「イエス様に会うために」

親愛なる天のお父様、私を受洗に導いてくださいましたことを感謝申し上げます。
私をこれまで助けてくださいました、錦織牧師をはじめ多くの兄弟姉妹に感謝いたします。

第1章 だまされて、愛されて

どこにでもいる、フツーの日本人のサラリーマンとして、私はキリスト教を全く知らなかったと言ってよいと思います。宗教なるものを理解していなかったと言った方が当たっているかも知れません。そんな私が、何故、洗礼を受けてクリスチャンになったのか。そもそも、イエス様に会う前に、どうやって教会に来るようになったのか・・・。
きっかけは、これもよくあることなのですが、友人の教会員の「Oさん」が修養会に誘って下さったことでした。「こんどの週末、空いてる?」「えー、別に予定ないですけどぉ」「じゃ、修養会いかない?」「しゅー、よー、かい???」「そ、教会の人たちが2泊で行くんだけど、午前中少し先生の話聞いて、午後はテニスしたりソフトボールしたり。結構楽しくやってますよ。子供達もいっぱい来るし」「そー、じゃ、行ってみるかな?」という訳で、完全に「だまされて」教会の方たちと、お知り合いになる1歩を踏み出しました。
参加してみたら、修養会は予想と全く違う。「やられたっ!」
でも、そこで、本当に良い経験をしました。こちらは、何方の顔も知らないのに、多くの方たちが私のことをご存知で、にこやかに声をかけてくださる。「ようこそ、いらっしゃいました」「どうぞこちらへ」「一緒にお食事いただきましょう」等々。ピアノバーでもないのに、こんなに居心地の良い思いをしたのは初めて。皆さんが本当に自分達のことを愛し、相手のことを愛し、すべての人々を愛し、そして、すべてのことに感謝をして生きておられる。人前でこんなに涙を流したのは初めて。こんなに清々しい思いをしたのも初めてでした。「なんで、こんなにいい人ばかり集まってんだ?」
今では、誘ってくださったOさんに心から感謝しています。
「よくぞ、だましてくださいました。ありがとう!」(感謝)

第2章 聖書を「教科書」として

それからは、ほとんど毎週、礼拝に伺うようになりました。修養会で涙をながして感動しておいて、翌週から知らん顔することはできなかったし、やはり、初めて読んだ聖書の御言葉にとても興味を持ったからだろうと思います。礼拝中に、前夜の「罪」のため居眠りをしてしまうことも多かったのですが、それでも週に一度、錦織先生のメッセージに感動して涙を流すのも清々しい思いでした。
「聖書って意外といいこと書いてあるじゃない」という気持ちで、格言や、四文字熟語を覚えるような感覚で、心に感じる御言葉を探しながら読んでいました。
生き方として、学ぶべきこと、感動する御言葉に多くぶつかり、知識としては、充実感が持てましたが、教会でお会いする方達のような、いかにも幸せそうな、あるいは、とても満足そうな生き方が、感覚としてつかめませんでした。
「神様は先生ではありません」「聖書は教科書ではありません」と錦織先生はおっしゃるのですが・・・・

第3章 祈ってみても

聖書を読むことは、神様の御言葉に耳を傾けること、お祈りは神様との対話、と言われます。
聖書を読んでもだめなら、お祈りをしてみよう。という訳で、聞きよう聞き真似で「お祈り」なるものをやってみました。人に聞かれたら恥ずかしいので、通勤途上の車の中で。それもご丁寧にカーステレオでWorship Songなど鳴らしながら。この、Worship Songというやつも、なかなかの代物で、涙もろいオジサンは、これを聞いているだけで、もう涙が出てしまう。それこそ、誰かが見てたら、こんなおかしな光景はない。なにしろ、いいオジサンが一人で涙をボロボロ流しながら、Garden State Parkwayを突っ走っているのですから。それでお祈りしているんだから、どう見ても「あぶないオジサン」。涙で前方も良く見えないし、ほんとに危い。
しかし、そうやって祈ってみても、自分の「罪」は大いに反省するのですが(単に反省するタネが多いだけかもしれませんが)、したがって、日常の行動としては、もしかしたら、やや改善されていたのかも知れませんが、先輩の兄弟姉妹のように、はつらつとした幸福感には導かれないのです。
真剣さが足りないのだろうか? 病気をしたときや、大怪我で死にそうになったとき、本当に苦しみのどん底に陥ってしまったときなどに、イエス様が現れた、イエス様に会えた、などというお話をよく伺います。ギリギリの状況に追い込まれないと祝福は与えられないのかしら? いくら、涙ながしてお祈りしても、毎晩、旨いもん食べて、ワイン飲んでたんじゃ、やっぱりだめかなぁ?

第4章 「信じる」ということ

聖書の御言葉に耳を傾けても、自ら罪を悔い改めようとしても、あるいは悔い改めたと思っても、イエス様が現れてくださらない。どうしても「イエス様が我々の罪のために十字架にかかてくださった」という1点を「信じる」ことができませんでした。(そして、よくしたもので、洗礼式の時に質問されるたった1つのこと、がこの点なのです)。
ある時、ふと、とても簡単な「答え」にぶつかりました。
ただ、イエス様を「信じる」ということをすれば良い。自然に信じられないのなら、先ず自分から「信じ」ればよい。「信じない」という最も大きな罪を先ず悔い改めよう、と。
簡単に、「信じる」、「信じない」などと言うけれど、「信じる」ってどういうことだろう?「私は地球は丸いと信じています」と言うことができます。でも、これは「信じる」というより、「知っている」に近い。「イエス様を信じる」というのは、全く次元の違うことではないだろうか?「私は、お金しか信じない」という人がいます。ことの善し悪しは別にして、そういう人は、お金の存在そのものを信じているわけではない。お金の持つ目にみえない力を信じ、それに従って生きているのです。ある人は、「そのとおり」と言い、また、ある人は、「もっと大切なものがある」と言う(信じている)。「信じる」って、自分の心を自分で動かして、そのものに従って生きてゆくことではないだろうか?
ならば、イエス様に付いて行こう。まず、自分から心を動かしてイエス様に付いて行こう。待っているだけでは、病気になろうが、事故に遭おうが、イエス様は現れない。
まず、私から信じて付いて行こう。

『信じない者にならないで、信じる者になりなさい』ヨハネによる福音書 第20章 27節

主の恵みに感謝します。 アーメン

月報2002年8月号より

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