「小さい頃の私はとても怖がりで、…」

小さい頃の私はとても怖がりで、寝ている間に地震・雷・火事が起こらないよう、また泥棒も入らないようにと、“かみさま”(この頃はまだ聖書の示す唯一の神様のことを知らなかったのですが)にお願いをして、どこで覚えたのかわかりませんが、地震の分10回、雷の分10回、火事の分10回、泥棒の分10回、と数えながら胸の前で十字を切ってから眠りについていました。小学校4年生の時、同じクラスの友達に誘われて教会学校に通い始め、そこで教えられた神様を何の疑いもなく信じるようになり、夜寝る前のお祈りも自分で考え出した方法から、教会学校で教えられた神様へのお祈りに自然に変わっていきました。教会学校では、聖書の言葉とイラストが入った小さなカードをご褒美としてもらうのを楽しみに、毎週欠かさず暗唱聖句をしていましたが、その聖書の言葉の意味はほとんど理解していなかったと思います。それでも自分を愛し守ってくださる神様がいらっしゃるということだけは確かに信じていました。

その神様が私を罪の刑罰から救うためにイエス様を身代わりとして十字架につけられたことを心から信じたのは、中学生のために持たれた夏休みのバイブルキャンプに参加した中学2年生の時でした。自分が罪人であることを聖書を通して示され、その罪の刑罰から救うために、私の身代わりとなって十字架で苦しみを受けられたイエス様を自分の救い主として受け入れました。

幼い頃から心の中に蒔かれた信仰の種は、それからしばらくは純粋に神様の望まれるように生きたいという思いを与えられ、何の障害もなく育てられて行きましたが、次第にいくつかの問題にぶつかっていくようになりました。野球が大好きだった私は、高校で野球部のマネージャーとしてはりきっていましたが、春から秋まではほとんど毎週日曜日に試合があり、礼拝に出席できない日が多くなっていきました。礼拝をしばらく休むと教会に行きづらくなり、試合のない日でも礼拝に行かない時がありました。教会の高校生会の先生から礼拝に出席するようにと電話がかかってきますし、何よりも神様が私に望んでおられることはわかっているのですが、言われれば言われる程、それをうっとうしく思うようになり、不遜にも「私のことはもう放っておいてください。愛してくださらなくて結構です。」と思うようにまでなりました。それでも教会の先生や友達からの連絡は続き、心の中で色々な葛藤を覚えながら聖書を読んでいたある日、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2章8節)という御言葉を読んだ時に、神様の愛にギブアップせざるを得ませんでした。なぜか心が素直になり、神様が賜物(プレゼント)としてくださるものを黙って受け取ろうと思いました。
その後、できる限り教会に行くようになり、しばらくして洗礼を受ける決心を促されました。当時一緒に暮らしていた祖母がとても熱心な仏教徒でしたし、日常の生活の中で多くのことが当たり前のように仏教のしきたりで行われていた7人家族の中で、高校生の私がただ一人のクリスチャンとしていくつかの問題にぶつかることは容易に予想できましたし、とてもそのことを戦い抜く勇気がありませんでした。祈りつつも、「自信がありません。」と告げると、教会の先生は「クリスチャンとして完全になったから洗礼を受けるのではなく、イエス様を自分の救い主として信じ、神様から助けをいただきながら、神様とともに歩んでいく決心を表すことが洗礼を受けるということなのです。本当に神様に頼って生きるなら必要な助けは与えられます。」と教えてくださり、洗礼を受ける決心をしました。

洗礼を受けるまでも、また受けた後でさえも、捨てきれない自我やプライド、その裏返しのコンプレックスに苦しんだ時期が多くありましたが、ありのままの私を「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」(イザヤ書43章4節)と言ってくださる神様の愛により、また、「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力がわたしをおおうために、むしろ大いに喜んでわたしの弱さを誇りましょう。」(第2コリント12章9節)の御言葉により、小さく弱い自分を受け入れることができるように変えられました。また自分の思い通りに事が進まないと気がすまなかったのですが、「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。-主のみ告げ。-天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ書55章8~9節)と言われる神様に全てを委ねることができるようになり、平安が与えられるようになりました。

こどもの頃、教会学校でよく歌っていた賛美歌の中に「やさしい主の手にすべてをまかせて旅ができるとは何たる恵みでしょう。」という歌詞があります。小学生の時に教会学校に通い始めた頃から主の手に引かれてここまで導かれてきたことを心から感謝します。今までもこれからも変わらず愛し導いてくださる神様を信じて、平安の中に歩み続けたいと願っています。

月報2009年7月号より

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