「受洗まで」(神様の招き)

日本の家にはよくある風景だと思いますが、私の実家には仏壇と神棚が和室に並んでいました。朝晩お水や炊いたご飯を供えることが子供の頃からのお手伝いの一つでした。運動会や試験の折には、母から「のんのんした?」
「仏さまにお願いした?」の声掛けがあり、仏壇の前で手を合わせるということが習慣になっていました。その様な家庭でしたが、幼稚園年長の頃、クリスチャンではない母が何故か私を教会の日曜学校へ連れて行きました。自身が中高をミッション系の学校で過ごした影響でしょうか、今度母にゆっくり聞いてみたいと思っています。

小学校1年生の時、父の転勤で関西へ引っ越しました。社宅の目の前に教会があり、母はまた私を日曜学校へ連れて行きました。この時の記憶は、クリスマスの生誕劇で一言もセリフの無い羊の役をしたことと、毎週配られる聖句の絵カードを集めるのが楽しかったことです。2年生になると、母の興味が日曜学校からガールスカウトに変わり、私の日曜日はガールスカウトの活動にシフトしました。

再び神様に少し近づいたのは中学の時です。毎日の礼拝や週一回の聖書の授業があるミッション系の学校に入学しました。クラブ紹介でその美しい音色に一目ぼれした私はハンドベル部に入りました。その顧問の先生が宗教主任の先生でした。厳しい方でしたがお話が大変上手で、時々行うハンドベルの演奏や美しいメロデイの賛美歌を歌うことに加え、先生のお話は礼拝の楽しみの一つでした。ある時クラスメイトのお父様が亡くなり、何人かでご葬儀に出席するということがありました。クリスチャンでいらしたので私にとって初めての教会のお葬式でした。故人の好きだった讃美歌を歌い、皆で白い花を献花するというお式は、不謹慎ですが少しあこがれたのを覚えています。

中学2年生の時に父の転勤があり、英国国教会系の学校に編入しました。チャプレンのお話にあまり魅力を感じず、聖歌集に馴染めず、年齢もあったのでしょうか、心が神様から離れてしまいました。

結婚した夫の両親はクリスチャンでしたので、結婚式は両親の教会の牧師先生に会場まで来ていただいてして頂きました。夫の家は食事の前に皆でお祈りすることもなく、ノンクリスチャンの私にとってごく普通で居心地の良いものでした。私たち家族が東京にいる時は、イースターやクリスマスの折に時々教会に誘ってもらいましたが、20数年中、礼拝に出掛けたのは10回に満たないかもしれません。

2019年に夫がニュージャージーに駐在になりました。FBの知り合いを通じて知ったニュージャージー日本語教会に夫が行くといった時、日曜日に特に用事もなく、なんとなく一緒に通うようになりました。聖餐式に初めて同席した折、教会に来ている人はクリスチャンとそうでない人がいることを深く意識するようになりました。私にとって教会に行くということは、学生時代の延長で、賛美歌を歌い、お話を聞き、ひっそり個人的なお祈りをするということで、それで満足でした。その先にある神様を心から信じ洗礼を受けてクリスチャンになるということは、何か特別な天啓のようなものがあったり、神様を求めずにはいられない体験をしたりということが必須であると感じていました。
ですから、2021年突然夫から、受洗しようと思うと聞いたときは本当に驚いたのを覚えています。

教会は仲良しグループの集いではないことは理解しています。ですが、教会の雰囲気は先生を始め集う方々によるもので、それはとても大事なものだと思います。ニュージャージー日本語教会に通い、お茶の時間や教会以外の場所で皆様に本当に暖かく親切にして頂いたと感じています。

日本に本帰国することが決まった頃、何も特別な天啓も体験もありませんでしたが、洗礼を受けるということを少し考えるようになりました。その思いを感じていただいたのでしょうか、1月に先生から「帰国も近いし、もしよかったら聖書の勉強をしてから帰りませんか。」とお誘いを受けました。勉強も後半に差し掛かった頃、受洗についてお話頂きましたが、まだ迷っていた私は、神様をすごく求めるような体験も何もないのに洗礼を受けてもいいのかどうか等、色々なことを尋ねました。イエス様が私の罪を背負ってくださった、そのことを信じられることが一番大切なことです、と先生は何度も話してくださいました。錦織先生と親切にしてくださった皆様のいるニュージャージ―教会で受洗したいと決心しました。

東京に戻って半年、夫の両親の教会へ通っていますが、ニュージャージー教会のことを時々思い出します。先日古い友人と会う機会があり、ひょんなことから彼女が12月に洗礼を受けることを聞きました。私はとても嬉しくなり、自分の時に皆様に心から喜んで頂いた理由がわかったような気がしました。12月彼女の教会へ行き、「おめでとう。」を言う約束をして別れました。

幼い時から神様が何度も招いてくださったことに本当に感謝します。

「しかし、私たちがまだ罪人(つみびと)であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」
(ローマ人への手紙5:8)

白髪背負う

 「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。(イザヤ書46:4)」

 この夏、1人で里帰りをしました。2ヶ月間実家に滞在し、母の部屋に布団を敷いて寝起きしました。今までは子供たちと帰省するのが常で、実家ではお客さん気分。さんざんもてなしてもらうのに、2週間も居ると毎回、両親と衝突していたのが、今年は波風一つ立たず、ほっと安堵したのと同時に、それだけ親が歳を取ったのだと寂しくもなりました。

 傘寿を過ぎた両親の毎日はとてもスローテンポです。予定があるのは病院に行く日ぐらいで、あとはほぼ家の中で過ごします。父は規則正しく過ごす性分で、朝早く起きて新聞を郵便受けから取り、テーブルに広げて老眼鏡をかけて一通り目を通す。それからテレビ欄の番組表を調べて、見たい番組を色ペンで囲み、軽く朝食をいただいた後は指定席に腰かけてテレビをみながらうつらうつらと午前中を過ごす・・・。午後もまた、しかり。唯一の楽しみは、毎週水曜日の午後に友人たちと行き会うゴルフのショートコースです。約束をとりつけず、来られる人だけが来ればいいという、ごくごくゆるい集まりを続けています。

 母はゆっくりめに起きて過ごします。週2回のデイサービスがない日は、ひるげの匂いに誘われてようやく部屋から出てきてきます。食べ終わるとまた部屋に戻り、何をするでもなく横になって、また夕食の時間に顔を見せます。以前の母はとても多趣味で活動的。若い頃に教員免許のほか茶道と書道の師範資格を取り、子育てが落ち着くと調理師免許、60代でネイルアーティストの資格を取りました。洋服や靴が大好きで、私の楽しみは実家から母の服を貰ってくることでした。そんな母が、今ではたった3、4着の服を着回し、朝から着替えもせずパジャマで過ごしているのです。母の代わりように愕然としました。

 ふたりは自活してくれていますが、いわゆる老々介護です。「老々介護」。聞いたことのある言葉でしたが、両親の生活がまさにそのもの、と気付いたときはショックでした。もともと膝を悪くして歩行が困難な母でしたが、去年の暮れに転倒・骨折して一気に身体の衰えが進み、父が家事の全てを担うようになりました。母が家のことを切り盛りする姿しか見た事のない私にとって、父がこれほどマメに家事をしてくれるのを見るのは嬉しい発見ではありましたが、2人の姿に自分自身の将来を重ね、「歳はとりたくないものだ・・・」と正直、思いました。

 日本人の平均寿命は男女とも80歳を超えていますが、健康問題が日常生活へ制限を与えない期間を表す“健康寿命”なるものは、男性で70代前半、女性で70代半ばです。こんな数字を見ると、「元気に自活できるならいいけれど、我が子や周囲の負担になるようならば、早く逝きたい・・・」と、つい心の中で願ってしまいます。超高齢化が進んで介護保険制度が崩壊するかもなどと言われる日本で、年配者が社会の重荷とみなされる風潮が強い社会で、アンチエイジングなどということばが市民権を得て、老いることが悪いかのようになった世の中で、長生きしたいとは到底思えないのです。希望を見いだせないのです。

 でも、聖書の価値観は違います。老いることが祝福の象徴、老いることは光栄なこと、「白髪は輝く冠(箴言16:31)」だといいます。

 キリスト者であるヘルマン・ホイベルスという人が「人生の秋に」という本で「最上のわざ」と題して、こう書いているそうです。

楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう。

若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見てもねたまず、人のために働くよりも謙虚に人の世話になり、弱ってもはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること。

老いの重荷は神の賜物、古びた心に、これで最後のみがきをかける。

 なにか活動が出来なくなったとしても、働きではなく存在そのものに大きな意味や喜びがある。効率とか生産性に意味と価値を与えるこの世の中で、聖書の言葉は老いることへの祝福を語ってくれています。

 この夏、私が一番うれしく思ったのは、母が再び教会へ通うようになったことです。母は洗礼を受けてはいますが、久しく礼拝に集えていませんでした。教会の人間関係に失望したり、自分の願った通りの教会生活を送れなかったりして、通うことを止めてしまったのでした。そんな母が、土曜日の晩から備え、日曜日の朝は早起きして身支度を整え、礼拝に出席するようになったのです。教会から帰ってくると、母の顔つきは明るく、楽しいお喋りが始まります。その姿にクリスチャンではない父は驚きます。町内会の集まりは嫌がるのに、教会の集まりへは進んで出掛ける様子を不思議がります。

 でも、当然なのです。教会は安心して集えるところ。そこには愛があり支え合いがあります。そこでは、働きでなく存在を大切にして受け入れてくれます。高齢者であれ働き盛り世代であれ、1人の存在として見なしてくれます。とは言え、人間の集まりですから気の合わない人がいるかもしれません。ときに、失言や行き違いから、失望したり傷ついたりするかもしれません。でも、イエス・キリストという模範がいて、聖書を読むことで整えられ、大切な戒め「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい(マルコ12:31)」を守ることによって、それぞれが理想の姿へと変えられていく過程にあるのです。

 里帰りも終わりに近づいたころ、「別れが寂しい」と、はばかりもせずに言う両親と離れるのは後ろ髪を引かれる思いでした。もっと滞在を伸ばせないか、日本にしばらく移り住んで両親の生活を支えられないか、とさえ考えました。でも、母が日曜日ごとに教会へ行きはじめたことで、私の心配は安心へと、心残りは希望へと変えられています。母は神様からの語り掛けによりリセットされ、リニューアルされ、新しい力を得ると期待しています。今までも母をずっと運んできてくださった神様が、母が年老いた今も、これからも、同じように運んでくださるから大丈夫だと。背負ってくださるから大丈夫だと。そしていつか、私のことも同じように運び背負ってくださるでしょうと。

 主は良いお方です。神様に心からの感謝をささげ、全ての栄光をお返しいたします。

「主の采配の確かさ」

在籍していた神学校の突然の閉鎖に伴い、昨年9月より大都会NYから牧場だらけのKYの田舎町に移り、リバイバルが起こって御霊が力強く働いている神学校のコミュニティでの生活と学びが始まりました。ケンタッキーにはあまり日本人へのアウトリーチの機会がなさそうと勝手に思っていたので、日本人人口が全米で三番目に多いNYCでの日本人伝道の思いを一度神さまにお返しするという自分にとってはかなり辛い覚悟を決めて、神さまに導かれるがまま何も知らずに雲と火の柱を追いかけてケンタッキーに来ました。ところが、神さまは私には予想もできない方法で私を次の宣教の地、ケンタッキーに導いたことが到着して程なくして分かりました。

ケンタッキーに引っ越す直前、コロラドでお世話になった牧師先生ご家族が私のアズベリー行きを知って「ケンタッキーに私たちの親友でアメリカ人のご主人と日本人の奥さんのL夫婦がいるよ」と連絡がありました。そのLさんご夫婦は一度2022年にナッシュビルであったRJC(Reaching Japanese for Christ)の地域カンファレンスで一瞬だけお会いしたことがあり連絡先も交換していたので、ケンタッキーに着いたら連絡してみようと思っていたのですが、全く別件でLさんたちの方からそのあとすぐ突然連絡が入りました。やりとりをする中で、LさんたちもISI(私が所属する留学生ミニストリー団体)のスタッフとして20年以上ポートランドで留学生に仕えるかたわら日本語教会も開拓し、そして2年ほど前に神さまから中西部に移動するように示されて何も分からないままただ神さまの導きを信じてケンタッキーの地へ引っ越してこられたことを知りました。ISIの働きはLさんが来るまでケンタッキー州にはなく(全米でもケンタッキーとテネシー州だけなかったそうです)、私もNYのISIチームからはケンタッキーにはISIの働きがないと聞かされていたので、今Lさんたちがケンタッキーの地でISIの働きを始められたばかりとのことを聞いてびっくりしました。Lさんたちも過去2年間ケンタッキー、レキシントンエリアでの留学生伝道やアメリカ人教会のミニストリーの働きをいろいろと探っていく中で実は日本からの留学生が多いこと、そしてトヨタ系の自動車産業の工場がある関係で日本からの駐在家族もかなりいることがわかってきて、「日本語が話せてミニストリーに重荷のある女性を与えてください」と祈っていたところに私がやってきて驚いたそうです。

Lさんたちは息子さんがアズベリー大学に通っており、家もキャンパスから15分ほどの近さだということも分かって、ケンタッキーに引っ越してきて数日とたたないうちにLさんたちと早速お会いしました。神さまが不思議な形で私たちを繋いでくださったこと、私の日本人伝道への重荷とLさんたちの助け手を求める祈りを神さまが聞いてくださったことに共に感謝と驚きの祈りを共に捧げました。LさんたちがUK(University of Kentucky)でCru(編集注:以前キャンパスクルセードという名前だった学生伝道団体)と協力して2022年に始めたBonfireという留学生ミニストリーに私も早速参加し始め、そこで何人かの日本からの交換留学生とも出会いました。Centre Collegeという別の大学にも日本人留学生が10人弱いることが分かって、その子たちとも交流を始めました。また、Lさんたちや他にもアズベリーで繋がった近隣のクリスチャンの方々を通して、レキシントンエリアのアメリカ人教会が取り組んでいるESL(英会話)ミニストリーに参加している生徒さんの半数以上が日本人の駐在妻さんたちであることも知りました。ESLミニストリーに携わっている方に誘われて9月末にお邪魔したホームパーティでお会いした方々は実際8割以上の方が日本人、しかもみなさんトヨタ系ということで私の地元の愛知県出身…すぐにローカルトークで打ち解けることができ、何人かの日本人ご家族と顔見知りになりました。パズルのピースがぴったり当てはまるかのような神さまの正確な采配と配置に鳥肌が立つ思いでした。

そして、Lさんたちと出会って3週間ほど経った頃、「一緒に日本語教会を始めませんか?」と誘われました。日本人へのアウトリーチの大きなニーズとそこへのアメリカ人教会の試みを見、また私がそこに送られてきたこともあって「今が動く時だ」と確信されてのお誘いだったそうです。こうして2023年10月からケンタッキー、レキシントンでの日本語教会開拓が始まりました。アズベリー神学校のカフェテリアにLさんたちをお招きして、ランチに集まってくる神学生たちで私がその時点で知っている限りの日本人に重荷のある人たちに声をかけ、ランチをしながら教会のビジョンを分かち合い、ネットワーキングを行いました。その中で何人かの神学生たちが興味を示してくれ、後に多くの点で尊い助けの手を差し伸べてくれました。

この開拓教会は、みんなで話し合って「いずみコミュニティチャーチ」という名前になりました。レキシントンにある南部バプテスト派で日本人駐在妻さんたち向けにESLミニストリーを長年続けてくださっている大きな教会が快く教会の中高生向けのクラスルームを貸してくださり、礼拝がスタートしました。最初はLさんご家族、求道中の駐在妻さん、そして私の6人だけの小さな集まりでしたが、UKやCentre Collegeの日本人留学生、アズベリー大学の日本にルーツや重荷のある学生たち、また駐在のご家族など、毎週神さまが人を送ってくださって、教会が始まって8ヶ月経った今は平均して30人前後が集う教会になっています。2月に行った餅つきのイベントと礼拝には、なんと近隣の日本人家族や留学生たち合わせて100人以上もの参加者もありました。10人弱、レギュラーで来てくださっている未信者の方々もおられ、とてもミッショナルな教会です。

また、UKのBobfireミニストリーで出会ってから個人的にも共にバイブルスタディを始め、EC23にも一緒に参加した日本人の交換留学生の女の子、Rさんがこの4月に私たちの教会で洗礼を受けました!彼女の洗礼式はお部屋をお借りしているアメリカ人教会のメイン礼拝の中でLさんを通して執り行われました。これはいずみコミュニティチャーチにとっての最初の洗礼式でしたが、長年日本人のためにESLミニストリーを続けてきたこのアメリカ人教会にとっても初めての日本人の洗礼式で、礼拝堂は大きな大きな天の喜びで満たされていました。RさんはEC23に参加したあと、積極的にBonfireでも私たちの教会でも賛美チームに入って賛美のリードをしてくれるようになったり、UKの他の交換留学生たちに一生懸命神さまのことを分かち合ったり、周りの留学生たちのことを想いやったり、本当にさらに生き生きとしたキリスト者の姿に変えられていきました。彼女の洗礼式や喜びに溢れていく姿を見て、いずみコミュニティに通ってくださっている求道中の40代の男性の方が、「自分もそろそろ洗礼について真剣に考えたい」とRさんに伝えにきてくれたと聞きました。キリストによって変えられていく彼女の姿は未信者の方々だけでなく私たち「種を蒔く者」にとっても本当に大きな励まし、慰め、希望でした。Rさんは5月の頭に日本に本帰国し関西方面で信仰生活を始めています。関西にいる私が信頼する姉妹たちに繋いではいますが、どうぞこれからのRさんの信仰の歩みと、またご家族の救いのためにお祈りいただけると幸いです。

このようにして、一度お返しした日本人伝道への思いを神さまはケンタッキーの地でさらに私の愛知県出身という出生までもが生かされるような形で聞き届けてくださいました。またアズベリー神学校のカウンセリング修士も、全米の神学校で5校しかないカウンセリング認定を受けているプログラムで、以前いた神学校よりもさらに良い環境とカリキュラムの中で学べることになりました。学費や寮費が支払えるか分からない中でケンタッキーへ来ましたが、到着して数日後に学費はほぼ全額卒業するまで奨学金が与えられること、寮費もNYCにいた頃の一ヶ月分の家賃で一学期住めることがわかり、アドナイ・イルエ=「備えの主」の養いの業と恵の大きさに心がいっぱいで賛美の思いで溢れました。ウィルモアの小さな田舎町もとてもあたたかいコミュニティと美しい牧歌的風景の広がる素晴らしい場所で、NYCという都会の喧騒に当てられてすり減っていた私の心と魂を癒し潤してくれるようでした。NYCでの日本人伝道のニーズは未だとても大きく、私も引き続きそのためにお祈りしていますが、現在IPPUKU(私が携わっていたISIの日本人留学生ミニストリー)の元スタッフがもう一度活動を再開させようといろんな方たちに連絡を取り、また私もオンラインでミーティングを重ねたりしています。ぜひこの霊的な砂漠地帯であるNYCでの日本人ミニストリーのため、共にお祈りください。

あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。” イザヤ書 43章2節

神さまと歩む道は平坦な道とは約束はされていません。水の中や火の中を通ることもありますが、この聖書の箇所でそれらが私たちに致命的なダメージを与えることはないよう神さまの守りの手がいつも共にあることが約束されています。私もこの激動の一年を振り返る時に、常に神さまの慰めと支えの手があったこと、いつでも必要な安息の時を主は備えていてくださったこと、そして神さまの御計画がいつでもベストプランであることを体験しました。これからも神さまの養いの手を取り、キリストだけを握って導かれるところどこにでも主の道を見出したいと思います。お祈りやあらゆる形での多くの方の支援にも心から感謝しつつ。

「主の柱が動く時」

昨年の7月1日、2年間在籍していたマンハッタンにある神学校の大学院からメールがありました。

「来月末(8月末)で学校がなくなります。」

突然、なんの前触れもなく知らされたニュースに初めは頭が追いつかず、ただ、「神さまはまた何か企んでおられるな…」という予感だけがありました。学校閉鎖のアナウンスから学校が実際閉鎖されるまで2ヶ月もないというありえない状況の中で、悠長に悩んだり決断したりする間も許されない中で、ただ神さまの声のする方に向かって進むというシンプルだけれども究極の信仰の試練に突然飛び込むことになりました。

そのうち、学校からこれまで取得した単位を移行できる全米の提携神学校のリストが届きました。ただ、私の在籍していたプログラムは神学修士ではなくカウンセリング修士だったので、他の神学生たちに比べて神学校でカウンセリングの修士が取れる提携校は限られ、結局マサチューセッツかケンタッキーにある神学校の2択だけでした。通常、大学院受験は教授や(神学校であれば)牧師からの推薦状を数枚、学校側から出されるテーマに沿ったエッセイ、あらゆる出願手続き、そして面接などの過程を何ヶ月もかけて行います。それを数週間もない期間で全部済ませなければならないなんて…と気を失いそうになりました。もう全部諦めて日本にすっ飛んで帰りたい気持ちもありました。それでも、これだけ激しい大嵐のチャレンジに私を招いた神さまだから、何か私には想像も出来ないような計画をお持ちに違いない、と感じました。また、心配した知人から電話がかかってきて、「ガリラヤ湖で弟子たちと大嵐に会った時、キリストは枕して休んでおられたから、神さまは大嵐の只中にあっても日和ちゃんにきちんと休息も与えてくださるから、大丈夫。」と祈りと共に励ましてくれました。「この嵐をあなたと共に通ります、でも通るからには神さま私を養って、祝福してください!」と祈りました。

そこから大急ぎで2択に絞られた神学校の両方にコンタクトを取り始めました。するとすぐにケンタッキーの方の提携校、アズベリー神学校から連絡が帰って来ました。この私の置かれた異例の事態に理解を持ってくださり、急ピッチで出願手続きをサポートしてくれました。このアズベリー神学校はケンタッキーの小さな田舎町にある神学校で、ジョン・ウェスレー(18世紀の神学者)の教えを土台とした福音派、ウェスレー・ホーリネスの流れを汲んだ神学校です。正直私には昨年まで全くと言って良いほど面識のない神学校でした。昨年の2月、この神学校の併設大学であるアズベリー大学でリバイバル(現地の人たちはへり下りの意味を込めてOutpouringと呼んでいます)という聖霊が力強く働いて信仰が大規模に覚醒するという出来事があり、そのニュースを私もSNSを通して見てとても励まされました。それ以降いつか訪ねてみたいと思っていた矢先に出願してみるということになり、自分でも驚いていました。

アズベリー神学校との出願・受験手続きは驚くほどスムーズに進みました。私のミニストリーでのメンターたちも超多忙なスケジュールの合間をぬって推薦状を速やかに送ってくださり、教会の青年も仕事のあと明け方近くまでかけて私のエッセイの英語を添削してくれ、また多くの方の背後の祈りに支えられて、出願から面接・合格通知まで10日足らずで終わってしまいました。こうして、今御霊が力強く働いているアズベリー神学校への道が急に開かれました。

ただ、留学生ビザの制限があり、住んでいたNYCからオンラインでケンタッキー州の神学校であるアズベリーの授業を受講することは許されず、私はどうしても残りの1ヶ月も満たない短期間で留学生用の在留書類発行など含めた一通りの入学・転校手続きをし、そして8月後半から始まる新学期までにケンタッキーのキャンパスに引っ越しも完了しなければいけないという、とても無理難題なスケジュールに思えました。もし秋学期が始まる9月までにキャンパスへ行くことができなければ、諦めて日本に帰国し、一からまた留学の準備を始めなければならないという大きなプレッシャーもありました。しかもこの時点では学費や寮費を払える見込みも立っておらず、何もかもが未知でした。

一方、マサチューセッツの神学校はNYからも比較的近くまたアクセスもいいので、大好きなNJの教会やNYCのミニストリーチームにも頻繁に戻って来られそうで、転校するとすればこちらの学校の方が理にかなってるように思えました。しかし、なぜかこちらの学校からは最初に問い合わせのメールを送って以降音沙汰が一切なく、返事を待っているうちにあれよあれよという間にアズベリー神学校への合格が決まってしまいました。アズベリーからの合格通知が届いたくらいのタイミングでようやくマサチューセッツの神学校からもメールがありましたが、それによると、私に何回もメールを送ってコンタクトを取ろうとしていたけれども全然私に連絡がつかなかったとのこと。私も何回もスパムメールなども入念に確認してメールを何回か送りましたが返信メールは見当たらず、本当に謎でした。でも、この時点ですでにそちらの学校は最終の面接期間を終えてしまっていました。私の状況の緊急性を加味して、特別に私のためだけに面接の機会を作ってあげるよとオファーもしてくださいました。しかし、その時なぜ神さまはアズベリーとのやりとりを驚くほど早くスムーズに進めて、もう一つの学校との連絡を止めておられたのだろうと思い巡らしました。論理的に考えたら、こんなギリギリのタイミングでこれまで7年過ごしたコミュニティ近くの神学校ではない遠いケンタッキーの地に、誰も何も知らない場所に行くことは無謀で筋が通っていないようにも感じました。ですが、その時私の中に浮かんだのは、出エジプトのこの場面でした。

主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。” 出エジプト記 13章21節

イスラエルの子らは、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで旅立たなかった。” 出エジプト記 40章36~37節

イスラエルの民たちは、雲と火の柱が動けば動き、止まればその場に留まり、そうして40年間荒野を旅し続けました。その柱がいつ動くのか、民たちは知りませんでした。もしかしたら、夕食の準備をしかけていたのに柱が動いたから急に荷造りをして移動しなければいけない、なんてこともあったかもしれません。神さまのタイミングは、必ずしも私たちが思うベストタイミングであるわけではなく、また私たちが準備できているかどうかに限らず神さまが進む時は私たちも進む。そして何より、神さまがその荒野の旅路にいつも寄り添い、私たちの必要をマナによって常に満たし、行くべきところへ導いてくださる。そのようなイスラエルの民たちの荒野での日々を思った時、今私の目の前の柱も動いて、それはケンタッキーの地へ向かっているのだと感じました。大好きなNJの教会の主にある家族のみなさん、重荷を持って全力投球してきたNYCでの日本人伝道、そして素晴らしいミニストリーチームやメンター、そんなみなさんとの突然の別れとミニストリーを手放すことがとても辛く、ケンタッキー行きを決断してから2日間ほどは泣き腫らしましたが、2日間たくさん泣いてからは心を決めいろんなものを手放して神さまの養いの手だけを握って、7年過ごしたNYの地を去るための準備を始めました。

ケンタッキー行きを決めてから実際に引っ越すまでの1ヶ月弱の期間は怒涛の日々でした。お世話になった多くの方々やミニストリーで出会った学生さんたちとお別れの挨拶をして、引っ越しの準備をして、教会のキッズキャンプを手伝って、転校に必要な書類を集めたり提出したりして、送り出しの祈りを浴び、とても濃厚な時間でした。そうして8月末、5つのダンボール箱と3つのスーツケースでケンタッキー州レキシントン郊外のウィルモアという小さな町に引っ越しました。レキシントンの空港についた時、アズベリーからお迎えのボランティアがあり、博士課程にいるインドからの留学生でヘプセバさんという方が私を空港で出迎えてくれました。このヘプセバ(Hephzibah)はイザヤ書62章4節に出てくるヘブライ語で、「わたし(神)の喜びは彼女(この文脈では女性名詞化された神の民、イスラエル)にある」という意味です。実は私がNYCで最後に長期レジデントとして住んでいたクリスチャンゲストハウスの名前もHephzibah Houseで、NYのヘプセバからKYのヘプセバへ託されたような不思議な出会いでした。そのヘブライ語の意味のように、神さまがこのユニークな方法で「わたしはあなたを喜んでいるよ」と愛を伝え、ケンタッキーに歓迎してくれているように感じました。

あなたはもう、「見捨てられた」と言われず、あなたの土地は「荒れ果てている」とは言われない。かえって、あなたは「わたしの喜びは彼女にある」と呼ばれ、あなたの国は「夫のある国」と呼ばれる。それは、主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。” イザヤ書 62章4節 

Hephzebah Houseで過ごしたNYC最後の2ヶ月間、大嵐のような日々を送る中で神様は何度も私に「あなたはわたしの喜びの花嫁、あなたはわたしの愛する娘」ということを伝えてくださいました。Hephzibah Houseの壁にこのイザヤの言葉が書かれていて、毎日それを見る度に試練の中で神様の愛が拠り所となり、次の人生の通過地点へ行くための備えの期間となったと今振り返ります。こうして7年間のNYでの生活を終え、KYでの新たな歩みが始まりました。

(9月号に続く)

「日本での新生活の意味・主のご計画を尋ねる」

私たち家族は、この3月に日本に本帰国しました。駐在に終わりが来ることは分かっていましたが、子供たちにとって「日本は遊びに行くところ」であったため日本での新生活への不安は隠しきれていなかったと思います。

帰国して数か月がたった今、フェイスブックを眺めると、夏休み入りしたアメリカの皆さんの投稿が目に飛び込んできて、楽しかった思い出が蘇ってきます。庭でのBBQ・ハンバーガー、海や公園、礼拝堂・ジムでの愛餐会、そしてマンハッタンの喧騒。まだ五感で思い出せるので、あたかも日本に一時帰国しているような気持ちにすらなります。

アメリカでの生活・経験を総括するには日が浅いものの、良い信仰の輪(教会)に加えられこと、大きな怪我、病気、事件に見舞われることが無かったことに感謝しています。しかし、何よりも妻の受洗、そして新たな命が家族に与えられたことは私が渡米した当時の期待をはるかに超える祝福でした。主のご計画が人智をはるかに超えたものであることを経験することが出来たと思います。

この半年を振り返ったとき、転勤に伴うドタバタ(5人家族の引越・家探し、仕事の引継、子どもたちの転校)だけでも大変ですが、子どもの高校受験と私の大学院の受験をこなさなければならず、「走りながら考える」とはまさにこのことだと感じる毎日を過ごしました。これだけ多くの出来事を同時並行的に進められたのは、家族が実質的な司令塔と仰ぐ妻の段取り力に他なりません。整然とした新居でコーヒー片手にホッとするとき、神様が妻の健康を守って下さったことに感謝せずにはいられません。

「えっ!これから大学院に?何故?」と質問された時に、5分も10分も使って経緯を説明するわけにもいかず簡潔な受け答えをしてきましたが、祈り求めていた進学にいたった経緯をご紹介します。

経営大学院に初めて興味を持ったのは20代の後半でした。不景気が普通の状態である学生時代を過ごし、少し上向いたと思ったらリーマンショックに見舞われ、漠然とした不安感を持っていました。思い描いたような仕事(=海外駐在)も出来ず焦りがありました。ニッチな領域の手に職的な仕事をしてきたため、経営大学院って意味があるのだろうか?手に職の方がいいのでは?決して勉強自体が好きな性分ではなく、大学時代の成績も褒められたものではなかったため、何となく気になりながらも自分に言い聞かせるように目の前の仕事と家族に集中してきました。

念願叶ってアメリカに来た当初は日本で担当していた業務領域をアメリカで担当するスペシャリスト的な仕事が与えられました。しかし、駐在の後半には経営陣を補佐する仕事が与えられ、尊敬する同僚の視野の広さ、思考の深さに魅了され、体系的にビジネスを学ぶ意欲が掻き立てられました。

一時帰国の際に学校訪問し目的と手段(進学)にズレがないかを確認したり、費用対効果を検証した上で、テスト対策・願書づくりの日々が6月から始まりました。受験は2回(年)までと決めていたため「ご計画ですよね。信じます。先取して感謝します。」と祈る日々が続きます。11月には受験のために弾丸で一時帰国し、2月には長男と一緒に3週間滞在し、長男の高校受験の傍ら、私も受験に臨みました。そして無事に合格を頂き、4月から会社員、夫・父、学生という三足の草鞋を履く生活を送るチャンスを得ました。仕事においても海外子会社を再編するプロジェクトを任され、大学院での学びを実践で活かせる役割を得られました。

今は日本での生活にもすっかり慣れましたが、片道1時間、電車に揺られて通勤・通学する毎日は案外苦痛ではなく、むしろ課題・自習の貴重な時間で座席に座ることは許されません(寝てしまいます)。自分のキャリア、家族の経済的な自由を目的に進学したことは偽らざる本音なので、一日の働きを終え寝床に入る時、「この道は神様が与えて下さったが、なぜ与えられたのか。キリスト者としての私は期待されているのか。両立が難しくて困難に至るような計画ではないですよね。試練は与えないでください。」と神様に聴きながら、気が付くと朝を迎えます。

“主は言われる、わたしがあなた方に対して抱いている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。”
エレミヤ書29章11節

一切が益となる計画を神様は用意してくださっています。主に感謝しつつ、私が御心から逸れず常に主を仰いでいられるようお祈りください。

私は教会で育ったからクリスチャンなのか? 〜生態学を通して信仰の自立を考える〜

1.はじめに

2024年5月に大学を卒業いたしました。中高生時代に体調を崩していたので、親元を離れてのアトランタでの大学生活にご心配をおかけしましたが、多くの方にお祈りしていただき支えられましたことに感謝しています。さまざまな壁にぶつかりながらも、充実した日々を過ごすことができました。

大学での4年間を振り返ると、自分で言うのもおこがましいですが、学業と信仰が互いに影響し合いながら大きく成長できたように思います。生態学を学ぶ中で、またクリスチャンとしてのアイデンティティが芽生えたこの期間を通じて神様の恵みを深く実感したので、そのことをお証しさせていただきます。


2. 幼少期と信仰の始まり

ニュージャージーで生まれ育った私にとって、平日は英語の現地校、土曜日は日本語学校、日曜日は教会という生活が幼少期から高校卒業するまで「当たり前」でした。母がクリスチャンなので、物心がつく前から地元の英語教会やニュージャージー日本語キリスト教会に通い、教会学校やジョイジョイシンガーズ、ジョイジョイキッズクラブ、ジョイジョイキャンプなどに参加していたので、自分が神様に愛されていることを耳にタコができるほど聞いていて、知っていました。

最初は母に教会に連れて行かれていましたが、小学1年生の時に神様の子どもになりたいと自ら願い、洗礼を受けました。中高生になると、教会のミニストリーを手伝うようになり、少しずつスタッフとしての役割を担うようになりました。礼拝では和英通訳をするなど、さまざまな奉仕に加わる機会に恵まれました。英語と日本語を活かしながら礼拝のために、教会キッズのために、教会のご奉仕をするのは純粋に楽しかったのを覚えています。当時、私が発案した工作の企画や賛美動画の活動を教会の大人やユースの仲間が喜んで応援してくださったことによって、私の与えられた賜物が用いられていると感じ、教会生活やご奉仕に積極的にになれたのだと思います。 


3. アトランタでの大学生活

COVIDで最初の1年リモート授業を余儀なくされましたが、2年目の夏から大学進学のために親元を離れてアトランタでの生活が始まりました。リベラルアーツの小さい女子大だったので、理系文系問わず興味のある分野を少人数の授業で受けることができました。脳科学専攻の一方、ジャーナリズム・公衆衛生学・化学を副専攻として学び、生態学の部活の部長を務めたり、昆虫を用いた微生物の研究をしたりなど、いつしかスケジュールの詰まった大学生活を送っていました。

教会に行くかどうかを自分で決めるようになり、毎週アトランタ日本語バプテスト教会に通いました。新しい教会生活のスタートでしたが、ニュージャージーの教会もアトランタの教会も、同じ神様を礼拝する場であり、主のもとに帰る場所であり、神の家族と会える場所だと感じました。大学から離れて数時間、日本語でメッセージを聞ける、教会の皆様と交われる環境に身を置くことができ、徐々に教会が心の拠り所となりました。

アトランタの教会では、礼拝の賛美チームに参加したり、教会学校で祈り課題を共有したり、月に一度の愛餐会で共に食事をしたりしました。また、礼拝後にはキッズとお絵描きをしたり、本を読んだり、宿題を手伝ったりする時間を過ごしました。教会の外でもご自宅に招いていただいたり、キッズとザリガニやイモリを探しに行くこともありました。

たとえ寝不足でも、試験に追われていても、日曜日の朝は教会に行こうと思えたのは、信仰の支えがあったからこそです。1週間大学でヘトヘトになって教会へ駆け込み、主のもとで憩い、力をいただいてまた出ていく、1週間がんばれるというふうに、学業と信仰が互いに影響し合い、私の生活を支え、大きく成長させてくれたように思います。


4. 信仰に対する葛藤と挑戦

同時に、信仰に対する葛藤も感じるようになりました。アトランタで出会ったアメリカ人や日本人の友達に、自分の信じている神様についてうまく説明できず、悔しく情けない気持ちになることが何度もありました。礼拝に来てもらっても、主の祈りを唱和した時に「今のはカルトっぽくなかったかな?」と心配することもありました。

大学では、私が教会に通っているクリスチャンだと知っている人はいるものの、聞かれなければわざわざは言わないようにしていました。私の大学は非常にリベラルな校風で、キャンセルカルチャーが激しいと感じていたため、学問で不自由を感じないために、私は必要でない情報は無闇に言わないスタンスを取っていたのです。

例えば、クリスチャンのキャンパスミニストリーがLGBTQに関する声明を出すよう学生から求められ、保守的すぎる、寛容でないと大学のコミュニティーから追い出されるということがありました。このような環境で、自分の信仰をどう表現するか、どのように維持するかについて多くの葛藤を感じていました。


5. 信仰と学問の共生

生物学の研究を進める中で、神様の偉大さを感じました。例えば、昆虫が特定の微生物と共生することによって得られる利益や、生態系全体におけるその役割を理解することで、神様の計画の緻密さと精巧さに感嘆しました。

しかし、これらの分野に関する知識が深まるにつれて、疑問も増えました。例えば、遺伝子操作の発展は生命の神秘を解明する一方で、倫理的な問題も引き起こす可能性があります。進化学においては、自然選択や突然変異のメカニズムを理解することで、神様が創造された生命の多様性の素晴らしさを解明できる一方、クリスチャンとして進化論と創造論の間で揺すぶられることもありました。

こうした疑問に直面する中で、神様が与えてくださった知識と技術をどのように使うべきか、クリスチャンとしてこの道の研究者として進んでいく場合どうあるべきかについて考えるようになりました。科学の進展を通じて神様の偉大さを証しする一方で、倫理的な問題に対しても慎重に対応することが求められるからです。これは大きな挑戦です。大学院進学に際し、この道を突き進むことが正しいことなのか神様に喜んでいただけることなのかと、大いに悩んだ部分でもあります。けれども今は、信仰と学問の両立についてさらに多くを学び、クリスチャン研究者としての自分の立ち位置を再確認しながら歩んでいこう、と思わされています。


7. 神様を受け入れる選択

生態学では、最初に定着した種がその後の生態系に大きな影響を与えることを「先住効果(Priority Effect)」と呼びます。複数の生物種が新しい環境に導入される際、どの種が最初に到着するか、その数や環境への適応度の違いによって、それぞれの生物種の成長能力や最終的なコミュニティーの構成が変わります。
私の信仰も、まさにこの先住効果のようだと感じます。母が私を毎週教会に連れて行き、様々な教会の集まりに参加させてくれたことで、私の信仰の基盤が築かれました。この最初のエクスポージャーがなければ、私の信仰は異なるものになっていたかもしれません。大学生活を通じて、私は自分の信仰が、母や育った環境からの影響だけでなく、私自身の選択によるものであることに気づきました。

最初に与えられた信仰の環境が、神様と共に歩み続けたいという私の意志によってさらに強固なものとなりました。このようにして、信仰は単なる環境による「エクスポージャー(exposure)」だけでなく、私自身の「選択(selection)」によっても形成されていったのです。

時折クリスチャンでない生き方に揺れ動き、教会から離れそうになりましたが、聖霊様による信仰生活の免疫(Immunity)に守られているのだと思います。最初に形成された信仰が成長し、大学生活を通じてさらに深く「定着(establishment)」したと感じています。

学業と信仰の両面を通して、私は信仰生活が自分にとってどれほど重要であり、それが私の人生にどれほど深く根付いているかを実感しました。このプロセスを通じて、信仰が私自身の意思と神様との関係に基づいていることを確信しています。これからも、神様の導きと共に成長し続けていきたいと思います。


8. 結論

私は、クリスチャン家庭で育ったからではなく、自らの意思で神様を受け入れました。まだ弱さや葛藤はありますが、これからも神様の愛に満たされ、神様のご臨在の中で生き生きとした信仰生活を送りたいと祈っています。

   『雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、
  地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、
  種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。』 <イザヤ書 55:10>

「想像を超えた神様のご計画」

お証の機会に感謝します。

私は、昨年5月に組織改編によるリストラの為、18年間勤めた会社を退職することになりました。ある朝オフィスで働いている時に、突然上司から会議室へ呼び出され、あなたのポジションを無くすことになったと通告されました。そこからは、自分のデスクに戻ることも許されず、終わりのないバケーションに突入する事態となりました。

組織を司る部署に所属し、会社の方向性も熟知していましたので、それが自分に起こり得ることも承知していましたが、実際にそれを経験すると、かなりの衝撃でした。

この話を聞いた、教会のHさんは、『神様のされることは、ベターかベストしかないからね。』と言ってくれましたし、一緒にスモールグループ(聖書の分かち合いと祈りの時)をやっているKさんは、『神様がすることはベストしかないよ。』と言ってくれました。 それぞれの励ましを聞きながら、本当に心からそう思える日が来たらいいな、果たして来るだろうかと、ただ思うばかりでした。 また急に時間が出来た為、一体どうしてこのようなことになったのだろうかと考え始めました。

今後、再就職して新しい会社に行く場合、ほぼ一年は纏まった休暇を取れなくなると思い、5月後半には息子と一緒に里帰りをすることにしました。その結果COVID以来、久しぶりに日本の家族に会うことが出来、少し前に帰国されたNTさんや、NSさん・Kさんご夫妻にもお会いしました。

日本の母は4年ほど前から認知症患者用施設に入居していますが、前回会った時と比べて、だいぶ足腰が弱っていました。 また私と自分の妹の名前を混乱して呼んだりし、母に残された時間が多くないことを感じました。 母に早くイエス様の救いを受け入れてもらい、天国の切符を受け取ってもらわないとと焦る思いで、面会に行った時、母と二人だけで話をしたいと施設にお願いし、その時間を作っていただきました。

母に、イエス様が私たちの罪の為に十字架で死んだこと、イエス様が墓に葬むられて、三日目によみがえったこと、このことを信じるものは神様の子として、死んだあとも天国へ行って、永遠の命がもらえる。お母さんもイエス様を信じようね、と手を握って話ました。 それを聞き、母は、それはありがたいね、と応答しました。そう、だから一緒にイエス様を信じるお祈りをしよう、私は祈りを導き、イエス様、私たちの罪を赦す為に死んでくれて有難うございます。お母さんはイエス様を救い主として、感謝して受け入れます。 神様のこどもとして、これからの歩みもイエス様が助けて下さい。アーメン。母もアーメンと応答しました。 簡単でつたない信仰告白のお祈りでしたが、イエス様が聞いて下さったと信じます。

もっと若く、頭がしっかりしていた時は、教会に連れて行っても、説教の時間に居眠りをしているような母でしたが、今は疑問を呈する力もなく、福音を受け入れることが出来る柔らかい心になっていました。 私は、この為にこの時期里帰りすることが出来たのだと思い、心から神様に感謝しました。

一方で、日本から戻った後は、弁護士を通じて、会社と退職条件の交渉を行う必要があり、それを考えるだけで気が重く、以前のように心から里帰りを楽しむことは出来ませんでした。

こちらに戻ってからは、経済面以上に、周りの人たちに別れを告げる機会もなく、職場を去ったことからくる心痛や、これからどうすれば良いのかという漠然とした不安が残りました。 時差ぼけの時期が過ぎても、なかなか寝付けず、不眠症となり、体重は急激に落ち、いつも疲れて体調や気分が悪く、何もしたくない時が長く続きました。

毎週持っているスモールグループでは、AさんやKさんが常に励ましのお祈りをしてくれました。一緒にNY礼拝を捧げているYさんや、以前教会に来ていたMさんやFさんなどが家に来てくれて、交わりや祈りを通して励ましを与えてくれました。MHさんも、私が不眠症で悩んでいると聞き、カウンセリングをしてくれました。本当に神様は必要な時に、必要な祈り手と助け人を与えて下さるお方です。

人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる。(箴言5:21) という聖書の言葉をいつもデスクの前に置いていました。 私の知らないうちに神様が心を砕いて下さっている、このことを思うたびに涙が出てきました。

体調不良が続く中、求職活動はとても難しいように思えました。 また以前の職場や、他で経験した様々なことから、私は強い年齢コンプレックスとも戦っていました。 神様は必ず必要を満たして下さるし、神様の方法でことを為して、ご栄光を現わして下さると、スモールグループで励ましてもらっていましたし、私自身もそう信じていましたが、恐れを取り除くことが難しかった事実を告白せずにはいられません。

夏が終わるころには、何とか就活を再開し、いくつかの会社に面接へ行きました。 その結果、半年の失業保険給付が終わろうとする10月の終わりに、神様はある会計事務所とそのクライアント企業での仕事を与えて下さいました。 ただ、その時も面接や、仕事の初日に雇用主や人々に年齢を知られることを恐れていました。

再就職先では、2つの会社を掛け持ちしながら、フルタイムで働く条件で入社しました。最初は大変で、夜も週末も独学での学びを続けました。やがて次第に慣れてくると、仕事が楽しくなっていき、ここで数年働いてリタイヤしても良いかもと思うようになりました。 ところが、入社して1か月半ほど経った頃、突然勤務時間を40時間から35時間にして欲しいと言われました。 それを承諾しましたが、その後も徐々に業務量が減っていき、1月に入ってからは、翌日仕事があるかどうか分からないような状況になりました。SGでも、明日仕事があるように祈って下さい、というお祈りをお願いするようになりました。 しかし、状況が改善することはなく、そこで働き続けることは困難に思えました。

あなたは私の報酬を何度も変えました、とヤコブが叔父のラバンに言った言葉が頭に浮かび、神様に叫びました。あなたはこの状況をご覧になっていますね。神様、何とかしてください。私が今までやってきたことを活かせる別の機会を与えて下さい、と私は神様に泣いて叫んで祈りました。

そして、その直後のことです。確か翌日だったと思いますが、就職サイトIndeedでNew Jerseyにある会社のポジションを見つけました。 ある日系のJob Agencyが掲載していたもので、Just Postedとありました。長年勤めていた以前の会社の同業他社で、その内容を見て心に感じるものがあり、すぐに応募しました。

しかし、先方からは何の連絡もありませんでした。 約一週間して、そのAgentから漸く連絡がありましたが、なんと私が応募したポジションではなく、マンハッタンでの別のポジションに興味はないかとの問い合わせでした。 私はその会社への応募もお願いしつつ、その前週にIndeed経由応募したNJのポジションがあることを先方に伝えました。 その方は、NJでの仕事は12月から出ており、もうクローズになっていると思う、でもまだ履歴書を受けてもらえるか聞いてみると言って、その会社にも私の履歴書を送ってくれました。

その結果、2月初めにはこれら2つの会社に面接に行くことになりました。 勤務していた会計事務所での仕事がスローであった為、面接準備や祈りに十分時間を取ることが出来ました。

後日私が入社することになったNJの会社では、面接官の方が実家で不幸があり帰国していた為、採用活動がひと時中断されていた、その間に私の履歴書が届き、タイミング的には良かったと言って下さいました。 ただその面接で受けた印象は、可もなく不可もなくといった感じでした。 一方、もう一つのマンハッタンの会社では、第一面接の時より、是非来て欲しいという雰囲気が漂っていて、こちらに決まるのではないかという感じがしました。

しかし、感謝なことにその翌週には両方の会社からオファーをいただき、どちらかを選ばないといけないという状況になりました。 条件的にはほぼ同じでしたが、祈りの中で、安き道を選ぶのではなく、狭い門から入りなさい、というみ言葉が心に響きました。 通勤に片道70分、コーポレート業務全般を総括する相当チャレンジングなポジションでしたが、こちらの会社に行く決断をしました。 神様が安きなところでsettleするのではなく、更にチャレンジして人として成長するように促しているように思えたからです。

こういった経緯で、2月後半からJersey Cityにある会社に再々就職することになりました。前任者が2月末日で退職する為、引継ぎは4日しかありませんでしたが、親切な方が備えられており、出来る限り教えて下さいました。 これも祈ってきた結果です。 それから約二か月経った現在も、分からないことばかりで、仕事をこなす為の知恵が与えられるよう、助け人が備えられるようにと祈らない日はありません。

人生を歩んでいく中で、どこかであなたはもう要らないと言われることがあるかもしれません。 年齢を重ね、人の目には、また常識的にも可能性がないと思える状況に遭遇するかもしれません。 でも神様は常に憐みを注いて下さっていて、主のみ名を呼び求めるものに対して、不可能なことは何ひとつない神様の方法を以って、私にも憐みを示して下さいました。

最近、更に神様から語られたことがありました。『私が与えてきたものが、私より大切なものになっていないか? あなた自身のすべてを私に捧げなさい。』と。 神様が与えて下さった仕事が偶像にならないようにと悔い改めて、握っていた手を神様の前で開きました。神様が与えて下さっているもの、私自身の命、時間、信念、仕事、その他多くのものを神様の前にお捧げする祈りをしました。その時に心にすっと平安が与えられました。

わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。 (へブル12:5-7

2024年春のレント集会において、ここに書いた内容でお証をしました。 後日に至っても、証のビデオを見ました、と励ましのご連絡をいくつかいただきました。 これを通しても、証をするものが一番の恵みを受けることを今回も経験させていただきました。

感謝しつつ、すべてのご栄光を主にお返しします。

「証し」

私と妻はニュージャージー生活に一区切りをつけ、2024年3月に日本に帰国しました。5年半に及ぶニュージャージー生活のなかで、私が神様から頂いた愛と試練についての3つの出来事を振り返り、お証したいと思います。

1つ目の思い出は、2018年10月にニュージャージーに参りましてから、仕事の引継と生活の立ち上げが一段落したところでニューヨーク男声合唱団の門を叩いたことです。学生時代に打ち込んでいた男声合唱ですが、就職して以後、なかなか取り組む機会に恵まれていませんでした。
2015年1月にシンガポールでのベートーベンの第9演奏会、そして2017年12月のことになりますが、モーツアルトの命日にウィーンのシュテファン教会で「レクイエム」を歌うという企画旅行があり、それらの練習から徐々に自分の持ち時間を合唱へと取り分けるようになりました。
これらに続き2019年2月に予定されていたブラームスの「ドイツ・レクイエム」の演奏会にオンステージすべく練習を始めました。ところが急なニュージャージー転勤の話が舞い込んだことから途中で断念せざるを得ませんでした。この時の思いが、自分としては着任早々に男声合唱の門を叩いた動機となりました。
しかし20年前のロサンゼルス勤務時と同様、どうもアメリカの空気質が合わないのか、アレルギー性副鼻腔炎が悪化。ポリープ除去の手術を2019年5月に行い、更に注射による減感作療法を2年間に亘り行いました。結局これは今もなお完治せず、以前のように声が出せなくなってしまいましたが、なんとか定期演奏会に4回も乗ることが出来ました。この間、指揮者の山内竜二さんを始め多くの新しい友と知り合う機会ができ、これから先の人生においても自分には男声合唱の活動はどんな試練が有っても続けていくべきだと、神様からのお導きがあったと思っています。

2つ目の思い出ですが、2021年6月6日の私の洗礼記念日です。受洗の決意に至るきっかけは錦織学先生とバイブルおばさんとの出会いを神様が作ってくださったからに他なりません。もともと父方の親戚は全てクリスチャンというクリスチャンファミリーに生まれたものの、親の方針で信仰を積極的には推奨されなかったこともあり、人生の最後の時に、病床で洗礼を授けてもらう「病床洗礼」を視野に入れていました。その様な私が、このニュージャージーの地でふと見たFacebookをきっかけとして、私の多くの友人と繋がりがある錦織先生を神様が引き合わせてくださったのは、今考えても奇跡としか言いようがありません。
その錦織先生とニューヨーク男声合唱団でご一緒できたこと、合唱団の指揮者の山内さんが教会で指揮棒を振られたことには二重の喜びがありました。

そして最後にですが、今般、想定していたよりも早くに帰国時期を迎えてしまった原因の試練についてお話しします。2022年9月、PSA検査という前立腺の血液検査をオプションで受けました。過去にも何度か受けましたか基準値内、しかしその時は基準値内でしたが数値の上昇傾向が見られたので半年後に再検査となりました。そして2023年3月、再検査の数値も基準内で上昇が続き、ホームドクターの勧めもあって泌尿器科医を受診しました。今思えば、オプション検査を選択したこと、意を決して専門医を受診したことは神様が背中を押してくださったからではないかと思います。
泌尿器科医はベテランの先生で触診だけで怪しいと判断され、すぐに生検(バイオプシー)の手配に入りました。実施したのは私の還暦の誕生日の翌日、2023年4月12日の事でした。2週間後には「中程度リスクの前立腺がん」という所見で「まだ若いのでロボット手術による全摘出」を推奨され、実際に執刀するマウント・サイナイ病院の泌尿器科を紹介されました。その後、MRI検査を受けてのセカンドオピニオンでも結果は同じで、7月14日(金)に手術を行いました。
その後、尿失禁は完璧には収まらないものの、お陰様でその後3回のPSA血液検査では検出限界値以下、すなわち転移の兆候なしとのことです。手術後2年間は経過観察ですが、そもそも前立腺がん手術の予後10年生存率はステージ3でも99.5%なので「死なない癌」ともいわれてます。とはいうものの早期発見に越したことはなく、神様に守られたことを強く感じる日々です。
このような事が起これば、企業は当然に海外駐在員に帰国命令を出します。自分としては会社の産業医ともWeb面談を行い、帰国時期については業務優先で良いと言われ、実際のところは全く業務に支障をきたしておりません。ただ、自分のポストの前任者が過去3名も任期中に病に倒れており、部位は異なるものの2名の方が癌でお亡くなりになっていたので、帰国命令は仕方のない所ではあります。
しかし、神様。私はこのニュージャージー日本語教会の愛する兄弟姉妹、ニューヨーク男声合唱団の仲間たち、信頼できるアメリカ人の同僚や部下たちと離れ離れになってしまうことが、とても残念で、悔しくてなりません。何故ここを離れればならないのでしょうか。
日頃、食生活には十分に注意し、運動習慣もあり、家族にこの病歴の者もいないのに、どうして、このような病を私にお与えになったのでしょうか。いまでもなおどこか心の中で叫び続けております。
この病のことを家族以外へ最初に打ち明けたのは錦織先生でした。先生には余計なご心配をおかけしてしまったことを申し訳なく思っていますが、絶えずお祈りを頂けましたこと、また術後にベッドで読みました、先生の示された聖句には本当に心から救われた思いがあり感謝しております。

最も心に残った、というか最後のまさかの展開に目の前がぱっと開けた部分を最後に読みます。

ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。 そこで彼のすべての兄弟、すべての姉妹、および彼の旧知の者どもことごとく彼のもとに来て、彼と共にその家で飲み食いし、かつ主が彼にくだされたすべての災について彼をいたわり、慰め、おのおの銀一ケシタと金の輪一つを彼に贈った。 主はヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった。 また彼は男の子七人、女の子三人をもった。 彼はその第一の娘をエミマと名づけ、第二をケジアと名づけ、第三をケレン・ハップクと名づけた。 全国のうちでヨブの娘たちほど美しい女はなかった。父はその兄弟たちと同様に嗣業を彼らにも与えた。この後、ヨブは百四十年生きながらえて、その子とその孫と四代までを見た。 ヨブは年老い、日満ちて死んだ。

ヨブ記42:10−17

 

神さまからのチャレンジ

 2023年の11月で、フルタイムで働くようになって丸4年が経過しました。子育てが終盤に差し掛かり、子どもたちがそれぞれに巣立とうとする中、私にこの地でできる仕事を与えてください、新たに資格を取ったりする必要のない仕事を与えてください、と祈った結果与えられた仕事でした。専念していた20年の子育て期間を経ての社会復帰は、私なりにそこそこチャレンジングでした。子育ての大半が終わったとは言え、3人の子どものうちの2番目と3番目は高校生でまだ送り迎えが必要でしたし、大学進学準備もありました。ある日を境に共働きになったからといって、仕事漬けで走り続けている夫との家事分担は難しく、家や子どもたちのことがうまく回らないことや、自分の時間が取れないことにストレスを感じながらのスタートでした。

 一方、就職した先は、植物工場で日本のおいしいいちごを生産することを目指す農業ベンチャーでした。植物工場とは、屋内で植物の生育環境を人工的にコントロールし、計画的に作物を生産することのできる未来型の農業形態です。私はもともとアウトドアが好きで野山を駆け回っていたタイプだったのですが、ポイズンアイビーを繰り返しその度に重症化していたため家庭菜園さえドクターストップがかかっていました。そんな私にとって、害虫も雑草も排除された植物工場で再び植物に触れることができる仕事は、楽しくて仕方がありませんでした。いちご摘み、葉掻き、糖度測定、パック詰めなどの農作業に加え、ホースやパイプを切って灌水設備を設置したり、コンテナの上にのぼって電気ケーブルを通したりというベンチャーならではの実際の工場づくりも皆でやりました。当時、葉物野菜の植物工場はすでに存在していましたが、受粉の必要ないちごのような果菜類の植物工場は不可能だと言われていたのです。それは、植物工場のような閉鎖空間では、ハチが野生の感覚を失ってしまいうまく働いてくれなくなるという、主に受粉の問題があったからです。それをたった10数名のメンバーで、世界初を目指して夜遅くまで試行錯誤を繰り返す職場は、やる気とパッションに溢れていて、自分がしばらく忘れていた懐かしい感覚が蘇ってくるようで、一緒に働くことでたくさんのエネルギーをもらうことができました。

 そんな私が入社後に立てた目標は「3年でいちご博士になる!」でした。家庭と仕事の両立で苦しんでいた私の、3年は辞めないぞという決意表明でもありました。教育専攻で、小学校教師になり、子育て中も近所の子どもたちの日本語学習のサポートに関わっていた教育畑出身の私にとって、植物工場は何もかもが新鮮で、もともと旺盛な好奇心に火がつき、明けても暮れてもいちごの謎を突き詰める毎日が始まりました。まず、いちごをより知るために植物生理学から始め、夜な夜な借りてきた文献やネット資料を読みあさる一方、植物工場の電気がつく(=植物にとっての朝)6時には農場に入り植物の健康状態を観察する早朝5時起き生活です。実地と勉強会の並走は学びが多く、知れば知るほどまた疑問が生まれます。次に肥料配合や植物の根の栄養吸収を向上させるための有機化学。そしてその次は環境制御のために、例えば人工光の白、赤、青など異なる波長の組み合わせを試すために物理が必要になり、更にそれらのデータを収集して解析するためのデータサイエンス。と、どんどん広がり、終わりがない世界にのめり込んでいって、気がついたら4年が過ぎていたという感じです。残念ながらまだいちご博士にはなれていないと思います・・・奥が深いのです。

 1人で植物と向き合っている時、いろんなことを考えます。例えばいちごの実は、1つの房にいくつものつぼみができ、順番に花が咲き、先に咲いたものから順にいちごの実になっていくのですが、1番最初の実が一番大きく、2番目3番目の実は1番目の大きさを上回ることはありません。家庭菜園を経験されたことのある方はきっとご存知でしょうが、1番目2番目3番目の実を大きくするために、4番目5番目6番の実や花やつぼみを取り除きその栄養を最初の方の実に行くようにする摘果(てきか)を行います。またいちごの実は、最初緑で硬かったものが白へ、そして赤へと色づき、柔らかくなっていきます。赤くなり始めると実の成長自体は止まり、今度は糖度を充実させることへと切り替わるのです。つまり色が変わり始めると実がそれ以上大きくはならないという判断ができるので、この段階で規定サイズ以下のものは摘果します。この作業はいちごを出荷するためには必要ですが、3人の子どもをもつ母親の私にとっては非常に酷なもので、いつも複雑な思いになります。子どもたちの顔が順番に浮かんできて、いちごであっても出現順で見切りをつけるなんてあり得ない、4番目5番目6番目のこのいちごたちだってこんなに美しく咲いているのに、もしかしたら大きくなってくれるかも知れないのに・・・と摘果をしながら何度思ったか知れません。けれども、もう実ができていても、花が咲いていても、つぼみが膨らんできていても、摘果しなければなりません。時には小さなつぼみがたくさんついている房ごと取り除くこともあります。いつもため息が出ますし心が痛みます。ふと新約聖書のマタイ7章にある「良い実を結ばない木は切り倒されて火に投げ込まれる」という聖書箇所が思い起こされ、神さまの厳しい裁きのことを考えたりもします。そして、それぞれ違う道を歩み始めた子どもたちのことを思っては差がついてきたように感じられ、3人とも神さまに喜んで受け入れてもらえるだろうかという思いで不安になるのです。けれども、『今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっとよくしてくださらないでしょうか。』(マタイ6章30節)や『あなたは私の目には高価で尊い』(イザヤ書43章4節)のみことばを思い出すと、脳裏に浮かんだ子どもたちの顔が笑顔になっていきます。子どもたちのそれは、差ではなく違いであって、神様から与えられた個性であることをうなずくことができ、それぞれをそのままの姿で喜んでくださる神さまを思い、安心します。と、次の瞬間「良い実を結ぶとは?あなたは?」ということが突きつけられてくるのです。神さまからのチャレンジです。「私は大丈夫かな。良い実を結んでいないから炉に投げ込まれてしまうんじゃないかな。」と自問自答して胸が詰まりそうになります。すると決まって、♪ Jesus, I need you. Every moment, I need you ♪ という賛美の歌詞が心の中に流れてくるのです。私はすぐに「その通りです。今この瞬間、神様、あなたが必要です!」と心の中で叫びます。さまざまな思いがよぎっては不安になる自分。懸命に努力しても追いつけない高みがある現実に心がうなだれてしまう自分。けれども”Jesus, I nee you!”「この瞬間も、神さま、あなたが必要です」と叫ぶ時、心に平安が与えられます。立ち上がる力が与えられます。私が叫ぶ時、神さまはそこにいてくださいます。摘果は今でもあまり好きなタスクではありませんが、その作業を通して、どの瞬間も私には神さまが必要であることを毎回確認することができるのは感謝なことです。きっと私がそのことを忘れてしまいやすい者であることを神さまはよくご存知だからなのだと思います。自分の力では良い実を結ぶことはできず、ただただ神さまにしっかりとつながっていることが大切だということを再確認する幸いなときとなっています。Jesus I Need You – Hillsong Worship (2015 New Worship Song with Lyrics)
 
 4年前は20人弱だった会社も、現在は200名となり、急成長急拡大しています。喜ばしいことですが、ただそれゆえの難しさも感じています。「多様性」という壁です。スタートアップ当初の社内は日本人が主流で英語でなくてもOKでしたが、いつの間にか英語が公用語、書類やミーティング、プレゼンも英語となり、メンバーのバックグラウンドの違いからくるカルチャーギャップも多くなってきました。日本人の常識や普通が、そうではない場面に出くわして、うーんと思わずうなってしまうことがあります。働き方もさまざまです。メンバーの集中力、休憩の頻度、仕上がりの丁寧さなどを確認する必要がある時、この人たちは皆同じ給料でいいの?と思ってしまいます。そんな時思い出すのは、聖書の中には早く来た者も遅く来た者も同じ賃金を受け取るたとえが出てきて、すべての者に豊かに与えたいと願っておられる神の愛が語られています。そのたとえ話を思い出して、私自身が他の人と比べるのではなく、自分に託されたことに集中するようにと、「小さなことに忠実でありなさい」と語られました。ようやく、多様性を知ること、認めることはできるようになってきたかなあとは思うのですが、その多様性を尊重し、相手の個性と自分の個性を合わせて2ではなく3にするために上手にコラボしていくことが次の課題と感じています。これも神さまからの大きなチャレンジです。『それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。』(第1ペテロ4章10節)

 また、会社が大きくなるにつれ、全員で力を合わせてなんでもやっていたベンチャーから脱皮し、企業として成長していく時期に差し掛かっています。社内に部門が増え、業務が分化され、特定のスキルのある人が外部から雇用され、専門性が問われるようになってきました。その流れで私の所属や仕事内容も変わり、不満や不安を感じることが多くなってきている今日この頃です。この分野では全くのド素人であり、まだ自分が目指すいちご博士には届けていないと自覚しているのに、任された仕事内容に対する不満、任されないことに対する不満、一緒にプロジェクトをするメンバーへの不満などが積もってきています。最初はあんなに植物をさわれることへの喜びでいっぱいだったのに、いつの間にか、不平不満が溢れて止まらなかった出エジプトの民(旧約聖書)と同じように自分もなってしまっていることに気づき、このみことばによって立ち止まらされています。そう、詩篇103篇『主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。』です。けれども、私が仕事に没頭している間にも、神さまは働き続けてくださっており、たくさんの良いことをしてくださっていました。コロナ禍でも、農業はエッセンシャルワークということで私は毎日出勤していて、リモート授業となっていた子どもたち3人(2人の大学生と1人の高校生)が週2回ずつ6日間の夕食を作ってくれる日々が1年ちょっと続きました。そのおかげで私は早朝からファームに入っていちごの観察をすることができ、一般業務の前に勉強の時間を確保できました。子どもたちは毎回5人分の食事を準備するのに最初は悪戦苦闘していましたが、次第にレシピの材料が揃っていなくても冷蔵庫にあるもので準備できるほど腕が上がっていきました。今は3人とも自宅を離れましたが、十分自炊できるようになってくれたので、ある意味安心して見ていられます。またコロナ禍の閉鎖的な日々も、子どもたちが作ってくれた夕食を囲みながら、その日私の会社であったことをシェアしみんながそれに突っ込んだりダメ出ししたり質問したりと、たくさん話をするのが日課となりました。新しく知ったいちごの植物のあれこれや、ハチの受粉の難しさ、垂直農法のシステムや競合他社との攻防、起業あるあるやシンガポールの大学インターン制度、同僚の20代男子にもっと効率を考えて動くように怒鳴られて凹んだことや、まるでTVドラマのような大人同士の激しい本気のディスカッションがあったことなどです。たわいもないことでしたが、このような分野に長男は興味を持ったようで、私の会社で夏のインターンシップをし、そのまま就職することになりました。小学1年生の頃からFarmerになりたいと彼が言っていたこと、けれどもそれをどのようにサポートしていいかわからなかったことなどをその時思い出しました。娘は、私の研究開発部門での実験の話に影響を受けてか、大学入学直後から生物系の研究に目覚め、それを突き進めるためにこれから研究の道に進もうとしています。立ち上げ初期のメンバーとCEO宅で一緒に食事をする機会が何度かあった次男は、アメリカ育ちですが噂に聞いていた日本的な体育会系のノリというベンチャーの雰囲気を肌で感じ、色々と学ぶこと思うところがあったようです。夫も数年経った今では、自分で洗濯機を回したり洗い終わった食洗機の食器を棚に戻したりと、共働き夫婦らしく家が回るように無言で動いてくれています。私が社会とつながり奮闘していることもまた、家族それぞれに安心を与えているのかもしれません。この4年の間、目に見えること見えないこと、たくさんのことを主がしてくださってきており、これからもしてくださる、働き続けてくださることを確信しています。最近この賛美の歌詞が心を離れません。♪ You are Waymaker, Miracle worker, Promise keeper, Light in the darkness・・・Even when I don’t see it, You’re working. Even when I don’t feel it, You’re working. You never stop, You never stop working ♪ 4年前は、この歳になって、この地で、自分がいちご研究に携わることになるとは、ほんの1ミリも想像していませんでした。けれども、私がこうして植物工場に導かれたことが、このあともきっと何かにつながっていくのだろうと思うと、そのタネあかしが楽しみでなりません。今いるところでどうあることが神さまに喜ばれることなのか、これも神さまからのチャレンジです。まどろむことがない(詩篇121篇3節)神さまが、これからしてくださることに大いに期待し歩んでいきたいと思います。そして日々喜びが口から出る者でありたいと願っています。Leeland – Way Maker (Lyrics)

「嘆きを踊りに変えてくださる主」

ある日、ハモリに負けずに歌い切る!というテレビ番組に、笑いながら共感している自分がいました。
そして身近な録画を見て「あれ?これ私の声?自信を持って歌っていたつもりなのに少し外れてる・・」と自分の歌声に気づき、恥ずかしくなることもあるのですが、「それでもめげずに歌おう!」と、今は心に決めています。

 以前、母が私の出産について語ってくれたことがありました。それは父の母の思いに反して、母の大きな決断によって4番目の子としての出産が私だったことでした。そして、キリスト教や聖書とは無関係だった田舎の家庭に育った私が、イエス様の救いに与るなんて、まさに大きな憐れみでしかありませんでした。運動部に夢中だった中学生の時、姉と一緒に初めて教会に行き、いただいた新約聖書を一人で読み始めました。自分の力で隣人を愛する努力に限界を感じて罪が示され、高校生の時に「神様の愛は罪を赦す十字架に示された!」と知り、クリスチャンになりました。しかし、私が教会に通うことに父は反対で、ある時は茶碗を投げることがありました。そんな時でも罪から救われた喜びと神の愛に感動し、学校や教会の帰り道には「主にすがる我に、悩みはなし、十字架のみもとに、荷を下ろせば、歌いつつ歩まん、ハレルヤ~ハレルヤ~♪」(聖歌498)と歌い、賛美に励まされたり、信仰の友の祈りにも支えられてきました。キャンプに参加したり、聖書を読んで祈る中で、神様と交わることが喜びとなりました。母を通して受けた肉体の命と愛に加え、神様からの霊的な命と愛をいただくことによって、生きる喜びを感じ取っていたように思いました。

 やがて看護の道を歩む中、人が生まれる時には、母も周囲も全力で臨み「命の誕生」「命への畏敬」ともいえるものに感動しました。しかしある時は、厳粛な「人の臨終」にも直面し、本人、家族、医療スタッフが必死になっても限界「人間には立ち入れない世界」があるのを感じる時がありました。遺族の大きな喪失感で悲しむ姿を知り、一人の人の命がどんなにかけがえのない大きなものか・・、神様に問いかけ、深く悩み祈ったものでした。「肉体は滅びても、魂を救うお方がいらっしゃる。」そのことを見出し、それから救いや天国の希望、神様の大きな愛を伝えたいと願うようになり、数年の祈りの後に「私の子羊を養いなさい。」(ヨハネ21:15)のみことばに立ち、聖書学院に導かれました。

 牧会生活の中では共に祈り合い、また恵みを分かち合う中で、主に導かれる方がおられたり、また、離れて弱っていた方が信仰に立ち返った時、一緒に泣いて一緒に笑って、神様が私たちと共にいてくださると感じる時、そして反対していた家族にも神様が’働いてくださった時、それは本当に私の大きな喜びでした。

 しかし、これまでの歩みの中で、ある時には神様は私を訓練してくださいました。髪を振り乱し必死の日々、「睡眠時間を削って、こんなに一生懸命頑張っているのに・・」と、自負や思い違いをしていた時、急に試練の中に落とされます。八方塞がりの中で自分の弱さ、まるでボロ雑巾のような惨めさ、ある時には人を赦しきれない罪深さを示され、悔い改めさせられ、主のみ前にへりくだることを教えられるのでした。それでもイエス様の十字架の愛に戻る時、わたしの心に賛美が湧き上がります。
「恐れは変わりて、祈りとなり。嘆きは変わりて、歌となりぬ。
歌いつつ歩まん、ハレルヤ~ハレルヤ~」(聖歌 498)

あるセミナーの中で、教えられたことです。
「皆さんは祈る時、自分に必要なことを一方的に提示して話していることはありませんか?神様の愛をいただくために、自分を空っぽにして、心の窓を開いて、自分の内側に神の愛の眼差しを求めましょう!」
「想定外の中でも神は働いてくださるのです。言葉も出なくなる時、うめくしかない時、それでも神の前に立つなら、祈りとなるのですから、自らを明け渡す祈りをしましょう。私たちは聖霊が働かれる条件を整えましょう!」と勧められました。
「御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちをとりなして下さるからである。」(ローマ8:26)

私の心のうめきをご存知で共にとりなしてくださる方がいる。そう思うと私の内側に、不思議なほどに平安と、勇気が与えられるようでした。
私の歩みのためには、主ご自身が、そして世界中に広がった兄弟姉妹がとりなしの祈りで支えてくださるのだから。そのように大きな愛に導かれるのを感じるのでした。

「苦しみや悲しみや嘆きを踊りに変えてくださる優しいお方、主により頼みます!」と祈るのでした。

「あなたは私のために、嘆きを踊りにかえ、荒布を解き、喜びを私の帯とされました。
これは私の魂があなたをほめたたえて、口をつむぐことのないためです。
わが神、主よ、私はとこしえにあなたに感謝します。」(詩篇30:11、12)

私をここまで導いてくださった主に、心からの祈りと賛美をささげて歩んで行きたいと願っています。

「主のみ約束に、変わりはなし、み許に行くまで、ささえたまわん。ハレルヤ~ハレルヤ~♪」
(聖歌498)

証し

私は牧師家庭で生まれ育ち、家でも教会でも神様のことを聞くのが当たり前な環境でした。いつの間にか「ごく自然にイエス様を信じていた」というのが正直なところで、何か劇的な変化や感動的な体験を通して救われた、と言えるものがありません。クリスチャンとして「感動的で霊的な経験がなければならない」と思ったことはありませんが、人前で語るような証は自分には無いと感じたり、信仰が揺らいでしまう事はありました。

そんな私の歩みの中で、神様という存在を幼い時から知らされ、自由に信じることのできる環境に置かれていることの恵みや、教会やキャンプの奉仕をする機会が与えられてきたことに感謝をするようになりました。神様が私を遣わして用いてくださり、周りの人々に触れておられることを間近に感じることによって、自分自身の信仰が強められていくのを感じてきました。

中でも一人の方との印象的な出会いを通して、神様は私の信仰を強めてくださり、与えられた賜物を認識するきっかけを与えてくださいました。その方は私が高校生の頃、プリンストンの教会に初めて来られた未信者の方でした。彼女は近くの音楽大学大学院で声楽を勉強するために日本から留学していた方でした。当時の私は、音楽や賛美の奉仕に熱心に携わっていたものの、自分には特に賜物や秀でている部分はないと思っていたので、内側では葛藤も感じていました。また、その方の声楽家としての経歴を知ったことで、彼女の前で賛美をする事に恐れを感じてしまいました。緊張と恐れの中で何とか賛美を捧げることができ、その日の礼拝が終わりました。彼女はそれから約一年間、毎週教会の礼拝に来られました。日本への帰国が近づいたある日、その方から言葉を頂きました。「真歩ちゃんの賛美があの時の私には必要だったし、本当に心が開いていくのを感じました。」あの日、私は葛藤と緊張と恐れの中で賛美していたのですが、その礼拝や賛美がきっかけとなって彼女は神様を真剣に求め始め、帰国直前にイエス様を救い主として信じました。そして牧師である私の父と一緒に祈りを捧げられたそうです。

神様が導いてくださった出会い、彼女の魂への働き、そして彼女からの言葉を通して初めて、神様が私をも用いてくださったのだと感じました。その後も 私の周りで人々が神様への信仰を持ち、救われていく姿を間近で見聞きする中で、私自身も恵まれ、信仰が強められ、この道を歩むことに更なる確信が与えられていることを感謝しています。

証し

私は96歳になります。日々、主に生かされ、日々、主に守られて恵みを受けております。そんな私でも、寄る年波で、病による痛みや苦しみがあります。そのような時は正直に「神様、痛いです。苦しいです。」と申し上げて、主に在る慰めをいただいております。

 私はかつて高ぶる者でした。主人との結婚生活において日々、口争いが絶えず、相手を傷つけ、私も傷ついてまいりました。

 クリスチャンとなってある日、教会の牧師先生に家庭のことを話したところ、ひどく叱責を受けました。私に同情してくれるどころか責め立てられるなど、思いもよらないことでした。しかし、神様の恵みは低いところに流れます。「謙遜になりなさい」という神様からのメッセージだと受け止めて、家庭においてへりくだることを心掛けました。

 しかし、そう易々と変化は起こりません。私の中で何かが変わり始めていたとしても、主人には伝わらず、相変わらずの結婚生活が続きました。そんなある日、こともあろうか、主人は突然、「家を出ていく」と言い出しました。

 すでに成人していた娘は驚きあきれ、弁護士を立てて離婚するよう勧めてきましたが、私の心の中に聞こえてきたのは「とどまりなさい」という声。「なぜ?なにを?どうやって?」と問い続けつつ、まだ夜が明けきらない暗がりの中で、聖書を開きました。意図せずに開いた聖書の箇所はヨハネの福音書15章4節。そこには、はっきりと「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。・・・。」と書いてありました。びっくりしました。と同時に、私の心の中に聞こえてきた声が神様からの声だったと確信できました。ならば、従おうと心に決めました。

 それからの道のりも、決して平坦だったとは言えません。離婚は思いとどまりましたが、その後、主人は大病をして治療に時間とお金がかかりました。「とどまりなさい」との御言葉を握りしめて、看病と介護にあたった日々でした。医療保険に入っていなかったため、医療費は莫大な額になり、私が長年積み立ててきた預金は底をつきました。さすがの主人も「すまない」と謝ってくれましたが、その時に私の口から出た言葉は「そんなことはいいから」でした。

 神様が主人の心に触れて下さいました。「そんな言葉を言わしめる神様はどんな方なのだろう。僕も黎子の信じる神様を知りたい。」主人は神様を求めて歩みだし、やがて信仰を得るに至りました。

 今、私は最高に幸せです。身体が衰え、酸素吸入器の手放せない毎日ですが、イエス様がいつもそばにいて下さいます。神様が語りかけてくださいます。大病が癒され、信じる者とされた主人が、かいがいしく私の身の回りの世話をしてくれています。

 ヨハネの15章4節は、こう続きます。「・・・枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」そして次の5節では、「・・・人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。・・・」人生の最期を迎えつつある今、神様が聖書で約束してくださっている多くの実を、私は見せていただいているのです。

 これから実りそうなものも、まだまだあります。神様の素晴らしさを、外へ出て行って伝えることはできなくなりましたが、家の中でたくさんの祈りをささげています。友人がクリスチャンとなってくれますように、祖国日本に福音が広まりますように、ウクライナで苦しむ人々のもとに平和が訪れますように・・・私の祈りのリストは長く、果てしなく、どれだけ時間があっても足りません。だから神様は、私をまだ生かしてくださっているのでしょうか。

 神様はすばらしい方です。神様の御言葉を信じ、とどまる者に、恵みを与えてくださいます。このすばらしい方のことを、一人でも多くの皆さんに知っていただきたいです。信じていただきたいです。

 すべての栄光を主にお返し致します。

Testimony

I feel that my life has been led by God.

However, it took me a long time to believe in God as my Lord, but through an event that took place in 2022, I was able to believe in and accept God. I am truly grateful for that.

I married my Christian husband from Taiwan in 1972 in the United States. My husband’s mother and four sisters were all Christians. So I started attending a Taiwanese church in Queens every week, as my husband’s relatives gathered at church. However, my husband never once told me to become a Christian myself. I think that was a good thing for me. If he had told me that, I would have run away.

If I had not believed it myself, I would not have wanted to be baptized.

God has invited me many times through many events. In 1984, an American woman took the trouble to order a Japanese Bible and gave it to me as a gift.

Then, in 1989, when the pastor of the Japanese church in Maywood was still Rev. Masaki, my husband was working in real estate at that time, and I met a Japanese Christian at that time, and he and his wife invited me to come to the New Jersey Japanese Christian Church for the first time, and then I started listening to Bible stories in Japanese.

Then, in 1992, my mother-in-law, who had been really good to me, passed away, and I made a promise to her at that time that I would be baptized someday.

But for the life of me, I couldn’t really feel God.

Then one thing happened in December 2022. I was on a trip at that time. But on the way back, I had a real problem at the airport. A woman saw my situation and approached me. She told me that she was a doctor and that she had to help me as soon as she saw my situation. Then, after hearing my story, the woman reached out to me with her time and what she had at her convenience. At that moment, I felt God’s hand in giving me that person’s presence. The person’s name was Nancy. When I heard her name, I remembered that my friend who gave me a Japanese Bible as a gift 38 years ago was also named Nancy. With a strange feeling, I came home and was relieved when I received a video from a Japanese friend. It was a video called “Love Letter from Heavenly Father” made by a Christian, and it was edited in such a way that words and stories from the Bible were spoken directly to me from God. It ended with the message, “I am waiting for your return.” As I watched the video over and over again, I realized that God was now calling me through each of these things. And I wanted to believe in Him.

Four months later. In the study of preparation for baptism, I have learned again about God’s love, my sins, and Jesus who went to the cross to forgive them, and I want to follow him as my Lord.

「証し」

私の歩みは神様に導かれてきたことを感じます。

しかし、なかなか、その神様を主として信じることができなくて、時間がかかりましたが、2022年に起こった一つの出来事を通して、私は神を信じ、受け入れることができました。その事に心から感謝します。

私はアメリカで、1972年に台湾系のクリスチャンの夫と結婚しました。夫の母も、4人の妹たちもみんなクリスチャンでした。それで私も、教会で夫の親戚が集合するという流れで、毎週Queensにある台湾系の教会に通うようになりました。しかし、当の夫は自分に対して、一度も自分がクリスチャンになるように、と言うことはありませんでした。それが自分にとっては良かったことだと思います。もしも、そう言われていたら、私は逃げ出していたと思います。

自分から信じることができなければ、無理をして洗礼を受けることはできなかったのです。

そんな私を、神様は幾つもの出来事を通して、何度も招いてこられました。1984年には一人のアメリカ人の女性が、わざわざ日本語の聖書を取り寄せて、私にプレゼントをしてくださいました。

そして、1989年だったでしょうか、まだこのMaywoodの日本語教会の牧師が正木先生だったときです。その頃夫が不動産の仕事をしていて、その時に一人の日本人クリスチャンに会って、そのご夫妻のお誘いで初めてニュージャージー日本語キリスト教会に来て、それから日本語で聖書の話を聞くようになりました。

そして、1992年には、本当に良くしてくれた義母が亡くなりましたが、その時に「私はいつか洗礼を受けるから」と義母に約束をしていました。

でも、どうしても、神様を実感できなかったのです。

そして、2022年12月に一つの出来事が起こりました。その時、私は旅行に出ていました。しかしその帰り道、空港で本当に困ったことが起こりました。その私の様子を見て、一人の女性が声をかけてくれました。その人は自分は医者であり、あなたの様子を見てすぐに助けなければ・・・と思った、と私の状況を聞いてくれました。そして、私の話を聞いて、その女性は自分の時間や持っているものを都合して、私に手を差し伸べてくれたのです。その時、その人の存在が与えられたことに神様の御手を感じました。その人の名前はNancyさんといいました。その名前を聞いたときに、38年前に日本語聖書をプレゼントしてくれた友人もNancyという名前であったことを思い出しました。不思議な思いを持ちながら、家に帰ってきて、ホッとしたときに、日本の友人からビデオが送られてきました。それはあるクリスチャンが作った「天のお父様からのラブレター」という名前のビデオでしたが、聖書の言葉やストーリーが神様から自分に直接語りかけられてくるように編集されたビデオでした。その最後は「私はあなたが帰ってくるのを待っている」というメッセージで締めくくられていました。そのビデオを何度も繰り返し見ながら、今、これらの一つ一つのことを通して神様が私を招いている、と分かりました。そして、私はこの方を信じたい、と思いました。

それから4ヶ月。洗礼の準備の学びの中で、神様の愛、私の罪、そして、それを赦すために十字架にかかってくださったイエス様のことをもう一度学び、この方を主として従って行きたいと思っています。

「証し」

3歳の頃から3つ上の姉に連れられ町内の土曜学校に献金の5円を握りしめ行ったのがキリスト教との出会いです。

途切れとぎれの記憶ですが時々頂く小さなカードがとっても嬉しく宝物だったのを思い出します。斎藤という同じお名前のふたりの牧師がおられて、楽しく、子供讃美歌も沢山教わり、今でも時々口ずさみます。

小学低学年の頃「放蕩息子」のお話を聴いた時は心が熱くなり、それが私の「初恋」でした。

毎日、押し入れに電気スタンドを引き入れ本を読んで、親の言う事も聞かない、弟息子の様であった私を、あの様に迎えて下さる主、その様なお方は子供ながら辺りを見廻しても見た事も聞いた事も無い世界でした。

15歳の高校受験に入るまでは斎藤牧師のいらっしゃる堀切教会に通いました。

その主を知った私が、その後は高校、デザイン学校と、成績はともかく生活は主とかけ離れてしまいましたが、「主の祈り」だけは私の身から離れませんでした。

1989年にアメリカに渡り、ノースカロライナ州のチャペルヒルに住んでいました。

今、手術しないと2週間の命と言われた60歳の時、同じ乳がんを経験した台湾の方にお話を伺いに行った所、日本人の大学教授の乳がん経験者が近くに居るので紹介しましょうかと言われましたが、その時はお断りしました。

幸いに手術で全ての癌は取り去られました。

2年後の1月に連れ合いに肺がんが見つかり7月に亡くなり独りになった時に、先程の台湾の方にお話頂いた方の紹介をお願いしました。

連絡を取り翌日山内先生にお目にかかれたのも主のお計らいであったと思います。
その晩は1ヶ月に1度の山内家でのバイブルスタディの日でした。約20名の日本の方が集まり、リーダーは山内先生のご主人で、そこにはラーリーの日本人教会の横井牧師もいらっしゃいました。2年後横井牧師から洗礼を受けました。

64歳の「放蕩息子」です。

ノースカロライナからNYに来て約10年、NJの教会の礼拝に参加させて頂いてから5年程、毎週の教会が喜びです。

讃美歌も沢山覚えました。
若い方々とご一緒出来るのも嬉しいです。
私に何が出来るのかを探すのも楽しみのひとつになって来ています。

あの小学低学年の子供が恋をしたと思っていたのは思い上がりだったと今はっきりと判ります。私が恋をしたのではなく、主に愛された時だったのです。

「証し」

私は3度の神様との出会いからキリスト教に関心を持つようになりましたが、キリスト教との最初の出会いは「恐怖」からでした。

最初の出会いは、クリスチャンホームで育った友人のお母様から聞かされたイエス様のお話からでした。当時の私は宗教に対してあまり良いイメージを持っていませんでした。イエス様のお話を聞かされた時は、正直内容を理解することができませんでした。

ある日、出かけるから車に乗ってと友人と彼女のお母様が言われたので、言われるがままに車に乗り、知らない場所で下ろされ、案内された場所へ向かうと、そこには多くの海外の方が座っており、私も流れで席につきました。しばらくすると1人の男性が前に登壇され、目を瞑り英語で何か話し始めました。周りを見渡すとその場にいる人全員も目を瞑り、手を合わせていました。そして、“Amen”と聞こえた瞬間、私は教会にいるのだと認識し、神様との最初の出会いから「クリスチャンは強引で怖い人」というイメージを持つようになりました。

この日を境にキリスト教に触れることを避けてきましたが、大学進学で神様との2度目の出会いがありました。履修した“English Literature”の授業の担当講師がクリスチャンであり、この授業で扱った文献が英語で書かれた聖書だったのです。この先生も友人のお母様と同様な熱量で神様のお話をしていました。キリスト教に対して恐怖心を拭うことはできなかったものの、聖書の内容から励まされていることが何度かありました。

私は大学時代アメリカに1年間留学をしており、同じ大学のクリスチャンホーム育ちの日本人学生との出会いが神様との3度目の出会いです。友人のお父様が牧師先生をしている教会の中高生や子どもたちとのアクティビティにお誘いをいただくことがあり、何度かお伺いしていました。子どもたちとのアクティビティは楽しく、その後に聞く牧師先生によるイエス様のお話を聞くのも大変励まされていました。その中でも、『善きサマリア人のたとえ』を聞いたとき、心を覆っていたモヤモヤがスッと晴れたような感覚になったのを覚えております。

私は小さい頃から他人と比較されることが多く、無意識に自分で他人と比較する癖がありました。またそういったことから人の目を気にするようになり、何をしたら嫌がるのか、何をしたら喜んでくれるのか、そればかり考えていました。当時留学先での勉強に不安もありましたが、それ以上に留学先で出会う友人との友好関係が良好でいられることを考えることに気を張っていました。しかし、良好でいられるようにと思いつつも、許せないこともあります。私の友人のある行動で私は1人勝手に憤りを感じていました(その行動についてはその方の尊厳を守るために控えさせていただきます)。その友人と向き合いその行動の理由を聞くことができたが、それでも怒りを抑えることができませんでした。このような経験は何度かありましたが、相手は私が怒っていることにすら気づかずに何事もなかったかのようにしていました。私もこれ以上悪化したくないという思いで普通に振る舞いますがモヤモヤが残るばかりでした。そんな思いを抱えていたので、強盗に襲われた人に手を差し伸べた「善きサマリヤ人」のように、どうにもならない私のためにイエスが手を差し伸べてくださる、イエス様は私たちに罪を背負い、死をもって罪が赦された、自分の都合で人を愛するのではなく、どんな人に対しても愛を持って接することの大切さに気づくことができました。ずっと前から神様は私を導いてくれていたと思うようになりました。

このことがきっかけでキリスト教について、アメリカの教会のみなさんとのバイブルスタディや聖書を一緒に読んで祈る機会、牧師先生による学び会を通して勉強するようになりました。私たち人間は払いきれない程の罪という負債を抱えているが、イエス様の十字架の死の贖いにより救われた、神様は父なる神、イエス様、聖霊様の三位一体で、どれかが欠けることは絶対になく、私たちは神様の栄光をあらわすために生きる、と様々なことを学びました。

神様のみことばにはいつも励まされていましたが、あるバイブルスタディの時、「神様は神様と私たちの間にある扉の前で私たちが開けるのをずっと待っている」というお話を聞いた時、私たちは聖霊様を通して神様との交わりを持ち、イエス様によって罪が赦されたことへの感謝をすることが大切であることを認識しました。ここから神様との交わりを常に持つようになりました。

学び会の中でヨハネの福音書にある「生命の水」について牧師先生からお話を聞いた後、私は信仰告白をしました。信仰告白をしている時の感情をどのように表現したら良いか今でもわかりませんが、涙が止まらず、ただ「永遠の生命に至る水が湧き出る」感覚であることを実感し、神様はいるのだと確信しました。ここから私の信仰生活が始まりました。

「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネの福音書 4章13~14節)

そして、その後、日本のクロスプレイスという教会に導かれて、1月15日に洗礼を受けました。神様がここまで私の歩みを導いてくださったことに感謝します。

「証し」

主の御名を賛美いたします。

 2021年夏、私たち家族は日本へ本帰国をしました。約8年ぶりの日本での生活です。皆さまにお祈りをしていただき、ありがとうございます。

 帰国してすぐは、新生活に向けて一からの準備で忙しい日々を送っており、準備が落ち着いたら、礼拝へ行こうと考えておりました。1ヶ月過ぎ、少しづつ生活が落ち着いてきたので、そろそろ日曜日に礼拝へ…と思い、主人に話したところ、日曜日、私は家族と過ごし、教会へはもう行かないと思ったそうです!キリスト者の生活の中心は礼拝である、わかっていましたが行動で示していなかったのです。このことを機会に、教会の礼拝を守ることを第一にして生活を送ることを目標にしました。

 今年の初夏、日本に一時帰国をしている姉妹(教会ではお互いのことを神の家族として、「兄弟姉妹」と呼ぶことがあります)から一緒に礼拝をお捧げしませんかと連絡をいただきました。NJ日本語キリスト教会で大変お世話になった方です。大変嬉しかったです。主の恵みに感謝です。

 礼拝を喜んで守るものには祝福されるという神様の約束を信じ、これからもキリスト者として信仰生活を守っていきたいと祈っています。

 日本の生活も少しずつ落ち着いてきたころ、予想していなかった出来事がありました。義母の死と実母の介護です。

 義母は、体調を崩し総合病院へ受診、そのまま入院、数日後亡くなりました。あっという間の出来事でした。私たち家族の本帰国を誰よりも楽しみにし、孫の成長をこれから近くで見ることができると喜んでいました。今も義母の笑顔の写真を見るたびに何故?という思いが消えず、悲しみの中におります。

 そして、実母の介護です。ついこの間まで元気に一人で生活できていましたが、転倒が多くなり、気づいたら歩行困難になっていました。総合病院にて腰の手術を提案され入院しましたが体調を崩し、手術は見送りになりました。やっと体調が整いましたが、主治医から手術するタイミングを逃してしまった、手術しても改善されないと、今度は施設での車椅子生活を提案されました。

わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、
あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。
ー主のことばー
天が地よりも高いように、
わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、
わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。 イザヤ書55:8−9

 私たちが考えても理解できないことが現実にあります。義母との突然の別れがそうです。また、私たちが予定していた通りには計画はすすみません。実母は手術して少しでも歩けるようにと願っていたのに、手術ができなくなり、施設での車椅子生活を提案されました。しかし、実母は以前と変わらず退院後一人暮らしを強く希望したため、介護生活に向けてケアマネジャーさんたちと相談を繰り返しました。やっと決まって安心したと思ったら、変更になることも数回続きました。住宅改修など大きな決断をしなければならず、その変更が何度も続くと、さすがに心も身体も疲れを感じてきました。

 そんな時に、このみことばから、慰めと励ましをいただきました。神様のみ思いと私たちのみ思いは異なる。そのことを受け入れる。神様に委ね、神様を信じて共に歩ませていただく。私たちの想像をはるかに超えた神様のみわざを信じたいと祈っています。

 その後の実母は、入院中リハビリに一生懸命に取り組み、退院後、介護サービスを利用し、多くの方々に支えられ、転倒することなく一人で生活をしております。神様が多くの助け手を与えてくださり、実母の生活を守ってくださっています。感謝です。

 安中聖書教会に導かれ、現在、転入会に向けて牧師先生と共に学びの時が与えられています。

 今住んでいる所から車で30分ほどのところに安中聖書教会はあります。群馬県は山々に囲まれている県で、小さい頃から山を見ることには慣れ親しんでいますが、教会に向かう時に目の前に広がる山々は本当に素晴らしいです。毎回、教会へ向かうたびに、この景色に感動し、天地のつくり主である主の恵みに感謝を覚え、礼拝を大切にしたいと思います。

 NJ日本語キリスト教会に主の豊かな祝福がございますように、多くの方が導かれますように日本からお祈りしています。アーメン

コロナ禍の中でも恵みを数えて

全世界の人々が同時に経験した患難であるコロナ禍の中で、多くの方々が困難を味わって来ました。こんな事が起こるとは!思いがけない事の中で私達が味わったことはなんでしょうか? 神のみ心を知り、尚深い愛なる神のご計画を知りたいと思っています。

コロナ禍が始まった頃の、不気味な不安、人との交流を絶たれた寂しさ、病気への恐れ、日常の変化の戸惑い、考えたらキリの無い暗闇が押し寄せたものです。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝を持ってささげる祈りと願いによって、あなた方の願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、全ての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリストイエスにあって守ってくれます。」ピリピ4章6〜7節

コロナ禍の始まる前に、この箇所から錦織先生がメッセージをされました。私はこのみ言葉の「祈り」の言葉の前に「感謝を持って」という言葉がとても気になっていました。
神様が「先ず恵みを数えるのだよ」と言われている気がしました。
詩篇103篇2節の「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」の言葉のように、日常のどんな小さな恵みにも感謝していくことの大切さを示されたのです。コロナ禍の中でも朝目が覚め、立ち上がり、手足が動くだけでも高齢の私には恵みの数々です。そう考えると恵みは溢れていきました。 三年間のコロナ禍でも小さい恵みを数えて行くと、確かに神様は共に居られ、最善を示して下さった事を知るのです。

皆様にも沢山のお祈りをして頂いた叔母が居ました。母の妹です。生涯独身を貫き90歳まで身の回りの事もきちんとし、お洒落も忘れなかったです。正に90歳の誕生日の後にコロナ禍が始まりました。私も誕生日を共にしてギリギリセーフの帰米をしました。今思えば、成田でひどい咳をしているアジア人がいた事を覚えています。

瞬く間に広がっていくCovid-19 の中、娘もマンハッタンでの仕事に不安を感じて、コロナ禍が始まる2年前に娘が購入したコネチカットの家で仕事をする準備を始め、私も一緒に生活することになりました。 娘の仕事の動きが止まり収入が減りましたが、国のサポートを受ける事が出来ました。そして何よりも感謝だった事は、娘は仕事が多忙過ぎて受ける事のできなかった建築の試験勉強を始める事が出来た事です。一年間で5回ほどの試験(一回4~5時間)を無事クリアする事が出来た時はバンザイをさけび、特別に与えられた時間を二人で感謝しました。又共に祈って下さった方々に感謝いたします。

礼拝や祈祷会などの集会にZoomが始まったのも不思議な事です。この方法を持って仲間と励ましあうことで助けられました。コロナ禍にインターネットを通して世界中に神の愛が伝わって行くという神のご計画の凄さを知りました。「何時になったら世界中に福音が伝えられるのか」と思いましたが、正に神には不可能な事がないのですね!

2021年半ばに妹から知らせがあり、何時も明るいメールで元気だと思っていた叔母の心不全が進んでいる事が分かりました。家での生活は無理になりそうなので、私の代わりに妹が施設を探すのに奔走して、家のすぐ近くに良い所を見つけてくれました。私の日本行きの時期を決めるのは難しかったのですが、未だ規制が厳しい11月30日着で日本入国しました。
空港の税関で叔母が危篤のことを伝えると、施設の方と相談するように言われ、施設の方の配慮で、入国3日目の12月3日に叔母と2年ぶりの再会をしました。まだ入国後14日間自宅待機の時です。時間も心配しないでと言われ驚きました。酸素を付けながらでしたがとても喜んで貰えました。次の日も面会して良いということで、12月4日の朝、更に苦しそうでしたが、面会室に来てくれました。 口紅を塗ってあげ、大きな声で笑い合いました。酸素量が殆どMaxになっていました。その夜、食事の後静かに息を引き取ったと連絡があり、駆けつけてまだ温かみの残る叔母に触れ、叔母の人生を守って下さった神様に感謝しました。 看護婦さんが「貴方に会うのを本当に楽しみにしておられましたよ、待っておられたのですね。本当にしっかり生きられた方で、いろいろ教えられました」と言って下さった言葉は、何にもまして叔母の人生を示している気がします。神様に支えられた人でした。

2022年の春、若い友人二人をガンで次々に失いました。あっという間のお別れで、大きな悲しみでした。教会にも来られ福音に耳を傾けた友ですが、確信を受け取れなかったのは心残りの辛いことです。世界中にコロナで家族を失った方がおられます。神がおられるならどうして?と悲しみから立ち直れない方もどれほど多い事でしょうか? 

天地を創造され、始めから最後までを御支配なさっておられる方が「今はわからないが、後でわかるようになる」と言われる時、解決を頂かなくても平安に包まれるからふしぎです。この平安の基なる方を機会を逃さずお伝えしていきたいです。

「これらのことをあなたがたに話したのは、あなた方が私にあって平安を得るためです。世にあっては患難があります。しかし勇敢でありなさい。私はすでにこの世に勝ちました」ヨハネ16章33節

患難まで行かなくとも日々問題にぶつかる者ですが、世に勝った方が共に歩いてくださっているのです、感謝です。 短い証の行間にいちいち感謝の言葉は入れませんでしたが、コロナ禍の中でも数えると恵みは溢れます。自分自身を見ると望みも消えゆくような時にも、行いでなく恵みによって贖い出して下さったイエス・キリストの憐れみが、恵みの一つ一つに現れてきます。日常のささいに見える様な恵みを数えながら、与えられた命を歩んで行きたいと願っています。

望みも消えゆくまでに 世の嵐に悩むとき 
数えてみよ主の恵み (汝)なが心はやすきを得ん
数えよ主の恵み 数えよ主の恵み  
数えよ一つずつ 数えてみよ主の恵み(新聖歌172番)

「信仰によって義とされて」

名前は宣彦(のぶひこ)です。
父が「宣べ伝える人に」と名付けました。
名前の所以からお分かりかと思いますが、私は牧師の家庭/クリスチャンファミリーで育ちました。

幼稚園、小学校の時は、毎週、当たり前のように教会学校に通い、神様の事、聖書の事、よく分からないけど、楽しくて、いつも自分の回りに「教会」がありました。そして、それが私にとって当たり前でした。

しかし、小学校高学年頃から、この当たり前が自分が回りとは違う事を知り、それが、いろんな宗教を知るきっかけとなりました。なんか自分は友達とは違う、日曜日は友達と遊べない…と。いつも友達といたいから、両親に対しての反抗期が始まりました。

そして、中学生の頃から教会からも離れ、生活態度はだんだんと悪くなり、両親とも不仲になりました。

高校受験の時、生活態度が悪く、いわゆる不良中学生だったため、姉、兄が行っていた高校を受験できず、私は落胆して、働く事を考えてました。ただ両親は高校には行って欲しいと、中学浪人の道を備えてくれて、1年浪人した後、ミッション系の学校に合格しました。

この時、両親に「今までゴメンなさい。そして、ありがとう。これから頑張ります。」と、強く思った記憶があります。ですがこの思いは本物でなく、まだ、自分の変化までは至りませんでした。

高校生活は実家から離れ、寮に入りました。両親に感謝はしつつ(今思うと上っ面だけの感謝)、勉学に励んだ結果、高校3年の時、学校から私立大学の推薦をもらえる事になりました。両親は大変、喜んでくれました。
が、それが決まってすぐの高校3年の夏休み、私が謹慎に値する事を起こし、その推薦も取消しとなりました。

その時の両親の涙は、今でも忘れられません。両親が高校に来て、私のために懇願する姿を見て、「私はなんと愚かな人間だ」と強く思いました。「両親の愛」を感じた時でした。中学生の時と同じく、働く事も考えましたが、その後、なんとか、この時期でも募集のある大学にいく事ができました。

中学浪人の時、また、やっと手にした高校生活で自ら犯した事での謹慎処分による推薦停止。そこでの両親の対応。こんな私を信じて思う両親の愛。私自身もやっと、この両親の思いに気付き、神様のお導きにて「洗礼」を受けました。

大学からまた、教会に出席するようになり、青年会で母教会の日本基督教団池袋西教会に関係のある先生が牧会していた鹿児島の奄美伝道にお手伝いに行ったり、クリスマス祝会や教会バザーを運営したりと教会生活を歩んでいました。

ただ、大学3年になると、アルバイトに夢中になり、社会勉強と理由をつけ、日曜日の教会をサボるようになりました。

中学生の時からまた、2回目の神様や両親の思いに対して、逆行する生活が始まってしまいました。そんな生活が続いて2年がすぎ、なんとか東京の百貨店に就職が決まりました。

しかし、日曜日は休めない業界のため、さらにどんどんと教会から離れていきました。全く教会に行かない日々が10年近く続きました。

この間に会社から人事異動により、ニューヨーク駐在になり、アメリカに来ました。その前にも婦人服のバイヤーとして、何度か出張でアメリカには来ていましたが、駐在になるとは思わず、驚いた事を思い出します。

アメリカで勤務してる中、今の妻(アメリカ在住者)と出会い、結婚しました。そして、私にとっては大好きな会社でしたが、6年間の駐在期間を完了して、その会社を辞め、家族でアメリカ在住を決めました。

そこから10数年、自営業をいくつか起業して家族のために邁進しました。
簡単で楽な道のりではありません。自営ですので、また日曜日は休めず、サラリーマンとは違い、朝から夜中まで毎日毎日が奮闘の日々でした。

そんな中、日本で牧会を続けていた父が亡くなりました。9年前のイースターの時期です。アメリカのお店を義弟に頼んで、帰国しました。帰国して父が私を認識した翌日に父は召天しました。

帰米の際、いろんな事を思い、考え、これからの自分を見つめ直して、アメリカの自宅に戻りました。

でも、また日々奮闘の毎日の中、その気持ち、思いも薄れて、いつもの流れとなり、毎日毎日、仕事に追われる日々が続きました。何も変わりませんでした。

それから数年後、コロナが起き、お店の状況も悪化し、とうとう閉業をする事に
なりました。それが、今年の1月です。自営の閉業作業は大変でした。
そんな中、さらに私に追い打ちをかけるように、今年2月には日本の姉のもとにいた母も召天しました。コロナ禍のため、母の最期には会えず、姉が母の最期をFaceTime で連絡してくれました。自分の状況を母が心配する事はなく、天に逝ったのは、すべてもの救いでした。

….上記が今年までの私の歩みです。

父そして母、クリスチャンの両親の死を考え、私の中で、何かが動きました。

私自身を振り返る日々を過ごしていると日本の姉から連絡があり、
普通の会話から一言… 「そろそろ教会に戻りなさい。両親に安心してもらえるように。」

何か見えないものに心を揺さぶられました。
多分、それは聖霊のお導きだったかもしれません。
天国から父と母が見ていたからかもしれません。

日本の牧師先生からアメリカで牧会されてらっしゃる錦織先生の話を伺って、今があります。

今は私にも新しい仕事が与えられ、次のステップを生かされてます。

両親、姉、また兄… 家族に支えられ、こんな私が今まで生きてこれたのは目に見えない神様のお導きがあったからだと感じます。

姉の一言で今は救われ、毎週教会出席ができて、感謝です。

人生を甘く考え、勝手し放題に生きて来て、
苦しい環境を自ら生み、自ら苦しんできた日々。
自分の人生の節目節目で家族に助けられてきた、
甘えた、どうしようもない自分の今までを振り返ると、
やはり、その都度その都度、
神様のお導きがあって今があると思います。

 
牧師である亡き父がアメリカ赴任時に私に渡してくれた色紙があります。
「患難を喜ぶ」
ローマ人への手紙第5章3〜4節
苦しい状況からお導きによって、いろいろな形で強く生かされる。
神様が共にあって導かれる事に感謝します。

再び、教会に戻りました。
この30数年間、礼拝をまもらない私に共にいて下さった神様に感謝します。
今、私の手元に母の形見の聖書と讃美歌があります。
教会には、母と一緒に出席しています。

だらしのない私ですが、この再スタートをどうぞよろしくお願いします。

そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
ローマの信徒への手紙5章3-5節(新共同訳)

弱さのその先

コリント人への第二の手紙 12:8-10
‘このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。 ‘

 イエス・キリストを受け入れるまでの私は自分の弱さに対し見て見ぬふりをして過ごす日々を送っていたと記憶しています。「弱い自分なんていうのは、一時の気の迷いだ。人よりも頭の回転が遅くて、劣るところがあるんだからきっと努力がまだまだ足りないんだ。こんなネガティブ思考じゃダメだ。なんて、情けない。」26歳までのわたしはいわゆる根性論の塊で、可能性は無限なんだから努力すればどんな自分にもなれると信じて疑いませんでした。家族や親戚の目もあり、幼少の頃から割と早くなんでもできていたようで褒められるのも好きだったわたしは、いじめられれば立ち向かい怖気付かない自分でいればいつか終わるとやり過ごし、成績が悪ければわかるまで問題を解けばいい、なんでも挑戦してそこそこ優秀でいれるよう努力、努力、努力。いつからか、家族からの期待なども相まってひとりで過ごしていても常に見られている感覚が抜けず、見られている恥ずかしさによりその「誰か」のために自分の弱点、弱さに蓋をし無視し続け「ちゃんと」を演じる人格が形成されました。しかし、2013年、地元で大学を卒業後、就職のため上京し医療従事者として働き始め大きな挫折を契機にその演技は崩れます。
 職場とプライベートでの人間関係による人間不信と日に日に悪化する体調、仕事における度重なる失敗と努力しても努力が足りないと言われ続ける虚しさなど理不尽と思えるようなことが起こっても、すべて「自分が悪いんだ」と行き場のない悲しみと怒りの矛先はいつも自分でした。病院での出来事や体験は守秘義務があると思い、親含め誰にも打ち明けず、通勤できず引きこもりになって、4ヶ月間は人との関わりを一切遮断しました。起きている間中、過去人からかけてもらった言葉の一つ一つが脳内を無限ループし、気持ちが悪かったので、ひたすら寝て忘れる日々。今思い出してもどうやってあの頃を過ごしていたのか、正直他のことはあまり思い出せません。苦悩を話すとキリがないのですが、ここまでが救い主イエスさまを知るまでの主なわたしの背景になります。
 ですが、神さまはわたしを常に自分自身を見つめている必要から解放してくれました。大きな転機となったのは当時友人だった現在の夫との出会いでした。2014年、わたしが幼少期の頃にアメリカで一人クリスチャンとなっていた母にやっと打ち明け、せっかく時間があるのなら何か好きな習い事でもしてみては、という提案から通い始めたのが英会話スクール。マンツーマンレッスンを担当してくれていたインド人の先生とより親交を深めたいと話したら、牧師であるお兄さんが毎週末に家庭集会を開いているからと誘われて、通い始めました。当時の夫と初めて会ったのは牧師を筆頭に、クリスチャンではないメンバーで結成されたワーシップバンド(礼拝のリードをするバンド)の初リハーサルの時でした。家庭集会にはカレーに目がない当時の彼も時々参加していたようで、彼は彼でその牧師から仕事で必要になった英会話レッスンを受けていたそうです。その頃のわたしは人混みが苦手で、今でもそうですが街を歩くときは人の目線が気にならないように視線を外すようにしていました。そんな弱いわたしを隠せないほどまでになっていた時期に、わたしは彼に拾われて、教会に通う後押しをされました。彼は「少なくとも君には必要なことだとわかるから」と言ってもらいながら教会についてきてくれました。後にその彼の姿を思い出して、神さまはどんな人もこうして用いて導いてくれるんだなと感じました。その後、母のお世話になったアメリカの牧師家族のいるミシガンを夫と共に訪れ、結婚準備の聖書勉強会と小さなパーティーを開いてもらいました。驚いたことに夫の口から「J牧師の言葉は信用できる。あの人はまさに本物の牧師さんだ。」そんな言葉が彼から出てくるとは思いもしませんでした。まだ小さかったわたしに彼が語りかけるときの話し方や言葉はよく覚えていて、まるで子守唄のように心地が良かったのを覚えています。今でも英訳聖書を読むと頭に流れてくる音声はその牧師の声です。帰国後しばらくしてから夫と入籍しましたが、その1ヶ月後、彼は召天されイエスさまのもとへ行かれました。のちに牧師の娘さんから聞いた話によると、もう何度も脳梗塞を繰り返しては自宅へ帰り失明し聖書も読めなくなっていながらも常に認知症を患った日本人の奥さんを気にされお世話をしたがっていたそうです。ところが、私たちが2015年の年末に訪問したとき、目が再び見えるようになり、読みたかった聖書を自分の目で読むことができたんだそうです。また、実は訪ねた時もう一つの奇跡が起こりました。認知症を患った彼女にわたしたちが日本語で話しかけるや否や、なんと小さい頃話したわたしの知っている昔の彼女の喋り口調そのままにハキハキと話し始めたではありませんか。これにはご家族も牧師も涙ながらに大変驚かれていました。そのため、わたしたちは牧師の喜びに満ちた目と目を合わせ、奥さんの日本語での聖書解説を聞くという、そんな奇跡のうちに結婚のための聖書勉強会を終えたのでした。
 その後、夫と共に教会を転々としながら、2年と時間は掛かりましたが、自分を粉々に打ち砕かれ疲弊し、夫がいるのに自分にはもう何もなく自分を含めたすべての人が信じられないほどの絶望を抱えていた2016年、後に洗礼を受けることとなる教会の方々の祈りにより悔い改め、新生しました。祈ってもらう中で目が開かれ、イエスさまが十字架にかかりすでに勝利してくださったこと、イエスさまの御名の権威によりサタン(悪魔)がわたしの宮から去るようと共に涙を流しながら神さまの御前に明け渡すことができました。ちょうど母が東京に来ていたので、帰宅してから二人で泣きながら喜びました。2017年12月10日、友人であり長老の二人から洗礼を受け、イエスさまと歩み始めたのが4年半前です。
 そして2022年、現在は夫婦でアメリカの地にいます。夫と初めて出会った日の帰り道、お互い違う時代に幼少期をミシガン州で過ごしたことを知り、いつかまたアメリカに行きたいと二人で語り合った日から8年です。あの頃と比べ、関わっている人や状況、体型も悩む内容も全く異なりますが、神さまが、何より今もなお絶えずわたしの弱さを用いて、真に自分を砕き、神さまの御前に平伏し明け渡すことがどれほどの恵みであるかを毎回新しく認識させてくださることに喜びを覚えます。最後に著者ティモシー・ケラーのThe Songs of Jesusの本から引用します。

詩篇51:14-19では、無償の恵みによって砕かれた心について、ダビデ自身が、どれほど失われつつ、どれほど愛されているかを知っている心の大切さを語っています。神さまの方を向く時、私たちは常に自分自身を見つめていることから解放されます。わたしのくちびるが開かれた時、わたしたちは自分のことを語るのではなく、神への賛美を語るのです。

 天の父なる神さま、あなたの御名は代々限りなく崇められるべき御名です。わたしを打ち砕き、救い出し、あなたの所有する者としてくださったことを心から感謝いたします。ここに、自己に目が向いてしまう弱さを認め、度重なる裏切りと背きを告白いたします。わたしの砕かれた霊と与えられた聖霊さまの満たしにより自己保身をやめます。ただただあなたの御手に委ね安堵し、傲慢な自己陶酔である自己嫌悪も自己満足からも解放され、何度も悔い改めて平伏し神さまに向き直します。救いの喜びと絶望などの偽りの傷ではなく真に受けた砕けた魂の傷を御前に捧げることができますように。あなたの御心のままに、心を騒がせない静かな霊の平安に預かります。
万軍の主なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

 渡米し、夫と共に新たな生活を始めた2019年から2020年3月の新型コロナウイルス感染症に伴うロックダウン、そして通っていたマンハッタンの教会の閉鎖、メンバーの解体と新たな教会探し、自宅での自粛期間中の孤立と無気力、2021年から少しずつ外出が増え、この頃参加し始めた日本人による街の清掃プロジェクトを通して日本人クリスチャンの女性と出会うまでの間、対面での礼拝に集えないことに伴う精神的な影響の大きさを実感しました。オンラインでいくら礼拝を個人で捧げるも得られない人の温もりといつまで経っても構築できない人間関係は孤立を生み、時差に伴い日本の教会の皆さんとの関わりも激減し、その上教会も失ったため人と連絡を取り合うことや聖書の言葉に触れなくなるまでにそう時間は掛かりませんでした。自分の意思の弱さもあったと思いますが、その頃はまだ神さまに悩みを明け渡し祈り求めることを知らなかったため、ただただ神様に向き直すことが困難でした。
そして2021年12月、当時は気がつきませんでしたが受洗して4年目を迎えた翌日に初めてニュージャージー日本語キリスト教会のNY礼拝へ出会ったばかりの友人と共に赴きました。礼拝での集いはまるで家に帰ってきたような、初めて訪れたとは思えないほどに温かく、対面で母国語で錦織牧師の取り次いでくださったメッセージがすっと心に染み渡り、目は涙で溢れていました。その後、再びオンラインとなりましたがその日を境に主の導きであったと感じ、晴れて今年2022年の3月から対面でのNJ礼拝へ通わせて頂いております。
 NYに住んでいる者がNJで礼拝を守ることは日本にいる多くの友人たちから大変驚かれます。これは神様の憐みと教会員の皆さんのご奉仕がなければ、なかったことです。皆さんの賜物とご奉仕によりこうして私の信仰生活が支えられています。改めて心から感謝申し上げます。同じ教会の神さまの家族として快く迎え入れて頂いた喜びの気持ちを胸に、今後私もニュージャージー日本語キリスト教会の皆さんと共に奉仕を通して神さまのご栄光と御心のため用いていただきたいと思っています。

「信仰は政治に従属するのか」-2022年3月18日のレント集会によせて-

冒頭から私の大変お恥ずかしい昔話で恐縮ですが、学生時代には政治学科にて学びました。
今思えば若気の至りなのですが、政治の道を志した時でもありました。例えば、①地元の練馬区の小中学校でPTA会長を務められた方がいて、その方が自民党から区議会議員選挙に立候補するというので、そちらで選挙運動のアルバイトをしました。②数々の政治家を輩出している“雄弁会”という弁論サークルがありそこを覗いてみたものの、内部が「学生運動派」「政治哲学派」「国会議員のカバン持ち派」に分かれ、かなり荒れていて、例年GWに行われる最初の合宿前に入部を断念しました。③挙句の果てには就職活動の際、クリスチャンだった伯父たちのうち3人が通信社や新聞社の政治記者だったので面接のご指南を頂いたり、“山崎塾”というマスコミ塾に通ったりしました。1984年に「世田谷ケーブル火災」という事故があり、その山崎塾では課題として住民への取材が与えられました。結局そこで挫折してしまいました。④ゼミでは憲法の「基本的人権」をテーマにしました。ゼミには同期の仲間が20名おり、そこから2人の現職の参議院議員が出ています。そのうちの一人は世耕弘成くんで、次期総理大臣を目指すために衆議院に鞍替えするだとか最近のニュースで見、今後の彼の活躍を祈っているところです。
では、そもそも何故政治を志す様になったのかですが、大学1年生の時のとある教授の一般教養の政治学の授業の中で「全ての学問・芸術は政治に従属する」という、おそらくマルクスかエンゲルスの著書の中の言葉でしょうか。つまりこの世で政治が最上位にあり、宗教を含め全てが政治の支配下にある、と聞いて以来、クリスチャンホームに生を受けたにもかかわらず、その影響を大きく受けました。

洗礼を受けて何が変わったか、と錦織先生にも問われたことがありますが、最近になって「宗教は政治に従属しない、すなわちあらゆる信仰は政治を超える」と感じる出来事が増えてきました。

私の友人の一人に、高校でのクラスメート、その高校は3年間クラス替えがありませんでした。エスカレーターで上がった大学でも同じ学部学科、しかも同じグリークラブに4年間所属していたものがおります。彼は40代中盤になってから生命保険会社を脱サラして日本正教会の神父へと献身しました。ニューヨークめぐみ教会の笹川牧師の東方教会バージョンとでも申しましょうか。現在は熊本県の人吉ハリストス正教会にて務められておられます。

特に私が洗礼を受けてからというもの、彼の教会のFacebookやブログをよく読むようになりました。先月に印象に残る3つの記事があり、引用しつつレント集会での証としてお話しさせて頂きます。

まず2月11日のことですが、「イスラームと正教会」という題で彼のZoom講演会があり聴講しました。

アメリカでも9.11以降、なにかにつけイスラム教徒とキリスト教徒とは対立軸で話されがちですが、実際その後の報復合戦の様相を呈している戦争やテロの報道に接するにつけ、宗教間の憎しみの連鎖が続いているように思います。彼の講演会ではまずイスラームの教えや価値観を客観的に説明し、キリスト教、彼の場合は正教会になりますが、キリスト教との考え方の相違点を説明するものでした。例えばコーランの文中、預言者たちの中の一人にイエス様も含まれているなど、初めて知ることも多く、とりわけ印象に残ったのが彼のまとめの部分でした。それは「異なる信仰、異なる価値観といったアイデンティティの相違を理由にした社会の分断こそが今世紀の世界共通の問題であること。その最大の原因は異なるものに対する無知、無理解である。従って宣教者である彼がイスラームについて学び、正しい情報を教会内に伝え、キリスト者が異教徒の兄弟姉妹に偏見を持ち差別することは誤りだと伝えたい」ということです。

そして講演会ではヨハネ13章34節を引用されたので読みます。「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」とあるようにキリスト者は相手がだれであれ他者に隣人愛をもって接することが求められると結ばれました。

私自身、西方教会と東方教会とが聖書を共有している同じキリスト教徒であることすらよく理解していなかったのですが、この講演を通してイスラームのみならず日本正教会についても知ることが出来たのが収穫でした。講演会の最後にトピックとして、9.11以前にはWTCの真下にギリシャ正教会聖ニコラス堂があったそうです。9.11でWTCの下敷きになって倒壊したのですが、現在、ギリシャ正教会聖ニコラス国民礼拝堂という新しい名前で再建中との言及があり、是非、機会を見つけて訪ねてみたいと思うようになりました。

次に2月23日、日本では天皇誕生日の祝日でした。

この日にちなんでの話でしたが、日本正教会の祈祷文の中では必ず「我が国の天皇陛下及び国を司る者のために祈る」という文言が入っているそうです。彼自身はカトリックからの改宗者でしたが、当初は天皇陛下という具体的な文言に大変驚いたそうです。私たちに置き換えるとバイデン大統領やニュージャージーのマーフィー州知事を名指しで祈るような感覚でしょうか。

正教会ではどこでもその教会が立地する国の元首の為に祈り、天皇誕生日には天皇陛下の繁栄を祈るとともに日本国を司っている人々が正しい政を行うように、そして世界の紛争と人権侵害に苦しむ人々が救われる様に祈っているそうです。またロシア正教会の在日本代表も天皇陛下の為に祈るそうです。

現在、ロシアとウクライナの間では正教会に属するもの同士の戦争となっており、其々の教会は大変苦しい立場にあるのではないかと想像されます。そんな状況でも正教会はその国の元首のために祈るそうです。その根拠となっている、使徒パウロがテモテに宛てた第一の手紙2章1節を読みます。「そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。 それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。」 私たちの教会でも3月の祈祷課題の第39番に、バイデン大統領やマーフィー州知事の名前こそありませんけれども「政権のリーダーのために祈る」とありますように、日々ウクライナからの報道映像を見るたびに為政者への祈りの重要性に気づかされました。

然しながら、とても残念なニュースもあります。先週の日曜日、ロシア正教会のトップであるキリル総主教の説教があり、そこで彼は「ウクライナ戦争の原因はプライドパレード、つまり性的少数者の多様性を拒否するかどうかの闘争」と発言しました。当初はフェイクニュースではないかと思いました。しかしながら、大学でロシア語を教えている日本人が実際に説教を聞いたところでも、耳を疑うような発言だったとのことです。歴史を振り返るとロシア正教会はソ連時代に共産主義の名の元で弾圧を受け、その後プーチン大統領によって復興を果たした経緯があります。その観点から恩義があるのは理解できますが、まさに「全ての学問・芸術は政治に従属する」と聞いた授業を思い起こさずにはいられません。自らが信ずるもののトップが戦争を肯定するというのは多くの信者にとって受け入れがたいことだと思いたいです。戦火に苦しむウクライナの人々はもとより、戦争に心を痛めているロシアの人々にも祈りを捧げたいと思います。

最後になりますが、2月24日にロシアがウクライナへ侵攻を開始した事を受けてなのか、残念ながら日本でもヘイトクライムが発生していることがニュースで取り上げられていました。東京の銀座に「赤の広場」という名前のロシア料理の食材店があるそうです。その「赤の広場」と書いてある看板が何者かによって破壊されたとのことでした。しかも経営者はウクライナ人の方なのに、です。因みにですが世界遺産にもなっている「赤の広場」は決して共産主義・社会主義の旗の色のことではなく、ロシア語で「赤い」とは「美しい」の意味があり、「赤の広場」とは本来「美しい広場」という意味だそうです。この出来事で、「プーチンは悪、ロシアは悪、だからロシア人を攻撃する」みたいな誤った正義感が戦争の被害者を広げているように感じます。ヘイトクライムが戦争に加担してしまっているとも言えましょう。今私たちが直面している状況に敢えて例えますと、マンハッタンの地下鉄などで惹起しておりますアジア系住民に対するヘイトクライムがあります。これが発生する理由も同じようなロジックなのだと思われます。
今週の水曜日、ウクライナのゼレンスキー大統領が米国議会でリモート演説を行いました。ロシアの攻撃を非難する例えに911とパールハーバーを並列していたことに私は大きく失望しました。これは日本人やアジア系住民に対するヘイトクライムに繋がる、政治家としての資質に疑問符が付きかねない発言でした。彼が今後ウクライナ国民のために正しく政を行うように祈りたい気持ちです。このような状況下でもキリスト者として国籍とか民族とか無関係に祈りをささげたいと思い、最後に、イエス・キリストが逮捕される直前に追手に対して剣を向けたペトロに対して言ったみ言葉、マタイ26章の52節から54節を読みます。「そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。 それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。 しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。

「愛されているから」

 皆さん、こんにちは!4月からニュージャージー日本語キリスト教会(JCCNJ)で共に神様を礼拝し、教育主事として奉仕させて頂くことになりました、栗栖信之です。現在ニュージャージー州ハミルトンという、メイウッドから南西70マイルの町に妻と2人の娘たちと2匹の猫たちと住んでいます。どうぞよろしくお願いいたします。

 今回は私の自己紹介を兼ねた証をお分ちしたいと思います。

 私は、広島県広島市の瀬戸内海を望む町で生まれ育ちました。友達との遊び場は海、山、川という大自然。体力や筋力はそこで養われましたし、今でも自然の中にいる時に一番ホッとします。父や友達の影響でスポーツを始め、野球、サッカー、陸上、最後にバスケットボールにハマりました。小中高と全国レベルのチームでプレーしましたが、高校3年の夏に突然原因不明の病気で2ヶ月間の自宅療養となり、激しいスポーツはもう無理だと言われました。受験勉強どころではなく、高校卒業さえ危ういほどでした。それまで毎日が楽しく、好きなバスケや友達に囲まれて充実した日々だったのに、楽しみと喜びを失い心は空っぽになり、無気力でダラダラと過ごす日々へと激変しました。かつての「大学でバスケを続けたい。小学校の先生になりたい。弱い立場の人に寄り添いたい。」という目標や願いは消え去りました。友達との連絡を断って孤立し、罪の誘惑に流されて自分や周りの人を傷つけていくという時間が2年も続きました。

 幼い頃は、教会で多くの時間を過ごしました。両親はアメリカ人宣教師たちを支えながら、広島市内で2つの教会開拓に携わりました。だから教会は数名ほどの小さな群れでしたが、私にとって教会は「もう一つの家」のような大切な存在でした。教会の人たちはみんな優しく、いつも嬉しそうでした。だから私も教会に行くのが楽しみでしたし、「教会は楽しくて良い所」だと感じていました。説教や神学など難しいことは分かりませんでしたが、教会の真ん中におられるイエス様は良い方で、いつも私たちを愛しておられる。イエス様を送ってくださった父なる神様は素晴らしい神様だ。と心から信じていました。しかし中学2年生頃から、幼い時に感じていた事や信じていた事が「実は教会や大人のクリスチャン達の中には無い」と批判的に感じ始めたのです。並行してバスケや友達の方が神様や教会より優先順位が上になり、高校入学後はほとんど教会に行かなくなりました。そんな私を両親は咎めることなく、バスケに全てを注いでいた私を常に応援してくれ、教会に行くことを強要しませんでした。教会の大切さやイエス様を信じることの意味を伝えつつ、どうするかは私に任せてくれました。そうやって私に自由を与えてくれたことを今はもっと感謝しているのですが、まさか数年後に彼らの息子があそこまで堕落するとは夢にも思わなかったことでしょう。私の罪は恐ろしく醜く、自己中心の塊でした。神様を愛するよりも、人を愛するよりも、自分の欲望を満たすことだけを求めていました。例え欲しいものを手に入れても、その結果は余りにも悲惨で、代償は余りにも大き過ぎました。「罪の支払う報酬は死である。」(ローマ6:23)と聖書が言う通り、私は生きるに値しない、死が相応しい罪人でした。

 大学留学のため1990年にニュージャージーに来ました。同年クリスマスに西郷純一・かおる牧師夫妻と出会い、91年10月に開始されたプリンストン日本語教会(PJC)に集い始めました。当時は「私は罪人である」という自覚は全くなく、「俺はダメな奴だけど、アメリカに行けば何か変わるんじゃない?」くらいに考えていました。ちょうどその頃、姉夫婦がJCCNJに集い始めていました。「のぶ君は西郷先生と気が合うようだから、PJCに行けばいいんじゃない?」と姉から勧められた私は、内心(俺、神様も教会も興味ないから。そもそもアメリカ来て何でわざわざ日本語の教会に行くの?)と苛ついていました。でも確かに西郷先生ご夫妻の人柄には惹かれていましたし、不思議なことに「自分の本音」とは裏腹に、(教会に行こう。今行かなければ俺は本当にダメになってしまう。)という思いが湧いてきて、迷わず第一回礼拝に行きました。そしてなんと礼拝メッセージでボロボロに泣いてしまったのです。この御言葉がストレートに心に刺さったからです。「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。」(ルカ10:42)この時、私にとって無くてならぬもの、それはイエス様だとハッキリわかりました。礼拝後、西郷先生に自分の過去について打ち明けました。先生は言われました。「イエス様が栗栖君の罪を背負い、あなたの身代わりに十字架で死なれた。だからあなたはもう死ななくてよいのです。そしてあなたが本当に生きるために、イエス様は甦って今も生きておられます。」私の目から涙が止まりませんでした。その日を皮切りに自分の罪深さが分かり始めました。罪を知れば知るほど心が痛み、本当は生きていてはいけないのだと思いましたが、ますます赦されたことの意味、イエス様の愛の深さ、神様の愛の大きさが心に深く染み込んできて、感謝が溢れました。このプロセスの中で、私にとって教会は再び家となりました。大学のクラスが終わると教会に行って勉強し、そして礼拝の準備や掃除などをしました。牧師に言われたからではなく、そこに喜びと楽しみがあったからです。ただただ「私を愛してくださった神様に感謝したい」からでした。教会を愛し仕えること、それが一番自分らしく感謝を表せる形だったのです。それは幼い時から見て育った、小さな教会を愛して仕えていた両親から受け継いだものでした。また、ずっと前に「小さな子供や弱い立場の人と共に歩みたい」という思いを私に与えて下さった神様の、変わらない召しの現れなのではないかと思いました。間もなく私は、「どんな形でも立場でもいいですから、とにかく教会に仕えていきます」と献身の祈りを捧げました。

 「神の賜物と召命とは、変えられることがない。」ローマ11:29

 「兄弟姉妹たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かな者にしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない。」第二ペテロ1:10

 そして98年にフィラデルフィア聖書大学を卒業、クリスチャン&ミッショナリー・アライアンス教団から牧師ライセンスを頂き、PJCおよびニューヨーク日本語教会(現在単立)の副牧師に就任、2000年からPJCの牧師として今日に至ります。その他、東海岸日本語ユースキャンプ “ひがきゃん”(2009〜2020、現在活動休止中)、リーハイバレー日本語教会(2010〜2013)、JCFN協力主事ユース担当(2017〜2019)、コーナーストーン教会日本語部(シカゴ)コンサルティング牧師(2020〜2021)、無牧教会の礼拝説教ミニストリー(2019〜2022)、オリーブの会(ランカスター)ゲスト・メッセンジャー(2021〜現在)に携わってきました。

 さて私がJCCNJに行くようになったきっかけは、91年から97年までJCCNJに集っていた井上義・直子夫妻でした。姉の直子が鈴木ポール宣教師を紹介してくれたことが大きかったです。バスケとユースへの情熱を共有できたこと、彼が「イエス・キリストの愛に応えたいからキリストの弟子になる」と教えてくれたことは衝撃的でした。彼とは月2回、礼拝後に中高生たちとバスケして、ポール師のアパートで集会を持つという働きをすると共に、キリストの弟子として成長することについて個人的に熱心に導いてくれました。ポール師はまさに「イエス様を愛する弟子が、もう一人の弟子を育てる」という愛を実践してくれたのです。私のユースミニストリーの原点はここにあります。

 そして神様は、錦織学先生と出会わせて下さいました。心から尊敬する先輩であり、同労者として多くのことを分かち合い、祈り合うことのできる先生、また互いに夫・父親・男性としての重荷や思いを分かち合い、友として苦しみや試みの時に支え合うことのできる関係を主に感謝します。しかし私が最も感謝していることは、神様が錦織先生に与えておられる「教会への愛と情熱」です。先生の教会に対する真剣な熱い思いに触れる度に目が覚め、襟を正され、原点に引き戻される思いがします。そして「先生を通して働かれる神様の教会を見たい」と思わされるのです。それが、私がJCCNJで皆さんと一緒に歩み、共に教会を建て上げる働きに参加したい、と願う理由の一つです。

 昨年10月にJCCNJの礼拝に久しぶりに参加し、礼拝後に皆さんが交わっている姿を見て、私はただ嬉しくて心が暖かくなるのを覚えました。家に帰ってからも「あの交わりの中にもっと入っていきたいな」とか、「教会の祝福の為に自分に何かできることはないかな」という思いが湧いてきました。そして何年も前から錦織先生と何度も交わしてきた会話を思い出しました。「いつか一緒に働きたいねえ。」「一緒にできたらいいですねえ。」その時(あれ?もしかして今、神様が語っておられるのかな?前に進めってことかな?)と思い、祈り始めました。そして今ここまで、神様が確かに導いてくださったこと、またここから先へと導いてくださることを信じています。

 先日、錦織先生からJCCNJに今年与えられている御言葉を教えて頂きました。

「あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ5:13)

 この御言葉は、クリスチャンと教会の原点であると思いますし、実は私自身にとっての原点となる御言葉です。かつて私は、与えられた自由を肉の働く機会として、自分の欲を満たすために使っていました。でもイエス様によって救われ、神の愛によって自由とされたことを知った時、この自由を神と人を愛する為に使いたいと願う者とされました。どうかJCCNJが、イエス様が与えて下さった自由によって、神と人を愛する教会として成長し続けますように。その愛を教会の中と外で実践していくことができますように。私もこれから皆さんと共に成長し、教会の為に何か貢献できればと願っています。どうぞよろしくお願いします!

「私のここまでの歩み」

私は昨年の6月に洗礼を受けました。寄り道もしましたが、ここまで神様に導いていただけたことを心から感謝しています。

私と聖書との最初の出会いは、小学生の頃、疎開させていただいた先が、クリスチャンの家だったことでした。そこではみなさんと一緒に教会に行きましたが、クリスマスなどの催しがとても楽しかったことを覚えています。また、戦争のあとは、母はクリスチャンではなかったのですが、よく宣教師の方をお招きして、お話を聞いていました。その頃、小学生だった私は、一緒に座るようにと言われたのですが、お話もよくわからず、すぐに逃げ出していたことを思い出します。

30代の頃に、一人でアメリカに渡ってきました。友人の家でしばらく居候をしていたとき、NYの友人から、電話があり、彼女の義理の妹がNYで結婚するので、その式に列席してほしいと頼まれて、急遽LAからNYへ参りました。それ以後ずっとNYで生活をしています。あるとき、NYでのルームメイトが付き合っていた男性のところに移ることになり、相手のアパートに引っ越すので、このまま、アパートを借りてほしいと頼まれたのです。そして、そこに一人で住んでいたのですが、あるとき、泥棒に入られました。テレビなど持って行かれてしまったのですが、大きな被害がなくて守られました。しかし、そのアパートからも、私の名前で借りた家でもないので、出なければいけなくなり、どうしようと思っていたときに、私は統一教会に出会いました。

その頃、私は大きな日系の会社の社長秘書をしていました。そこに、統一教会の人が訪ねてきたのです。それは、統一教会の教祖であった文鮮明氏がマジソン・スクエア・ガーデンで大会をするので、そこに日本のエグゼクティブを勧誘するためでした。私は、その訪ねてきた方と親しくなりました。そして、住むところで困っていた私を、統一教会がミッドタウンに持っていたホテルの一室に泊めてもらえることになったのです。そのホテルでは、多くの統一教会の人々が生活をしていました。その時、私は全く宗教に興味がなかったのですが、そこで生活する人々の顔が違うことに魅力を感じ始めていました。大変優しく、きよく見えました。そして、そこで歌われる歌も、若い心が燃やされるもので、また語られるお話も、若い人たちにぐぐっとくるような講義でした。そして、そこを出ようと思ってアパートを探して見つけたのですが、いざ出ようとすると、そこを出るのが怖くなったのです。

それでも、まだ入信するかどうか、迷っていて、いや、もう出ようとも決心した矢先に、「祝福」(合同結婚式)があり、声がかかったのです。しかし、私は、その「祝福」は、もっと長年統一教会員である人でなければ、資格がないと思っていました。そして、その場から立とうとしたとき、それでも、自分を導いてくれたその人の上司にはとてもお世話になっていたし、その方が、「いいから、ただ座っているだけでいいから」と言われたので、その「祝福」を受けることになりました。そして、教祖様の指名する相手と結婚したのです。

私は文先生から「祝福」を受けたときは大変うれしかったです。でも、この「祝福」がうまくいかない人も何組かいました。わたしも例外ではありませんでした。

私たち夫婦は統一教会の中で養女をもらったのですが、アーティストをしていた夫にその娘を預けて、私は仕事に出ていました。その間は良かったのです。しかし、私が仕事を辞めて、家にいるようになってから、関係が壊れていきました。夫は、社会をよくしたいと、次々と文章を書いていました。それが統一教会の教えとはかけ離れたものだったため、統一教会には受け入れられず、それが辛くて、お酒を飲むようになっていったのです。そういうこともあり、私たちは別れることになり、統一教会からも足が遠のくようになりました。

そんな私がニュージャージー日本語キリスト教会に集うようになったのは、クリスチャンの友人に誘われたことでした。最初に書いたように、小さい頃の経験や母の影響等から興味があったので、声をかけてもらったときに、素直に行ってみたいと思いました。

教会に来て、牧師の話を聞き、語られる言葉の指している方向に心が向くようになりました。いろいろな問題にぶつかったときに、何かにすがりたい、導いてほしい、と思いながら、なかなか祈ることができないでいましたが、教会に集う中で、寝る前に祈るようになりました。そして、その祈りに応えて、神様が助けを与えてくださいました。あるときは、大切なものをなくしてしまったときに、「神様、どこにあるか教えてください。見つかるようにしてください」とお祈りしたところ、何度も繰り返し確認していたところにあったことに気がついたのです。その時に、私が信じるべきは、これしかない、いくら抵抗しても抵抗しきれないと感じました。そして、イエス様を救い主として信じていきたいと思いました。私のために十字架にかかり、私の罪を赦してくださるイエス様の恵みに感謝して、洗礼を受けたのです。

洗礼を受けて、私は本当に良かったと思います。それまで、「あーでもない」「こーでもない」と一人で思いわずらっていることが多かったのですが、今では、神様に祈って、神様に委ねて、平安が与えられています。これからも、神様は私の祈りを聞いてくださり、答えてくださることを信じて、歩んでいきたいと思います。

「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」

ピリピ人への手紙4:6-7

証し

日々導いて下さる主に感謝します。

去年からのコロナ禍の影響は大きく、この証を書いている時点でも新種株オミクロンが思いがけないスピードで私たちの生活を脅かし始めています。私自身も不安な日々を過ごしていますが、この度の教会への入会には主のお導きを強く感じています。

この5年近く聖書を読む会やクロッキー、カフェなどのお手伝いをさせて頂いているにもかかわらず、会員としてご奉仕したいという気持ちにはなかなかなれませんでした。日本の母教会を離れたくない気持ちもあり、Maywoodでの教会員としての生活が思い描けなかったのです。しかし、伝道という意思をはっきりと持って活動されている教会員の皆さんのご奉仕する姿を見て、サークル活動の延長のようなかかわり方であってはならないという気持ちが日々強まってきました。そんな時、ある会員の方から「そろそろ主にある家族になろうよ」と、声をかけていただきました。そうか、教会は「主にある家族」なんだということが強く心に響き、だからこそ信じあってともに祈ることが出来るのだと改めて思わされました。悟るに遅い自分の心が決まるよう少しずつ神様は備えて下さり、5年かかりましたが、この教会でご奉仕するように導いて下さったのだと思っています。

私がイエス様と共に歩むようになったのは、おそらく幼稚園の頃通い始めた教会学校からだったと思います。田舎の丘の上にある小さな教会でした。毎日曜日色々な絵がかいてあるみ言葉カードをもらうのが楽しみで、社宅の友達と喜んで通っていました。そのカードを入れた本は宝物でした。クリスマス会の劇やイースターのゲームなども楽しい思い出ですが、イエス様は心の清い人を喜ばれるという思いが、そこを離れてからも子供心にずっと残っていました。

我が家はおそらく祖父の代からクリスチャンだったようで、祖父は節(セツ)、父は羔三(こうぞう)という名をもっています。今は聖書には使われていませんが、羔は“こひつじ”という意味で、おまけに炎をあらわす4つの点の“レンガ”がついています。中学の頃、なんと“生け贄の子羊”ではないかと妙に感心したのを覚えています。祖父たちは明石のカソリック教会に所属していました。

母は、クリスチャンではありませんでしたが、色々な悩みがあるらしく救いを求めていました。PL教団に通っていたこともあり、私も変なお守り袋を首からつり下げさせられていました。しかし、母は東京に戻ってから父と二人で田園調布教会に通うようになり、いつしか洗礼をうけ婦人会でも積極的にご奉仕をしていました。婦人会の集まりもよく我が家で開かれ、私も一緒に牧師のお話を聞いたものでした。

毎日曜日仲良く歩いて教会に行く両親の後姿をみて、いつしか私も自然と教会に足が向くようになりました。大学4年の頃ヨルダン会という青年会に入り、修養会、文化祭など色々な行事をも通して聖書を学ばせていただきました。

ある年の12月、副牧師が洗礼希望者を募っておられました。この時、自分でも不思議ですが、私は迷うことなく手をあげクリスマスの日に洗礼をうけました。「あなたが私を選んだのではない。私があなたを選んだ」(ヨハネ15.16)というみ言葉が心にしめされ、洗礼を受けるということは主が私を選んでくださるということで、なんという光栄な事だろうと単純に思っていました。しかし、そこが主との交わりの出発点で、色々な試練を通して信仰について考えさせられる日々が続きました。

1982年に、夫がポストドクとしてカナダに2,3年の予定で勉強しに来たのですが、そのまま就職したため、来年で北米40年を迎えることになります。私は、しばらくカナダの日系新聞社で働いていましたが、合気道をやっていたときに腰を打ち動けなくなり、約2年はベッドで寝ていました。のちに病名が間違いだったとわかるのですが、当時はパーマネントの身体障害者として認定され5年は座る事もできず、夫が家事一切をこなしてくれていました。このときに重くのしかかってきたのが、「すべてのことに感謝しなさい」、というみ言葉です。この状況を感謝できるのか。痛みで体が硬くなり動けないまま人生が終わるのかどうかも分からず、頼れるのは主人のみという生活の中で祈っても祈っても不安が取り除かれることはありませんでした。幸い信仰を捨てようという思いには至りませんでしたが、長期にわたって癒されないことへの歯がゆさが、祈りとはなんだろうかという疑問を深めていきました。そんな私に、主は多くの信仰の友を与えて下さり、共に賛美をしたり聖書のお話をきいたり、彼女らに支えられて主を中心にした生活を送っていました。そして、いつしか自分の決断として、「この状況をも感謝していこう」、と思うことができるようになり、次に神様が何をして下さるかを期待しながら過ごすようになっていました。いつもイエス様が私とともに歩いて下さっていることにようやく気付いたのだと思います。

日本、カナダ、アメリカと生活の拠点が変わり、色々な試練がありましたが、行く先々でみ言葉から離れることなく祈りながら来れたことは本当に感謝です。今回は神様の導きにより準会員としてご奉仕できるようになり、新しい生活に希望と喜びをもって過ごさせていただけることに感謝しています。

第一テサロニケ5.16-18

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい。これが、キリストイエスにあって、神があなた方に求めておられることである。」

証し

私は 1963年11月に奈良県の生駒市に生まれました。大学に入学して親元を離れて、東京で下宿生活するまで、生駒で育ちました。父は、私が小学生の頃にサラリーマンを辞めて自分で会社を興しました。所謂、脱サラで、それ以来、仕事に没頭する日々が続きます。週日は会社に寝泊まりし、土曜日の夜に帰宅、そして、月曜日の朝に出ていくという生活が、私が大学に入学するまで続きました。母は、専業主婦でしたが、父の母(祖母)の影響、そして、父が独立したこともあって、毎朝・毎夕、先祖への御祈祷と般若心経を唱えていました。父の事業の成功祈願がその目的であったと思います。

高校卒業までは、特に生活に困ることも無く、また、大きな失敗や挫折も無く過ごしてきました。大学受験には一度失敗したものの、浪人生活を経て希望の大学に入学し、予定通り4年間 で卒業、そのまま東京で就職することになりました。大学時代も、親から仕送りを貰いながらアルバイトもしていたので、特に勉学や、生活に困るということはありませんでした。将来何 となく海外で仕事がしたいと思って、四谷の英会話学校にも通い、当時海外進出が著しかった自動車会社に就職しました。当時はバブル経済の直前で、円高が急激に進んだため、特にメーカーは採用を絞っていたのですが、幸い就職活動もスムースで、すんなり就職できました。

入社後は、輸出営業に配属され、担当地域はアメリカとなりました。当時は、貿易摩擦が大きな問題となるほど、各社ともにアメリカ市場を重要視しており、仕事も充実していました。就職して4年後にお見合いをして、今の妻と結婚、そして、その3年後にロス郊外にある子会社に駐在派遣されることになりました。会社も勢いがあり、また、アメリカでの車の売れ行きも 良かったため、待遇面でも今の駐在員に比べて、かなり良く、大変恵まれていたと思います。 また、1999 年に長男がアメリカで生まれ、2001 年に帰国し、次男が日本で生まれました。帰国後のキャリアも順調でしたが、2005 年に業務命令で、再度、同じロス郊外の子会社に駐在派遣されることになりました。2005 年当時は、会社の経営が思わしくなく、アメリカの子会社を 立て直す必要があり、それを実行するために、再度派遣されたもので、1 回目の派遣とは異なって、かなり責任が重かったのですが、何とかやり遂げることが出来、その結果、昇進も得られました。2011年に任期終了となり、帰国命令が下ったのですが、子供の教育面のことを考え て、そのままアメリカに残ることを決断、ローカル社員として雇用の切り替えを会社にお願い し、上司、会社の幹部からの理解も得て、特例措置として認められることになりました。これは会社としては、初めて行う極めて例外的な対応で、かなり恵まれた待遇と言えます。

このように、昇進も順調で、待遇面でも恵まれていたこともあって、会社員生活としては、満足しうるものでした。会社の先輩からも「この会社で、お前ほどラッキーな奴はいない」とまで言われ、かなり傲慢な気持ちになっていたのではないかと思います。ただ、一方では、何もかも希望通り行くので、どこかで落とし穴があるのではないかとの気持ちも持っていました。

それが具体的な形となって表れたのが、子供の教育・学校生活の問題でした。子供が 11 年生に なった 9 月に突然、不登校になったのです。彼は、小学生の頃から、授業態度に問題があり、 何度も先生から呼ばれるなどしていたのですが、当時は、何となく気になりながらも、その内、態度も収まってくるだろうと思っていました。学校からの勧めもあって、カウンセリングを受けたりしていましたが、私自身はそれ程、真剣に問題を捉えておらず、相変わらず、大きくなっていけば、その内、問題行動も収まってくるだろうと、たかを括っていました。そして、子供の問題責任を妻のせいにし、徐々に妻との関係も悪くなっていきました。カウンセリングでは、夫婦関係を修復することが大切であると指摘されたのですが、私自身、青少年時代、父親との接触が殆ど無かったにも関わらず、特に大きな問題も起こさず、大学を出て就職し、経済的にも問題ない生活ができているのだから、夫婦関係が原因であるとも真剣に捉えていませんでした。また、子供が問題を起こす度に、学校から呼ばれるのが苦痛で、そのため、彼が問題を起こす前に転ばぬ先の杖として、私が子供の手助けを行うような始末でした。

妻は、2014 年に洗礼を受け、毎週礼拝に通っていましたが、私は特に興味もなく、かといって、反対するわけでもなく、妻が教会に通うのを眺めていました。私が通っていた高校が日本聖公会に所属する学校であったこともあって、特にクリスチャンや教会に対するネガティブな印象もなく、とは言っても、ポジティブな気持ちもありませんでした。ところが、子供の問題が大きくなってから、教会の牧師先生を始め、教会の信者の方々から色々なアドバイスを妻が得るようになり、しかも、それが通り一遍のものではなく、信者の方々の経験などにも基づく、我々夫婦に寄り添ったアドバイスばかりでした。特に、当地での日本人社会はせまく、他人の問題が噂話になるようなことを見聞きしてきた私にとって、身内の問題はあまり話したくないと思ってきたのですが、教会の方々との触れ合いが深まるにつれ、自分のプライドは捨てても、本当に助けて貰いたいという気持ちが高まってきたのです。

毎週通いだした礼拝での聖書朗読、牧師先生のメッセージに触れ、これまでの私の奢った態度、姿勢、気持ちが徐々に砕かれていくのがわかりました。マタイによる福音書11章28節の「すべて、疲れた人、重荷を負っているひとは、私のところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます」との一節に私は素直にすがりたいという気持ちで一杯となりました。

子供の不登校の問題が発生して以来、教会の礼拝に通うことが私の心の救いになったことに加え、夫婦で話す機会が増えました。これまでの私の奢った考え方を悔い改め、妻との関係ももう一度構築し直し、そして一致協力して子育てをやり直すことにしました。妻とはよく話し合った結果、長男を取り巻く環境や、彼の心身の状態を鑑み、彼を日本に帰国させ日本の学校でもう一度やり直す機会を与えることにしました。また、私の両親、妻の両親の健康状態も考え、2017年の夏に、我々家族も一度日本に帰国し、新たな生活環境の下で、家族、そして両親、みんなで助け合いながら生活することにし、仕事については、父親の事業をサポートすることにしました。そして、2017年5月14日に、アーバイン日本語教会の杉村牧師に導かれて、信仰告白を行い、帰国直前の同年7月19日に受洗しました。

日本に帰国後は、家内の実家近くの千里摂理教会(日本改革派教会)の客員会員となり、新たに日本での信仰生活を始めました。また、子供も実家近くの高校(インターナショナルスクール)に無事転校することが出来、新たに日本での学校生活を始めることが出来ました。子供は、まだ救われていないのですが、両親がクリスチャンになった影響もあってだろうと思うのですが、自ら、実家近くの別の教会(箕面国際教会、大阪大学に通う留学生や、外国人教授たちが中心となった教会)に時々通いだし、青年部の活動なども行うようになりました。そこで出会った教会員の方々にもアドバイスを貰いながら、何とか高校を卒業することが出来ました。主が働いてくださったものと感謝しています。

子供が苦労して高校を終えた後、生まれ育った米国でもう一度、学生生活を送りたいと望み、 親としては不安がありながらも、自立する必要性も認識し、再び、米国に送り出しました。それが、丁度2年前のことです。

我々夫婦は、もう二度と米国で生活することは無いと思い、家内は永住権を放棄しました。私は、子供の学費のことも考慮し、永住権をキープ、2 度再入国許可書を取得していました。2 度目の再入国許可書は今年の3月末が期限でしたが、渡米して手続きするのも面倒で、かつ、長期間休暇も無理なので、3月末で切れれば、その時点で永住権を放棄する予定でした。

ところが、昨年の9月にヘッドハンターから突然コンタクトがあり、ある会社が米国現地子会社の代表者を求めているが興味が無いかとの話が舞い込んできたのです。条件としては、来年3月末までに渡米し(再入国許可が失効する直前)、転職することでした。父親が90歳と高齢で、取引先、従業員含め、誰もが私が家業を正式に継ぐと思っていたので、その話に興味がありながらも相当悩みました。

ただ、子供たちが米国で生活し、日本に戻る意志が無いことを知っていたので、家族が一緒に 近くで生活出来ることを最優先に考えれば、この転職機会は、またとないベストの選択であることは確かです。しかし、そのためには、私が渡米する前に家業を処分することが必須で(父親の年齢を鑑み)、それが実行できる自信はなく、全てを主に委ねることにしたのです。10月にその転職話を取り敢えず受諾することにし、11月から急遽会社の売却を進めることになりました。そうしたところ、ある会社が私の条件、即ち、「3月までに売却手続きを全て完了させること」を承諾し、積極的に、かつ、友好的に売却手続きを進めることが出来たのです。通常、会社の売却には最低でも半年以上、こじれると1年程度は覚悟しなければならないのですが、無事、今年の2月(条件の3 月よりも一か月も早く)に売却が完了し、余裕を持って3月に渡米することが可能となりました。周りの誰もが、こんなにスムースに売却が進むのはあり得ないと言っていましたが、主に全てを委ねた結果の主のご計画によるものだと信じています。しかも、赴任地が、日本人があまり生活していない中西部ではなく(私の前職の自動車業界では、中西部地区に関連企業が多い)ニュージャージーで、この日本語教会に招かれたことも主のご計画の一つであることに間違いありません。

これから先の人生の歩みがどのようなものになるかは、全く想像がつきません。実に昨年の今頃は、子供たちのいる米国で再度生活するなど考えも及びませんでした。幸いにも子供のお陰で、家内と私は、救いを得て永遠の命を授かることが出来ました。これからも全てを主に委ね、主のご計画の下、信仰人生を歩んでいきたいと願っています。最後に私の好きな聖書の御言葉を記して、終わりにしたいと思います。

エレミヤ書29章11節

「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」

終わり

「コロナ禍の中でも」

2020年1月に海外での新型コロナウイルス感染症のニュースを知り、買い物に行くにも緊張の日々が始まりました。それは、私自身、喘息の既往があることや過去(2009年)のH1N1ウイルス(豚インフルエンザ)感染症の流行時にクリニックで仕事をしていた時の状況を思い出したからです。実際に街中で風邪の症状の人は多く見受けられましたが、アメリカでの新型コロナ感染者は2020年1月30日のニュースではまだ数人・・・と。でも、『世界を往来する多くの人々が住むニューヨークの側で感染者がいないはずはない!』と思いました。そして、当時、ワクチンや治療薬はもちろん、気軽な検査の手段もない状況下、私どもの教会は、感染症の予防を優先して、州政府などの規制が始まる前の2月の終わりから、礼拝以外の集会は中止にして、礼拝だけはYouTubeでビデオ配信をするようになりました。その後間もなく、近所や知人からの情報でも新型コロナ感染により悲しい知らせを耳にするようになったのです。ニューヨーク州、ニュージャージ州の感染者の数、重症者、死亡者の数が急激に増え、どうか、教会の方々が守られますようにと、皆で必死に祈りました。

そのような中、ニュージャージー日本語教会では、3月半ば頃からZoomにより集会や祈祷会も持てるようになりました。慣れるまで、中心になってご奉仕される方々はご苦労も多かったと思います。コロナ前は考えられなかったことです。Zoom祈祷会では安否確認と情報交換、聖書の学び、祈り会がとても励ましの時となってきました。悲しいニュースが多い中、Zoomでお会いすると、ホッとしました。普段教会に集まれるのはニューヨークとニュージャージー北部在住の方々ですが、Zoomでは遠方へ移られた方々とも画面上で顔を合わせて交わることができます。

インターネットを用いての礼拝も、YouTube、Facebook Live、Zoomなどを用いてささげてきましたが遠方からも数多くの方々が、参加し、私たちを励ましてくださいました。

このニュージャージーで、出会い、教会の交わり、奥様会など、一緒に大笑いしてのおしゃべり、聖書の学びや涙のお祈り、本当に励まされ、信仰の友として、私にとって大きな存在の方がおられました。そのご家族がご帰国されたことは、本当に寂しいものでした。ああ、もうここには居られない・とお住まいだったお家の側を通っても実感し寂しかったです。そんな時、なんとその方がZoomでの祈祷会に参加してくださいました。時差のため日本とアメリカは夜昼逆転ですが、参加してくださることによって、また顔を合わせて祈れるのです。また一緒に大笑いしたり、一緒に心を合わせて祈れるのです。ああ、信仰の友はどうしてるかな?またZoom祈祷会で会えるかな?私の考えを超えて神様は不思議なようにZoom祈祷会の喜びを与えてくださいました。正直なところ、夜の祈祷会で、Zoomの画面上でウトウトしてしまい、「のりこさーん起きてますかー?」と声をかけられ恥ずかしいこともあるのですが、それでも笑顔で見守ってくださる方々と一緒の時間が嬉しいのです。

今はワクチンが進み、教会堂を貸してくださっている現地の教会が滅菌フィルターを入れてくださったことによって、マスクをしながらですが、礼拝や集会が対面で持てるようになりました。主を中心とした交わりの喜びを再確認しています。

マスクを外して共に賛美したり、皆さんと愛餐会で交われる日が早くきますように、心から願います。

また、毎週の礼拝メッセージはYouTube で見ることができます。

しかし、木曜日の祈祷会に限ってはZoomです。

どうぞこの祈りの輪の中にいらしてみてください。

「ふたりまたは三人が私の名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」                           (マタイ18章20節)

信仰及び受洗そして今回の転入会にあたっての証

努力するものは報われると信じて疑わず、子供時代から猪突猛進してきましたが、30歳直前のあるとき努力ではどうにもならないことが世の中に存在する、という初めての挫折経験をしました。それをきっかけに心身共に苦しい日々を送るようになりました。失敗やそれにまつわる全てを自分の中で消化できず許すこともできず、ただ後ろ向きな考えに満たされながら鹿児島に住む家族、心を許していた数少ない友人達に支えられながら過ごしていました。

その中の一人である、遠く離れたミラノで救われて、当時日本に一時帰国しクリスチャンとして過ごしていた高校時代からの友人が、時を間もなくして私と同様の困難にぶつかったのです。諸事情により、実家住まいであった鹿児島、そして彼女の家族から離れて、横浜で一人暮らしをしていた私の家にて、短期間だけ滞在することとなりました。

短い同居期間、彼女は私のように苦しみもがき同じ場所でじたばたせず「このことを受け入れて神様に委ねて行こうと思う」と話しながら、私から見ると明らかな失敗と思える状況を受け入れており、そのことについて話す際には感極まったり涙を流すこともなく、夜は聖書を開きながら静かに過ごしていて、私の目にはゆっくりと前進していく姿を見ることになりました。

なぜ同じことをこんなに違うように受け止められるのだろうかと、彼女の姿を通して探究心が芽生えながら、メールなどでやりとりする中にて、マタイによる福音書 7:3 『あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、何故自分の目の中の丸太に気付かないのか』 という御言葉があり、被害者意識で自己憐憫ばかりの重い気持ちでいたのに、ハッと目が覚める思いがしました。そして同時に視線が変わったことで心の重苦しいものが減ったように感じました。

もっと聖書のこと、神様のこと、愛とは何か知りたいと思うようになりました。

その友人を通じて帰省時に鹿児島市の丘の上にある単立鹿児島シティチャーチ(勝郁也主任牧師)の日曜礼拝へ足を踏み入れました。

エレミヤ29:11-12『わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。』

礼拝の中で神様は生きておられる、この方についていけばこの先大丈夫な気がする、と思うようになり横浜に戻ってから少しずつ聖書の言葉に触れるようになりました。

聖霊の働きかけと導きが備えられ、イエス様の十字架によって新しく生まれ変わりたいと思うようになり、2008年12月4日、故芳賀正牧師先生(東京フリーメソジスト小金井教会元牧師、当時イタリア・ミラノ賛美教会協力牧師)のもとイエス様を心にお迎えし共に歩んでいく決意をしました。

その後仕事のため住んでいた横浜市にあるアッセンブリー教団港南シオンキリスト教会にて受洗の道が備えられ2009年8月23日野川悦子牧師先生より洗礼を授けて頂きました。

野川先生には年の離れた姉のように信仰生活・教会生活を手取り足取りご指導いただき仕事でも絶好調、信仰・教会生活も大いに充実した生活を送っていましたが、時は流れ、夏休みにひとり旅で訪れていたNYの地にて夫と出会い結婚することになりました。

別居婚を続けていましたが主が奇跡を与えてくださり子を授かりました。祈りつつ歩む中で日本での仕事を辞め息子と3人で暮らすように道が一つずつ備えられていきました。

渡米後、夫と同じ教会に転入会することを話す機会があり主から授かった息子に信仰を継承してことが夫婦のミッションであることで一致し、親子クラスをきっかけとして通うようになったニュージャージー日本語キリスト教会へ、今回転入会を希望致しました。この新しい地にて気持ち新たに信仰の土台を固く築いてまいりたいと思います。

「証し」

どのようにクリスチャンになったか

わたしは、1996年の1月11日にカリフォルニアのサンロレンゾで小嶺家の長男として生まれました。クリスチャンホームで育ち、サンロレンゾに住んでいる間は家族でSan Lorenzo Japanese Christian Churchに通っていました。物心がついたころには、教会学校に参加していて、両親や教会の先生と聖書を読み始めていました。夏休みになると、日本に遊びに行く機会もあり、祖母の家の近くの金沢中央教会にも訪れていました。

2006年の12月に父の転勤でカリフォルニアからバージニアへ引っ越し、地元のアメリカンチャーチに通い始めました。そこでも教会学校やバケーションバイブルスクールに参加し、2009年の10月に自分の意志で洗礼を受ける決断をしました。自分が罪深い人間であり、イエス様の救いが必要だと気付き、人生を捧げ一生をかけて神様の後をついて生きようと思いました。その後、高校の卒業と同時に教会の青年会に加わり、ユースプログラムや主日礼拝のオーディオ、ビデオ系のご奉仕もするようになりました。

どのようにJCCNJのメンバーになったか

去年の年末にToyota Motor North AmericaのNew York Region Officeに就職が決まり、他の二人の新入社員と連絡を取り、三人でルームシェアをする事になりました。オフィスの先輩方にニューヨークやニュージャージーの賃貸物件事情のアドバイスを聞き、ジャージーシティーやホーボーケンを勧められ、ジャージーシティーのアパートを借りる選択をしました。その後、ネットで「Japanese Churches in New Jersey」を検索し、ジャージーシティー近辺の教会の情報を集めたうえでJCCNJに行ってみたい!と思いました。

4月中旬には引っ越しの荷ほどきも終え、JCCNJに訪れてみました。その頃は、ジムでのin-person礼拝が再開して二週間目と伺い、教会のみなさんに会えてとても感激しまた。礼拝後は錦織先生をはじめ、かおるちゃんや咲ちゃん、萌子ちゃんや小林兄弟に暖かくウェルカムされ、安心と嬉しさでいっぱいだった事をよく覚えています。それからはJCCNJに続けて通いたいと思い、ご奉仕もしたいと考えていました。数週間前に錦織先生と教会員についてお話も聞かせていただき、教会員のセミナーに参加してからは正式にJCCNJのメンバーになり、教会のみなさんと信仰を深め、JCCNJを通して神様のために仕えたいと決めました。

「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」マタイの福音書5章16節

「重荷」

我が家の姓を名乗る者は現在この世に11人しかおりませんが、歴史をたどると美濃の斎藤龍興の家臣に行きつくそうです。今現在も岐阜県本巣市真正町に「小柿」と言う名の集落があり、その南に居を構えたので「みなみこがき」との姓を授かったとのことです。安土桃山時代に斎藤家から姓を授かった証跡として家紋は今でも「下り藤」を使用しています。
この名字は江戸時代の間に訛ってしまって戸籍上では「みながき」と読むものの、漢字の「小」は残ったままとなりました。
江戸時代は医者の家系だったらしく、曽祖父の祖父は解体新書を翻訳した杉田玄白と同じ時代に生き、刑死人を解剖したデッサンを絵巻物に残して今現在も「解剖存真図」として原本が慶應義塾大学の図書館に保管されています。
曽祖父も元々は医者でありましたが、今を遡ること西暦1847年に洗礼を受け、その後に牧師となりました。それ以来途切れることなくクリスチャンホームが受け継がれてまいりました。
新島襄が現在の同志社大学を創立した当時になりますが、曽祖父も「教立学院・きょうりゅうがくいん」という名の学校を創立しました。残念ながら当時の会計にお金を持ち逃げされたとかで、大変な苦労があったとのことです。敬虔なクリスチャンの祖母は、この話になると『あの学校があれば今頃は・・・』とか『あの会計はろくな死に方をしていない』と言うものですから、私の心の中では食事の前に必ず祈りを捧げる祖母の姿とのギャップには驚いたものです。

クリスチャンホームに生まれると言う事は、私の父にとってみると『本人の意思とは関係なく幼児洗礼を受けさせられ、時機が来たら信仰告白させられる』と定義されるものだったらしく、息子たちには決して洗礼を受けさせようとはしませんでした。

私の母はもともと曹洞宗の檀家の家庭に生まれましたが、中学から大学までミッション系の学校に進み、自ら進んで信仰の道に入りました。所属する武蔵野教会(東京都豊島区目白)では最近まで長老職を務め、信仰を全うすると言う事は相応の覚悟が必要であるとの考えを持ち、これまた息子たちに洗礼を受けさせることに関してハードルを設けていたように思います。

ここまで書かせて頂くと、何故、題名が「重荷」なのかうっすらとお判りいただけますでしょうか。

まず、私がクリスチャンを初めて意識したのは親族が教会員である武蔵野教会そのものです。私自身にとっては「イースターとクリスマスにご挨拶に行くところ」でしたが、子供心には礼拝の1時間は長くつらいイメージを持っておりました。
いつの日でしたか、熊野義孝牧師の説教を録音されていた方がいて、その方が何かの拍子に録音機を床に落としてしまい、教会堂の中を大音響で怪しげな音楽が再生されてしまったことがありました。弟と二人で教会の席上、笑いをこらえるのに一苦労、母もその耐える姿を見て必死に笑いをこらえる…50年近く昔の話で、今でも母との思い出話に出て来ますが、私の教会に対する印象は「笑ってはいけない重い場所」でした。

改めてクリスチャンを意識したのは42年前の高校1年生の時です。
1年生時から第二外国語を学ぶ高校に進学し、私はドイツ語を選択しました。その高校は3年間クラス替えなし、かつ担任の先生も同じという学校でした。担任の先生はドイツ哲学の大学教授で高校ではドイツ語を受け持たれておりました。授業はその日の学習範囲のドイツ語和訳で始まります。担任の先生は和訳者をランダムに指名するのですが、偶然にも私が指名された時の和訳箇所が「主の祈り」のドイツ語でした。
予習の段階で迷うことなく「主の祈り」を丸暗記していましたので、突然に指名されても淀みなく訳すことが出来ました。訳し終えた途端に担任の先生から『ミナガキ君はクリスチャンか?』と聞かれ『家族はそうですが自分は違います』と答えたはずでした。しかし高校の3年間ずっと、担任の先生は(ドイツ哲学専攻ということもあり)ホームルームなどでなにかにつけ『ミナガキ君はクリスチャンとしてどう思う?』と聞かれました。今思えば、担任の先生が「主の祈り」を指名したのも、疑いもなくイエス様のお導きなのですが、当時の自分にとっては「重荷」を背負った始まりでした。

次に意識したのは31年前の結婚式の時です。
当時の結婚式は仲人を職場の上司にお願いする形式が主流でした。然し両親の希望もあり、披露宴の前に結婚式場に誂えられた簡易なチャペルにて、武蔵野教会の椿憲一郎牧師の前で誓いを立てました。何人かの友人は著名で立派な教会堂で式を挙げる者もおり、ホテルの一室で牧師先生に式をお願いしてしまったのは如何なものかと、思い続けてきました。これまた今思えば、信仰の心があれば場所はどこでも良いと気づきましたが、こんなことも「重荷」だったのかもしれません。

父方の伯父・伯母たちも皆クリスチャンでしたが、その配偶者は必ずしもそうではありませんでした。その血のつながっていない伯父の一人に、戦前の旧制中学でエースピッチャーとして甲子園でベスト4、準決勝で大連商業に敗れたという逸話を持つ伯父が居ました。その後、マスコミの世界では知られた存在となりましたが、今から20年前、亡くなる寸前に「病床洗礼」を受けたという話に驚きました。そんな方法もあるのか!と。
ところが、「自分は病床洗礼でいいや」との考えが強化されてしまったのが、2018年8月に参加した武蔵野教会の有志「オリーブの会」が主催する修養会に参加してからでした。本来であれば修養会を経験すると信仰への思いは強くなるのでしょうが、私の場合は逆方向に作用した様です。この修養会は例年、水上温泉にある日本バイブルホームにて2泊3日の日程で行われます。当初は、大学の夏休みでロンドンから一時帰国する私の長女の為に私の母が案内書を持って来たのですが、何故か私だけが参加することになりました。
修養会では小グループに分かれて「マタイによる福音書」を読み合せました。何のタイミングだったかは、はっきりと覚えていないのですが、『伯父が亡くなる前に病床洗礼を受けたのだが、もったいないと思う』と発言したところ、同じ小グループの中で企業人として先輩の方から『いやいや、今読んだばかりのマタイによる福音書の第20章のぶどう園の労働者の話にもあるように、最後に来た者にもイエス様は最初に来たものと等しく愛してくださる』とお聞きし、却って「病床洗礼」に安堵する、今思えば「重荷」をそっと地面に置いた未熟な自分が居ました。

2018年10月、現在勤務する会社からの命を受けてニュージャージーに赴任しました。通算して19年以上に亘ってシンガポールに2回、ロサンゼルスと上海に駐在しましたが、母からは必ず『現地で通う教会を探しなさい』と言われ続けておりました。過去の駐在員生活では業務多忙に加え、偶々会社の同僚に誘われた教会では、信者さんたちがずっと不思議な踊りを踊り続けている、等なかなか思い描く教会に通うチャンスを見出せませんでした。
ニュージャージー日本語キリスト教会を知るきっかけになりましたのは、銀行勤務時代の先輩と錦織学牧師とがFacebookで繋がっていたからに過ぎませんでした。2019年のクリスマス礼拝には、正直申し上げて習慣的に礼拝に参加させて頂きました。そして世界がパンデミックに陥り、Zoom礼拝という流れになるのですが、実はその直前にもう一つの「重荷」が私の目の前に現れたのです。
2020年2月2日の主日礼拝に参加、月初めなので聖餐式が持たれた時の記憶です。未成年が葡萄酒を飲んではならないもの、と子供の頃は勝手に心の整理を付けていましたが、洗礼を受けていなければ聖餐式に参加できない、と言う事実がこの礼拝時には改めて「重荷」として心に残ったのです。自分は「病床洗礼」の日までこのままでよいのだろうか、と。

Zoom礼拝は「イースターとクリスマスにご挨拶に行くところ」という私の固定観念を崩すには十分でした。とりわけ錦織学牧師の子供のための説教、まるで天から楽器が降ってくるかのような力強いお声が毎回楽しみでなりませんでした。ここで登場人物が何の野菜だったかはすっかりと失念しましたが、『自分が本当に洗礼を受けても良いのか?』というシーンがあり、バイブルおばさんの温かい回答に心が開かれるような気持ちになりました。これを契機にして「病床洗礼」ではなく「今でしょ!洗礼」に変わったのです。イエス様が私の「重荷」を共に背負ってくれると確信したのです。

洗礼を受けた後の心境ですが、以前から、欧米人や中華系の方がたと仕事をしていく中でキリスト教或いは聖書という共通の価値観を理解して付き合っていきたいと考えてました。そのために聖書の勉強の機会を探していましたが、英和辞典をAから暗記するのと同様、旧約聖書を最初から読んで挫折したことがあります。洗礼を受けた現在も引き続き課題ですので、錦織学牧師のご指導の下で勉強をして参りたいと考えております。そしてなによりも、これまでクリスチャンホームとして147年の歴史を次世代にもきちんとバトンタッチできるよう、信仰生活を大事にして参りたいと思います。

最後になってしまいましたが、錦織学牧師に9回にも及ぶZoomでの学びの場を設けて頂きましたこと、感謝いたします。そのなかで文章を読んだだけで心に光が差した思いがした聖句を書き記します。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)
For God so loved the world, that He gave His only begotten Son, that whosoever believeth in Him should not perish, but have everlasting life. (John 3:16)

自己顕示欲の絵描き、クロッキー教室 

23年前の個展がきっかけで渡米する事になった。その頃の国際電話の料金は高額だったし、日本のテレビ番組は朝夕に1時間づつだけの放映だった。インターネットは通じていても日本語でのコミュニケーションはなく、私が当時通っていた語学学校では「Only English」と英語での会話を推奨されていて、日常生活での日本語にとても飢えていた。ニューヨークに来て初めて見つけたアパートのすぐそばに偶然にも日米バイリンガルの教会があり、学生時代以来の日曜日に行くようになり、そして礼拝後は教会でランチを食べて帰るのが習慣になっていた。ランチはドーナッツの日もあるが時々手作りカレーの日もあり、とても嬉しかった。幼稚園の時に暗唱した「主の祈り」があったり、中学1年の時に通っていたクリスチャンスクールでの讃美歌を聞いた時は懐かしさもあり、涙が出そうになった。

私が、ニュージャージー日本語教会に来たのは新緑の美しい季節だった。ニューヨークへの無料送迎があると聞き、週末にお隣の州まで行くことが出来るという事も楽しみとなった。

ニューヨークでの生活もだいぶ落ち着いてきたと同時にこの刺激的な都会の生活をこの勢いで続ける現実の厳しさも実感できるようになった頃だった。ニュージャージーには充実した日本食スーパーがあると聞いても、一人暮らしの私にとってはマンハッタンの小さな日本食スーパーでの買い物で充分だったし、バスに乗って知らない土地に行くという事もおそろしかったので、川を渡ったニュージャージーという地域に行った事がなく4年が過ぎていた。

ニュージャージーの教会は私の中での教会とは全然違っていた。知っている讃美歌はひとつもなく、しかもギターや太鼓などの伴奏がつき、時には手拍子もでてきて愕然とした。しかも何曲も続く。今までは教会での讃美歌はオルガンかピアノでの静かな伴奏しか聞いたことがなかった。子供が多い地域だからしょうがないのかなあとも思いながら、歌詞を読みながら心を合わせようと努力していた。その頃にこの地域に住む男性と結婚をする事になり教会だけではなく私の知らない世界に飛び込む事になった。

結婚相手には中学生の娘さんがいた。どうやって会話が成り立つのかがわからず、英語で話してみると「日本語でいいよ」と短い返答がり、子供達は、お稽古事もお遊びもすべて親の送り迎えで移動している不思議な世界だった。お母さん達の会話には知らない単語が多く、パラマスパークがモールの名前でバンサンパークは公園だったり、8年生?シニア?ジュニア?サフモア?ベイビーシャワ?はじめて聞く言葉はどういう意味なんだろう。育児、セール、ダイエット、レシピ、お菓子、メイク、韓ドラ、その会話の中には私は入れなかった。スマホもないし慣れない土地での車の運転で買い物に出かけても道に迷い家に帰るのにもくたくたになった。

ぎこちない生活の中で気ままな独身生活が恋しくなり、月に一度はニューヨークの教会に行きたいと言い出して夫を付き合わせたりもした。自分の落ち着いた時間はどこにあるのだろうと地下のアトリエに籠る事が多くなっていた。

夫の仕事がどんなに遅くなっても娘は夕飯を食べるのを待つと言い、時には9時を過ぎても待つこともあった。そして毎日必ず夕飯の前には家族で「こうして3人で夕飯を食べれる事に感謝します。」と一緒に祈る。この祈りのおかげで少しづつ本物の家族っぽくなっていった。

母親らしい事は何もできない私が、教会の集まりに行った、奉仕をした、と娘に伝えるととても嬉しそうな顔をしてくれる。私だって皆様と交流はしたいのです。

教会にはイースター、感謝祭、愛餐会と色々な行事があり主婦の皆様はお得意の料理の持ち寄りで豪華な食事会になる。我が家は夫が料理担当なので私の出番はなくて良いのだが、家庭集会という平日の昼間にある集会にもレベルの高い手作りのご馳走とデザートがふんだんに並ぶ。もちろん持って来られない人は無くてもよいので、私は果物などを持参する事もあるのだが、だんだんと足が遠ざかっていった。

何か私にできる奉仕はないかと、牧師先生と相談して「絵のクラス」を初めてみるのはどうでしょうか?と提案してみた。牧師先生は自分は絵が苦手で子供の頃に評価された時の傷がまだあるという事だった。絵なんて面倒さくて描きたくない人が、楽しめるクラスを目指します。クロッキーとはフランス語で素描、短時間での描写ドローイングの事なのだが、抽象画あり空想画あり、色々な角度から絵を身近な楽しみとして生活に取り入れてもらいたいと思う。1時間ほどの実技の後には牧師先生による聖書のお話がある。午前中のクラスで昼に終わるのだが、昼食は基本持って来ないで下さい、私がサンドイッチを作りますと張り切って2008年の7月に「ぐるぐるっと線を描いてみましょう」と5人の生徒でクロッキー教室は始まった。その中にはちょうど学校の休みだった娘もいた。

私は「先生」というキャラクターではない。学生時代美術の教育実習の時にオートバイで中学校に行って教頭から激怒されたり、美大受験に何度も失敗した経験もある。個性が強すぎると会社をクビになった事もある。だから絵が思うように描けない気持ちはわかるし、それぞれの感性にあった絵を描く楽しさを伝えられるような気がした。そしてこの地域において育児に追われるお母さん達が気分転換になったり、転勤でアメリカ来て生活に慣れない人に交流の場所になったり、牧師先生の聖書の言葉で元気になったり、教会へ興味を持ってくれたら良いなあと理想は高くなった。自分が子供の頃転校ばかりしている時に「描く」という事で自分の気持ちと向かい合えた事や、教会に行き神様に出会い、そして素敵な人達に沢山出会えてこんなに世界が広がって楽しくなったよという経験をこの地域の皆様に伝えたいと思ったからだ。

小さい子供達と交わる機会が今までほとんどなかった私だが、クロッキー教室に子供達が来るのが楽しみになった。子供達はお母さんと一緒に絵を描くのもよし、寝ているのもよし、時には子供達がモデルになった。

赤ちゃんは首がしっかりするまでは抱っこする時に気をつけることや子供はよく熱を出すのだという事も知り、お母さんという仕事の大変さと尊さを身近に感じることができた。驚いたのはお母さんの中にはパスポートの更新の時にしかニューヨークへ行かない人もいた。こんな皆様にニューヨークの活気あるアートの世界美術館や画廊の話も伝えたいとも思った。

メンバーも変わりながら何年かが過ぎた。電車の中で知らない子供に向かって笑顔で話しかけたり、お母さんに向かって「おいくつですか?」なんて聞いている自分にびっくりした。以前の自分には想像もできない事だ。

そうは言っても週に2日はニューヨークの画廊に通い、行かない日には自宅で画廊のウェブ更新や事務仕事をして、時間を見つけて自分の制作作業をして個展や展覧会に出す絵を描く生活、主婦業はしていなくても時間に追われてイライラしてしまう事もあった。

仕事の帰りに空腹でスーパーでクラスの為のサンドイッチの食材を購入するために並んでいる時。15人前ものサンドイッチを用意しても3人しか現れなかった時、絵を学びたいと思っている人は誰もいないみたいだと感じた時、睡眠時間が欲しい時。

私は今まで作品を制作する為に色々な事を犠牲にして自分の事を中心に生きてきた。自己顕示欲のアンテナを鋭く磨き弱みを見せずに自分を肯定してきた。しかし共同生活や慣れない絵の先生業での中には壁やストレスを感じ、その感情に自己嫌悪や憤りを抱く事もあった。そんな時は真っ白なキャンバスを眺める事、そして祈る事にした。神様はそんな時こそたくさんのギフトを下さった。

クロッキークラスの参加者が素敵な作品を描きワクワクする時、絵を描くのが怖くなくなったと言われた時、抽象画が少し解ってきたと言われた時、お昼に提供していたサンドイッチが美味しいと褒められた時、手作りケーキの美味しさに感動した時、皆様と一緒に大笑いした時。神様は色々な個性的で素敵な人を送ってくださる。

昨年からクラスはオンラインになり、慣れない準備に時間がかかる事になった。久しぶりでワー大変だ!と思ったが、今まで以上の喜びも感じた。近くに住んでいても一度も来なかった人が来始めたり、ニュージャージーを離れた人が画面に現れたり、日本からの参加者もあったり、13年という経験も強みになった。オンラインでの一方通行を緩和させる為に1人づつ個人的にも声をかけたりしはじめた。何か好きな絵がありますか?なんで絵が嫌い?身体動かしてる?夕飯何作った?そんな会話は今ではとても楽しい。そして私の描く絵もカラフルになってきた。

 

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(詩篇55:22)。

 

82歳で救われた母と神様のご計画

2017年のイースターに82歳で洗礼を受けた私の母は、戦時中に子ども時代を送り、教師になり、結婚してからも3人の子供を育てながら、退職するまでずっと、元気で頑張りよく働きました。”神様が本当なら世の中に病気や戦争や不幸なことはないわ“とよく言っていました。

私たちがニュージャージーに住み始めたころには退職しており、父も亡くなっていたので、一人で何度も来てくれました。私と娘はクリスチャンでJCCNJに通っていたので、日曜日には私たちと一緒に教会に来て、教会の皆さんとも仲良くなり、こちらに来るたび教会に行くのを楽しみにしていました。

あるとき自転車で出かけた母は、教会の前を通りがかり、教会の扉が開いていて中に牧師先生が立っていらしたので、中に入ってお話をした。これが母が自分で教会に行き始めたきっかけです。NJの教会がとても楽しくて、自分も教会に行きたくなったそうです。毎週自転車でまじめに通い、教会であったことなどよく電話で話してくれました。

そのうち自転車で通うのが難しくなってきたので、もっと近くにある教会に行くようになりました。そこは、母が子供のころに近所の子供たちと行ったことがある教会でした。昔はアメリカ人の牧師さんがいて、子供たちが行くとお菓子をもらえたそうです。その教会に昔の同級生夫妻が他県から転入して来たりして、再会を喜んでいました。

そんな中、80歳の夏に突然片目が見えなくなり手術を受けました。81歳の秋には、年の近い叔母を病気で亡くしショックを受け、自分も転倒で骨折、手術、入院と辛いことが続きました。牧師先生や教会の方たちが祈り励ましお見舞いしてくださいました。それまで、教会に行くけれど洗礼は受けないと言っていた母でしたが、クリスチャンの同級生夫妻にも勧められて、洗礼を受けることを決めました。洗礼を受けてからも、病気や手術、ケガなどいくどもありましたが、そのつど皆さんに祈られて守られてきました。昨秋介護施設に入りましたが、その少し前まで、母は毎週教会に通っていました。自力で教会に通えなくなってからは近所の教会員の方が車に乗せてくださいました。

86歳になった母は、つい最近も誤嚥性肺炎で病院に運ばれましたが、回復して退院しました。今はコロナ禍で介護施設も面会ができませんが、母がこうして守られているのも、神様が母をご計画の中に入れてくださっているからだと思います。

もう50年以上前のことですが、東京でクリスチャンとなっていた父方の伯父から、九州のミッションスクールに赴任するので、東京から九州に引っ越す途中で私たちと会いたい、と連絡があり、家族5人で名古屋まで会いに行ったことがあります。

伯父の勧めで、父は私と妹をカトリックの日曜学校に通わせました。小学校時代の1年半あまりの教会の思い出が、20年以上たって私を洗礼に導いてくれました。その9年後に娘、19年後に夫、そして23年後に私の母が、クリスチャンになりました。神様のなさることは私の考えや時間を超えて実現するのだと知りました。

伯父には一度会ったきりです。自分のまいた種がこうしていくつもの実を結んだことを知らないまま、伯父ももう天に召されているかもしれないと思いますが、私のイエス様との出会いの出発点は伯父です。

私の周りには、妹弟をはじめまだイエス様を知らない人たちがたくさんいます。その人たちに神様がどんなご計画を持っていらっしゃるか、私にはわかりませんが、一人でも多くの人がイエス様に出会い、重荷を下ろして平安をいただき、神の家族になるように、私も種をまいていきたいと思います。

 

“私は、あなた方のために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。”(エレミヤ書29:11)

“神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。”(ローマの信徒への手紙8:28)

「生かされている意味」

2011年3月11日に発生したあの東日本大震災から10年という年月が流れました。津波や原発事故など、かつてない被害をもたらし、その痛みは10年を経ようとする今も、多くの被災者やご遺族らの生活や心に残っていることと思います。日本から離れて暮らす私も、毎年3月11日が近づくにつれ、様々なことを思い巡らしながら、心がざわざわするような気持ちで過ごしていました。10年前のあの日、実際にあの場所にいて震災を体験してはいませんが、ふるさとを、そして多くの友人や知人を仙台に持つ者として、痛みと悲しみを心の片隅にしまいながら歩んで来たように思います。特に今年は世間で言われている「区切りの年」でもあるからでしょうか、自分の心に深く迫ってくるものがありました。【震災当時の話は2011年5月号の月報(http://jccofnj.org/「今が救いの時」/)に書かせて頂きましたので、もし宜しければご一読下さい。】

東日本大震災を思う時に、いつも頭に浮かぶのが、自分が子どもの頃に体験した宮城県沖地震(1978年6月12日の17時14分に発生したマグニチュード7.4、震度5の地震)のことです。もう40年以上前の出来事なので、細かいことは忘れているとは思うのですが、それでも私の中で今でも鮮明に覚えている光景であり、おそらく初めて私が「神様は本当に生きておられる!」と感じた経験でした。

6月の初夏、まだ外は明るく、いつもなら近所の友達と外で遊んでいる時間帯でしたが、その日に限ってなぜか家の中で一人で過ごしていました。夕方5時を少しを回った頃、小さな揺れ(震度2)を感じ、急いで家のベランダの扉を開けました。仙台は地震の多い地域なので、それが習慣になっていたのだと思います。外を見ても何事もない様子でしたので、そのまま扉の側に寄り添いながら、当時流行っていた消しゴムで遊び続けました。それから8分後、地響きのような「ゴーーー」と言う音が床の下から聞こえてきたかと思うと、カタカタと電気の傘が音を立てて左右に大きく揺れ動き、瞬く間に家の中がぐわんぐわんと揺れ出しました。それはまるで船の中にいるかのよう(子どもの頃によく乗った青函連絡船が悪天候の中、大波を受けて大きく揺れる感覚)でした。そして、「あっ!」と思った瞬間には(スローモーションがかかったような長い時間にも感じられたのですが)目の前にあったタンスと直ぐ後ろにあった本棚が倒れ、私の上に覆い被さってきたのです。「下敷きになる!」と心の中で叫び、目を思いっきりつぶりました。おそらく揺れがおさまってからだと思うのですが、恐る恐る目を開けた私の前に見えたのは、タンスから出たいくつもの引き出しでした。そして、頭にも体にも物が当たっておらず、何の痛みがないことにも気がつきました。先に倒れたタンスの中から飛び出した引き出しがタンスを支え、その後に私の背後にあった本棚がタンスの上に倒れてきたのです。私は倒れたタンスと本棚の下にぽっかりとできた不思議な三角形の空間にうずくまっていました。まるで誰かが大きな腕を広げて私をすっぽりと包んで守ってくれたかのようでした。それから静かに体をねじりながら、開いていたベランダの扉から外に出ることができました。怪我と言えば、壁に掛かっていた鏡が割れて落ちてきた時に足を切ったくらいで、近所に住む友達のお母さんが直ぐに手当をしてくれました。近所の人達とも安否の確認をし合ったのですが、私が抜け出した三角地帯を何人もの人が見にやって来て、目を丸くして驚いていたことを思い出します。後から自分で見てもゾッとするような光景でした。「もしあの時に前震がなければ、ベランダの扉を開けることはなかっただろうし、扉に近い所に移動することもなかった。あの場所に移動していなければ、別の本棚が自分の目の前に倒れてきて下敷きになっていたかもしれないし、テレビや水槽が飛んできて大怪我をしていたかもしれない。扉が開かず、家の中に閉じ込められたままになっていたかもしれない。。。」などと様々な思いが次から次へと走馬灯のように私の脳裏を駆け巡って行きました。そして「すべて神様が導いて守ってくれたんだ。」と思いました。

地震発生後は電話が通じるはずもなく、両親と連絡を取ることはできませんでした。停電によって交通機関も乱れ、激しい交通渋滞が発生したため、両親が家に辿り着いたのはかなり遅い時間になってからだったと思います。殆どの家具が倒れ、あらゆる物が飛び散り、ぐちゃぐちゃになった真っ暗な家の中で、ろうそくの小さな火の元で両親から聞いたのは「神様が守って下さった。」という言葉でした。地震が起きた時、父は会社の倉庫に行っていたそうです。倉庫には何百個という重い機材が入った大きな箱が積み上げられていました。その箱の山が地震の揺れによって崩れ、倉庫の真ん中に立っていた父を目掛けるように四方八方から飛んできたのですが、父が立っていた所だけぽっかりと穴が空いたようになって、上から落ちてきたいくつもの箱が父の足の10センチ四方手前でピタッと止まったと言うのです。その同じ時刻に、仕事帰りの母は仙台駅近くのデパートに寄っていました。前震があった後にデパートから出ようとして正面玄関を通った時に大きな揺れがあり、高い天井から落ちてきた大きなガラスが割れる音を背中に聞きながら外に逃げ出すことができたそうです。あと1秒遅くあの場所を通っていれば、大量のガラスの破片を頭に浴びていたかもしれません。

「主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」詩篇121篇5~8節(聖書)

人生において、誰もが「ただの偶然」とは思えないような出来事を経験することがあるかもしれません。私はあの日、自分自身の体験を通して、また両親が体験した話を聞いて「これは単なる偶然ではない。神様は本当に生きておられ、私達のことを心に留められ、導いて下さる方である。」ことを確信しました。そして、神様が私を守り生かされたことの意味、自分が生きていることの意味を考えるようになりました。

10年前の震災では本当にたくさんの方が命を落とされました。おそらく多くの方がそう思われたように「神様がいるのなら、どうしてあのようなことを許されたのだろう?」と私自身も幾度となく自問しました。私には100%の答えが与えられている訳ではありませんが、今わかることは、神様は人間が悲しむことを望んでおられないということ、私達の痛みをご存知であり(神様ご自身も愛する我が子を十字架の死に至らせるために、深い痛みと苦しみを経験されたのですから)その痛みを癒し慰めて下さるお方だということです。たとえ今、苦しみや試練の中を通っているとしても、神様はその重荷を共に背負って歩んで下さるお方です。そして、私達一人一人のために素晴らしい計画を持っておられ、すべてを最善へと導かれると約束して下さっています。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ人への手紙8章28節(聖書)

 「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」コリント人への手紙 第二1章4節(聖書)

私達が人生の歩みの中で様々な苦難に直面するのは、私達がかつて経験し、それらを通して神様の慰めを頂いた時と同じように、苦難の中にいる人々を慰めるためなのかもしれません。その慰めの中心には、主イエス·キリストがおられます。イエス様はあらゆる苦難をその身に負ってくださいました。私も主から慰めを受けた者として、周りの方々の心に寄り添い、慰め励ます者とさせて頂きたいと願っています。また、神様に助けられ生かされた者として、神様が自分に与えて下さった使命を全うするために歩み出して行きたいと思います。

コロナで夫が重症化して受けた愛

 その日は突然やって来ました。2020年の年末も夫は建築の仕事に追われていました。

 夫の仕事場で2人体調が悪く休む様になり、年始早々に夫も咳が始まり、その後会った友人も具合が悪くなりました。そして私も熱が2日続き、次々に体調が悪くなるのを見て、これはコロナかもと思い1月4日の月曜日に私はコロナの検査を受けに行きました。行くのもしんどくて大変でしたが、Paramus BCC内のドライブスルーでやってる駐車場で、寒いのに年始から外でマスクと手袋をして、あちこちに立ってるスタッフ達を見て、何とも言えない感謝で感動しました。中にはご年配の方も働いておられました。リスクを追いながらー5℃の中、優しくテキパキと対応して下さり、Bergen County 在住者には無料で検査して下さいます。大家族には助かりました。帰って結果を家で待っていましたが、このしんどさはきっとコロナだと確信していました。身体中が悲鳴をあげる程痛かったのです。3時間後に電話がかかって来ました。予想通り陽性でした。

 家族6人をそれぞれの部屋で隔離させました。そして症状前に会っていた友人や義理姉夫婦に伝えてPCR検査に行ってもらいました。それがコロナの不安なところで、心配ばかりして精神的にも辛い日々でした。結果、次男と長女が陰性だったので、その日からグローブをし家族の食事を各ドア前に運んでくれ、薬を買いに行き、家事の全てをしてくれました。衛生上プラスチックフォークと紙皿を買って来てくれて一人でベッドの上で食べる食事。キッチンに行けばウィルスをまいてしまうので部屋にこもる2週間でした。家族に会えず最初はスープしか喉に通らず味覚と嗅覚を失い味気なく、まるで刑務所にでもいる様な気持ちになり涙が出て来ました。

 その週は毎日誰かのコロナ結果が出て、長男、末っ子、義理姉、友人2人も陽性結果でした。ものすごい感染力です。家族の中で同じ陽性でも咳が酷かったり、それぞれ症状が違い寝る時間も違ったので、主人、子供達4人共に各寝室から出ず、オンライン授業に切り替えてコロナ中も授業を受けていました。9歳の末っ子はママを1日に何十回、ハグもいっぱいしたい子なので良く一人で色々出来たなと思っていたのですが、彼自身もコロナが怖いというのをニュースで聞いていたので近づきませんでした。

 そんな中、主人がERに行きたいと言いました。咳が酷く40℃以上(105°F)の熱が3日続き、ドクターとのZoomで処方の薬を頂いていましたが、全く効きませんでした。救急車は高額なので長男と私でハッケンサック病院に連れて行き、付き添いはコロナで入れないので外で別れをしました。もう咳がひっきりなしに止まらない中、家族を頼むと言った夫の言葉にお互い涙ぐんでしまいました。待合室は真っ白でビニールが一面にかかり誰も入れず異様な雰囲気の写真が送られて来ました。コロナウィルスが目に見えたらいいのに、一人で心細いだろうな、と思いながら家に着くと他の子供達も心配して寝ずに待っていました。『とってもいい病院だから大丈夫だよ。もう寝よう。神様が守ってくれるよ』と言い聞かせて私も今夜は寝れそうだと思っていました。この1週間、自分も完治してない所に、主人を夜中2時間おきに様子を伺ったり薬の時間だったり、コロナにかかった友人達のことを思うと全く寝れてなかったのです。倦怠感もあり、動くのもやっとで自分も寝たきりでした。

 ベッドに入った所に主人から連絡があり『レントゲン撮った結果、返されることになった。迎えに来て欲しい』と。またすぐ車で迎えに行き、家でのコロナとの闘いとなりました。多くの入院患者がいて、かなり重症でないと入院させてもらえないのです。

 子供達が学校やスポーツに行ってなかったので、順番に知れ渡り、近所の人や教会の人が多くのメッセージ、励まし、手作りの大ご馳走、お花、果物、レストランのギフトカード等届けて下さり、祈って下さり、愛を沢山受けて辛い時期を助けて頂きました。必要以上のものを満たして下さり、誰も偏見の目で見ることはなく、それどころか、これほど多くの方に祈ってもらったのは初めてで、夫も自分自身も祈ることしか出来ないので神様と近い関係にいられて全てをお任せしていました。そしてその中で最も神様が働いて下さったのは、夫は10人兄弟でアイルランドに育ち22歳からアメリカに住んでるので長い間、疎遠になっていた兄姉や小さい頃遊んでた友人が連絡してくれました。きっかけを作って下さったのです。

 喜びもつかの間、更に事態は悪くなる一方でした。ERに行って戻って来た3日後の午後、呼吸困難になり、毎日測っていた酸素数値が82になり、救急車を呼びその時はあっという間に連れられ、お別れも出来ないまま入院になりました。もうコロナ症状発症から10日経っていました。今まで家族全員が風邪を引いてても元気な夫。疾患もなくタバコも私が長男を妊娠した23年前に辞めていました。身体資本の建築業で55歳。そんな夫が重症化するとは誰もが予想しておらず、ナースにもそれがコロナの怖い所だと言われました。入院次の日に抗体のある輸血をするとドクターから電話があり、驚きました。そこまで悪いのか?日本語で検索してもそんな新しい治療はされておらず、日本の従姉妹のナースに聞いてもやってないと言われ、また不安になる中、主人から輸血直前に連絡があり、ナースが『マッチングするのが難しい中、こんな大きなバッグが与えられて貴方は本当にラッキー』と言われたと聞いて、まさに多くの方の祈りが届いて神様が与えて下さったと思わされました。

 日本ではコロナになってから針を刺すのに抵抗があり、献血者が少ないとニュースを目にしました。それもそうです。コロナになった方が献血してくださった方がいたとは凄い事ですよね。友人のお父さんで抗体輸血plasma infusion受けた方が抗体輸血3日後には凄い成果が出て元気になって1週間後に退院したそうです。それを聞いて安心して期待していましたが、裏腹に、どんどんその後状態は悪くなり、2日目にはトイレに行ったら酸素数値が下がり、座るのも危険な状態で常にうつ伏せでいなければなりませんでした。酸素マスクは常に付けたままで周りには他の患者が咳やうめき声が聞こえ、ナースは走り回っています。コロナ病棟にいること事態怖かっただろうと思います。そしてこの日に主人は目を閉じたら明日は起きられるか分からないと思ったそうです。死はそこまで来ていました。3日目には丸一日連絡が途絶え、夜やっとメッセージが届いたと思ったら一言 “ tough day” ドクターからもこの日は連絡がありませんでした。

 私は寝ることが出来ず、明け方から物凄い恐怖に襲われました。夫や私の家族には心配かけるので言えず、錦織牧師先生に全ての状態を伝える事が出来て一緒に祈って下さったのが大きな支えでした。この朝ドクターと話すことが出来たものの、後2日この状態が続けばライフサポートが必要になる。人工呼吸器です。肺の全体にコロナがいるとの事でした。夫を失うかもしれない恐れ、不安、心配で胸が痛く、締め付けられ、余りにも早い展開に心がついて行けずうろたえるばかりでした。この日1月12日は結婚24周年記念日でした。うつしてしまった友人の誕生日でもありました。彼女は自分が感染したことで、小さな子どもたちも家からオンライン授業を受けなければならず大変そうでした。そして、もう一人のかかった友人も赤ちゃんがいて授乳と食事作りとで心苦しく申し訳ない気持ちでいっぱいでした。色々な想いがよぎり、辛く苦しい日になりました。そんな中、主人の姉も救急車で運ばれました。結局検査して5時間後にまた返されて夜中に迎えに行きました。もうこれ以上辛いことがないだろうと思うと次の日には更なる事が起こり、自分ではどうしようも出来ないので私のストレスはマックス。精神的に参っていました。助けられたのは『祈ってるよ』というテキストメッセージがアメリカだけではなく日本、アイルランド、イタリアから届いたことでした。神様に家族で祈る日々が続きました。そして祈りは天に届き、夫の命を救って下さいました。体がコロナに勝ち始めたのです!輸血もきき始めた様です。入院12日間後、ナースの拍手と共に車椅子で退院する事が出来ました。ナースの優しさ、素晴らしさは入院中も聞いていたので感謝で胸がいっぱいでした。

Welcome back サインが書かれた家族の待つ家に帰ってきました。7kg痩せて声も小さく弱々しくI am a survivor  と夫は涙しながら病院での事をゆっくり話してくれました。子供4人達もハグしてお父さんの居なかった間どうだったかの話をしました。娘は大泣きしていました。今までの緊張の糸が切れた様でした。驚く事にコロナ発症から8週間、肺のダメージを受けたので未だ完治はしておらず抗生物質を飲んで居ますが、ゆっくりと回復しています。他のかかったメンバーは皆、治りました。コロナの中も家族を強めて下さり、友人らの愛を教えて下さり健康の大切さを分からせて下さり感謝します。私達はコロナに負けない。明日はどうなるか分からない今日を大切にし、コロナの中、千羽鶴を折ってくれた友人夫婦の様に愛を行動で表わせる人になりたいです。

 

『恐れるな。私はあなたと共にいる。たじろぐな。私があなたの神だから、わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手であなたを守る。』(イザヤ41:10)

 

毎晩子供と一緒に手を合わせ世界中のみんなの心身の健康をお祈りしています。

 

神さまからのプレゼント〜父との祈り〜

私の両親は典型的な日本の仏教徒です。

私は、両親の救いは、長い間、毎朝祈ってはいましたが、召される直前にでも、イエス様を受け入れてくれるか、私のとりなしの祈りによって、天国にいけたらいいなーと思っていました。

しかし、2018年7月、父が召されるひと月前に、私は父と心を一つにして祈ることができました。主が私の日々の祈りをお聞きになったのです。

父は、私を、生涯、とても可愛がってくれました。私も、父が大好きでした。

あの祈りがなければ、あっという間の、父の死は、私には、受け入れがたいものだったと思います。今、父が天国にいることを覚えて、平安でおります。

また、未知なる所だった天国は、愛する父との再会を期待する、親しみ深い所になりました。

そのお祈りのこと、加えて神様が私になさった善いこと、お計らいをお話ししたいと思います。

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両親は、80歳をすぎても、年齢に比べてとても健康だと言われていました。

旅行によく出かけ、日常は、電車に乗るより、自転車で用事を済ませるような夫婦でした。

しかし、父は、2016年に階段から落ちて、加えて、緑内障も進み、視界が狭まり、怖くて外出する機会が減り、筋肉が落ちて行きました。

そんな話を聞く頃、我が家の長女が2018年5月に大学を卒業する予定で、夫も何年も日本に行っていなかった為、私たち家族は、その正月に、アジアに旅行に行く計画を立てました。

私たちと20年近く、旅行をしていない両親とも、一緒に箱根に行くことにしました。

旅行が決まった後、気がついたのですが、その日は、偶然、父の誕生日で、私たち家族とともに旅行先で誕生日を祝うこととなりました。

―それが父の最後の誕生日となりました。

5ヶ月後、長女が大学を卒業し、友達と日本を旅行し実家を訪れると、父がとても弱くなったと、私に伝えて来ました。母と話すと要介護2になったということ、私はすぐに日本に行きました。

私はひと月強、実家に滞在しました。

初めの頃は、父は、自分でトイレに行き、ご飯を食べ、動けてもいました。

頭は、以前のままで、記憶力もしっかりしていて、体だけが弱ってしまっていたので、いつも、“情けないなあ”と、言っていました。私はその姿を見ては、心を痛めていました。

ある日曜日に、母たちに用事があり、私が父と2人で過ごすことになりました。

その日、教会礼拝に行けなかったので、私は、父と一緒にお祈りをしようと思いました。

両親が、昔、カリフォルニアの家に遊びに来たときに、Japanese Christian Church of Walnut Creekの礼拝に出席したり、信仰の友らの家族と、食事を何度かした際には、お祈りを一緒にしましたが、父と2人で祈るのは初めてです。

もし、一緒に祈ることを断られたらどうしよう、と思いながらも、勇気を出して、“今日は日曜日で、普段は、私は、教会に行くのだけれど、今日は行かないから、一緒にお祈りをしてくれる?”と聞きました。

父は、“はい”と答えました。

“お祈りの最後には、一緒にアーメンと言ってね“と言い、シンプルな祈りを始めました。

父は、始めはただ、聞いていました。

少し経つと、父が大声で”アーメン“と叫び出しました。

普段は穏やかで、大きな声を出すタイプではありません。

また、この頃には、声はか細くなり、普段は、父の顔の近くに耳を寄せて、彼の話を聞くようにしていました。

その父が、言葉の合間合間に、”アーメン“と大きな声で叫び、父の部屋の中は、不思議な空間になりました。

私は、涙がぼろぼろ出てきて、膝に落ち、祈り終わった後は、何も言うことができませんでした。

私が部屋から出終わるまで、その後で父が、”アーメン、アーメン、アーメン“となんども繰り返していました。

私は自分の部屋に戻ってから、しばらく呆然としました。

聖霊様のご臨在を実感しました。

何を祈ったのか、全く覚えていません。

ただそれは、まさしく、父と、心を一つにして、神様に祈りを捧げたときでした。

延命治療はしない、点滴もしない(手から試みたのですが、血管が細くなりすぎて、体の中に入っていかず、病院で、首から入れると言われて、父が断りました)、自分の口から、普通にご飯を食べて、自分の家で最後を迎えるーと言う、父の意思を尊重して、日々、過ごしていきました。

私が帰国する頃には、自分で食事は取れず、食欲もかなり落ち、体もとても細くなっていました。

これからしばらくは、寝たきりの状態になるのかなと思いながらも、おしゃべりもしっかりしていましたし、まさかこれが最後の別れになるとは思わずに、私は、父に、“また来るからね、元気でね”と言って、アメリカに帰りました。

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一月後、お昼ご飯に、大好きなスイカを、食べようとして、そのまま意識不明になりました。

母は、本当に突然だったと言っていました。

母が、主治医に電話をすると、先生はお昼休み中で、たまたま実家近くにご飯を食べにきていたので、すぐに駆けつけてくれました。先生が看取ってくださったので、自宅での死亡でしたが、解剖の必要もありませんでした。

父の死後の顔は、とても穏やかで綺麗でした。最後まで平安だったのだなと思いました。

どこまでも憐れみ深く、愛のお方、全てを最善へと導かれるお方、その主の御手の中に守られながら、主の元へと発って行った父は、本当に、本当に、幸いです。

詩篇236

命のある限り恵と慈しみはいつも私を追う。

主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。

アーメン

イエス様の大きな恵み

神様に出会う前の私は、神様がこの世に存在しているなら、何故自分の人生には辛いことが起こるのかと、目には見えない神様の存在を否定していました。そればかりか、自己中心的でプライドの塊、不平不満ばかりで心の中には大きな荒地が広がっていました。外面ばかり気にしていましたので、人の視線がいつも気になり、周りのことに振り回されて自分を見失い、満たされない何かがいつも心の中を渦巻いていました。

自分の人生をどうにかして変えたくて、1996年、先輩がニューヨークに2、3ヶ月滞在するということを聞き、私はその時の仕事を辞めてニューヨーク滞在に便乗することにしました。当時のボスは私に「仕事を辞めて今更何を考えているんだ」と反対しましたが、私は「今しかない」との思いでニューヨーク行きを決断しました。滞在中は思っていたより大変なことがたくさんあり、楽しいことよりも辛いことの多い滞在でしたが、何故か一度帰国してから、再度、今度は一人で渡米しました。その後ニュージャージーで私の専門である幼児教育の仕事が見つかり、現在の夫とも出会いました。彼はクリスチャンでしたので、私と会う度にイエス様の話をしました。でも「もうイエス様の話は聞きたくない」と拒否したことも度々ありました。時にはマンハッタンの教会にも一緒に行きました。そこで出会った日本人の方に、ニュージャージー日本語キリスト教会を紹介されました。なかなか一人では行けませんでしたが、ある韓国人の女性との不思議な出会いを通して、ついにニュージャージー日本語キリスト教会に行く日が来ました。

初めて足を踏み入れたニュージャージー日本語キリスト教会には、何かとても温かい安心できるものを感じました。そして毎日曜日教会に行くようになり、その年2000年12月10日に錦織牧師から洗礼を授かりました。ただただ嬉しかったのを覚えています。「この私がクリスチャンになった」と。私はミッションスクールを卒業していて、日本では教会付属の幼稚園に勤めていました。神様はその時から私をずっと待っていてくださったのです。

その翌年2001年12月に現在の夫と結婚しました。その年の9月11日の世界を揺るがす大惨事で夫は失業していましたが、「山の上での結婚より谷での結婚は上に上がって行けますからね」との、笑顔いっぱいの錦織牧師のお言葉に「それもそうだ」と納得して結婚しました。でもそれは上り坂ではなく、もっともっと深い谷底に降りて行く下り坂だったのです。私は夫の仕事が数ヶ月で見つかると思っていました。でも1年経っても2年経っても見つかりません。ようやく4年目に仕事が与えられ喜んだのも束の間、1年程で失業しました。結婚して今年で19年、その間夫が働いた期間は5年程です。男性は働くのが当然と思って育って来た私にとって、自分の夫に仕事がないことは信じ難い事実で、簡単には受け入れられませんでした。大変感謝なことに私の仕事は順調に途切れることなくありましたが、夫には仕事がないばかりか、家でブラブラしているという状況に耐えられず、頻繁に喧嘩をしました。何度も離婚を考えました。

でも、19年間、多くの問題を抱えながらでも生活できたのは、神様の大きなご愛と恵み、そして守りと支えがあったからです。食べるものがなくて困ったり、家賃が払えずに苦労したことは一度もありません。神様が全ての必要を満たしてくださいました。神様を知らなければ、私はこの試練から逃げ出していたでしょう。神様を知らない人から見れば、私の人生はとても奇妙で不思議に写っていたと思います。そうです。神様は人知を超えた不思議をなさるお方です。「神には、なんでもできないことはありません。」(ルカによる福音書1章37節)  自分の人生は何なのか。何故生きているのか。何故試練が続くのか。とずっと悩み彷徨って来た私を慰め助け出してくださったのは、天地創造主なる全能の神様だけです。この試練は父なる神様からの愛なる訓練だったのです。

 

「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」ヘブル人への手紙12章11節

 

私は神様に心からの感謝をささげます。この神様の訓練がなければ、神様の大きな、深い、天よりも高いご愛を知ることはありませんでした。どんな境遇の中にも神様は共にいてくださいます。試練に耐え脱出する力と道を備え与えてくださいます。

2000年12月に洗礼を受けて浮かれていただけの私は、イエス様の十字架と復活の意味が全く理解できていませんでした。この神様の愛なる訓練を通して、イエス様が私の罪のために十字架にかかり私の罪を赦してくださった。そして3日目に復活されて今も生きてとりなしてくださっていることを聖霊様を通して教えていただき、悔い改めに導かれました。イエス様はご自分の命を私のために捨ててくださり、天の父はひとり子を惜しまずに私の罪のために十字架に差し出し、そして永遠の天国の国籍と永遠の命をくださったのです。

 

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」ヨハネによる福音書3章16節

 

COVID-19の影響で、2020年6月に、私が11年間勤めていた幼稚園が閉園しました。ショックでした。言葉になりませんでした。夫に仕事がないばかりか、私までも仕事を失い、この先どのように生活していったらいいのかと悩み苦しみ、神様に祈りました。形あるものは全てなくなることを実感しました。でも非常事態宣言が解除後、閉園した幼稚園の多くの保護者の方からご連絡をいただき、現在フルタイムの仕事はありませんが、引き続き私の専門である教育の仕事に携わることができています。神様がこのように仕事をくださり、養ってくださっていますことを心から感謝しています。

 

今も私の信仰は途上にありますが、これからも主を信頼して、真実なる神様の御言葉が記されている聖書に従って歩んで行きたい、この素晴らしい神様のご臨在と恵みに感謝し、喜んで主を賛美して行きたい、そして神様の福音を人々に伝えていくことができますようにと日々祈っています。このアメリカに来たことも神様の導きです。神様にお会いするための神様のご計画だったと確信しています。ニュージャージー日本語キリスト教会に行くために不思議な形で出会った女性も、神様が備えてくださいました。教会では牧師先生始め、牧師夫人、そして愛する兄弟姉妹方のお祈りに支えられていますことに感謝します。

今日も神様が私を生かしてくださり、罪だらけの不完全で弱い小さな者にも力を与え、永遠に変わることのない大きな愛と恵みを日々注いでくださっていますことに心より感謝申し上げます。

 

「イエスキリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない」ヘブル人への手紙13章8節

 

「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」哀歌3章22節

「祈りが与えられている恵み」

昨年11月24日、洗礼を受けさせていただきました。洗礼までに導かれた証を書かせていただきましたが、また機会を与えてくださりありがとうございます。

昨年2月信仰告白に導かれ、10月錦織先生に受洗したいと伝え、11月24日洗礼を受けさせていただきました。クリスチャンになって一年になりました。私が、思い描いていた一年後とは現在の状況は大きく異なっていました。COVIDー19が突然現れ、全世界に影響を与えました。多くの方が病に苦しみ、そして亡くなる方の数も私達の想像を遥かに超えました。目に見えないウィルスへの不安、私達の日常生活は大きく変化し、当たり前だったことができなくなったこと、特に家族以外の人と会うことができないことは大きなストレスともなりました。そして、個人的には、日本への本帰国が延期となったことでした。しかし、このような状況下の中で、神様は私に多くのことを気づかせていただき、そして与えてくださいました。感謝です。

洗礼後、私はクリスチャンとして、これから神様とともに歩めることに嬉しさを覚えていました。それと同時に不安も持ち合わせていました。それは、2020年夏に本帰国の予定があったため、日本へ帰国しても教会が見つかるだろうか、このNJにいるときのように信仰生活が守られていけるかなどでした。ですから、本帰国までの間に、イエス様と出会ったこのNJの地で、兄弟姉妹との交わりや、スモールグループでの学び、また私にとってチャレンジでしたが、聖歌隊やハンドベルなどのご奉仕を通して、クリスチャンとしての歩みを学べる機会を増やしていけたらと考えていました。

しかし、3月、COVIDー19で私達の生活は突然変化しました。No school、Stay home。買い物へ行くにも大変な状況になってしまいました。そして、教会もオンライン礼拝、スモールグループもZoomとなり、何もかも初めてのことで戸惑い、不安を抱える毎日となりました。私は本帰国までにクリスチャンとして色々なことを学びたい気持ちでしたので、このような状況になり、どのように歩めばよいかわからなくなりました。

Zoomを通して、以前より参加していた子育て中のお母さんたちのスモールグループであるJoy Joy奥様会やRidgewood聖書を読む会などに続けて参加し、神様の御言葉より力をいただき、Joy Joy奥様会で皆さんと共に祈りを続けていましたが、なかなかCOVIDー19の状況は良くならず悲しいニュースばかりの毎日に、私の心が落ち着くことはありませんでした。しかし、皆さんと共に祈りをささげているときは、神様から平安を与えられ、祈りがもつ力を改めて思わされました。私は、毎週木曜日、朝晩祈祷会が行われているのを知り、参加したい思いがあるものの、なかなか参加することができませんでした。それは、祈ることが苦手で、Joy Joy奥様会など知っている方たちの中でやっと祈ることができる私にとって、お会いしたことのない方たちの中で、祈ることは難しいと感じたからです。家族以外の誰とも会うことのできない毎日、一日中家族が家にいることで家事も増え、自分の時間をとることが難しくなり、日に日に少しずつストレスを感じていく自分がいました。この状況の中で平安を与えてくださる方はただ一人、私が信じている、主である神様で、祈りが苦手でもいい、どうしてもこの祈祷会に参加をしたいと強く思いました。この思いが強くなったのは、聖霊様が働いてくださり、導いてくださったからだと思います。そして、この祈祷会を通して、神様は多くのことを私に教え、気づかせて下さり、力を与え、平安を与え、慰め、助けを与えてくださいました。

絶えず祈りなさい。(第一テサロニケ 5:17)

  あらためて、私達クリスチャンには、祈りがあたえられていること、そして、祈りを聞いてくださる方、神様がわたしたちと共にいてくださることに、感謝を覚えました。

そして、共に祈る兄弟姉妹を与えてくださったことも、神様からいただいた恵みでした。参加する前は、お会いしたことのない方たちやお話しをしたことのない方たちと、ともに祈ることが、私にはできるだろうかと不安でしたが、なかなか人と会えない中で、オンラインを用いて、遠くに住んでいる方たちや普段お話しをしたことのない方たちと交わる機会、祈る機会を与えてくださいました。

祈ることが苦手な私に、神様はCOVIDー19という厳しい状況下を用いて、祈祷会に参加するように招いてくださいました。そして、この祈祷会を通して、ゆっくりゆっくりと私の歩幅に合わせて神様は私を洗礼まで導いてくださったように、祈りについて…神様はゆっくりゆっくりと今も私に教えて下さっています。祈りとは、神様との対話、神様との親しい交わりであり、そして、神様は特に私に足らなかった、とりなしの祈りについて教えて下さいました。今までの私は、自分の願い、思いを中心にお祈りをしていました。祈祷会で、創世記を皆さんと読みすすめている中で、創世記18章の、ソドムとゴモラのために、神様の前に立ち、熱心に神様と向き合う、アブラハムのとりなしの祈りをする姿に思わされました。

創世記28章で、ヤコブは、父イサクから祝福を受け、母リベカの兄ラバンのところへ向かう旅を始めました。しかし、ヤコブは旅の途中、不安を覚えているところに、神様はヤコブに「わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守る。」と語ってくださり、ヤコブは「私はそれを知らなかった。」と応える姿に思わされました。私は日本での信仰の歩みに関して、先が見えない不安ばかりに目を向けている自分であることに気付かされました。この聖書の箇所から、弱さや困難を覚えているとき、私達は神様がそばにいて下さっていることに気づくことができないことがあり、そのような時、神様は私達の前にあらわれ、力強い言葉を語りかけてくたさる方で、主は、私がどこに行っても、守ってくださり、信仰が歩める場所に導いてくださる方、

あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。(詩篇37:5)

神様に目を向けること、そして、神様を信頼し、神様に委ねることを、祈祷会を通して、あらためて教えていただきました。

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いを、キリスト·イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:6-7)

私の大好きな御言葉です。神様に感謝を持って祈りと願いをささげる。このCOVID-19が落ち着いたあと、神様は今までとは違う新しい道を作ってくださることを期待し、神様の御心を尋ね、神様に委ね、これからもゆっくりゆっくり信仰の歩みをすすめていけたらと思います。

聖霊様に導かれて

私が洗礼に導かれて行った時のお話をさせて頂きます。

私の若い頃から、クリスチャンではなかった母が、しばしば、聖書は世界最高の書物だと言っていました。また、母は、教会や賛美歌を美しいものとしてとらえていたように思います。しかし、残念ながら私の日本での生活では殆ど教会に行くチャンスはありませんでした。

しかし、アメリカの生活が始まった頃からは少しずつですが教会に足を運ぶチャンスに恵まれる様になりました。何故ならば、元夫がカトリックのクリスチャンであったからです。夫の行動には素直に従って付いて行っていましたし、彼からの特別の強制も無かったので、自然な感じで教会に足を踏み入れていました。それから年月が経ち私達夫婦にも色々な試練が起こりまして、細かな話は致しませんが離婚に至る迄になりました。

そうこうしているうちに、子供達との三人の新生活にも大分慣れてきていた頃に、あるクリスチャンのピア二ストの友達の誘いで教会の礼拝前の音楽奉仕に参加させて頂く事になりました。そこは現地の教会でした。奉仕の後、すぐ帰るのも失礼な様な気がしまして、英語の弱い私でしたが、解らないながらも、どうにか礼拝の終りまで出席するようになりました。唯々牧師さんの素晴らしい人柄が滲み出ていたお説教に聞き入っていました。勿論英語なので理解する事は難しかったのですが、それなりに不思議な世界に浸っている自分がいました。そして、何時しか聖書の世界を知る上でも日本語の教会に行きたいという思いになっていました。

その様な矢先、別のクリスチャンの友人から、「私の行っている日本語教会に来ないか」との誘いがありました。「実は私も日本語教会に行きたかった」という事を告げ、直ぐOKの返事を致しました。彼女は祈りのハンナ(聖書のサムエル記に出てくる熱心に祈った女性の名前)と言うあだ名が付いている位祈りを大切にしていました。多分祈りの中に私を見たのでしょう。突然の誘いに不思議さも感じない訳では有りませんでしたが。

そこの教会の場所はニュージャージー日本語キリスト教会がお借りしているザイオン教会の様に立派な建物ではなく、一人の教会員の家でした。私にとっての「教会」のイメージは、外目に見ても教会だとわかるような建物だったので最初は少し驚きました。このような所でも教会として成り立っていけるのだろうか、と思いましたが、友達がいたので大丈夫という安心感はありました。私にとってのそこでの最初の礼拝で心に留まったのは、説教以外の話で、牧師さんが「来週は日本に行く前の最後の週なので洗礼を受けたい方のチャンスですよ!」と言われたことでした。勿論それは私にとっては全く無縁の世界という思いで聞いていました。

その同じ週に、私に思いも寄らない事が起きました。日本からの姉の電話で、母が半年もつかどうか解らない状態である事を医師から告げられた事を知らされたのです。その電話口で二人で暫く時間も忘れ、泣き崩れていた事を覚えています。
それから直ぐに、祈り方も知らない私は生まれて初めて手を合わせ、「神さま」という言葉を口にし、私の思いを神様に聞いて頂きました。その祈りの中で、礼拝のときに牧師さんの言っていた事が思い出されました。洗礼を受けるという事の意味も、何も知らない私は、直ちに洗礼を受けて、神さまに、私の思いを母に告げるパイプ役、橋渡しになって頂こうと思いました。
聖書の勉強もした事が無く、中身も全く解らず、心の準備も十分に与えられずの洗礼でしたが、牧師は心から喜んで授けてくださいました。この牧師は、洗礼を受けたいという気持ちが先ずは大切で、それから聖書の世界を知る方が深く理解出来るのだという御考えをお持ちの方でした。
でも本当に何も知らなかった私には学びもとても大変なものでした。しかし、洗礼を受けた後で振り返ってみた時に、人にはそれぞれ洗礼を受けるタイミングがあって、私にとってはこの様なスタイルが相応しい形だったのだと、思いました。

いよいよ迎えました洗礼式は涙涙でした。全く泣く事を予想していなかった私は人前で大泣きした恥ずかしさで一杯でした。人前で泣く事は当時の私には実に恥ずかしい事でした。お願いだから私の涙を止めて下さいと、洗礼中ずっと願っていました。その当時の私は、流した涙がどういうものなのか、どこから来たのか、全く理解出来ませんでした。その涙を通して、私は不思議なものを見ました。勿論聖霊という言葉、存在すら知らない私だったので、目に気流の様なものが見えましたが唯の目の錯覚という思いでいました。今から思えば全てが聖霊様に導かれていた私の洗礼式迄の行程ですが、十字架によって贖われた私の罪を示す涙だったのだいうことがわかります。涙で終わった洗礼式も、今では、私の罪がきよめられた喜びの証しとなっています。不思議な事に、それから半年と言われた母の命も、三年の時間を与えて頂く事が出来ました。感謝の喜びでいっぱいです。
聖霊の働きは、陰の力、縁の下の力と目立たない存在です。私の日々の祈りの中でも、神さま、イエス様と頻繁に呼ばさせて頂いておりますが、聖霊様をこれからも沢山お呼びして、祈りの中心になって頂きたく思っています。
聖霊様有難うございます。この様に聖霊様によって今回の証しを書けるこの時にも感謝致します。これからも宜しくお願い致します。

「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない。」

コリント第一の手紙12章3節

振り返って神の祝福を実感する – 福音と共に成長した証し-

わたしは子どもの頃、神の言葉と福音のメッセージを聞きながら育ちました。両親はクリスチャンで、私と弟を毎週欠かさず教会に連れて行きました。そこで私は、神が人間を創造されたこと、罪がどのようにしてこの世に入ってきたのか、そして私たちを地獄から救うためにイエス様が犠牲になられたことを学びました。子どもの頃,わたしたちは永遠の命と永遠の苦しみについて常に思い知らされていました。教会の長老たちが口癖のように言っていたのは「もし今夜死んだらあなたはどこに行くのか?」という言葉でした。自分がこのままでは地獄に行くのだと知っていましたが、小さな子どもだったわたしにとって、死はとても抽象的に思えたので、あまり深く考えたことはありませんでした。母は病院で薬剤師として働いていたので、家にいない夜が多かったのですが、父は母が働いていた病院の前を車で通ると必ず 「さあ、おかあさんに手を振って!」と言っていました。ある日、母の働いていた病院の前を車で通り過ぎた時、「ここがママの職場 」とは思わず、「ここは病気の人がいる場所 」と思ったのです。わたしの祖父はその何年か前に亡くなっていたのですが、亡くなる数日前に両親に連れられて、もう一度祖父に会いに病院へ行きました。ベッドで寝ている祖父を見て、なぜいつものように起きて私たちに話しかけてこないのだろうと不思議に思ったことを今でも鮮明に覚えています。それが祖父だとはわからないほどでした。帰りの車の中で、これらの記憶や考えが頭の中を駆け巡り、死はとても現実的で怖いものだと気付きました。教会の日曜学校で、先生が「天国に行く唯一の方法は、あなたの罪を背負って十字架で死んだイエス・キリストを信じることです」と言っていたことを思い出しました。両親に毎日怒られていたので、自分が罪人であることを知っていました。そして、両親に対して、何度も「ごめんなさい」と謝ったのと同じように、自分は罪人であり、自分ではどうすることもできないことを神様に悔い改めなければならないと思いました。そして、その夜、私はキリストを受け入れたのです。私はとても幸せな気持ちになりました。その時はまだ8歳でしたが、それくらい幼くても、救いの喜びを味わうことができたのです。

ここまでは、私がどのようにしてキリストのもとに来たのかということを書いてきました。しかし、正直なところ、私のライフスタイルが変わるようなことは何もありませんでしたし、一人の人がイエス様を信じる時に経験するような試練は一つもありませんでした。これは神を中心とした家庭で育った者の特権だと思います。しかし、キリストを受け入れた後に私の試練は始まりました。私はクリスチャンになったことをすぐに両親に話しましたが、私の行動は何も変わらず、あまり簡単に信じたように見えたのでしょう、両親は信じてはくれませんでした。このことにとても傷つき、私は自分がクリスチャンであることを隠して学校生活を送っていました。クラスメートは、私が通っていた教会が他の教会に比べてとても厳しいことを知っていたので、いつも私のことを「良いクリスチャンの女の子」と思っていたり、私がどうやって楽しんでいいかわからないとか、私がとても頑固者だと思っていたりしました。そのため、自分がこの教会の一員であることが恥ずかしくて、恥ずかしくて、クリスチャンであることは、ルールを守らなければならないので、私の人生はつまらないものになってしまうのではないかと思いました。それに加えて、私は学校で唯一のアジア系の生徒だったので、自分の文化を楽しむ機会もありませんでした。学校に馴染むために、クラスメイトと同じように話したり、同じ音楽やテレビ番組に興味を持とうとしたりして、「クールなアメリカ人の女の子 」と思われるようにしていました。大学に入ると、また状況が変わりました。私が所属していた教会の正式なメンバーとなったので、私が守らなければならないルールはより厳しくなりましたが、それに従うのではなく、それとは正反対に生きようと思いました。その中には、女性はスカートを履いて頭を覆わなければならない、クリスチャンではない人と付き合ってはいけない、礼拝の中では楽器は使ってはいけない(全てはアカペラでした)、一切の例外なく日曜日の礼拝には出席しなければならない、そうでないならば、献身的なクリスチャンとは言えない、などのルールがありました。私はこれらの教えの多くには同意できず、反抗的になっていきました。聖書にはこれらの規則についての説明がなかったからです。大学では、教会の教えに反していたとしても、自分のやりたいことは何でもやり、自分が正しいと思うことは何でもすることを選びました。そして、私は自分が、共同体の一員であるという感覚や、さばかれないで愛される体験することを切に求めているのだとわかりました。私とは異なる霊的背景や文化的背景を持つ友人ができましたが、彼らは私が教会で生涯を共にしてきた人たちよりも優しさを見せてくれたのです。悲しいことですが、この時、私は強い信仰を持ったクリスチャンは、自分たちとは違っている人たちに対しての心を持っていないのだと信じるようになり、「良いクリスチャン」にはなりたくないと、神様から離れ始めていました。私は、教会と学校の二重生活をしていて、とても葛藤していました。私の両親、特に父は、この時期に私が幸せではなく、自分の霊的な成長に苦労していることに気がついていました。私たちは家族としても、教会と同じ価値観を受け入れるのに困難を感じるようになり、閉じ込められているように感じていました。このような状況は、家族でその教会を去ることを決意するまで4年間続いたのです。

私の弟は、子どもの時からニューヨークのディスカバリーキャンプという日本人クリスチャンのサマーキャンプに毎年通っていました。そこで彼は同じ日本人の友達と出会い、その友達の多くが私たちの近くに住んでいることがわかりました。そのキャンプの仲間のうち、弟と特に仲良くなった一人の子が、ニュージャージー州メイウッドにある教会に来てみないかと弟を誘ったのです。弟と父は、2017年の11月にニュージャージー日本キリスト教会(JCCNJ)を訪問しました。父はJCCNJの自分たちを歓迎してくれる雰囲気とそこでの人々との交わりにとても満たされて、数週間後に母と私を連れて行ってくれました。私は、それまでの教会を去ることについて父と同意するのに時間がかかりました。ずっと共に歩んできた仲間たちのところを去ることについて、私たちは口論になり、私は3日間泣き続けました。しかし、父の言葉が私にその教会を去る決意を与えてくれました。「あなたは、幸せかい?幸せならここにいてもいいが、神はあなたに賜物を与えたのだから、ここにいてもその賜物を使うことはできない。神は私たちが成長するためにはここを離れる必要があると言っているのだと思うよ。」一ヶ月後、私は初めてJCCNJの礼拝に行きました。最初の頃は、私が育った教会とは全く違っていたので、JCCNJを受け入れるのがなかなかできませんでした。しかし、少しずつですが、想像以上に日本の教会が好きになりました。JCCNJに来たことで、私は本当に新鮮な空気を吸うことができました。私は自分らしくいられるようになり、神様から与えられた関係を通して神様の愛を学び直すことができました。

「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」エレミヤ29:11

これらの経験は、私の想像をはるかに超えた素晴らしい未来を神様が準備してくださっているということを確信させてくれました。生涯の友だちもでき、生まれて初めて、教会だけでなく、自分の人生全体に神様を受け入れたいと思いました。今では、家族や仕事、そして友人たちと生きていく私の人生を神様が祝福してくださっているのだという確信を持って歩んでいます。そして、心から喜びをもってイエス様への愛を宣言できます。アーメン

Looking Back and Realizing God’s Blessings – A Testimony About Growing Up with the Gospel

As a child, I was surrounded by the word of God and the gospel message. My parents were both Christian and brought my brother and I to church every week without fail. There, I learned about God created man, how sin was brought into the world, and Jesus’s sacrifice to save us from Hell. As kids, we were constantly reminded about eternal life and eternal suffering. A big phrase all the elders used was “if you died tonight, where would you be?” and I knew that I would be going to Hell, but death for a small child seemed like a very abstract concept so I never thought about it too much. My mom worked as a pharmacist in the hospital, so there were many nights when she was not home. Every time my dad drove us past the hospital where she worked, he would always say “wave to mom!” One day, when we drove past her hospital, instead of thinking “this is where mom works,” I thought, “this is where sick people live.” My grandfather passed away a few years before and a few days before he died, my parents brought me to the hospital to see him one more time. I still have a very distinct memory of seeing my grandpa sleeping in the bed and wondering why he wasn’t waking up and talking to us like he always does. I did not recognize him at the time. So in the car, on the way home, these memories and thoughts ran through my head and then did I realize that death was a very real and scary thing. I remembered that in Sunday School, the teacher would say that the only way to go to Heaven is to believe in Jesus Christ who died on the cross to bear all your sins. My parents would yell at me everyday so I knew that I was a sinner, and just like I repent to my parents many times, I had to repent to God that I was a sinner and could do nothing to help myself. I received Christ that night and was felt very happy. I was only 8 years old at the time, but I was able to enjoy the joys of salvation even at a young age.

This testimony of how I came to Christ but honestly, nothing life altering to my lifestyle and I did not have to face any trials a child to believe in Jesus. This comes with the privilege of growing up in a God-centered household, however, it was the time after I received Christ where my trials began. I told my parents right away that I became a Christian, but they were skeptical because my behavior didn’t change and it seemed too easy. This hurt me very much and I would go through my school days just keeping it to myself that I was Christian. My classmates knew the church I went through was very strict compared to other churches so they always pictured me as “the good Christian girl” or that I didn’t know how to have fun or I was very stuck up. This made me shameful and embarrassed that I was part of this church and that being a Christian would mean that my life would be boring because I must stick to the rules all the time. In addition to that, I was one of the only Asian students in my school so I didn’t have an opportunity to enjoy my culture either. As I went through school, in order to fit in, I would try to talk like my classmates and be interested in the same music and TV shows as my classmates so I could be seen as a “cool American girl.” When I went to college, things changed again. I joined as an official member at my church so the rules became more strict, but instead of following, I decided to live in the complete opposite way. Some rules were that women had to wear a skirt and head covering at all times, no dating non-Christians, no instruments during worship (everything was acapella), and you must attend Sunday worship without exception in order to be seen as  devoted Christian. I did not agree with many of these teachings and went through a rebellious stage because there were no explanations to these rules in the Bible. In college, I did whatever I wanted and chose to do whatever I felt right to do, even if it was against the teachings of the church. I realized that I craved a sense of community and experience love with no judgement or conditions. I have made friends who come from different spiritual and cultural backgrounds than me, but they have shown me more kindness than people I have known for my whole life in the church. As sad as it sounds, at this time, I created a belief that Christians with strong beliefs lack heart for others created differently from them, so I started to push myself away from God because I did not want to become that person of a “good Christian.” I was very conflicted living this double life, one for church and one for school. My parents, especially my dad, could see that I was unhappy and struggling with my spiritual growth during this time. Our family as a whole, were having a difficult time accepting the same values the church did and feeling like we were trapped. This progressed for 4 years until we decided as a family to leave that church.

My brother, went to a Japanese Christian summer camp in New York called Discovery Camp every year when growing up. There, he met many friends who were also Japanese and we found that many of these friends live close to us. One camper who was particularly close with my brother offered him to come visit his church in Maywood, New Jersey. My brother and dad visited the Japanese Christian Church (JCC) of New Jersey in November 2017. My dad was very pleased with the welcoming atmosphere and fellowship at JCC and brought my mother and myself weeks later. It took a long time for me to agree with my father to leave our church. We argued and I cried for 3 days thinking about leaving certain friendships. But it was what my dad said that gave me the determination to leave – “Are you happy? If you are, you can stay, but God gave you a gift and you will not be able to use your gift staying here. I believe God is telling us that we need to leave in order to grow.” A month later, I went to my first JCC worship. I was very stubborn to accept JCC in the beginning because everything was so different from the church I grew up in. Slowly, though, I have come to love the Japanese church more than I could every imagine. Coming to JCC has really given me a huge breath of fresh air. I was able to be myself happily and relearn God’s love through the relationships He gave me. In Jeremiah 29:11 it says “For I know the plans I have for you, declares the Lord, plans for welfare and not for evil, to give you a future and a hope.” These experiences of my life really affirmed my belief that God has a wonderful future waiting for me that is far beyond my imagination! I have made lifelong friends and for the first time in my life, I want to incorporate God into my whole life, not just at church. Now I live with certainty that God has blessed my life with family, work, and friends and I can declare my love for Jesus with joy from my heart!! Amen!

「今までの歩み」

私は兵庫県朝来市という田舎の出身で、小学生の私が学校から家に帰るときよく目にしたものといえば酪農家、又は肉牛を育てているおじさんが牛を散歩しているところでした。そんな田舎ですから、クリスチャンは周りにはほとんどいません。その私がなぜ神様を知るようになったかお話します。

私は幼いころから地元にある少年少女のためのオーケストラに所属しており、打楽器を1 0歳ぐらいからそこで始めました。本当はピアノが大好きでピアニストになりたかったのですが、中学校の先生に「ピアニストなんかなれるわけない」と言われてピアノの道はあきらめました。でもクラシックが小さいころから大好きで音楽の道へすすむことになり、打楽器だったらなんとかなるかも、と言われ、当時はほとんど嫌いになっていた打楽器で先に進むことになりました。今思えば、このときから全部神様の御手の中にあったんだなあと思い感動しています。

大学は京都市立芸術大学へ進みました。そこで出会った先生が京都芸大の教授兼、牧師先生でした。先生は日曜になると家で礼拝をされます。学校でも神学の授業をされていたので、私もその授業を受けていましたが、その時はなんとなくいい話だなぁとは思いましたが、キリスト教自体には全く興味をもちませんでした。聖霊様のお働きなしには、神様の事は理解できないんだということを身をもって体験しました。先生はとても厳しかったですが、学校に真面目に来ない生徒にも、留年した生徒にも、また優秀な生徒にもいつも平等に接されていて、知らない間にとても尊敬していました。周りにもクリスチャンになった先輩や後輩がたくさんいました。 キリスト教には関心がなかったのですが、クリスチャンってみんな親切だなあという印象を抱いていました。

日本での大学生活は苦しみの連続でした。一番私を苦しめていたのはボーイフレンドとの関係だったと思います。私は彼氏という存在にひどく依存し、私を助けてほしい、救ってほしい、そんな思いがいつもありました。その気持ちがいつも暴走して、結果いつも相手を傷付けてしまい、最終的には嫌いあって別れるということばかりを繰り返していました。今では、こうなってしまった原因がなんとなくですが想像できます。私は13歳の時に父を胃ガンで亡くしました。その時、父親という絶対的な存在だと思っていた人が弱っていく姿を目の当たりにしました。急に細くやせこけて、自分で瞼も閉じられなくなった父、床に伏せって泣く母。もしかしたら私は家族から得られる心の土台的な何かをどこかに忘れてしまったのかもしれません。母には自分の悩みなどはほとんど相談しなくなりました。母が私の悩みをひとりで受け止められるか分からなかったのです。そして、ボーイフレンドの中に心の支えを見出そうとしていたのだと思います。でもそんなことがうまくいくはずもないことにずっと気づかず、結局は寂しさを積み重ねることを繰り返していました。

大学4回生になり、就職の時期が来ました。そのころすべてのダメージが体に表れていた時期で、よく体調を崩していました。夢とか目標とか何にもなかった私は人に勧められて自衛隊の音楽隊のオーディションを受け、なぜか落ちました。近所の高校生が受かっているのになぜ、と思いましたが、それもそのはずです、私は楽器の練習を全然していませんでした。何をするべきなのか、道が全く見えなくなっていました。実家に帰ってバイトしようと思いましたが、その道を選べば音楽はやめることになります。牛が散歩するほどの田舎に音楽の仕事はほとんどありません。私はそれでも良いと思いました。自分が演奏することに価値があるとは思えませんでした。でも私の先生だけがいつも励ましてくださいました。本当に尊敬する先生から「続ける事が大事」と言われたので、そうですか、じゃあ続けます、そのぐらいの軽い気持ちで続けることになりました。とはいえ、大学院に行くお金は一切ありませ ん。ちょうどその時、シンガポールに全額奨学金がでて、生活費ももらえる大学がある、ときいてシンガポールに行くことにしました。 シンガポールに行ってからもまだ同じ問題を抱えていましたが、ある夏休み、日本へ帰った時にクリスチャンの友達にこのことを相談しました。そうすると、「瑞生ちゃんの悩みは教会でしか解決できんと思う」と言われました。その言葉にすぐ従いました。本当に変わりたかったのです。そして自分の打楽器の先生が牧師をされている教会へ行きました。牧師の奥さんが「何か祈ることある?」と聞かれたとき、とっさに父親がいないことがたまに寂しいといいました。そうするとその方が「そっか、お父さんのことも神様に預けようね」とおっしゃいました。その言葉が自分にはとても衝撃でした。仏教の考え方では死んだ父を礼拝する感覚が強かったのですが、死んだ父よりその上の存在がいるとは考えたことがなかったのです。神様はあなたを愛しています、とはよく聞くけど、神様が私も、そして私の家族も愛している、と聞くことが本当にうれしくて涙がでました。

シンガポールに帰ってからしばらくは当時のボーイフレンドと付き合っていましたが、その人はヒンドゥー教徒であったため、 イエス様だけが道だということが納得できず、何回も大げんかをしました。私もほぼ知識がなかったのでかなり流されかけ、そして教会でも異教徒の彼をあまり歓迎する雰囲気でなかったのでかなり苦しみました。でも神様に「真実を教えてください」と祈っていくとき、 やっぱり逃れられない真実、「イエス様だけが道であり、真理であり、いのちである」をいろいろな方法で示されました。

 

「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)

 

そしてその人と別れてから、そのことをまっすぐ受け入れることができました。今思えば、神様は本当に私のことを離さずにいてくださって、いつも守ってくださっていたのです。そしてイエス様の十字架で示された愛をもって神様は私たちを愛してくださっていて、こんな小さなものを贖ってくださったことを感謝しています。

私のような田舎の出身者が、ジュリアード音楽院まで来ることができたのは、奇跡としか言いようがないと思います。小さい頃から英才教育を受けたわけでもなく、なにより田舎に住んでいたのでコンサートもほぼ聴きに行ったことがなかったです。私は正直今でもなんでこんな人生になったのかよく分かりませんし、特に名をあげたいとか、有名なオーケストラで働きたいと思ったことも一度もないです。周りの人と比べると経歴も情熱も知識も明らかに欠けていたので、なんでここにいるんだろうといつも不思議でした。でも、そんな私だということは神様は百も承知でここまで導いてくださったと思うので、神様のご計画の1パーツとして栄光をあらわすことができたらと、小さいながらに願っています。

これからの予定は、半年ほどは日本に帰ってオンラインで授業を受けようと思っています。日本に帰っても、ニューヨークに戻ってきても、イエス様をもっと知っていけますようにと願っています。イエス様を知る事が私の人生に大きな喜びをもたらすこと、そしてなによりも神様がそれを喜ばれることを確信しています。

最後まで私の証を読んでくださってありがとうございました。

「想定外の高校生活を通して神様に気づかされたこと」

病気をしていた長い間、皆様にお祈りいただいたことを感謝します。高校時代、いろいろな体調不良が続き、Sophomore(高校4年のうちの2年生)だった2018年春ごろから体調を崩し、学校を休みがちになり、手術や、何人ものドクターによる治療を受けても痛みがとれず、夏はほとんど薬により眠り続け、2018年秋のJunior (高3)になっても初日しか登校できませんでした。回復しない不安、同い年の子に遅れを感じる焦りが日に日に強くなり、精神的にも追い詰められていました。

そのような中、出席日数が足りないと、当時通っていた高校に呼び出され、ドクターズノートを複数の担当医師から入念に書いてもらって家庭学習を受けていたにもかかわらず、テストは指定時間に受けるようにとか、冬休み返上で課題を提出するようになど、学校側の正しい理解と協力が得られず、体力的・精神的な限界もあって転校することを決意しました。

当時は体の薬への拒否反応か、夜飲んだ薬も次の日の昼までうなされる程の通常より強い副作用の症状に悩まされました。しかし、午後から夕方にかけては、どうにか机に向かうことができたので、それまでの現地校のようにベルが鳴ったら次の教室に向かう時間割でなく、自由な時間帯に学習できる学校を求めていました。その結果、兄の友人が卒業した、TIHSという日本の通信制の高校に転入することができました。

TIHSは、日本の高校卒業、アメリカの高校卒業、またその両方を選ぶことのできる、リモート(コンピュータを通じて)のみでも卒業できるという最新型の学校でした。本校はワシントン州にあるのですが、私は日本で治療を受けることになる可能性もあったので、東京にある日本校に2019年2月に編入しました。ニュージャージーの自宅から一歩も出ずに高校の学習が続けられるという、当時の私にベストの環境を神様が備えてくださったことを感謝しています。TIHSは「オンラインスクール」とも少し違い、ワシントン州認定の高校カリキュラムに基き、週1度のスカイプ面談でラーニングコーチの指導があり、各教科の勉強を基本的には生徒が自主学習で進めるシステムです。学習目標の設定、自習、成果物の提出、単位審査を通して、各自に合ったペースで単位制学校だったので、私の健康状態による学習の遅れに対してもすごく理解があり、薬が変わって1週間動けなくても、体調の許すときにぶっ通しで勉強したりできたので、私にはうってつけでした。この画期的な学校システムは、周りに説明が難しいこともありましたが、未開拓地を切り開くパイオニアになれた気がして、体調が優れず部屋でうずくまっている私にも、コンピュータからアクセスできる数時間により世界が広がりました。今振り返ると、このレアな体験こそ、神さまが私に、「ネットの可能性」と「現場に執着しない」という、2つのことに気づかせるために導いてくださったのだと理解しています。

神様を通して気づかされたことの1つは、私がいるこの時代は、テクノロジーを使いこなせば可能性は思っているよりも広い、ということです。TIHSに転入する前も、別段コンピュータに疎いわけではありませんでした。しかし、一度も対面したことがない先生の元で学習をしディプロマを取得できる時代だとは、TIHSと出会うまで本当の意味で意味がわかっていませんでした。リモート学習とは、例えば、物理は解説ウェブサイトなどを通し動画や練習問題を解き、提出物はグーグルプラットフォームを通して日本へ数秒で提出でき、質問はメールで日本やワシントン州などと無料でやりとりができ、ビデオ通話で学習のアドバイスなどを受けるということです。実際学習を始めると、スペイン語でも、物理でも、自分のペースで教科書や解説動画を理解しようとするので、現地校で授業を受けていた頃よりも自分の勉学に責任を持ち、理解できていない学習範囲の動画をくり返し見て、わからないまま次の範囲へ進まないようになりました。そして、残り2年分の単位を1年弱で履修し終わり、同級生よりも半年早く卒業にこぎつけたのです。このように、ネットはもはや新しいツールとしてこの時代にあるだけでなく、使い方によれば学校制度や地理的制約といった社会のシステムまで変えているのだということをTIHSで身をもって体験しました。そして、この新たなネットの可能性を知った私は、テクノロジーを正しく理解し、使いこなせる人になりたい、と強く思うようになりました。(TIHSで学習していた頃は、数年後にはこのネット学校が普及するのだろう、と感じていましたが、2019年12月に卒業してから半年も経たずに現実にこのCOVID19状況下でリモート授業が社会に浸透した今、リモート教育を使いこなせる先生方に出会え、教えてもらえたことに感謝しています。)もちろん、新しいテクノロジーに飛びつくのでなく、どう使いこなせば可能性が広がるか等、必要性を見極める力も重要であることを充分理解しつつ、これから開発されるであろう新たなツールに柔軟に対応できる能力をつけたいと思うようになりました。

そして体調が次第に回復し教会へ行けるようになった頃、「今できること」の一つとして、教会の中高生たちと賛美動画を作成しYouTubeで配信する「B.I.G. Praise House」のプロジェクトを始めたい、という思いに導かれました。JCCNJに通うユースは、日本語と英語を使えるので、賛美歌を2か国語で歌い、アメリカにいる日本人、日本にいるクリスチャン、世界中の日本とアメリカに興味がある人に届けたい、とそれなら療養中の私にも出来るのではないか、と思ったのです。初めは中高生グループに動画作成に協力してもらえるかの不安、動画編集への不安、著作権への不安、発信した反響への不安など、色々と不安を抱えていたのですが、

「ですから、わたしの愛する兄弟たちよ。
堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。
あなた方は自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているのですから。」
コリントへの手紙第一15章58節

Therefore, my brothers, stand firm. Let nothing move you.
Always give yourselves fully to the work of the Lord,
because you know that your labor in the Lord is not in vain.”
1 Corinthians 15:58

のみことばに後押しされ、教会の仲間たちにこの企画を提案したら、思いの外、好意的に受け止めてもらえ、ピアノが得意なメンバー、ギターが弾けるメンバー、ボーカルで参加してくれるメンバーなどに恵まれ早速プロジェクトが動き始めたのです。著作権も、賛美したい曲の権利を持ついくつかの団体から返信をしてもらい、金銭の発生がないならと、承諾していただけました。動画編集も、友達からソフトへのアクセスアカウントを貸してもらえて、YouTubeで編集の仕方を少しづつ勉強し、なんとか1本目の賛美動画が作れました。いざアップロードしてみると、初めはメンバーの知り合いが視聴者のほとんどでしたが、1年が経った今、初期の動画は3千回の再生回数を突破していて、アメリカや日本に加え、最近は台湾やタイなどからも多くアクセスされているようです。このように、当初願っていたよりも広い地域から反響があり、直接面識のない方から「God Bless all of you!! God Bless Japan!! Greetings from Brazil!」とコメントしていただけたことにより、このプロジェクトを通して世界に賛美を届けることは格別大げさなことではないのだと実感し、心からの喜びを感じました。(COVID19で自粛している間、何年も会えていない遠くに住んでいるクリスチャンの友達にも多く参加していただけたり、礼拝堂で共に賛美できなくなった教会メンバーと賛美するなど、賛美動画も進化し続けています。最新の動画は、東京、アムステルダムとニュージャージーからの歌声が1つになりました。https://youtu.be/cmDcOu7uZCg

私が神様を通して気づかされたことの2つ目は、私がいるこの時代は、「場所にこだわらなくてもいい」ということです。TIHSは完全にオンラインの学校だったので、2019年12月の卒業後、年末の日本への旅行で学校を訪問するまでは、担当の先生を含め学校の先生方と画面上でしかお会いしたことがありませんでした。また、行ったことがないワシントン州の高校ディプロマ(卒業証書)が家に届いたときは、頭では理解していたにもかかわらず、驚きました。元気なころの私は、教室で先生から教わらないと熱心な指導は受けられない、各教科を深く理解するには学校へ通わないといけない、という固定概念を持っていたのです。しかし、TIHSの、校舎に執われないシステム実体験したことにより、今後は学校以外のことでも「場所」にこだわらなくてもいいのではないかと考えるようになりました。例えば1年ほど前、大学で何を学ぶかを考えていた際に国連の日本スタッフ募集のガイダンス説明会へ話を聞きに行ったのですが、難民キャンプに医師は必要だが、歯科医は送っていない、今のところ必要ないと言われました。その頃、近所の歯科医院で働かせてもらっていて、将来歯科医になる夢を持ち始めていた私は、歯科が国際機関でさえ後回しにされていることを知りショックでした。難民キャンプで腕から血を流している少年の傷口を治療する方が、虫歯だらけの歯を治療するよりも優先順位が高いことは分かっていても、国連スタッフから聞いた歯科は国連で必要とされていないという言葉が私の中から消えませんでした。なぜなら、いくら難民キャンプの少年の腕の傷を治しても、歯の健康が保たれていなければ、栄養を摂取できず、せっかく治療した傷口も、自己修復機能が衰えた影響で、雑菌などが完治しない傷口から入り悪化する可能性や、骨に栄養が届かず、折れやすくなる可能性も十分考えられるからです。そして、このCOVID19の影響で、医師さえも自由に現場へ行けなくなった今、歯科は感染リスクが高いため、私が勤めている地元の歯科医院も2ヶ月以上の閉鎖が続きました。考える時間が増えたこの自粛期間中に、私は、COVID19が解決したとしても歯科の弱点と向き合いたいと思うようになりました。私が思う歯科の弱点とは、内科医はリモートで診察ができ、薬を処方することが可能になったのに比べ、歯科はリモートで診察しようにも口の中を写す高性能の機材が必要だったり、虫歯の色が見えにくかったりすることに加え、虫歯を遠隔で治療するのは難しいということです。しかし、治療が必要な歯を何ヶ月も放棄していると、その歯は想像以上に悪化し、神経にまで進行してしまうと、痛いだけでなく、脳卒中を引き起こす原因になると言われており、このCOVID19で緊急事態宣言明けを待たざるを得なかった歯科の現状をこのままにしておきたくないと思ったのです。遠隔でも治療する方法や予防する方法を見つけられたら、次のパンデミックまで待たずとも、難民キャンプにいる患者さんの力になれるのでは、と考えています。このリモートと歯科の融合を模索する中、最近普及しつつある「イビザライン(Invisalign)」という新しい歯科矯正技術に今後の歯科の可能性をすごく感じました。それは、初めの診察時にペン型の小さな3Dスキャンナーを使い、患者さんの歯のデータを、えずくことなく型取りし、コンピュータに3Dの模型を作り、従来の矯正では2週間ごとにワイヤーを締めに矯正専門医のオフィスへ通わないといけなかったのが、この技術では3D模型を使い、微妙に違う形のプラスチックのマウスピースを3Dプリンターで作り、1週間ごとに新しいマウスピースを装着し、歯が徐々に動き、綺麗な歯並びに変わる仕組みになっています。このInvisalignは、診察の回数を減らすことができ、経過が順調であれば夜のみの装着でも効果が期待でき、ワイヤーがないので歯磨きやフロスも普段通りできる、画期的な技術だと私は捉えました。歯ぎしりする癖がある人は奥歯の噛み合わせが合わなくなってしまうこともあるようですが、歯科の世界でのこの進歩が遠隔治療へつながっていくのではないかと期待でき、ワクワクするのです。まだ遠隔で虫歯を治療する方法は見つかっていませんが、TIHSで「場所にこだわらない方法を見つければ良い」という新しい概念に気づけたおかげで、歯科も現地へボランティアに行くことが全てではなく、ニュージャージーからでも力になれる方法があるはずだと思い、今後の歯科の可能性を模索しながら歯科医になる道を歩みたいと今は願っています。

具体的に歯科医になる第1歩として、この秋からの大学進学することが決まりました。TIHSへ編入した頃は、大学進学の目処が立っておらず、学校の特殊性から興味がある各大学に問い合わせをしなければならず、受験できる大学も限られてしまいました。

Delight yourself in the LORD and he will give you the desires of your heart.
Commit your way to the LORD; trust in him, and he will act.”
Psalm 37:4-5

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」
詩篇37篇4-5節

のみことばの通りに、大学進学の準備に間に合って体調の回復が与えられ、大学の門戸が開かれたことに感謝しています。Agnes Scott College というジョージア州のアトランタ郊外にある女子大に進学することに決心しました。そこで4年後デンタルスクール受験の準備をする予定です。しかし、歯科医になることは私の自己満足でなくVocationなのか、神様の私へのコーリングは歯科医になることなのか、まだはっきりとわからないでいます。しかし、確実に言えるのは、私がニュージャージーに生まれ、日本語と英語の能力を身に付けられる環境を与えられ、日米両国の文化の中で育って双方の「良い所どり」ができる視野を養ってくださったことは、全て神様のご計画だった、ということです。私は、この与えられた生い立ちを活かし、グローバルスタンダードを目指す一人として歩みたいと願っています。歯科で言えば、先進国と呼ばれる日本やアメリカでも、現状はお金がある家庭は歯ブラシやフロスなどが使え、虫歯になれば治療ができる一方、貧困に悩まされる地域では歯ブラシの習慣がない家庭もあり、40代で全部の歯を失う人も多くいます。私が目指したい歯科のグローバルスタンダードとは、格差がなく歯科予防の指導を受けることができ、歯科医院が身近な存在になり、生涯入れ歯を作らなくていい人が、どの国でも普通になることです。(しかし、グローバルと、世界を目指す前に、私はニュージャージーのBergen Countyという偏った地域にいる限り、アメリカさえ知らないのだと、トランプが当選した時や、最近のBlackLivesMatterの運動を通じて、これまで以上に思うようになりました。)これまでと違う世界を知るため、私はこれからの4年間、住み慣れた地元を離れ、景色の違うアトランタへ行く決意をしました。アメリカ南部の経験したことがないので、今心の準備をしているところです。さらに、健康不安を抱きながら初めて親元を離れ、感染が拡大している州へ行くので、守られますように、4年間の学びが全うできますように、教会が与えられますように、そして、経済的な支えがありますように。これまでも沢山お祈りで支えていただきましたが、これからもお祈りしてください。

誠実なる神様に守られて

NYでコロナウィルスの感染が拡大し始めた3月2日の仕事帰りの地下鉄の中、ルームメートから今月末でアパートを出ようと思っているので、契約を引継ぐか出ていくか決めて下さいというメールが入っていて呆然としました。一か月を切っている中で、仕事をしながらのアパート探し、片付け、引越し、しかもコロナウィスル感染が拡大しつつあるこの環境下で。

頭が真っ白になる中で「神様、助けて下さい!!!」と祈りました。NYでのアパート探しは簡単ではなく今月中に見つけて引越せるのか。。。不安な気持ちでいっぱいでした。でも「神様に不可能はない!必要を満たして下さる神様が絶対素晴らしいことをしてくださる!主よ、あなたが栄光を現して下って御業を成して下さったら証を書きます!」と祈り、ふっとよぎるマイナスな思いを口にはしないようにして「必ず主が栄光を現して下さるから大丈夫!」と自分自身に言い聞かせ祈りました。

錦織先生、SGメンバーに連絡をしてお祈りをお願いし、知り合いの方々に不動産屋さんを聞いたり、教えてもらったウェブサイトをチェックして連絡をしたりと行動を起こしましたが、すぐには動きがなく、更なる祈りのサポートの必要性を感じ、祈り手の皆さんへのリクエストも出させて頂きました。皆さんのお祈りに支えられながら行動していく中で、会社の同僚経由で知り合ったブローカーの方が物件を紹介してくれることになりました。私の希望はクイーンズのアストリアかフォレストヒルズでした。フォレストヒルズのお隣のレゴパークで紹介できる物件があるということで内見の約束をしました。

3月5日内見に行く日の朝、内見を予定していた部屋は決まってしまったとの連絡がありました。同じビルに家賃は少し高くなるけれども空いてる部屋があるので興味があれば今日見せられると言われ、丁度その週末にフォレストヒルズにあるアパートのオープンハウスに行く予定にしていたので、そのアパートを見に行った後、フォレストヒルズのアパートに行って祈ってこようと思い、バジェットを超えていて興味のない物件ではありましたが内見に行くことにしました。

他にハーレムやブルックリンのアパートも紹介されましたが、私の希望はアストリアかフォレストヒルズであることを再度伝えたところ、その後、電話があってフォレストヒルズの物件が出てきたので興味があればレゴパークのアパートを見に行った後、紹介できると言われ、二つ返事でOKしました。

その新たな物件についての詳細をメールで送ってもらい、内容を見た時に「あっ、これだな」っという思いが来ました。そして実際にアパートを見た時に「ああ、ここだ!」っと思いました。今回はアパートの希望のリストを書き出して祈ってはいなかったのですが、私が思っていた条件をクリアしていました。まだリノベーション中で完成するのが3月中旬頃とのことでした。私の中では心は決まっていましたが即答はしませんでした。その翌日、メールを送っていた不動産屋さんの1つから1件アストリアで紹介できる物件があるとのメールがありました。もう遅いんだけどなぁと思ったのですが、そこを見ることでフォレストヒルズのアパートが神様が備えて下さっている場所だというコンファメーションになるように感じ、翌日内見に行くことにしました。

思った通り、アストリアの部屋を見ることでフォレストヒルズのアパートが神様からのものだと確信し決断することが出来ました。今回は御言葉を頂くことはありませんでしたが、アパート探しを始めた時からいつも「神様の御心の場所だと私にはっきり分かるようにしてください!」と祈っていて、まさにその祈りは聞かれ、「ここだ!」と迷うことなく決断することができ、主に感謝します。

信じられない速さでアパートは見つかりましたが、その後引越すまで祈りの課題は次から次へと出てきました。まずは審査です。コロナ感染拡大の影響でアジア人に対する差別も増えている中で審査が通るのか不安でしたが無事に通り感謝でした。次はリノベーション。当初3月18日に完成、19日に契約、21日に引越しの予定でしたが、リノベーションが延びて、契約が23日の週前半頃になるとの連絡がありました。NYで外出禁止令が出るのも時間の問題という状況の中で、さらにリノベーションが延びたらどうしよう。。。と不安を感じ祈りました。次は引越しの日。23日の週前半に契約が出来たとしてその週後半の天気予報はほぼ雨。晴れの日に引越しが出来るように祈っていたところ、20日に連絡があり、翌日21日に契約、22日に引越しをすることになりました。そして引越し。コロナ感染拡大で自粛が進む中、2人で来る予定の引越し屋さんがもしかしたら1人になるかもしれないという話を契約直後に聞いて、「えっ、明日引越しできるの?明日の夜から外出禁止令出るけど・・・」と最後の最後まで祈らされ、また祈って頂きました。当日は無事2人で来てくれて、天候も晴れ、外出禁止令が発効される3時間前に引越しが完了しました。本当にギリギリ間に合って引越しができ、主のタイミングの凄さに畏れつつ感謝しました。

神様がなして下さったことはこれだけではありません。いきなり1ヵ月以内に引越さなくてはならなくなって呆然とする私に追い打ちをかけるようにルームメートからインターネットは13日で切るのでその後は自分で対応して下さいという連絡がありました。コロナの影響で在宅勤務となりネット環境は必須です。切れる日が近づいてきてモバイルWiFiを買わないといけないなぁと思っていたところ、丁度大家さんの息子さんが電話をくれたので、今回の経緯を話し相談をすると隣人にインターネットを使わせてもらえるよう交渉してくれることになり、切れる前日から使わせてもらえるようになりました。更にもし3月中に引越し先が見つからなかったら4月も今払っている分の家賃で住めるように大家さんであるお父さんに交渉してくれるとも言ってくれました。助け人を与え、万が一のバックアッププランをも備えて下さった主に感謝でした。

「神様が素晴らしい御業をなして下さったら証を書きます!」っと神様に約束してスタートしたアパート探しでは「神様助けて下さい!」と祈る度に神様は祈りに応え、御業を成して下さいました。そんな誠実な神様に対して、日々の忙しさや体調が良くないことを言い訳に約束を守れていなかったことをここに悔い改めます。引越しをして2か月が過ぎましたが、やっと神様がなして下さった素晴らしい御業についてお分かちできること、そして祈りでもって支えて下さった兄弟姉妹に心から感謝します。

最後に、リノベーションが延びて不安を感じていた時に祈り与えられた御言葉をシェアします。

主は、あなたを守る方。
主は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、
夜も、月が、あなたを打つことはない。
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、
あなたのいのちを守られる。
主は、あなたを、行くにも帰るにも、
今よりとこしえまでも守られる。(詩編121:5-8)

「勲(いさお)なき我を」

以前、高校生の私がどのよう救われたかについて、20189月の月報に「地のちりにひとしかり」と題して証しさせていただきました。今日はその後どのようにしてNYに来たかをお話しさせていただきます。

私は中学3年の時に福音に触れ、高校1年で洗礼を受けました。その後、泉州から株別れした心斎橋キリスト集会では、20名ほどの高校生が救われ、私は若い信仰の仲間たちと、バイブルサークル、ムディー映画会、バイブルキャンプと忙しい毎日を過ごし、大学生になっても、礼拝、福音集会、トラクト配布や路傍伝道など、大阪市内を忙しく駈けずり回っていました。ところが、4回生の春に信仰の大スランプ?が訪れました。

神の愛を伝えながら、人々への愛が冷めていくこと。全能の神を信じながら、人を恐れること。日本語だけで聖書は理解できるのか。ユダヤ人を知らずして、旧約の神を理解できるのか。平和な日本で信仰は成長するのか。それは自分の信仰への疑念にはじまり、やがてクリスチャン・コミュニティーのぬるま湯の中で生きてきた自分への自己嫌悪に変わりました。迷いと不安と焦りの中で私が出した答えは、ニューヨークでした。

1981年の秋、23歳の私はJFK空港に降り立ちました。所持品はダッフルバッグ2つと200ドルだけ。2年間は大学のESLで英語を学び、長期滞在を望んで永住権を申請しました。NY商工会議所の事務局長にスポンサーをお願いし、3年で永住権を取り、その後すぐ日系の証券会社へ転職を企てました。ウォール街に行けばユダヤ人と出会えると考えたからです。経済の知識も金融の経験もない私でしたが、とにかく某大手証券会社に履歴書を送付し、証券業務の知識を即席で詰め込んで、面接に望みました。

面接官は30代の某国立大学出のエリート駐在員でした。彼にとって私の履歴書はただの紙切れです。証券業務への熱意を必死でアピールしましたが、反応はいまいち。するとなぜかその場に、金色のネクタイをした体格のいい怖そうな人が現れました。新設の営業部の部長でした。私の履歴書を一瞥するや、「なんやおまえも大阪か。」そして若い面接官に向かって一言。「こいつ取ったれ。」これで採用が決まりました。

配属は新設の営業部で、日系の機関投資家へ日本株を売り込む7人の営業マンを補佐する仕事でした。株式の約定の仕組み、為替の決済方法、配当金の支払いや税金と手数料の計算など、知らないことだらけです。取り扱う金額は億単位で、毎日が緊張の連続でした。金融バブル期で朝8時から10時まで残業続きです。ユダヤ人との接触は皆無でしたが、財務分析の基本、景気指標の読み方や証券取引法など勉強になりました。

 

そんな中、1987年10月19日、株が大暴落しました。ブラックマンデー「暗黒の月曜日」と呼ばれます。NYダウ平均が508ドル下落しました。それは歴史的な暴落で、たちまち全業務が縮小され、営業部も解体されました。私は会計管理の事務に回され、そこで1年間ほど退屈な業務を強いられました。そんなある日、一本の電話がかかってきました。転職を斡旋するヘッドハンターでした。

紹介されたのは、金融システムの開発と販売を業務とする米系の会社でした。金融の自由化で、日本の銀行はリスクの高い金融商品を扱いはじめていました。それはデリバティブと呼ばれる金融派生商品で、その複雑な取引には運用管理システムが必要でした。その会社は自社の金融システムを邦銀に販売する営業を求めていました。私は英語も金融の知識も中途半端でしたが、とにかく日本語のプレゼンができるという理由で、面接後すぐに採用されました。

幹部も社員も若く、ほとんどがシステムとファイナンスの専門家でした。上司は大手銀行出身の30代後半の金髪碧眼の超イケメンの営業マンでした。ドイツ系アメリカ人らしい結果第一主義者で、ノルマを達成できない年上の部下を5人解雇しました。それでも私にはマーケティングの基礎や効果的なプレゼンの方法を丁寧に指導してくれました。この人物が、後に私の信仰の転機になろうとは思いもよりませんでした。

入社して2年間、ロンドン、パリ、フランフルト、香港、シンガポール、邦銀の海外支店を回り、出張続きの営業で多忙を極めました。そんな中、イケメン上司のお姉さんが3人の幼い子供たちを残して乳がんで亡くなりました。社員全員が葬儀に参列することになりました。葬儀会場は、見上げるような荘厳な建物でした。中央の祭壇の両端にはには大きな巻物があり、正面の壁には、なんと十字架でなく、巨大なダビデの星が刻まれていました。

それは教会堂ではなく、シナゴーグでした。上司はドイツ系ユダヤ人でした。そればかりか、参列した30名余りの社員のほとんどが、胸ポケットからヤマカを取り出して、頭に被りはじめました。開発部のマイクも、テクニカルサポートのダグも、みんなユダヤ人でした。私は2年間も、ユダヤ人の上司に指導され、ユダヤ人と仕事をし、ユダヤ人と交流していたのです。まるで狐につままれたようでした。 

その時、私が今まで抱いていたユダヤ人への神がかった憧憬が消え去りました。みことばが心に迫りました。「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。」(ヨハネ539)パウロの証言が胸をつきました。「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。」(ピリピ3:8)

自分が知るべきお方は、主イエスであったこと。渡米して10年。神さまが示してくださった単純な真理でした。私は主イエスを知る知識と知恵を求めて父なる神に祈りました。やがて、旧約聖書の霧が晴れ、新約聖書の真意が明確に示されました。私のために御子をお与えになった父なる神の愛が、そして、私のために命を捨てられた御子イエスのあわれみが、再び私の心を満たし、賛美と感謝が溢れ出ました。

いつからか、神の前に善きしもべであろうと努力し、教会の中で善き兄弟であろうと奮闘し、人の前で善きクリスチャンを演ずるあまり、はじめの愛から離れてしまった自分。自己改善と自己修養ために費やしてしまった10年間。そんな私に、主イエスは優しく語りかけてくださいました。「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ2232

放蕩息子(ルカ15:11-32)を喜びの涙で抱きしめた父親のように、神さまは私を迎えてくださいました。あれから、妻が信仰を告白し、洗礼を受け、2人の子どもが与えられました。父親は最上の着物と指輪と靴と肥えた子牛を放蕩息子のために用意していました。同じように、神さまも受けるに値しない私に善きものすべてを備えておられました。この父なる神と御子イエスに、栄光と賛美が帰されますように。アーメン。

勲(いさお)なき我を、かくまで憐れみ、イエス愛し給う、み許に我ゆく。

主を待ち望む

私は、2017年9月、約2年半前に、アメリカ、ニュージャージー州での生活を終え、日本の小さな地方都市に本帰国しました。覚悟をして帰国したにも関わらず、私にとって、約20年ぶりの日本での生活は、想像以上に厳しいものとなりました。

日本社会で
アメリカと比べると、日本では、色々な価値観や常識が違うことはある程度知っていたつもりでしたが、予想していなかったのは、その違いのレベルの深さでした。アメリカでも日本でも同じだと、私が思っていた「基本的なこと」さえ共通ではなく、日本の価値観が、私が想像していた以上に違うことに次第に気づき始めました。

この違いの大きさに、ひどく戸惑いましたが、もっと大きな問題は、その違いの「理由を理解できない」ことでした。日本で見聞きする言動の背後にある「考え方」が、私には全く見当がつかなかったのです。
さらに悪いことに、誰も私に理由を説明してくれません。そのような「価値観」は、同じ社会の中で暮らしていく中で、自然と習得されるものであり、わざわざ説明することではないからかもしれません。そして、そもそも、周りの人々は、私が「違う価値観」を持っているとは思わないのだと思います。私は日本で生まれ育ち、見た目も一般的な日本人、日本語だって難なく話すことができます。私が日本の「一般的な価値観」を理解・共有することを、彼らが期待し、その前提に基づいてコミュニケーションを取るのは、当然と言えば、当然でした。

その私の「見た目」とは裏腹に、どのように、この社会が回っているのか、私にはよくわかりません。不安と緊張が途切れなく続く毎日となりました。いつ私の価値観が拒絶されるかわからないことに怯え、言葉にされない「ルール」を学ぶために、人々の言うことすることを注意深く観察し、また私に対する人々の反応の一つ一つから、私の言動が「常識」から逸脱していないかどうかを読み取るのに、私は必死になりました。この、誰にも知られることのない、孤立無援の戦いは、ずっと続きました。

こうして、人との接触が増えれば増えるほど、むしろ私の孤独感・疎外感は増していき、苦しい日々が長くなるにつれて、私はただ受け入れられたいと願うようになりました。私を受け入れてもらうためには、日本社会で「うまくやっていく」ためには、私自身の価値観を捨てなければならない。つまり私は全くの別人にならなければ、少なくとも、別人のように「ふるまわなければ」ならないのだと、私は結論づけました。でも、心に平安はやってきませんでした。無理矢理、周りに合わせても、私の中の「本当の私」とのギャップがだんだん大きくなり、心が引き裂かれるような思いで、孤独感に苦しむのと同じくらい、苦しくなるだけでした。

教会で
私のアメリカ生活において、教会は、家族が実質的にいなかった私にとって、家族のように、愛され、受け入れてもらえる、唯一の場所でした。日本で孤独にあえいでいた私は、「安心できる場所」を当然のように教会に求めました。社会の「価値観」は、社会によって違います。でも、教会は、文化や時代を超えた神様、聖書という、普遍的な価値観に基づいているのだから、社会で感じる価値観の違いによる孤独から、私を「救って」くれると思ったのです。しかし、教会でも、状況はあまり変わらないどころか、むしろ、私の期待が大きかった故に、私の痛みはより一層大きなものとなりました。

当初、「教会の違い」とは、目に見える違い、例えば礼拝や賛美のスタイルの違い、や、神学上の解釈や強調点の違いぐらいなのだろうと、私は思っていました。たしかに、それらの違いは存在します。そして、その違いは時に大きいこともあるでしょう。でも、私にとって、もっと深刻な事実は、アメリカで得た価値観が日本社会で通用しなかったのと同じように、アメリカの日本語教会で当たり前のように享受してきた多くの事が、日本の教会では「当たり前」ではなかったことでした。

私は、渡米後に救われ、アメリカの日本語教会しか知りません。私が知っているアメリカの日本語教会の「普通」が、私にとっての「教会の普通」であり、「教会とはこうあるものなのだ」と無邪気に信じていました。
日本で、いくつかの教会に通ってみて初めて、アメリカの日本語教会のあり方は、アメリカの文化や価値観、集うメンバー、与えられた使命等、教会が置かれている状況に大きく影響されており、また、それに伴い、私自身の「教会観」も同じように影響を受けているのだと気付きました。
同じように、日本にある教会も、「日本社会」の中に存在するという事実に大きく影響されていると思います。そして、私はその「日本社会」について、ほとんど知らないのです。日本での、それも小さな地方都市での、一般的な人間関係の持ち方、文化・慣習、価値観を理解できていないのはもちろん、教会の立場やその課題が何であるかも知りません。

私はだんだんと、自分の「信じていること」に自信を失っていきました。「普遍的」だと私が思っていた真実は、本当に「唯一の」真実なのか、それとも、置かれた状況によって変化すべきことなのか、私にはだんだん判断がつかなくなっていきました。
私が信じることと違うことを教会で見聞きすることがあっても、「これが日本では「普通」なのかもしれない。私にはわからないのだから、すべてを受け入れるべきだ。」と、自分に言い聞かせました。でも、教会に行くたびに、傷つき、また違和感や疑問を持つようになり、最終的には教会を去るという選択をせざるを得ませんでした。

再び歩み始める
その後、別の教会に行き始めてからしばらくした頃、私は祈り、御言葉に従い、次の二つの事を決心しました。本当に大切なものが何かを見極め、それだけを守ること、そして、あとはすべて捨てること。

「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。
あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』
これらよりも重要な命令はほかにありません。」(マルコ12:29-31)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従って来なさい。」 (マタイ16:24)

私にとっての「当たり前」がすべて奪われる中で、自分の「常識」、やり方や好みを捨てることは、必要に迫られた決断でもありました。でも、私は、自分の「居場所」を失うことへの恐れから、周りの価値観をむやみに受け入れようとしていただけでした。私自身が孤独から逃れるためでした。その結果、私は、最後まで守るべき大切なことさえも見失い、教会を出ていくことになったのです。神様はそんな私に改めて、正しい理由のために、つまり主を愛し、そして主が愛する人々を愛するために、「自分を捨てる」ことを求められました。

教会の方々を愛するために、自分なりに誠実に祈り考え、小さな事をひとつずつ淡々と行っていく中で、自分の「やり方」や「期待」を手放すこと、理解できないことだらけの中で主に委ねることを求められる時もありました。そのたびに、私は「仕える」ためにこの教会に遣わされているのだと、自分を納得させました。
ところが、日が経つにつれて、だんだんと苦しくなっていく自分に気付きます。何かのきっかけで、抑圧していた「怒り」が自分の中で爆発することもありました。「なぜ私ばかり、相手を受け入れなければならないのか?どうして誰も私の価値観を尊重してくれないのか?」
そして、その思いを私自身の内に留めることが出来ず、教会に対する批判として、表に出してしまうこともありました。私の発言は聖書的に正しかったかもしれません。でも、私が自分の本当の動機を知るのに、自分の心を深く探るまでもありませんでした。私はただ、「私のための」快適な場所へと、教会を作り変えたかっただけなのです。もっともらしいことを言いながら、行いながら、私は教会に集う方々を愛するどころか、実際には自分以外の人のことなど、気にもかけてないのだと認めざるを得ませんでした。

私が人を愛そうとする時、自分さえ気づかない、心の奥底に隠された思いが多く潜んでいることを思います。「私がクリスチャンなら、人を愛するべき」という義務感、罪悪感。「愛せない自分を許せない」というプライド。「私は正しいことをしている」という満足感、優越感。そして、「見返りとして、私が愛されたい。」という、切なる願い。フォーカスは、あくまでも「自分」であり、神様でもなければ、相手でもない、自分本位な愛です。救いようのない人がいるとしたら、まさに私のことだと思いました。
私はいったい何をしに、教会に行っているのだろうと、涙が出ました。どんなに誠実に真実に歩もうとしても、「偽り」にすぎない自分自身に疲れました。パウロが言っているとおり、私は自分でしたいと願うことさえ行うことのできない、本当にみじめな人間です。

これから
この地で、神様は私に教会を与え、こんな私を忍耐し、愛そうとしてくださる方々を与えてくださいます。それでも、正直に言うと、教会で苦しいと思うことは今もあります。私の「普通」と違う時、私の価値観を受け入れてもらえない時、心が締め付けられる思いがします。私は、「自分を捨てる」ことがどうしても出来ません。

帰国して最初の冬、クリスマスのイルミネーションどころか、夜景の光さえないような田舎道を走りながら、思い起こした詩編の一節があります。

「私のたましいは 夜回りが夜明けを
まことに夜回りが夜明けを待つのにまさって
主を待ちます。」(詩編130:6)

当時、自分の置かれた状況の暗さに、私は打ちのめされていました。そして、帰国して3回目の冬を迎えた今、私自身の罪という闇の暗さに、それに対する自分の無力さに、絶望します。でも、暗闇が深ければ深いほど、私は、より一層、何にも勝って主を待ち望むこともできるのだと教えられます。
いつの日か、神様が、私の心を砕き、造り変えてくださり、「自分の思い通りにしたい」という欲望や、「自分が一番正しい」という傲慢さ、「自分の願い」を神様の御心にすり替えてしまうような愚かさ、自分の傷や悲しみへの執着、自分中心な愛から、私を解き放ち、私が軽やかに自由に、神様と、私の人生に与えられたすべての人を、イエス様が愛されたように愛することができるようにしてくださることを待ち望みます。

最後に
日本に帰国後、順調に問題なく教会生活を送っている人もいるかもしれません。それは本当に神様からの祝福です。一方で、私がそうであったように、様々な理由で教会に行けなくなってしまう帰国者もいるでしょう。でも、その試練もまた、神様からの恵みだと思います。私達それぞれの葛藤の中で、神様は銀を精錬するように、私たちを錬られ、私たちを豊かなところへと導きだしてくださる(詩編 66)と信じます。
とはいえ、決して簡単な、楽な歩みではありません。私たちの、帰国者としての孤独感・疎外感は決してなくならないかもしれません。すべてを諦めたくなる時があるかもしれません。神様への信仰が何か遠い過去の事のようにしか思えない時もあるかもしれません。でも、私達自身や状況がどのようであったとしても、神様は約束されたことを果たされる方であることを信じます。私たちの信仰を、日本でも、神様がきっと守ってくださると信じ、祈ります。

「主は すべてのわざわいからあなたを守り
あなたのたましいを守られる。
主はあなたを 行くにも帰るにも
今よりとこしえまでも守られる。」(詩編121:7-8)

昨年11月、洗礼を受けさせていただきました。

昨年11月、洗礼を受けさせていただきました。
どのようにして、私が信仰に導かれたか、今の気持ちを証したいと思います。

2013年夏、突然、主人がアメリカへ転勤となり、その三ヶ月後主人が先に渡米しました。当時2歳の息子と共に、アメリカで生活することは不安でしたが、どうにかなるだろうと思っていました。
私の人生は今まで希望通りに進む事はほとんどありませんでした。大学進学、就職活動も第一希望ではありませんでした。結婚、出産も遅く、自分の望むように人生は進みませんが、与えられた環境、状況の中で、どうにか過ごしていました。そのため、アメリカ駐在もどうにかなるだろうと考えていました。
2014年3月、家族三人のアメリカ生活がスタートしました。
あれ?何か違うぞ? 思い描いていたアメリカ生活では、ありませんでした。
日本では、一人でできていた自分。しかし、このアメリカでは、主人の協力無しではできないことが多すぎました。何でもできるような器用な人間ではないとわかっているのに、自分の無力さ、弱さに直面し、悩み、もがいていました。主人も新しい職場で多忙な毎日、また出張も多く、私が不安である日々を過ごしていることを主人に伝えることができません。日本にいる体調の悪い父、その看病をしている母や姉にも心配をかけられず、私が大変だと言うことは出来ませんでした。
子供の健康状態も私を悩ませました。日本にいる時から花粉症、アトピー性皮膚炎の息子はこちらに来てから一気に症状がひどくなってしまいました。花粉の季節はアレルギーの症状がひどいため十分なケアが必要でした。なかなか良くならないため、検査したところ、春、夏、秋のほとんどの季節に反応するアレルゲンと食物アレルギーも見つかり、とうとう喘息にもなりました。ほぼ毎月発作を起こすため、子供の健康を第一に考える生活を送ることになりました。まだ幼かった息子の辛そうな姿を見るたびに、この地で生活を続ける必要があるのか、なぜNJに来てしまったのか、主人が出張の時に息子の症状がひどくなったらどうしよう、ドクターに英語で上手く伝えることができるだろうか…全てのことに思い悩む日々でした。

アメリカへ来て一年半ほど経ち、私達家族は引っ越しをすることになりました。まさかアメリカで引っ越しするとは…、まだまだアメリカ生活に慣れない私はまた苦労することが増えたと正直思いました。
引っ越しをしてしばらく経ち、家族で庭にいたところ、突然、「日本人の方ですか?」
と車の運転席で大きく手を振りながら日本語で尋ねてくる女性の方がいらっしゃいました。その方は近くに住んでおられる錦織牧師の奥様、範子さんでした。今思うと、この家への引っ越しは神様のご計画だったのです。
範子さんから『Joy Joy キッズクラブ』を教えていただき、参加した子供は「楽しかったよ!また行きたいよ!」と笑顔で言ってきました。アメリカに来てから、子供の喘息や皮膚炎が悪くならないように、私は色々な所に子供を連れていくのをためらうことが多かったのですが、『Joy Joy キッズクラブ』は子供の希望通り、参加させてあげたいと思いました。これが教会へ行くキッカケになりました。
また、子育て中のお母さんたちのスモールグループ『JOY JOY 奥様会』に声を掛けていただきました。クリスチャンでない私が参加してもいいのかと思いながらも、皆さんと共に子育てや家族、夫婦について分かち合いました。私は妻である自分、母親としての自分がこれでいいのだろうか?子供の健康管理も十分に出来ない私、忙しい主人となかなか分かり合えない私に嫌になっていました。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書 43:4)
この御言葉を知り、こんな私に、神様は高価で尊い、愛していると言っているのか…本当なの?一体神様とは何だろう、神様は御言葉を通して、私達人間に何を語っているのだろう。私は知りたくなり、『Ridgewood 聖書を読む会』に参加しました。
神様は少しずつ少しずつ、私を導いてくださいました。

ミッション系大学に進学したので、一年生、三年生とキリスト教概論など必修で、聖書も持っていました。が、記憶にあるのは、パンとぶどう酒、最前列でクリスチャンの男子学生が一人、熱心に牧師先生に質問している姿です。
聖書をしっかり読むのはほぼ初めてでした。
全く初心者の私が参加しても大丈夫かと不安でしたが、毎回とても楽しい学びでした。そして、この年齢でも新しいことを学べることは喜びでした。イエス様は素晴らしい方であるのはわかるけど、なかなか罪や十字架、聖霊などを理解するのは難しく、錦織先生から聖書を学ぶ基礎コースを提案してくださいました。神様は、聖書を学ぶ機会、そして、一緒に学ぶ友もご用意してくださいました。
錦織先生は丁寧に私達に神様の愛を語り、そして、どんな質問にも真剣に答えてくださいました。学びを通して、神とは、罪とは、十字架とは、復活とは…今までぼんやりしていたものが少しずつ少しずつクリアになります。聖書のメッセージが心に響き、御言葉に励まされ、癒される自分がいました。私の中で素晴らしい神様のことをもっと知りたいと、どんどん神様の存在が大きくなっていきました。神様を求めている私に、このままではクリスチャンになるのでは…喜びよりも不安でした。なぜ不安だったのか?自分がイメージするクリスチャンと私は掛け離れていたからです。こんな今まで適当に生きてきた私でもいいのだろうか?
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。」(ヨハネによる福音書 15:16 )
神様がまず私を選んでくださったなら、私は悩む必要などないのです。
私たちの罪のためにイエス様は十字架にかかってくださった、それほどまでに神様は私たちを愛してくれる方。私たちの存在自体を神様は愛してくれている、無条件に私たちを愛してくださっている神様とこれから共に歩みたい…
2019年2月、信仰告白に導かれました。
これからの信仰生活を歩むにあたり、主人の理解は私には必須でした。今までの結婚生活において、私の決断に主人はいつも理解を示してくれました。主人は私が礼拝に行き、聖書の学びやスモールグループに参加していることを知っていたので、私は今までのように、私の決断に賛成してくれると思っていました。しかし、主人から理解を得ることは出来ませんでした。お互い、眠れない日々を過ごすことになりました。神様、私があなたを求めること、それは、私たち家族の祝福にもつながるのではないですか?私はどのように歩めば良いのかわからなくなりました。
「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」(ピリピ人への手紙 4:6-7)
主人の理解が得られるようにと祈りました。ある日、子供に一緒に礼拝へ行こうと声をかけました。子供の答えば「パパが行ったら行くよ」主人は一度も礼拝に参加したことはなく、まだ理解も得てなかったので、私一人で教会へ行く準備をしてました。すると突然、主人が子供に「パパも行くから出かける準備して。」家族で礼拝に参加することを祈っていた私でしたが、突然の出来事でした。それから主人は何回か礼拝や教会で行われる子供向けのイベントにも顔を出すようになりました。しばらく経ち、もう一度主人と私の信仰について話す機会を神様は与えてくださいました。また反対されるのではと不安な気持ちでしたが、主人からもう少し時間が欲しいと言われました。今回、主人はしっかり私の話をきいてくれました。少しずつ変わっていく主人の姿に、私は神様に感謝をもって祈る日々が続きました。

10月の礼拝、錦織牧師から、秋の季節になり、今まで蒔いてきた種が実になり収穫する季節になりましたねというお話がありました。思わずその話を聞いて、私の信仰の実が収穫される時だと強く感じました。その後主人は賛成してくれました。祈りが聞かれた瞬間でした。
2019年11月24日、洗礼式を迎えることができました。主人、子供も立ち会ってくれました。息子から何度も「ママ洗礼おめでとう。」とハグされ、主人から「今日は幸せな一日だったね。」と。まさか主人からこの言葉を聞くとは…。
「神のなされることはすべてその時にかなって美しい。」(伝道者の書 3:11)
神様は、時間をかけて、私自身を変えてくださいました。私が神様を求めたあの日から、あなたは御言葉をとおして力強く私を導いてくださいました。神様、あなたと共に歩めること本当に感謝します。あなたを見上げ、どんな時もあなたを信頼し、感謝する歩みができるよう私を導いてください。

「凹んだボール」

2014年2月から2017年7月まで、私は会社より派遣されて妻と2人でニューヨークに赴任をしていました。

もともと、海外勤務の希望を出していたこともあり、私自身はニューヨークでの仕事・生活を楽しんでいたのですが、帯同してきた妻は、日本で長年やりがいをもって務めてきた仕事を辞め、知り合いもいないなかで日々を一人で過ごさなくてはいけないという状況でした。

そのような状況の中、ニューヨークでの赴任が1年過ぎたころ突然妻から「ニュージャージーに日本語の教会がある。マンハッタンへの送迎もしてくれるようなので日曜日に教会に行かせてほしい。」と言われました。

自分のやりたいことを通してついてきてもらった妻への申し訳ない気持ちと、せっかくの週末を別々に過ごすこともないだろうという思いから、一緒にニュージャージー日本語キリスト教会に行くことにしました。

妻はもともと、クリスチャンホームに生まれ洗礼を受けておりましたので、礼拝に行くことが普通の生活でありましたが、結婚後は訳あって教会からは離れた生活になっていましたので、礼拝に定期的に参加すること、他のクリスチャンの方と交わりを持つことはニュージャージー日本語キリスト教会が私にとっては初めての経験でした。

それまで、キリスト教、クリスチャンというと(日本人の大半がそうだと思います)よくわからない、特殊な人たちの集まりといったあまりポジティブではないイメージを持っていたのですが、教会の方との交わりを持つ中で、クリスチャンの人々というのは「普通」の人たちであり、否むしろ非常に魅力的で尊敬のできる人々がたくさんいらっしゃることを知りました。私よりも経験を積んだ年上の方、元気いっぱいの10代の若い中高生と世代を超えて1つ同じ価値観を共有して集う時間は他では感じることのできない心地よさがありましたが、特に同年代のクリスチャンの家族との交わりは私の中でキリスト教、クリスチャンに対する印象を大きく変えていきました。たくさんの素晴らしい方々に囲まれながら非常に充実した米国生活をおくることができ、日曜日に教会に通うことが日常になっていきました。

そのような満たされた生活が続いていた2017年、私は社内の大規模なプロジェクトを任され、日本に帰任することとなりました。

帰国後に参加したプロジェクトはすぐに佳境を極め、昼ご飯を食べる時間もろくに取れず、連日終電で帰宅する生活が1年半も続き、精神的にも肉体的にも疲労が蓄積していきました。

一方で教会生活においては、日本に帰任となった後もニュージャージーで知り合った方々との親交は続き、また日本での教会にも恵まれて引き続き教会につながる生活を送っておりましたが、洗礼を受ける決心はなかなかつかない日々が続いていました。

帰国してから2年目となっていた2019年の2月17日、私は担当していたプロジェクトに関して、役員向けの重要な会議での発表を前にプレッシャーに押しつぶされていました。案件の見積もりは数百億円にもなり、プロジェクトに参加するメンバーは100人を優に超える状況。私のプレゼン次第でこの案件が止まってしまうかもしれないという、18年にわたる社会人生活において経験したことのないプレッシャーの中にあり、初めて誰かに助けてほしいという気持ちでした。

そのような状況だった私に、会議が開始する直前、妻が1通のメッセージを送ってくれました。

「大変な仕事、本当にお疲れ様です。プレゼンうまくいくようにお祈りしてるね。時間があったら、イザヤ41:10開いてみて。God be with you」

すぐにトイレに駆け込み、イザヤ書41章10節を読みました。

“恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。”

この御言葉を読んだ瞬間、それまで疲労とプレッシャーでつぶれたボールのようになっていた私の中に何かが入ってきて、私の心は内側から支えられ、もとのボールの形に戻るような感覚を感じました。

こんなにも力強く、私を励まし支えてくれる神様が妻を通して、本当に必要としているときにその姿を現し私に力を与えてくれたことに、ただただ感謝の思いとともに涙を流しました。

結果、私はプレゼンを無事に終わらせることができ、プロジェクトは無事に先に進めることに関して承認が与えられ、現在はロンドン(ニューヨークの次に経験を積むならロンドンと思っていたので、こちらの願いも聞いていただいた神様はなんと太っ腹なんでしょう)にて、日々発生する問題に対峙しながらも貴重な経験を積ませていただいています。

教会生活としては、1歳の娘を連れて通える教会が多くの方の助け、祈りのもとに与えられたことにも感謝しております。

今回、ニュージャージー日本語キリスト教会にて洗礼を受けるにあたって、多くの方の支え、導き、お祈りがあったことに改めて気が付きました。

ニュージャージー、東京、ロンドンそれぞれの場所で聖書の学びの時間を与えてくださった、錦織先生、福田先生、清水先生。また、同じようにそれぞれの地で交わりを持たせていただいた教会の方々。そして何より、3回の聖書の学びを一緒に受け、日々の生活においては第一ペテロ3:1-2をそのままにそばで支えてくれた妻。

ちょうどうちの子供がヨチヨチ歩き始めたのと同じように、私自身は未熟なクリスチャンですが、ひびだらけの土の器である私からこぼれる神様の光を通して、少しでも周囲の人々に影響を与えられるものとなりたいと思います。

As a child, I always had so many questions

As a child, I always had so many questions about the world and I was always thinking about deep concepts like how things were made and what life is about. I loved thinking about the 5 senses and was so amazed at how everything in the human body functioned. I remember when I was in the car, I would look out the window and think Why did God create me? How did he create me? Is there more to life than just… life? It amazes me now, how much I questioned deep things like this at such a young age. But because I had so many questions, I found faith at a young age too, as the Bible had answered a lot of my questions particularly about creation and heaven vs hell. I was baptized at age 9 and I remember how strong my faith was. I was eager to learn more about God and with God because I thought it would help me understand and make more sense of the world.

When I went into middle school however, I looked to the world and became more confused with how broken and terrible it can be. At this point, most of my questions were why does God let terrible things happen? I thought God was good. I didn’t have a relationship with Him, but the little bit of faith in my heart was telling me that God was still good. I knew that he was real and that he was good, but I didn’t have any reasons; I just believed because it was all I knew.

In high school I developed a mindset that a relationship with Christ is one that is an exchange of obedience and reward. I wanted to please him by being a good person because I was afraid of what he would do in my life if I did something bad or committed sin, so I disciplined myself thinking God would love me and give me what I want if I’m good. So when I didn’t get the college results I anticipated, I thought God where is my reward? I have studied and done well in school, why aren’t you giving me the opportunities that I dreamed of? Many friends moved away, and I hated God for it, telling him God you give me wonderful people in my life for just a little bit and then you take them away! What did I do wrong? I became frustrated with God about things that hadn’t gone as I planned, and my prayers became selfish and resentful, blaming God for how miserable I felt when he wasn’t giving me what I wanted. The world didn’t make sense and the Bible didn’t make sense to me anymore. I hated that the world was so broken and terrible and I no longer saw any answers in the Bible that answered my questions of why the world was this way. My life was good, but my faith was almost nonexistent because I walked away from God, thinking my life didn’t make sense with Him in the picture.

Then I went to college where I came across a program called YoungLife, and I walked away from it thinking, I know about God, I don’t need an outreach program to tell me things I already know. But God transformed my heart by sending me to YoungLife camp. The speaker at this camp told a story about his relationship with his 4 year old daughter. He took her to a Disney on Ice show as a surprise for her birthday, dressed up, drove for hours, and bought her overpriced popcorn. During the show he whispers to her daughter, “Guess what?… I love you”. She whispered back, “Guess what?… I want more popcorn!”.

This expresses how my relationship with God had been for 10 years. God had repeatedly told me in my life through his blessings, “I love you”. And the only times I prayed were when things weren’t going the way I wanted. I was ignoring the thousands of times he has told me “I love you” in the events of my life, through nature, through people, and especially through the Bible. I didn’t understand the Bible because I never understood the power and the depth of God’s love. That night I went outside after the meeting and prayed under the stars in the middle of the night and for the first time in my life I went on my knees and I wept to God and prayed to Him for the first time in a long time– a true prayer. And that night I heard Him whisper in my ear, “I love you… you can either choose to live with the world or live with me.”

Choosing to live with God meant that I would live differently than what I desire for myself, but I know that it is better to live for God because I am serving the one who has saved the world! And there is no greater joy than knowing His love and living to share it with others for Him. What humanity wants to hear is that someone loves us, and we are looking for love through other things which results in the brokenness of the world. The world is broken because the world does not know about Jesus! I love Jesus because He loves me, and I want to share that love by loving them the way Jesus did. (1 John 4:19 We love because he first loved us)

I think people get so caught up in how we ourselves and other people are obedient or disciplined based on “religion”, which is what I was guilty of. But in times like this I catch myself and think, Jesus would love them above judging, and God is the only one who knows the condition of anyone’s heart. So I need to love them too, like Jesus does. The Bible is not a book about rules and discipline, but rather about LOVE and what stems from true love.

I was selfish to think that God would reward me for being obedient and disciplined, but now I live in a way that glorifies Him because HE is good, and without Him, I am nothing. I now see God through everything in my life because I have finally given it to Him. He is constantly moving people like He has moved me. He has given me and continues to give me endless opportunities that show His goodness, and it is truly indescribable how much He is capable of doing. I still have little faith, but I am eager and excited to see what God is able to do in my life and to those around me. All my life I had been searching for the world to make sense… and I finally can say with confidence that the world only makes sense when you let God take over your life and show you.

Galatians 2:20: I have been crucified with Christ and I no longer live, but Christ lives in me. The life I live in the body, I live by faith in the Son of God, who loved me and gave himself for me.

私は子どもの頃、この世界についてたくさんの疑問を持っていました。

私は子どもの頃、この世界についてたくさんの疑問を持っていました。そして、いつもそのことについて考えていました。例えば、「この世のものはどのように造られたのか」とか、「人生ってなんだろうとか」。自分の五感について考えることも好きでした。そして、人間の体の一つ一つの部分がどのように働いているのかを考えて、感動していました。ある時、車の中で、窓の外を見ながら、「神様はどうして私を造られたんだろう?」「どうやって、私を造られたんだろう?」「生きていること以上に人生にはなにか意味があるんだろうか?」そんなことを考えていました。今、考えてみても、そんな小さい時に、深いことを考えていたんだなあ、と驚きます。でも、私がそんなにたくさん疑問を持っていたからこそ、私は幼い時に、この世界がどのように造られたかとか、天国と地獄のこととか、聖書から答えをもらって、信仰を見出すことができたんだなあと思います。私は9歳の時に洗礼を受けました。そして、私の信仰がどれほど強かったかと思い出します。神様についてもっと知りたいと思っていました。そして、もっと神様と共に歩みたいと思っていました。それによって、この世について、もっと多くのことを知り、もっと納得できると思ったのです。

でも、中学生になった時に、世の中を知っていく中で、それがどれほど壊れて、どんなにひどいものかを見ることによって、混乱してきました。この時点では、私の疑問は「どうして、神様はこんなにひどいことが起こることを許されているんだろうか?神様は良い方だと思っていたのに。」ということでした。私は神様との関係を持っていませんでした。ただ、心の中のちょっとだけの信仰が、私に神様は良いお方だと教えていました。私は神様が本当にいてくださることを知っていました。そして、神様は良いお方だと知っていました。ただ、その理由は何も知りませんでした。ただ、私は全て知っているということだけで信じていたのです。

高校生になって、私はキリストとの関係を「従ったら報われる」という考えで受け取るようになっていきました。良い人間になって、神を喜ばせようと思ったのです。もしも、私が悪いことをしたり、罪を犯したりしてしまったら、神は私の人生にどんなことを与えるだろうか、と恐れ、自分が良い人間ならば、神が私を愛して私が欲しいものをくださると思って、自分を律するようになったのです。ですから、私が大学進学について、願っていたような結果が出なかった時は「神様、私への報いはどこにあるんですか?」「私は勉強も一生懸命やったし、他のことだって頑張りました。どうして、あなたは私が夢見ていたものを与えてくれないのですか?」また、たくさんの友達が引っ越して行ってしまった時にも、私は神様を憎みました。「神さま、あなたは私に素敵な友達を与えてくれました。でもそれは一瞬だけ。すぐに取り上げてしまうんですね!私は何か悪いことをしましたか?」物事が私の考えたように進まないことで、私は神様にイライラするようになっていきました。私の祈りは自分勝手な、反抗的なものになっていきました。自分が欲しいものが与えられない時には、どれだけ自分は惨めかと神を非難するものになっていきました。この世の中には意味はないと思うようになり、もう聖書も納得できるものではなくなってしまいました。このひどく混乱した世界を憎みました。この世界がこうなった理由を答えてくれていたはずの聖書は、もう何も答えを与えてくれないと思いました。生活はうまく行っていました。でも、私の信仰はもうほとんどないも等しいものになってしまっていました。神様から離れて、神様と共に歩む人生には意味がないように思っていました。

そして、大学に進みました。そこで「YoungLife」という働きを知りました。しかし、それに関わろうとは思っていませんでした。「私神を知っている。もう私が知っていることについて教えてくれるプログラムなんて私には必要ない」と。しかし、神は私の心を動かしてくださって、私を「YoungLife」のキャンプに導いてくださいました。そのキャンプで、メッセンジャーが4歳の娘との関係を話してくれました。彼は、誕生日のサプライズで娘をディズニーのアイスショーに連れて行ったそうです。綺麗な洋服を着せて、何時間も運転をして、ばか高いポップコーンを買って・・・。ショーを見ている時に、彼は娘の耳元でささやきました。「パパの気持ちわかる?・・・パパはお前を愛しているよ!」と。そうしたら、娘がささやき返しました。「私の気持ちもわかる?・・・もっとポップコーンちょうだい!」

この話は、まさにここ10年間の私と神様との関係を表していました。神は何度も私の人生で神様からの祝福をもって「私はあなたを愛しているよ」と語ってくだいました。私が祈ったのは、物事が願ったように行かなかった時だけでした。神様は、人生の中のいろんな出来事を通して、自然界を通して、人々を通して、そして、特に聖書を通して、私に何千回も「私はあなたを愛しているよ」と言ってこられたのに、私はそれを無視してきたのでした。私は神の愛の力も深さもわかっていなかったので、聖書のことを理解できないでいたのでした。その夜、集会の後、私は外に出て、夜空の星の下、祈りました。人生で初めて、ひざまずいて神に泣いて祈りました。久しぶりに心からの祈りを神にささげました。その夜、神は私の耳にささやかれました。「私はあなたを愛しているよ・・・あなたは、この世と共に歩むか、私と共に歩むか、選ぶことができるよ」と。

神と共に歩むのを選ぶことは、私が自分が願ったものとは違った生き方をすることです。しかし、神様のために生きることの方がいいことはわかっています。それは、この世を救ってくださった方に仕えることなのですから。そして、神様の愛を知って、それを他の人々に分かち合っていくことよりも大きな喜びはありません。人はみんな、誰かが自分を愛してくれている、ということを聞きたいものです。そして、私たちは壊れてしまったこの世界の中のものの中に愛を探しています。この世界はイエスを知らないが故に、壊れてしまっているのです。イエスが私を愛してくださっているが故に、私はイエスを愛しています。そして、イエスが私を愛してくださった愛で、この愛を伝えていきたいのです。「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。」(第一ヨハネ4:19)

人々にとって、自分や他人が「宗教」に従うことや、戒めを守ることが大切です。私もそうでした。しかし、イエスは人々をさばくよりも愛してくださったのです。そして、人の心を知っておられるのは神だけです。ですから、私もイエスが人々を愛したよう愛するのです。聖書は規則や戒めについて書いている本ではなくて、愛についての本であり、本当の愛から生まれたものについての本なのです。

私は神に従って戒めを守っていれば、神は私に報いてくださるのだと勝手に思っていました。しかし、今は、神は良いお方だから、神の栄光のために生きたいと思っています。そして、神抜きでは私には何もありません。今、私は人生を神様にささげて、人生の全てを通して神を見ています。神様は私を変えてくださったように、人々を変えてくださいます。神様は、神様が良いお方であることを表す機会を私に与えてくださっています。与え続けてくださっています。神様の全能の力は語り尽くせません。私の信仰はまだまだ小さいです。しかし、神様が私の人生や周りの人々の人生にどんなことをしてくださるのか、楽しみです。ここまでの人生の中で、世界にはどんな意味があるのか、それを求めてきました。そして、今、自信を持っていうことができます。あなたが神に人生を明け渡す時に、その意味が見えてくるということを。

ガラテヤ2:20
わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。

「私はクリスチャンです。」

私が一日で一番好きな時間は、夜寝る前の数分間です。体を横たえ、枕に頭を沈めて目を閉じると、ふわっと疲れが取れていきます。すると、頭の中をいつも同じ歌がめぐります。「今日も一日、主から受けし多くの恵み・・・たたえても讃えても、たたえ尽くせない♪」。

感謝できることを数えて一日を終えるのは、心安らぐひとときです。良いことがあったから感謝する。願い事がかなったら感謝する。ではなくて、感謝できることは日々たくさんあります。眠る場所がある。朝から無事に過ごせた。家族がいる。小さいことから大きいことまで、探せば溢れるほど出てきます。毎日、同じことでもいい。それだって、取り去られてみると、どれ程、ありがたいことだったかと思うものです。

私にとって一番感謝すべきことは、クリスチャンとして歩ませていただいていることです。信仰がなければ、独りよがりな生き方をしていたでしょう。信仰がなければ、迷ってばかりで心休まらず、何かを選んだとしても後から悔いる人生を送っていたことでしょう。世の中の不条理をなげき、不平不満をいつも抱いていたかもしれません。

私がクリスチャンになったのは、アメリカに来て5年目の冬のことです。かれこれ25年以上も前になります。それまでは、宗教とは全く無縁の生活。仏壇も神棚もない家に生まれ育ち、興味も持たないまま成長しました。そんな私に何が起こったか。今、思い返すと本当に不思議です。

当時、私は学生でした。冬休みに一時帰国する日本人の知人がいて、その人のアパートに寝泊まりして猫を世話することになりました。寒い冬。休みで退屈な毎日。アパートにこもりきりになって、部屋にある日本語の本を読み漁りました。文学専攻だった知人は数多くの本を持っていて、日本の書籍は値段が高くで買えなかった私は、この時とばかり片っ端から読んでいきました。

その中でひときわ心に残った本が一冊ありました。女流作家、三浦綾子さんが西村久蔵という人の生涯を描いた本でした。北海道に暮らし、十代のころクリスチャンとなり、のちに洋菓子店を創業した主人公は、事業に失敗したり裏切りにあっても、人を憎まず神を恨まず、人と神を信じ続けたのです。しかし私を圧倒したのは、愛娘を亡くしてもなお、神様への信仰を捨てないでいる姿でした。事業は失敗しても建て直せる。金銭は失っても取り戻せる。でも、いったん死んでしまった人間は生き返らない。戻ってこない。もう会えない。それなのに、どうして、この人はまだ神様を恨まずにいられるのだろう。神様に背を向けずにいられるのだろう。何が、この人を支えているのだろう。その日から、私の神様探しが始まりました。

ほどなく、近くの神学校に通う日本人留学生と知り合いになり、聖書の学びがスタートしました。他州から月に一度きてくださる日本人の牧師先生の聖書メッセージを聞きに出かけることもありました。読めば読むほど難解な聖書。湧き上がる疑問の数々。とくに、聖書に出てくる数多の奇跡はキリスト教を私から遠ざけました。死んだ人が生き返るなんてあり得ない。十字架にかかって墓に葬られ、3日後に蘇ったとされるイエス・キリストは架空の人物としか思えない。非科学的で非常識な考えと決めつけ、到底受け入れることはできませんでした。

もうひとつ、私がひっかかっていたのはクリスチャンの捧げる祈りでした。なにかあると「祈りましょう」、事あるごとに「祈っています」。聞くたびに、心の中がもやもやっとしました。「棚からぼた餅」ではないけれど、苦労しないで好運を得ようと願っているような、他人にたよって物事を成そうとする「他力本願」のような、虫のいい態度に見えました。

それがある日、聖書に出てくる何百歳まで生きたという人々の年齢を「あり得る」と思えた瞬間から、「聖書に書いてあることは全て真実」と信じられるようになりました。オセロゲームで黒いコマを一つひっくり返すと、パタパタパタ、、、とあっという間に白いコマが広がっていくように、小さな“真実”を認めた瞬間、私の聖書観は一転しました。イエス・キリストは実在した。聖いお方なのに、私たちの罪を背負って十字架にかかられた。人はみな生まれながら罪がある。キリストの死によって人間は神様との関係を回復できた。キリストは復活して今も生きておられる。そのお方を信じると永遠のいのちを受け、クリスチャンとして歩みだせる。

あれから四半世紀。人生の半分以上をクリスチャンとして歩むうちに、祈りは呼吸となり、祈りはわたしの命綱となりました。祈りは決して、神様に「おんぶに抱っこ」する行為ではありません。私は祈りを、例えて言うなら「人事を尽くして天命を待つ」ことだと考えます。人にはそれぞれ与えられた仕事があります。一人ひとり違い、その時々で変わります。小さいころは遊ぶのも仕事、学校に上がれば勉強が大切、就職したら責任をもって仕事に打ち込む。結婚したら女性は妻になり、出産すれば母親となる。どの段階においても、すべきこと、大切なことがあります。神様が授けてくださっている自分のお役目をきちんと果たした上で、あとはお任せする。全幅の信頼を寄せてお預けするのが祈りの真髄だと思っています。

私の好きな詩に「ニーバーの祈り」があります。

「神よ、変えられないものを静かに受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変えていく勇気を、
そして、この2つを見分ける知恵を、私たちにお与えください。」

祈ったあとは安心して先行きを静観できるのです。静観どころか、神様のしてくださることを想ってワクワクします。神様は最高・最良のものを最善の時に下さると知っているからです。

先日、市民権を取るための手続きを始めました。順調にいけば来年6月にはアメリカ市民になれるそうです。迷うことも気負うこともなく、すうっと始めた手続き。神様が用意してくださっている道なら次々と扉が開かれていくし、そうでなければ不思議と閉じられる。一歩踏み出すのは自分の仕事だけれど、あとは神様にお任せ。ひとたびお任せすると、あとはどっしり腰を据えていられます。むしろ、「この時期に市民権を取ることになったのは、どうしてだろう。」「この先に神様がなにを用意してくださっているのだろう。」先のことを楽しみにしながら次の段階を待っています。

市民権がとれたら、自分が何者であるかを表す言葉がひとつ増えます。アメリカ国籍を取得した日本人。日本は二重国籍を認めていないそうなので、私の日本国籍は事実上なくなります。そういえば、市民権の申請用紙に名前変更の欄がありました。おもに、結婚や離婚で苗字が変わる人のため欄だと思うのですが、一瞬どきっとしました。かつてアメリカに移民してきたユダヤ人の方々が、その出自を隠すために名前や苗字をアメリカ風に変えたと聞いたことがあります。ここで名前を変更したら、なんだか自分がまったく別人になるように感じられました。その時、私には決して取り去られることのないアイデンティティがあると強く意識しました。それは「私はクリスチャンです。」ということ。それは、私が今もこれから先も、一番大切にしたいアイデンティティです。

「私の主、私の神。」

私が2~3歳の頃に両親が救われ、家族で教会に通い始めました。教会には同じ年代の子どもたちが大勢いました。当時の記憶は沢山はありませんが、ひとつはっきりと覚えていることがあります。教会学校で先生がイエス様のお話をして下さった後、質問をしました。「イエス様のことが大好きなおともだちー?」次の瞬間、周りの子どもたちが皆「はーい!」と元気よく手を挙げたのです。私はびっくりして戸惑いました。…聖書からイエス様の話をきいて、聖書もイエス様も本当だとは思う。イエス様は神様の子であり、よいお方で、すごいお方だとも思う。でも…“大好き”? 私はその時、自分がイエス様のことを毎週学んでもイエス様に「大好き」という感情を持っていないことに初めて気づかされました。急にまわりのお友達がまぶしく見えました。どうしたら、他のお友達のように「イエス様を大好き」になれるのだろう、イエス様を信じているなら大好きになるはずだし、なるべきなんだ。ならなくては…。でも、聖書のお話をいくら聞いても読んでも、心に残る箇所といえば、弟を殺してしまうカインとか、妬みと恐れに駆られるサウル、神の箱を触ってしまうウザ、群衆の声に押されてイエス様を十字架につけるピラト、そしてイエス様を裏切ったことを後悔して絶望するユダなど…。子どもながらに彼らの物語はとても残念で切なく、彼らが今頃は暗い黄泉で「泣いて歯ぎしり」しているのかなと想像し恐ろしく思いました。一方でダビデやマリヤなどは幸運な人だなと思いました。教会学校の先生方の意図に反して、自分もダビデやマリヤのように神様に愛される神の家族になれるとは思えず、将来には泣いて歯ぎしりしているような予感がしてなりませんでした。

小学校に上がると、夏のキャンプなどをきっかけに同年代の子どもたちは次々に神様との関係を深めているようでした。さっきまで一緒にふざけていたお友達が、夜のキャンプファイヤーで聖書のメッセージをきいた後に涙を流して悔い改め、イエス様の十字架を喜んで「もっとお祈りしたい」「まだまだ賛美したい」と先生にせがんでいる姿にショックを受けました。…私もこんな風に神様に出会わなければならないんだ。でもどうしたら神様と「出会える」のか分かりませんでした。お友達のほとんどは小学生のうちに受洗し、私も先生に受洗を勧められましたが、受ける気持ちになれません。…先生は私をクリスチャンとして見てくれている。でも神様の目から見て、私はどうなのだろう。私は神様を信じているのか、愛せているのか、そう神様は認めて下さっているのか自信がありませんでした。学年が上がるにつれて自分の罪がたくさん見えるようになり恐ろしさやふがいなさでいっぱいになる一方で、さらにその罪深さにいくらでも開き直れてしまう心、私のための十字架や復活という言葉も心を素通りするような、神様を畏れられない自分の心をどうしたらよいか分からず、先生にも説明できませんでした。

こうして「洗礼準備クラス」を3~4年程も受け続けたある日、ヨハネ20章のイエス様とトマスのやりとりの箇所が目に留まりました。…トマスもイエス様に呼ばれ弟子として共に長く過ごしていたのにイエス様が分からなかったのかな。ヨハネのようにイエス様に寄りかかったり、ペテロのように積極的にイエス様に近づこうと水の上を歩こうと思いつかなかった。12人の最前列ではなく他の弟子達の背中越しにイエス様を見ることが多い人だったかもしれない。でも、復活のイエス様に出会い損ねた時、やっぱり人越しではなく自分でイエス様と出会うことの必要や勇気、出会いたいと願う気持ちが爆発したのではないか。トマスがそうでなくても私はそうだと気づきました。私も他の誰かの背中ではなく、イエス様の前に行き、イエス様と向き合わなければならない、イエス様が私に与えて下さった信仰で、イエス様が私に与えて下さった道を歩み始めなければならないと思いました。そうして中学2年の時に洗礼を受けました。

その後も、時に同年代の教会の友人達の姿がまぶしく見えることはたびたびあり、聖書の約束が自分だけうまく実を結ばないと焦っては努力したり失敗したり、委ねてみたりあがいてみたり…を繰り返すような不信仰生活でしたが、やがて成人し、今や宣教師や牧師などそれぞれの場所で神様に仕えるようになった友人達と共に子ども時代を過ごせたことは神様からの大きな祝福だったと思えるようになりました。また、私を造られた神様は、私が本当は何が好きで心地良いかを知っておられ、実際にその道へと導いてくださっていることを実感し始めました。一度きりの人生、クリスチャンたるもの一生独身で宣教の働きに、などと若い決心で意気込んでも、いざ岐路に立たされるとその道を捨てて結婚を選んだ時は神様にうしろめたい思いがありましたが、結婚式の次の日に新居から外に出たときに、目の前に見える比叡山にくっきりとした半円の虹がかかっているのを見て、ふと、神様がこの道も許されておられること、この道を確かに用意され、共にいてくださると感じました。次の日曜に初めて主人の教会の礼拝に一人で出席する時も、前の教会との宗派や雰囲気の違いに戸惑いもあり不安な気持ちで向かっていましたが、行きの電車の窓から琵琶湖にかかる鮮やかな虹を通して、神様はもう一度私を励まして下さいました。

数年後、不思議な導きでアメリカに滞在することになり、そこでの3年間で神様は私のひそかな願い、神様の益になるものではなさそうなので祈りもしなかったような願いをことごとくかなえて下さいました。学生時代から憧れていたNJ日本語キリスト教会に通うこともそのうちの一つで、兄姉とのお交わりや学びもただただ楽しく、私は次第にこの神様のお計らいに何か意味や意図を見出さなくてはならないのではと思うようになりました。ただ感謝していて大丈夫だろうか、この滞在期間中にどんなことを学んで成長すべきなんだろう、などと楽しさと焦りが入り混じる日々が続きました。そんな帰国の迫るイースターの礼拝で、錦織先生がイエス様とトマスの描かれた絵を見せて下さいました。トマスを見ると自分に重ね合わせるクセのある私は、その絵の中でトマスがイエス様の十字架の傷にずっぷりと指を差し込んでいるのを見て、私の姿だと思いました。

信じないものにならないで、信じるものになりなさい、と今まで導いて下さった神様は、さらに、恐ろしくも十字架の事実を聞くだけでなく十字架の刺し傷までさわらないと分からないような私に、心ゆくまでと向き合って下さっているんだ。ことばによって信じられないのならわざによって信じなさいと、私の不信仰や愛のなさ、鈍感さと傲慢さをご存じの神様は、私の成長を上からご覧になっていたのではなく身をかがめてでも私がさわれるように付き合って下さっていたのだと感じました。自分の出来のなさを受け入れていないのは自分だけで、神様はあらゆる方法で私を「信じる者」の人生へと導いて下さり、そのための必要を満たし、愛を私に分からせようとして下さっているのだと思いました。トマスがあの時告白したようにイエス様は「私の主、私の神」なのだと分かりました。

アメリカ滞在中の3年間、特に教会の兄姉のご親切や交わりを通して神様が下さった大きな恵みを、どれだけ今後の人生でお返しできるのか自信がありませんが、神様の一方的な愛をたくさん経験することができて、ただただ感謝です。感謝しつつ、きっとまた時々行きつ戻りつしながらも…、神様が用意して下さる道を神様と共にこれからも歩んでいたいと思います。

「人生を導かれる主」

「蒔かれた信仰の種」

第2次世界大戦が終わり、数年が経ち、復興途中にあった京都にヨーロッパから2人の女性宣教師が来日しました。祖国での優雅で便利な生活を捨てて、日本人へ福音を届けたいという二人の熱い思いと祈りによって京都で伝道が始まりました。最初は高級住宅街の集まる北区で伝道が始まったのですが、より市民の集まるところへという思いから、下京区に拠点を移し、そこで開かれた土曜学校に父が導かれ、信仰を持ちました。

数十年後滋賀県の大津で家庭集会を始めた父はやがて母と結婚し、両親は地域の人を招いては伝道を続けてきました。私は、クリスチャンホームで育ったため、子どものころから「聖書は神の言葉であること」、「イエス様が私の罪のために十字架にかかって下さった」ことを信じて疑いませんでした。素直に、聖書の御言葉を受け入れることができたのも、多くの兄弟姉妹からの祈りの支えがあったからだと思います。

毎年クリスマスの時期になると、京都での働きを終えイギリスへ帰国した宣教師に手紙を送っていました。いつも丁寧な返信をくれ、そこには私たちのことを覚えて祈っていると書いてくれました。その言葉が子ども心に私の信仰を支えてくれました。

「聖地旅行」

小学校5年生になった冬休み、教会のメンバーと一緒にイスラエル旅行へ出かけました。初めての海外旅行。ドキドキワクワクしながら関西国際空港から出国しました。イギリスまで12時間、空港で6時間待ち、イスラエルへ6時間。合計24時間のフライトでした。長距離移動&時差ボケで、テルアビブ空港に着いたときは入国審査を待つ列で思わず座り込んでしまったのを覚えています。しかし、現地は朝の6時。ホテルで休むわけもなく、すぐにバスに飛び乗ってイスラエル各地を見て回りました。ガリラヤ湖、エルサレムなど、小さいころから聞いてきた聖書の舞台が次々に現れ、今もその光景が目に焼き付いています。この経験を通して、聖書の御言葉がより具体的で現実的なものへと変わりました。

「受洗」

中学・高校はソフトテニス部で活動しました。心は神様から離れていたわけではありませんが、中高の6年間は試合などで教会に行かない時が増えていた時期でした。周りはスポーツで勝つこと、よい成績を獲ることが大きな価値観である中、自分の人生にはどんな意味があるのか。信仰を持つとはどのようなことかをぼんやり考えていました。高校3年の時に大学受験に失敗した私は、高校卒業後、浪人をしました。それまで次の目標、次の目標と追い回されるように過ごしてきた人生で初めて。自分とじっくり向き合い将来についてじっくり考える大切な一年となりました。当時はクリスチャンとして歩むことの窮屈さや教会生活への反発から、洗礼を受けていませんでした。一人で毎日聖書を読み、信仰生活を守れば良いと考えていた私に、神様は「神の群れの中に入り、私に仕えなさい。」と語り、次の御言葉を与えてくださいました。

『何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」ピリピ4章6-7

受洗することは、神様に従う第一歩だという確信が与えられ、受験勉強渦中でありましたが、同時に洗礼準備クラスをお願いし、数か月の準備期間を経て、洗礼にあずかることができました。

「従弟からの一通のメール」

大学に入学し、私のクリスチャン生活もスタートしました。私の周りには、信仰に命を懸けている信仰の篤い先輩が多く、聖書の読み方や教会への仕え方、メッセージの仕方など、ビシバシとトレーニングしてくださいました。そんな大学生活も一年が終わろうとしていた頃、従弟から一通のメールが入ります。
「プロテスタントのクリスチャンが集まる全国集会があるらしいけど一緒に行かへん?」
それまで、自分の教会のグループのキャンプしか参加したことがなかったので、クリスチャンが多く集まる集会には興味がありました。
そこで「いいけど、申し込みの締め切りはいつ?」と返信すると。
「締め切りは今日!!今日中に〇〇の口座に33000円振り込んで!!」
おいおい、振り込め詐欺かと思いましたが、まだクリスチャンになっていなかった従弟がせっかく誘ってくれているので、その足でATMへ向かいキャンプ代金を支払いました。

この日の振り込みが、その後の人生を大きく左右することになります。実はこのキャンプが3年に一度行われるキリスト者学生会(KGK)の全国集会でした。5日間行われたキャンプで従弟ははっきりと信仰告白をし、洗礼を受けることができました。また私にとっては、このKGKとの出会いを通して、その後KGKと強く関わっていくこととなります。初めて、他の教団の人と一緒に聖書について話をすることは、とても新鮮な体験でした。熱く語り合い、共に祈り合う仲間が与えられ、出会った信友との交流は今も続いています。

「就職」

大学卒業後は教員になることしか考えてなかったので、大学3・4年生になっても就職活動は一切せず、また受験生のように教員採用試験勉強をしていました。そんな中、KGKの主事からの薦めもあり、金沢にあるキリスト教学校へ就職します。初めての仕事と一人暮らしとで最初は慣れませんでしたが、同僚や北陸地区のKGK友人、教会のみんなに助けられて楽しく仕事をスタートしました。

就職した学校は毎朝礼拝から始まる一日でした。生徒と一緒に御言葉を聞き、一日を始められるのはこの上ない幸いなことでした。また毎月講壇から全校生徒へ御言葉を語ることができることもすばらしい経験でした。「多くの子どもたちに福音を伝えたい」という、その夢がかなった瞬間でした。教科を教えることの他、キリスト教も中心になって仕事をさせてもらい、充実した日々を送ることができました。

「京都へ」

金沢での生活が3年目を迎えた頃、母親が体調を崩し長期入院しました。これをきっかけに、実家に戻ることを考え、京都の公立の教員採用試験を受け直し、京都の公立へ再就職しました。金沢を去るときは後ろ髪をひかれる思いでしたが、神様はこのことを通して新たなステージを開いてくださいます。

関西に戻った私は、学生時代にKGKで共に過ごした信友たちと再会します。その一人に妻の優子がいました。数年後、結婚に導かれ、京都での新しい生活が始まりました。

比叡山がよく見える部屋で、毎朝聖書を読んで一日をスタートする結婚生活が始まりました。私たちが住んでいたのは、地球温暖化防止京都会議で京都議定書が制定された国立京都国際会館のすぐ近くでした。

数年後、2013年10月、国際会館でエンパワード21全日本大会という大きなクリスチャンの大会があると聞き、大会の最終日に部活が終わったあと、ちょっと寄ってみるかと軽い気持ちで訪ねてみました。

https://www.christiantoday.co.jp/articles/12147/20131014/news.htm

会場には2000人ほどのクリスチャンが集まっていました。あまりの人数に驚かされると共に、伝統的な教会で育った私にとっては、聖霊派の先生方のメッセージや祈りはとても新鮮で心にストレートに伝わってくるものでした。賛美と祈りと熱いメッセージで燃やされた後は、派遣集会が持たれました。全員が1列に並び、一人一人メッセンジャーから額に油を注がれ、それぞれの場へと再派遣されていったのです。

その時は何も感じませんでしたが、後から振り返ると、この時をきっかけに私たち夫婦は新たな導きの波に乗りました。

「滋賀に引越」

エンパワード21が終わると、不思議と滋賀の不動産情報がたくさん手元に集まるようになりました。当時京都から滋賀の教会へ通っていたので、ちょうどよい機会だと思い滋賀に家を探し始めます。そして、通っていた教会の近くによいマンションが見つかり、そちらへ引っ越すことに決まりました。

引越をして半年後、子どもが誕生し3人での新たな生活がそこで始まりました。忙しくも楽しい日々でした。私たちのマンションは教会から近いこともあり、いろんな教会員の方との交わりや相談の機会を持つ場所を提供することができました。

「アメリカへ」

当時、滋賀の教会は試練の時を迎えていました。開拓から10年ほど経ち様々な問題が教会内で起こり、教会員の愛と信仰が試される時期となっていました。私たちもその渦中で心身共に疲れ切り、どうにもできないことにただ祈り、待つしかできませんでした。そんなときに不思議にアメリカ行きが決定します。

バタバタと準備が始まり、2016年3月に家族3人で渡米しました。渡米先には妻がずっと行きたかったニュージャージー日本語教会が家からすぐ近くにあるということがわかり、渡米3日後から教会に通わせていただきました。アメリカでも主にある兄弟姉妹と日本語で礼拝できる機会に恵まれたのは、本当に感謝なことでした。またスモールグループでは錦織先生を通して、どのように生活の中で神様を知り、神様との関係を深めていくかについて学びをしました。日本でずっと奉仕に追われてきた私たち夫婦にとっては、大切な学びであり、その後の信仰生活にとって大きな財産となりました。

Perspective World Christian Movementという非宣教地域、他宗教への伝道の学び会に参加しました。そこでは、50人ほどの参加者と共に、聖書に基づいた福音とは何か、異文化へのアプローチ方法、教会形成など実践的な学びをしました。そこで気づかされたことは、日本は世界で最も福音伝道の進んでいない地域の一つだということです。世界宣教について共に学ぶ中で多くのアメリカ人が真剣に、熱く日本のために一緒に祈ってくれました。アメリカから日本を見ることを通して、日本への福音の必要性を再認識することができました。

「日本へ」

3年間のアメリカ滞在を経て日本へ帰国しました、改めて思うことは、これまでもこれからも私の人生は主が導いておられるということです。主はご自身の計画の中で私を生かし、訓練し、導いてくださいます。どのような導きに対しても、主が共におられるので、ただ私は信頼して歩むことができます。これから日本で主に仕えていくなかで、ただ主の栄光だけが輝くことを祈りつつ歩めたらと思います。

ニュージャージーでの主にある兄弟姉妹との愛の交わりを感謝します。教会のお働きが益々祝福され、多くの方が主に出会うことができますように。

『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』詩篇119篇105

第二の放蕩息子

アメリカ、フロリダの地であなたは愚かで汚れきっている私を一番近くで見ていたのにもかかわらず、私をこれでもかと愛し、優しく包んでくださいました。あなたの愛をこの世界、そして日本に伝えるために私のからだを用いてください。

自分がどれほど愚かで無知であったかを思い知らされたのです。ああ神よ。私は獣のように見えたことでしょう。しかし、それでもあなたは私を愛し、私の右手をしっかりつかんでくださっています。 詩篇73:22~23(リビングバイブル)

去年の6月から今年の1月まで、アメリカのフロリダにあるディズニーワールドで約6ヶ月間のインターンシップに参加していました。これは、当時大学3年生の世界一流のホテルマンを目指していた私にとって素晴らしい機会であると同時に、親元を離れられる最高の機会でもありました。親が嫌いであった訳ではありません。むしろ大好きです。問題だったのは、私の信仰が神様を信じる信仰ではなく、神様を熱心に信じる親に対する信仰だったということです。クリスチャンファミリーに生まれ、物心つく前から教会にいました。洗礼は10才の時に受けて、高校生活が終わるくらいまでは特につまずくこともありませんでした。しかし、大学に入ると、徐々に自分の中でたくさん疑問が湧いてきました。「なぜ私は毎週日曜日に教会にいるのか」「この世界にはたくさん神様がいるのに、なぜ私はこの神様を信じているのか」――このような問いが自分の中にたくさん湧いてくる時に、立ち返る信仰という土台が私はしっかりしていなかったため、すぐに崩れてしまいました。この時は、教会に行かないと親に言ったら親を悲しませると思っていたので、しかたなく行っていました。そして、教会に行ったら熱心なクリスチャン両親を持つ息子として自分なりに良いクリスチャンのフリをすることをいつも考えており、偽りの自分で教会にいるのが嫌でしょうがなかったです。このタイミングで親元を離れて行く6ヶ月のインターンシップは、自分の中で大きな意味がありました。それは、自分自身の神様に対する信仰を自分で見つけられるかもしれないという期待の意味でした。

大きな期待を胸にアメリカに行きましたが、そんな甘くありませんでした。池田恵賜先生に勧められた日本人教会はタクシーで往復8000円かかり、日々を過ごすお金を稼ぐのにやっとの私は、教会にそれほどのお金を払って行く価値が見出せませんでした。そして持っていった聖書は一度も開かず、祈りもしなくなりました。週三回くらいのペースで同僚と夜のダウンタウンに行き、二日酔いになるまで遊んでいました。どんどん神様から離れていきます。かつて自分がアメリカに来る前に抱いていた期待を楽しさと酔いで忘れようとしていました。

帰国1ヶ月半ぐらい前になり、私は二つのことをずっと考えていました。一つ目は、日本に帰ったら親と違う教会に行こうということです。なぜなら、また偽りの自分でいなければいけないと思ったからです。二つ目は、こんな汚れきっている自分は教会に戻る場所すらないということです。自分のしていることが愚かで、もう神様に合わす顔がないと逃げていました。

そんなある日、「恵賜先生とマーティ宣教師がアメリカのフロリダにスポーツミニストリーの会議で来ているので、もし都合が合うなら会いなさい」と母からメールがありました。私は、この時正直「恵賜先生は帰国したらいつでも会えるし、マーティ宣教師って誰やねん!」と思っていました。しかし、ここでの出会いが私と神様の関係を大きく変えました。最初に恵賜先生と少し話し、そのあと初めて会うマーティ宣教師に、忙しい会議と会議の間の時間をとって頂きました。会話を始めるとすぐに、マーティは「君のスピリットはすごい!」と私に言い、マーティがすごく興奮していたのを覚えています。私は、彼がなぜこんなに興奮しているのか、そしてスピリットがなんのことを指しているのかもわからない状態でした。しかし、私が覚えているのは、こんなに明るくて楽しそうな人をディズニーでも日本でも今まで見たことがないということです。次のミーティングが始まるとのことでお別れすると思いきや、次のミーティングにぜひ参加してほしいと、参加費も払っていない私に対して言ってくださいました。そして飛び入りで参加したミーティングでは、オーストラリアのサーフィンミニストリーを代表する方がオーストラリアでのミニストリーの現状やこれからの課題を共有してくださいました。ずっと教会や神様から離れていた私としては、久しぶりに聞く神様の話でした。とても新鮮で神様のことをサーフィンで伝えたいという熱心な思いが、私には輝いているように見えました。そのミーティングに参加している皆が眩しかったです。

ミーティングが終わると、マーティは「私は今、フェスティバルを通して神様を伝える働きをしていて、日本全国を回っている。君に通訳をしてもらいたいから、早く戻ってきなさい」と言ってくれました。なぜか涙が止まりませんでした。もう帰る場所すらないと思っていたのに、神様はこんな私でさえも、とりこぼすことなく帰る場所を用意してくれました。すべてを知っている神様は、汚れていてもう自分ではどうしようもできない私に手を差し伸べてくださいました。マーティは泣いている理由も聞かずにただ自分を抱きしめ、「神様はあなたを愛しているよ」と言ってくれました。神様の愛は偉大です。私は神様の深い愛によって変えられました。今は、神様によってホテルマンへの夢が完全に取り去られ、献身する道に導かれています。神様がどのような計画を私に持っているか、まだしっかりわかりませんが、主に期待して歩んでいきます。

高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主イエス・キリストにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。 ローマ8:39(新改訳第三版)

2019年3月28日本郷台キリスト教会木曜祈祷会での証し:ご本人と教会の許可をいただき転載

「平安、愛、そして歓びを、洗礼から」

救い主のお導きに、心から感謝します。

JCC of NJ関連の諸先輩、及びこれから信仰を目指す皆さんへ!

私の体験談が、何かの好影響になれば幸いと念じ、拙い情報を思い出し、まとめてみました。

 

実は私、13ヶ月前、当教会にて、錦織牧師のご采配を得て、晴れの席で “受洗”を致しました。75歳の老齢であるにも係わらず、当日は、一寸感情の高振りがあったのを、今でも覚えておりますが、洗礼に至る背景は、こんなものでありました。

 

東京ベースの家電関連企業の駐在員として、米国本社にて業務に専念し、私なりに成果も出せたので 引退しました。しかし、仕事オンリーで有ったが為か、退職後、交じりあう人も少数で、暇でしょうがない現実に遭遇し、寂しさを感じ、ガッカリしていました。

(皆さん、仕事以外で交じえる人を、常に確保しておいたほうが宜しいですよ、天のお父さん[=神さま]と会話出来れば最高でありましょう)

 

問題解決には人の紹介で、シニアーセンター参加が実現しました。日本人主体で集まる会。そこでは毎回聖書解説と礼拝が、教会の牧師方の派遣で開催されています。何回かの集いに参加して、聖書に対する興味が湧いて参りました。錦織牧師を始めとする、数名の先生方の懇切丁寧な指導に依る影響があっての事だと思います。

 

当初は無知の世界ゆえ、とっつきにくく、モヤモヤの状況が続きましたが、幸い音楽が好きなので、賛美の歌には好感を持ち、その内容を理解すると楽しくなる経験を踏んでおりました。そのうちに、創世記が理解出来るようになり、天地の創造、人が造られる等々、読み進むにつれ、私は救いの主を 「これだ!絶対信ずるに値する!」と感じ、驚きと感動に浸りました。新たな世界が開かれたのです。

 

更にその他に経験した事も併記せねばなりません。

引退後、健康上の諸トラブルについてです。加齢からと想像致しておりますが、こんな病を次々と経験しました:

Dental Surgeries

Open Heart Surgery

Prostate cancer

Cataract Surgery

Pacemaker Implant 等であります。

 

これらの病への治療が開始される頃、教会の先生、教会の兄弟姉妹(教会では互いのことを神の家族として「兄弟姉妹」と呼ぶことがあります)らが、天のお父様へ祈って下さっていました。私も祈りました。そして家族も祈りも加わった為か、次々と無事、療養を終了致しました。医療関係の諸先生方に依る尽力も含められますが、忘れられないのは、主への真摯な祈りが多くささげられたことです。そして、私が今でも私なりに生存している事実を、誠にありがたく思います。

 

祈りを捧げてくれた 結果 今日になった次第です。

初期に於いては、私に対する親切なお祈り行動をありがたいと思いつつも、心にピーンと来るものではなく、むしろ混乱気味でした。しかし、今では皆さんのお祈りに、天のお父様が応えてくださった結果と心から思うようになりました。

 

3年前に、私は家族とマイアミに移住しましたが、そこでも、サウルさん(牧師先生)と彼の奥さんに懇意にして頂け、土曜日の集まりに、日本、米国、ラテン系信徒さん達と共に集い、聖書の学びをしてきました。そして、その中で、神さまとの関係が、更に深くなっていると信じさせられます。

 

このような経過によって、昨年の誕生月、4月には自分のこれからの生き様を“余生をお祈りで感謝、感激”と位置付け、神さまを受け入れるに至りました。聖書から、

1)創世記第一章の我々が生きる場としての、天地創造に感銘したこと。

2)総じて、福音書に散りばめた多々なる言葉、(4つの福音書の全てにイエス様が十字架にかけられ、 三日後に復活されたということが書かれていますが、神秘的で驚くべきで、信じるに充分、と私の心に収まったこと。

3)詩篇150篇等に感化を受け、そうだ!そうだ!と神さまに同調したこと。

それらが信仰の決め手になりました。

 

そして、NYに短期滞在で前立腺癌の治療に専念している時、神様に私の罪の悔い改め、昨年の5月13日にバプテスマを受けました。

 

以来、私が明るくなったと周囲から言われたりするので、皆さんの親切なる応援の祈りの力が作用したと信じ、主の御言葉を深く、広く、理解し、福音を更に深く理解することに専念しようと思っています。

只今はマイアミに住んでおりますが、JCC of NJを大切な拠り所として、皆様の懇意で接触を続けていければと期待しております。

「神の業が現れるため」(ヨハネ9-3)

317日はセントパトリックデーでした。今まで「アイルランドのお祭り」と、あまり気に留めていませんでしたが、4世紀末から5世紀にかけて働かれたパトリック宣教師の辛い少年期を知りました。そして彼が残した言葉に目が止まりました。
Christ beside me.  Christ before me.  Christ behind me.  Christ within me.
Christ beneath me.  Christ above me. (St. Patrick)

目の前が真っ暗になったあの日から、全く変わってしまった状況の中に封じ込められてもがく中で 、神の存在を喪ったかの様な時にも、パトリック宣教師の言われるように、確かに私を支える存在は、一番近くで囲み守り抱えてくださって、深い慰めを持って立ち上がらせて下さろうとしておられたと、その足跡を振り返る毎に感謝に溢れます。

2017年後半、私達は多くの友人を天に送る不思議な年でした。12年間病と闘い続けた親友を含め10人の友を失いました。しかし最後に健康な主人が召されるなど?思いもしない事でした。「私達は明日のことはわからないのです。」(ヤコブ4:14)の通りです。

11月15日、どの位心臓マッサージが続けられたのでしょう? 救急医の「残念ですが。。」と言う声に、映画のシーンを見ている様な錯覚を覚え、主人の死に一人直面しました。まるで 生きている様な顔に思わず声をかけていました。「ね〜Aki—–     当たり前ですが、
返事が返ってこない、静けさの中に涙も出ずに立ちつくしていました。
主人が横たわるベッドと私の間の距離は僅かなものなのに、でもそこは全く声の届かない断絶の隙間でした。取り返すことのできない真っ暗闇「死」の壁がありました。
ヘンリー・ナウエンの慰めの手紙の中には、「死は私達のコントロールや影響が及ぶ領域から完全に外れたところにある。死は決定的な終わり、見たこともない終止符、完全な破壊。」と書かれていますが、そんな壁の前に立たされました。

「人間には一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが決まっている」(ヘブル9:27)
神の言葉が迫りました。  これが? 神の言われる、全ての人間が迎える「肉の死」なのですか?   元気だった主人が突然迎えた命の終わりという現実を突きつけられて、答えを求めるようにつぶやきました。
全く聖い神の前に立つことが出来る人はいるだろうか?
裁きの前に、この世での多くの立派な働き、功績や財産などは何の力もないのでは無いか?

その時、十字架にかかられて血潮で真っ赤になったイエス・キリストの姿が、リアルに目の前に何度も迫って来ました。イエス様、わたしたちでなく、なぜ聖いあなたが、罪のないあなたが? 人間が掛かるべき十字架にかかられたのですか? 何故そこまでしてくださったのですか?言葉で表現出来ない程の重みを持って、十字架のあがないのすごさを受け取りました。

「私を通してでなければ、だれひとり神のもとに来ることはありません」(ヨハネ14:6b)
突然の主人の死でしたが、この一方的な御愛を信じ受け止めていた主人が、ただ恵みによって神のもとへ帰って行ったことをハッキリと感じました。      聖なる神の前に立つ時も、
このイエスご自身が執り成して下さる方であることも。
🎶 
ああ感謝せん〜  、ああ感謝せん〜 🎶 不思議に静かに賛美が心に響き始め、
断絶の闇だと思っていた死の絶望の中に、希望の光が圧倒的な力で迫り覆いました。
「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。
やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:4~5)

十字架にかかられて死に、3日後に復活された主、死に勝利された方の約束が響きます。
「私は蘇りです命です。私を信じる者は死んでも生きる、あなたはこれを信じるか」
「これを信じるか?」 はい信じていました、でも今はっきりとわかりました。
主人からの別れの言葉はありませんが、この約束が残された言葉であると感謝します。

召天から1年5ヶ月。 彼は最高の場所に帰ったことが段々とクリアに信じられるようになりましたが、当初、主人に頼りきっていた私は、空虚さ喪失感から抜けきれない毎日が続き、眠れず、運転も出来ず、聖書も読めず、祈れない、ただひたすら主の憐れみの中に弱さを留める時間でした。主人に何回か「アメリカで、貴方が居なくなったらどうするの」と聞いたことがありました。主人の答えは何時も「イエス様がいるから心配ない」でした。
全てを主にお委ねする状況に追いやられました。

「主の祈り」が私の祈りとなりました。「御心の天になるごとく 地にもなさせたまえ」!
寂しくなると、「Pray」という賛美を主に叫ぶように歌いました。
In time of sorrow, season of pain.
When all seems hopeless
One thing Remains
Our God is Faithful
His word is true, He said call on his name
And He will answer you.  Pray
  Pray
He has promised He will answer when you pray
Jesus is answer when you pray

詩篇を声を出して読みました「私のうちで、思い煩いが増す時に、あなたの慰めが、私の魂を喜ばせてくださいます様に。」詩篇94:19
「我が助けは天と地を造られた、主から来る」(詩篇121) 強められて行きました。

11/18=ハワイでお葬式。3/24 =主人の誕生日にNJでの記念会。5/30=日本の大和カルバリー教会での召天記念礼拝、沢山の皆様のお祈りとサポートによって無事に終えることが出来たことを感謝いたします。主人の死を知らせた時、父親っ子だった娘はどんなに辛かった事かと思いますが、あれからズーと私を支え続けてくれています。ありがとう!
「私は私を強くして下さる方によって」又歩み出しました。 お祈り有難うございます。
主人は「神の栄光の中で」、私はこの世で「神の業が現れるために」生きて行きます。
聖霊様どうぞ宜しくお願いします。   

「人智をはるかに越える神様の御計画を見るとき」

私の名前、“日和(ひより)”には二人の名付け親がいます。

一人は私の両親の共通の親友である“ひより”さんという方です。ひよりさんはクリスチャンではなく、両親が主の招きがあるよう祈っていた友人の一人でしたが、私が生まれる10年ほど前にグアム旅行でスキューバダイビング中に現地のインストラクターに海中に置き去りにされ、行方不明となったまま、帰ってきませんでした。母はその頃たまたま読んでいた本の中で、ある宣教師が海で難破に遭い水底に沈んでいく体験をした時、非常な恐れよりも神様の大きな御手の中に包まれていくような平安を感じた、と書かれていたのだということをひよりさんがグアムへ出発する前日に彼女に話したのだそうです。ひよりさんが最期、海の中で何を思っていたのか私たちには知るすべもありませんが、きっと母が伝えた宣教師の話と平安を思いながら願わくば主の御光の中天に上げられたことを両親は信じています。

もう一人の名付け親は母方の祖母である和子さんです。和子さんはクリスチャンとなった私の母である娘に連れられ教会へ行き、自身もクリスチャンとなりましたが、私が生まれる1年前に兵庫県を直撃した阪神大震災の後、地震による酷い粉塵で肺炎に侵され亡くなりました。私は阪神の震災の翌年、1996年2月22日の午後2時22分に2220gで生まれました。2の羅列という驚きも去ることながら、和子さんも昭和2年2月22日生まれで、両親は祖母をなくした悲しみがこのような形で喜びに変えられたことに神様の壮大な御計画を見、祖母の名前から“和”の字を、また天での再会を願いひよりさんから名前を借りて、私を“日和”と名付けてくれました。

そんなわけで、神様のユーモア溢れる御計画のもと10年間子どもに恵まれなかったクリスチャンの両親の間に一人娘として生を受けた私は、自分を認識するよりも前に神様の存在を教えられ、祈ること、御言葉を読むこと、聖日(日曜日)の日に教会へ行くこと、が当たり前として育ちました。両親は私を諭す時も、祝福する時も、励ます時も、いつも御言葉をもって語りかけました。父も母も共に芸術系の仕事をしていた為、私も物心ついた頃には既に紙とペンさえあれば幾時間も過ごせてしまうような子どもで、振り返ってみると、私の周りにはいつも祈りと御言葉と、そして芸術が寄り添っていたことに気づかされます。母は厳しかったですが、早生まれで他の同年代の子どもたちよりも要領の悪い上のんびり屋な私に忍耐強く付き合ってくれました。芸大で若い芸術家の卵たちを教えていた父はとても頭の柔らかい人で、私が昆虫に興味を示せば林に虫捕りに連れて行ってくれ、私が道端のカラスノエンドウの弾ける様子に見入っていれば気が済むまで一緒にしゃがんで見てくれ、私が絵を描きたいと言えば床一面に紙を敷いて広々と描かせてくれました。私は他の子どもたちよりも鈍いところがあったので、幼少期はよくいじめられ悲しい思いをすることも多かったですが、“芸術”という吐き出し口を与えられていた私はのびのびと育ったと思います。ただ、幼少のその頃植えつけられた他の子たちよりできないことが多いという劣等感は年齢が少しずつ上がってもなかなか拭えず、その不安をかき消すように勉強もクラブ活動の練習も人の倍以上頑張って取り組んでいた子ども時代でした。教会にも楽しく通っていて、神様という目に見えない存在を幼い頭を一生懸命働かせて理解しようとしていましたが、ある時は大洪水を起こして全人類を滅ぼす恐ろしいお方、またある時は子どもたちをその膝の上に乗せ愛でられる優しいお方、そしてまたある時は右頬を打たれたら左頬を差し出しなさいと諭され自ら十字架の道を歩まれる苦しみと忍耐のお方、とそのイメージが時にいろんな形に変わっていき、迷走していたように思います。しかし、一人っ子で紙とペンが友達のようなところがあった私は、周りの子どもたちと関わるにあたって自己主張の全然できない子どもで、大抵の場合“我慢”して自分を押し殺すところがありました。その分を両親が大きな愛情を持って受け止めてくれていたのですが、自分の性質上、神様というのも“忍耐”を強いる方だというイメージが次第に強くなっていきました。

時は進んで高校2年生の頃、中高一貫校に進学した私は中学の頃から弓道部に所属し、“文武両道”を掲げて友だちと遊ぶこともなくただひたすら勉強と部活動に打ち込んでいました。自由と自主性を重んじる、日本の教育機関にしては珍しいリベラルな学校であったので勉強のプレッシャーを生徒に与えない長閑な雰囲気でしたが、勉強好きな生徒たちが多いのか進学校に類される学校でした。私も周囲の空気に押されるように、国公立大学への推薦入学を目指して勉強に励みつつ部活動も精力的に取り組み、部内の誰よりも練習をして副部長の任も務めていましたが、そのあまりの熱心さ故に同学年の部員たちとの間に熱の差が生じ部活動でトラブルを抱えてしまいました。部活に行けなくなった私は、勉強への意欲も失せ家に引きこもりがちになり、授業の欠課時数は貯まり、担任の先生からもこのままでは進級も危うい、と言われました。当時の私は頑張って積み上げてきたものが全て崩れどん底に落とされたような心地で、どうして神様はこのような残酷なことをなさるのだろうと絶望しました。小さい頃から共に教会学校に通っていた子たちはみな中学へ進学する頃には教会を離れた中、私は毎週教会にもきちんと通っていたし、部活動も勉強も誰よりも真面目に一生懸命に頑張っていたのに、そして何より聖書の教え通り“忍耐”を実行していたのに、なぜ神様はそれに報いてくださるどころか全部奪われたのだろう、と。自分の置かれた状況への不満や怒りはそのうち、いつまでもそうして八方塞がりの中惨めにうなだれている無気力な自分に対する不甲斐なさと失望に変わり、クリスチャンなのにこんなにもたくさんの負の感情に覆われていることに自分はこの世界で一番情けない者だ、ととても落ち込みました。教会にはかろうじて行っていましたが、兄弟姉妹にかけられる「祈ってるよ。」の言葉はその時の私にとっては重荷で、自分のみっともない姿を周りから、そして神様からも隠してしまいたい、とさらに引きこもるようになってしまいました。

そんな時、母は私に旧約聖書に出てくるヨブの話をしてくれました。神様の前にも正しく、富も地位も家族にも恵まれたヨブがその全てを奪われた上酷い皮膚病も患い、妻からも「神を呪って死になさい」とまで言われた時、ヨブは自分の生まれたことを呪うほど苦しみましたが神を決して呪わなかった、

そして神様はその後ヨブに以前持っていた物以上の祝福をお与えになったこと。

私が自暴自棄になって大泣きしながら自分の体を傷つけた時、母は涙を流しながら私の隣で静かに祈ってくれました。日和は生まれた時から神様に守られているから、必ずこの先に神様の御計画があるよ、と。ひたすら沈む娘の姿をどんな気持ちで支えてくれていたことか、と今振り返ります。母があの時流した涙は、私には小さな者たちのために主が流してくださった清い涙と重なるのです。それまでは神様との祈りにおいても“いい子”でいようと努めて本心を出さないままでいた私でしたが、その頃初めて、神様に悪態をつきました。神様ひどいです、私はもうこれ以上忍耐なんかできません、と、どうしようもない自分のままで祈りました。

転機となったのは、弓道部を辞め先生から誘われるがまま美術部に入ったことでした。酷い落ち込み方をしていた私を見兼ねてだったのか、美術の先生が余っている50号の大きなキャンバスに絵を描いてくれないか、と声をかけてくれたのです。前述した通り、美術の溢れる環境で育った私だったので、もちろん絵を描くことは変わらず好きだったのですが、美術というフィールドにいるとどうしても芸術家である父の存在が大きく、「親の七光りだ」とか「サラブレッド」だとか評されることに抵抗感があったため、しばらく美術から敢えて遠ざかっていたところがありました。久しぶりにじっくり制作する時間を与えられて、始めこそキャンバスの前に呆然と座っていたものの一度筆を下ろすと時間も忘れて描き続けていました。その頃は、教室には相変わらず行けないことが多かったですが、美術室には夜まで入り浸っているような生活でした。

次第に、散らかって何も見えなくなっていた自分の心が美術を通してクリアーになってきていることを感じました。私の前にも後ろにも左右にも道はない、八方塞がり、と思い込んでいたけれど、それならいっそうのこと真上に飛び上がってしまってもいいのではないか、と思った時、逆に言えば今私はとても自由なのだ、と気づいたのです。神様は私が固執していたこの世的なもの、良い大学へ進学して安定した将来を築くことだったり部活動で良い成績を納めて周囲からの賞賛を得ることだったり、そういうものを一度全て取り除けてくださったのだと思いました。また多くの立派な信仰と称される聖書の中の人物たちも、多くの場面で困難に頭を抱え、苦しみ悶え、そして神様に叫び、その弱さを神様に明け渡しながら歩んでいる様子が聖書にはたくさん書かれていることにも気づきました。人間である以上、苦しみの中で情けない自分の本性にうなだれるのは共通で、そこで神様に全身全霊で叫び呼ばわった時、神様は視界の霧を晴れさせそのビジョンを示してくださるのだ、と教わりました。

 

“私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行き詰ることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。〜たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。”

コリントII 4:8-9,16

高校3年生に進級できるかどうかも怪しかった私でしたが、側でずっと祈り支えてくれた両親や教会の方々と、私を信じて励まし続けてくださった学校の先生方、心配してたくさん話を聞いてくれた友人たち、そして愉快で無邪気な感性で疲弊した私の心を癒してくれた美術部の後輩たちに救われて、なんとか高校最後の学年を迎えることができ学校にも通常通り通えるまでに回復したどころか、その頃私は神様から新たな道を示されたのでした。美術の力を改めて身をもって経験したことで、将来は美術を媒体として誰かの心に寄り添うことがしたい、という思いが私に与えられました。特に、子どもと大人の間で大きなうねりにさらされる10代の若者たち、将来への限りない可能性に勇み歩もうとする一方、未知の世の中に踏み込む手前の不安で揺れる時期、私自身がそうであったように多くの10代の青少年たちが不安定な心の浮き沈みと格闘していることに私は心を砕くようになりました。私は幸いにも良い大人の方々に囲まれて立ち直ることができましたが、悲しいことに、多くの若者がそういう機会に恵まれていないというのが現実です。アートセラピーという、美術制作を通して自分自身と対峙し、対話し、そして整理する機会を提供しその過程をサポートするというお仕事があります。日本では未だほとんど認識すらされていない分野ですが、美術を通して青少年の心に触れることのできるアートセラピーを勉強したいという思いが私に与えられました。しかしながら、日本では勉強できないということで、それなら勉強できる国へ行こう、と自分でも拍子抜けしてしまうくらい私はあっさり異国の地での学びを決めたのでした。

 

“あなたは口のきけない者のために、また全ての不幸な人の訴えのために、口を開け。口を開いて正しくさばき、悩んでいる人や貧しい者の権利を守れ。”

箴言31:8-9

周りの同級生たちが大学受験に向けて必死な形相で勉強に励む中、私は担任の先生に「大学受験しません。アートセラピーが勉強できるアメリカの大学に行きます。」と大胆に宣言しました。それまでの慎重派な私だったらこんなリスキーな道を選択しなかっただろうと思いますが、なぜかそう目標を掲げた途端、普通の生活を送ることすらままならなかった空っぽの私の中にみるみる力が湧いて、高校卒業後はアメリカの大学へ進学するための英語の勉強やVISAの取得、渡米に当たっての資金調達のためのアルバイトの掛け持ちや派遣の仕事など、積極的に動くことができるようになりました。辛かった高校2年の大きな挫折はここに繋がっていたのかと思うと、本当に神様の御計画の素晴らしさを覚えずにはいられません。

“あなたがたは、さきの事を思い出してはならない。また、いにしえの事を考えてはならない。見よ、わたしは新しい事を成す。やがてそれは起こる、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、砂漠に川を流れさせる。”

イザヤ43:18-19

顎関節の不調のため2度ほど手術を受けなければならず、直ぐにはアメリカに来ることができなかったのですが、高校卒業から2年半の準備期間を経て、満を持して20歳の夏、2016年の秋学期からロングアイランドのコミュニティカレッジでの学生生活をスタートしました。念願叶ってのアメリカでの大学生活でしたが、文化も仕組みも右も左も全く分からず、言語の壁もまた大きく、幾度となく心を挫かれました。未知の土地での暮らしは、どんなに頑張っても自分一人の力ではどうにもならないことばかりで周りの方々に助けを仰がなければ生活できず、一丁前に自立して努力して進んでいると驕っていた自分を省みました。そして、自分の力で解決しようとする前に、まずは神様に委ね祈ることの大切さをレッスンされました。また、今まで当たり前のように近くにあった家族や友人たちという“支え”から離れたことで、これまで以上に聖書の言葉が私の拠り所となるようになったのです。

昨年末まで住んでいたロングアイランドの地元の教会にパラパラと足を運んだりはしていたものの、やはり英語で執り行われる礼拝では霊的な満たしが得られず、母国語でメッセージを聞き、賛美をし、交わりをしたい、との気持ちが次第に高まっていきました。正直なところ、生まれた時から教会に通い、小学生の頃に洗礼も受け、聖書の言葉も祈りの文句も諳んじれるというのに、私はこれまで心の底から神様を求めたことがありませんでした。気づいたら当たり前のごとくそこに神様の存在があったからこそ、その御恵みと本質を見失っていたのです。昨年末、個人的なことでいろいろと不安や悩みを抱え、かつてない霊の渇きを覚えた時、日本の教会の宣教師の先生から繋げていただいて、昨年のサンクスギビング特別礼拝の際初めてNJ日本語教会の礼拝に参加する恵みに預かりました。ロングアイランドから電車と地下鉄を乗り継ぎ、送迎の車に乗せていただいて教会の建物の前に降り立ったとき、私の霊が震えたのを感じました。聖霊様が働いてくださったのだと思いますが、なぜだか「私はこの場所をよく知っている」と思ったのです。確かにここには霊の癒しがあると感じ、教会の建物を見ただけだというのに、涙が止まりませんでした。久しぶりに日本語で歌う賛美、語られるメッセージ、全てがとてつもない勢いで私の渇いていた霊を潤していき、これまでのクリスチャンとしての歩みの中で一番恵まれた礼拝の時となりました。その時、錦織先生を通して語られたメッセージは導きについてでした。神様は私たちが気づいていなくてもいつも導いてくださっていて、私たちが“涙の谷を過ぎるときも、そこを泉の湧くところとし”てくださるというのは、その苦しみの渦中にあっても潤いと慰めを与えてくださるのだ、ということ、その時非常に心を悩ませていた私に直に響くメッセージでした。

神様の御力はこれだけに留まらず、NJの教会へ足を運んだのを合図にしたかのように次の数週間はものすごい恵みの連続でした。NYクリスチャンユースのバイブルスタディのVineへの参加で同世代のクリスチャンの仲間との出会いに分かち合いの機会が与えられ、高額なアメリカの大学の学費に頭を悩ませていたところに日本の教会の姉妹から学費援助の申し入れを受け、またその姉妹からの提案を聞いた同日に編入の願書を出していた数校の大学のひとつであったCUNY Hunter Collegeからの合格通知…恵みと驚きのドミノのような日々でした。Hunterはマンハッタン市内にある大都会の学校なので、マイペースに勉強したい私のような者にはあまりに忙しなく、合っていないだろうと願書を出した当初は第2〜3志望くらいに考えていました。第1志望であったアップステイトの私立校からも合格通知と高額な奨学金のオファーをその1週間後に受け取りましたが、NJの教会へ行けたこと、新たなクリスチャンの兄弟姉妹と出会ったこと、そして日本の姉妹からの学費援助の申し入れ、サンクスギビング礼拝の時に語られた神様からの“導き”を私の霊がそこに感じていました。このまま続けてNJの教会へ行きたい、兄弟姉妹との分かち合いに足を運びたい、今神様により与えられたこの場での繋がりを大事にしたい、その思いが募り2週間ほど祈った後、続けてNJの礼拝も守れる上バイブルスタディなどにも参加できる市内付近での生活を選び、第1志望を断ってHunterに進学することを決めました。

“あなたの道を主に委ねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。”

詩篇37:5

こうして新しい学校での学びと共に、新しく与えられた多くのクリスチャンの兄弟姉妹との分かち合いを毎週持つことのできる生活が始まり、今私はこれまで感じたことのない霊の喜びを感じています。毎週礼拝の中で神様からの課題や問いかけを与えられ、毎朝のディボーションの中でさらにその問いかけに対する神様からの追求があり、その日その日を聖霊様からの語りかけに自分の思いを寄せながら過ごし、週に何回か参加させていただいているスモールグループやバイブルスタディなどの場で兄弟姉妹とその週自分と神様との間で持たれた対話について分かち合うという、とても霊において充実した日々を送ることができています。この度、正式にNJ日本語教会への準会員としての転入を承諾していただく恵みにまた預かり、兄弟姉妹とともに主に仕える機会が与えられたことにさらなる喜びと感謝に溢れています。振り返ってみると、出生時から主の祝福はいつも私の上にあり、私が塞がって主の光も声も届かなかった重たい時期においても神様は私に必要な助けと慰めを常に側に置いてくださり、私の思いやその先に見ていたビジョンをはるかに超えた素晴らしい御計画と道へ誘ってくださいました。そしてその導きにようやく私の霊も気づいた時、これまで経験したことのない満たしと喜びを受け取ることができました。アメリカでの生活はまたチャレンジで闘いの日々ではありますが、神様に全てを委ねて共にゆく道は、人智をはるかに越えた神様の御計画に期待し歩む喜びの道である事を私は今確信しています。

“それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。”

ローマ5:3-5

私たちの前に絶え間なく試練こそあれ、それによってさらに主との関係が強められ祝福されるのであれば、それは私の喜びです。昔のようにただ自分を押し殺す忍耐ではなく、主に全てを明け渡して、主に手を引いていただいて挑む日々に、希望を寄せて歩みたいと思います。

「Trust God Always」

家族の歴史
私の父は1920年に日系二世として東海岸で生まれました。その後、子供時代に家族と共にニュージャージー州南部に移り住みました。第二次世界大戦が起こった時は、父は祖父の足跡をたどるようにメディカルスクールで学んでいる最中でした。そして、父は戦争に協力するために医学生としての歩みを諦めなければなりませんでした。父はアメリカ軍に加わろうとしましたが、父の兄がすでに陸軍442部隊(日系アメリカ人部隊)に入隊していて、母が一人残されることになるため、それは許されませんでした。父は大学を中退して南ニュージャージーの実家に帰り、農園を手伝うことになりました。日本軍による真珠湾攻撃が起こってからは、日系アメリカ人を隔離するため、多くの強制収容所が造られました。それらのほとんどが西海岸に造られたと思われていますが、実際はニュージャージーのシーブルックにもあったのです。父も日系アメリカ人ではありましたが、強制収容所に送られることは免れました。教会が彼をクリスチャンとして保証したからです。
戦争の後、父はメディカルスクールに戻ることはありませんでした。家族を養うために、週7日、24時間働く農園の仕事を続けることにしたのです。農夫としてなすべきことは多くあったのですが、父はいつも神のために時間を使い、安息日を安息日として守っていたのです。私たちきょうだいが生まれてからも、父は神に仕え続けて、クリスチャンホームを築きました。農家の子どもとして、兄も私も妹も農園を手伝い、教会や日曜学校を、日々の雑用から解放される「ミニバケーション」のように思っていました。私は、子どもの頃に教会に通っていたこと、教会のクリスマス劇での私たちの「飼い葉の桶で」の歌の調子外れの録音を、母が何度も繰り返し聞いていたことを思い出します。夏には「Vacation Bible School(夏季聖書学校)」に通い、高校に入ってもユースグループで出かけたりすることを楽しんでいました。しかし、高校を出てからは全てが変わってしまったのです。

大学時代
人生には色々なチャレンジがありますが、大学生活には、それが自分で生活することの第一歩であるがゆえの特別な困難があるものです。私の問題は大学に進んで学生としてバランスをとった生活することと、青年期を迎えることの難しさでした。それはどうしようもない、ということではなかったのですが、ドレクセル大学でエンジニアリングを学んだ5年間、わたしは全く信仰的ではない生活を送りました。教会には行かず、何か信仰的なものに参加するのは、ただ、超教派の集まりくらいでした。いうまでもなく、私は人生を真剣に考えることもなく、ただ、学位を取って、仕事を見つけることだけを考えていました。卒業した後、日本で1年ほどインターンをしたのですが、その後、アメリカに戻って、他の会社で働くことにしました。全てが仕事ばかりで、神からは離れる一方でした。そして、ついには完全に信仰を失ってしまったのです。それはその頃の自分にとって、大きな問題ではありませんでした。しかし、間違った道に進んでいることはわかっていました。

人生これだけなの?
仕事上の能力を向上させてはいましたが、何年も同じことを繰り返していました。朝起きて、運動をして、仕事に行って、家に帰って・・・その繰り返しでした。何かが足りないような気がして、自己啓発を学び始め、仕事以外の自分に投資をするようにしました。ITエンジニアとして働きながら、色々なことを学び、最後には金融関係のビジネスを始めるための勉強を始めました。この努力をしている中で知り合いになった人々の中には成功したビジネスリーダーもいました。驚いたことに、その成功したリーダーたちの共通項は神に忠実な人々であり、皆、神を中心とした価値観を持っているということでした。
私は一つの大きな決断をしました。それは教会に帰るということです。この時、私はホーボーケンに住んでいたのですが、ニューヨークのアッパーイーストにある教会に通うようになりました。電車を乗り換えて、歩いて合計1時間かかりましたが、もう一度教会に通うことが楽しくて、人生の意味を見つけたようでした。良い友人に恵まれ、人生は良いものでした。しかし、2001年の世界貿易センタービルへのテロ攻撃の後、ニューヨークの教会に集う人々の生活は変わってしまい、以前のようではありませんでした。のちに妻になるKayoと私はホーボーケンから引っ越して、教会に行くこともやめてしまいました。
9-11の1ヶ月後、私のITエンジニアとしての仕事はなくなり、ほんの少しの解雇手当が与えられ、私は一夜のうちに失業者となりました。私の生活のルーティーンは全て変わってしまいました。その時はITの世界は混乱していて、ITの世界に帰ることはとてもリスクの高いことでした。ですから、私は思い切って、金融の仕事にかけることにしたのです。これはたやすいことではなく、チームをトレーニングすることはとても難しいことでした。何ヶ月かの後、私の貯金は減り始めました。ビジネスを立ちあげようとすることは多くの歪みを生み出していきました。借金は増えていく中で、自分に「あと何ヶ月か経てば軌道にのる」と言い聞かせていました。
経済的にストレスがさらに大きくなっていく中で、のちに妻となるKayoと私はどうしても必要なもの以外をどんどん捨てていきました。ビジネスを立ち上げていこうという中で、とてもシンプルな生活をするようになっていったのです。ある夜、私はあまりのストレスの大きさに、膝をついて、泣きながら神の助けを求めました。おそらく祈りは応えられたのでしょう。あるビジネスの集まりで、最後に登場した講師がFrank Bolellaという名の成功したコーチであり、牧師である人でした。私は彼のメッセージを聞き、とても良い印象を受けました。私が彼のメッセージを聞くということは神のご計画の中にあったのでしょう。二週間後に、他のビジネスのイベントで再度彼に出会うのです。私は彼の教会に行きたいと思いました。そして、同僚の一人がそこに連れていってくれました。そこで、彼のメッセージを聞いた後、私はイエス・キリストを私の主、救い主として受け入れたのです。
ついに私は霊的な土台を据えることができました。しかし、私たちは仕事もなく経済的な困難は続いていました。その時に、私はその教会に何人かいる牧師のうちの一人に霊的な賜物を持つことの祝福について説明してもらいました。彼はそのために祈るようにと勧めてくれました。そして、私はそのことを心に留めていました。この頃、それまで本当に苦しい時に共に歩んできたKayoと私は結婚することにしました。これからも一緒に歩んでいけば、大丈夫だとわかっていたのです。日本に引っ越すことも考えました。しかし、それほど大きな決断をする心の準備はできていなかったのです。

方向転換
私たちの状況を聞いて、義理の両親は私たちを日本に招いてくれました。そして、驚くことに、タイ行きの航空券も準備してくれたのです。その旅行は、私の頭がクリアになって、物事を整えるために助けになるように、というものでした。タイに着いた時、全てのストレスが体に出てしまたのでしょう、私は体調を崩し、計画していた各地を回ることは一切できずに、バンコクでじっとしていなければならなくなりました。妻は私に旅行者がよく行くような観光地巡りはやめて、ストレスなしに周りをゆっくり歩こう、と提案してくれました。
ワットポー寺院のそばに滞在していたので、私たちは、リラックスするために、そこでなされているタイ式マッサージを経験してみることにしました。マッサージで私は気分がよくなりました。そこを出る時に「7日間でタイ式マッサージをマスターしよう」という看板が目に入りました。私たちにはあまりお金がなかったのですが、妻がそこでタイ式マッサージを学んでみるようにと強く勧めてくれたのです。
そのカリキュラムの一環として、タイの大学の一つを訪問したのですが、そこで人体の解剖の展示がなされていたのです。私は圧倒されてしまいました。そして、しばらく感じていなかった感動を覚えたのです。一週間の学びでタイ式マッサージの免許をもらったのですが、旅行をする体力はまだなかったので、足のリフレクソロジーのコースも受けました。このコースが終わった時には、私はすっかり元気になり、3日間の観光をした後に、新しく得たインスピレーションを心にアメリカに帰ってきました。
私たちはトンネルを抜けました。しかし、次に何をするかを見極めるのはまた簡単なことではありませんでした。住んでいたところの近所に病院がありましたので、そこでボランティアをしながら、医療の現場がどのようなものかを学ぶことにしました。看護の道も考えましたが、それは私の望んでいたことではないことはすぐにわかりました。ボランティアをまとめるディレクターはフィジカルセラピー(物理療法)科に尋ねるようにと勧めてくれました。その頃、私はそれが何であるかを全く知りませんでした。そこで、私はセラピストが患者に対してしている治療を見、それが多くの患者にどれほど大きな効果をすぐにもたらしているかを見て、とても感動しました。

正しい方向への一歩
この時の私にはまだ仕事がなかったので、ボランティアとして、4時間働けば食べさせてもらえる無料の食事が給料のようなものでした。ですから、できるだけボランティアをすることにしました。そして、そこで出される食事だけが私たちにとって、食事と言える食事であるようなこともしばしばありました。タイミングがいいことに、受付の責任者の方がバケーションで留守にするので、私に電話に出たり、スケジュールを作ったりする仕事をしてほしいとディレクターが言ってきたのです。私は2週間一生懸命働きました。そして、自分で稼いだ収入が入った時にはとても嬉しかったです。ディレクターは私のことをパートタイムで雇ってくれました。そして、彼女の部署のスタッフで入れるようにポジションも作ってくれたのです。何ヶ月かが経って、人生は良い方向に向いていきました。
ディレクターは私が大学院に進むようにと勧めてくれました。最初はそれに抵抗していたのですが、神に祈って、願書を送りました。大学院からは合格通知が来ましたが、9ヶ月入学を延ばして、入学のために必要な基本的なヘルスサイエンスのコースの勉強をしました。
大学院への道は簡単ではありませんでした。大学院に入る6ヶ月前、いとこが大腸癌であることがわかり、義母が胃癌になりました。妻は日本に義母の世話に日本に行かなければならず、私はいとこをできるだけ訪問するようにしました。妻が不在の間、私は一人でこつこつ頑張っていましたが、今度は私の父が、大学院のクラスの始まる1ヶ月前に亡くなったのです。私は打ちのめされました、しかし、目標に向かって、神の力を求めて、この困難な時を通り抜けさせてください、と祈ったのです。そのあとの3年間の大学院での学びにも困難がありましたが、神は日々、私の祈りに応えてくださり、一日一日乗り越えさせてくださったのです。そして、ついに大学院を卒業しました。このあとのことはご想像がつくと思います。多くの犠牲とサポートによって、この転職は私の人生で最高の決断になりました。

学んだこと
この旅路を通して、多くのことを学びました。自分の力でしようとしていたことはすべて失敗しました。神に信頼して祈ったことに対しては、神は私を導き、私に知恵を与え、より良い決断ができるようにと助けてくださいました。もちろん、日々困難はあります。しかし、聖霊様と神の恵みによって、罪ある人間の本質に打ち勝つ人生を生きるように努めています。
人生はパーフェクトではありません。そして、私は妻が救われて、神の恵みを受けることができるようにと祈っています。私に今できることは、できる限り、神と共に生きる人生を生きることです。
それは完全な人生ではありません。神様はいつでも必要な答えを与えてくださるとは限りません。しかし、それによって私は忍耐することを学びます。日々、神が私のような者に与えてくださる豊かな愛と溢れる恵みを教えられています。私は、なんの恥ずかしい思いもなく、証しをしたり、クリスチャンとしての自分の人生について話をすることができてとても幸せです。ある会社ではそのようなことができなくなっていますが、私は自分の職場で、何のためらいもなく誰かのために祈ることができます。私たちは神に仕え、イエスの大宣教命令にお応えし、他の人々が救いを求めるのを助けるようにと招かれているのだと私は信じています。それこそが、そして、やがて天国に入れていただく時に「よくやった」と言っていただけることこそが、私たちすべての者にとっての究極的な目標なのだと信じています。

“Trust God Always” Original English Version

Family History
In 1920, my father was a first generation born (Nisei) on the East Coast US and at a young age his family migrated over to southern New Jersey right outside of Atlantic City. When WWII broke out, my father was attending medical school following his own father’s footsteps, but he was forced to abandon his life as a student to help with the war effort. My father tried to enlist in the U.S. military, but was denied due to his widowed mother, and an older brother who had already joined the US Army under the 442nd (Japanese American US Army). He left college and came home to help the family farm down in Southern Jersey. After the Imperial Japanese army’s attack on Pearl Harbor, many internment camps were established to segregate Japanese Americans. It’s common to think that these internment camps were mostly along the West Coast, but there was also one in Seabrook, New Jersey. Despite being a Japanese-American, my father was spared from being sent to the internment camp when the war broke out because his church vouched for him for his Christianity.
After the war, my father never returned to medical school and remained living a life as a farmer to support his family, a life of never ending work 24/7. Despite the amount of work demanded as a farmer, my dad always made time for God and was wise in his ways to keep a Sabbath a Sabbath. After my siblings and I were born, my father remained committed to God and raised us successfully in a Christian home. As children of a farmer, my older brother, younger sister and I also helped with managing the farm and even viewed church and Sunday school as a “mini-vacation” to briefly get away from our daily chores. I remember attending church at a very young age and remember my mom playing a tape recording of a church Christmas show of us singing “Away in A Manger” totally off key! We continued with Summer VBS (Vacation Bible School) and youth group outings until we were well into high school, but things were to change after high school.

College Years
Life has its own challenges, but college life introduces in it own unique set of obstacles and for most the first big step on trying to live on your own. My problems occurred once I started to attend college, trying to balance a life as a student and also experiencing the challenges of becoming a young man. It was not unmanageable, but I was never really spiritual throughout the 5 years I studied engineering at Drexel University. I never attended church, and the only time I participated with something spiritual was a nondenominational get-together. Needless to say, I was not taking life seriously, only focusing on obtaining a degree to graduate and getting a job. After graduating, I had the opportunity to move to Japan for about a year for an internship, but returned to the U.S. to work with another company. Everything was about work, and I became distanced from God more and more; eventually I completely lost my spiritual faithfulness. I wasn’t in trouble, but I knew I was heading down the wrong path.

Is this all there is to life?
While improving my skills professionally, years would go by living a life of routine: getting up, working out, going to work, and coming home…repeat. I felt something was missing so I started to learn about self-improvement and started to invest in myself outside of work. While still working as an IT engineer, one thing led to another and ultimately I started learning about building a business in financial services. The professional relationships I made pursing this endeavor allowed me to meet some very successful business leaders. I stumbled upon common denominator with all these successful leaders; all were faithful to God, and all had God-based values.
I made one of the biggest decisions in my life and decided to go back to church. At this time, I was living in Hoboken and started to regularly attend church up in the Upper East Side in NYC. Despite the hour commute with all the transfers and walking, I enjoyed once again attending church and life started to have some meaning. I was making really good friends and life was good. However, after the World Trade Center Terrorist Attack in 2001, life changed for everyone and attending church in NYC was not as easy as it used to be. Kayo, my wife-to-be and I decided to move out of Hoboken and ultimately I stopped going to church.
A month after 911, my job as an IT engineer was eliminated and overnight I was unemployed with only a small severance package. My life of routine was forever changed. During this time, the IT world was in turmoil; returning to IT was very risky, so I decided to go “all-in” and try and build a full time income stream with financial services. This was not easy at all and training a team was rather difficult. After many months, my savings began to dwindle and the stress of trying to build a business caused a lot of strain. My debt began to rise as I tried to convince myself that I was only a few months away from becoming successful.
Despite the ever-growing financial stress, my wife-to-be and I started cutting out non-essentials. We lived a very simple life, while still trying to build a business. I remember one night that stress got so bad that I actually got down on my knees and began to cry and prayed for God ‘s help! Perhaps my prayers were answered. I was attending a business event in the city and in the audience was a special guest, the closing speaker, Frank Bolella, who was a success coach and pastor. I listened to his message and was very impressed. Listening to his message must have been God’s plan all along, because within two weeks, I met him once again at another business event. I became very interested in going to his church and one of my co-workers invited me to go there. After his sermon, I accepted Jesus Christ as my Lord and Savior.
While I was finally getting spiritual grounding, we were still having financial challenges as I was still without a job. During this time, I spoke to one of the other pastors at this church who explained to me the blessings of spiritual gifts. He told me to pray about it and I kept that in the back of mind. By this time, Kayo and I decided to get married as we had already stuck by each other through some very bad times. I knew that we would make it if we stuck together. Conversations of moving to Japan crossed our minds, but we were not ready yet to make that drastic decision.

Changing of the Guard
Hearing of our situation, my mother and father-in-law invited us to visit Japan, and then surprised us with a ticket to Thailand. The vacation was supposed to clear my mind and help to organize things out. When we arrived in Thailand, all the stress must have gotten to me as I fell very ill and unable to backpack as planned; instead we were stuck in Bangkok. My wife suggested that rather than sightseeing tourist hot spots, it would be better to go around locally with nothing stressful.
We happened to be near Wat-Po, and in one of their temples we decided to try Thai massage to help me relax. The massage made me feel better. As we were leaving, I saw a sign that read “how to learn Thai massage in just seven days”. We didn’t have a lot of money, but my wife insisted for me to stay and at least learn Thai massage.
As part of the curriculum there was a field trip to one of the universities in Thailand, where an exhibition of the human anatomy was on display. My mind was blown away, and I felt inspired, an emotion that I’ve lacked for so long. I completed my training in a week and was now certified in Thai massage, but I was still too ill to travel so instead I took another course in foot reflexology. After taking the course, I finally was strong enough to travel and we completed a short 3-day exertion and then headed home to the States with newfound inspiration.
We were both exited, but I was challenged trying to figure out what to do next. There was a local hospital not too far away from where we lived, so I tried to volunteer there to learn more about working in the healthcare field. I tried looking into nursing, but I quickly realized that nursing was not the kind of work I wanted to do. The volunteer director offered a special suggestion that ultimately would change my entire life. She recommended for me to go check out the physical therapy department; I had no idea what it was back then. I was impressed by the treatment the therapists provided for the patients and the immediate positive impact expressed by many satisfied clients.

A Step in the Right Direction
I was without a job during this time, so as a volunteer I was allowed to “earn” a free meal for every four hours of time. I decided to volunteer as much as I could and sometimes it was the only “real” food we had for the week. Timing couldn’t have been more perfect, when miraculously the primary receptionist was going away for vacation, and the director asked me to fill the role to cover phones and scheduling. I worked hard for the next 2 weeks and was so proud to actually have “earned” income. The director decided to hire me part-time and created a special position for me just to stay on staff with her department. Months would go by and life was starting to turn around.
Ultimately, the director convinced me to go back to graduate school. I was at first resistant to her suggestion, but I prayed about it and submitted my application anyway. After getting accepted to graduate school, I had to first complete pre-requisites that delayed my start for about 9 months; having to go back to school to fulfill basic health sciences courses.
The road to graduate school was not easy. About 6 months before graduate school, my cousin discovered he had colon cancer and my mother in law fell ill with stomach cancer. My wife had to return to Japan to take care of her and I checked in on my cousin as best as I could. I kept plugging away alone while she was away, but then my own father passed away one month before the start of classes. I was a wreck, but I had to stay focused and prayed for God’s strength to get through some tough times. The next 3 years of graduate school had it’s own challenges, but every day God answered my prayers to get through another day! Ultimately, I graduated and as they say the rest is history. All the sacrifices and support made this career change the best decision of my life.

Lessons Learned
This journey is full of many lessons learned. Whenever I tried to accomplish things on my own, it always failed. Whenever I trusted God and prayed, he guided me and provided the wisdom that helped me to make better decisions. Of course, conflicts still routinely occur daily, but through the Holy Spirit and the Grace of God, I am working towards trying to live a life rejecting the sinful nature of man.
Life is not perfect, and I am continuously praying for my wife’s salvation to be saved and receive the grace of God. The only thing I can do right now is live a life with God the best as I can.
It’s not a perfect life. He doesn’t provide me the answers I need every time, but I am learning to be patient. I am learning every day of his abundant love and his full grace for a man like me. I’m lucky that I was able to give my testimony, to be able to speak of my life as a Christian without any shame. I am not bothered to pray for someone where I work, as some companies today shy against that. I believe we are called to serve God and complete the great commission and help others seek their salvation. I believe that’s the ultimate goal for each and every one of us, and to enter heaven hearing the words , “Well done”.

「クリスチャンになるということ」

「クリスチャンになるということ」

2018 年が暮れようとするこの時、静まって多くの恵みを数え、神様がどれ程素晴らしい方であるかをもう一度覚えて、主のみ名を崇めます。 振り返ってみると、なんと多忙な一年を過ごしてきたか、その 中にあった主の御手による支えと励まし、慰め、またどれ程の祈りに支えられてきたかを思う時に、感謝の思いで一杯です。今年はただ神様の前にひれ伏して、その力にすがることを通して、クリスチャンとなることを一から学び直した年でありました。

『とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある。』 (申命記33:27)

教会においては、今年初めて代表役員をさせていただきました。昨年末に神様から召命とビジョンをいただき、どうすべきかと数日間悩み抜いた末、ある人に相談しようとを決心しました。その日の夕方、 私が電話をする前にその方からメッセージが残っており、かけ直してみると、”あなたが思い悩んでい ることを示されたので、励まそうと思った。勇気をもって皆に話をしなさい。”と言われました。

その後神様から、『私は全能の神である。あなたは私に従って歩み、全きものとなりなさい。』 (創世 記 17:1)という聖書の言葉が与えられて、神様を信頼する姿勢において全き者でありなさい、と語られ ました。 昨年 12 月の役員会では神様に示されたことを全て語りました。そして、役員会のメンバーた ちは信仰を以てそれを受け入れてくれました。各世代から選ばれ、信仰面でも尊敬できる有能なメン バーに恵まれました。

しかし、自分の力量を越えるご奉仕を担っていく上では、上からの知恵、また、不足する愛と忍耐を増 し加えていただく必要があります。近くには、いつも”祈ってます。”と愛をもって声を掛けて下さる祈り 手たちが備えられていました。神様からの助け手でした。『あなたがたの父は、願う前から、あなたが たに必要なものをご存じなのだ。』 (マタイ6:8)

主イエスのサーバント・リーダーシップに倣って、神様と教会、そして地域に仕えていくことを目標とし ました。教会運営に関しての多くのビジョンが与えられ、一つひとつを祈りながら進めてきました。

教会では、一年の後半に選挙や次年度予算など、多くの重要議題を取り扱います。それを前に、教会 内外を取り巻く様々な状況を分析しようとしていた私に対して、神様は、『神と、恵みの、み言葉に委ね る』(使徒 20:31)、『(主イエスから)白い衣を買う』(ヨハネ黙示録 3:18)、そして、『己れ自身と群れ全体 に気を配る』(使徒 20:28) との聖書の言葉を与えて下さいました。そして状況分析ではなく、み言葉を 土台に、祈りと聖霊様の導きで教会運営を進めていくことを示して下さいました。悔い改めて、方向転 換をしました。 『私のことばを聞いて行なう者は、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。』 (マタイ7:24)

様々な議論や結論が自分の思いとは異って進むことも多くありました。しかし、いつも最善をされる神 様を信頼し、決まったことには委ねて従うことも学ばされて来ました。 『人の心には多くの計画がある。 しかしただ主のみ旨だけが堅く立つ。』 (箴言19:21)

来年のご奉仕に関しては、昨年のような強い召命感は与えられず、ただ状況的には継続することが 良いように思われるだけで迷いがありました。しかし、ギデオンは召命が与えられているにも関わらず、 何回も神様から印を求めた(士師記 6:36-40)ように、私自身も神様にある事を通して印を求め、コンフ ァメーションをいただく形になりました。 『主は今からとこしえに至るまで、あなたの入ると出るとを守 られるであろう。』 (詩篇 121:8)

来年は神様の前に静まることと、教会の力のベクトルは内側ではなく、もっと外側に向けて使うべきで あることを示されています。

職場においても変化があり、今年は、駐在員の人事異動により、量的にも質的にも自分がハンドルで きるとは思えない企画業務を担当することになりました。従来から違う仕事をしたいとの願いがありま したが、いざそれが実現すると、喜びが戸惑いと恐れに変わるのに時間はかかりませんでした。

プロジェクトマネージャーとして、イベントや新規プログラムの企画・調整をいくつか担当しました。社内 外には多くの関係者がおり、一体どういうタイミングで、誰と何を進めていったらよいのだろう?誰かに 背中を押されるように、プロジェクトがスタートしました。しかし、最初の打合せでは見事にリードを失敗 し、“上司は、私には出来ないと思っているだろうな。”と失望感が溢れました。もう辞めたい、でももう 少しはやるべきでは・・・?その狭間を回り決心がつかない中、翌日も、翌週も次々とミーティングを進 めていかねばなりません。“イエス様、この仕事を与えて下さり、有難うございます。でも、私にはこれ をやり切る力はありません。どうぞ助けて下さい” と毎日神様の憐れみにすがっていました。一緒に スモールグループで聖書を読み祈り合っている教会の女性たちにも伝えて、祈っていただきました。

特に、社長などエグゼクティブとの打合せが入っている時の緊張感は大きく、入念に準備をしても前日 から心がそわそわしました。直前には小部屋かトイレに行って、祈りました。『イエス様、分かりやすく プレゼンすることが出来ますように。言うことがアホに聞こえないように助けて下さい。』 と、主イエス の御名で祈りました。彼らとの打合せが終わった後はどっと疲れましたが、忘れる前に、『イエス様、 有難うございます。終わりました!』と感謝の祈りを捧げました。ただただ神様の憐れみにすがるのみ で、一年生のようにクリスチャンになることを日々学びました。 『主は、ご自分を恐れる者を憐れまれる。主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。』 (詩篇103:13-14)

大成功ではありませんでしたが、数か月かけて何とか最初のイベントを終えることが出来ました。そう すると、もうこのような仕事はやりたくない、やらないぞ、という気持ちになりました。そして上司にもそ のように言い放ちました。その時の彼の悲しげな顔が忘れられません。しかし、その日の夕方には、 聖霊様から “感謝の気持ちがない”との責めを受けました。私は何と罪深いのだろう、と一晩眠れず、 翌朝早く出勤して、朝一番で傲慢非礼であったことを上司に謝罪しました。彼は、”そう言ってくれてあ りがとう。”と寛大にも許してくれました。 『真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き 入れます。』 (ヨハネ16:13) そして、今も続けて同じ業務を担当しています。

今、クリスマスで語られたメッセージに思いを巡らせています。ベツレヘム近くで羊たちと野宿していた 羊飼いたちに天使の軍団が現れ、救い主イエスの誕生を知らせました。飼い葉おけに寝かされている ことが印です。羊飼いたちは直ぐに出発して赤子を探し出し、礼拝を捧げ人々にも伝えました。(ルカ2:8-17) “信仰とは神様からの語りかけへの応答です。神様のメッセージを聞いて自分のものにする には、心にゆとりが必要です。” と語られましたが、私は真逆で、自分の限界を探るような歩みをして きました。息もつけない忙しさの中、ゆっくりと神様の声を聴き応答することなど出来ない一年であった ことを主イエスの前に悔い改めています。

しかし、主イエスの恵みは十分であり、その御手による支えがいつもありました。私が知らないところ で、イエス様がくびきを押してくださるので、イエス様にお任せして、ただついていけば良いのです。“His york is easy and his burthen is light.” (私(イエス)のくびきは負いやすく、私の荷は軽いか らである。マタイ 11:30) 先週、マンハッタンの教会で、この賛美を心から歌いました。

全てのご栄光が主イエスの上にありますように。

「あなたの若い日に・・・」

今年の4月に主人と共に日本語教会に転入してから半年余り、錦織先生をはじめとして、主にある兄弟姉妹との嬉しい出会いをたくさん経験させていただきました。決して模範的なクリスチャンではありませんが、私がどのようにしてイエス様を救い主として受け入れたのかを証しさせていただきます。
私の両親は台湾人です。私には2歳年上の姉と2歳年下の弟がいます。私は次女として3人兄弟の真ん中に生まれました。私が5歳の時、家族で台湾から日本に引越しました。当時、父の兄が神奈川県の平塚市で中華料理店を経営していました。父はその縁で日本に招かれ、料理人として働くようになりました。20代だった母は、日本語が不自由ながら仕事をして、3人の幼い子供を育てました。父は仕事がら夜遅くまで帰宅せず、私たち3人が同じ公立小学校に通いはじめた頃も、顔を合わせない日も少なくありませんでした。家でも学校でも使うのは日本語だけで、中国語も台湾語も忘れました。学校では友達やクラスメートといっしょに楽しく勉強したり、遊んだり平凡な子供時代を過ごしました。ところが、私が中学1年を終えた時、家族全員で渡米することになりました。ブルックリンに在住する知人の薦めに父が独断で決めたことでした。ただ私にとっては迷惑な話しで、日本の友達とも別れ、英語もわからぬまま、現地の公立中学校に編入させられてしまいました。英語も話せず、友達もできず、大学に進学するまでの6年間は、ただ学校と家を往復するだけのつまらない毎日でした。
なぜか小さい頃から、母の愛情は学校の成績がよかった姉と弟にだけ注がれていたようです。台湾では男の子の方が女の子よりも望まれていたからでしょうか、2番目の女の子として生まれた自分は、母にとっては期待はずれのやっかい者だったのかもしれません。日本にいた時から父は仕事で忙しく、日本の生活に戸惑う母は、3人兄弟の中で一番成績が低かった私に、その鬱憤と不安に荒れた心をぶつけました。優秀な姉や弟と学校の成績を比べられ、ささいなことで叱られる毎日。私はヒステリックな母の怒りから逃れることばかり考えていました。小学校時代の自分のバイブルは少女マンガでした。「ベルサイユのばら」のオスカルに憧れ、「生徒諸君」のナッキーを目標に、正義感と友情に厚い人間を目指していました。そんな少女時代に「自分は何のために生まれてきたのか。」といつも考えていました。
ようやく高校を卒業し、私は母から離れて自立するために、看護師を目指してマンハッタンにある市立大学に進学しました。後に看護師の勤務が不規則で、おまけに夜勤まであることを知り、2年生の時に専攻を薬学に変えました。自分には看護師よりも薬剤師の方が合っていると考えたからです。姉と弟は私立の有名大学に進学しました。私は親の経済的な援助を一切受けまいと心に決め、学費の割安な市立大学に進学し、アルバイトで学費を稼ぎながら、自力で大学を卒業して薬剤師の免許を取りました。私が大学3年の時に両親はルイジアナに引越して、レストランをオープンしました。私は母と顔を合わせずにすむようになりほっとしました。そんな時、アルバイト先で今の主人と知り合いました。彼は日本から語学留学でニューヨークに来たばかりでした。大学を卒業して5年後に彼と結婚し、ニュージャージに引越しました。主人は米系の金融システム会社に就職し、私も病院の勤務に多忙な日々でした。
その頃、勤めていた病院で知り合ったフィリピン人の医者夫婦に誘われて、はじめて超教派の福音集会に参加する機会がありました。ホテルのボールルームに設置さえた会場は2000人ほどの人で埋まり、コンテンポラリーな賛美歌と聖書メッセージが続き、まるでコンサートのような雰囲気でした。メッセージの内容は、今まで思っていたキリスト教の教えよりも、ポジティブで現実的でした。そこで母との長年の確執によって、生きることの意味をずっと考えてた私の心が、伝道者の書の12章1節の言葉を捕らえました。「あなたの若い日にあなたの造り主を覚えよ。」自分は母ではなく、神に造られ、神に生命を与えられ、神に生かされていることを知りました。母の批判的な言葉に心傷ついていた私には、それは大きな救いであり慰めでした。同時に、母を赦せない心、姉と弟を妬む心も教えられました。それは神の愛と聖さからほど遠い自分であり、贖いきれない自分の罪でした。その罪のためにイエス様が十字架で死なれたことを知った時、私はこの方を救い主として受け入れました。その後、主人といっしょに教会に集いはじめ、1993年10月に洗礼を受けました。イエス様を受け入れたとは言え、心は寛大さに欠け、人を赦すことさえ難しいのです。それでも神さまはそんな自分をありのままに受け入れ、見放すことなく、見捨てることなく、ずっと導き続けてくださいました。これからも家族といっしょに愛なる神と恵み深い救い主なるイエス様に従っていきたいと思います。

「この世に、命を授けて頂いてから半世紀・・・」

この世に、命を授けて頂いてから半世紀以上、そしてその半分以上をクリスチャンとして生活している私ですが、洗礼を授けて頂いたボーンアゲインの頃の、純心な主への思いは、様々な困難により、強まる様でもあり、ゆるんで行く事も、多かれ少なかれ・・・のようです。
人生は、バラ色だの、楽しむものだのと、若い頃は夢多き日々を送っておりましたが、辛い日々の方が多いのでは?でも、その中で鍛えられているのです。

両親がクリスチャンだった母ですが、クリスチャンではない父と結婚をして、その父が肝癌で亡くなる2年前に、二人はアメリカに来て、NJ日本語キリスト教会の初代牧師から洗礼を授かりました。その後、母は晩年をアメリカで私と一緒に過ごして天国へ召されました。

私には、歳の離れた3人の兄がおり、兄弟みんな東京の玉川学園で、小学部からキリスト教の礼拝を受け、賛美歌を賛美し聖書を学びながら、青春時代を過ごしておりました。
ところが私はどうした事か、高等部卒業後、友達の反対をもおしきり、大阪のPL女子短大へ進みました。寮生活で、リーダー的な立場で、異教の教えにどっぷり浸かり、なんとも、変った宗教人生の、スタートを歩んで来ました。日本人の多くの方は、色々な様々な宗教や、教育を受けられて、こんなに柔軟な考え方、教育経験を持っておられる人種は、少ないのではと思います。

そんな中で、私がクリスチャンになれたのは、アメリカに元夫と来て、息子も生まれ、贅沢な人生を送っていた時でした。そんな生活だったのですが、親離れが出来ていない、お互いの生活に危機が起こり、近所に住んでいたNJ日本語キリスト教会の方に救われました。

そこで、家族3人で、洗礼を授かり、めでたしメデタシ・・・とは終わらず・・・。

元夫も、新品クリスチャンになった頃は、日本語教会の初代牧師のカバン持ちをするなど、熱心な教会活動をしていました。でも、何が起こるか、人知では計りしれません。その後、マンハッタンの日米合同教会に移籍する事になりました。
その時も、熱心に家庭集会を開いて、近所のクリスチャンでない方も招いたり、有名な、アーサー・ホーランド先生や、森祐理さんも、家に宿泊して頂いたりした事もあるほどの、信仰に恵まれていたファミリーだったのですが、その後、離婚、息子との別離が続きました。洗礼を授かりクリスチャンになって、イエス様を主として、愛の家族として生まれ変ったはずなのに・・・今の私には、全てを善き事にして下さる神様の御業は、まだまだ先が見えません。

私の証しでつまずく方も、おられるかもしれませんが、いまだに、クリスチャンではない方とキリスト教の話をすると、「だからクリスチャンって・・・」と言われると、抵抗出来ずに、なんと頼りない不信仰な私です。

でも、試練と共に祝福もあります。カルフォルニアに住んでいる兄家族が全員、義姉とお母様、娘と新婚でコリアンの夫5人全員もが、同時にクリスチャンに、なれたのです。また日本に居る一番上の兄も、強力な母の願いで、日本で洗礼を授かりました。残るは、真ん中の兄だけですが、来年の母のメモリアルに、カルフォルニアで集合する時をチャンスにと、祈り願っております。

今年は、カルフォルニアで、NJ日本語教会の牧師が講師で、「生きる」という事をテーマにリトリートがもたれました。素晴らしいリトリートでした。日本から一番上の兄も来て本当に恵まれた集会でした。
そこで、今までアメリカ人教会と日本語教会とフタマタで、ご奉仕を両教会から避けていて、ただ、礼拝と賛美の栄光だけを、毎週頂くという、なんとも、ズウズウシイ教会生活をさせて頂いていた事を、悔い改めさせて頂きました。気が変らないうちに、すぐに、転入届けを出させて頂き、又、元の古巣へ、戻って来る事が出来ました。

このきっかけになった事の一つをご紹介します。

私の住んでいる部屋はコンドの8階にありますが、元々、母が日本から持ち込んだ家具や、荷物が満杯で身動き出来ない状態でした。ところがクーラーを直しに来た人が栓を閉め忘れるという考えられない事件が起き、ほとんどの物が水びたしになり、ダメージを受け、カーペットも全て取り外しとなりました。費用は相手の保険が殆んどカバーして下さいました。それは、母が亡くなってから、半年たってからの事でした。
多くのものを処分してガラガラになった部屋に、スペースが出来たところに、日本語教会の聖歌隊リーダーが、ルームメイトとなってくださいました。その方と行動を共にする事が増え、礼拝だけではなく、家庭集会や他の集会にも、顔を出すようになりなりました。この事も、主のご計画の一つでしたのでしょう。

色々様々な出来事を通して、主は導き又、たまには、試されるのです!

私には、「キリスト教の教えを伝える」というよりも、「イエス様の愛を感じて頂く様に伝える」方が、平安で居られます。イエス様が、「わたしのくびきを負ってわたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に、休みが与えられるであろう。わたしの、くびきは負いやすく、荷は軽いからである。」(マタイ11-29~30)私のために準備されたカスタムメイドのくびきは、なんと有難い事でしょう。無理する事は無い。全て疲れている人は、イエス様の所に来なさい、とも言って下さっている安心感はなんとも言えない喜びです。

再び洗礼を授けて頂いた教会に戻り、聖歌隊にも入れて頂き、新しく又生まれ変わった私のこれからの歩みは、まだまだベビーの様に危なっかしいですが、皆様の御協力を得て、一歩ずつ進歩している様ですので、宜しくお願い致します。