「牧師の子供として育った私は…」

牧師の子供として育った私は、幼い頃から聖書や教会には慣れていました。しかし、小学校4年生の時牧師である父が亡くなってから、少しずつ教会との間に距離ができていて、気がつけば完全に教会から離れていました。でも、中学校時代の激しい部活動が終わると同時にまた教会に足を運ぶようになり、高校1年の時に洗礼を受けました。

この洗礼も今考えると周囲から急かされるように受けたので、本人は自分の罪の事、またイエス様の十字架の意味などまるでわからず、ただなんとなく受けてしまったのですが、それでもその時が明らかに信仰生活のスタートであったことは間違いないと思っています。

事実、その後、いろんな出来事を通して自分の罪が示されイエス様の十字架が私の為であったとわかってきました。

その中でも自分が一番忘れられないことを、今回は証しさせて頂きたいと思います。

毎年イースターが近づくと、胸が痛くなります。きっと一生忘れない様にと神様がこの時に定めてくださったのでしょうか。

今から6年前のことです。会社の先輩であった主人に、純粋に神様のことを伝えたいということから、だんだんとお付き合いが始まりました。私がしきりに教会へ行く事を勧めたので、半年ほど経ってから彼は教会に行き始め、その後まもなく、突然洗礼を受けると言い出しました。何でもその年のイースターが自分の誕生日と同じ日であるということ、またその他にもいくつか神様の導きを感じることがある、とのこと。

ふつうなら、クリスチャンになってほしいと願い祈っていた人が、洗礼を決心したら嬉しくて神様に感謝、感謝、なのですが、そのときの私は違っていました。ちょっとビックリ!!そんなに早く受けちゃって大丈夫なの?という気持ちと、まずい・・・その教会で受けちゃうの?でした。

というのも、私が育った教会が、あまりにも彼の教会に対するイメージとかけ離れていて、この教会では信仰を持って行く自信がないと言われ、でも、せっかく行こうという気になっているのだから今は彼の行きやすい教会へいけばいいと思い、別の教会へ行くことに賛成していました。神様はひとつ、どこへいっても同じなのだから、なんて物分かりのいいことを言いつつ、私のシナリオはこうでした。「もう少したったら自分の教会へ引っ張ればいい。」

まさかこんなに早く洗礼を受けると思っていなかったので、焦りました。そして、次の瞬間私は完全に頭が真っ白になりました。洗礼の仕方が「滴礼」であると聞いたからです。

洗礼には「浸礼」(全身水につける洗礼)と、「滴礼」(水滴を頭にかける洗礼)の2種類があります。NJ日本語教会でも滴礼でされていますし、今思えばほんとうにバカみたいな話です。でも、私は洗礼の仕方も浸礼が当然というような風潮の中で育ってきたので、「滴礼」で洗礼を受けるなんてことを受け入れることができませんでした。たくさん奉仕もして、知識もだんだん入ってきて、でもそういう事ばかりに心が奪われて一番大事な事が見えなくなっているとは思ってもいませんでした。

今年4月の洗礼式の時に牧師が言った事、「滴礼でも浸礼でも神様の前では同じです。」という言葉に今は全くそのとおりだと思っています。

とにかくそんなわけで、私はこの事を受け入れたら妥協することになる、一度妥協したらずっと尾をひく、と変に恐れて彼の洗礼を反対し始めました。当然、彼も戸惑いました。今までイエス様は救い主でね、なんて言っていた人が、これから洗礼を受けようという人に「浸礼」は良いけど、「滴礼」はダメとか訳の分からない事を言い出したからです。

2ヶ月ほど平行線の状態が続き、私たちは行き詰まりました。私自身も疲れ果ててしまいました。というのもだんだんと将来にかかわってくる問題もからんできて複雑になってきたからです。「イースター=洗礼式の日」がどんどん近づいていき、ある日彼はこう言いました。「祐子と別れたとしても僕は洗礼を受ける。これだけは変わらない。」私は愕然としました。ここまで言わせて私は何をしているんだろう…。

本当に情けなかったでした。本来なら、神様の素晴らしさを証しして彼を導いていく立場である私が、洗礼を反対し、しかも教会の伝統の違いによって出てくる問題の事で醜い言葉を吐いている・・・。

イエス様は十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られましたが、まさに私の事でした。

いよいよイースター前日、彼は洗礼を受けるというのに私はまだそのことをどう受け止めたら良いのかわからないままでした。

その当時、私は教会学校の先生をしていて、夜その準備をしていたときのことです。お話の準備をしていたのは、「種まきのたとえ話」のところでした。(マルコによる福音書4章3~9節)その話をイエス様が解き明かされたところにきたとき、私はハッとしました。

「種まきは御言をまくのである。道ばたに御言がまかれたとは、こういう人たちのことである。すなわち、御言を聞くと、すぐにサタンがきて、彼らの中にまかれた御言を奪って行くのである。」(同14~15節)

この「サタン」て、今の私????今蒔かれようとしているのに私が奪おうとしている…何てとんでもないことをしてしまったのか。もうその場で泣き崩れました。「神様、私を赦してください・・・。」

「私を赦してください。私は自分の教会が一番と思っていて他の教会を見下していました。神様の御計画に委ねず自分の考えで彼を導こうとしていました。そして何よりも自分が一番正しいと思っていました。本当に傲慢でした。あんなに神様の喜ばれることをしたいと思っていたのに、実際は悲しまれる事ばかりしている・・・。神様、今から、今からでも間にあうでしょうか、どうか明日まで、彼の心を守って下さって、祝福のうちに洗礼を受ける事ができますように。」と祈りました。それはもう交際相手としてではなく、ひとりの人の救いを願う、まさしく私の最初の純粋な気持ちに戻っていました。ひとりの人が洗礼を受けるという事をイエス様はどれほど願っておられ、また大きな喜びであるのか、洗礼の仕方なんてもはやどうでもいいことなんだ、ああ、神様は彼の洗礼を喜んでくださっている、ということがひしひしと感じられました。

そのあと彼に電話で今までの事をすべて謝り、明日の洗礼を心から祝福すると伝えました。

神様はいちばん大事な事を見せてくださいました。その後も結婚まで、また結婚してからも同じような問題にぶつかりましたが、クリスチャンの常識のようなものにとらわれそうになるときはいつも、この事のためにもイエス様は十字架にかかられたことを思い出して、イエス様は何を望んでおられるのか、イエス様だったらこんな時どうされるのかをまず初めに求めるように変えられました。

ほんの少しずつですが、でももう二度とあんな事をしてしまわないように神様がチェックしてくださっているのを感じます。

「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」

エペソ人への手紙2章14~16節

月報2001年8月号より

「ハドソン河を渡った」

沢山の方々から祝福をいただいて、この4月8日に錦織牧師から洗礼を受け、晴れてクリスチャンの道を歩むことになりました。でも、1940年生まれ、61才の私がなぜ今更クリスチャンになったのか?

サラリーマンならばいつかはやってくる定年の影がちらつきだしたのは、私の2度目のニューヨーク赴任に家内(磯村禮子)がジョインした1998年頃だったかもしれません。自分がサラリーマンでいる内は、常に仕事が自分の人生の座標軸、そして仕事上の達成感が自分の人間としての心の充足を与えてくれるものでした。そしてこの人生の舵取りをするのはいつも自分でした。俺が俺がの自己中心の世界を泳ぎ渡って、それなりの成功をしてきたつもりでいたのです。

でも、このままでいけば、数年後には定年を迎える、それこそ自分が人生の座標軸としてきた「会社の仕事」が消え、座標の軸を失うのかしらとおぼろげに気になりだしたある日曜日、クリスチャンの家内の運転手として、彼女をニュージャージー日本人キリスト教会に送り、勧められるままに礼拝堂に足を踏み入れました。

私は、日頃宗教とか信仰から全く縁遠い人間だと思ってきました。キリスト教も新興宗教も五十歩百歩で、その信者も浮世離れした人間味のない、なにかというと「アーメン」なる呪文を唱える薄気味の悪い連中だと思っていたのです。家内にもそのような世界に足を踏み入れて困ったものだ、せめて薄気味の悪い狂信者にはならないでほしいと内心願っていました。

でも、この教会で会った人達は私のイメージとはまったく違っていました。錦織牧師を始めとして、実に人間くさく、知性に溢れ、そして何よりも皆とても「いい人達、キモチのいい人達」だったのです。なにがここの人達をしてこんなに「いい人」にしているのだろうか?彼らがクリスチャンである以外に理由などあるわけがないことを悟るのにあまり時間はかかりませんでした。こうして私の運転手としての教会通いが始まりました。

余勢を駆って秋の修養会にも参加してしまいましたが、これは幼稚園生がいきなり大学に入ったみたいなもので、ヘビーな体験でした。また聖書勉強会に出ても、聖書の世界、特に諸々の奇跡はとても信じられないことばかりでした。でも科学者でもキリスト教徒は皆これを信じている以上、史実や科学との間になんらかの相関関係があるはずだと思いましたが納得がいく説明には出会えませんでした。その間、家内は一貫して、「あなたが信ずるのではなく、神様が信じさせてくださる。」と言い続けていました。そして、キリスト教が自分の新しい人生の座標軸になってくれるかもしれないという期待は、その間、薄くなったりまた盛り返したりしていましたが、このままでは自分がキリスト教徒になることには全く現実味が伴いませんでした。でも錦織先生には「理屈で分かるのではなく、ある日フッとそうなってるんですよね。」と仰しゃっていただきました。

それはどういう瞬間なのだろうと思いつつ、気がついてみるともう3年も教会通いを続けていたのです。 その内に「門前の小僧も習わぬ経を読み」出していることにも気がつきました。若い人達へのお説教の中に、キリスト教的フィロソフィが交じり出したのです。苦笑しつつも悪い気はしませんでした。教会の中でも古手の域に達してきました。しかし求道者の方々が次々と洗礼を受けられるのを目の当たりにしても焦る気はありませんでした。自分の座右の銘「自然体」で接していたからです。錦織牧師も気にかけて下さいました。「いかがですか?」「うーん、先生、近づいてはいるんですが、まだハドソン河のこっち側にいるような気がして。川幅は広いですよねぇ・・・。」

しかし21世紀が開けた最初の月に、事態は一変しました。人間ドックの結果が、前立腺癌に罹患していることを示していました。生体検査の結果も立派にクロでした。すぐに転移の状況がチェックされました。その命に関わる検査をうけるプロセスを経る間に、サラリーマン生活40年弱の間培った自分自身の忍耐心・克己心への自信がガラガラと瓦解しました。「悪い目が出れば死に直結」する癌に自分一人では耐え切れなかったのです。

その日は、病院で骨への転移を調べるべく、Bone Scan検査をやっていました。アヤしいところがあるということで、頭骨のScanを撮りなおしていた最中です。「頭の骨に転移??」知らず知らずのうちに、口の中で「神様助けて!」と叫んでいました。フト気がつくと、検査室の天井あたりに、中世の宗教画風の画が浮かび、神様ともイエス様ともあるいはマリヤ様、モナリザともつかないお顔が私に向かって微笑んでいるような気がしました。「メトロポリタンミュージアムで見た画? それとも神様が?? そんなワケは・・・」

検査結果はシロでした。転移はありませんでした。そして、後顧の憂いなく全摘手術に向かうことができたのです。

手術を控えた聖日の前日に牧師宅に伺い、信仰告白をし受洗希望をお伝えしました。俺が俺がでやってきた人生は過信に満ちた傲慢極まりないものだったのです。これを悔い改め、神の愛を受け入れ、神様を信ずる人生に導いて戴きました。以前であれば、なんとか歯を食いしばって耐えようとしたに違いありません。でも神様はあの微笑みをもって私の人生の座標軸を変えてくださいました。

手術も成功でした。教会の皆様のお祈りをいただき、そして神様が徹底的に守ってくださいました。この世に2人といない素晴らしい日本人の医師のお世話になり、その Associateの飛切り腕の良い外科部長に執刀をうけ、摘出した前立腺からは癌が転移寸前の状況にあってギリギリ手術が間に合ったことが分かり、そして集中治療室での痛みとの闘いの中で頭のなかに鳴り響く「ハレルヤ、ハレルヤ・・・」の歌声。何なんだこれは?

そう、もうハドソン河を渡っていたのです。

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

詩篇 23篇1節

月報2001年7月号より

「1998年のクリスマスは…」

1998年のクリスマスは私にとって特別なものでした。それは私が本当の意味でのクリスマスを知って迎える初めての年だったからです。伝道の書3章に「全てのワザには時がある。神の為される事は皆その時にかなって美しい」とあります。私が正にこの御言葉のとおりに「今」がイエス様が叩いておられる私の心の扉を開ける時だと確信した時のことを告白したいと思います。

聖書を学び教会に通うようになったのは、NJからアトランタへ引っ越してからでした。でも、それよりずっと以前から関心は持っていました。というのも、私の父と妹の一人がクリスチャンで教会は身近な存在だったのです。ただ、父も妹も自分の信仰や考えについて家族と話すことが無く、私からたずねる事もありませんでした。(特に父は私が生まれる前から教会から離れていたので)近くて遠いものでした。

父は私が結婚してすぐに急な病であっという間に亡くなってしまいました。父が何を考えどんな信仰を持っていたのか聞いてみたいと思った時にはすでに天国に召されていたのが残念ですが、それは私が神様の元に召されて父に再会した時の楽しみだと考えています。

結婚し駐在員の家族としてアメリカに来た1990年からの6年間のNJでの暮しは毎日が忙しく楽しいものでしたが時々、何か虚しさのようなものを感じていました。一日一日は充実しているようでも無意味に思われ、どんなにたくさんの友人がいても心と心の結びつきまでは求めようも無かったのです。

1996年にアトランタに転勤が決まった時,新しい土地で心の満たされた新しい暮しがしたいと心から願いました。その時はじめて自分の中に「教会に行きたい」と言う思いがわいてきました。そしてそれに応えるかのように、すぐに教会に導かれたのです。それは教会で開かれているInternational English Classを通してでした。毎週授業の後に開かれる日本人のBible Studyに出席しました。聖書を読み、初めてイエス様が救い主であり、私の罪の為に十字架にかかって下さった事を知り、少しずつ信じるようになりました。何よりうれしかったのは、イエス様がいつも側にいて、共に人生を歩んでくださる方だと知った事です。そして他の人にもこの福音を伝えたいと考えるようになり、最初は隠れるようにして通っていたBible Studyに次々に人を誘うように変えられました。心の痛みを分かち合える友も与えられました。その後、周りの方達の祈ると導きにより、1998年のクリスマスに洗礼を受けました。

今までの人生の中でもっと早く神様の事を知り信じる時があったのに、と思ったこともありましたが、私に与えられた「時」はその時だったのです。神様が私の為に用意して下さった「時」と「道」をよく見て歩んでいきたいと思います。

5月23日より我が家で、錦織先生に「聖書を読む会」を開いていただく事になりました。私自身がBible Studyを通してイエス様に出会えたように、まだイエス様を知らない人たちに福音を伝える場として用いられるよう願っています。どうか、お祈りください。またご興味のある方、ぜひおいでください。お待ちしています。

月報2001年6月号より

「私は山形県新庄市という小さな田舎町で…」

私は山形県新庄市という小さな田舎町で生まれ、そこで中学まで過ごしました。私が通った幼稚園は確か教会が運営していた幼稚園で、そこで讃美歌を歌ったことを覚えています。特に子供の頃にクリスマスの季節に歌った「きよしこの夜」は、その当時意味はよく解っていなかったと思いますが、とても美しい響きをもった歌だなあと感じていたことを覚えています。

その後数十年、これといった大過もなく時が過ぎ去り、教会・宗教からは全く遠ざかった生活をしていました。それでも1991年8月に塩見兄姉の家庭集会に誘われた時は、何かを求めるような気持ちで期待して出席したことを記憶しています。又その時御会いした教会員の方々は皆いつも笑顔で接して下さり、自分とは違った世界に住んでいるような印象を受けました。その当時の先生は正木牧師で、先生からはいつも素晴らしい説教を聞かせて頂きました。この会に出席するようになってから、祈ることの意味、大事さと罪の悔い改めについて考えるようになりました。しかし一方では、自分が犯した罪を神様に告白し悔い改めをするだけでそんなに簡単に神様は私の罪を赦してくれるのだろうかとの疑問ももっておりました. そうは思いながらもいずれは神様の前で真実を伝え赦しを請う必要があるとは考えておりましが、それを何時行うかは全く私の頭の中にはありませんでした。

私はその年の11月にニユーヨーク・マラソンに参加が決まっておりトレーニング中でした。そのことを知った正木先生は、レースの前の週に皆さんと一緒に私が無事に完走出来るようお祈りをして下さいました。初めてのフルマラソンへの挑戦で不安がありましたので、このお祈りは本当にありがたく思いました。おかげで無事完走することができましたが、今思えば、自分の後で神様が私を支えて下さっていたのでしょう。

その後石賀先生、池原先生と牧師先生が変わったにも拘らず、私の身辺には大きな変化もなく、相変わらず家庭集会にだけは都合の許す限り出席していましたが、教会にはほとんど行きませんでした。そんな私の心にもある出来事をきっかけに変化が現れ、それが自分でもはっきりと解かったので一日も早く罪の悔い改めを行い主を受け入れたい旨錦織先生にご相談した結果 先生の温かいご協力、ご指導のもと待望の洗礼を1999年12月に受けることができました。これも神様のご計画の中に有ったのでしょうか。こんな罪深い私をも受け入れて下さった神様に深く感謝しております。又此れ迄自分で全てを切り開いて生きて来たような錯覚をしておりましたが、イエス キリストを我が主として受け入れて以来、背伸びをして生きる必要もなくなり本当に感謝です。まだまだ未熟なクリスチャンですが聖書を通じて神様と会話ができることに期待しております。

「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」

(詩篇119編105節)

主の御名を賛美し感謝して。

月報2001年5月号より

「私とキリスト教の最初の出会いは…」

私とキリスト教の最初の出会いは大学に入学した年です。それは私が自ら求めたものではなく、大学がカナダのミッション系だったことによることからです。今考えますと、その時神様は私にイエス様への信仰の扉を開けてくださったと思います。

大学時代、聖書の授業はありましたが、残念なことに私はまったく聴く耳を持っていませんでしたので、内容は何も覚えていません。でも今使用している讃美歌はその時に買い求めたものです。

卒業後、私は教会付属の幼稚園に勤務しました。子供たちが登園する前の毎朝のお祈りと毎日曜日のお礼拝は仕事の一部でしたが、キリスト教を理解していない私には大変なことでした。牧師先生のお説教は心地良い子守歌でした。でも今は何というもったいないことをしたという気持ちと恥ずかしさでいっぱいです。

その後幼稚園を退職して、あるきっかけで美術の仕事に就くようになったと同時に、キリスト教からはまったく遠ざかるようになりました。当時日本はバブルの最盛期。その中で私は同業の美術関係の男性と知り合い結婚をしました。彼の強い希望もあり、本当は家庭に収まりたかった私の気持ちに反しながらも、一生懸命に働きました。バブルの時期でしたから、美術業界は大変な勢いで潤っていました。私も片隅でそのあおりを受けて、彼の出張についてNYのアートオークションに参加したり、ブランド物を着飾り、高級レストランで食事をしたりする毎日でした。外見は誰から見ても幸せそうな夫婦でしたが、中身はまったく違っていました。そして次第に私の心にはぽっかりと穴があいていきました。

どの位仕事をしても、おしゃれをしても、おいしい食事をしても、心はちっとも満たされない日々が続きました。たまらない虚しさと寂しさを感じていました。「私は一体何のために生きているのか。」「人間とは一体何なのか。」を考えるようになり、毎日が辛く、苦しく、悲しく、死を考えることもありました。

その後、何年か苦しんだ末に離婚をしました。その過去を引きずりながらも仕事を続けているうちに、NYにやって来ました。しかし仕事はそう簡単には上手く行くはずもなく、その中で多くのことを考えさせられました。私は心から人に感謝の気持ちを持ったことがなく、自己中心極まりなく、放漫な思いに満たされていたと。

その後、試行錯誤の中で、やっとこの地で本来の私の職に就くことができ、友人に誘われ二、三の教会にも行くようになった後に、こちらの教会を紹介されました。洗礼を受けることは考えていませんでしたが、聖日礼拝のお説教に毎回感動を覚え、錦織先生より勉強を受けさせていただくうちに、人間は生まれながらにして罪人であることを知り、そのことについて深く考えさせられました。そして今まで私が犯してきた多くの罪があれもこれもと思い起こされて、反省の毎日でした。更にイエス様が私たちの罪のために十字架にかかってくださったことを知った時に、こんなに罪深い私でもクリスチャンになれるのかという迷いはありましたが、何故か自然に洗礼を受ける決心がついたと思います。

またこのような私でも神様は愛してくださる。そして私たちはこの地では旅人であるということを学んだ時、がんじがらめだった気持ちが軽くなり、癒されていくのを感じました。

神様は私に苦い経験を通して、その存在を気付かせてくださったと確信しています。今過去を振り返り、あの辛く苦しかった時は、私にとってはなくてはならない必要な時であったとつくづく思い知らされます。神様はすべて道を作ってくださったのです。

「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試練に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。」

(ヤコブの手紙 第1章2節)

どのような時でも神様は私たちと共にいてくださることに感謝します。

最後に、私を愛情いっぱい育ててくれた日本にいる両親をいつも守ってくださっている神様に心より感謝致します。そして、これからの一歩一歩をイエス様の愛の御手に導かれて歩んで行きたいと思います。

月報2001年4月号より

「私が最初に教会というものに…」

私が最初に教会というものに足を踏み入れたのは小学校の2年生くらいの頃だった。動機はかなり単純で、友達が「お菓子がもらえるところだよ。」と誘ってくれたからである。その頃から食べ物には弱かったらしい。どのくらい教会の日曜学校に通ったのだろうか、神様を信じる、信じないの意識が出る前に、日本人特有の無信仰に近い仏教の家族達の反対でなんとなく行かないようになってしまった。しかし、若い脳みその記憶力とはすごいもので、あの頃覚えたお祈りの文句は忘れることなく、意味もわからずそのときから今まで毎日祈っている(さすがに今は意味くらいわかる)。

その後、教会との縁などさっぱりなくなってしまった私が、2度目に教会に通うことになったのは1997年にサウスキャロライナに住むことになったときである。ここでの動機も全く不純で、当時の彼氏が宗教の研究に興味を持ち、教会に行っていたため(彼もクリスチャンではない)一緒についていっていた、というものだった。神様の話を聞くより、彼の隣に座る方がずっと大事というとんでもない奴だった。しかし、土地柄か、人々のあまりの熱心さに私はかえって冷め切ってしまい、「私は一生クリスチャンになることなどないから、そんなに勧めても無駄だよ。」と心の中で思っていたもんである。

そしてサウスキャロライナを離れニューヨークへ。これでもう教会とはおさらばと思った矢先、どうしてか私のまわりにはクリスチャンが多く、それもなぜか私は彼らの標的になってしまうらしい。ここでも、クリスチャンの友人たちの熱心な教えに拒絶反応を示し、ますます「キリスト教ってカルト?」という今考えると大変失礼極まりない印象を持ってしまった。

その後1年のアメリカ生活を終え、日本へ帰国。夢中で過ごしたアメリカでの生活から、日本の落ち着いた生活に戻ったが、ここで私の心には今まで感じたこともない虚無感というか、なんともいえない不安や孤独が訪れたのだった。私は自分で言うのもなんだが、普通の家庭で愛されて育ち、成績も優秀、行動力もあり、それまでの人生で挫折と呼べるようなものは経験せず、有名大学を卒業し、難なく希望した国家公務員にも合格した。その上、職に就いて1年目で勝手に出した奨学金に合格し、特例として一年仕事を離れさせてもらった。帰国後も多少のやっかみがあるかと思えば、いい人ばかりに恵まれ、希望のセクションに配属され、仕事に行くのが楽しくてしょうがない毎日をおくっていた。お金も職もまわりからの愛情もすべて手に入れた、他人から見たら幸せこの上ない人間だったろう。でも、そんな私の心の中はどうやっても埋められない不満足感、いくら幸せをもらってももっと欲しくてしょうがないという説明できない悲しみが渦まいていた。

そんなとき、仲の良いのおばさんが家庭集会を開いているというので、ちょっとだけのぞいてみることにした。数人で聖書を読んでいると、今まで心に足りなかった何かがちょっとだけ埋まったような気がした。数回参加しているうちに、「ふーん、聖書っていいこと言うじゃん。」という気持ちが出てきた。

そして、日本に帰って2年後、またアメリカに戻ることになった。アメリカに来る直前、小学校のころ通った教会の先生に、なんとなーく挨拶する気になり、20年ぶりくらいに教会のドアをノックしたのである。「やっぱり神様は奇跡を起こしてくださる方だ!」先生は喜んでくれたばかりか、なんと私が小学生のころ教会に来なくなってからそのときまで、私がいつか教会に戻ってくることを祈りつづけていたということだった。そのときの私の感動といったら。「こんな私をここまで思ってくれるなんて、クリスチャンとその人たちの信じる神様ってただ者じゃあないかも・・・」

そうやって神様へ気持ちが傾きかけたまま、なつかしいニューヨークへ戻り、それならもうちょっと聖書を勉強してみようとしばらく近所で行われていたバイブルスタディーに参加していた。しかし、そのリーダーがテキサスへ引っ越すということで、そのバイブルスタディーは終了になり、聖書に触れる機会がなくなろうとしていたころ、錦織先生から直接連絡をいただいたのである。実家の方の教会の先生が錦織先生の神学校時代の大先輩だったという縁である。そしてこの教会でやっぱり神様についていきたいという気持ちが強くなり、昨年の12月に受洗させていただいたわけである。私の受洗は、今までなんとか私を神様の道に、と試みて失敗に終ったクリスチャンの友人たちやサウスキャロライナの先生方には寝耳に水だったらしく、「奇跡だ」の声が方々から聞こえた。でもそんなに奇跡、奇跡って私はそれほど露骨に拒絶反応を示していたのだろうか?

そんなわけで、20年も前から始まり、たくさんの人の縁に恵まれてクリスチャンとなった長い道のりにはとっても感慨深いものがある。疑問、疑問を乗り越えてクリスチャンになったのだが、いまだに疑問だらけで、時折その疑問が大爆発し、とても数ヶ月前涙を流して受洗した人とは思えない暴言を吐いて、錦織先生始め、まわりのクリスチャンフレンドに迷惑をかけている。そんな私でも神様は愛してくださるのだから本当にありがたい。これからも、少しでも神様に近くなれるように、神様を心から信頼していけるようにお守りください。

月報2001年3月号より

「神様に捉えられ」

12月初めに行われた洗礼式は印象深いものでした。ともに喜びにあづかりつつ、自分の洗礼式のことを思い出していました。また、ひとつひとつのキャンドルに灯りをともすことから始められたクリスマス礼拝では、心静められ、深い祈りへと導かれて恵みの時を過ごしました。主イエスキリストの誕生、罪の自分が主の十字架のあがないによって赦され、生まれ変わる死と再生の神の奥義をあらためて深く味わいました。今こうしてアメリカの地においても、礼拝をともにする信仰の友に支えられ、平安の内に暮らせる幸いを心から感謝しています。

15年前、私は家族とともに初めての海外生活をブラジル・サンパウロで送っていました。日本から遠く離れ、異文化の地で受けたカルチャーショックの数々は、当たり前と思っていた私の常識をひっくり返し、立つべき基盤を持たない自分に直面しました。青く広がる空と地平線まで続く赤い大地を見ていると、限りなく自分が小さくされ、「なぜここにいるのだろう?私はだれ?」と問わずにはいられませんでした。

ブラジル滞在3年目、思いがけず目の病を得て、失明の危機に陥り、結核の闘病生活を半年送りました。肉体的にも精神的にも闇の中に落とされて、自分の無力さと弱さを味わい、深く内省する時を与えられたことが神を知るきっかけとなりました。私の目となり手足となって支えてくれた友人達の中に、かたわらで祈り、集会へと誘い出してくれたキリスト者の友人夫妻がおりました。温かさに満ちた小さな集会で語られる牧師のみ言葉と賛美は、私の心深くに染み込み、聖書というものがこの私に向かって語られる神のメッセージであることを自然に知りました。闇の中に落とされている私を、神様はみ手の中に捉えてくださったのです。

夫の転勤でブラジルからタイに移り住んで半年後、目の状態が再び悪化しました。悩んだ末、独り日本に帰国し、レーザー手術を受け失明をまぬがれることができました。新しい地に慣れることで必死だった私は、神様のことなどすっかり忘れていましたのに、「神様の守りの中にいる」ことを強く感ぜずにはいられませんでした。すべてが備えられていたのです。「祈りは時空を超えてきかれる。タイにもキリスト者の仲間がいるはずだから..。」と言って送り出してくれた牧師の顔が思い出されました。そしてバンコク日本語キリスト教会の輪の中に加えていただきました。

「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう。」 ヨハネ8章12節

このみ言葉に出会った時の嬉しさに導かれ、1991年、スラム伝道に身を奉げる山口譲牧師より洗礼を受けました。この時の平安と喜びは今も忘れられません。

私はタイのスラムや辺境に住む人々との出会いを通じて、この世のすさまじい人間の欲望と罪が、これらの人々に不条理におそいかかっている現実を目の当たりにしてきました。しかし、ここにも神の福音が届けられているのです。厳しい生活を互いに支えあい、主を賛美し礼拝するその姿に、わが身の貧しさがあぶりだされ、悔い改めを迫られ、何度も信仰の原点に引き戻されました。

神様は私達がどんな状態のときでも招いていてくださり、ご自身のものとして愛してくださいました。この愛に励まされながら、神の祝福の内に置かれた幸いを心から信じ、皆様とともに歩んでいきたいと願っています。

月報2001年2月号より

「生かされている喜びと感謝」

もし、私が神を知らなかったなら、この肉の体はとうの昔に滅びていたに違いないことを自分自身よく知っています。誰でも1度や2度は命にかかわる危険を、長い人生の間には経験することがあると思いますが、私はすでに5回も6回も神様に助けていただいたのですから、「もはや、生きているのは私ではない」という実感を強く持って生きています。

まだ幼かった頃、ペニシリンなどの抗生物質はなく、アズキ氷を食べ疫痢にかかった私はただ食塩注射を受ける以外治療の方法はなかったそうです。医者が「だめかも知れない」と言ったそうですが、母は神様に全てを委ね祈ったそうです。その母の祈りによって私の幼い命は生かされました。

母の父はカナダの神学校を出た牧師でしたし、母の兄も牧師でしたので、姉を始め、私や弟、妹たちは皆、生まれるとすぐ伯父から幼児洗礼を受けていました。

太平洋戦争も激しくなり、中学1年生の私たちも軍需工場へ動員され武器の生産に当たっていました。旋盤を教えられた通りに操作し、魚雷の部品を作っていたのです。ある日、空襲警報がなったと思った途端、工場は艦隊戦闘機の機銃掃射を受けました。一瞬、旋盤の下に身を隠し無事でしたが、無数のリンゴ大の雹がトタンの屋根を一気に撃ちつけるような衝撃に、12歳の少年であった私は死の恐怖を感じました。

ある晩、同じように空襲警報が鳴り、姉や弟たちと共に自分たちで掘った庭の防空壕に潜り込み避難しました。「お母さん、早く。」という私の声に答えて母は言いました。「小さい2人の子供がいるし、私はここにいます。神様に祈っていますから心配しないでください。」と言って家の中にいました。それを聞いて、私は子供ながら「お母さんは、凄い信仰の人だな。」と思いました。遠く空に飛行機の爆音が聞こえたと思った時、ドーンという鈍い衝撃音が聞こえました。(遠くに機影が見えたり爆音が聞こえる時が一番危ないのです。)当時、神戸市葺合区の山手に住んでいましたが、爆弾は100メートル程離れた林の中に落ち、家は何の被害も無く、私たちは守られました。このような生死の問題は、全て神様のご計画の内にあることで、自分ではどうすることも出来ないことであったのですが、「神様が私たちを守ってくださっている。」との実感を与えられました。(父は英語の達人で、その当時情報部付き陸軍少佐としてシンガポールに出征していて不在でした。)

しかし成長するにつれ、そのような神様のとりなしや恵みをすっかり忘れて自己中心的な生活に溺れるようになっていました。教会には行かないし、信仰告白はしないけれど神は肯定するという身勝手な信仰を持っていました。

大学生の時、2人の友人と京都保津川鉄橋(単線)を無謀にも渡っていた時、列車が走って来て、あわやはねられそうになったことがありました。汽車が鉄橋に入って来たのは3人が鉄橋を渡りきり、線路の両側の草むらに身を投げ出した直後でした。「バカヤロー」の機関士の怒声だけが耳に残っていますが、間一髪、神様の憐れみが3人の命を救ってくださいました。機関士の怒声を人の声としてではなく神の警告と受け取るべきであったのです。しかしそれからも私は自ら求めて危険と罪の中に身を置く生活から抜け出すことはできませんでした。

社会人となり、会社勤めも10年を過ぎ、課長の立場を与えられていましたが、「自分(我)」の思いの虜になったような生活をしていました。飲酒居眠りで大阪・奈良間のハイウェイであわや即死の事故を起こしました。シートベルトもエアバッグもない1960年代の車ですから、無傷で助かるはずのない死の谷への転落でしたが、血一滴流すことなく生還を許されました。この出来事を通して、不信仰な私にも、十字架でキリスト様が血を流されたのはこの罪深い私のためであったことがはっきりと示され、闇夜のハイウェイで天に向かい「神様、ありがとう。」と叫び、感謝しました。

「父のもとに立ち帰りたい」と願いながら優柔不断な生活をしていた私に、神様の戒めがくだる日が来ました。マンハッタンのミッドタウンで、パンクした後輪のタイヤを取り替えるためにジャッキで車を持ち上げていた時のことでした。サイドブレーキを引かず、ブレーキの踏み込みも甘かったために、車が前に傾きジャッキがスナップして飛ぶ危険が起こりました。私は、どんなことがあっても、回りで見ている人々に当たらないで欲しいと必死に神様に祈りました。「当たるなら、どうか私に当ててください。」と祈りました。妻は冷や冷やしながら私の側で成り行きを見守っていました。その祈りは聞かれ、勢いよくスナップして自由を得たジャッキのバーはまるで矢のような速さで飛んできて、私の右前額部を打ちました。メタルバーが私に向かって垂直に飛んで来ていたなら、体のどこかに突き刺さって大怪我をしていたと思います。すぐに救急車が呼ばれ、エマージェンシーホスピタルに運び込まれました。診察の結果、怪我は7針の裂傷で、脳には異常を認められませんでした。私はまたもや神様の許しによって残る者とされました。

やがてジャスティン春山先生によって堅信礼を受け、再び神様との関係は修復され、同じように堅信礼を受けた長女、信仰を告白した次女・妻とともに家族全員がキリストを信じる者とされました。

このような命にかかわる色々な経験を経て、今日在る私は、「最早自分のものは何もない。全ては神様のもの。何なりと用いてください。」と、キリスト誕生2000年、70歳の誕生日に祈り願いました。主に仕え、教会に仕え、そして隣人に仕えることが、70歳からの私の人生だとの確信に導かれ、献身の思いに至り、JTJ宣教神学校で学びを始めました。働きながら学ぶことにはチャレンジもありますが、そのことによって主が喜んでくだされば、それは何にも勝る幸いだと信じて、感謝して励んでいます。

「わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」

イザヤ書46章4節

月報2000年12月号より

「何者も神の愛から私たちを引き離すことはできない」

私が洗礼を受けたのは、高校1年生の6月です。父が私たちを収集し、「家族全員で洗礼を受ける」と言い出したのがきっかけでした。

幼い頃から叔父が牧師をする教会に通っていた私は自分自身を生まれもってのクリスチャンと思っていたので、父の唐突な提案にも快く賛成しました。母や兄は反対しましたが、結局一家揃って洗礼を受けることになりました。その時の私は、同時に5人も信仰を告白するなど教会はじまって以来のめでたいことと、ギネスブックに記録をのせるような誇らしい気分でいました。

晴れてクリスチャンとなったつもりの私は、心の中では十字架の愛の意味を理解していません。イエス様が誰かの罪のために死んで下さったことを感謝することが出来る自分は、なんと寛容な人間であろうかと思い込んでいたのです。従兄弟たちと遊ぶのが目的で教会に通っていたので聖書の内容に無関心、持っていくのが面倒で教会の本棚の奥に聖書や讃美歌を隠しては持ち出す、牧師先生のお話の時間は居眠りの常習犯、というありさまです。

そんな私の心を見抜いて、仲の良かった従兄弟は洗礼式をさかいに私を避けるようになります。「なんで話をしてくれないの?」と尋ねると、「とにかくしばらく私に話しかけないで!」という答え。いつも優しく寛容で他人事には干渉しない彼女に突然冷たく突き放され、唖然としました。周囲の励ましの言葉は頭の中で空回り。「こんなことなら洗礼なんて受けなければよかった」と、とんでもない間違いを犯してしまったという直感だけが胸をちくちくと刺すのです。最良の理解者の一人を失ったような気持ちになり、意欲も薄れ、教会から離れていくことになりました。表向きには平常心を装い、「彼女のとった一時的な私への強硬な態度」の記憶をまるで何事もなかったかのように心の奥底に仕舞い込みました。

数年後、友人に誘われてはじめて聖書の勉強会に参加した時です。信仰の土台がしっかりと築かれた友人との宝のような出会いを与えられ、心が安らぎました。しかし、共に賛美する喜びを味わう一方で私の心に徐々に劣等感が蓄積され、どうしても素直になれません。純粋な信仰を妬ましく思い、「そんなに熱心に聖書を読むのもいいけど、私たちの本業は学問でしょ」と、文句ばかり。そんな私の甘えに対しても彼らは一貫して神の愛を与えつづけ、祈りつづけ、励ましつづけてくれました。

その頃から一進一退を繰り返しつつも、聖書の世界にひきこまれます。特に、「何者も神の愛から私たちを引き離すことはできない」(ローマ人への手紙8章38・39節)という箇所は私の魂を奮い立たせてくれました。「離れた私を見捨てずに愛してくださっている・・・これが神の愛」と確信し、涙しました。虚栄とプライドで固まった心を神は砕かれ、悔い改めへと導かれたのです。感謝のほかありません。

今では私の生い立ち、洗礼、勉強会での出会い、ローマ人への手紙、全てが主の恵みと思います。ニュージャージー日本語キリスト教会の聖書通読のプログラムを通して全体をはじめて通読するチャンスを与えられ、私の珍問に丁寧に答えて下さる錦織先生が与えらていることも、感謝に絶えません。心に負った傷が完全に消え去ることなく、「そんなこといったて、神様」と、愚痴をこぼす日々ですが、聖書の言葉によって「救われる」ような体験をさせていただくに違いないという希望があるからこそ、生きる勇気が湧いてきます。内心わくわくしつつ、今日もまたページをめくるのです。

「わたしの命をあらゆる苦しみから救って下さった主は生きておられる。」

列王記上 1章29節

月報2000年9月号より

「十字架の痛み」

私は今、2人目の子供を妊娠中です。9ヶ月目に入り、まもなく出産を控えていますが、今回はつわりはひどかったものの本当に神様に守られ、皆さんの祈りに支えられて、ここまで来れていることを心から感謝致します。妊娠中といえば、1人目の子供のときに一つだけ忘れる事のできない出来事がありました。それは妊娠6ヶ月のときに、尿管結石で入院したときのことです。突然、横腹の激痛を感じ病院で診察してもらった結果、尿管に石がたまる尿管結石だと診断され、即入院して石を出すことになりました。石を出すと言っても、『妊娠中なのでレントゲンをとって散らす』、という本来の方法での治療ができず、ひたすら点滴と水分をとることで下におりてくるのを待つことになりました。

入院して4日目のことだったと思います。その夜、今までには感じた事のないほどの激痛に耐えられず、お腹の子供には影響のない注射を打ってもらいましたが、その注射も効かず、挙げ句の果てには痛みから来る吐き気で、一人トイレにうずくまっていました。もう自分がみじめで、悲しくて、痛くて、泣きながら「神様、どうしてですか?どうして、どうして私がこんなに苦しまなきゃいけないんですか…?」と神様につぶやきました。その夜は、結局3本の注射を打ってもらってようやく眠りに就くことができたのを覚えています。

次の朝、意識が朦朧とするなかで、その日が日曜日であるということに気付きました。少し落ち着きを取り戻したくて、何気なく聖書を手に取りました。そのとき行っていた教会では、毎週、新約聖書のヘブル人への手紙から連続してメッセージが語られていたので、そこに目を通していたときのことです。意識は朦朧としていたのに、次の箇所にきたときハッとさせられました。

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、……」

(ヘブル人への手紙 5章7~9節)

イエス様が十字架にかかられたシーンと重なり、私のうちに迫ってきました。イエス様が十字架上で苦しまれたのは、まぎれもなくこの私の罪のためであるのに、あの苦しみと痛みのなかでイエス様は「父よ、彼らをお赦しください。」と祈られました。私の痛みなんてとても小さいもので、その何倍も、何十倍も想像を超えるほどの痛みと苦しみのなかで祈られたことば。私のうちから離れませんでした。私達を、いやこの私を罪から救うためにここまでしてくださったイエス様の深い愛に、涙が止まりませんでした。前日の涙も、この日の涙も、ともにもう一度イエス様の十字架の愛に触れるために必要なものでした。

あんなにもまたいつやってくるかわからない激痛を恐れていたのに、その後、不思議と恐れは消え、それどころかともにこの痛みの中を通ってくださる方がおられる、というだけで俄然ファイトが湧いてきて「いつでもかかってこい!」と言う心情でした。ところが、それ以降、痛みは一度もやってこず、その2日後には退院しました。結局石はでてきておらず、どこへ行ったかもわからないまま今に至っています。実は、妊娠中は普段の体の状態と違って石が溜まり易いということもあり、また再発するのでは、と少し不安もありましたが、神様はあの時にもう一度十字架の愛に触れさせてくださっただけでなく、癒してくださったと今改めて信じております。これほどまでに、一人一人を気遣ってくださる神様に心から感謝しつつ、これからもこのイエス様の十字架を覚えて歩んで行きたいと思います。

「私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛し、私達の罪のために、なだめの供え物としての御子をつかわされました。ここに愛があるのです。」

ヨハネ第1の手紙 4章10節

月報2000年11月号より