与えられるようでした。
私の歩みのためには、主ご自身が、そして世界中に広がった兄弟姉妹がとりなしの祈りで支えてくださるのだから。そのように大きな愛に導かれるのを感じるのでした。

「苦しみや悲しみや嘆きを踊りに変えてくださる優しいお方、主により頼みます!」と祈るのでした。

「あなたは私のために、嘆きを踊りにかえ、荒布を解き、喜びを私の帯とされました。
これは私の魂があなたをほめたたえて、口をつむぐことのないためです。
わが神、主よ、私はとこしえにあなたに感謝します。」(詩篇30:11、12)

私をここまで導いてくださった主に、心からの祈りと賛美をささげて歩んで行きたいと願っています。

「主のみ約束に、変わりはなし、み許に行くまで、ささえたまわん。ハレルヤ~ハレルヤ~♪」
(聖歌498)

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