「こんなすばらしいことを、なぜ独り占めにしていたの?…」

「こんなすばらしいことを、なぜ独り占めにしていたの?なぜもっと早く教えてくれなかったの!?」
これが翌日の彼女の挨拶の言葉でした。アーサー先生が洗礼式でドアのノッブは内側にしかないのです。イエスさまはドアの外側でたたいているが開けられないのですと言ってたことを思い出し、「本当ですね!!」と洗礼の感激と感謝を体一杯にあらわしながらの挨拶に一瞬反省しながら、「おめでとうEsther!!」(Estherは彼女のアーサー先生よりいただいた洗礼名です)「いい名前だね!!洗礼を受けられて良かったね!!」と私も挨拶をかわしました。

1年程前に私達の職場に入社した彼女に、職場では立場上(経理・財務のManagerで、総務人事も守備範囲にはいる程の小さな職場なので)あまりイエスさまの話しをしにくい環境が昨年の夏頃までつづいていましたが秋ごろから、昼休みなどに私の「証」をする機会があり、それを切っ掛けにして「塩狩峠」のビデオを貸したり、信仰の書や、キリスト者の伝記などを貸したりして、だんだんとそのすばらしさを語りはじめていました。そして教会へおさそいしたら、ご夫婦で1度礼拝に出席してくださいました。ご主人はクリスチャンで、彼女に何時かは同じ信仰を持って欲しいと祈っていたとのことですが、あまり強く話してはいなかった様です。それっきりで教会も殆ど行かない生活が続いておりました。

今年に入ってから、VIPの徹夜の祈り会でも、彼女の救いの為、職場の同僚や先輩の救いの為に名前を上げて祈り始めました。そしてRBC Ministryの「デイリーブレッド」の日本語版を彼女に、そして英語版をご主人へと3月1日からのものを手渡すことが出来、また春に日本へ一時帰国した時に単行本サイズの新約聖書を買い求めて来て彼女へプレゼントをすることが出来ました。そしてその聖書を手渡し乍ら、3月19日と20日のアーサー先生の集会に参加してみないかとさそっていました。そしてアーサー先生は型破りな「不良牧師」であることを紹介しながら、なんとすばらしいTimingでアーサー先生が来られるのかと思いました。

ところが彼女は前日の3月19日には風邪で1日休暇をとり体調が最悪の状態で20日を迎えました。朝から体調が悪く、午後にはDoctorのアポイントが取れたら行くという状態で夕方の集会に出れるかどうかは午後の体調で決めると言っていました。午後になりDoctorのアポイントが取れないが、午前よりは多少体調が良くなって来た様子で「集会に出たら絶対体調が良くなるよ、アーサー先生の話を聞き祈ってもらったら!!」と5時少し前に声を掛けると「行ってみる」ということになりマンハッタンへ向かいました。少し早く会社を出て途中でラーメンでも食べて行こうということになりました。彼女は久しぶりのラーメン屋でご機嫌で食欲も回復し、大分体調も回復してきているようでした。

アーサー先生のMessageの間、一言ももらさぬ様に聞いていた彼女に、終わってから、「どうだった?良かった?」と聞くと「すっごく良かった!!」という返事に、だめ元で私が『洗礼受ける?』と聞くと『うん。いいの?』と答えたので、アーサー先生に相談したところ、即座にOKということになりました。聖霊充満の非常に厳かな、感激的な洗礼式となりました。
『赤ちゃんは、ミルクを必要としますね。私達のミルクは聖書の御言葉です。祈ってから毎日聖書を読んでください』とアーサー先生が言われ、実際、彼女は翌日から熱心に聖書を読み始め、ご主人を驚かしているそうです。

みことばを述べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。(第二テモテ4章2節)

月報2002年5月号より

「洗礼を受けてから四年が…」

洗礼を受けてから四年が経とうとしています。その間主の恵みは本当に大きなものでした。全知全能なる主の愛の中にあって日々強められ喜びを与えられました。これからもそうであることを信じています。しかし一時期私は神様の事が分からなくなっていました。

この前、私は神様が悲しまれることをしてしまいました。それが罪だと分かっていて、悪いことだと知っていて、このくらい大した事はないと自分を正当化していました。そしてその事によってそれまで親しくしていた親友をなくしました。何でも話せて自分のことを理解してくれていて、彼のことも理解しているつもりでした。自分のした罪によってその親友を傷つけ、それによって私から離れていったことを赦せなくなっていました。

私は自分のそんな汚い部分を見て落ち込みました。こんなに自己中心的だとは思ったこともなく、どちらかというと人を思いやることの出来るタイプだと思っていました。自分は偽善者だったと思わされました。その事を認めたくなくて、心の隅に隠して逃げていました。その問題に立ち向かうことのできない自分を見て自分の弱さを思い知りました。

頭の中では、そのことを主の前で告白しなければいけないと分かっていましたが、実際にこの問題を目の前にして何もすることができず、誰にも話すことが出来ませんでした。その問題から逃げようとすればするほど自分を苦しめていました。仕事も忙しい時期にあり、そして資格の試験の受験日も近いこともあり、仕事と勉強の毎日で、教会に行けない日々が続きました。一度に色々なことが起こり、心に平安はなく、私は渇ききっていました。

その後身体にいくつか異変が起こりました。まず初めに蕁麻疹が毎日のように出ました。身体中が真っ赤になってかゆくなり何も手につかないときが一ヶ月くらい続き、その後、鼻血が毎日のように一ヶ月以上続きました。

「神様なんなんですか...」と、心の奥底からその言葉が出てきました。

どうしてこんな事になるのかと、神様に疑問を抱きました。でもそんな時も神様は、共にいてくださいました。背を向けていた私を、祈ることもできないほど渇ききった私を、去年の夏に行われたJCFN (Japanese Christian Fellowship Networkという団体) の修養会に導いてくださいました。そこで神様は私の心にダイレクトに語ってくれ、罪意識に苦しんでいた心に入ってきて下さいました。その修養会のテーマが 「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい...」 (ローマ人への手紙12章1節) だったのですが、聖い、生きた供え物のことを思ったときに自分の罪を神様の前で告白しなくてはいけないと思わされました。自分のどろどろとした汚い部分を全部さらけ出して、神様の前に出て祈らなければと強く思わされ、その修養会で同室だった友人にすべてを話し、彼も今まで誰にも言えなかったことを話してくれ、二人で祈りました。

「神様、赦してください」と。

そして主は、大きな愛をもってそれまで隠していた罪を赦して下さり、苦しんでいた心を癒して下さいました。赦されたことによって、それまで赦せなかった友人を赦せるようになりました。今まで私を苦しめていたものから解放して下さったのです。イエス様はこの罪のためにも十字架にかかって下さったのだと思わされました。主は進む道を、頼るものを見失っていた私を捕まえ、またもとの所に、本来あるべき所に私を導いてくださったのです。これから歩む人生の中で、このかたがいつも共にいてくださることに感謝です。

もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、その罪を赦し、すべての不義からわたしたちをきよめてくださる。(ヨハネ第一の手紙1章9節)

月報2002年3月号より

「私は31歳の時に…」

私は31歳の時にまだ結婚する前の家内を通して、イエス様に出会いました。

今振り返れば、小学校のYMCAのキャンプや、高校の予備校もYMCA、また大学もミッション系でしたので、本人がその気になれば、もっと早くからイエス様を知り得たのかもしれません。しかし当時の自分にはずっと、天の父なる神様の存在は、よく言う「苦しい時だけの神頼み」でしかありませんでした。

逆に、肉親である父親の存在は私の成長に大きく影響しました。父は地元のPTAの会長を長い間務め、私への躾やモラルの教育には大変熱心でした。そして「人様には絶対迷惑をかけるな、そして社会の役に立つ人間になれ」と口ぐせの様に私にいっていたのを今でもおぼえています。そんな比較的恵まれた家庭でひねることなく育てられた私でしたが、社会人になり、資本主義の競争社会の波に飲み込まれていくと、父親から教わった事とは全くちがう社会の現実が待っていました。 名古屋で営業部に配属になると、「競争社会では食うか食われるかのどちらかだから、お人好しでは負ける、図太く生きろ。」とか、「他人の事よりはまず自分、仕事相手は信用する前にまず疑ってかかれば、だまされることはない。」などと先輩や上司に教わりました。自分自身では、疑問をもちながらも、当時、出世意欲旺盛だった私はいつしかそれを受け入れ、染まっていきました。

家内との出会いは、そんな人間社会の欲の中にどっぷり漬かってしまって、もうすっかり昔の自分を忘れてしまっている時でした。

彼女は学校を卒業して、私と同じ会社に入ってきたのですが、入社早々のあいさつで、いきなり「わたしはクリスチャンです。」と信仰告白をしていました。でも当時の私は、そんな彼女のことも 「何がクリスチャンや。」と取り合わず、むしろ その明るく天真爛漫ぶりに疑いの目を持っていました。

その後、何年間も親しく会話することはなかったのですが、ある仕事をきっかけに、話をする機会を持ち、彼女が幼くして、お父さんを亡くし、お母さんひとりの手で育てられた事を聞き、その逆境での生い立ちにもかかわらず、真っ直ぐな心を持っている彼女に自分の心の歪みを気付かされました。

それから、彼女との交際がはじまり、その天真爛漫ぶりが、どうやら彼女がクリスチャンであることに関係しているを知り、そこで、イエス様の事にはじめて興味を持つようになりました。以来私は進んで、「はじめてのキリスト教」とか、「キリスト教入門」など聖書以外のキリスト教書籍を読んだりしました。でも聖書は辞書みたいでとても読書嫌いの私には読む気にはなれず、何とかインスタントにキリスト教を知ろうとしたのです。また同時にデートの時には、キリスト教のことばかり話しするようになりました。

夕立ち後のデートで、虹の出現に、いきなり神様との約束を思い出すと言っておどろいた逸話が私たちにはありますが、それはこの頃の事です。幸い会社のすぐ横に教会があったので、日曜日以外にも金曜夕拝に仕事の終わった後、積極的に足を運ぶようになりました。でも既に自我と先入観念を確立していた私には、どうしても理解できないことや、一般常識では受け入れ難いことが多々あり、教会には行くけれども、全て納得できないととても洗礼を受ける気持ちにはなれなかったので、洗礼は一生受けないかもしれないと思っていました。

例の虹の事についても、虹は雨が降った後の大気中に残った水分に太陽光線が反射して虹ができると科学的に証明されているので、神様の意志で作ったものではなく単なる自然現象だとしか考えられませんでした。しかし神様は、そのような私の事もご存知でちゃんと私の為に特別な導きを用意していてくださいました。

皆さんは偶然が3回立て続けに起こることがあると思いますか。

私への神様の救いの導きは、そのような起こり得ない3回の偶然を用いて、はじめて人知を超えた神の意志もしくは計画の存在を教えて下さいました。

1つ目はあるキリスト教系の病院への通っていた教会からの献金でした。その病院とは、わたしの妹がまだ幼くして亡くなった病院です。大阪にあるのですが、医療ミスにより亡くなった疑いがあった為、その病院の名前は家族の中では、暗黙のうちに禁句となっていましたが、突然礼拝中にその名前がわたしの耳に飛び込んできました。私は「何で名古屋の教会がわざわざ大阪のしかもわたしの家族に少なからず関係するこの病院に献金をするのか。」と驚きました。それから、今度は1週間後の礼拝で、実家のすぐ近くにある教会で牧師が礼拝奉仕をするという報告。「また何で、名古屋の教会の牧師がわざわざ大阪のしかもその中で私の実家に一番近い教会なのか。」と思いました。聞けばその牧師がまだ駆け出し頃(私が中学生の頃)、その教会で伝道師をしていた関係で、会堂新築の記念礼拝で説教をなさるということでした。

その教会は中学校に行く途中にあったので、もしかすると、その牧師とは、以前ニアミスをしていたのかもしれません。わたしは、だんだん偶然の連続が恐ろしくなってきました。

そして、極め付けの3つ目は、それからまた1週間後に起こりました。それは、その年のイースターに向けての受洗希望者の案内が週報に載っていたことです。それだけでは、普通はあまり驚くことではないのですが、わたしにとっては、非常にインパクトがありました。それはその年のイースターは私の誕生日と重なっていたのです。

その前からの2週続きの偶然と、このことは、すべて自分に個人的に関わっており、この3つのことはとても偶然とは思えず、自分の過去を振り返ると、神様は私が生まれる前から計画をもって、この時に至るまでのあらゆること全てをもって、救いに導いてくださっていたと信じることができ、今までの迷いを振り払いこのタイムリーな神様の導きに洗礼を決意しました。

聖書の中にも、詩篇139篇には、このように書いてあります。

「あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」

そして、ヨハネ15章16節には、「あなた方がわたしを選んだのではありません。わたしがあなた方を選び、任命したのです。」とも書いてあります。

このように、普通の人とは違い、非常に短期的に救われた私でしたので、人の罪やイエス様の十字架という意味では当時信仰はまだ薄かったように思います。

でも、わたしの場合、この受洗をきっかけにもっと神様を求めるようになり、そこから本当の信仰生活がはじまったような気がします。イエス様の事がどうしても信じられないと悩む日々もありましたが、信じられないではなく、祈って信じたい、信じようと思えば、神様は御手を差し伸べてくださいました。先ほどの虹の話にしても、今では、それができるプロセスは科学的には確かにそうかもしれないが、雨を降らすことも、その後に太陽を出すことも神様の意志により、簡単にできると思えば、虹を架けることも意志をもって契約のしるしとしてそれを作ることはできるんだと思えるようにかえられました。

 

月報2002年2月号より

「今思うと私の家族は…」

今思うと私の家族は人への思いやりという意味では決して豊かに与えることのできる家庭ではなかったように思います。やさしいけど無口な父を、気の強い母は頼りないと言い、私が高校生の頃に叔父の家からわが家に移ってきた祖母は、以前、自営ですが会社を経営していたこともあり、わが家の中心に居る人でした。

私は早く自立したかった思いもあり、学校を卒業するとすぐに仕事に就き、家から離れました。しかし、一人からの出発は苦労の連続です。私は次第に「最後に頼れるのは自分しかいない」と思うようになりました。イギリスへ留学、そして日本に帰ってきても再び東京で仕事に就き、前のように時々実家に帰るものの、家族とは離れて暮していました。

ちょうど大学の勉強を始めた頃から、ある人の勧めで教会へ行くようになりました。最初はやはり半信半疑、全く聖書の意味が不明でした。しかし大学で知り合う人達、そして私に教会を勧めてくれた人、教会の方々の不思議な導きで、私は次第に神様のことを考えるようになっていきました。

ある日いつものように西洋史のレポートの文献として選んだマルティン・ルターの宗教改革までを追った、ルターの伝記のような本の中でルターの「神の恩ちょうのみ」と言う言葉に出会いました。その意味自体わからないのにその時なぜか心にひっかかり、数日その言葉の意味を考えていました。しかし、ある日ふとその意味がわかったのです。と同時に今までずっと心の迷いの中にあった、神様の愛とは何か、がわかったのです。それは私にとって衝撃的な出来事でした。そして以前よりも熱心に聖書のみことばに耳を傾けていた時、神様は私にこの聖書のみことばを語ってくれました。

「わたしを強くして下さるかたによって、何ごとでもすることができる。」

(ピリピ 4章13節)

強がってきた今までの私に、神様は弱くてもいいことをずっと教えてくれていた、そしてそれが神様の恩ちょうから、無償の愛からであることに気付いたのです。神様を初めて信じ、受け入れた瞬間でした。教会を勧めてくれた人にそのことを話すと涙を流して喜んでくれました。そして数ヵ月後に洗礼を受け、私は今までの自分勝手さを悔い改めたのです。

あれから数年後、昨年の夏から今年にかけて、大きな困難にぶつかりました。暗く果てしなく長いトンネルを一人きりで歩いているような辛い時期でした。しかしそんな時、West Covina Japanese Christian Church牧師、そして義父である大川道雄先生がこの言葉をもって沈んでいた私を励まして下さいました。

「神は愛する者に試練を与える、それは愛する者が試練を通してでなければ訓練されることがないからです。」

愛する者ー私は神様に愛されている、そう思った瞬間喜びが、力が溢れました。その時、神様に全てを委ねることを学びました。そして数カ月後、神様は私達夫婦を再会させて下さいました。

今振り返るとその貴重な時間も、実は頑固な私の家族に、家族とは何か、そしてこれまであまり話せなかった神様や教会、教会の兄弟姉妹のことなどを語り会えた良い機会だったのだと、全ては神様の不思議な導きだったのだと思えるのです。

新しい命を得たこと、素晴らしい教会と多くの兄弟姉妹、そして夫とともに祈ることのできる日々を与えられたことに、またそれまでの不思議な神様の導きに感謝しつつ、これからも主の愛を、福音を語るものとして主の道を歩ませていただこうと思っています。

月報2002年1月号より

「International VIP Club との出会いと祝福」

1997年11月主の導きにより東京に仕事を与えられ12年振りに日本で働くことになり、単身帰国しました。長年の妻の祈りと教会の諸兄姉の祈りによって奇跡のように、1988年にアメリカで救われた私は日本での信仰生活は初めてでした。教会もJCCNJしか知らない私にはなかなか馴染めませんでした。与えられた職場でも、案の定クリスチャンは私だけ。時間の経過とともに信仰の火が消えて行く様に思え、寂しさをひしひしと感じておりました。その様な時に五賀兄弟(JCCNJのOB)を通してInternational VIP Clubを紹介されました。初めて出席したのは丸の内のパレスホテルでの朝食祈祷会でした。そこでInternational VIP Clubの創設者である佐々木弁護士、市村師を紹介頂きました。職場が有楽町で日比谷公園のそばでしたので、帝国ホテルの朝食祈祷会(毎週水曜日)を紹介され、それ以来再びアメリカに戻るまで、この由緒ある(同クラブの最初の集会が開かれた場所であったのです)帝国ホテルの朝食祈祷会へ出席する様に導かれました。そしてVIP Clubがイザヤ書43章4節の「私の目には、あなたは高価で尊い」(You are Very Important Person in God Eyes)からであり、その御言葉通り一人一人が神の目にはVIPであるとの理念で運営されていること、ビジネスマン、専門職の異業種交流の場であり、福音伝道の場であること、会員制クラブであり、どの宗派にもどの教会にも所属していないこと等が分かりました。

帝国ホテル朝食祈祷会を通してInternational VIP Club の色々な集会(昼食会、夕食会、オアシス祈り会等)を紹介され、お茶の水の夕方集会に出席したのをきっかけに、その「祝福の秘密」を知りたいと思うようになりました。「なんでこんなに祝福された集会なのだろう?」、「なぜ祝福されるのだろう?」と不思議に思い、全ての集会に出席して見ようとの思いが与えられました。およそ半年掛けて殆ど全ての集会に出て見たのですが、残念乍らその秘密はわかりません。そして出席していない集会は、オアシス木曜祈り会と月1回のオアシス徹夜祈り会だけ残りました。仕方なく(祈りが苦手だったので)木曜の夕方の祈り会へ出席しましたが、それでもまだ秘密はわからないままでした。そして最後に残った徹夜祈祷会へ、一大決心をして出席したのです。そして眠い目で朝を迎え、最後に全員で賛美している時に、その「祝福の秘密」がついに分かったのです!!そうです、「祈り」だったのです。決して渇くことのない「生命の泉」(ヨハネ4章14節)を体験した瞬間でした。

その後、多くの主にある祈りの友が与えられ、多くのビジネスマン・専門職の方々に生きて働かれるイエスさまの御業、「証」(あかし)を聞き、良き交わりをさせて頂き、正に日本の生活のオアシス(泉)となって、弱い私の信仰の火を絶やすことなく燃え続けさせて下さったのです。

VIP Clubでの奉仕(「証」、司会役など)も、いつも生きて今も働かれる「イエスさま」が支えてくださり、「語るべき言葉を教えよう」(出エジプト4章12節)と示してくださり、奉仕を終えて見ると何時も「私ではない、私には出来ない」と祝福で満たしてくださったのです。

会社のリストラにより、1999年4月末で突然解雇され、たった1年半で又仕事を失いました。本当に驚きましたが、祈りで支えられ、全く動揺することはありませんでした。秋の修養会までにアメリカに戻ることにし、それまでの5ヶ月をInternational VIP Clubの祈りの友に、祈りで支えられ励まされ、特にNew YorkでのVIP Club開催の為に祈って下さいました。最後のオアシス徹夜祈り会で、私の滞日2年程を振り返り乍ら、VIP Club との出会い、主の導きにより徹夜祈祷会の「生命の泉」(上述)の体験を「証」(あかし)する恵みを頂きました。

2000年2月初旬、大雪の朝、第1回目の朝食祈祷会(現在のJCCNJの朝食祈祷会のマンハッタン45丁目のマクドナルドにて)と、徹夜祈祷会(42丁目のGrand Central Station前の友達のOfficeにて)が同時にスタートすることが出来ました。

失業中であったので、「リストラ・ミニストリー」だね!と苦笑し乍らも、VIP Club の為、Mid Townで仕事が与えられる様に毎週、真剣に祈り続け、JCCNJの皆様の熱い祈りに支えられて、現在の仕事が与えられましたが、何故かNew Yorkの郊外の職場が与えられました。「すべてのことを働かせて益としてくださる」(ロマ書8章28節)主に期待しています。

現在のInternational VIP Club の集会は、毎週水曜日夕方集会(午後7時15分~午後9時)と毎週金曜日徹夜祈祷会(午後11時~翌午前5時)を左記住所にて開催中です。ともに「生命の泉」に預かりたいと願っています。主の御名を心から賛美します。

211 East 43rd Street, Suite 1201

New York, NY (43rd Street, Between 2nd and 3rd Avenue)

詳細は、http://vip-club.tv/ 又は、E-mail: katoh7316@worldnet.att.net まで。

月報2001年12月号より

「去る4月27日午前0時14分、我家に次男が誕生しました…」

去る4月27日午前0時14分、我家に次男が誕生しました。予定日より3週間以上早かったにも拘わらず、体重は2700グラムを超えて健康で、外に出る日を待ち切れずに生まれて来たようでした。

日本では妊娠のことを「おめでた」と言います。アメリカでも妊婦さんに対して必ず「Congratulations!」と声をかけるように、妊娠は喜ばしいこと、幸せなこととされています。私の場合も例外なく、親しい方はもちろん、外出先で出会う見ず知らずにも祝っていただきました。その度に笑顔を作った私ですが、その実、どうしても素直に「ありがとう」と言えずにいました。私にとって、二番目の子供を授かったことは全くのハプニング(思いがけない出来事)だったのです。

我家には8月でやっと2歳になった男の子がいます。こちらは待ち望んだ子供で、胎に宿ったと知った時の喜びといったらありません。しかし、初めての子育ては慣れないことばかりです。試行錯誤の連続で、喜びも吹き飛ぶほど忙しい毎日が続きました。それが1年過ぎてようやく一息つけるようになり、これから始まる楽しい毎日――遠くへのお出掛けに図画や工作――を思い描いていた矢先、ハプニングは起きました。

これまで、私は比較的思い通り生きてきたように思います。両親は私を自由に育ててくれた分、責任も自分で取るように教えてくれました。そのためか、何事にも慎重で、行動を起こす前には入念な準備を欠かさないようになりました。しかし、裏返して言えば、予想外の事態に弱く、一度計画が狂うと軌道を修正するのに時間がかかるのでした。今回の出来事はまさにそれでした。買った物を要らないからと返品するように胎の子を戻すわけにはいかず、自力でどうにもならない事態に腹立たしく悔しい思いが募りました。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」

(伝道者の書 3章11節)

私のあまりの落胆ぶりに、友人達はいろいろな方法で励まそうとし、クリスチャンの友人は聖書の中からふさわしい言葉を語ってくれました。しかし、私の心は頑なで、「そんな言葉は知っている。知っているけれども受け容れられないから辛いのよ」と心の中で叫んでいました。事実、「時にかなって…」の一節は、聖書の中で最も好きな箇所の一つです。クリスチャンになる前は優柔不断で後悔ばかりしていた私を前向きな人間に変えてくれた一節でした。ところが、今回ばかりはその言葉すら跳ね除けてしまうのです。やるせない気持ちを抱える日が続きました。

そんな私も、月が過ぎてお腹が大きくなるにつれ、中にいる子供に愛情が湧いてきました。胎動が始まると、まだ見ぬ子への愛おしさは一段と強まり、さすったり話しかけたりするようになりました。お腹の子供もそれに応えるようによく動き、胎動をあまり感じない日は、かえって心配なぐらいでした。

そして9ヶ月を過ぎたある日――それは突然やってきました。朝から腹痛を覚えていたのですが、すぐに治るだろうと考えて、上の子供を遊ばせたり買い物に出たりしていました。しかし痛みはなかなか消えず、夕方、あまりの痛さに、お医者様に電話をかけると、初めはのん気に構えていた先生も暫くして異常を察知し、「すぐに病院へ来て下さい」ということになりました。とは言え、主人はまだ会社ですし、入院の荷造りも整っていません。上の子供を寝かしつけてもおらず、準備は何ひとつ出来ていませんでした。

慌てて親しい友人のご主人に病院までの足をお願いし、荷造りを進め、上の子供には寒くない格好をさせて待ちました。その間、腹痛――今思えば立派な陣痛――は強まるばかりで、何度もうずくまって待ちました。迎えが来た時は立って歩けないほどの痛みに顔がゆがみ、支えられるようにして車の中に乗り込みました。

上の子供も車に乗せてもらい、「さあ、病院へ」というその瞬間です。主人がいつもは約1時間かかる道のりを30分ほどで帰ってきました。すぐに車を出して2台で病院へ向かい、私は分娩室へ、子供はそのまま友人宅へ連れて行って貰いました。いつもなら親から離れて大泣きする息子がこの時はおとなしく、初めてのお泊りを難なくこなしてくれたから不思議です。

一方、病室に入った私は主人の付き添いを得て安堵していました。ただ、腹痛が治まれば帰宅できると考えていたところへ、お医者様から「今晩中に産みましょう」と言われ狼狽しました。入院準備はおろか、心の準備もできていません。そこへきて、希望していた無痛分娩の注射はタイミングを逸して打ってもらえず、予定外の生みの苦しみを味わうことになりました。そんなことは知る由もなく、お腹の子供は準備万端だったと見え、力強く生まれてきました。

何一つ思い通りにならなかった出産ですが、今振り返ると、ひとつひとつのことが偶然とは思えないほど良く準備されていたのが分かります。友人の助けや主人の帰宅、長男の様子などなど――そこに、神様が用意して下さった完璧な御計画をはっきり見ることができるのです。

退院した後も、神様は良くして下さいました。家の中は、慌てて飛び出したまま出産に突入したわけですから、赤ん坊を迎える準備など整っているはずがありません。両親が助っ人に来てくれるのは1ヶ月も先のことです。しかし、オムツ替えや授乳の時間は容赦なくやってきて、てんてこ舞いの毎日がスタートしました。

周囲の知人や友人は、そんな私を見兼ねてか、上の子供を預かったり食事を差し入れて下さいました。この時ほど、周囲が差し伸べて下さる助けに感謝したことはありません。あの時期を乗り切れたのは、こうした支えのお陰だと心から感謝しています。

時には、こちらからお願いすることもありました。私にとって、他人に物事を頼むのは、とても勇気の要る行為でした。親元を離れて生活するようになってから、いつしか自分だけを頼みに生きてきました。もちろん、キリストに出会って頼れるお方を得たわけですが、やはり何かして貰うと感謝するより恐縮する気持ちが強いのでした。それが、今回を通じて、人様の好意を素直に受け取ることの大切さを知り、お返しには、自分のできることをできる範囲ですればいいという心持ちになりました。

ハプニング続きの次男の誕生は、安穏とクリスチャン生活を送っていた私の目を醒ましてくれる出来事でした。あれから5ヶ月――おかげ様で丸々と太った我が子は、愛くるしい笑顔で育児疲れを忘れさせてくれます。これからも、子供2人を育てていく上で、いろいろなハプニングに出遭うことでしょう。でも、どれも神様によって丹念に練り上げられ、準備されたものだと分かっているから心配ありません。

「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である」

箴言16章9節

月報2001年10月号より

「私がこのMaywoodの教会に初めて行ったのは…」

私がこのMaywoodの教会に初めて行ったのは5年くらい前のクリスマスの頃だったかと思います。

初めから、たくさんの人が暖かく声をかけて下さり、家庭集会にも送り迎えして下さったりした事を覚えています。初めは学生としてアメリカに来た私でしたが、こちらでの友人というと皆自分の事だけで精一杯。利用されたり寂しいがゆえ一緒にいる、きっと日本に戻ったりもう連絡をとりあう事もないだろうといううわべだけの友人でした。悩んだり傷ついたりして日本へのホームシックは募るばかりでした。それが教会では全く違う人達が集まっていて優しくされホッとする場所でありました。礼拝中も気持ちが穏やかになり自分と見詰め合ういい機会でもありました。

ただこの時、妊娠臨月で、あまり教会には足を運べずにいました。初めてのお産は緊急帝王切開。2泊で退院だったので無理がたたっていつまでもお腹の痛みはとれずベッドから一人で起き上がることも出来ず、夜中の授乳にも時間がかかりました。そんな時、教会の方々が状況を察して1日おきに主人と私の分の食事を運んで下さったのです。一番助けが欲しかった時に手を差し伸べて下さり、赤ちゃんを見て一緒に喜んで下さったことは有り難く忘れられませんでした。

それからは自然と教会に向かうようになりました。ただ洗礼を受けるまでには4年の月日が流れました。一番の理由は神を受け入れる、信じるということが心からできるまではと思っていたのと、聖書の意味もよくわからないしと壁をつくっていたのです。熱心な教会の方を見ては、私にはあそこまでいきついていない、まだまだと思っていたのです。

二人目の子を妊娠した時、教会を通じてお友達になったママ達がいました。その彼女らの誘いで友人宅に集まったのですが、一緒に悩みを分かち合ったり祈り合ったりするものでした。そこではどんな悩みもお互いがさらけ出し打ち明けられる場でした。それによって彼女らが信頼出来る何でも話せるかけがえのない友達へとかわっていきました。海外に住み子育てをしていく上でさらけ出せる友達、答えてくれる友達は、とても心の支えとなります。教会を通して知り合った人達は良い人ばかりで いつも私や家族の為に祈ってくれて手助けを行動で示してくれるのです。普通「何かあったら いつでも力になるから」そう声をかけてもらっても実際は頼みにくいものです。それをクリスチャンの友は察して動いてくれるのです。私の為に泣いて喜んでくれる人もいるのです。心から私の家族の為に一生懸命祈ってくれるのです。その心の純粋さ優しさをいつもどうしてかと知りたかったのですが わかったのは神様を信じ、愛されているから、人にも同様に出来るという事でした。

出産まであと2ヶ月と近づいた頃、恐怖や不安で一杯だった私は、このままではお産に良くないとわかっていても、どうしても前回のお産が思い出され打ち消すことは出来ませんでした。そんな時、主人が「洗礼を受けてみる?」と尋ねてくれて、その言葉はとても嬉しいものでした。その後は、すがる気持ちで助けて下さい、守って下さいという一心から洗礼を受けたのでした。

洗礼式は感動的でした。主人の家族の方も喜んで来て下さり、先生も気遣って英語で説教をして下さりました。その1ヶ月後いきなり強い陣痛が来ました。病院に行く前に痛みの中ふっと思い、口にしたのは、「主人のお父さんの形見のイエス様のネックレスを持ってきて。」そのネックレスを強くずっと握りしめたまま病院に着きました。その時から自然に不安や恐怖の気持ちよりも、絶対に自然分娩で元気な赤ちゃんを産もうという気持ちの方が強くなっていました。その結果祈りは通じました。

5月13日、母の日に素晴らしいギフトを授かる事ができました。安産でショーンは産まれました。

洗礼を受けて変わったことは、祈りは通じると知った事、感謝する気持ちが増えたこと、姉妹や兄弟と呼べる人がいるという事(この呼び方って家族が増えたようで親近感がわきますね)、そして心配事が出来てもきっと神様がいい方向にむかせてくれると身をゆだねるようになった事です。

ある方がこう教えてくれました。時に自分の欲しいものを与えられない事があるけれどそれには理由があって後になってわかる、貴方にいい方向に神は向けて下さったのだと。

今の楽しみはまだ一度も口にしたことのないあのワインとパン。どんな味なのでしょう?

「神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。」

ヨハネ第1の手紙 5章10節

月報2001年9月号より

「牧師の子供として育った私は…」

牧師の子供として育った私は、幼い頃から聖書や教会には慣れていました。しかし、小学校4年生の時牧師である父が亡くなってから、少しずつ教会との間に距離ができていて、気がつけば完全に教会から離れていました。でも、中学校時代の激しい部活動が終わると同時にまた教会に足を運ぶようになり、高校1年の時に洗礼を受けました。

この洗礼も今考えると周囲から急かされるように受けたので、本人は自分の罪の事、またイエス様の十字架の意味などまるでわからず、ただなんとなく受けてしまったのですが、それでもその時が明らかに信仰生活のスタートであったことは間違いないと思っています。

事実、その後、いろんな出来事を通して自分の罪が示されイエス様の十字架が私の為であったとわかってきました。

その中でも自分が一番忘れられないことを、今回は証しさせて頂きたいと思います。

毎年イースターが近づくと、胸が痛くなります。きっと一生忘れない様にと神様がこの時に定めてくださったのでしょうか。

今から6年前のことです。会社の先輩であった主人に、純粋に神様のことを伝えたいということから、だんだんとお付き合いが始まりました。私がしきりに教会へ行く事を勧めたので、半年ほど経ってから彼は教会に行き始め、その後まもなく、突然洗礼を受けると言い出しました。何でもその年のイースターが自分の誕生日と同じ日であるということ、またその他にもいくつか神様の導きを感じることがある、とのこと。

ふつうなら、クリスチャンになってほしいと願い祈っていた人が、洗礼を決心したら嬉しくて神様に感謝、感謝、なのですが、そのときの私は違っていました。ちょっとビックリ!!そんなに早く受けちゃって大丈夫なの?という気持ちと、まずい・・・その教会で受けちゃうの?でした。

というのも、私が育った教会が、あまりにも彼の教会に対するイメージとかけ離れていて、この教会では信仰を持って行く自信がないと言われ、でも、せっかく行こうという気になっているのだから今は彼の行きやすい教会へいけばいいと思い、別の教会へ行くことに賛成していました。神様はひとつ、どこへいっても同じなのだから、なんて物分かりのいいことを言いつつ、私のシナリオはこうでした。「もう少したったら自分の教会へ引っ張ればいい。」

まさかこんなに早く洗礼を受けると思っていなかったので、焦りました。そして、次の瞬間私は完全に頭が真っ白になりました。洗礼の仕方が「滴礼」であると聞いたからです。

洗礼には「浸礼」(全身水につける洗礼)と、「滴礼」(水滴を頭にかける洗礼)の2種類があります。NJ日本語教会でも滴礼でされていますし、今思えばほんとうにバカみたいな話です。でも、私は洗礼の仕方も浸礼が当然というような風潮の中で育ってきたので、「滴礼」で洗礼を受けるなんてことを受け入れることができませんでした。たくさん奉仕もして、知識もだんだん入ってきて、でもそういう事ばかりに心が奪われて一番大事な事が見えなくなっているとは思ってもいませんでした。

今年4月の洗礼式の時に牧師が言った事、「滴礼でも浸礼でも神様の前では同じです。」という言葉に今は全くそのとおりだと思っています。

とにかくそんなわけで、私はこの事を受け入れたら妥協することになる、一度妥協したらずっと尾をひく、と変に恐れて彼の洗礼を反対し始めました。当然、彼も戸惑いました。今までイエス様は救い主でね、なんて言っていた人が、これから洗礼を受けようという人に「浸礼」は良いけど、「滴礼」はダメとか訳の分からない事を言い出したからです。

2ヶ月ほど平行線の状態が続き、私たちは行き詰まりました。私自身も疲れ果ててしまいました。というのもだんだんと将来にかかわってくる問題もからんできて複雑になってきたからです。「イースター=洗礼式の日」がどんどん近づいていき、ある日彼はこう言いました。「祐子と別れたとしても僕は洗礼を受ける。これだけは変わらない。」私は愕然としました。ここまで言わせて私は何をしているんだろう…。

本当に情けなかったでした。本来なら、神様の素晴らしさを証しして彼を導いていく立場である私が、洗礼を反対し、しかも教会の伝統の違いによって出てくる問題の事で醜い言葉を吐いている・・・。

イエス様は十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られましたが、まさに私の事でした。

いよいよイースター前日、彼は洗礼を受けるというのに私はまだそのことをどう受け止めたら良いのかわからないままでした。

その当時、私は教会学校の先生をしていて、夜その準備をしていたときのことです。お話の準備をしていたのは、「種まきのたとえ話」のところでした。(マルコによる福音書4章3~9節)その話をイエス様が解き明かされたところにきたとき、私はハッとしました。

「種まきは御言をまくのである。道ばたに御言がまかれたとは、こういう人たちのことである。すなわち、御言を聞くと、すぐにサタンがきて、彼らの中にまかれた御言を奪って行くのである。」(同14~15節)

この「サタン」て、今の私????今蒔かれようとしているのに私が奪おうとしている…何てとんでもないことをしてしまったのか。もうその場で泣き崩れました。「神様、私を赦してください・・・。」

「私を赦してください。私は自分の教会が一番と思っていて他の教会を見下していました。神様の御計画に委ねず自分の考えで彼を導こうとしていました。そして何よりも自分が一番正しいと思っていました。本当に傲慢でした。あんなに神様の喜ばれることをしたいと思っていたのに、実際は悲しまれる事ばかりしている・・・。神様、今から、今からでも間にあうでしょうか、どうか明日まで、彼の心を守って下さって、祝福のうちに洗礼を受ける事ができますように。」と祈りました。それはもう交際相手としてではなく、ひとりの人の救いを願う、まさしく私の最初の純粋な気持ちに戻っていました。ひとりの人が洗礼を受けるという事をイエス様はどれほど願っておられ、また大きな喜びであるのか、洗礼の仕方なんてもはやどうでもいいことなんだ、ああ、神様は彼の洗礼を喜んでくださっている、ということがひしひしと感じられました。

そのあと彼に電話で今までの事をすべて謝り、明日の洗礼を心から祝福すると伝えました。

神様はいちばん大事な事を見せてくださいました。その後も結婚まで、また結婚してからも同じような問題にぶつかりましたが、クリスチャンの常識のようなものにとらわれそうになるときはいつも、この事のためにもイエス様は十字架にかかられたことを思い出して、イエス様は何を望んでおられるのか、イエス様だったらこんな時どうされるのかをまず初めに求めるように変えられました。

ほんの少しずつですが、でももう二度とあんな事をしてしまわないように神様がチェックしてくださっているのを感じます。

「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」

エペソ人への手紙2章14~16節

月報2001年8月号より

「ハドソン河を渡った」

沢山の方々から祝福をいただいて、この4月8日に錦織牧師から洗礼を受け、晴れてクリスチャンの道を歩むことになりました。でも、1940年生まれ、61才の私がなぜ今更クリスチャンになったのか?

サラリーマンならばいつかはやってくる定年の影がちらつきだしたのは、私の2度目のニューヨーク赴任に家内(磯村禮子)がジョインした1998年頃だったかもしれません。自分がサラリーマンでいる内は、常に仕事が自分の人生の座標軸、そして仕事上の達成感が自分の人間としての心の充足を与えてくれるものでした。そしてこの人生の舵取りをするのはいつも自分でした。俺が俺がの自己中心の世界を泳ぎ渡って、それなりの成功をしてきたつもりでいたのです。

でも、このままでいけば、数年後には定年を迎える、それこそ自分が人生の座標軸としてきた「会社の仕事」が消え、座標の軸を失うのかしらとおぼろげに気になりだしたある日曜日、クリスチャンの家内の運転手として、彼女をニュージャージー日本人キリスト教会に送り、勧められるままに礼拝堂に足を踏み入れました。

私は、日頃宗教とか信仰から全く縁遠い人間だと思ってきました。キリスト教も新興宗教も五十歩百歩で、その信者も浮世離れした人間味のない、なにかというと「アーメン」なる呪文を唱える薄気味の悪い連中だと思っていたのです。家内にもそのような世界に足を踏み入れて困ったものだ、せめて薄気味の悪い狂信者にはならないでほしいと内心願っていました。

でも、この教会で会った人達は私のイメージとはまったく違っていました。錦織牧師を始めとして、実に人間くさく、知性に溢れ、そして何よりも皆とても「いい人達、キモチのいい人達」だったのです。なにがここの人達をしてこんなに「いい人」にしているのだろうか?彼らがクリスチャンである以外に理由などあるわけがないことを悟るのにあまり時間はかかりませんでした。こうして私の運転手としての教会通いが始まりました。

余勢を駆って秋の修養会にも参加してしまいましたが、これは幼稚園生がいきなり大学に入ったみたいなもので、ヘビーな体験でした。また聖書勉強会に出ても、聖書の世界、特に諸々の奇跡はとても信じられないことばかりでした。でも科学者でもキリスト教徒は皆これを信じている以上、史実や科学との間になんらかの相関関係があるはずだと思いましたが納得がいく説明には出会えませんでした。その間、家内は一貫して、「あなたが信ずるのではなく、神様が信じさせてくださる。」と言い続けていました。そして、キリスト教が自分の新しい人生の座標軸になってくれるかもしれないという期待は、その間、薄くなったりまた盛り返したりしていましたが、このままでは自分がキリスト教徒になることには全く現実味が伴いませんでした。でも錦織先生には「理屈で分かるのではなく、ある日フッとそうなってるんですよね。」と仰しゃっていただきました。

それはどういう瞬間なのだろうと思いつつ、気がついてみるともう3年も教会通いを続けていたのです。 その内に「門前の小僧も習わぬ経を読み」出していることにも気がつきました。若い人達へのお説教の中に、キリスト教的フィロソフィが交じり出したのです。苦笑しつつも悪い気はしませんでした。教会の中でも古手の域に達してきました。しかし求道者の方々が次々と洗礼を受けられるのを目の当たりにしても焦る気はありませんでした。自分の座右の銘「自然体」で接していたからです。錦織牧師も気にかけて下さいました。「いかがですか?」「うーん、先生、近づいてはいるんですが、まだハドソン河のこっち側にいるような気がして。川幅は広いですよねぇ・・・。」

しかし21世紀が開けた最初の月に、事態は一変しました。人間ドックの結果が、前立腺癌に罹患していることを示していました。生体検査の結果も立派にクロでした。すぐに転移の状況がチェックされました。その命に関わる検査をうけるプロセスを経る間に、サラリーマン生活40年弱の間培った自分自身の忍耐心・克己心への自信がガラガラと瓦解しました。「悪い目が出れば死に直結」する癌に自分一人では耐え切れなかったのです。

その日は、病院で骨への転移を調べるべく、Bone Scan検査をやっていました。アヤしいところがあるということで、頭骨のScanを撮りなおしていた最中です。「頭の骨に転移??」知らず知らずのうちに、口の中で「神様助けて!」と叫んでいました。フト気がつくと、検査室の天井あたりに、中世の宗教画風の画が浮かび、神様ともイエス様ともあるいはマリヤ様、モナリザともつかないお顔が私に向かって微笑んでいるような気がしました。「メトロポリタンミュージアムで見た画? それとも神様が?? そんなワケは・・・」

検査結果はシロでした。転移はありませんでした。そして、後顧の憂いなく全摘手術に向かうことができたのです。

手術を控えた聖日の前日に牧師宅に伺い、信仰告白をし受洗希望をお伝えしました。俺が俺がでやってきた人生は過信に満ちた傲慢極まりないものだったのです。これを悔い改め、神の愛を受け入れ、神様を信ずる人生に導いて戴きました。以前であれば、なんとか歯を食いしばって耐えようとしたに違いありません。でも神様はあの微笑みをもって私の人生の座標軸を変えてくださいました。

手術も成功でした。教会の皆様のお祈りをいただき、そして神様が徹底的に守ってくださいました。この世に2人といない素晴らしい日本人の医師のお世話になり、その Associateの飛切り腕の良い外科部長に執刀をうけ、摘出した前立腺からは癌が転移寸前の状況にあってギリギリ手術が間に合ったことが分かり、そして集中治療室での痛みとの闘いの中で頭のなかに鳴り響く「ハレルヤ、ハレルヤ・・・」の歌声。何なんだこれは?

そう、もうハドソン河を渡っていたのです。

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

詩篇 23篇1節

月報2001年7月号より

「1998年のクリスマスは…」

1998年のクリスマスは私にとって特別なものでした。それは私が本当の意味でのクリスマスを知って迎える初めての年だったからです。伝道の書3章に「全てのワザには時がある。神の為される事は皆その時にかなって美しい」とあります。私が正にこの御言葉のとおりに「今」がイエス様が叩いておられる私の心の扉を開ける時だと確信した時のことを告白したいと思います。

聖書を学び教会に通うようになったのは、NJからアトランタへ引っ越してからでした。でも、それよりずっと以前から関心は持っていました。というのも、私の父と妹の一人がクリスチャンで教会は身近な存在だったのです。ただ、父も妹も自分の信仰や考えについて家族と話すことが無く、私からたずねる事もありませんでした。(特に父は私が生まれる前から教会から離れていたので)近くて遠いものでした。

父は私が結婚してすぐに急な病であっという間に亡くなってしまいました。父が何を考えどんな信仰を持っていたのか聞いてみたいと思った時にはすでに天国に召されていたのが残念ですが、それは私が神様の元に召されて父に再会した時の楽しみだと考えています。

結婚し駐在員の家族としてアメリカに来た1990年からの6年間のNJでの暮しは毎日が忙しく楽しいものでしたが時々、何か虚しさのようなものを感じていました。一日一日は充実しているようでも無意味に思われ、どんなにたくさんの友人がいても心と心の結びつきまでは求めようも無かったのです。

1996年にアトランタに転勤が決まった時,新しい土地で心の満たされた新しい暮しがしたいと心から願いました。その時はじめて自分の中に「教会に行きたい」と言う思いがわいてきました。そしてそれに応えるかのように、すぐに教会に導かれたのです。それは教会で開かれているInternational English Classを通してでした。毎週授業の後に開かれる日本人のBible Studyに出席しました。聖書を読み、初めてイエス様が救い主であり、私の罪の為に十字架にかかって下さった事を知り、少しずつ信じるようになりました。何よりうれしかったのは、イエス様がいつも側にいて、共に人生を歩んでくださる方だと知った事です。そして他の人にもこの福音を伝えたいと考えるようになり、最初は隠れるようにして通っていたBible Studyに次々に人を誘うように変えられました。心の痛みを分かち合える友も与えられました。その後、周りの方達の祈ると導きにより、1998年のクリスマスに洗礼を受けました。

今までの人生の中でもっと早く神様の事を知り信じる時があったのに、と思ったこともありましたが、私に与えられた「時」はその時だったのです。神様が私の為に用意して下さった「時」と「道」をよく見て歩んでいきたいと思います。

5月23日より我が家で、錦織先生に「聖書を読む会」を開いていただく事になりました。私自身がBible Studyを通してイエス様に出会えたように、まだイエス様を知らない人たちに福音を伝える場として用いられるよう願っています。どうか、お祈りください。またご興味のある方、ぜひおいでください。お待ちしています。

月報2001年6月号より