「主のあわれみに生かされて!」

カリフォルニアから戻り、なつかしいNJの教会の仲間に再び入れて頂きました。若かった仲間の頭にも白いものが増えているのを微笑ましく見ながら、教会に忠実に仕えておられる姿を主に感謝し、昨日も今日も明日も変わる事のない素晴らしい主を共に賛美出来る喜びを感じています。NJを去る時はまたここに戻れるとは思っていませんでした。主人のリタイヤ後は、一人になった母の願いに応えて、日本で一緒に住む計画の方が強かったのですが、父が召された4年後に、あっという間に母が召されてしまいその機会を失いました。同時に起こったリーマンショックやマンハッタンで仕事をしている娘の事を考えると、 必然的に進むべき方向をNJにすることが最善であると示されました。カリフォルニアは日本とNJの丁度中間地点です。天国(?)の様な気候の中で、友人からは「何でわざわざあの寒い遠い所に移るのか?」、日本の親戚からは「もうそろそろ帰ってくるはずでは?と言われました。でも私と主人の思いが一致し、長いアメリカ生活を真実に導いて下さった神様がドアを開けて下さるのを待ちました。 そして、カリフォルニアから一歩を踏み出して、4300マイルを二人で旅しながら、遠いこの地に無事到着しました。知っている土地とは言え、シニアとしての歩みはどのようになるのか未知の世界ですが、与えられた人生の旅の続きをここで進んでいきたいと思います。
「いまは分からないが後で分かる」「私たちのうちに思いを起こさせかつ実現に至らせるのは神である」聖書。
今回、証の依頼を受けて、長くなった人生のどの部分をお証したらよいかと祈りつつ考えていましたが、カリフォルニアでの7年の間に両親を天に送った事を思う時、神様が私達小さいものに現わしてくださった家族の救いの恵みの一部をお話しして、家族の救いを祈って居られる方々の励ましになればと願います。そして自分自身、残された人生をどう生きていくかを考える時としたいと思います。
カリフォルニアでの7年間は高齢になった両親の為に日本に行く事の多い日々でした。教会の大きな行事の合間をぬって、主人の理解ある協力のもとに両親の世話に帰ることが出来ました。アメリカでの新婚生活スタートと同時に、主人と共に救いに預かった私の祈りはまず離れている両親の救いでした。母はクリスチャンホームで育ち、イエス様は受け入れていましたが、洗礼を受けるチャンスがありませんでした。父は大正生まれ、きびしい祖父の元で教育勅語にそった堅い教育を受けた人でした。(横浜でキリスト教の幼稚園に行ってみ言葉カードを集めていた事を後で聞き驚きました)。

妹は若くして洗礼を受けましたが教会から離れている状態でした。私の祈りのノートの初めに両親の救いと妹の信仰のリバイブが書き込まれました。その願いは、いつか必ず聞かれる、神様には出来ないことはないと信じながらも、現実に目が行き、だめかもしれないとくじけそうになる事がありました。両親がアメリカに来た時は共に礼拝に行きました。父は私が洗礼を受ける時も「貴方は自分の信じた道を行きなさい」と理解してくれるのですが、「私は自分の道を行くから」とキリスト教はやはり自分とは関係のないものと思っていたようです。クリスチャンが回りにいても、キリストの福音は知らなかったのです。日本に手紙を出すたびに、イエス様の愛を示す良い機会として、あらゆる手段を用いました。プレゼントに添え、力になるみ言葉やメッセージ、そして聖歌等を書き込みました。祈りつつ父を愛している気持ちをたくさん書きました。父の為に命さえも与えて下さるイエス様の愛が注がれている事を知らせました。それに対する反抗もなく、娘からの手紙は喜んで読んでくれていたようです。
NYにも2回ほど遊びに来ました。娘の大学卒業式に来た時は、錦織先生にお願いしてキリスト教入門の学びの時を作って頂きました。福音を知る一つのステップとなった事を感謝しています。祈り始めてからすでに15年近くがたっていました。
その頃、中野雄一郎先生の奥様のお話しを聞く機会がありました。中野先生のお父様は神学校に行く先生を勘当した程、キリスト教を拒否しておられたそうですが、長い間の祈りと愛の行為で仕えて行く内、「どうしておまえ達はそこまでしてくれるのか!と、イエス様を受け入れ、最後に「おまえが誰よりも一番親孝行だと言われた事を伺いました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)「このみ言葉は真実ですよ、祈りは必ず聞かれます、あきらめないで祈ってください。」と言う奥様の言葉が心に残りました。次第に年をます父の救いに、希望を失いそうになっていた私は、否定的な思いが来ると、この聖書の言葉を口に出して言いました。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」「主よ、信じます、どうぞ導いてください」。
すぐに事態は変わりませんでしたが、その間、父は母方のキリスト教のお葬式などに出席して、牧師の話に心が動かされるようになります。
父78歳の年、突然妹の17歳の長男が原因不明の病気で緊急入院しました。家族にとって初めてで最大の死に直面する危機でした。皆泣きながら祈り、助けを求めました。あらゆる検査をしても病原菌が見つからず、正確な治療が見つからず、甥は劇症肝炎で命を落としました。家族にとって青天の霹靂、神様に祈る力も失ってしまう悲しみの時でした。 関西におられたNJ教会の2代目の牧師、石賀誠師にお葬式をお願い致しました。甥の友人が200人近く参加した前夜祭で驚く事を聞きました。

彼が英会話を習いはじめた宣教師の先生から、聖書:ヨハネ黙示録3:20「見よ、私は戸の外に立ってたたく、だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは、彼の所に入って、彼と共に食事し、彼も私と共に食事をする」を通して、信仰告白に導かれていた事を知りました。何という憐れみと希望の光でしょう。 「なんでこんな事が起こるのか」そんな悲しさの中で、神様のみ手に抱えられた甥の姿が目に浮かびました。妹も石賀師に導かれ、信仰を新たにすることが出来ました。
前夜式が済んだ夜遅く、さみしい気持ちが充満している静かな部屋の中で、父が突然「私も洗礼を受けてクリスチャンになる」とぽつりと言いました。一瞬何を言ったのか耳を疑いました。「えっ!クリスチャンになるの!」その後は涙が笑いに変わっていったのを覚えています。 あまりに突然!考えてもいないときに祈りが応えられました。時間空間を超えた神様の時でした。神様の約束は真実でした。夜休んでからも胸が高鳴り感謝が溢れました。“此の事をして下さったのは主です” 感謝と喜びと畏敬の念で一杯でした。 しかし気持ちは複雑でした。どうして妹の子がとられたのか?どうして?
妹の子の死は父の救いの一つのきっかけとなりましたが、神様が父や妹の為に此の事をなさったとは思われません。ヨハネ3:16に「神は、実に、その一人子をお与えになったほどに、この世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである」と書かれています。イエス様がすでに私たちの救いの為に十字架で死んで下さっているのですから。
「いまは分からないが後で分かる」ヨハネ13:7. 人の死は余りに深くて、私たちには理解できないことです。神様のみ手の中にある事と信じ、やがて天国に行ったらすべてが分かる事として神様におゆだねいたしました。
それから父の求道生活は遅れた時間を取り戻すかのように始まりました。
戦争をも含めての深い人生経験から罪もハッキリ分かりました。80歳で石賀師より洗礼を受け、罪から、死の恐れからも解放されて、本当に穏やかな人生に変えられました。年齢ゆえの肉体的苦しみは色々出てきましたが、天国(=神の国=神の愛の支配)への希望を持って、いつも電話すると「ハレルヤ!インマヌエル(主が共におられる)と出てきました。あまりの変わりように、私は嬉しくて笑い出してしまう程でした。母も父の変わりようを見て安堵したように、家族最後の受洗者となりました。「主イエスを信じなさい、そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」主の憐れみにより 聖書の言葉が成就しました。 父は地上でのクリスチャン生活を8年間も与えられました。「もっと早くに聖書を読みたかったと言いながら熱心に聖書に赤線を引いていた父に肝臓がんが見つかり、自らホスピス入院を希望、私もホスピスでの一ヶ月を共に過ごしました。
肉体的苦しみの中で、永遠を支える神の平安に守られて天へと帰ることが出来ました。元気だった母も抗がん剤に負けたものの、最後まで明るさを失わず天国へと移動しました。私にとって日本は遠くなりましたが、再会の希望のある天国が近くなりました。主イエスを信じる事がどんなに素晴らしい事なのか、主イエスの真実がいかに本物であるのかを両親の死を通してもういちど教えられ、また日々味わう毎日です。私も母が召された年まで20年を切りました。地上での神の国(「神の愛の支配」と錦織師に教えて頂いたばかりです)を歩みつつ、天の神の国を目指して祈り続けたいと思います。
皆様も家族の救いの為にどうぞあきらめないで、主を信じ祈り続けてください。 「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神のみ前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。」第二コリント10:4
主を心から誉めたたえます。

月報2012年7月号より

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