「911を振り返って」

ちょうど10年前の今日9月11日、忘れもしない雲ひとつない真っ青な秋空でした。私はちょうど第一機めが突っ込んだ世界貿易センターノースタワーの道を挟んで西側のワールドファイナンシャルセンターの20階、世界貿易センターに面した東向きの窓の近くの席で働いていました。
第一機目が突っ込んだとき、朝7時から働いていた私は、自分の席を離れて仕事を一緒にしていた一人のアナリストの個室にいましたが、ビルの上の階が吹っ飛んだのかと思うくらいの爆発音と激しい振動を感じました。驚いて窓をみたところ、燃えている瓦礫が滝のように降ってきていたのが見えました。これはただ事ではない。とっさにそう思いました。窓側に座っていた人達の顔が引き攣り真っ青になって“Get out!!”と叫び、一斉にみんなが非常階段に向かって走り出しました。自分のカバンを席まで取りに戻るかを一瞬考えましたが、走り出した人達のただならぬ雰囲気に圧倒され、一緒に流れに吸い込まれるように非常階段に向かいました。
非常階段から降りて外に避難したのは、私たちのビル南側のロータリーのところで、ちょうど世界貿易センターサウスタワーと同じストリート上にいました。ノースタワーからまっ黒な煙が大きく南へ流れているのが見えました。少し経って誰かが飛行機が突っ込んだらしいと言っていましたが、最初は商業用セスナ機かヘリコプターか何かだと思い、テロだとは夢にも思っていませんでした。
爆発音と同時に逃げた私たちは、何が起こったのかの事実も情報もわからないまま、ただ為す術もなくボーっと煙を見ていたのですが、そのうち何かがパラパラと落ち始めました。誰かが「あれは人だ!」と叫びました。それは紛れもなく飛び降りている人間の姿でした。信じられない光景でした。
あの人は朝、地下鉄で隣に座っていた人かもしれない。信号で止まっていたとき、前にいた人かもしれない。前を歩いていた人かもしれない。もしかしたら私が知らないだけで同じ時間に通勤してすれ違っていた人かもしれない。その人達が私となんら変わらないこと、その人を自分の生活の一部に見たように思えて見るに耐えられなくなり、ハドソンリバーの方に目を背けました。ちょうどその時対岸のNJ側で、ニューアークに行くには低い高度で飛んでいる飛行機が一機見えました。それが、後ほどマンハッタンに向きを変えサウスタワーに突っ込んだ2機目の飛行機になるとは、その時私は思いもしませんでした。
周りにいた人達は、口に手を当てながら“Oh my god!”“Oh shit!”思い思いに叫びながら見ていましたが、2機目が突っ込んだとき、サウスタワーのほぼ真下にいた私達の誰一人、声を発することができないほどの衝撃でした。一瞬の不気味なまでの静まり返った静寂、そして次の瞬間、人々は絶叫しながら南に向かって一斉に逃げ始めました。それは対岸の火事だと思っていたことが、自分の身に危険が及んでいることを感じ取った瞬間でした。かわいそう、大丈夫なの?あの人達はどうなるの?と思っていたことが、他人事ではなく、まさに今、自分に降りかかっていることなんだと認識した瞬間でした。
転ぶ人もいました、かばんを投げ捨てる人もいました。靴も散乱していました。逃げている最中は何がなんだか分かっていませんでした。しかし、ある程度南に逃げてグラウンドゼロから少し離れたところに行けば、そこはまるで何もなかったかのように穏やかなバッテリーパークシティーの住宅地域で、公園と川辺にプロムナードがあり、快晴の青空の下、暖かい日光を浴びてプロムナードの石の上に腰を下ろしていると、30分も経った頃でしょうか、落ち着きを取り戻して、明日どうやって会社に行けばいんだろう?とか、このまま家に帰ってもいいかな?とか、アパートの鍵も財布も携帯も置いてきたしどうしよう?などと呑気な事を考えていました。
その時です。ゴォーという地響きみたいな音に気づき、目を上げてみると目の前でサウスタワーは上から押し潰されるように崩壊し始めました。崩壊して行ったそのサウスタワーの80階で少しだけ私は働いていたことがありました。私はあそこに居たかもしれないと思いながら、これって本当のことですか?目の前で起こっていることが現実だとどうしても思えず、ショックで突っ立っていました。足が動きませんでした。もくもくと煙がこちらに向かって押し寄せてくるのが見えました。まるで映画のようでした。「戦場みたい。」戦争をしらない私が言うのも変ですが、何故かそう思えました。
そこに居た知らないチャイニーズアメリカンの女の子と、気がつくと手を繋いで一緒に走って逃げていました。どちらが言葉をかけたわけでもなく話した記憶もなく、たまたまそこに居合わせて、でも思うにきっと、同じ思いを無意識のうちに感じ取っていたのかもしれません。一人で逃げても二人で逃げても死ぬときは同じで状況は変わらないのですが、不思議と手のぬくもりが恐怖を和らげ、一人じゃないと感じることができて、そのぬくもりに何故か涙が出そうなほど励まされ勇気付けられました。
人間は一人では生きていけないものですね。実は2機目が突っ込む前、私はノースタワーから手を繋いで2人で飛び降りている人達を見ました。とてもショックでしたし、もし自分だったら、とは思いましたが、それでも全く自分のことのようには思えませんでした。なぜなら肉眼であっても、私は安全なところで見ていたからです。一人で飛び降りても二人で飛び降りても地面に叩きつけられて死ぬのは同じですが、その時、私はその人たちの気持ちがすこし分かったように思いました。どんなに怖かったでしょうか。2度のタワー崩壊の灰を2度被り、その後私はCNNのレスキューボートでチェルシーピアまで無事戻ってくることができました。
多分多くの方々は、リアルタイムで奇跡的に助かった生存者と、亡くなられた方々の話をニュースで聞いていらっしゃると思いますが、私が働いていた野村證券も2名の日本人の方が亡くなられました。皮肉なことにその2名の方は、NY支店で働いている方ではなく、世界貿易センターのノースタワーであるセミナーに参加するために、前日東京からこられた出張者のお二人でした。当日彼らは朝7時に私と同じフロアーでセールス、アナリストの人達と会っています。そしてその後、セミナー前に最上階にあるウィンドーアンダーザワールドに朝食を食べに行かれ亡くなられました。嫌な言い方を許されるとすれば、わざわざNYに死にに来られたとも取れるこの皮肉な運命に、なんとも納得できない気持ちでいました。普段なら居ない人がなぜか被害に遭われた。いつもなら居る人なのに、子供がぐずったから、出掛けに何かが起こったから、下にベーグルを買いに行ってたから等、偶然とは片付けられないようなエピソードを山ほど聞きました。一体これは何なのだろう?私たちには考えも及ばない何かがあるように感じてはいましたが、それは「運命」とか「宿命」とか、そういうもののように思っていました。
その当時の私は、宗教と政治、お金は切り離せないものだと思っていました。自分の宗教をリスペクトしないから相手を殺す。そういう宗教も存在していますし、日本で宗教とされる神道や仏教は、冠婚葬祭など伝統的な儀式的な意味合いが主であって、政治色の強い過激的なものは感じられず、宗教なんてそれでいんじゃないの程度に思っていました。ジョンレノンのイマジンの歌詞のように、天国や地獄がないと思えば、宗教がなければ、人は殺し合い死ぬこともない。戦争や飢餓、貧しさをなくす為に、すべての人類が国や宗教を超え兄弟として世界がひとつになることが、宗教より大切で必要なことではないだろうかと当時は思っていました。
しかし、10年経った今、その時と今の私の大きな違いは、私はクリスチャンであり、神様の存在を信じていることです。この世には、神様が本当にいるの?と思うようなことがあります。天災、戦争、テロ、虐待、いじめ、飢餓、貧困等があり、この先もなくならないでしょうし、人間の残虐さ、身勝手さを見る度に、この人のためにも神様は死んだの?と疑問を感じることもこれからもあるだろうと思います。自然の恐ろしさに何故こんな惨いことが起こるの、神様がいるのに?と何度もまた同じところに戻り、立ち止まることもあるだろうと思いますが、それでもクリスチャンになった今、私は信じない者ではなく信じる者になりたいと思っています。
聖書を学ぶようになってこの世が本番ではなくリハーサルのようなもの、この世が全てではないことを学びました。キリスト教とされる私たちが信じている神は、宗教ではなく真実であることを知りました。
何故信じる者になりたいと思うようになったかというと、それは、礼拝のメッセージを通して繰り返し繰り返し聞く神のみ言葉と、真実で正直なクリスチャンの証の中に、ただの知識や絵空事ではないものを感じ取ることができたからだと思います。
人は他人を100%理解することはできません。相手の立場に立つことも難しいです。同じものを見ても聞いても、人それぞれ感じ方も心に残るポイントもリアクションもそれぞれです。しかし、テロリストも含め亡くなった全ての人に共通していることは、その一人ひとりに生きてきたストーリーがあり、一人ひとりの思いがあり、産んでくれた母親がいて父親がいて家族友人がいること、神様から命を受けこの世に存在していたこと。正義と悪だけで単純に片付けられないひとりひとり命の重みがあったこと。を思います。生も死も私たちの理解を超えて、神のみの領域のように思えてなりません。洗礼を受けるまで多くの疑問をぶつけては、納得できないと神を信じられないと思っていた私ですが、私たちの理解や納得自体が、すごく小さなことで、私たちの理解を遥かに超えた大きなものがいっぱいあることを、自分の理解力をどれだけ過信していたのかも思うようになりました。
アブラハムのように行き先(将来)が見えなくても、ノアのように何の兆しが見えなくても、自分が何ができるわけでもなく何も変えられなくても、自分が願っていることが叶わなくても、それを超えてもっとずっと先にある、神様が用意してくださっているものを信じて、神様と共に働く者になりたいと思いました。信じること(信仰)にしか得ることができない希望を、私も持ちたいと思いました。

最後に、イマジンではなく、このマザーテレサの祈りを911と震災で亡くなられた方々と遺族に捧げます。911と震災を通して私たちがさらに神様に近づけますように、私たちが愛ある人へ導かれますように、そして、神様と共に働く者とさせていただきたいと願いを込めて、お読み致します。
『兄弟姉妹の中にあなたを』マザーテレサ
主よ、私たちの目が
兄弟姉妹の中にあなたを見出しますように。
主よ、私たちの耳が
苦しむ人々の叫びを聞き取りますように。
飢えと寒さ、恐怖と抑圧に
さいなまれる人々の嘆願を。
主よ、私たちの心が
互いに愛し合うことを学びますように
あなたが私たちを愛されたようにその同じ愛で。
主よ、あなたの“霊”を
今日も私たちにお与えください。
あなたの名において
私たちがひとつの心
ひとつの魂となれますように。アーメン。

月報2011年10月号より

「一人の人のために立ち止まる」

この夏、私はIris Relief Japanというクリスチャン伝道チームのボランティア活動に2週間参加して、3月の地震と津波で大きな被害を受けた仙台と石巻に行きました。この体験は、私の人生において最もすばらしい体験と言っても過言ではないような、驚異的なものでした。

アイリス・チームの活動は、福音を伝えることを第一としています。毎日私たちは避難所や仮設住宅に出かけたり、仙台の街を歩き回って、多くの人々と話をして、傍らに座って話を聞き、祈り、御言葉を語り、時には癒しや奇跡も行いました。私達は聖霊に完全に覆われて、神様は常に私達の行動の中心にいてくださいました。

この2週間の間とても多くのすばらしい出来事が起こりましたが、その中から仙台の路上で伝道中に出会った一人の男性についてお証ししたいと思います。私達は2回、夜中の仙台の繁華街を歩き、酔っぱらいや売春婦達に伝道しました。少し怖い経験でしたが、2週間の体験の中で一番心に残るものになりました。

2回目に夜の繁華街に出ていった時のことです。私のチームが裏道に入ってパチンコ店の横を通り過ぎた時、メンバーのうち二人がそのパチンコ店に入るように神様から語られるのを感じました。正直なところ、私は怖くて中に入りたくありませんでしたが、通訳をしなくてはならないので、仕方なく彼らについて中に入って行きました。パチンコ店に入るのは初めてで、そこはまるで地獄のような情景でした。ずらりと並んだパチンコ台の前で、人々は催眠術にかかったかのようにスクリーンに見入っている。スクリーンには怪物や燃えたぎる炎などが次々と映し出される。そして凄まじい音!小さな金属の玉が機械からジャラジャラと流れでて、タバコの煙と体臭が混じってひどい悪臭が充満していました。

それでも私達は神様に「誰に話しかければいいのですか?」と問いかけながら進んで行きました。ぐるっと一周して入口近くに戻ってくると、そばに漫画が並んだ本棚があり、その横のソファーで一人の男の人が漫画を手に座ったまま眠っていました。私達が彼を見ていると、急にその手から漫画が落ちて彼は目を覚ましました。今から思えば、あれはきっと「この人に語りかけなさい」という神様からのGOサインだったのでしょう。

その人は、津波で自宅が全壊してしまい、自宅付近の避難所で2ヶ月生活した後、生活を立て直そうと仙台市内に出てきたのだそうです。私達が訪れた頃、仙台市の中心地はかなり平常に戻っていて、東京と同じようでした。しかし、彼は仙台で住む所を見つけられず、ただ市内を放浪していたのです。話を聞くうちに、私達3人は神様から同じようなことを語られました。それは、この人は行き場がなくてさまよっているだけじゃなく、心も魂も失ってしまっていて、何かを求めているのだということでした。彼は答えを探していました。どうしてあんな津波が起こったのか、何故善人が死んで悪人が生き残ったのか、何故自分は死ななかったのか。もし死んでいった人々を生き返らせることができるのなら、自分は死んでもかまわないと彼は話してくれました。

私達は彼に、神様は津波の被害に深く悲しんでおられる、決して津波が起こることを望んでおられたのではないと伝えました。神様が天地を創造された時、地震や津波は造られなかった。平和だった世界に罪が入ったことで、すべてが変わってしまったということ、そして、神様は私達に自由な意志を与えてくださったから、人は善と悪の両方を行うのだということも話しました。

彼に聖書を手渡してお祈りをして、近くの教会の連絡先を教えました。最後に彼はこう言いました。「電話するよ。この聖書読んで分からないことがあったら、この番号に電話するよ。」私は彼が、聖書を読んでみよう、電話してみようと思ったのだと信じています。

このパチンコ店の男の人の話は、災害に見舞われた多くの人々がたどってきた道と似ているのではないでしょうか。だからこそ、この話は私にとって一番思い出深い話なのだと思います。彼には神様が必要です。地獄のような状況で疲れ果て、心に深い傷を負い、多くの疑問を抱えているのです。仙台では多くの人々が同じような状況にあります。しかし、神様は働き手を送られます。イエス様を送られたように、人々を愛するようにと私達を遣わされます。そして、私達が人々を愛し、寄り添い祈る時、神様が私達のうちに働いてくださるのです。

この他にも病気やケガの癒しや奇跡など、もっとすごいことも体験しました。でも、このパチンコ店でのでき事のような体験のほうが、私の心には強く響いています。私達がIris Reliefでしたこと、人々と話をしたり寄り添うこと、それは2000年前にイエス様がされたことを思い出させてくれました。マタイ、マルコ、ルカ、そしてヨハネの福音書にはイエス様が一人の人のために立ち止まり、その人の横に座り、苦しみ悩みを聞き、祈り、その人を愛したという記述がたくさんあります。これこそが、神様が私達一人ひとりに求めておられる務めなのだと思います。一人の人のために立ち止まり、その人と話をするためならパチンコ店にでも入っていく、そしてその人を愛して救いへと導く。

Irisのメンバーは確信をもってこの方法で活動しています。一人ひとりのために立ち止まり、ハグして、神様の愛を降り注ぐ。もう一度繰り返しますが、その人を私達が愛した時、神様が私達のうちに本当に働いてくださるのです。最後にIris Reliefのリーダー、Yonnieが私達に教えてくれた言葉で締めくくりたいと思います。

「私達の仕事は人を愛すること、その人を癒すのは神様のみわざ」

月報2011年9月号より

「11年前、私が家族と共に…」

初めての礼拝
 11年前、私が家族と共にアメリカの西海岸のサンノゼに着いたばかりの頃でした。私の父の知り合いのTさんに台湾系キリスト教教会へ連れていってもらったのが、教会との付き合いの始まりでした。Tさんが、「誰でも外国へ来たばかりの時は、知り合いも無くとても不安なものだ。そういう時、教会というコミュニティで仲間を見つけたり情報交換や情報収集をする場でもあるから来たらいいよ。」と教えてくれました。なるほど、お祈りや礼拝以外にも、教会にはそんな利用方法もあるんだと知りました。不慣れな外国生活でしたので、毎週礼拝にも家族で参加をしました。そのついでに情報を仕入れることも出来ました。その教会では中国語での礼拝、中国語の聖書しか置いていなかったので、私は数回でギブアップしてしまいました。始めて教会に足を踏み入れた私にとっては、未知の世界に等しかったのです。唯一のより所である聖書が無くてはと思いました。サンノゼでの1年は過ぎ、その間私の妻は洗礼を受けました。主がわれわれ家族をこの地を目指すよう、導いてくれたことに感謝します。

聖書
サンノゼでの生活も1年を迎える頃、日本でも仕事で4年間生活をした経験のある、Sさんから1冊のポケットサイズの日英対訳の新約聖書をプレゼントされました。この聖書はSさんが日本に滞在していた頃に購入したものとの事。これでやっと私も自分の聖書を持つことが出来たと大変喜んだのですが、新約聖書はマタイの福音が冒頭にあります。たいていの人は誰でも、書物は1ページ目から開いて読もうとするでしょう。しかしこのマタイの第一章の17節までを読んで理解することは、至難の業のように思えてなりませんでした。こんな系譜のような長い文章を暗誦するなんて出来るわけが無い。最初から大きな高い壁にぶつかったような気持ちでした。何の予備知識も無い私が読むのはやはり無理がありました。いつか読むぞと、常にコートのポケットには入れて持ち歩いてはいました。しかしニュージャージーの教会へ行くまでの数年間、聖書を開いて読むことは稀でした。

ニュージャージーで再び
メリーランドで1年半を過ごした後、8年前にニュージャージーに越してきました。ここの生活にも慣れ、暫くは移動も無いだろうと、5年程前、ニュージャージーの北部で私の妻が教会を探していたところ、付近の中国系のスーパーであるクリスチャン同士の会話を耳にし、問い合わせたところWyckoffにキリスト教教会があることを聞き出しました。中国語での礼拝だったので、当初は私の妻だけが礼拝に参加をしていました。暫くの後、英語の礼拝もあるからと妻に誘われました。少しでも英語が解るなら行った方がいいと、私も娘と共に英語の礼拝に参加するようになりました。私も一生懸命集中して聞いていると、メッセージの輪郭がぼんやりとだけですが伝わってきました。また、メッセージを聞き終えた後“心地よさ”のようなものも感じました。

Sinと罪
私が英語の礼拝で特に興味を示したキーワードが“SIN”という句でした。礼拝ではSINまたはSINNERという言葉が頻繁に出ていたのを覚えています。それからそれが“原罪”と日本語で訳されていることを知りました。日英対訳の聖書でも”Sinは罪”と訳されているので注意をすれば解るのですが、私の知っているレベルの英語では、罪人はCriminalという言葉しかありませんでした。Sinには私の知っているCriminalとは別の意味があるんだと。私の持っていた新約聖書だけでは物足りなく感じました。そもそもコンサイス聖書などは、聖書を読んだことのある人が旅行用に持参するのには便利だが、礼拝では旧約をよく参照することがあるから、旧約の無いこの聖書は私にはとても不便でした。どうしても日英対訳の新旧約聖書でしかもNIV版の訳がいいと、オンラインでその聖書を買い求めました。自分で聖書を買ったぞという満足感がありました。手元に届いた時、真っ先に読んだのが、“伝道者の書“でした。聖書の内容にもこんな文学的な箇所があるんだと感動しました。
ニュージャージーに来てから、われわれ家族にとって教会はすでに情報収集の場としてではなく、神様に祈りをささげられる教会としての神聖な場所でした。

聖書の読み方
以前ハーベストタイムと言うテレビ番組がありました。フジサンケイニュースのあと、テレビをつけっぱなしにしていると、次がこの番組であったのを覚えています。私が実際に観たのはそのホームページにあるルカの福音を扱った19回から成る放送でした。聖書の内容について、どのように聖書を読んだらよいのか、解りやすく説明がしてありました。その頃は英語の礼拝にも行かなくなりました。しかし、妻は私に、日本語の教会に行くことを勧めてくれました。インターネットで検索した結果、付近のいくつかの教会のホームページが掲載されていました。教会の中にはカルト集団もあると聞かされていました。何度もそれらの教会の主旨を読み返しました。私の目にとまったのが“福音主義信仰に立つ単立教会”と書いてあった本教会のホームページでした。この教会へ行ってみようと決心したのはこの一言に尽きます。いや、それ以前にも何度もここの教会のホームページは開いていたのですが。

決心
実は今年の春、中国語教会のL牧師のお母様が天に召されました。私もよく知っているL牧師でしたので、葬儀から帰ってきた妻に私は、「どうだった?」と何気なく聞きました。私の質問自体が妙な質問でしたが、「満面幸せそうな微笑をたたえてたよ」と私の思惑を察したように妻は答えました。私は信じました、そして感じました。この方も主を信じ、主にすべてを委ね、生死をも越えて主と共に歩んでおられるんだと。今でもこの一件は強く私の脳裏に焼きついています。私の曖昧な気持ちを打ち消して、新たな生まれ変わりを決心するエピソードでありました。「信じるものには永遠の命がある」ヨハネ6:47
今年の3月の第一日曜に私の聖書と決断を持って、この教会の礼拝に参加しました。心の霧が拭き取られたようにすっきりしました。毎週の礼拝で語られる御言葉が静かに私の中に染み入り、魂の渇きが癒される思いがしました。3月中旬から錦織牧師宅での聖書入門コースを受講、最後の受講が終わった時点で私は錦織牧師に信仰告白と洗礼のお願いをいたしました。受講以前から洗礼を受ける決心は固まっていましたが、錦織牧師へ告白した時はかなり緊張をしていたのを覚えています。
6月12日晴れて洗礼を受けることが出来ました。主イエスキリストを信じ、主と共に歩むことは、生まれ変わった私にとってのよろこびであります。この証しを通して私は“自分の魂は生かされているんだ“という実感と共に、私に信仰への導きと生命を授けてくれた神様へ感謝いたします。「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない」ルカ21:33

月報2011年8月号より

「生かされている使命」

「私の家も流され、家族とも会えず、病院には沢山の方が集まっているのに、食べ物も、薬も限界で・・、私も廊下で寝ているんです・・。」震災5日後に、ニュージャージーから石巻の病院に電話をしたときに、電話に出た看護師はそう言いました。それが始まりでした。

今回4,5月と一時帰国し、東北の被災地でのボランティアに行って参りました。宮城県塩釜/多賀城に2週間、石巻に1週間、一度関東に戻って、再び宮城県山元町に15日間、郡山の友人を訪ねた後、石巻の河北町に1週間、それぞれの避難所で看護師ボランティアの活動でした。
この間、被災地の教会を訪問する時間が与えられ、配るための教会案内を頂いたり、物資や聖書を届けてくださる方、助け人も、活動場所へ送られ、共に祈り会うことも出来ました。それは、私一人の行いではない、主が共にいて下さり、皆様の、多くの祈りとサポートをひしひしと感じ、心が熱くなる2ヶ月間でした。
被災地の悲惨さは、想像を絶するものでした。
くの字に折れた電柱、そこに突き刺さった漁船。小学校のプールや家屋に突っ込んだ、車や船。百メートル以上も流された家屋の一部、粉々になった瓦礫の山。2階建ての屋上に乗ったバス。鉄骨の枠だけ残った教習所とぺっちゃんこのバス。真っ黒焦げの学校と積み重なった真っ黒焦げの車やドラム缶もろもろ。海岸近くは、頑丈な堤防が崩れ、コンテナーやドラム缶がゴロゴロ転がり、家屋は基礎だけ残して完全に流された後が・・。
そこには、3月12日から入っておられる自衛隊や警察の方が安否の確認のため必死で作業をしておられたり・・・。
何か思い出のものを・・・と探しに来られる人。今でも毎日海に家族を探して来る人・・・。
言葉に表せない悲しみや悔しさの叫びもありました。
子どもを守るための涙祈り、そして原発の現場で必死で作業される方々のための祈りも捧げられました。

ボランティア活動は、避難所の診療や往診の介助、健康相談、生活の援助、あるいは夜勤の看護などでしたが、掃除や下痢便で汚れたものを洗って明け暮れた日もありました。その合間に皆さんのお話を聞いたり、聖書を開いて祈ったり、「教会があそこにあるからね。」と教会案内をお渡ししたり・・・。

避難所で出会った9歳のK君、高熱後お部屋にいなかったので探し当て、「お部屋に帰ろうか?」と声をかけると、「うわーっ」と大声を上げ、しばらく泣きじゃくるのでした。お母さんも、「子どもの前でも夫の前でも、涙なんか見せられない。・・・でも怖かった・・・。夫は流れる車の上を飛び越え逃げて来たけど、職場も流され、仕事もなくなった。家も車も流され、借金だけが残った・・・。」「奇跡的に家族が無事だった。」と。共に涙の祈りをしました。

ボランティアの合間に訪問した、海のそばのN小学校では、全員屋上に避難し、無事だったと聞きました。私は消防団の許可をいただき、中に入りました。現場の狭い屋上で、あの雪も降る寒い夜、先生や子供たちはここでどんなに怖い思いをしたか、想像しただけで身体が震え、涙が溢れてきました。
2階建て学校の教室全部は波に飲まれ、もちろん周りの家屋も土台だけを残して流されていました。
帰る家も親も失った子どもたちがいるそうです。そのような中、M先生は、ご自分の家も流されたのですが、「一人の小さな手」を歌いながら子供たちを励ましておられるそうです。

もう一つ訪問した宮城県南部S中学校のクリスチャンの若い女性のF先生、4月から派遣された新任教師です。(他県にも合格していたのですが・・・)、「神さまがここに遣わされたのですね。」と使命に立っておられました。放課後に子どもたちと一緒に瓦礫と泥かきの掃除に汗を流したり、子供たちの為、涙の祈りをしておられました。

避難所で出会った方の中には、涙ながらに「最初、自分が助けられたことを喜べなかった。何をしてもらっても『ありがとう』というのが精一杯で、複雑だった。」と語る方もおられました。「でも、周りの方と少しずつ話してみたら、その人の悲しみや苦しみも知って、夜も寝ないでケアーしてもらって・・・、少しずつ、生きてみようかなって思った。今はありがとうって、心から言えるようになってきて、周りの人に一緒にお茶飲もうって言えて・・・。」

ある男性は、「もう分かったよ。分かったから、あんたは家族の待っているアメリカに帰ったらいいよ。自分にはこれから仕事は見つからないかもしれないけど、ボランティアでもして人のために生きるよ!」と、人前で「生きるよ」声を上げられたことが嬉しくて、私は、ここに来て良かった・・・と思いました。

また、石巻の避難所で、ある晩、教会のボランティアによる豚汁の炊き出しがありました。玄関の外での配膳後、一人の方がゴスペルを歌い出し、踊りの輪が自然に大きくなってきたのです。
それまでは、あまりにも悲しみが大きすぎて、避難所では公に歌ったり、踊ったりなど出来なかったそうですが、不思議なように避難者さんが集まって来ました。
「流された友だちと一緒に踊りたかった。」とさらっと笑顔で語る女性。
「いいなあ、こんなの、一番、妻と一緒に見たかったな・・・。」「でも仲間がいるんだ。ほら!」と語る男性。家族も失った悲しみの中、励ましあいながら生きている姿がありました。

また私は、避難所の中に暖かくてしっかり結び合わされた絆を見ました。それはお互いに苦しみ悲しみを分かち合いながら、支えあっている様子でした。
でも被災地はまだまだ、大変です。仮設住宅に移り、周りは変わっても、心の傷や大きな問題が襲ってくるような、孤独との闘いがあるでしょう。実際、私のいる間にも、避難所から、お一人のご婦人がいなくなって、3日後に山でご遺体で見つかったという痛ましい出来事にも出遭いました。

また、今回の震災で愛する家族も何もかも失った方にとっては、どれほど大きな悲しみでしょうか。孤独と悲しみを担ってくださるイエス様の十字架からの慰めと救いがありますように。ただ、神に生かされていることの奇跡に希望を見出していただきたいとこれからも祈り続けたいと思っています。

そして、私自身、気付かされたことですが、改めていのちの尊さを思い知らされました。今まで当たり前のように生きてきたこと、家族、周りの環境にも、もう一度目を止め、今あるのは神様に生かされていることなのだということを覚えたいと思いました。神の栄光のために生かされている使命があることに喜びをもって生きていきたいと願わされました。

帰米前日の夜、ホームレスの支援を長くされておられる奥田先生とお会いするときがありました。「先生、支援を長くされていると、裏切られることもありますよね?」の質問に、先生は、「そうだな、自分もたくさん裏切ってきたからな・・・。」次の場所に移らなければならず、会話は中断しましたが、神様の前では、支援者も、支援される者も同じ罪人なのです。ただ、多く赦されている者が多く愛することができるのだ、という聖書のメッセージを思い出させられました。

「神は、いかなる患難の中にいる時でも私たちを慰めて下さり、また私達自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。」(第2コリント1章4節)

どれだけ心の叫びを聞き、共に祈ることがどれだけで来たのか分かりませんが、これからもこのNJでできることを続けていきたいと思います。被災地の方々にまた世界中に神さまの救いと恵みがありますように、心からお祈り致します。

月報2011年7月号より

「私が初めてニュージャージー日本語キリスト教会に…」

私が初めてニュージャージー日本語キリスト教会に来たのは、90年代の初めでした。私は以前からhi-b.a.を通して宣教師として日本に行きたいと思っていました。その頃は、そのためにはBergenfieldにあったhi-b.a.の本部でインターンをするというのが唯一の道でした。東海岸で生活をしたことがなかった私は、ただ、ビリー・ジョエルの歌に出てくるから、という理由だけでHackensackに引越してきました。Linden Streetの私のアパートのそば日本語教会があるよ、という話を聞いて、ある日曜日にその教会を訪問しました。神様はJCCNJの人々を用いて、若かった私を育ててくださいました。たくさんのいい思い出があります。特にその頃の中高生との思い出は特別です。
また、5月にもう一度訪問することができ、この教会を通して、何年間も励ましとサポートを与えてさってきた神様の真実をもう一度感じることができました。ああ、わたしたち家族はJCCNJからどれほど多くの愛を受けてきたことでしょうか。
hi-b.a.のことを初めて聞いたのは、高校生の時。何人かの友達が国際hi-b.a.の集会に誘ってくれたけれど、私にはそれが何なのか見当もつきませんでした。「そこでどんなことしてるの?」と聞くと、友達は「歌ったり、一緒に祈ったり、聖書を読んだりして、互いに交わりを持つんだよ。」と教えてくれました。私は、その友達を疑問あり気に見つめながら言いました。「僕がそんな所に行きたがると思う!?」
当時、私は自称クリスチャンでしたが、イエス様の弟子になりたいという興味や情熱を持ったことはありませんでした。事実、友達が本当に自分の意志でそんな集会に行っている、ということを信じることができなかったのです。私は、キリスト教とは大人が信じるもので、子供たちに強制する、そんなものだと思っていました。すると友達が、集会の後で美味しいデザートが出ると言ったので、私は行くことにしました。
初めてのhi-b.a.集会で私が見たのは、驚くべきものでした。同世代の人達が、喜んで祈り、分かち合いをし、自分の聖書を開き、メッセージを聞き、話し合い、交わりを持ち、さらには自分の個人的なデボーションから学んだ、ということさえ話していたのです。信じられませんでした。私はすぐに、自分にはないもの―つまり、イエス様との生きた関係を、彼らが持っているということに気付きました。
その後、hi-b.a.に毎週出席をし、キャンプに行き、Let’s Be Friendsに参加するようになると、聖霊が今まで経験したことのない方法で、私の中で働き始めました。神様が、イエス様のために生きるという強い願いを与えてくださったので、私は学校で証しし始めました。
大学時代、私は初めてアーバナ宣教大会に参加し、神様が私に宣教師になることを示されていると感じました。もし高校の友達がhi-b.a.に誘ってくれなければ、自分は霊的にどこへ行っていただろうと思いました。また、hi-b.a.スタッフが私にイエス様のことを分かち合うために時間をとってくれたように、成熟したクリスチャンのサポートに触れる機会がない日本の高校生たちのことを考えさせられました。そうして私は、日本の高校生たちに福音を届けるために神様に用いられたいと思い、hi-b.a.の働きに加わりました。
神様が私を愛し、イエス様を与えてくださったことを本当に嬉しく思い、日本での主の働きのために、神様が私の様な者を用いて下さるという事実に、謙ることを覚えさせられています。そしてその事を、hi-b.a.において仕える為の、とても大きな特権だと考えています。
必要なサポートがそれまでに与えられれば、7月の末までには日本に行きたいと思います。わたしたち家族全員、日本に帰ることを楽しみにしています。しかし、日本に着いた時には、わたしたちは多くの変化に直面しなければなりません。わたしたちは新しい地に引っ越すことになっています。ですから、子どもたちは新しい学校に通うことになります。私自身もSEND Japanのディレクターという新しい仕事をすることになっており、前とは違うオフィスに通います。あらゆる方法でhi-b.a.の働きに関わっていきますが、今まで私がしてきたことの責任はほとんど、もう一人の方に引き継ぎます。そして、私自身はほとんどの時間をSENDのリーダーシップチームと過ごすことになります。

わたしたちが今祈っていることはSENDの人材やリソースを、東北の人々の心のケアと、その地の復興のために用いていこうということです。今もSENDの宣教師たちは東京から被災地を訪問して、全力を尽くして働いています。しかし、わたしたちはもっともっと多くのマンパワー、財力、知恵、能力を必要としています。私の希望は、わたしたちが強められ、日本の外からもたくさんのボランティアやチームを受け入れることができ、彼らに、祈り、仕え、福音の希望によって人々の人生が再建させられていくための助けをしていただくことです。どうか、日本の復興のために助けに来ること、ぜひ、考えてみてください。

主が、全ての栄光を受けますように。

月報2011年6月号より

「今が救いの時」

2011年3月11日、午後2時46分(日本時間)。震度7、マグネチュード8.9の巨大地震が日本全体を恐怖に包みました。その知らせを受けたのは、地震直後に届いた東京近郊に住む友人達からのメールでした。「今さっき、東北で大地震がありました。大丈夫ですか?東京でも大揺れでした。」という、仙台に住む母を心配しての内容でした。仙台は地震の多い地域ですので、最初は「またか。。。」というくらいにしか思っていなかったのですが、次々に届くメールからただ事ではない様子が伝わってきました。仙台の自宅に電話しても通じるはずはなく、母の携帯番号もすぐにわからず連絡ができないままでいましたが、そのうちに「無事です」と一言だけ書いたメールが送られてきました。しかし、それだけでは状況がわかりません。その後、母の友人のお嬢さんが、母が職場近くの公園に避難していることを知らせてくれたので安心しました。その数時間後には「大丈夫今宮城野中に避難しました家の中歩けない」という件名のメールが届きました。仙台に住む友人にも思いつくままメールを出したのですが、すぐに返信があったのは数名だけでした。朝になり、家ではニュースを見ることもせずに出かけました。職場に向かう途中、携帯に電話がかかってきたのですが、それはインドに一時帰国している友人からでした。地震に加えて津波による被害がかなり大きかったことを知らされ、段々と不安が高まってきました。会社に着く早々、テレビに写し出される映像を見て唖然としました。そこには自分が知っている地名とともに、家や車が津波による大洪水の渦の中でぐるぐると回りながら流されていく光景だったのです。まるで映画か何かを見ているような感じでした。一緒にテレビを見ていた同僚達から家族の安否を尋ねられましたが、私がこの町の出身だということを告げると、みな大声を上げて驚きました。

この地震が起きる数日前、4月に家族で一時帰国をするための飛行機のチケットを購入していました。しばらく様子を見ていましたが、毎日のように余震が続いていますし、福島の原子力発電所の問題も大きくなっている状況の中、子供達を日本に連れて行くのは無理だろうということで、主人と子供達のチケットはキャンセルし私だけ日本へ帰ることを決めたのです。仙台に滞在する間、私にも何かできることはないか?という思いが与えられ、「どうぞこの機会を用いて下さい。神様の働きのために私を使って下さい。」と祈り始めました。それから間もなくして、母の教会の先生(アメリカ人)があるクリスチャン団体(Iris Ministries)の支援チームと関わりがあること、そしてそのチーム(Iris Relief)が仙台を訪問していることも知りました。先生ご夫妻に連絡をしたところ、ちょうど私が一時帰国する頃、そのチームがミニストリーの第2弾として来仙するので通訳をしてほしいというお返事をいただきました。どんなにか嬉しい知らせだったでしょうか。このようなチャンスを与えて下さった神様に心から感謝しました。

4月18日(月)成田到着。仙台まで行く新幹線が通っていないため、成田からは夜行バスに乗ります。空港で8時間待ち、ようやく仙台行きのバスに乗ることができました。それは“緊急支援バス”という名前に変わっており、ボランティアで仙台へ向かう人達もいたようです。仙台に着いたのは約8時間後の翌日早朝でした。仙台の街はいつもと変わらないように見えました。自宅まで乗ったタクシーの運転手さんに地震の時の様子を伺うと、30年前にあった宮城県沖地震とは比べものにならないほど長く大きな地震であったこと、5分前まで寝ていた場所にいくつもの家具が次々と倒れ、あと5分違っていれば自分はその下敷きになって命がなかったかもしれないということを話して下さいました。家に着くと、母が壊れた家具や食器のかたまり(ゴミの回収が間に合わず、まだ持っていってもらえないということ)、斜めになったままの絵や写真、ベランダに倒れたままになっている乾燥機などを次々に見せてくれました。どの友人に会っても、最初は地震と津波の話で持ちきり。地震があった時に何処にいたか、何処にどのようにして避難したか、どのような被害があったのか、被害にあった親戚や友人のこと、本当に沢山話しを聞きました。1人の友人の会社は津波で流されてしまったのですが、その日のお昼頃お父さんから仕事(商売をしている)が忙しいので手伝ってほしいという連絡があり2時に早退したそうです。もし普段通りに仕事をしていたとしたら、どのようになっていたのか?考えるだけでぞっとしてしまいます。神様がその友人を守って下さったんだと確信しました。

4月22日(金)。この日は当初の予定よりも遅れて、Iris Relief Teamと合流するはずでした。チームのメンバーの半分が、被害にあった家の泥出しや掃除をしたいということを聞いていたので、クリスチャンの友人と共に多賀城市(仙台に隣接している市で、津波の被害が大きかった地域でもある)の市役所内に設置してあるボランティアセンターへ向かいました。そこで合流する予定でしたが、彼らのスケジュールが遅れ、また雨が降っていたこともあり、その日は別行動を取ることに。とても残念ではありましたが、私と友人はそこへ残って古着の配布のお手伝いをさせて頂くことになりました。しかし雨天のため中止となり、消石灰と救援物資を仕分ける作業を任せられました。消石灰を配布する時に被災者の方々とお話をしましたが、本当に大変な経験をされたのが目に浮かぶようでした。救援物資を保管している部屋は、普段は保育室として使用しているそうですが、そこは他県から送られてきた沢山の物資で埋め尽くされていました。ボランティアセンターで働かれているスタッフも他の町や県やから派遣されて来た方々が多く、市の職員の方々ともお話する機会が与えられ、現状を把握する助けとなり、このことも神様が導いて下さったのだと思いました。夕方、市役所を去った後、友人に海岸に近い地域まで車を走らせてもらいましたが、畑や家は荒れ果ており、車からは空っぽになった家の中が見えるような生々しい光景で、私も友人も言葉を失っていました。

4月23日(土)南三陸町へ。ようやくIris Relief Teamと合流。悪天候の中、土砂崩れも心配されていましたが、13名で南三陸町(宮城県の北に位置する、石巻と気仙沼の間にある町)へ出発しました。携帯電話を2台の車で繋げ、何人かが代表して祈りをささげました。2nd Response Relief for Japanとして集まった9名のメンバーは、台湾、アメリカ、イギリス、アフリカの各地に在住していて日本語はまったく話せません。今回お互いに会うのが初めてだという人達もいたようですが、もう既に霊的に一致されたチームが出来上がっているのを感じました。車の中では、他の国で体験した神様の御業を話してくれた人もいましたし、どのようにしてクリスチャンになったのか、献身に導かれたのかを証してくれる人もいました。雨が降る中、無事に南三陸町に到着。テレビで見ていたのと同じような光景が一瞬にして目の前に広がりました。ほとんどの家やビルが、この町を襲った高さ18メートルの津波によって崩壊されていました。そのような中で新しい電信柱だけが悲しげに立っているのです。この町の津波が起こる前と後の写真を見ましたが、あまりにも変わり果てたその姿に、一緒に行ったみんなも愕然としていました。ある避難所(小学校)を訪ねたのですが、そこには大人と子供を合わせて約50人程の人達が今も滞在しています。(既に大部分の人達が他の地域や県に避難されたそうです。) 皆さん津波でお家を無くされた方達ばかりです。仮設住宅ができるまで避難所に滞在されるそうですが、まずは安全な場所を確保し、そこにある瓦礫の山を処理してからではないと仮設住宅の建設も始めることができないので、いつ完成するのか検討がつかないということでした。何人かのスタッフが動物の着ぐるみを身につけ、皆で避難所となっている体育館へ入って行くと、一気に子供達が近寄って来て目を輝かしています。抱っこしたり、よじ登ったり、動物達は何をするわけでもないのですが、その場の雰囲気を優しくしてくれ子供達との距離も縮めてくれます。子供達が嬉しそうにしている姿を見て、大人の人達も喜び心を開いてくれるように感じました。私が2人の女性スタッフと一緒にお話したFさん(77歳)は、静かな方ですが、とても前向きで芯の強い女性のように感じました。一緒に話をしながら、スタッフの1人のYonnie(チームのリーダー)が自分の体験を分かち合ってくれました。心から慕っていたお兄さんが自ら命を絶ち、その悲しみの中で心も体もズタズタで魂の抜け殻のようになってしまった時に、イエス様から慰めと平安をいただき、もう一度立ち上がる力と希望をいただいたこと、だから自分がイエス様からいただいたと同じ平安と希望を持って歩んでほしい、イエス様だけがその約束を与えて下さる方だと。本を読むのがお好きな方なので聖書をプレゼントし、詩篇23篇を朗読して共に祈りました。そして信仰告白の祈りにも導かれ、その場所は喜びでいっぱいになりました。避難所で共に生活する人達とは世間話はしても、心を割って深い話をすることはなかった、こんなに笑ったのは久しぶりだ仰っていました。住居や身の回りのものは失ったものの、少しづつ物資が行き渡ってきている中で、いかに心の支えや霊的な満たしが必要だということを痛いほど感じた瞬間でした。その後、子供達と一緒にゲームをしたりして楽しい時間を過ごし、プレゼントしたおもちゃもとても喜んでくれました。帰る時には大雨が降る中、外まで見送ってくれ「また明日も来てね。」と言う子供達も。避難所の所長さんからは、いろんなボランティアの団体が訪ねて来るけれど、こんなに皆が楽しそうに笑っている顔を見たことがないとも言われました。また、一番近いガソリンスタンドはどこかと尋ねると、貴重なガソリンを2台の車に入れて下さる方もいました。車の中で知ったのですが、Fさんの他にも3人の方がこの日にイエス様を信じて受け入れたそうです。ハレルヤ!

4月24日(日)イースター。礼拝前に朝食会があり、お腹も心も満たされて礼拝がスタート。賛美の中にも、証の中にも、そしてIris Teamによるスキットの中にも主の臨在を感じました。礼拝後は通訳を交えて共に祈り合い、そこにも主が働いて下さり、言葉の壁を越えて皆の心が一つとなりました。また、感謝なことに月曜日から仙台と東京間の新幹線が再開することになり、火曜日にアメリカへ戻る私も、もう一日チームと一緒に神様のための働きをすることができることになりました。もし新幹線が再開しなければ、月曜日の夜にはバスに乗って成田へ向かわなければなりません。そうなれば、あと一日チームと行動を共にすることはできませんでした。確かに神様が働かれ、ご計画を持って導いて下さいました。神様は何というタイミングで、このような素晴らしいことをして下さる方でしょうか!

4月25日(月)亘理へ。亘理は宮城県の南部、阿武隈川の河口に位置する農業田園が盛んな町です。この町も津波の被害が大きく、塩水で覆われた田畑は最低でも5年間は耕作することは不可能だと言われています。ある避難所を訪ねましたが、ここでは40家族が生活しておられ、狭い体育館はたくさんの人であふれていました。それもそのはず、ここの学校は小学校と中学校が合体したため、体育館が二つあるのですが、その日の始業式、翌日の入学式、また授業開始に備えて、それまで別の体育館で生活をしていた人達がもう一つの体育館に移動しなくてはならなかったのです。体育館に入る前に駐車場で4人のカトリックのシスターにお会いしたのですが、それぞれ他の国から今回の震災後に日本へ来られた方達です。手を繋ぎ一つの輪になって、避難所の人達が心を開いてイエス様を受け入れられる方々が起こされるようにとお祈りして下さいました。Iris Teamは金曜日もこの避難所を訪ねていて、その時にイエス様を受け入れた女性と腰痛が癒された女性を探していました。腰痛が癒された女性は今も痛みから解放されて喜んでおられ、共にお祈りしたようでした。また、イエス様を受け入れた女性には更に神様の愛と恵みを分かち合い、イエス様の十字架の赦しとよみがえりを確信されたようでした。私は3人の方との出会いが与えられました。Mさんは右足の太ももに激しい痛みを覚えていて、私達が行く前に体育大学の学生から痛みを和らげる体操を教えてもらったそうですが、その体操をしても痛みは収まらず、棒で足を叩いていたそうです。スタッフのNaomiとお話して、その足のために祈らせて頂きました。すると、どうでしょうか。お祈りをしている最中から足がポカポカと温かくなり、痛みが消えていくのがわかったと仰るのです。立って歩いてもらいましたが、痛みは全くなく、足は汗をかくほど熱くなったそうです。確かにイエス様がその病めるところに手を置き癒して下さいました。次の日もIris Teamはこの避難所に行きましたが、その時もMさんの足は癒されたままだったと聞きました。ハレルヤ!Sさんは小さい字を読むのは目が疲れるので聖書は受け取られませんでしたが、Scottが台湾から持ってきた小さいテレビをもらって下さいました。それには、イエス様の誕生から十字架の復活まで4つのお話が入っています。最初は中国語だったものをコンピューターで日本語に吹き替えをしたそうです。娘さんとお孫さんも興味を持たれていたので、そのテレビが用いられるように祈っています。SさんとScottとChristianと4人で一緒にお祈りすることもできました。Aさんはとても熱心に話を聞いて下さり、ご自分のお話もたくさんして下さいました。途中から加わったAmyが自分の証を分かち合ってくれました。Amyは子供の頃、交通事故に遭い、お兄さんとお姉さんを亡くしたそうです。長い間ずっと、なぜあの時に自分は助かり、お兄さんとお姉さんは死んでしまったんだろう?と罪悪感に苛まれて苦しんでいましたが、ある日イエス様はAmyに語られました。その心の重荷を全てイエス様に明け渡しなさい、お兄さんとお姉さんのことも主に委ねなさい、神様はAmyに素晴らしい計画を用意しておられ、その苦しみをも用いようとされているから、神様に従いなさいと。現にAmyは、いつでも神様の召しに従えるように、アパートも引き払い、車も売り、最低限必要なものだけを残し、バックパックと寝袋で生活しているそうです。あけみさんは神様がいるのは信じているし、聖書にも良いことがたくさん書かれてあるのは知っているけれど、仏教の習慣の中で育ってきたので、キリスト教にのめりこむのが怖い、ご先祖様に申し訳ないという思いがあると正直に話して下さいました。でも、一緒にお祈りをすることができたので、主が必ずあけみさんの心に触れて下さり、Aさんがイエス様を主と告白する日が来ることを信じて祈り続けようと思っています。

Iris Relief Teamの仙台での働きは4月29日(金)まででした。私も出来ることならば、日本滞在を延長して、神様の素晴らしい御業をもっともっと見せて頂きたかったです。その後もここに書くことができないほどの祝福とたくさんの出会いあり、癒される人、イエス様を受け入れる人が多く起こされたようです。今後の彼らの働きのためにも、どうぞお祈りください。http://irisrelief.org/

確かに今回の東日本大震災はとても悲しい出来事で、失ったものは大きく、今も苦しみの中を通られている方は多くいらっしゃいますが、神様はこの時を用いようとされています。神様は日本の国を日本人を愛しておられ、イエス様のもとに導かれるのを願っていらっしゃいます。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。」ヨハネ3章16節

月報2011年5月号より

「二年前のちょうど今ごろのことです。…」

はじめに、今回の大震災でさまざまな思いの中を通られている方々に向け平安をお祈りします。

二年前のちょうど今ごろのことです。主人が失業を宣告されました。まさしく寝耳に水でした。主人はアメリカ的な考えというのでしょうか、自分のキャリア・アップを求めて何回か転職してきましたが、年齢を考えて「これが最後の職場」と決めた会社がありました。ところが皮肉なことに、その会社で失業を言い渡されたのです。会社側の計らいで主人には六月末までの猶予が与えられました。仕事をしながら求職活動をして良いという配慮でしたが、アメリカも日本も不況の真っ只中。すぐに仕事が見つかる保証などどこにもありません。果たせるかな、主人はその後、丸一年の失業生活を味わうこととなりました。

苦しみに遭ったことは私にとって幸いでした。私はあなたの掟を学びました。   (詩篇119編71篇 )

私は決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。
(ヘブル書13章5節 )

主人が失業の知らせを私にくれた時、心に浮かんだ聖書の言葉です。主人は宣告を受けた直後、会社の会議室からこっそり家に電話してきました。どんな心境だったことでしょう。どんな顔をして自分のデスクに戻れるのでしょう。私はその日に残された会社での時間を思い、六月末までの期間を思い、普通でしたらやる気を失くしてもおかしくない状況の中で、主人がクリスチャンとして最後まで与えられた仕事を忠実にこなせるようにと電話口で祈りました。

ちょうど主人との電話を終えた後に電話がかかってきました。「あれ、また主人かな?」と出ると、教会でよく一緒に祈って下さる方からでした。その方からの電話は日ごろ頻繁ではありません。それなのに、このタイミングでかかってきたのは「まさしく神様の計らい」と、私は主人のことを打ち明けて祈ってもらいました。

あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。(マタイ18章19節)

主人はまだ誰にも話して貰いたくなかったかもしれません。でも、私は自分ひとりで抱えるよりも、聖書の言葉どおりに、分かち合って祈ったほうが神様が聴いて下さると信じました。そして、主人の口からも早く公表して、心ある方々に祈っていただけるように願いました。

数日後、一番最初に祈って下さった方が近付いてきて仰いました。「今回のことは神様に愛されている証拠ですよ」。何と奥深い言葉でしょう。なんと慈しみに溢れた言葉でしょう。使い方によっては相手を刺すような場面です。ところが、私の中には温かい気持ちが広がりました。その方は聖書の言葉も引用してくださったのですが、まさしく私の心に浮かんだ最初の言葉と同じで、私ははっきりと「ああ、これは神様のご計画だ。大丈夫。」と安心したのでした。

数ヶ月の後に主人は解職され“浪人生活”が始まりました。ちょうど、二人の子供たちが夏休みに入るタイミングでしたので、父親と存分に楽しめる夏を喜びました。私の両親の訪問も加わると更に家中が賑やかになり、食事時など狭いダイニングキッチンで押し合いへし合いになりました。普段は親子三人で囲むことの多かった食卓です。人数が倍増し、食事の品数も会話も増えて幸いなひとときとなりました。

順調に始まった失業生活ですが、もちろん苦悩の時もありました。主人が就職活動をする中で、トントン拍子で進んだ会社に最後で断られたり、仕事の内容としては申し分なく、すぐに採用してくれるという提案ながら、子供の教育や住まいの安全を考えて諦めたり・・・。どの話も現れては消え・・・を繰り返しました。「神様が一番よいものを与えてくださる」と信じていましたが、具体的にどの仕事なのか、いつなのか・・・。先が見えない中で、ひたすら忍耐の日々でした。でも、この時ほど主人に信仰があることを感謝した時はありません。世の中は失業者で溢れています。自殺大国・日本のニュースを耳にしながら、主人だって信じるものがなければ、神様の約束がなければ、自分で命を落とす選択をしてもおかしくない、と思いました。

二人で一緒に聖書を読み、祈る時間を過ごすようになったことも感謝でした。それまで、自分のスケジュールに合わせて別々にやっていた私たちでしたが、ふと気付くと同じ時間帯に異なる場所でしていました。そこで、子供たちの夏休みが終わり学校へ戻るようになってから、朝食後のひとときを聖書と祈りの時間にあてました。一人だけで聖書を読む時には得られない新鮮さと深い味わいがありました。祈りも一人で捧げるより数倍、神様に心を向けることができました。子供や家のことなどをじっくり話し、同じ思いの上に立って祈っている連帯感がありました。主人が仕事に忙殺されていた頃は普段の会話が乏しく、たまに時間が出来るとかえって話題に困った私でした。「こんなことでは老後が思いやられる・・・。」と案じていたのですが、聖書を媒介にして豊かな時間を過ごせることを経験しました。

一年の間に主人はもっと深いレベルで苦悩を味わったことを後から知り(2010年10月号に証しが掲載されています。『我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか』)気付かないでいたことを申し訳なく思いましたが、私にとっては穏やかで淡々とした日々が続き、「これが神様の語られた“苦しみ”なのかな?」と首をかしげるほどでした。

こうして時が経ち、主人は晴れて新しい仕事に就くことができました。職探しの間、ほかの町や他の州、あるいは日本への引越しまで覚悟した私たちです。経済的な負担を減らすために、同じ町内で小さな家へ引越そうと考えたこともありました。それが結局、前の職場からさほど離れていない会社へ通うことになり、住んでいる家も維持できることになりました。主人が初めて出勤する日の朝、一年前と変わらず、同じ家から同じ時間に同じ電車で出勤する主人を見送りながら、神様に深く感謝しました。神様は聖書の言葉のとおり、私たちを捨てることがなかったのです。そして、傍から見たら以前とまったく同じ生活に戻った私たちですが、主人の失業というフィルターを通して、与えられているものすべての持つ意味が、価値が、大きく変わりました。それは、まさしく、神様の「掟」を知る経験でした。

今、手元に手紙の束があります。主人の仕事が決まった時にeメールでやり取りした皆さんからのメッセージを印刷したものです。すべて大切にフォルダーにしまい、表紙に聖書の言葉をシールにして貼りました。

喜ぶものとともに喜び、泣くものとともに泣きなさい。 (ローマ人への手紙12章15節)

沢山の方々が一緒に喜んでくださった証しです。主人の失業を知らせた時には、共に涙してくださいました。仕事が見つかるまでの間は、温かい言葉や差し入れ、祈りによって支え励ましてくださいました。

私たちから決して離れず、いつでも一番心の動きを知ってくださったのはイエス様です。人間の姿となって地上に降りてきてくださった故に、人の苦悩も弱さもご存知で慈しみ深く、しかし神様であられる故に、変わらぬ愛で寄り添うことのできるキリスト・イエスです。でも、神様は私たちの周りにいる方々を通して、さらに豊かに、更に彩りを添えて神様のご計画を成し遂げてくださいました。御手を伸ばしてくださいました。

宝物がぎっしり詰まった一年間でした。主にハレルヤ。感謝します。

月報2011年4月号より

ザイオン教会元牧師ラインハイマー先生のメッセージ

私たちが会堂を使わせていただいているザイオン教会の元牧師のダニエル・ラインハイマー先生が、去る1月27日に突然主のもとに召されて行かれました。先生は、私たちがここで礼拝を持てるようになるために本当に愛を注ぎ、ご尽力された方です。ここに感謝の気持ちを込めて、先生が1999年10月24日に私たちの礼拝で語ってくださったメッセージを掲載いたします。先生が、このメッセージの中で語られた言葉の通り、本当に私たちに深い愛を注いでくださり、私たちに多くのものを与えてくださった、という証言を添えて・・・。

「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」コリント人への第1の手紙13章13節。

神の民である愛する皆さん、錦織牧師とニュージャージー日本語キリスト教会のメンバーの皆さんや、ここに集う皆さん、今日、私がここで皆さんと共にいられることをとてもうれしく思います。またここで日本語を話す皆さんのための働きが進められていることを本当に主に感謝します。
1988年の2月のある夜、そうです、正木茂先生が私たちが聖書研究会をしている時に、この教会に入ってこられたその夜のことを私は思い出します。その夜、その正木牧師は、この教会の鍵をその手に、そして、「このザイオン教会で礼拝を守って下さい」という招きの言葉を胸に、この場を後にしたのでした。正木牧師はわずか4家族のメンバーと共に日本語教会を始めました。正式なメンバーは10人で始まったのです。妻と私は、茂先生とまたすばらしいエネルギッシュな奥様、まさえ先生と親しくさせていただきました。先生はとても誠実な、聖霊に満たされた方であり、主に全てをささげ、福音を伝えるのにとても熱心な方でした。先生はまたブレッド・キャスティング・アメリカを設立され、電波を通して福音を伝えることにも時間を費やされました。現在、先生ご夫妻はインディアナ、イリノイ、ケンタッキー、ミシガン、ミズーリにおられる日本人の方々のためにミズーリ・ルーテル教会の宣教師としてご奉仕しておられます。(注:現在は日本に帰国されています)

その次に来られたのが石賀誠牧師でした。1992年から1994年まで2年間牧会をされました。先生と奥さんとまた素敵なお嬢さん方には、アメリカでの最初のサンクスギビングディナーを私たちと一緒に過ごしていただいたことを始め、よい交わりをさせていただきました。また先生がいろんな国の言葉で神様を賛美しておられたのが印象に残っています。

次に日本語の方々のためにこのザイオン教会に来られたのが池原三善牧師でした。言葉の壁がありましたので、先生や御家族とは願っていたほど深くはお知り合いになれません

でした。しかし、先生の豊かな働きによって教会は成長していったのであります。
そして、私は1997年7月に現在の皆さんの牧師である錦織学牧師の按手(注:牧師としての任命式)に加わらせていただくという栄誉と特権に預かりました。それはあの6000人もの方が亡くなった恐ろしい神戸の地震から2年がたった時で、皆さんの悲しみに深く触れていただく時となったと思います。神は私たちの人生の悲劇を用いて主を愛する者たちに約束されたよきものを与えて下さる方です。
皆さんについて本当にすばらしいなあ、と思うことがたくさんあります。祈りに時間をささげ、聖書の御言葉を愛する姿勢。他の方々に神様の愛のよきおとずれを伝えようという情熱。神様から与えられたものを喜んでささげ、大切に使う姿勢。お会いするたびに礼儀正しくまた親しく挨拶をして下さること。神への力強い賛美などです。
皆さんの主イエスへの信仰もすばらしいと思います。そして、そのことで神様に感謝しています。信仰は神の与えて下さるものです。私たちの働きではありません。だれも、聖霊さまの力によらなければイエスを主であると告白することはできないのです。そして、その信仰は神の御言葉を聞くことから生まれるのです。

ここで、今、この場所で、この時に、神様の霊が聞いておられる皆さんの心に信仰を立てあげるのです。信仰とは何でしょうか?信仰はナザレのイエス、神の御子、約束されたメシヤ、キリスト御自身とその御業への信頼なのです。イエスは人として完璧な人生を歩まれました。そして、その命を私たちの罪のために十字架の上に犠牲にされたのです。信仰によってこのお方を受け入れる者はすべて神の子とされ、永遠の命を受け継ぐものとなるのです。私はイエスを信じています。自分の信仰を信じているのではないのです。私の信仰の大きさが山を動かすのではありません。主ご自身の偉大さへの信仰が山を動かすのです。

聖霊様の与えて下さる最大の賜物は信仰と希望と愛です。

私たちの希望は単に、何事でも楽観的に希望的に考えることではありません。神の約束にしっかりと根を下ろしたもので

す。神様の御言葉は真実であり、真理であるからです。私たちの希望は、今持っていないものを慕い求めることであり、
それが与えられると期待しながら求めることです。信仰は私たちの希望に確信を与えてくれるのです。

私たちがあちらの天国に行った時にはもう、信仰も希望も必要ではなくなります。神は天国の宝の中から与えて下さるものがすべてわかっているからです。

しかし、愛は永遠です。「互いに愛し合いなさい」ということこそ、私たちの主から私たちに与えられているただ一つの戒めです。そのような神の愛のあるところに神はおられます。
愛は自分を与えるものです。犠牲を払うものです。「神はそのひとり子を賜ったほどにこの世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を得るためなのである。」私たちは愛すること無しに与えることはできるでしょう。しかし、与えること無しに愛することはできないのです。愛は自己中心的ではありません。妬むことをしません。高ぶりません。傲慢ではありません。無作法をしません。愛は恨みを抱きません。愛は赦すのです。愛は過ちを数え上げたりしません。古い傷を大事にしたりしません。愛は赦すのです。赦すことができない人は自分が渡らなければいけない橋を壊しているのです。他の人々を赦すことによって神によって赦されるのです。赦すということはクリスチャンだからできる大切なことです。もし私たちがクリスチャンでないならば、別にそんなことはしないでしょう。それは私たちが吸う息であり、私たちが歩く地面のようなものです。赦しのないところに命はありません。愛は赦すのです。神の愛のような愛は忍耐深く、親切で、人を理解しようとします。それはまさにこの世で天国を、パラダイスの雰囲気を、先に味わっているようなものです。愛は永遠なのです。

ですから、パウロは私たちに言っているのです。「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守りますように。

月報2011年3月号より

「私がニュージャージー日本語教会に行くようになったのは…」

私がニュージャージー日本語教会に行くようになったのは、2008年の夏。そして、2010年の8月22日に受洗の恵みをいただきました。
私が洗礼を受けるまでの2年間、主日礼拝は一週間の心の汚れをクレンジングし、リセット し、新たに始まる一週間へのエネルギーを頂いてはいましたが、洗礼を受けることは、実はかなり抵抗がありました。そこには、私が乗り越えるのが困難だったハードルが2つありました。
一つ目は、『冠婚葬祭のこと』 私の実家は神道。私が小学校に上がって間もない頃、高校に入学したばかりの年の離れた姉が白血病で亡くなりました。神道では、亡くなればみんな神様になって私たち家族を守ってくれるのだ。と母から聞いていましたので、私はそういうものだと思っていました。毎晩必ず寝る前に神棚の前で手を合わせ、祝詞(聖書のみ言葉のようなもの)を唱えてから床についていました。そして、神様は、亡くなった家族やご先祖様だけでなく、太陽や大地、海、山等々自然も含まれ、いっぱいあちらこちらに大勢いるものだと何の疑いもなくそう思っていました。その結果、すべてのものに感謝し神様を受け入れることは、何の疑いも抵抗もなく自然に培われたように思います。
話は?し飛びますが、私がキリスト教に興味を持つようになったきっかけはマザー・テレサでした。何かのTV番組で観たのですが、マザー・テレサが行き倒れて死に行く人の最後を看取る時、その人が信じている宗教を尊重し、クリスチャンなら聖書を、イスラム教徒ならコーランを、ヒンズー教徒には聖典を読んで見送るというのに深く感動しました。 が、教会に来るようになって、神棚も仏壇もだめ、冠婚葬祭で故人の宗教の流儀に合わせない、初詣もしない。というのを知ってかなり疑問に思いました。その人をそのまま受け入れるものが愛であり尊敬ではないの?亡くなった姉や祖父母は偶像ではなく家族であり、生きているか死んでいるかの違いはあっても、自分の家族を思う気持ちは同じ。亡くなった後でも、話しかけたり大変なときに相談したり甘えたりすることを、偶像礼拝の中に含められるのはおかしいと思いましたし、信じている家族の気持ちを思いやる必要はないの?とも思い、なんと視野の狭い、器の小さい宗教だと、その時は感じました。そして、もし私が親戚のお葬式や法事に出ない、死者へ手を合わせなかった場合、母は確実に私をただでは済ませないだろうな。と思っていました。
2つ目は、『なぜ神様と私だけの関係ではだめなの?』 今思えば、勝手に作り上げた完璧なクリスチャンの理想像に対する失望でした。クリスチャンでない私でも、いくつかの聖書のみ言葉は知っていましたし、クリスチャン=敬虔な人だと思っていました。多分、キリスト教や聖書をちゃんと学んだことのない人は、きっと私と同じように思っている人は結構いると思います。あまりにも崇高な聖書の言葉が独り歩きし、そのように生き、実行しているのがクリスチャンだと勝手に思っていたので、人に躓きました。 『人を見ないで神様だけをみて。』と言われても見るのが人間であり、『あの?、人である私を見てるのはクリスチャンの方なんですけど、クリスチャンでない私が言われるんですか?』と思ったこともありました。今思えば不謹慎ですが、『とても良い人なのに神様を知らないだけで地獄に行き、自己中でもクリスチャンになっただけで赦され天国に行くの?天国にはクリスチャンばっかりウジャウジャいるんだったら、地獄の方が楽しくていいかも。』とさえ言い放ち、申し訳ないですが錦織先生を唸ならせ椅子から転げ落ちそうにしてしまったこともありました。ビジターの方が自由で気負いがなく、真面目さゆえに人を責めたり妬んだりする人からのリスクを回避するためにも、このまま神様と私だけの関係だけでいいと思っていました。なんと理屈っぽい、素直じゃないと言われそうですが、私が心から洗礼を受けたいと願い、神様を心から信じ従おうと思えなければ、形だけ知識だけのクリスチャンになりそうで、それでは意味がないと思っていたのも事実でした。
では、何故そんな私が、洗礼を受けたか?というと…、勢いでした。色々問題を抱えていた私は、疲れて考えるのが面倒になり、洗礼を受けたら祝福や恵みや神様の御業を見せてもらえるかも、何かが変わるかもと甘い期待をしていました。また、確固たる基準(経験や状況、感情、人によってころころ変わる基準ではない、不変の基準)を心から求めていました。が、洗礼を受けた後、甘い期待とは正反対の体験、それは2008年9月に東海岸合同キャンプで講師で来られていた中川先生のお言葉を思い出すような体験をすることになりました。
『クリスチャンになって良いことがいっぱいあって楽になったというより、問題が増えて大変な経験をしたと思う人、手を上げて。』大勢の人が手を挙げていました。その時の私は、宗教とは現世利益を得るもので、苦しみや試練が増えるようなら本末転倒。なんでわざわざ試練を受けるために洗礼を受けてクリスチャンになるわけ?と思っていたことを、後になって思い出しました。そして、中川先生がおっしゃった通り、さらに私の問題の状況は悪化してゆきました。生きていくということは、こんなにも虚しく世知辛いものなのか、なんと愛のない人の中で生きていくことなのかという思いの中にいました。ある時は、全ての人の記憶から私の存在を消したいとさえ思っていました。教会の人の記憶からは私が教会に来ていることも洗礼を受けたことも、職場でもプライベートでも私が関わる全ての人の記憶の中から、そして、特に母からは私を生んだことの記憶さえ消し、こんな娘はいなかったと忘れさせることができたらどんなに楽だろうかと。。
しかし、そのような経験も多くの祈りと励ましをいただく中で、?しずつ霊的に目を開かされ、人に傷つき人に生かされ、成長することをことを体験させていただきました。2週に亘っての錦織先生の礼拝のメッセージ『キリストによる新しい共同体(1/16)』『赦し合いの共同体(1/23)』で、私たちは一人で生きていくためでなく、互いに支え赦しあって生きるために神様は私たちを作られた。『赦しあうこと』を学ぶことが目的だったと語られました。それが目的だと分かった今、その為に共同体に招き入れられ、『なぜ神様と私だけの関係ではだめなの?』の答えが、やっと胸の中にストンと落ちたようでした。
それでも人を愛せない、赦せないのが人間で、理解と行動を一致させ簡単に実行できるわけではありません。信頼する、信頼されることの大切さや喜びも学んだ一方、人と信頼関係を築くには、「時間、約束、お金」に誠実でなけば、簡単に崩壊してしまうことも感じました。そして、一度崩壊した関係は、簡単には修復できない難しさも感じています。しかし、本当に自分の罪がキリストの十字架で赦されたと理屈ではなく心で実感できたなら、きっと他人のことは小さくなるのだろうと思っています。
教会図書で借りたある本の中の『はじめに』に書かれていた箇所からで、今でも心に響き残っているものですが、それは著者である牧師が、牧師として一番苦しかった時は?の質問に答えられた文章でした。 『一度でいい、自分は悪くない、君が悪いんだ。』と言いたかった。と書かれていたある牧師の文章に対し深い感銘を受けた。事実を捻じ曲げ捏造され、事実無根のことで責められるとき、人の罪を負うというのはこういうことなのか、そして、全ての人の罪を負ってくださったイエス様の苦しさを計り知る。 そのような内容でした。正当な評価を受けられないことの悔しさ、事実を捻じ曲げられることの苦しさをも受け入れ、そこにキリストの十字架の赦しに心馳せることは霊的成熟がなければできないと思いました。私は、キリストの十字架を本当に私のためのものだったとまだ実感できていないのですが、それでも?しずつ導かれていることに感謝しています。そして、神様からのたくさんの愛を頂き、いつか霊的な心の背丈が伸びた時できるのかな。そうなりたいな。と期待しています。
私たちはみんな『神様の作品』。自分の限界を知り、与えられた賜物を大切にし、それを活かして神様の品性に近づく者とさせていただきたいと思います。できない自分を駄目なんだと卑屈になることなく、できる自分を自分の力だと奢り傲慢になることもなく、今年の聖句である『主イエス.キリストの十字架』を唯一の誇として、そして神の知恵を不変の基準として歩んで行けるようにと思います。洗礼を受けた日の夜、この先神様を信じられないようなことが起こったとしても、私は信じることを自分の意思で選択したのだから、感情ではなく理性をもって信じていこうと思いました。

<2011年の聖句>
私自身には、私たちの主イエス.キリストの十字架以外に、誇りとするものは、断じてあってはならない。ガラテヤ6:14
これから神様がどのように私を導き、整え、私だけにカスタマイズされた計画の中で使っていただけるのか、今から楽しみです。

月報2011年2月号より

「私には3人の小さな息子がおり…」

私には3人の小さな息子がおり、2009年の Joy Joy Camp にその当時6歳だった長男を参加させました。一週間のそのキャンプが楽しくてたまらなかったようです。それ以来家族を連れて時間があれば教会に通うような生活が始まりました。

今年の夏は、次男と三男が通っているプレスクールも一足早く夏休みに入り、3ヶ月の長い休みを忙しく過ごすことになりました。どういう訳か、今年は夏休みに入る前から自分の気持ちが何に対しても消極的になっていました。今までの人生の中でそんな風に思った事はなかったのですが、自分でも何故かなと思いつつ過ごしていました。小さな下の二人は何処に連れて行っても時間がかかる事ばかりで、育児に対する精神面では、自分自身もかなり一杯一杯のところでがんばっていたように思います。自分自身をどこかで発散出来る時間を持っていた訳でもなく、友達と普段のように話をする時間を持っていた訳でもなく、その上、長男の学校が夏休みに入ると最初の一ヶ月はタウンのキャンプ、次の一ヶ月はアイスホッケーのキャンプと、本当にどういう訳か自分の気がめいっていきました。そんなある日、自分自身に異変を感じました。ご飯を作ることも出来なかったどころか、気持ちが下に下に向いていき、そして、時にはいきなり精神異常者のような行動さえも取ってしまいそうになりました。何かに呪われたかのように短い距離を行ったり来たり、頭が混乱して自分がつぶれそうになったり、いきなり大声を出しそうになったりしました。私はついにおかしくなってしまったと思いました。でも、頭の中にあるほんの少しの正常な気持ちが、そんな自分の姿を子供に見られたくはないと思い、必死で自分の行動を止めました。

そんななか、まだ長男のホッケーキャンプが後3日程残っていました。主人が朝連れて行ってくれたので私はピックアップするだけだったのですが、その日アイスホッケーリンクの小さな更衣室で息子を見るといきなりパニックに陥り、その時も母親である私は必死になって自分の姿を息子に見られないようにと、かすかな自分の正常心に頼って、自分をがんばって抑えました。あとの残り2回のピックアップは到底この精神状態では無理だと思い、どうしようかと悩みに悩みました。

次の日のピックアップの1時間前頃、私はある一つのセンテンスを思い出しました。教会で錦織牧師の説教を聴いている時にあった、“もし神様がいるのなら祈ってみようと、その人達は思いました。”でした。神様の事も聖書の事もまったく知らなかった私ですが、不思議とその言葉が強烈に印象に残っていました。そこで私は、もうこれしかないと思いました。もし神様がおられるのなら祈ってみようと。私は心を静め、ひざまづき、全身全霊で祈りました。“神様、本当にあなたが居られるのなら私を助けて下さい。今の私では息子を迎えに行くことすら出来ません。どうすればいいのでしょうか?助けて下さい。御願いします。”すると、出発しなければならない時間の少し前に友人から電話があり、事情を聞くなりすぐに飛んで来てくれて、私の代わりに行ってくれました。有難い事に、次の日も行ってくれて本当に助かりました。実は、その人なら頼んでみようかなと思ってた相手からの電話だったので、少しびっくりしました。

そんなある日、体力的にも精神的にも限界を感じ、子供を友達の家に預けて主人に緊急病院に連れて行ってもらいました。何にも悲しいことがないはずなのに、涙が止まらずずっと泣いていました。悲しくて悲しくてたまりませんでした。私は、今まで自分が強い人間だと思って生きて来ていたので、とてもショックでした。強く生きてきたはずだった私が、3人の子供すらもまともに育てられない人間だったのかと。なんて弱い人間だったんだと自分であきれてしまいました。病院では精神科医と話をし、その後もフォローアップが必要との事でした。血液検査の結果は正常だったので、しばらくして家に戻されました。その時以来うつ病解消の薬を飲み続けていますが、薬は直ぐに効き始め快適でした。ただやはり最初のうちは、誰かと何時もいないと不安で不安でたまりませんでした。

主人には以前から予定していた10日間程の日本出張がすぐにひかえており、一人で子供と一緒にいるには本当に心配で、と言うよりは無理だと思いました。その時、友人から9月の東海岸合同ファミリーキャンプに誘われ、周りの人達の協力もあり、息子3人と私とで参加出来る事になりました。とても有難いことでした。何かあっても一人じゃないという安心感で、夜もよく寝れました。キャンプ1日目は、普段の疲れもあり、一人でゆっくりと部屋で休養を取りました。2日目は、岩淵まことさんの“God Bless You” を聴き感動しました。歌声もさることながら、あの歌詞が自分の心境にぴったりとはまっており、そこに加えて神様の存在が入っていました。神様の存在に興味がある私ではなかったのですが、その歌詞によって、“もしかしたら、神様と私の関係とはこのような関係なのかな?”とか、“神様はこんな風に私を祝福してくれたり、守ってくれたりするのかな?”などと少し気になり始めました。不思議と、この曲は、クリスチャンではなかった私が一生聴いていく曲だと思いました。

3日目、キャンプも終盤に入ってきました。それでも、まだまだ私の心は神様に向いていませんでした。最後に岩淵まことさんが、また“God Bless You”を歌われ、ついに心が込み上げてきて大泣きしてしまいました。歌が終わるとすぐに、特に私を支えてくれた友人2人と大きなハグを交わしました。その間、人間というのはこんなにも心の底から果てしなく力強い感謝の気持ちが湧いてくるのかと思うぐらい、今までに初めての感謝の湧き出る力に驚きました。本当に驚くぐらいのパワーで、自分には無い何かの力が加わったような感じでした。ようやく涙も止まり、すべてのものが身体から出でしまったかのような感じになり、ぼーっとしていた時に奇跡が起こりました。太い空気のつつの様な物が喉の真ん中の方からゆっくりと喉の下の方に降りてきて、もしその縦のつつのラインが全ての正常を意味するならば、私の精神面と体力面はそのラインから遥かかけ離れた所にあり、まるでその2つの面がそのつつに引き寄せられてバシッとパズルのようにはめ込まれた様な感覚を感じました。ガシャッ、ガシャッとはめ込まれた音が聞こえたようにも感じました。すると男の人の声で、“あなたは、もう守られたので安心して下さい。”と聞こえてきました。その次に、胸の辺り一帯が暖かくなってとても心地よい気持ちよさを感じました。それが終わると、頭の先から爪の先まで全身がやさしさに包まれました。そのやさしさは、人間の力では出せない心地良さであって、何かに包まれたような感じというか、身体の全てが入れ替えられていた感じというか、何ともどういう風に伝えたらいいのか、とにかくとてもやさしく身体が宙に浮いたような気持ちの良い感覚を感じました。30秒ぐらいの体験だったと思います。一体あれは何だったんだろうと不思議に思いながらキャンプから帰りました。その数日後、その体験をクリスチャン夫婦に話したところ、その話に驚かれて、“それは聖霊様の働きです。”と言われ驚きました。正直に言って、聖霊様と言われてもあまり判らなかったのですが、それからその事について一日中考える毎日を過ごしました。考えて考えたあげくに、あれは神様だったのかと疑いなく認めることが出来、そして、またあの時の事を思い出しました。思い起こせば、あの時の一瞬にて、私は神様から最大の愛を頂き、強さ、やさしさ、友情、光、勇気など、人間が生きていく上で必要なもの全てを捧げて頂いたと確信しました。どんなにすばらしい人でもこんな事は出来る訳がありません。私は今までの人生の中で、この人は尊敬できる人だとか、こんな人に憧れるとか、あまり思ったことは無かったのですが、神様の存在は別格でした。神様は人ではありませんが、人だとするならば、こんなにすばらしい人が居るなら全身全霊を賭けて着いて行こうと思いました。着いて行かないと損をすると思ったり、いや、一歩も離れたくないとも思いました。そして、こんなに弱い人間の私が神様をいつも胸に持つことで、以前よりも楽な気持ちで、神様を通す事によって自分自身が強くなれている事を実感し、それに加え、平安と豊かさをも与えられている自分に驚かされます。

確かに以前の私は、一人で踏ん張っていたどころか、豊かさなど全く持っていませんでした。神様の力はこんなにも凄いものかと、想像を遥かに超え、何もかもが驚きでなりません。神様に出会ってから、今まで心の底から感じることの出来なかった“豊か”と言う言葉が大好きになりました。
最近いつも思うことですが、普段の生活の中で“偶然”はなく、神様が居るからこそそれが起こったんだと考えると、小さな事にも神様の存在を感じ、胸が高鳴る思いの感動を与えられます。神様は目に見えるものよりも目に見えないものを信じると言う事を教えてくれました。それは決して目の前から消え去る事がなく、いつも自分の中に存在してくれるからです。私は、いつでもどんな時でも神様と一緒です。そして、そこには暗闇も無ければ不安もありません。私にはすばらしい家族がいますが、神様はわたしの全てであり、私の救い主でもあります。今日に至るまで、神様はたくさんの人達を通して私を支えて下さり、いつも愛と恵みを注いでくれています。私は、これからの人生を神様と共に過ごせる事を喜びに思い、神様に向かって私はいつも心を全開にし、お祈りを捧げ、賛美していきます。

全てを主に感謝して。

月報2011年1月号より

「主に信頼する者は祝福される」 

元メンバーで今は横浜にお住まいの中上祐子姉のお母様が、今年の10月3日に天に召されました。お母様はNJに住んでおられた中上姉のご一家を訪ねて、JCCNJにおいでになったこともあります。今回、お願いして中上姉のお母様の召天に際してのお証を頂きましたので、ここに掲載させていただきます。

「主に信頼する者は祝福される」

「主に信頼する者は祝福される」 これは母が最期に残したメッセージです。
去る10月3日、母が天に召されました。
「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」_テモテ4:6,7
この御言葉を思い浮かべることのできるような天への凱旋でした。私が10歳のときに父が天に召されてから女手一つで育ててくれた母は、私にとって最愛の人であり頼りにしていた存在であったと今さらながら気付かされます。

母は父と結婚してまもなく岐阜県瑞浪市で開拓伝道をスタートさせました。牧師夫人として陰で支えていましたが、父が召されて後、今から13年前に母が牧師として仕えるように導かれました。2005年からは名古屋にあるホープチャーチの牧師として仕え始め、今年でちょうど5年目に入るところでした。
今年の初めに母はこの1年の主への決心として「信頼」という言葉を掲げました。「今年は何があっても主に信頼します」そのような決意でいました。
今年、主が自分に何をしてくださるのだろう、という期待をもって歩み始めた1月の半ばに突然の腹痛で病院に行きました。検査の結果、末期の大腸がんで転移もしている、即入院となりました。原発となっている大腸がんの手術がすぐに行われましたが、この手術は成功し、比較的早く退院することができました。
体力が回復してきた頃から、次はリンパに転移しているがんの進行をおさえるための抗がん剤治療が始まりました。それは同時に母の信仰の戦いの始まりでもありました。
苦しい副作用で寝たきりの状態が続くなか、母は主の前に祈り求めていました。
この治療を受けることは本当に主の御心でしょうか?
たくさん、たくさん祈ったことでしょう、今年の初めに主に決心した「信頼」という言葉を通して主からの語りかけをいただき、主と母のあいだで母は抗がん剤治療を受けない、という決心をしました。これは他の人にはなかなか理解されにくいことであったかもしれませんが、私は母自身が祈ってそのように導かれたことだとなぜか容易に受け入れる事ができ、不思議な平安がありました。主が母のその決心をサポートするようにと私の心までも準備していてくださったと信じます。
そして母はその後の抗がん剤治療をやめました。めきめきと体力も回復し、母は牧師としての働きに戻りました。メッセージを語らせていただけること、学びの準備をすること、また平日に教会に行って仕事をすること、また食事ができること、すべてにおいて喜んでいました。
余命は医師から宣告されていたようです。でも自分のいのちは主の御手のなかにあり、主が良し、とされたときには主のもとに行くし、主がまだ、と言われるならばこの地上で主のために働かせてください、というのが母の祈りでした。
母が抗がん剤の治療で苦しいときに、少しでも母の励ましになれば、と思って、今示されていることなど何でもいいから形にしてCDに残してみない?と提案したことがありました。「今はとてもそんな気になれない」、当然ながらそんな断りの返事でしたが、抗がん剤治療を止めてしばらくしたったある日「やっぱりあかしを録音してもらいたいな」、と言ってくれて4月に横浜での録音が実現しました。これが本当に末期のがん患者かと思うほど元気で顔色も良く、何より喜びと活力に満ちていて、娘ながら圧倒されるほどでしたが、心のどこかでこれが最期の録音になるかもしれない、と思いつつ臨みました。
6月には母の念願であった父の召天30周年記念礼拝をすることができ、大きな役割を終えたとホッとしていました。その会は祖父である父のことを全く知らない孫たちに、信仰者としての祖父の姿を知ってほしいという母の祈りに満ちていました。
一つ一つ身のまわりの整理をし、準備して行く母。最期はホスピスで過ごしたいと、こちらも自分で準備していたおかげで、希望通り最期のときをホスピスで過ごしました。
そのホスピスは2009年3月に開院するにあたってボランティアを募集したことがあったのですが、実は母はそのボランティアになるべく研修をしばらく受けていたことがありました。母はもし導きならばこのボランティアの働きを通して、人生の最期を迎える方に福音を少しでも語る機会が与えられれば、という願いもあって研修を受けていたのです。しかし研修を受けて行く毎に、ボランティアの身では語ることは許されない、ということがわかりその研修はやめました。そんなことがあったので、母にとってこのホスピスに入ることはとても不思議な導きであったでしょう。ボランティアの身では語ることが許されなくとも自分が病人としてこのホスピスに入った今、自分には他の病室の方やお見舞いに来てくださる方に自由に語る事が許されている、私は何と幸いなんだろう、と母は喜んでいました。
ホスピスに入ったのは9月の初め。7月頃に「4月に録音したあかしとは違うあかしになっているからまた録り直したい、9月には横浜にまた行くから」と言っていましたが、実現することはありませんでした。その代わりに病室で母のあかしを録音しました。転移したがんのために喉の詰まりがひどく水はもちろん唾も飲み込めないほどでしたが、一度語り始めたら聖霊に油注がれて言葉が溢れ出し、主に導かれるように語りだしました。今でもそのときの姿は目に焼き付いています。母のリクエスト通り告別式にお渡しする物としていつ来るのか分からない、けれど確実に近づいている最期のときのために準備していきました。
9月も終わりに近づこうとしていたある日、いつものようにホスピスにいる母に電話をかけたら、「あと一つだけあかしに付け加えて欲しいことがあるから代読してほしい」と頼まれました。その内容を聞いたとき、私は涙が溢れ出ました。なぜならば、その一言には母が最期に主からいただいた大事な大事なメッセージが詰まっていたからです。次に会いに行くときにわかるようにメモしておいてね、と涙ながら伝えましたが、その次に母に会ったのは母の意識がなくなったという知らせを受けてからでした。メモはちゃんとありました。手に力が入らなくなったような字で最期のメッセージが書かれていました。
「私は今まで高慢な自分であることに気付かなかった。ホスピスに入ってなおも、自分を用いていただきたい、イエス様の働きをもっとさせていただきたいと思っていた。でも主が私にさせたいことは、私が何もできない者であることを教えるためであった。」
このような病になってもなおホスピスでも用いていただけるのなら用いていただきたい、と願っていた母でしたが、現実は日々倦怠感のため病室から出ることさえもできなかった。痛みは緩和されても体力的に談話室に行く事もできなかった。自分が思い描いていた姿とはほど遠かったこの現実に、母はきっと落胆の思いで涙の谷を通ったことでしょう。自分のいのちが尽きるその時まで私を用いてください、そのような祈りが決して間違っているとは思いません。しかし、過酷な幼少時代を過ごした母にとっては、自分ががんばれば何でもできると今まで人一倍がんばって生きてきた、いや、そのように生きるしかなかった母に、主はこのようなところを通してでも最期の最期にどうしても伝えたい大きな大きなメッセージがあったのだとわかりました。
「私の恵みはあなたに十分だよ、何もできなくてもあなたの存在自体を愛している、それで良いのだ」
この主からの語りかけに母は本当の意味で初めて主のみつばさのもとで身を休めたことでしょう。それを現すかのように、丸2日意識がなくなって深い眠りに入っていたときの母は、痛みも全くない状態で実に安らかな顔をしていました。まるで今までの眠りを取り戻すかのように深い息で呼吸し、病室内は何とも言えぬ主の平安で満ちていました。そしてついにこの地上での最期のときには、主からのこの愛のメッセージをにぎりしめながら主の御腕に抱かれ主のもとに行ったことと思います。
決して平坦ではなかった闘病生活、信仰も毎日毎日が戦いであったことが後に母が記した日記からわかりました。それでも「私は後悔は一つもないのよ、大丈夫、主が最善をなしてくださるから」と言っていた母。何もできなくとも母のその信仰の姿こそが多くの人を励まし力づけました。そして何よりも、母が最期に主から受け取ったメッセージは、後に連なる私たちの信仰に大きな祝福と励ましを与えてくれました。たとえ思い描く姿が自分が願っていたようではなくても、なお主の語りかけに耳を傾け続けた、そのような母の主に対する信仰を少しでも受け継げたら、そのように思います。
「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」_テモテ4:8
私たちは皆、いつしかその時を迎えます。その時が来るまで、主に信頼し、勇敢に戦い、走るべき道のりを走り、信仰を守り通すことができるように、互いに祈り合い、愛し合い、励まし合う者とされたいと願います。
堪え難い現実から逃れたいような時があったとしても「あなたの存在自体を愛している」と語ってくださる主がおられるなら、私たちはきっと走るべき道のりを勇敢に走り終えることができる。主を見上げて歩んで行きたいと思います。
全てを主に感謝して。

月報2010年12月号より