「今思うこと」

今時々思うことがあります。 それは僕がクリスチャンになるなんて思ってもいなかったということです。日本で生活している時は、宗教について考えもしませんでした。どちらかと言うと宗教と言うものについて偏見を持っていました。やはりオウム真理教などいろいろ怪しい宗教が周りにあったせいか、神様の存在を信じている人達を白い目で見てきたように思います。実際にぼくの中では、神様を信じる人は弱い人間で、そういうものに頼らなければ何もできないような人だと言う解釈がありました。

その当時の僕は、いつも何かが足りないような感じがしていました。何か心にポツンと穴の空いたような、満たされていない感じがいつもしていました。そして自分の心を満たす為に、いつも自分勝手に自分のやりたいことをやって両親、それから周りの友達に迷惑をかけていました。とにかく自分の好きなことをやって楽しければ自分の心は満たされると思っていました。そんな状態でアメリカに来て、困難なことに出会い、精神的、それから肉体的な疲れや淋しさによって、今までに無く、心が満たされていないのを感じました。

そんな時、ミシガンで僕は、素晴らしいクリスチャン・ファミリーに出会いました。その人たちは、いつも僕の事を家族の一員だと言ってくれ、そしてそれは口だけのものではなく、本当に息子のように扱ってくれました。そうやってクリスチャンの人達と接することによって、僕の中にあった、宗教に対する偏見が無くなって行きました。そして教会に毎週行くようになって、キリスト教について少しずつ理解を深めました。

ミシガンを離れることになり、そしてニューヨークに来て、もうあまり教会に行く機会もないだろうと思っていましたが、そんな時ハンターカレッジでのクリスチャンフェローシップの張り紙が目に入ってきて、そして教会にまた導かれ、イエス・キリストを僕の救い主として受け入れることができました。

その決心ができた時、僕の心は、今まで感じることのできなかったものを感じることができました。今まで凍り付いていたものが解けた感じでした。そして、今まで満たされることの無かった心が満たされました。主は僕のような者を愛してくれているのだと言うことに気づき、そして、その愛がとても大きなものだと言うことを心で感じることができました。

最近、今の自分と以前の自分を比べてみると、人のことを愛せるようになったと思います。 以前の自分は表面的な付き合いしかしていなかったように思います。友達の事を本気で心配したりしたことはありませんでした。でも今は、友達に困難がある時、心が痛みます。 そして友達に何か良いことがあった時、自分の事のように嬉しくなります。やはりこれは、主が僕の事を愛してくれているからだと思います。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」

マタイ五章三節

月報1998年8月号より

「だれが、キリストの愛からわたしたちを…」

「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。

患難か、 苦悩か、迫害か、

飢えか、裸か、危難か、剣か。」

『ローマ書』 8:35

初めて死というものに直面したのは丁度一年前、1997年5月28日のことでした。過去67年間健康に恵まれた私は、前立腺癌に侵されていると知った時、表面上は冷静を装ったものの、内心恐怖に戦えていました。その年の2月に癌と診断されて以来、同じ病を患った方や、患った人を知っている方など幾人にも話を伺いました。殆どの方は手術を受けることを勧め、又ある方は放射線治療を、そして娘の上司の兄であるジョンズ・ホプキンズの医師には「心して安静」する様勧められました。私自身入手出来る限りの文献に当たり、それぞれの選択肢の長所・短所を吟味してみました。そして随分後込みしながらも、結局手術を受ける決断に至ったのです。

その時まで死や病気などは他人事だと高を括っておりました。私が教える哲学の講義で死を論ずることがあっても、それは抽象論の世界に過ぎませんでした。何らの兆候も自覚症状もなかったこともあり、癌だと宣告された後ですら現実のものだとは考えられませんでした。然し私自身のために敢えて自分の病気を人に隠さない様努め、大学においても教会においても聞いて下さる方には誰彼構わず病気について話しました。私が余りにも開けっ広げに話すので人に衝撃を与えたことも、また逆にこの話題を避けようと苦慮していた人を安堵させたこともあったかも知れません。大学の講義で私の病気を議題にしたこともあったほどです。

それまでは苦難を通じて神が我々の近くにおられることを本当に感じるのだとは分かっていませんでした。如何にして愛である神が患難を通して私達の心を満たして下さるのでしょうか。私の場合は手術の前にも後にも特に痛みなどは無かったのですから患難と言っても単に精神的なものでした。それでも、人生の中で本当に初めて一度神に見放されることが、神の愛を体感するのに必要であったのだ、否、見放されたそのことが神の愛なのだと気付くに至らされたのです。現代宗教思想家の中で私が最も敬愛して止まないユダヤ系フランス人、シモン・ヴェイルはその著書の中で辛辣にこう述べています。

「我々人間において、苦難を享受してこそ父とそのひとり子の間の隔絶を共有するという限りなく貴重な特権が与えられる。然しこの隔絶は愛する者にとってはただ一時の別れに過ぎない。痛みを伴っても、愛する者にとってこの別れは善である。何故ならそれは愛だからである。見放されたキリストの苦難ですら善なのだ。地上においてこの愛を共有する以上の善はあり得ない。神は我等の肉の故に我々のもとに全きまでおられることはない。然し神は究極の患難に置かれた我々をおよそ全きまで見放されもする。これこそが我々がこの地上で完全となる唯一の可能性であり、だからこそ十字架が唯一の希望なのだ。」

『Waiting for God (神への待望)』より

『The Love of God and Affliction (神の愛と患難)』 p. 127

人生において初めてこの筆舌に尽くし難い別れと結束の両方を体験したのです。

大学でも教会でも人々が私に惜しみなく愛を注ぎ、又お気遣い頂いたことは感謝の限りです。手術の日にわざわざ二度も病院を訪ねて下さった錦織師を初め、多くの兄姉が私の回復のために毎週祈って下さいました。特に、私のために教会全員でお祈り下さったあの土曜日のことは忘れることが出来ません。教会と祈りを通して溢れんばかりの神の愛を痛感しました。

娘マリもワシントンD.C.から幾度も足を運び私を癒してくれました。実のところ、私の病気があったからこそ親子の絆が強まったと言っても過言ではありません。父親を失うかも知れないという危機感が娘の心を開き、父親への愛を悟らせたのです。娘が一時も早く神への信仰に立ち帰ることが出来ます様、妻と私と共にお祈り下されば幸いです。

「もし、神がわたしたちの味方であるなら、

だれがわたしたちに敵し得ようか。」

『ローマ書』 8:31

月報1998年7月号より

「私はクリスチャンファミリーに生まれ…」

私はクリスチャンファミリーに生まれ、物心がついた時には教会に行っておりました。日曜の午前は私と兄は日曜学校、その後両親の礼拝が済むまで遊んで待つと言う日曜日でした。ところが小学校二年生の時、母が脳腫瘍というその当時(昭和三三年)では大変な病気になり、我が家の平和な生活は一変しました。その時から私たち一家は教会に行かれる状態ではなくなりました。手術で一命はとりとめたものの多くの後遺症に母は悩まされ、その上一部の信者より、信仰が薄いせいで病気になったと陰口をたたかれ、心身ともに傷ついていました。幼い私には何の力もなく、両親の喧嘩の絶えない、暗く淋しい、逃げ出したくなるような家庭でした。母の一歩も家から出ない生活が始まりました。毎日の買物は私の担当でした。「あの時死んだ方が良かった」と言う母を慰める術も知らない私は、母の愛にひたすら飢えていました。

神様から離れた生活が何十年も続いたでしょうか。すっかり教会から遠ざかり自分勝手な生活をしていました。親に頼らず何でも自分で決断し、受験・入社と頑張って来たつもりでした。早く嫌な家を出て、暖かい家庭を作ろうと思っていました。やがて職場で出会った人と結婚し、子供二人に恵まれ、主人も優しく、何不自由ない生活、私の思い描いていた家庭でした。しかし何だか物足りない、何かが違う空虚な気持ちを埋めてくれるのは主人でも子供でもありませんでした。

そんな時、近所の人に誘われ何十年ぶりに教会の門をくぐりました。”Youth With A Mission”というアメリカの宣教師団体が農家を借りて牧会をしていました。彼らのつたない日本語を通して主の御言葉と賛美にふれ、心が満たされ、これが私の求めていた主と分かりました。小さいからし種程の信仰が多くの祈りに支えられ実を結び、二年後受洗することができました。三七歳の時でした。主はこんなに弱くて罪深い私を忘れずに赦してくれて、再び暖かく迎えてくださいました。

「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない。」

ヘブル 一三章五節

そして私の受洗を誰よりも喜んでくれたのは、信仰生活から離れていた両親でした。母はあの大手術で命を得ることができたのに、主に感謝せずに呪ってばかりいたのです。しかし、現在母も家族も命を得たことをどんなに主に感謝しているかわかりません。両親は教会にはつながっていませんが、再び主を受け入れているので私はクリスチャンだと思っています。

「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。

ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」

ヨハネ九章三節

主人・娘たちはまだクリスチャンではありませんが、必ず祈りがききいれられる日が来ると信じています。

「主イエスを信じなさい。

そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます。」

使徒一六章三一節

この御言葉が成就する日を楽しみに主に支えられて生きる毎日です。

月報1998年6月号より

「留学生として」

僕がアメリカへ単身留学したのは中学三年生となった春の事でした。それまで意味の無い学校生活を送ってきた自分にとってアメリカへ行く事は新しい人生の幕開けのように思えました。 多くの夢と希望だけを胸に夕暮れの成田を飛び立ち、どす黒く燃える西の空を見たとき親元を離れる淋しさを初めて知りました。

アメリカに渡り、ケンタッキーの学校にたった一人で放り込まれた時は淋しくて仕方がありませんでした。たまに日本から送られてくる小包さえも愛しく感じ、親からの手紙や、友人からの手紙は何十回となく読み返したりもしました。あれだけ嫌っていた過去の生活の思い出が、切ない浜辺の波のように静かに押し寄せてきては引いていきました。 英語はもちろんさっぱり分からず、授業はただ出席しているだけで、質問されても何が何だか全く分からずおろおろしていると、よくクラスメイトから小馬鹿にされました。英語が分からないと言うハンディーキャップは最初から分かっていたので別に驚きはしませんでしたが、馬鹿にされたときに反論できない自分の語学力に極度のストレスを感じ、学校から寮の部屋へ戻ると誰もいないのを確かめ、泣きながら壁を叩いた時もありました。 勉強は英語のせいなのか、自分の努力が足りないせいなのか、数学以外はさっぱりでした。学校の置かれている環境も悪かったとは思うのですが、陸の孤島に押し込められた様な、文明から遠く隔離された様な精神的に孤独な日々が続きました。生活は至って単純で、暇で仕方がありませんでした。日本から送られてくる安物小説を何度も読んだり、友人達といっしょにタバコを吸いながら、クラスで話題の女の子の話をしたり、遠くに光り輝く「大学」の事などを考えていました。

そんなこんなでアメリカで三度目のクリスマスを迎えようとしていたとき、僕は突然、転校する事になりました。 もちろん転校先は決まっておらず、一旦日本へ帰国し、二月の初めに父親と再び渡米しました。 そしてこの父親と二人で過ごした一週間は一生忘れる事が出来ない一週間となったのです。 僕はクリスチャン・ホームに生まれ、10歳のときにイエス・キリストを自分の救い主として受け入れ、秋の大洗海岸で洗礼を受けました。 洗礼を受けているとき「潤君の罪が海の奥底まで沈んでいくように…」っと牧師先生は言っていたような気がしますが、暗い海の底まで罪が沈んで行く…っと言うのが幼心にも妙に現実的に思えたのを覚えています。 「クリスチャン」となった僕は5年生になると少年野球チームに入った為に日曜学校へ行く事はなくなってしまいましたが、食事の前の祈りと、寝る前の祈りは欠かさずしていました。アメリカへ渡った後でも寝る前の祈りは守っていましたが、それまで祈りの対象を、実存する全知全能の「神」としてはいなかったのかも知れません。 しかし、父と二人でアメリカに再び戻ってきたとき、僕は本気で祈ることになりました。

初めに訪れた学校はペンシルベニア州の片田舎にある、小さな私立高校でした。 校舎に入るなり、ケンタッキーでもそうであったように、僕は「外国人」として珍しがられました。 父親と付き添いの宣教師の方が校長先生とお話している間、僕はアメリカ史のクラスを受けさせてもらいました。授業が終わると、校長先生と父親達が待っていて、僕らは握手を交わして帰路につきましたが、途中、入学を断られた事を知らされました。 考えてみれば、ケンタッキーにいた頃、ろくに勉強した覚えの無い自分の成績は他人に誇って見せびらかせるような物ではなく、「入れてくれるはずが無いよ…」っと当然の事のように思ったのですが、車中これからの自分の人生を自分なりに考えて行く内、「拒否された」と云う事実だけが津波のように押し寄せてきました。現実と本来自分が思い描いていた理想とがかけ離れていることを徐々に認識しはじめたのでした。

それからの数日は幕末の如く、心身ともに不安定な日々が続きました。食欲はわかず、口から出るのは消極的な言葉ばかり。三人で祈っていても苦しくて仕方が無く、いっそ全てをかなぐり捨ててどこか遠くの知らない国にでも行ってしまおうか…、そんな事さえ考えました。 なんといっても苦しかったのは、自分には何も誇る事が無い、と云う事でした。 金持ちの家に生まれたわけでもなく、容姿が良いわけでもなく、頭が良いわけでもなく、得意なスポーツがあるわけでもなく、英語がきちんと喋れるわけでもなく…。 冷静に考えれば考えるほど、僕は窮地に追い込まれていきました。しかし、声にならない鳴咽が喉の奥を熱く締め付けている中で、驚く事に神様は何の取り柄も持たない自分に最高の道を備えてくれていたのです。 僕は自分が低いものだと認めました。 自分には何も無い、と認めました。 そして、自分が何も誇る事の無い低い者だと分かった時、真剣に祈る事が出来ました。 そんな現実を自覚した時、雑念が消え、進むべき道だけが見えたのです。進むべき道、それは「祈る」事でした。 小さい時からただ漠然と祈りをささげてきた「神」なるものが、切なる祈りの対象として明瞭に浮かび上がってきたのです。その日から僕は「何も無い者」とされた代わりに、「万軍の主を持つ者」とされたのです。

その後、知人の紹介でニュージャージーにあるイースタン・クリスチャン・ハイスクールを知り、面接に出かけました。 ペンシルベニアでの一件があるため、楽観は出来ませんでしたが、面接の席で代表役員の方と校長先生は自分の成績書には一目もくれず、僕に必要な住まいの事だけを心配していました。帰り際、笑顔で「いつから来られますか?」と聞かれ、彼らに僕を受け入れる意志がある事を知りました。

それから一ヶ月後、僕は外国人の全くいない新しい環境の中で勉強をしていました。友達も沢山でき、素晴らしい先生方も与えられ、大きな愛で僕の心を包んでくれたホスト・ファミリーにも出会いました。苦しみの中で途方に暮れ、立ち止まり祈り、本当の神様に出会えた事に感謝しております。

今回の証しは、ここまでとなりますが、実は本当の戦いはここから始まったのです。自分の人生は、それなりに波乱に満ちていたように思えます。 しかし、神様は苦痛の中にも逃れの道をすでに備えてくれています。今まで通ってきた荒野の道は神様による知恵の道でした。 そして、これからの人生も、これまで以上にエキサイティングになっていく事を疑う事はできません。最後に、僕が毎日の聖書朗読の中で高校時代に出会った素晴らしい聖書の個所を書き記して擱筆させて頂きます。

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐える事の出来ないような試練に合わせるような事はなさいません。むしろ、耐える事の出来るように、試練と共に、脱出の道も備えて下さいます。」

第一コリント十章一三節

月報1998年3月号より