「恵みと真とにみちている神」

「胎児の両方の腎臓と心臓に問題があるかもしれない。」 妻・桂子の妊娠5ヶ月目の超音波検診で放射線科医に告げられた。その後の検診で、確かに心臓部に見えていた「影」は消えていった一方で、水腎症と思しき水腫は胎児の成長とともに増大していった。それでも2つある腎臓のうちの片方は腫れの程度がもう片方ほどでないため、排尿には辛うじて支障がないであろうから当面は様子を見る、ということであった。その後の経過によっては予定日前の帝王切開を余儀なくされる可能性もある・・・。

その日は、久しぶりの家族旅行に出発することになっていた。可愛い「赤ちゃん」の影像を見届けたその足で、海岸沿いのホテルへ直行する予定だった。思い切り真夏の海水浴を楽しみ、水族館やサファリにも行く予定だった。家族3人が共に楽しみにしていた一大ファミリーイベントがまさに始まろうとしていた、その矢先の出来事だった。目の前が暗くなった。でも、神様の目から見れば偶然に起こることなど無い。すべては神の御手により起こるべくして起こる筈である。いみじくも、今し方、妻が検診を受けている最中に待合室で以下の御言葉を読んだ。

ある日、空腹を覚えたイエスは無花果(いちじく)の木を覗き込むが、実をつけていないことを知り、その木を呪った。すると瞬く間にその無花果の木は枯れ果ててしまった。それを見た弟子たちはびっくりして、「どうして無花果の木は枯れたのか」とイエスに訊いた。彼は弟子たちに答え言った、「もしお前たちに信仰があって疑わないならば、この無花果に起こったと同じことをすることが出来るばかりか、山に向かい『立ち上がって海に飛び込め』と言っても、その通りに成る。信じて祈れば、求めるものは何でも頂くことが出来る(マタイ21:18-22)」と。

そうか、信じて祈れば、求めるものは何でも頂くことが出来るのか・・・。そのように神様が言って下さっているのであれば、もはや単純に且つ大胆に胎児の健康を願って神様に祈るしかないではないか。すぐに駐車場の車に戻り、3人で心を合わせて祈った。 「健康で何一つ欠けたところのない全き、美しき赤ちゃんを私たちにお与え下さい。」家族旅行どころではない一方で、旅行を取りやめて家に引き戻したところで、気が晴れる訳でもない。やはり予定どおり、夏休みの家族旅行を決行することにした。 いま振り返ると、やはり決行したのは正解だった。気分転換にもなったし、何と言っても真耶が大喜びだった。私たち夫婦もそれなりに楽しんだ。家族に明るい雰囲気が戻ってきた。

一週間足らずの家族旅行はあっという間に終り、また多忙な日常が再開した。それから2カ月ほど経過した頃のこと、救急治療室を舞台にしたテレビ番組「ER」を彷彿とさせる午後の忙しい職場で一人お茶を飲みながらほっと一息ついていたところ、聖霊から心温まる確証がぽっ、と与えられた。曰く「(祈っていた通りの)健康で欠けたところのない全き、美しき赤ちゃんを与えるから心配しなくてよい」と。喜びと共に涙が溢れてきた。瞬時に天を仰ぎ祈りを聞き入れてくれた神に感謝した。しばらくは嬉しさの余りぼう然とオフィスの天井を見つめていた。

帰宅して、職場で聖霊からの確証を得たことを妻に話したが、彼女は未だぴんときた様子がなかった。無理もないことかもしれない。こういう経験はその場にいないと良く分からないものだからである。とはいえ、あれだけのメッセージを私にはっきりと語ってくれた神様が、約束を破る筈はない。御言葉どおり、求めるものは何でも頂くことが出来る、と信じて祈ったのだから、求めるものが与えられるのは至極聖書的なのであろう。そう考え、それまでにしていた懇願の祈りをやめ、それ以降は既に祈りを聞き入れて下さった神様に対する感謝と賛美を捧げる祈りに変えた。自分ではとても自然で当たり前なことと思えた。

しかし、その後も予定日の1週間前まで超音波検診は行われたが、水腫は予定日に向かって大きくなっていく一方だった。だから心配は続いた。でもその間、主が確証を与えてくれたことが嬉しくて、不安は私の心を支配しなかった。イエス・キリストは命である。死の状態から生の状態に再び戻ることが出来る御方である。不治の病を患う無数の人々を癒す御方である。胎児の腎臓如きを癒せない筈はない。そう信じ切っていた。

予定日より2日早く、胎児は元気に生まれた。生後すぐの検診では、小児泌尿器科医が超音波検診で腎臓に異常を見出すことが出来ず「本当に水腎症だったのか」と妻が訊かれたほどだった。1ヶ月後の検診では、腎臓に僅かながら水腫が認められたが、その時点での投薬は不要との判断から、経過観察だけを続けることになった。その後の経過はとても順調で、今日に至るまで排尿等に異常は見られない。小児科病院で見せられた新生児の成長グラフによると、誕生直後は下から約5%のスモールベービーだったが、4ヶ月経った今では身長・体重共に上位95%超のヒュージベービーに育った。先週、教会で献児式をもって頂いた。親ばかながら、「健康で欠けたところのない全き、美しき赤ちゃん」が与えられたことを改めて実感し、感慨深かった。神の御業を賛美したい。

最後に、教会の多くの方々の御祈りの「ゆりかご」の中に生まれてきたEmmaは本当に恵まれている。この場を借りて、神の癒しの御業を信じて御祈り下さった皆様方に深く感謝を申し上げる次第である。因みにEmmaという名前は当時4歳の長女・真耶(まや)が付けてくれたが、それに当てた漢字は「恵みと真とに満ちていた(ヨハネ1:14)」との御言葉から引用した。この「まこと」とは、「神の実体」との意味だそうである。神の実体とはイエスを死から復活させ、また彼を通して不治の病を患う無数の人々を癒した「命」そのものなのではないか、とつくづく感じさせられる今日この頃である。思えば、投獄された使徒たちに主の天使が現われて「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った(使徒5:20)。神は命であられる。幼い娘の癒しを証しするという恵みにあずかったいま、この命のメッセージを伝える者になりたいものだと切に願わされる。

月報2007年5月号より

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