「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。(イザヤ書46:4)」
この夏、1人で里帰りをしました。2ヶ月間実家に滞在し、母の部屋に布団を敷いて寝起きしました。今までは子供たちと帰省するのが常で、実家ではお客さん気分。さんざんもてなしてもらうのに、2週間も居ると毎回、両親と衝突していたのが、今年は波風一つ立たず、ほっと安堵したのと同時に、それだけ親が歳を取ったのだと寂しくもなりました。
傘寿を過ぎた両親の毎日はとてもスローテンポです。予定があるのは病院に行く日ぐらいで、あとはほぼ家の中で過ごします。父は規則正しく過ごす性分で、朝早く起きて新聞を郵便受けから取り、テーブルに広げて老眼鏡をかけて一通り目を通す。それからテレビ欄の番組表を調べて、見たい番組を色ペンで囲み、軽く朝食をいただいた後は指定席に腰かけてテレビをみながらうつらうつらと午前中を過ごす・・・。午後もまた、しかり。唯一の楽しみは、毎週水曜日の午後に友人たちと行き会うゴルフのショートコースです。約束をとりつけず、来られる人だけが来ればいいという、ごくごくゆるい集まりを続けています。
母はゆっくりめに起きて過ごします。週2回のデイサービスがない日は、ひるげの匂いに誘われてようやく部屋から出てきてきます。食べ終わるとまた部屋に戻り、何をするでもなく横になって、また夕食の時間に顔を見せます。以前の母はとても多趣味で活動的。若い頃に教員免許のほか茶道と書道の師範資格を取り、子育てが落ち着くと調理師免許、60代でネイルアーティストの資格を取りました。洋服や靴が大好きで、私の楽しみは実家から母の服を貰ってくることでした。そんな母が、今ではたった3、4着の服を着回し、朝から着替えもせずパジャマで過ごしているのです。母の代わりように愕然としました。
ふたりは自活してくれていますが、いわゆる老々介護です。「老々介護」。聞いたことのある言葉でしたが、両親の生活がまさにそのもの、と気付いたときはショックでした。もともと膝を悪くして歩行が困難な母でしたが、去年の暮れに転倒・骨折して一気に身体の衰えが進み、父が家事の全てを担うようになりました。母が家のことを切り盛りする姿しか見た事のない私にとって、父がこれほどマメに家事をしてくれるのを見るのは嬉しい発見ではありましたが、2人の姿に自分自身の将来を重ね、「歳はとりたくないものだ・・・」と正直、思いました。
日本人の平均寿命は男女とも80歳を超えていますが、健康問題が日常生活へ制限を与えない期間を表す“健康寿命”なるものは、男性で70代前半、女性で70代半ばです。こんな数字を見ると、「元気に自活できるならいいけれど、我が子や周囲の負担になるようならば、早く逝きたい・・・」と、つい心の中で願ってしまいます。超高齢化が進んで介護保険制度が崩壊するかもなどと言われる日本で、年配者が社会の重荷とみなされる風潮が強い社会で、アンチエイジングなどということばが市民権を得て、老いることが悪いかのようになった世の中で、長生きしたいとは到底思えないのです。希望を見いだせないのです。
でも、聖書の価値観は違います。老いることが祝福の象徴、老いることは光栄なこと、「白髪は輝く冠(箴言16:31)」だといいます。
キリスト者であるヘルマン・ホイベルスという人が「人生の秋に」という本で「最上のわざ」と題して、こう書いているそうです。
楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう。
若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見てもねたまず、人のために働くよりも謙虚に人の世話になり、弱ってもはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること。
老いの重荷は神の賜物、古びた心に、これで最後のみがきをかける。
なにか活動が出来なくなったとしても、働きではなく存在そのものに大きな意味や喜びがある。効率とか生産性に意味と価値を与えるこの世の中で、聖書の言葉は老いることへの祝福を語ってくれています。
この夏、私が一番うれしく思ったのは、母が再び教会へ通うようになったことです。母は洗礼を受けてはいますが、久しく礼拝に集えていませんでした。教会の人間関係に失望したり、自分の願った通りの教会生活を送れなかったりして、通うことを止めてしまったのでした。そんな母が、土曜日の晩から備え、日曜日の朝は早起きして身支度を整え、礼拝に出席するようになったのです。教会から帰ってくると、母の顔つきは明るく、楽しいお喋りが始まります。その姿にクリスチャンではない父は驚きます。町内会の集まりは嫌がるのに、教会の集まりへは進んで出掛ける様子を不思議がります。
でも、当然なのです。教会は安心して集えるところ。そこには愛があり支え合いがあります。そこでは、働きでなく存在を大切にして受け入れてくれます。高齢者であれ働き盛り世代であれ、1人の存在として見なしてくれます。とは言え、人間の集まりですから気の合わない人がいるかもしれません。ときに、失言や行き違いから、失望したり傷ついたりするかもしれません。でも、イエス・キリストという模範がいて、聖書を読むことで整えられ、大切な戒め「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい(マルコ12:31)」を守ることによって、それぞれが理想の姿へと変えられていく過程にあるのです。
里帰りも終わりに近づいたころ、「別れが寂しい」と、はばかりもせずに言う両親と離れるのは後ろ髪を引かれる思いでした。もっと滞在を伸ばせないか、日本にしばらく移り住んで両親の生活を支えられないか、とさえ考えました。でも、母が日曜日ごとに教会へ行きはじめたことで、私の心配は安心へと、心残りは希望へと変えられています。母は神様からの語り掛けによりリセットされ、リニューアルされ、新しい力を得ると期待しています。今までも母をずっと運んできてくださった神様が、母が年老いた今も、これからも、同じように運んでくださるから大丈夫だと。背負ってくださるから大丈夫だと。そしていつか、私のことも同じように運び背負ってくださるでしょうと。
主は良いお方です。神様に心からの感謝をささげ、全ての栄光をお返しいたします。
葉子姉
証を読んで自分の目を覚まされた気がしました。ご両親が健康でご健在な事は何よりですね。又お父様がお母様の代わりに家の事をされている素晴らしいお父様ですね。私もその域に近ずいており考えさせられました。いずれにしても自分の計画があっても神様は別の計画を持っていると思い素直に神様の計画に従うのがベストと思ってます。
全てを主の栄光の為にご家族のご健康をお祈りしてます。