「起承転結 ― 神様のものさし」

2025年が、始まります。今年還暦を迎える私にとっては新しい章のスタートです。

0〜29歳 :“娘” -まだイエス様との出会いもなく、自由奔放に毎日を楽しんでいた私は、父と言われて頭に浮かぶのは、血縁の父。

30〜59歳:“妻”“母” -新しい家族ができ、救いへと導かれましたが、父と言われて浮かぶのは、日々二人の娘と健闘していたその父親である夫。

60〜(神様のとき歳):“私” -父といえば、天のお父様です。
天のお父様には、これまで多くのことを教えていただきました。そのお方は万能であり全てが可能で、どんなものにも変え難い平安を与えてくださること、そして誰よりも私を愛してくださっているということを、これまでの歩みの中で繰り返して実感しております。

これからの日々は、この天のお父様の大きな御手の中で、肩の力を抜きリラックスして父の示される道を歩んでいけるようにと祈っていきます。

1番の敵は、自分の常識を正しいと錯覚してしまうことです。たとえ、自分にとってはマイナスに思えることがあったとしても全てを益とされる方は、決して私を暗闇に置き去りにすることはなさらず、祝福というゴールを備えてくださっていました。神様の常識のもとでは、自らの思いはなんの効力もないことを自覚しています。日々、天のお父様のみ顔を求め、み声を聞き逃すことのないように、御言葉をうちに積み重ねて、力強く全身全霊を持って歩んでいきたいと祈っています。

主に望みをおく人は新たな力を得、 鷲のように翼を張って上る。 走っても弱ることなく、歩いても疲れない。(イザヤ書40章31節)
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2023年9月、自分が洗礼を受けた母教会の日本語礼拝が30周年記念を迎え、その時自らの信仰生活を振り返りました。その証をこれからシェアさせていただきます。

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 私がイエス様と出会えるための道案内をしてくださった母教会が、神様の愛の中で素晴らしいお働きをして30周年を迎えられたことを感謝、お祝いし、自らのこれまでの歩みを振り返ります。

 2001年、夫は20代から勤めた金融業でのリタイヤを決心して、私たちは日本からサンフランシスコ郊外に引っ越しました。長女は幼稚園入園、現地校に馴染めず、毎朝学校に着くと泣き出し、困難でのスタートとなりました。その中で、私は車で15分の所にあったJapanese Christian Church of Walnuts Creekにつながっていくことになります。教会での集会、行事などに子供達と共に参加し、翌年クリスマスに私は受洗へと導かれました。その頃の私は神様に夢中で、毎日は教会生活が中心でした。

 長女が中学校に入る準備をしていた2007年5月、6年間安定した仕事に恵まれなかった夫に、NYの証券会社から香港支社・東京支社での仕事が与えられました。夫は香港で1年間勤務、私は、強い信仰を持っていると勘違いしながら東京に帰りました。子供達もインターナショナルスクールに戻り、日曜日は共に教会に通い、長女は2008年、自らの意志で受洗、2009年、2歳年下の次女も自らの強い意志を果たして、受洗をいたしました。

 2009年リーマンショック。しばらくして、夫はレイオフされました。会社から支給されていた家を数ヶ月後に出て、家族で私の実家に移り住み、子供達は翌1年、日本で学校に通い続けました。長女が高校入学の2010年、私はニュージャージー州に住む義理の母に、子供達を現地の学校に通わせるために、母娘3人で住まわせてもらえることをお願いしました。夫は続けて私の実家に残り、1年間、NYの別の証券会社の東京支店で、出来高制という契約の仕事をしました。

 私が思う“試練“は、ここから加速して行きます。私が一生懸命頑張って願う思いは何もかないませんでした。たくさん笑う以前の私はそこにはなく、明日が見えずに日々を過ごしていました。しかしなぜだかその頃、初めて聖書通読をしました。私にとって、別の物語であった旧約と新約が、通読によって一つの大きな世界へと変わり、聖書の理解が別のものになりました。夫の母教会にも毎週、歩いて通いました。今も、時々このカソリック教会で礼拝をします。神様に守られていたことを、聖霊様が私に伝えるが如く、礼拝のたびに涙が溢れ出て、当時の信仰生活を思い出します。

 また、夫の実家から車で15分の距離に、母教会の藤岡先生夫妻がWalnuts Creekに行かれる前にいらしたJapanese Christian Church of New Jerseyがあり、私は神様にあってこの教会に導かれ、その時から、多くの敬愛する兄弟姉妹に恵まれ、宝物を得たような日々を過ごせています。

 2016年、私は98歳の方の運転する車で生死に関わる交通事故に遭いました。裁判所で、この方の体調を見た時に、神様が私を事故の相手に選ばれたのだと思いました。そののち2019年末まで、私は事故によって必要となった手術を、何度も繰り返すことになったのですが、今その頃を振り返ると、事故以前の私ではない私がそこにいて、神様が私と共におられたと痛感しています。

神様の憐れみにあって、私と夫は11年前に会社をスタートし、年月もかかりましたが、神様がこのビジネスを通して私たち家族に、日用の糧と必要を与えてくださっています。時々困難も訪れますが、神様の知恵を求めて祈る時に、主はそれに応えて下さり祝福をいただいています。

21年間の信仰生活の中、神様から様々な経験をさせていただきましたが、その歩み故に教えていただけたことは、この世の人知で測ることのできない平和があることです。 

マタイによる福音書10章34−39節

地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。 わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。 そして家の者が、その人の敵となるであろう。 わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。 また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。 自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。  

 自分中心の私の物差しで測って来た過去は、自分が望むもの以外を受け入れることが出来ずに、その全てを試練と思い、平安はありませんでした。それは人と付き合っていく中でも起こる事があり、それぞれの物差しは異なるわけですから、争いが生じたり、そこから平安が生まれるのは偶然です。

“神様の物差し”は、愛によって作られ、義によってはかられる、唯一正しいものです。

  まずは自分の物差しを捨て、神様の物差しが持てるように祈り、自分の家族や隣人を、建前や偽り、愛するフリをするのではなく、真に愛せるように、御言葉が持つ奇跡の力で自らの思いから解放されることを願っています。 

    いつの日か平和の器になれることを信じて、これからも御心を知るために祈り、恵みを数えながら歩んで行きます。 

「日本に帰国後に感じたこと」

 2024年3月、私達家族は8年間のアメリカ生活を終えて、日本に本帰国しました。当初5年くらいかなと予想していた夫のアメリカでの仕事は、1年ずつ延長していき、気がつけば結婚生活の約半分はアメリカで過ごすことになりました。渡米当時、まだ幼かった長男と次男は、それぞれ高校生と小学校高学年に、そこに2年前に生まれた三男も加わり、家族5人で久しぶりの日本生活のスタートです。

 日本での拠点は以前住んでいた家から程近く、子供達との思い出も沢山ある慣れ親しんだ地域です。ここでなら、土地勘や学校の情報もあるし、子供達も自分も安心して過ごすことができるだろう。そう思って帰国しました。変わらない景色に、アメリカでの生活は夢だったのかしら?と思うことも。しかし、それも束の間、時間が経つにつれ、少しずつ、街や人々、そして日本全体の雰囲気の変化を肌で感じるようになりました。

 平日、以前は親子連れで賑わっていたショッピングモールは、今はシニア世代の方たちの方が多くいらっしゃっています。また、上の子達とよく通っていた公園や児童館に三男と一緒に行くと、1歳以上の未就園児はごく少数。聞けば、今は待機児童問題も解決し、1歳になると保育園に預けて職場復帰する方が多いそう。少子高齢化や人手不足が深刻なせいか、テレビでは転職や短時間バイトなどのCMがとても多く流れています。

 これらは決して悪い変化という訳ではありません。保育園に預けやすくなったり、色々な働き方ができることは、とても良いことです。ただ、私にはそのように変化していく8年間の過程がすっぽり抜けてしまっています。そのため、まるで自分が浦島太郎になって取り残されているような、なんとも不安な気持ちになるのです。アメリカでは、とにかく子供のことが最優先、学校や習い事への送迎と日本の勉強のサポートに追われる日々でした。そんな生活に、うっすら終わりが見えてきたころに与えられた第三子、また0からの子育てです。今の日本では、子供がいてもいなくても、老いも若きも、みんなが経済活動をするのが良いという風潮を強く感じます。そんな中、三男を預けて働くこともできるけれど、まだもう少し一緒にいたいと、子供と手を繋いで公園や児童館に来ている私は、8年前から時が止まっているよう。自分は、社会の変化についていけない価値のない人間なのではないかと、気持ちが落ち込むことが増えていきました。

 そんな時、私の手を握り、ぐっと引き上げて下さるのが、神様のみ言葉です。

何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

                ピリピ4:6-7

 8年間のアメリカ生活では、大きな事故も病気もなく、それどころか、第三子という素晴らしいギフトまで与えられて、家族5人で無事に本帰国できました。日本の家族の健康も守られました。上の子供達は、アメリカでの楽しい思い出を胸に、毎日元気に日本の学校へ通っています。心配だった夫の仕事と大学院の両立も、今のところ問題なさそうです。三男との公園や児童館通いを通じて、少しずつ、地域に知り合いが増えてきました。8年経っても私達を覚えてくれていて、帰国を喜んでくれる友人もいます。祈りを通じて、どれだけ多くのものを神様が与えて下さったかを示され、感謝と平安で心が満たされるのを感じます。と同時に、世の中の風潮はうつろいやすく、神様から離れ、そこに自分の価値を求めると、とたんに足元が暗く不安定に思えてくるということにも気付かされました。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたに望んでおられることです。

           テサロニケ信徒への手紙一5:16-18

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

               詩篇119.105

アメリカでの生活で得た何より素晴らしいものは、神様との出会いです。私がこれから進むべき道は、世の中の風潮によってではなく、祈りを通じた神様との対話の中で見つけていきたいと思います。

最後になりましたが、神様が与えてくださる愛と恵み、そして沢山の素晴らしい出会い、いつも私達家族に思いを寄せて下さるニュージャージー日本語教会の兄弟姉妹、すべてに感謝しつつ、これを私の証とさせて頂きたいと思います。

「受洗まで」(神様の招き)

日本の家にはよくある風景だと思いますが、私の実家には仏壇と神棚が和室に並んでいました。朝晩お水や炊いたご飯を供えることが子供の頃からのお手伝いの一つでした。運動会や試験の折には、母から「のんのんした?」
「仏さまにお願いした?」の声掛けがあり、仏壇の前で手を合わせるということが習慣になっていました。その様な家庭でしたが、幼稚園年長の頃、クリスチャンではない母が何故か私を教会の日曜学校へ連れて行きました。自身が中高をミッション系の学校で過ごした影響でしょうか、今度母にゆっくり聞いてみたいと思っています。

小学校1年生の時、父の転勤で関西へ引っ越しました。社宅の目の前に教会があり、母はまた私を日曜学校へ連れて行きました。この時の記憶は、クリスマスの生誕劇で一言もセリフの無い羊の役をしたことと、毎週配られる聖句の絵カードを集めるのが楽しかったことです。2年生になると、母の興味が日曜学校からガールスカウトに変わり、私の日曜日はガールスカウトの活動にシフトしました。

再び神様に少し近づいたのは中学の時です。毎日の礼拝や週一回の聖書の授業があるミッション系の学校に入学しました。クラブ紹介でその美しい音色に一目ぼれした私はハンドベル部に入りました。その顧問の先生が宗教主任の先生でした。厳しい方でしたがお話が大変上手で、時々行うハンドベルの演奏や美しいメロデイの賛美歌を歌うことに加え、先生のお話は礼拝の楽しみの一つでした。ある時クラスメイトのお父様が亡くなり、何人かでご葬儀に出席するということがありました。クリスチャンでいらしたので私にとって初めての教会のお葬式でした。故人の好きだった讃美歌を歌い、皆で白い花を献花するというお式は、不謹慎ですが少しあこがれたのを覚えています。

中学2年生の時に父の転勤があり、英国国教会系の学校に編入しました。チャプレンのお話にあまり魅力を感じず、聖歌集に馴染めず、年齢もあったのでしょうか、心が神様から離れてしまいました。

結婚した夫の両親はクリスチャンでしたので、結婚式は両親の教会の牧師先生に会場まで来ていただいてして頂きました。夫の家は食事の前に皆でお祈りすることもなく、ノンクリスチャンの私にとってごく普通で居心地の良いものでした。私たち家族が東京にいる時は、イースターやクリスマスの折に時々教会に誘ってもらいましたが、20数年中、礼拝に出掛けたのは10回に満たないかもしれません。

2019年に夫がニュージャージーに駐在になりました。FBの知り合いを通じて知ったニュージャージー日本語教会に夫が行くといった時、日曜日に特に用事もなく、なんとなく一緒に通うようになりました。聖餐式に初めて同席した折、教会に来ている人はクリスチャンとそうでない人がいることを深く意識するようになりました。私にとって教会に行くということは、学生時代の延長で、賛美歌を歌い、お話を聞き、ひっそり個人的なお祈りをするということで、それで満足でした。その先にある神様を心から信じ洗礼を受けてクリスチャンになるということは、何か特別な天啓のようなものがあったり、神様を求めずにはいられない体験をしたりということが必須であると感じていました。
ですから、2021年突然夫から、受洗しようと思うと聞いたときは本当に驚いたのを覚えています。

教会は仲良しグループの集いではないことは理解しています。ですが、教会の雰囲気は先生を始め集う方々によるもので、それはとても大事なものだと思います。ニュージャージー日本語教会に通い、お茶の時間や教会以外の場所で皆様に本当に暖かく親切にして頂いたと感じています。

日本に本帰国することが決まった頃、何も特別な天啓も体験もありませんでしたが、洗礼を受けるということを少し考えるようになりました。その思いを感じていただいたのでしょうか、1月に先生から「帰国も近いし、もしよかったら聖書の勉強をしてから帰りませんか。」とお誘いを受けました。勉強も後半に差し掛かった頃、受洗についてお話頂きましたが、まだ迷っていた私は、神様をすごく求めるような体験も何もないのに洗礼を受けてもいいのかどうか等、色々なことを尋ねました。イエス様が私の罪を背負ってくださった、そのことを信じられることが一番大切なことです、と先生は何度も話してくださいました。錦織先生と親切にしてくださった皆様のいるニュージャージ―教会で受洗したいと決心しました。

東京に戻って半年、夫の両親の教会へ通っていますが、ニュージャージー教会のことを時々思い出します。先日古い友人と会う機会があり、ひょんなことから彼女が12月に洗礼を受けることを聞きました。私はとても嬉しくなり、自分の時に皆様に心から喜んで頂いた理由がわかったような気がしました。12月彼女の教会へ行き、「おめでとう。」を言う約束をして別れました。

幼い時から神様が何度も招いてくださったことに本当に感謝します。

「しかし、私たちがまだ罪人(つみびと)であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」
(ローマ人への手紙5:8)

白髪背負う

 「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。(イザヤ書46:4)」

 この夏、1人で里帰りをしました。2ヶ月間実家に滞在し、母の部屋に布団を敷いて寝起きしました。今までは子供たちと帰省するのが常で、実家ではお客さん気分。さんざんもてなしてもらうのに、2週間も居ると毎回、両親と衝突していたのが、今年は波風一つ立たず、ほっと安堵したのと同時に、それだけ親が歳を取ったのだと寂しくもなりました。

 傘寿を過ぎた両親の毎日はとてもスローテンポです。予定があるのは病院に行く日ぐらいで、あとはほぼ家の中で過ごします。父は規則正しく過ごす性分で、朝早く起きて新聞を郵便受けから取り、テーブルに広げて老眼鏡をかけて一通り目を通す。それからテレビ欄の番組表を調べて、見たい番組を色ペンで囲み、軽く朝食をいただいた後は指定席に腰かけてテレビをみながらうつらうつらと午前中を過ごす・・・。午後もまた、しかり。唯一の楽しみは、毎週水曜日の午後に友人たちと行き会うゴルフのショートコースです。約束をとりつけず、来られる人だけが来ればいいという、ごくごくゆるい集まりを続けています。

 母はゆっくりめに起きて過ごします。週2回のデイサービスがない日は、ひるげの匂いに誘われてようやく部屋から出てきてきます。食べ終わるとまた部屋に戻り、何をするでもなく横になって、また夕食の時間に顔を見せます。以前の母はとても多趣味で活動的。若い頃に教員免許のほか茶道と書道の師範資格を取り、子育てが落ち着くと調理師免許、60代でネイルアーティストの資格を取りました。洋服や靴が大好きで、私の楽しみは実家から母の服を貰ってくることでした。そんな母が、今ではたった3、4着の服を着回し、朝から着替えもせずパジャマで過ごしているのです。母の代わりように愕然としました。

 ふたりは自活してくれていますが、いわゆる老々介護です。「老々介護」。聞いたことのある言葉でしたが、両親の生活がまさにそのもの、と気付いたときはショックでした。もともと膝を悪くして歩行が困難な母でしたが、去年の暮れに転倒・骨折して一気に身体の衰えが進み、父が家事の全てを担うようになりました。母が家のことを切り盛りする姿しか見た事のない私にとって、父がこれほどマメに家事をしてくれるのを見るのは嬉しい発見ではありましたが、2人の姿に自分自身の将来を重ね、「歳はとりたくないものだ・・・」と正直、思いました。

 日本人の平均寿命は男女とも80歳を超えていますが、健康問題が日常生活へ制限を与えない期間を表す“健康寿命”なるものは、男性で70代前半、女性で70代半ばです。こんな数字を見ると、「元気に自活できるならいいけれど、我が子や周囲の負担になるようならば、早く逝きたい・・・」と、つい心の中で願ってしまいます。超高齢化が進んで介護保険制度が崩壊するかもなどと言われる日本で、年配者が社会の重荷とみなされる風潮が強い社会で、アンチエイジングなどということばが市民権を得て、老いることが悪いかのようになった世の中で、長生きしたいとは到底思えないのです。希望を見いだせないのです。

 でも、聖書の価値観は違います。老いることが祝福の象徴、老いることは光栄なこと、「白髪は輝く冠(箴言16:31)」だといいます。

 キリスト者であるヘルマン・ホイベルスという人が「人生の秋に」という本で「最上のわざ」と題して、こう書いているそうです。

楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう。

若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見てもねたまず、人のために働くよりも謙虚に人の世話になり、弱ってもはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること。

老いの重荷は神の賜物、古びた心に、これで最後のみがきをかける。

 なにか活動が出来なくなったとしても、働きではなく存在そのものに大きな意味や喜びがある。効率とか生産性に意味と価値を与えるこの世の中で、聖書の言葉は老いることへの祝福を語ってくれています。

 この夏、私が一番うれしく思ったのは、母が再び教会へ通うようになったことです。母は洗礼を受けてはいますが、久しく礼拝に集えていませんでした。教会の人間関係に失望したり、自分の願った通りの教会生活を送れなかったりして、通うことを止めてしまったのでした。そんな母が、土曜日の晩から備え、日曜日の朝は早起きして身支度を整え、礼拝に出席するようになったのです。教会から帰ってくると、母の顔つきは明るく、楽しいお喋りが始まります。その姿にクリスチャンではない父は驚きます。町内会の集まりは嫌がるのに、教会の集まりへは進んで出掛ける様子を不思議がります。

 でも、当然なのです。教会は安心して集えるところ。そこには愛があり支え合いがあります。そこでは、働きでなく存在を大切にして受け入れてくれます。高齢者であれ働き盛り世代であれ、1人の存在として見なしてくれます。とは言え、人間の集まりですから気の合わない人がいるかもしれません。ときに、失言や行き違いから、失望したり傷ついたりするかもしれません。でも、イエス・キリストという模範がいて、聖書を読むことで整えられ、大切な戒め「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい(マルコ12:31)」を守ることによって、それぞれが理想の姿へと変えられていく過程にあるのです。

 里帰りも終わりに近づいたころ、「別れが寂しい」と、はばかりもせずに言う両親と離れるのは後ろ髪を引かれる思いでした。もっと滞在を伸ばせないか、日本にしばらく移り住んで両親の生活を支えられないか、とさえ考えました。でも、母が日曜日ごとに教会へ行きはじめたことで、私の心配は安心へと、心残りは希望へと変えられています。母は神様からの語り掛けによりリセットされ、リニューアルされ、新しい力を得ると期待しています。今までも母をずっと運んできてくださった神様が、母が年老いた今も、これからも、同じように運んでくださるから大丈夫だと。背負ってくださるから大丈夫だと。そしていつか、私のことも同じように運び背負ってくださるでしょうと。

 主は良いお方です。神様に心からの感謝をささげ、全ての栄光をお返しいたします。

「主の采配の確かさ」

在籍していた神学校の突然の閉鎖に伴い、昨年9月より大都会NYから牧場だらけのKYの田舎町に移り、リバイバルが起こって御霊が力強く働いている神学校のコミュニティでの生活と学びが始まりました。ケンタッキーにはあまり日本人へのアウトリーチの機会がなさそうと勝手に思っていたので、日本人人口が全米で三番目に多いNYCでの日本人伝道の思いを一度神さまにお返しするという自分にとってはかなり辛い覚悟を決めて、神さまに導かれるがまま何も知らずに雲と火の柱を追いかけてケンタッキーに来ました。ところが、神さまは私には予想もできない方法で私を次の宣教の地、ケンタッキーに導いたことが到着して程なくして分かりました。

ケンタッキーに引っ越す直前、コロラドでお世話になった牧師先生ご家族が私のアズベリー行きを知って「ケンタッキーに私たちの親友でアメリカ人のご主人と日本人の奥さんのL夫婦がいるよ」と連絡がありました。そのLさんご夫婦は一度2022年にナッシュビルであったRJC(Reaching Japanese for Christ)の地域カンファレンスで一瞬だけお会いしたことがあり連絡先も交換していたので、ケンタッキーに着いたら連絡してみようと思っていたのですが、全く別件でLさんたちの方からそのあとすぐ突然連絡が入りました。やりとりをする中で、LさんたちもISI(私が所属する留学生ミニストリー団体)のスタッフとして20年以上ポートランドで留学生に仕えるかたわら日本語教会も開拓し、そして2年ほど前に神さまから中西部に移動するように示されて何も分からないままただ神さまの導きを信じてケンタッキーの地へ引っ越してこられたことを知りました。ISIの働きはLさんが来るまでケンタッキー州にはなく(全米でもケンタッキーとテネシー州だけなかったそうです)、私もNYのISIチームからはケンタッキーにはISIの働きがないと聞かされていたので、今Lさんたちがケンタッキーの地でISIの働きを始められたばかりとのことを聞いてびっくりしました。Lさんたちも過去2年間ケンタッキー、レキシントンエリアでの留学生伝道やアメリカ人教会のミニストリーの働きをいろいろと探っていく中で実は日本からの留学生が多いこと、そしてトヨタ系の自動車産業の工場がある関係で日本からの駐在家族もかなりいることがわかってきて、「日本語が話せてミニストリーに重荷のある女性を与えてください」と祈っていたところに私がやってきて驚いたそうです。

Lさんたちは息子さんがアズベリー大学に通っており、家もキャンパスから15分ほどの近さだということも分かって、ケンタッキーに引っ越してきて数日とたたないうちにLさんたちと早速お会いしました。神さまが不思議な形で私たちを繋いでくださったこと、私の日本人伝道への重荷とLさんたちの助け手を求める祈りを神さまが聞いてくださったことに共に感謝と驚きの祈りを共に捧げました。LさんたちがUK(University of Kentucky)でCru(編集注:以前キャンパスクルセードという名前だった学生伝道団体)と協力して2022年に始めたBonfireという留学生ミニストリーに私も早速参加し始め、そこで何人かの日本からの交換留学生とも出会いました。Centre Collegeという別の大学にも日本人留学生が10人弱いることが分かって、その子たちとも交流を始めました。また、Lさんたちや他にもアズベリーで繋がった近隣のクリスチャンの方々を通して、レキシントンエリアのアメリカ人教会が取り組んでいるESL(英会話)ミニストリーに参加している生徒さんの半数以上が日本人の駐在妻さんたちであることも知りました。ESLミニストリーに携わっている方に誘われて9月末にお邪魔したホームパーティでお会いした方々は実際8割以上の方が日本人、しかもみなさんトヨタ系ということで私の地元の愛知県出身…すぐにローカルトークで打ち解けることができ、何人かの日本人ご家族と顔見知りになりました。パズルのピースがぴったり当てはまるかのような神さまの正確な采配と配置に鳥肌が立つ思いでした。

そして、Lさんたちと出会って3週間ほど経った頃、「一緒に日本語教会を始めませんか?」と誘われました。日本人へのアウトリーチの大きなニーズとそこへのアメリカ人教会の試みを見、また私がそこに送られてきたこともあって「今が動く時だ」と確信されてのお誘いだったそうです。こうして2023年10月からケンタッキー、レキシントンでの日本語教会開拓が始まりました。アズベリー神学校のカフェテリアにLさんたちをお招きして、ランチに集まってくる神学生たちで私がその時点で知っている限りの日本人に重荷のある人たちに声をかけ、ランチをしながら教会のビジョンを分かち合い、ネットワーキングを行いました。その中で何人かの神学生たちが興味を示してくれ、後に多くの点で尊い助けの手を差し伸べてくれました。

この開拓教会は、みんなで話し合って「いずみコミュニティチャーチ」という名前になりました。レキシントンにある南部バプテスト派で日本人駐在妻さんたち向けにESLミニストリーを長年続けてくださっている大きな教会が快く教会の中高生向けのクラスルームを貸してくださり、礼拝がスタートしました。最初はLさんご家族、求道中の駐在妻さん、そして私の6人だけの小さな集まりでしたが、UKやCentre Collegeの日本人留学生、アズベリー大学の日本にルーツや重荷のある学生たち、また駐在のご家族など、毎週神さまが人を送ってくださって、教会が始まって8ヶ月経った今は平均して30人前後が集う教会になっています。2月に行った餅つきのイベントと礼拝には、なんと近隣の日本人家族や留学生たち合わせて100人以上もの参加者もありました。10人弱、レギュラーで来てくださっている未信者の方々もおられ、とてもミッショナルな教会です。

また、UKのBobfireミニストリーで出会ってから個人的にも共にバイブルスタディを始め、EC23にも一緒に参加した日本人の交換留学生の女の子、Rさんがこの4月に私たちの教会で洗礼を受けました!彼女の洗礼式はお部屋をお借りしているアメリカ人教会のメイン礼拝の中でLさんを通して執り行われました。これはいずみコミュニティチャーチにとっての最初の洗礼式でしたが、長年日本人のためにESLミニストリーを続けてきたこのアメリカ人教会にとっても初めての日本人の洗礼式で、礼拝堂は大きな大きな天の喜びで満たされていました。RさんはEC23に参加したあと、積極的にBonfireでも私たちの教会でも賛美チームに入って賛美のリードをしてくれるようになったり、UKの他の交換留学生たちに一生懸命神さまのことを分かち合ったり、周りの留学生たちのことを想いやったり、本当にさらに生き生きとしたキリスト者の姿に変えられていきました。彼女の洗礼式や喜びに溢れていく姿を見て、いずみコミュニティに通ってくださっている求道中の40代の男性の方が、「自分もそろそろ洗礼について真剣に考えたい」とRさんに伝えにきてくれたと聞きました。キリストによって変えられていく彼女の姿は未信者の方々だけでなく私たち「種を蒔く者」にとっても本当に大きな励まし、慰め、希望でした。Rさんは5月の頭に日本に本帰国し関西方面で信仰生活を始めています。関西にいる私が信頼する姉妹たちに繋いではいますが、どうぞこれからのRさんの信仰の歩みと、またご家族の救いのためにお祈りいただけると幸いです。

このようにして、一度お返しした日本人伝道への思いを神さまはケンタッキーの地でさらに私の愛知県出身という出生までもが生かされるような形で聞き届けてくださいました。またアズベリー神学校のカウンセリング修士も、全米の神学校で5校しかないカウンセリング認定を受けているプログラムで、以前いた神学校よりもさらに良い環境とカリキュラムの中で学べることになりました。学費や寮費が支払えるか分からない中でケンタッキーへ来ましたが、到着して数日後に学費はほぼ全額卒業するまで奨学金が与えられること、寮費もNYCにいた頃の一ヶ月分の家賃で一学期住めることがわかり、アドナイ・イルエ=「備えの主」の養いの業と恵の大きさに心がいっぱいで賛美の思いで溢れました。ウィルモアの小さな田舎町もとてもあたたかいコミュニティと美しい牧歌的風景の広がる素晴らしい場所で、NYCという都会の喧騒に当てられてすり減っていた私の心と魂を癒し潤してくれるようでした。NYCでの日本人伝道のニーズは未だとても大きく、私も引き続きそのためにお祈りしていますが、現在IPPUKU(私が携わっていたISIの日本人留学生ミニストリー)の元スタッフがもう一度活動を再開させようといろんな方たちに連絡を取り、また私もオンラインでミーティングを重ねたりしています。ぜひこの霊的な砂漠地帯であるNYCでの日本人ミニストリーのため、共にお祈りください。

あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。” イザヤ書 43章2節

神さまと歩む道は平坦な道とは約束はされていません。水の中や火の中を通ることもありますが、この聖書の箇所でそれらが私たちに致命的なダメージを与えることはないよう神さまの守りの手がいつも共にあることが約束されています。私もこの激動の一年を振り返る時に、常に神さまの慰めと支えの手があったこと、いつでも必要な安息の時を主は備えていてくださったこと、そして神さまの御計画がいつでもベストプランであることを体験しました。これからも神さまの養いの手を取り、キリストだけを握って導かれるところどこにでも主の道を見出したいと思います。お祈りやあらゆる形での多くの方の支援にも心から感謝しつつ。

「主の柱が動く時」

昨年の7月1日、2年間在籍していたマンハッタンにある神学校の大学院からメールがありました。

「来月末(8月末)で学校がなくなります。」

突然、なんの前触れもなく知らされたニュースに初めは頭が追いつかず、ただ、「神さまはまた何か企んでおられるな…」という予感だけがありました。学校閉鎖のアナウンスから学校が実際閉鎖されるまで2ヶ月もないというありえない状況の中で、悠長に悩んだり決断したりする間も許されない中で、ただ神さまの声のする方に向かって進むというシンプルだけれども究極の信仰の試練に突然飛び込むことになりました。

そのうち、学校からこれまで取得した単位を移行できる全米の提携神学校のリストが届きました。ただ、私の在籍していたプログラムは神学修士ではなくカウンセリング修士だったので、他の神学生たちに比べて神学校でカウンセリングの修士が取れる提携校は限られ、結局マサチューセッツかケンタッキーにある神学校の2択だけでした。通常、大学院受験は教授や(神学校であれば)牧師からの推薦状を数枚、学校側から出されるテーマに沿ったエッセイ、あらゆる出願手続き、そして面接などの過程を何ヶ月もかけて行います。それを数週間もない期間で全部済ませなければならないなんて…と気を失いそうになりました。もう全部諦めて日本にすっ飛んで帰りたい気持ちもありました。それでも、これだけ激しい大嵐のチャレンジに私を招いた神さまだから、何か私には想像も出来ないような計画をお持ちに違いない、と感じました。また、心配した知人から電話がかかってきて、「ガリラヤ湖で弟子たちと大嵐に会った時、キリストは枕して休んでおられたから、神さまは大嵐の只中にあっても日和ちゃんにきちんと休息も与えてくださるから、大丈夫。」と祈りと共に励ましてくれました。「この嵐をあなたと共に通ります、でも通るからには神さま私を養って、祝福してください!」と祈りました。

そこから大急ぎで2択に絞られた神学校の両方にコンタクトを取り始めました。するとすぐにケンタッキーの方の提携校、アズベリー神学校から連絡が帰って来ました。この私の置かれた異例の事態に理解を持ってくださり、急ピッチで出願手続きをサポートしてくれました。このアズベリー神学校はケンタッキーの小さな田舎町にある神学校で、ジョン・ウェスレー(18世紀の神学者)の教えを土台とした福音派、ウェスレー・ホーリネスの流れを汲んだ神学校です。正直私には昨年まで全くと言って良いほど面識のない神学校でした。昨年の2月、この神学校の併設大学であるアズベリー大学でリバイバル(現地の人たちはへり下りの意味を込めてOutpouringと呼んでいます)という聖霊が力強く働いて信仰が大規模に覚醒するという出来事があり、そのニュースを私もSNSを通して見てとても励まされました。それ以降いつか訪ねてみたいと思っていた矢先に出願してみるということになり、自分でも驚いていました。

アズベリー神学校との出願・受験手続きは驚くほどスムーズに進みました。私のミニストリーでのメンターたちも超多忙なスケジュールの合間をぬって推薦状を速やかに送ってくださり、教会の青年も仕事のあと明け方近くまでかけて私のエッセイの英語を添削してくれ、また多くの方の背後の祈りに支えられて、出願から面接・合格通知まで10日足らずで終わってしまいました。こうして、今御霊が力強く働いているアズベリー神学校への道が急に開かれました。

ただ、留学生ビザの制限があり、住んでいたNYCからオンラインでケンタッキー州の神学校であるアズベリーの授業を受講することは許されず、私はどうしても残りの1ヶ月も満たない短期間で留学生用の在留書類発行など含めた一通りの入学・転校手続きをし、そして8月後半から始まる新学期までにケンタッキーのキャンパスに引っ越しも完了しなければいけないという、とても無理難題なスケジュールに思えました。もし秋学期が始まる9月までにキャンパスへ行くことができなければ、諦めて日本に帰国し、一からまた留学の準備を始めなければならないという大きなプレッシャーもありました。しかもこの時点では学費や寮費を払える見込みも立っておらず、何もかもが未知でした。

一方、マサチューセッツの神学校はNYからも比較的近くまたアクセスもいいので、大好きなNJの教会やNYCのミニストリーチームにも頻繁に戻って来られそうで、転校するとすればこちらの学校の方が理にかなってるように思えました。しかし、なぜかこちらの学校からは最初に問い合わせのメールを送って以降音沙汰が一切なく、返事を待っているうちにあれよあれよという間にアズベリー神学校への合格が決まってしまいました。アズベリーからの合格通知が届いたくらいのタイミングでようやくマサチューセッツの神学校からもメールがありましたが、それによると、私に何回もメールを送ってコンタクトを取ろうとしていたけれども全然私に連絡がつかなかったとのこと。私も何回もスパムメールなども入念に確認してメールを何回か送りましたが返信メールは見当たらず、本当に謎でした。でも、この時点ですでにそちらの学校は最終の面接期間を終えてしまっていました。私の状況の緊急性を加味して、特別に私のためだけに面接の機会を作ってあげるよとオファーもしてくださいました。しかし、その時なぜ神さまはアズベリーとのやりとりを驚くほど早くスムーズに進めて、もう一つの学校との連絡を止めておられたのだろうと思い巡らしました。論理的に考えたら、こんなギリギリのタイミングでこれまで7年過ごしたコミュニティ近くの神学校ではない遠いケンタッキーの地に、誰も何も知らない場所に行くことは無謀で筋が通っていないようにも感じました。ですが、その時私の中に浮かんだのは、出エジプトのこの場面でした。

主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。” 出エジプト記 13章21節

イスラエルの子らは、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで旅立たなかった。” 出エジプト記 40章36~37節

イスラエルの民たちは、雲と火の柱が動けば動き、止まればその場に留まり、そうして40年間荒野を旅し続けました。その柱がいつ動くのか、民たちは知りませんでした。もしかしたら、夕食の準備をしかけていたのに柱が動いたから急に荷造りをして移動しなければいけない、なんてこともあったかもしれません。神さまのタイミングは、必ずしも私たちが思うベストタイミングであるわけではなく、また私たちが準備できているかどうかに限らず神さまが進む時は私たちも進む。そして何より、神さまがその荒野の旅路にいつも寄り添い、私たちの必要をマナによって常に満たし、行くべきところへ導いてくださる。そのようなイスラエルの民たちの荒野での日々を思った時、今私の目の前の柱も動いて、それはケンタッキーの地へ向かっているのだと感じました。大好きなNJの教会の主にある家族のみなさん、重荷を持って全力投球してきたNYCでの日本人伝道、そして素晴らしいミニストリーチームやメンター、そんなみなさんとの突然の別れとミニストリーを手放すことがとても辛く、ケンタッキー行きを決断してから2日間ほどは泣き腫らしましたが、2日間たくさん泣いてからは心を決めいろんなものを手放して神さまの養いの手だけを握って、7年過ごしたNYの地を去るための準備を始めました。

ケンタッキー行きを決めてから実際に引っ越すまでの1ヶ月弱の期間は怒涛の日々でした。お世話になった多くの方々やミニストリーで出会った学生さんたちとお別れの挨拶をして、引っ越しの準備をして、教会のキッズキャンプを手伝って、転校に必要な書類を集めたり提出したりして、送り出しの祈りを浴び、とても濃厚な時間でした。そうして8月末、5つのダンボール箱と3つのスーツケースでケンタッキー州レキシントン郊外のウィルモアという小さな町に引っ越しました。レキシントンの空港についた時、アズベリーからお迎えのボランティアがあり、博士課程にいるインドからの留学生でヘプセバさんという方が私を空港で出迎えてくれました。このヘプセバ(Hephzibah)はイザヤ書62章4節に出てくるヘブライ語で、「わたし(神)の喜びは彼女(この文脈では女性名詞化された神の民、イスラエル)にある」という意味です。実は私がNYCで最後に長期レジデントとして住んでいたクリスチャンゲストハウスの名前もHephzibah Houseで、NYのヘプセバからKYのヘプセバへ託されたような不思議な出会いでした。そのヘブライ語の意味のように、神さまがこのユニークな方法で「わたしはあなたを喜んでいるよ」と愛を伝え、ケンタッキーに歓迎してくれているように感じました。

あなたはもう、「見捨てられた」と言われず、あなたの土地は「荒れ果てている」とは言われない。かえって、あなたは「わたしの喜びは彼女にある」と呼ばれ、あなたの国は「夫のある国」と呼ばれる。それは、主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。” イザヤ書 62章4節 

Hephzebah Houseで過ごしたNYC最後の2ヶ月間、大嵐のような日々を送る中で神様は何度も私に「あなたはわたしの喜びの花嫁、あなたはわたしの愛する娘」ということを伝えてくださいました。Hephzibah Houseの壁にこのイザヤの言葉が書かれていて、毎日それを見る度に試練の中で神様の愛が拠り所となり、次の人生の通過地点へ行くための備えの期間となったと今振り返ります。こうして7年間のNYでの生活を終え、KYでの新たな歩みが始まりました。

(9月号に続く)

「日本での新生活の意味・主のご計画を尋ねる」

私たち家族は、この3月に日本に本帰国しました。駐在に終わりが来ることは分かっていましたが、子供たちにとって「日本は遊びに行くところ」であったため日本での新生活への不安は隠しきれていなかったと思います。

帰国して数か月がたった今、フェイスブックを眺めると、夏休み入りしたアメリカの皆さんの投稿が目に飛び込んできて、楽しかった思い出が蘇ってきます。庭でのBBQ・ハンバーガー、海や公園、礼拝堂・ジムでの愛餐会、そしてマンハッタンの喧騒。まだ五感で思い出せるので、あたかも日本に一時帰国しているような気持ちにすらなります。

アメリカでの生活・経験を総括するには日が浅いものの、良い信仰の輪(教会)に加えられこと、大きな怪我、病気、事件に見舞われることが無かったことに感謝しています。しかし、何よりも妻の受洗、そして新たな命が家族に与えられたことは私が渡米した当時の期待をはるかに超える祝福でした。主のご計画が人智をはるかに超えたものであることを経験することが出来たと思います。

この半年を振り返ったとき、転勤に伴うドタバタ(5人家族の引越・家探し、仕事の引継、子どもたちの転校)だけでも大変ですが、子どもの高校受験と私の大学院の受験をこなさなければならず、「走りながら考える」とはまさにこのことだと感じる毎日を過ごしました。これだけ多くの出来事を同時並行的に進められたのは、家族が実質的な司令塔と仰ぐ妻の段取り力に他なりません。整然とした新居でコーヒー片手にホッとするとき、神様が妻の健康を守って下さったことに感謝せずにはいられません。

「えっ!これから大学院に?何故?」と質問された時に、5分も10分も使って経緯を説明するわけにもいかず簡潔な受け答えをしてきましたが、祈り求めていた進学にいたった経緯をご紹介します。

経営大学院に初めて興味を持ったのは20代の後半でした。不景気が普通の状態である学生時代を過ごし、少し上向いたと思ったらリーマンショックに見舞われ、漠然とした不安感を持っていました。思い描いたような仕事(=海外駐在)も出来ず焦りがありました。ニッチな領域の手に職的な仕事をしてきたため、経営大学院って意味があるのだろうか?手に職の方がいいのでは?決して勉強自体が好きな性分ではなく、大学時代の成績も褒められたものではなかったため、何となく気になりながらも自分に言い聞かせるように目の前の仕事と家族に集中してきました。

念願叶ってアメリカに来た当初は日本で担当していた業務領域をアメリカで担当するスペシャリスト的な仕事が与えられました。しかし、駐在の後半には経営陣を補佐する仕事が与えられ、尊敬する同僚の視野の広さ、思考の深さに魅了され、体系的にビジネスを学ぶ意欲が掻き立てられました。

一時帰国の際に学校訪問し目的と手段(進学)にズレがないかを確認したり、費用対効果を検証した上で、テスト対策・願書づくりの日々が6月から始まりました。受験は2回(年)までと決めていたため「ご計画ですよね。信じます。先取して感謝します。」と祈る日々が続きます。11月には受験のために弾丸で一時帰国し、2月には長男と一緒に3週間滞在し、長男の高校受験の傍ら、私も受験に臨みました。そして無事に合格を頂き、4月から会社員、夫・父、学生という三足の草鞋を履く生活を送るチャンスを得ました。仕事においても海外子会社を再編するプロジェクトを任され、大学院での学びを実践で活かせる役割を得られました。

今は日本での生活にもすっかり慣れましたが、片道1時間、電車に揺られて通勤・通学する毎日は案外苦痛ではなく、むしろ課題・自習の貴重な時間で座席に座ることは許されません(寝てしまいます)。自分のキャリア、家族の経済的な自由を目的に進学したことは偽らざる本音なので、一日の働きを終え寝床に入る時、「この道は神様が与えて下さったが、なぜ与えられたのか。キリスト者としての私は期待されているのか。両立が難しくて困難に至るような計画ではないですよね。試練は与えないでください。」と神様に聴きながら、気が付くと朝を迎えます。

“主は言われる、わたしがあなた方に対して抱いている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。”
エレミヤ書29章11節

一切が益となる計画を神様は用意してくださっています。主に感謝しつつ、私が御心から逸れず常に主を仰いでいられるようお祈りください。

私は教会で育ったからクリスチャンなのか? 〜生態学を通して信仰の自立を考える〜

1.はじめに

2024年5月に大学を卒業いたしました。中高生時代に体調を崩していたので、親元を離れてのアトランタでの大学生活にご心配をおかけしましたが、多くの方にお祈りしていただき支えられましたことに感謝しています。さまざまな壁にぶつかりながらも、充実した日々を過ごすことができました。

大学での4年間を振り返ると、自分で言うのもおこがましいですが、学業と信仰が互いに影響し合いながら大きく成長できたように思います。生態学を学ぶ中で、またクリスチャンとしてのアイデンティティが芽生えたこの期間を通じて神様の恵みを深く実感したので、そのことをお証しさせていただきます。


2. 幼少期と信仰の始まり

ニュージャージーで生まれ育った私にとって、平日は英語の現地校、土曜日は日本語学校、日曜日は教会という生活が幼少期から高校卒業するまで「当たり前」でした。母がクリスチャンなので、物心がつく前から地元の英語教会やニュージャージー日本語キリスト教会に通い、教会学校やジョイジョイシンガーズ、ジョイジョイキッズクラブ、ジョイジョイキャンプなどに参加していたので、自分が神様に愛されていることを耳にタコができるほど聞いていて、知っていました。

最初は母に教会に連れて行かれていましたが、小学1年生の時に神様の子どもになりたいと自ら願い、洗礼を受けました。中高生になると、教会のミニストリーを手伝うようになり、少しずつスタッフとしての役割を担うようになりました。礼拝では和英通訳をするなど、さまざまな奉仕に加わる機会に恵まれました。英語と日本語を活かしながら礼拝のために、教会キッズのために、教会のご奉仕をするのは純粋に楽しかったのを覚えています。当時、私が発案した工作の企画や賛美動画の活動を教会の大人やユースの仲間が喜んで応援してくださったことによって、私の与えられた賜物が用いられていると感じ、教会生活やご奉仕に積極的にになれたのだと思います。 


3. アトランタでの大学生活

COVIDで最初の1年リモート授業を余儀なくされましたが、2年目の夏から大学進学のために親元を離れてアトランタでの生活が始まりました。リベラルアーツの小さい女子大だったので、理系文系問わず興味のある分野を少人数の授業で受けることができました。脳科学専攻の一方、ジャーナリズム・公衆衛生学・化学を副専攻として学び、生態学の部活の部長を務めたり、昆虫を用いた微生物の研究をしたりなど、いつしかスケジュールの詰まった大学生活を送っていました。

教会に行くかどうかを自分で決めるようになり、毎週アトランタ日本語バプテスト教会に通いました。新しい教会生活のスタートでしたが、ニュージャージーの教会もアトランタの教会も、同じ神様を礼拝する場であり、主のもとに帰る場所であり、神の家族と会える場所だと感じました。大学から離れて数時間、日本語でメッセージを聞ける、教会の皆様と交われる環境に身を置くことができ、徐々に教会が心の拠り所となりました。

アトランタの教会では、礼拝の賛美チームに参加したり、教会学校で祈り課題を共有したり、月に一度の愛餐会で共に食事をしたりしました。また、礼拝後にはキッズとお絵描きをしたり、本を読んだり、宿題を手伝ったりする時間を過ごしました。教会の外でもご自宅に招いていただいたり、キッズとザリガニやイモリを探しに行くこともありました。

たとえ寝不足でも、試験に追われていても、日曜日の朝は教会に行こうと思えたのは、信仰の支えがあったからこそです。1週間大学でヘトヘトになって教会へ駆け込み、主のもとで憩い、力をいただいてまた出ていく、1週間がんばれるというふうに、学業と信仰が互いに影響し合い、私の生活を支え、大きく成長させてくれたように思います。


4. 信仰に対する葛藤と挑戦

同時に、信仰に対する葛藤も感じるようになりました。アトランタで出会ったアメリカ人や日本人の友達に、自分の信じている神様についてうまく説明できず、悔しく情けない気持ちになることが何度もありました。礼拝に来てもらっても、主の祈りを唱和した時に「今のはカルトっぽくなかったかな?」と心配することもありました。

大学では、私が教会に通っているクリスチャンだと知っている人はいるものの、聞かれなければわざわざは言わないようにしていました。私の大学は非常にリベラルな校風で、キャンセルカルチャーが激しいと感じていたため、学問で不自由を感じないために、私は必要でない情報は無闇に言わないスタンスを取っていたのです。

例えば、クリスチャンのキャンパスミニストリーがLGBTQに関する声明を出すよう学生から求められ、保守的すぎる、寛容でないと大学のコミュニティーから追い出されるということがありました。このような環境で、自分の信仰をどう表現するか、どのように維持するかについて多くの葛藤を感じていました。


5. 信仰と学問の共生

生物学の研究を進める中で、神様の偉大さを感じました。例えば、昆虫が特定の微生物と共生することによって得られる利益や、生態系全体におけるその役割を理解することで、神様の計画の緻密さと精巧さに感嘆しました。

しかし、これらの分野に関する知識が深まるにつれて、疑問も増えました。例えば、遺伝子操作の発展は生命の神秘を解明する一方で、倫理的な問題も引き起こす可能性があります。進化学においては、自然選択や突然変異のメカニズムを理解することで、神様が創造された生命の多様性の素晴らしさを解明できる一方、クリスチャンとして進化論と創造論の間で揺すぶられることもありました。

こうした疑問に直面する中で、神様が与えてくださった知識と技術をどのように使うべきか、クリスチャンとしてこの道の研究者として進んでいく場合どうあるべきかについて考えるようになりました。科学の進展を通じて神様の偉大さを証しする一方で、倫理的な問題に対しても慎重に対応することが求められるからです。これは大きな挑戦です。大学院進学に際し、この道を突き進むことが正しいことなのか神様に喜んでいただけることなのかと、大いに悩んだ部分でもあります。けれども今は、信仰と学問の両立についてさらに多くを学び、クリスチャン研究者としての自分の立ち位置を再確認しながら歩んでいこう、と思わされています。


7. 神様を受け入れる選択

生態学では、最初に定着した種がその後の生態系に大きな影響を与えることを「先住効果(Priority Effect)」と呼びます。複数の生物種が新しい環境に導入される際、どの種が最初に到着するか、その数や環境への適応度の違いによって、それぞれの生物種の成長能力や最終的なコミュニティーの構成が変わります。
私の信仰も、まさにこの先住効果のようだと感じます。母が私を毎週教会に連れて行き、様々な教会の集まりに参加させてくれたことで、私の信仰の基盤が築かれました。この最初のエクスポージャーがなければ、私の信仰は異なるものになっていたかもしれません。大学生活を通じて、私は自分の信仰が、母や育った環境からの影響だけでなく、私自身の選択によるものであることに気づきました。

最初に与えられた信仰の環境が、神様と共に歩み続けたいという私の意志によってさらに強固なものとなりました。このようにして、信仰は単なる環境による「エクスポージャー(exposure)」だけでなく、私自身の「選択(selection)」によっても形成されていったのです。

時折クリスチャンでない生き方に揺れ動き、教会から離れそうになりましたが、聖霊様による信仰生活の免疫(Immunity)に守られているのだと思います。最初に形成された信仰が成長し、大学生活を通じてさらに深く「定着(establishment)」したと感じています。

学業と信仰の両面を通して、私は信仰生活が自分にとってどれほど重要であり、それが私の人生にどれほど深く根付いているかを実感しました。このプロセスを通じて、信仰が私自身の意思と神様との関係に基づいていることを確信しています。これからも、神様の導きと共に成長し続けていきたいと思います。


8. 結論

私は、クリスチャン家庭で育ったからではなく、自らの意思で神様を受け入れました。まだ弱さや葛藤はありますが、これからも神様の愛に満たされ、神様のご臨在の中で生き生きとした信仰生活を送りたいと祈っています。

   『雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、
  地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、
  種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。』 <イザヤ書 55:10>

「想像を超えた神様のご計画」

お証の機会に感謝します。

私は、昨年5月に組織改編によるリストラの為、18年間勤めた会社を退職することになりました。ある朝オフィスで働いている時に、突然上司から会議室へ呼び出され、あなたのポジションを無くすことになったと通告されました。そこからは、自分のデスクに戻ることも許されず、終わりのないバケーションに突入する事態となりました。

組織を司る部署に所属し、会社の方向性も熟知していましたので、それが自分に起こり得ることも承知していましたが、実際にそれを経験すると、かなりの衝撃でした。

この話を聞いた、教会のHさんは、『神様のされることは、ベターかベストしかないからね。』と言ってくれましたし、一緒にスモールグループ(聖書の分かち合いと祈りの時)をやっているKさんは、『神様がすることはベストしかないよ。』と言ってくれました。 それぞれの励ましを聞きながら、本当に心からそう思える日が来たらいいな、果たして来るだろうかと、ただ思うばかりでした。 また急に時間が出来た為、一体どうしてこのようなことになったのだろうかと考え始めました。

今後、再就職して新しい会社に行く場合、ほぼ一年は纏まった休暇を取れなくなると思い、5月後半には息子と一緒に里帰りをすることにしました。その結果COVID以来、久しぶりに日本の家族に会うことが出来、少し前に帰国されたNTさんや、NSさん・Kさんご夫妻にもお会いしました。

日本の母は4年ほど前から認知症患者用施設に入居していますが、前回会った時と比べて、だいぶ足腰が弱っていました。 また私と自分の妹の名前を混乱して呼んだりし、母に残された時間が多くないことを感じました。 母に早くイエス様の救いを受け入れてもらい、天国の切符を受け取ってもらわないとと焦る思いで、面会に行った時、母と二人だけで話をしたいと施設にお願いし、その時間を作っていただきました。

母に、イエス様が私たちの罪の為に十字架で死んだこと、イエス様が墓に葬むられて、三日目によみがえったこと、このことを信じるものは神様の子として、死んだあとも天国へ行って、永遠の命がもらえる。お母さんもイエス様を信じようね、と手を握って話ました。 それを聞き、母は、それはありがたいね、と応答しました。そう、だから一緒にイエス様を信じるお祈りをしよう、私は祈りを導き、イエス様、私たちの罪を赦す為に死んでくれて有難うございます。お母さんはイエス様を救い主として、感謝して受け入れます。 神様のこどもとして、これからの歩みもイエス様が助けて下さい。アーメン。母もアーメンと応答しました。 簡単でつたない信仰告白のお祈りでしたが、イエス様が聞いて下さったと信じます。

もっと若く、頭がしっかりしていた時は、教会に連れて行っても、説教の時間に居眠りをしているような母でしたが、今は疑問を呈する力もなく、福音を受け入れることが出来る柔らかい心になっていました。 私は、この為にこの時期里帰りすることが出来たのだと思い、心から神様に感謝しました。

一方で、日本から戻った後は、弁護士を通じて、会社と退職条件の交渉を行う必要があり、それを考えるだけで気が重く、以前のように心から里帰りを楽しむことは出来ませんでした。

こちらに戻ってからは、経済面以上に、周りの人たちに別れを告げる機会もなく、職場を去ったことからくる心痛や、これからどうすれば良いのかという漠然とした不安が残りました。 時差ぼけの時期が過ぎても、なかなか寝付けず、不眠症となり、体重は急激に落ち、いつも疲れて体調や気分が悪く、何もしたくない時が長く続きました。

毎週持っているスモールグループでは、AさんやKさんが常に励ましのお祈りをしてくれました。一緒にNY礼拝を捧げているYさんや、以前教会に来ていたMさんやFさんなどが家に来てくれて、交わりや祈りを通して励ましを与えてくれました。MHさんも、私が不眠症で悩んでいると聞き、カウンセリングをしてくれました。本当に神様は必要な時に、必要な祈り手と助け人を与えて下さるお方です。

人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる。(箴言5:21) という聖書の言葉をいつもデスクの前に置いていました。 私の知らないうちに神様が心を砕いて下さっている、このことを思うたびに涙が出てきました。

体調不良が続く中、求職活動はとても難しいように思えました。 また以前の職場や、他で経験した様々なことから、私は強い年齢コンプレックスとも戦っていました。 神様は必ず必要を満たして下さるし、神様の方法でことを為して、ご栄光を現わして下さると、スモールグループで励ましてもらっていましたし、私自身もそう信じていましたが、恐れを取り除くことが難しかった事実を告白せずにはいられません。

夏が終わるころには、何とか就活を再開し、いくつかの会社に面接へ行きました。 その結果、半年の失業保険給付が終わろうとする10月の終わりに、神様はある会計事務所とそのクライアント企業での仕事を与えて下さいました。 ただ、その時も面接や、仕事の初日に雇用主や人々に年齢を知られることを恐れていました。

再就職先では、2つの会社を掛け持ちしながら、フルタイムで働く条件で入社しました。最初は大変で、夜も週末も独学での学びを続けました。やがて次第に慣れてくると、仕事が楽しくなっていき、ここで数年働いてリタイヤしても良いかもと思うようになりました。 ところが、入社して1か月半ほど経った頃、突然勤務時間を40時間から35時間にして欲しいと言われました。 それを承諾しましたが、その後も徐々に業務量が減っていき、1月に入ってからは、翌日仕事があるかどうか分からないような状況になりました。SGでも、明日仕事があるように祈って下さい、というお祈りをお願いするようになりました。 しかし、状況が改善することはなく、そこで働き続けることは困難に思えました。

あなたは私の報酬を何度も変えました、とヤコブが叔父のラバンに言った言葉が頭に浮かび、神様に叫びました。あなたはこの状況をご覧になっていますね。神様、何とかしてください。私が今までやってきたことを活かせる別の機会を与えて下さい、と私は神様に泣いて叫んで祈りました。

そして、その直後のことです。確か翌日だったと思いますが、就職サイトIndeedでNew Jerseyにある会社のポジションを見つけました。 ある日系のJob Agencyが掲載していたもので、Just Postedとありました。長年勤めていた以前の会社の同業他社で、その内容を見て心に感じるものがあり、すぐに応募しました。

しかし、先方からは何の連絡もありませんでした。 約一週間して、そのAgentから漸く連絡がありましたが、なんと私が応募したポジションではなく、マンハッタンでの別のポジションに興味はないかとの問い合わせでした。 私はその会社への応募もお願いしつつ、その前週にIndeed経由応募したNJのポジションがあることを先方に伝えました。 その方は、NJでの仕事は12月から出ており、もうクローズになっていると思う、でもまだ履歴書を受けてもらえるか聞いてみると言って、その会社にも私の履歴書を送ってくれました。

その結果、2月初めにはこれら2つの会社に面接に行くことになりました。 勤務していた会計事務所での仕事がスローであった為、面接準備や祈りに十分時間を取ることが出来ました。

後日私が入社することになったNJの会社では、面接官の方が実家で不幸があり帰国していた為、採用活動がひと時中断されていた、その間に私の履歴書が届き、タイミング的には良かったと言って下さいました。 ただその面接で受けた印象は、可もなく不可もなくといった感じでした。 一方、もう一つのマンハッタンの会社では、第一面接の時より、是非来て欲しいという雰囲気が漂っていて、こちらに決まるのではないかという感じがしました。

しかし、感謝なことにその翌週には両方の会社からオファーをいただき、どちらかを選ばないといけないという状況になりました。 条件的にはほぼ同じでしたが、祈りの中で、安き道を選ぶのではなく、狭い門から入りなさい、というみ言葉が心に響きました。 通勤に片道70分、コーポレート業務全般を総括する相当チャレンジングなポジションでしたが、こちらの会社に行く決断をしました。 神様が安きなところでsettleするのではなく、更にチャレンジして人として成長するように促しているように思えたからです。

こういった経緯で、2月後半からJersey Cityにある会社に再々就職することになりました。前任者が2月末日で退職する為、引継ぎは4日しかありませんでしたが、親切な方が備えられており、出来る限り教えて下さいました。 これも祈ってきた結果です。 それから約二か月経った現在も、分からないことばかりで、仕事をこなす為の知恵が与えられるよう、助け人が備えられるようにと祈らない日はありません。

人生を歩んでいく中で、どこかであなたはもう要らないと言われることがあるかもしれません。 年齢を重ね、人の目には、また常識的にも可能性がないと思える状況に遭遇するかもしれません。 でも神様は常に憐みを注いて下さっていて、主のみ名を呼び求めるものに対して、不可能なことは何ひとつない神様の方法を以って、私にも憐みを示して下さいました。

最近、更に神様から語られたことがありました。『私が与えてきたものが、私より大切なものになっていないか? あなた自身のすべてを私に捧げなさい。』と。 神様が与えて下さった仕事が偶像にならないようにと悔い改めて、握っていた手を神様の前で開きました。神様が与えて下さっているもの、私自身の命、時間、信念、仕事、その他多くのものを神様の前にお捧げする祈りをしました。その時に心にすっと平安が与えられました。

わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。 (へブル12:5-7

2024年春のレント集会において、ここに書いた内容でお証をしました。 後日に至っても、証のビデオを見ました、と励ましのご連絡をいくつかいただきました。 これを通しても、証をするものが一番の恵みを受けることを今回も経験させていただきました。

感謝しつつ、すべてのご栄光を主にお返しします。

「証し」

私と妻はニュージャージー生活に一区切りをつけ、2024年3月に日本に帰国しました。5年半に及ぶニュージャージー生活のなかで、私が神様から頂いた愛と試練についての3つの出来事を振り返り、お証したいと思います。

1つ目の思い出は、2018年10月にニュージャージーに参りましてから、仕事の引継と生活の立ち上げが一段落したところでニューヨーク男声合唱団の門を叩いたことです。学生時代に打ち込んでいた男声合唱ですが、就職して以後、なかなか取り組む機会に恵まれていませんでした。
2015年1月にシンガポールでのベートーベンの第9演奏会、そして2017年12月のことになりますが、モーツアルトの命日にウィーンのシュテファン教会で「レクイエム」を歌うという企画旅行があり、それらの練習から徐々に自分の持ち時間を合唱へと取り分けるようになりました。
これらに続き2019年2月に予定されていたブラームスの「ドイツ・レクイエム」の演奏会にオンステージすべく練習を始めました。ところが急なニュージャージー転勤の話が舞い込んだことから途中で断念せざるを得ませんでした。この時の思いが、自分としては着任早々に男声合唱の門を叩いた動機となりました。
しかし20年前のロサンゼルス勤務時と同様、どうもアメリカの空気質が合わないのか、アレルギー性副鼻腔炎が悪化。ポリープ除去の手術を2019年5月に行い、更に注射による減感作療法を2年間に亘り行いました。結局これは今もなお完治せず、以前のように声が出せなくなってしまいましたが、なんとか定期演奏会に4回も乗ることが出来ました。この間、指揮者の山内竜二さんを始め多くの新しい友と知り合う機会ができ、これから先の人生においても自分には男声合唱の活動はどんな試練が有っても続けていくべきだと、神様からのお導きがあったと思っています。

2つ目の思い出ですが、2021年6月6日の私の洗礼記念日です。受洗の決意に至るきっかけは錦織学先生とバイブルおばさんとの出会いを神様が作ってくださったからに他なりません。もともと父方の親戚は全てクリスチャンというクリスチャンファミリーに生まれたものの、親の方針で信仰を積極的には推奨されなかったこともあり、人生の最後の時に、病床で洗礼を授けてもらう「病床洗礼」を視野に入れていました。その様な私が、このニュージャージーの地でふと見たFacebookをきっかけとして、私の多くの友人と繋がりがある錦織先生を神様が引き合わせてくださったのは、今考えても奇跡としか言いようがありません。
その錦織先生とニューヨーク男声合唱団でご一緒できたこと、合唱団の指揮者の山内さんが教会で指揮棒を振られたことには二重の喜びがありました。

そして最後にですが、今般、想定していたよりも早くに帰国時期を迎えてしまった原因の試練についてお話しします。2022年9月、PSA検査という前立腺の血液検査をオプションで受けました。過去にも何度か受けましたか基準値内、しかしその時は基準値内でしたが数値の上昇傾向が見られたので半年後に再検査となりました。そして2023年3月、再検査の数値も基準内で上昇が続き、ホームドクターの勧めもあって泌尿器科医を受診しました。今思えば、オプション検査を選択したこと、意を決して専門医を受診したことは神様が背中を押してくださったからではないかと思います。
泌尿器科医はベテランの先生で触診だけで怪しいと判断され、すぐに生検(バイオプシー)の手配に入りました。実施したのは私の還暦の誕生日の翌日、2023年4月12日の事でした。2週間後には「中程度リスクの前立腺がん」という所見で「まだ若いのでロボット手術による全摘出」を推奨され、実際に執刀するマウント・サイナイ病院の泌尿器科を紹介されました。その後、MRI検査を受けてのセカンドオピニオンでも結果は同じで、7月14日(金)に手術を行いました。
その後、尿失禁は完璧には収まらないものの、お陰様でその後3回のPSA血液検査では検出限界値以下、すなわち転移の兆候なしとのことです。手術後2年間は経過観察ですが、そもそも前立腺がん手術の予後10年生存率はステージ3でも99.5%なので「死なない癌」ともいわれてます。とはいうものの早期発見に越したことはなく、神様に守られたことを強く感じる日々です。
このような事が起これば、企業は当然に海外駐在員に帰国命令を出します。自分としては会社の産業医ともWeb面談を行い、帰国時期については業務優先で良いと言われ、実際のところは全く業務に支障をきたしておりません。ただ、自分のポストの前任者が過去3名も任期中に病に倒れており、部位は異なるものの2名の方が癌でお亡くなりになっていたので、帰国命令は仕方のない所ではあります。
しかし、神様。私はこのニュージャージー日本語教会の愛する兄弟姉妹、ニューヨーク男声合唱団の仲間たち、信頼できるアメリカ人の同僚や部下たちと離れ離れになってしまうことが、とても残念で、悔しくてなりません。何故ここを離れればならないのでしょうか。
日頃、食生活には十分に注意し、運動習慣もあり、家族にこの病歴の者もいないのに、どうして、このような病を私にお与えになったのでしょうか。いまでもなおどこか心の中で叫び続けております。
この病のことを家族以外へ最初に打ち明けたのは錦織先生でした。先生には余計なご心配をおかけしてしまったことを申し訳なく思っていますが、絶えずお祈りを頂けましたこと、また術後にベッドで読みました、先生の示された聖句には本当に心から救われた思いがあり感謝しております。

最も心に残った、というか最後のまさかの展開に目の前がぱっと開けた部分を最後に読みます。

ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。 そこで彼のすべての兄弟、すべての姉妹、および彼の旧知の者どもことごとく彼のもとに来て、彼と共にその家で飲み食いし、かつ主が彼にくだされたすべての災について彼をいたわり、慰め、おのおの銀一ケシタと金の輪一つを彼に贈った。 主はヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった。 また彼は男の子七人、女の子三人をもった。 彼はその第一の娘をエミマと名づけ、第二をケジアと名づけ、第三をケレン・ハップクと名づけた。 全国のうちでヨブの娘たちほど美しい女はなかった。父はその兄弟たちと同様に嗣業を彼らにも与えた。この後、ヨブは百四十年生きながらえて、その子とその孫と四代までを見た。 ヨブは年老い、日満ちて死んだ。

ヨブ記42:10−17