「十字架の痛み」

私は今、2人目の子供を妊娠中です。9ヶ月目に入り、まもなく出産を控えていますが、今回はつわりはひどかったものの本当に神様に守られ、皆さんの祈りに支えられて、ここまで来れていることを心から感謝致します。妊娠中といえば、1人目の子供のときに一つだけ忘れる事のできない出来事がありました。それは妊娠6ヶ月のときに、尿管結石で入院したときのことです。突然、横腹の激痛を感じ病院で診察してもらった結果、尿管に石がたまる尿管結石だと診断され、即入院して石を出すことになりました。石を出すと言っても、『妊娠中なのでレントゲンをとって散らす』、という本来の方法での治療ができず、ひたすら点滴と水分をとることで下におりてくるのを待つことになりました。

入院して4日目のことだったと思います。その夜、今までには感じた事のないほどの激痛に耐えられず、お腹の子供には影響のない注射を打ってもらいましたが、その注射も効かず、挙げ句の果てには痛みから来る吐き気で、一人トイレにうずくまっていました。もう自分がみじめで、悲しくて、痛くて、泣きながら「神様、どうしてですか?どうして、どうして私がこんなに苦しまなきゃいけないんですか…?」と神様につぶやきました。その夜は、結局3本の注射を打ってもらってようやく眠りに就くことができたのを覚えています。

次の朝、意識が朦朧とするなかで、その日が日曜日であるということに気付きました。少し落ち着きを取り戻したくて、何気なく聖書を手に取りました。そのとき行っていた教会では、毎週、新約聖書のヘブル人への手紙から連続してメッセージが語られていたので、そこに目を通していたときのことです。意識は朦朧としていたのに、次の箇所にきたときハッとさせられました。

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、……」

(ヘブル人への手紙 5章7~9節)

イエス様が十字架にかかられたシーンと重なり、私のうちに迫ってきました。イエス様が十字架上で苦しまれたのは、まぎれもなくこの私の罪のためであるのに、あの苦しみと痛みのなかでイエス様は「父よ、彼らをお赦しください。」と祈られました。私の痛みなんてとても小さいもので、その何倍も、何十倍も想像を超えるほどの痛みと苦しみのなかで祈られたことば。私のうちから離れませんでした。私達を、いやこの私を罪から救うためにここまでしてくださったイエス様の深い愛に、涙が止まりませんでした。前日の涙も、この日の涙も、ともにもう一度イエス様の十字架の愛に触れるために必要なものでした。

あんなにもまたいつやってくるかわからない激痛を恐れていたのに、その後、不思議と恐れは消え、それどころかともにこの痛みの中を通ってくださる方がおられる、というだけで俄然ファイトが湧いてきて「いつでもかかってこい!」と言う心情でした。ところが、それ以降、痛みは一度もやってこず、その2日後には退院しました。結局石はでてきておらず、どこへ行ったかもわからないまま今に至っています。実は、妊娠中は普段の体の状態と違って石が溜まり易いということもあり、また再発するのでは、と少し不安もありましたが、神様はあの時にもう一度十字架の愛に触れさせてくださっただけでなく、癒してくださったと今改めて信じております。これほどまでに、一人一人を気遣ってくださる神様に心から感謝しつつ、これからもこのイエス様の十字架を覚えて歩んで行きたいと思います。

「私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛し、私達の罪のために、なだめの供え物としての御子をつかわされました。ここに愛があるのです。」

ヨハネ第1の手紙 4章10節

月報2000年11月号より

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