ありのままを生きることの難しさと恵み

私は会社員をしています。特に学校で学んだとかいう事を役立てているとかではなく、仕事をゼロから始め、教えられ、身につけて来た事を築き上げて来て今があり、給料を得ています。その中で一つ、日々の仕事の中で大切にしてきた習慣があります。もうすぐリタイアかなぁと思う歳になって来ましたが、長年それをひたすら続けて来たのです。それは、「ありのままを正確に認識し、誠実に報告すること」です。

問題が発生したとき、何が起きたのか、原因は何か、どれほど緊急性があるか、どのような対処が可能か——そうしたことを隠さず、事実のままに上司にも部署全員にも報告するのです。特に自分のミスや判断の誤りが関係しているときは、つい脚色したり、言い訳をしたくなるものです。しかし、私の会社では、「誠実な報告こそが最善の解決への第一歩であり、同じ事を再発させない対策を見つけるための正しい判断を生み出す」と繰り返し教えられてきました。その義務を全員で果たさなければなりません。当たり前のようで、実はこれが出来る環境は、なかなか作れないのではないでしょうか? 

最近この習慣が、実は私の信仰とも深くつながっていることに、気づかされました。

私は両親がクリスチャンの家庭に生まれ、幼児洗礼を受け、教会附属の幼稚園や教会学校にも通って育ちました。ただ、幼い頃の私にとって信仰とは、「クリスマスは特別な日」といった程度のものでした。兄や妹は成長の中で信仰告白をしており、私は少し遅れて24歳でクリスチャンとなりました。

クリスチャンの両親を持ったクリスチャンを妻とし、周囲には信仰を持った家族や親族が増え、私は「神様の祝福とはこういうことなのか」と自然に思うようになっていました。けれどもあるとき、私は実家の家族に関して重大な見落としをしていたことに気づかされたのです。

最近、あるインターネットの記事で「裏」という漢字の一部に「表」という字が隠れていることを知りました。その瞬間、「自分はずっと家族の“表”だけを見てきて、その上にちょこっとついている“裏”の部分を見ないで来たのではないか」と、はっとさせられました。

実際、私の家族は長年にわたって大きな問題を抱えていました。しかし、私たちはお互いに「ありのままを伝える」ことをしてこなかったため、正しい判断も、適切な解決策も見出せないままでした。とても親しいようでしたが、本当の事はあまり口にしていなかったので、問題として認識するのが遅れ、家族での作戦会議を開くような事は無かったのです。

私がその問題の存在を知ったのは、時間の経過が立った後、しかもそのごく一部で、更にその内容には事実と異なる話が含まれていました。つまり虚偽の報告です。それゆえ、問題の深刻さにも、当初は気づけませんでした。

問題の発端は、父が信頼していた知人の連帯保証人になったことでした。その人はほどなくして夜逃げしてしまい、父に多額の借金返済義務が降りかかりました。この事は確かな事実で、大きな問題の始まりでした。父は借金返済のために奔走しましたが、借金が借金を呼ぶ悪循環に陥っていきました。定年後に始めていた事業も立ち行かなくなり、最終的には長年かけてローンを完済し、手に入れた自宅まで手放さざるを得ない状況に追い込まれて行きました。こうした事実を、私はずっと後になってから知らされたのです。

しかし、それだけでは終わらず、さらに驚くような話が親族から出てきました。それらは、私が幼い頃にまで昔にさかのぼるもので、信じがたいような「家族の裏の歴史」でした。人は誰かを悪く言い出すと、あまり関係の無い話まで持ち出して、その人を責め立てる事があります。ですので、それらの話は真偽を確かめる術すらなく、何が本当なのか分からないままです。そのような話を聞く私の心はとても痛みました。

父は晩年、老化が進み、会話がかみ合わなくなることが増えていきました。そして父が亡くなり、まもなく母もその後を追うように天に召されました。こうして、両親の口から真実を聞く機会は完全に失われてしまいました。

さらに、両親と長く近くにいたはずの兄や妹夫婦から語られる話は必ずしも一致しているわけではなく、私にはどうしても信用できない内容ばかりです。証拠となるものも何ひとつ示されず、私は何を信じていいか分からなくなりました。私にできることは、もはやほとんど残されていないように思えました。確かな手がかりがあるとすると、まだ元気だった頃、私に父が言った一言があります。「最近ヨブ記をいつも読んでいるんだ」と。(注: ヨブは、とても正しく信仰深い人で、家族も財産もあり、神に祝福された人生を送っていました。しかし、悪魔が「ヨブは祝福されているから神を信じているだけだ」と言い、神の許しを得て、ヨブを試すことになります。子供達や財産を失なわせ、彼自身病気に苦しみます) ちょうどその頃が家を失った頃と一致します。また、遺品の中に父が書き残していた書類がいくつかありました。それらの中には、会社の取引先の方からの手紙もありました。「私はあなたがクリスチャンであるという事で、ここまで信用してきたのです。あなたの誠意を信じて待ちます」という借金の請求で、クリスチャンを愚弄するような言葉が続けて書いてありました。また、私に宛ててしたためていた手紙や、私に金銭の工面を電話で依頼するための下書きも見つかりました。確かに何年も前、そのような話をした事を思い出して、あの時か、という感じです。その他に、神様への叫びのような言葉も記されていました。そして、私がその頃、何かよくわからないとはいえ、状況を察して書いた歌があり、譜面を送った事がありましたが、その歌詞まで手書きしてありました。こんなところに書いてないで、ちゃんと全てをそのまま分かるように話して欲しかったです。どんなにか苦しい思いをしていたかと、哀れな気持ちでいっぱいになります。

私は会社で「事実を正確に報告すること」の大切さを学び、それを実践してきました。しかし、自分の実家では、それが長年なされてこなかったことに、私は取り返しのつかない思いになります。クリスチャン家庭でしたからなおさらです。

聖書には、偽りや隠し事、不誠実、自分本位な言動のゆえに神様の祝福を失い、ひどい結末に至った人々の例が、聖書の最初から、いくつも記されています。私の家族も、もし神様の前に「ありのまま」を差し出すことを大切にし、その事について共に祈る事を第一として来ていたならば、歩んでいた道はまったく違うものになっていたでしょう。主イエスが、明らかな盲人に向かって、「私に何をしてほしいのか」とわざわざ尋ねられた意味がここにあると知りました。私の父が財産を失う出来事が起こる事を許された神様は、ご自分に真実の叫び声をあげるしもべ達を待っていて、そしてそれに応える準備もされていたと思います。

私の人生は残り何年あるのかわかりませんが、神様の前に忠実であり、ありのままでいる事を大事にして行きたいと願っています。自分の力でそれが出来るとは思えませんので、日々ただその事を祈り求める毎日です。主の祈りの最後、「我らをこころみにあわせず,悪より救い出したまえ」が、私の心からの主への願いとなっているのは、そのためです。これらのことを日々教え、証明し、勇気を与えてくださる方に信頼して歩む事以外に私が行く道はないのです。クリスマスしか大事でなかった幼い頃の私でしたが、主イエスの復活の出来事、イースターを喜び、そこから生きる勇気を受けていて、主が再び来られる日を待ち望む者です。いつの日か、天国で両親に再会して、全てが明らかになる事も分かっています。その時、どんな顔をして話してくれるのか、少し楽しみでです。

主イエスは言われました。

「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」ヨハネの福音書 16章33節

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