ランディ・ホンゴー牧師による証

今回の証は、私たちの教会を東海岸の母教会と呼んで懇意にしてくださっているChristian Visionのランディ・ホンゴー先生が書いてくださいました。
(http://www.rghongo.com)

私は1947年7月1日、ハワイのビッグアイランドと言われるハワイ島のヒロという町で生まれました。私の父は日系人で、母はハワイ人と中国人のハーフでした。2歳下にルツという妹がいます。両親はランの栽培をしていました。私は子供の頃は農園で花を摘む手伝いをしていました。大きくなって車の運転ができるようになると、私はランを花屋に届けたり、世界中に出荷するために、空港まで配達したりしていました。私の両親は、ずっと、私が家の仕事を継ぐことを期待していました。

しかし、ハイスクールの時に、私はクリスチャンになり、人生が変わりました。私はユース・フォー・クライストというクリスチャンクラブに参加するようになり、そこで、クリスチャンの友達がどのように信仰を持つようになったのかという証しを聞いたのです。初めて聖書を読みました。クリスチャンの賛美歌を知りました。4ヶ月その集まりに通ううちに、私はイエスがどんなに私のことを愛してくださっているかを知りました。イエスを私の個人的な主、救い主として受け入れる準備ができたのです。そして、1963年12月22日、私はイエスを受け入れました。

それから、私は神様に、自分にどんな仕事をして欲しいと思っておられるか、見せてください、と祈るようになりました。私は10歳からピアノを始めていましたが、ピアノを弾くのが大好きでした。また文章を書くのも好きでした。ですから、私は神様に祈りました。「私は家を継いでランの農園をすべきでしょうか?それとも、英語の教師でしょうか?それとも、音楽の教師でしょうか?」

1965年にハイスクールを卒業すると、私はオアフ島に出てきました。ホノルルのハワイ大学に入学したのです。私は英語の先生になろうと英語を勉強することにしました。でも、私は音楽が大好きだったので、音楽のクラスも取りました。その音楽のクラスでキュートな女の子に会いました。彼女の名前はゲイ・シンサトといいました。彼女と私は最初は良い友達となり、やがて恋に落ちたのです。

ゲイはとても美しい歌声をしていました。そして、時々は私も一緒に歌を歌いました。それまでの私はシンガーというよりもピアニストでしたが、彼女と一緒に歌うことによって、シンガーとしても上達したようです。彼女は私に会う前の年にクリスチャンになっていました。彼女は私を教会に誘ってくれました。私は他の島からやってきたので、ホノルルの教会については何も知らなかったのです。ゲイのおかげで、私はカリヒ・ユニオン・チャーチに通い始めました。

英語で学位を取って、私は大学を卒業しました。卒業してすぐ、ゴスペルを歌うチームの一員として、アメリカ本土に招かれて、1年間、アメリカ中を回りました。そして、ハワイに帰って、1971年7月31日にゲイと結婚しました。

結婚する頃には、ゲイと私はチームとして、自分たちの教会や他の教会でも、一緒に歌うようになっていました。ゲイはハイスクールで音楽を教え、私は小学校の4年生を教え始めました。そんな時、神様は、私に音楽の仕事をするようにと語り始められたのです。3年ののち、1975年に私たちはケンタッキーのルイビルに引っ越しました。そこで神学校に通い、教会音楽の修士号を取るためです。このころの私の計画はハワイの教会で音楽主事として働くということでした。このルイビルで1978年の4月3日に息子のアンドリューが生まれました。ルイビルでは多くのバプテスト教会が私たちを招いてくださって、賛美の歌を歌うチャンスを与えてくれました。この期間は、ハワイの文化や音楽、そして、クリスチャンとしての証しを分かち合う働きを始めるための準備の時として、神様が私たちを訓練してくださる時だったのだと思います。

私たちは1980年にハワイに戻りました。そして、カリヒ・ユニオン・チャーチで音楽主事として働き始めました。同時に、いくつもの教会から「歌って欲しい」との依頼が入るようになりました。私たちは神様の導きを感じて、1982年に教会の音楽主事の職を辞し、独立して「Christian Vision」という団体を作って働きを始めることにしました。それから、Christian Visionを通して、ハワイや、アメリカ各地、そして全世界で、音楽を通して神様の良き知らせを伝える働きをさせていただいてきました。ゲイの故郷である日本では24回、そして、他にも、韓国、中国、ベトナム、カンボジア、マレーシア、ブラジル、ドイツ、オーストリア、スイス、イングランド、スコットランド、ウェールズ、カナダなど各地を回って、コンサートをさせていただきました。19枚のCDを出しました。1998年にはアメリカの大統領のお招きをいただいて、朝食祈祷会で賛美をさせていただきました。神様は神様のための私たちの音楽の働きを豊かに祝福してくださったのです。

2011年に、私は多発性骨髄腫という、血液のガンと診断されました。私たち家族は2011年12月からしばらく南カルフォルニアに滞在することになりました。それは、私がシティー・オブ・ホープがん研究センターで治療を受けるためにです。そこで5ヶ月間のキモ・セラピーを受けた後、2012年7月に幹細胞移植を受けました。2012年8月の末にはハワイに戻り、そして、2014年の11月に私のがんの担当医はガンが寛解していると診断を下しました。神様が癒してくださったのです。ハレルヤ!

しかし、ガンの治療を受けている間に、私の腎臓はダメージを受けて、人工透析を始めなければなりませんでした。また、2014年の6月には中程度の心筋梗塞を起こしました。その後、心臓は強められていますが、休息は必要ですし、スケジュールもあまり忙しくならないように気をつけています。コンサートは続けていますが、休息のために十分な時間を取らなければならなくなっています。

今、私は健康について多くの戦いを感じています。しかし、神様が私を強めてくださって、続けて神様を愛し、神様に仕えることができるようにしてくださっています。私は、日々、私のことを心にかけてくださり、私に目をとめてくださっている神様に感謝しています。私は、日々、イザヤ書41:10のみ言葉に立たせていただいています。

「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。」

私の人生の中で、健康な時も病の時も、神様はいつも私と一緒におられました。

神様は、高校生だった私にご自身を示してくださって、私はクリスチャンになりました。

神様は私のところに美しい日本人の女性を連れてきて、今日まで44年間連れ添う私の妻として与えてくださいました。

神様は私に、今はニューヨークに住んでいる素晴らしい息子アンディーを与えてくださいました。

神様は私の人生の仕事は神様のために音楽の働きをすることだと示してくださいました。

神様は私に世界に広がる音楽の働きを与えてくださいました。

神様は私にたくさんの歌を書かせ、たくさんのCDを録音させてくださいました。

そして、私の病の時には、私を支え、強くし、神様が私を愛してくださっていること、心にかけてくださっていることを示してくださいました。

神様が与えてくださった素晴らしい人生のゆえに、また神様がしてくださったすべてのことのゆえに、私は神様をほめたたえます。私は命の日の限り神様を賛美する歌を歌い続けます。

月報2016年1~2月号より

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