「最近救われた者の証」

学生時代に本格的な登山をしていたこともあり、一日の無事を眠る前に感謝する習慣を持っていました。そしてクリスチャンである家内との結婚を機に、感謝の対象を神様にして祈ることを始めました。アメリカに赴任してから二年近くになります。転勤前の職場では肉体的にも精神的にも疲れ果てた状態にありました。そのような中で『今の職場から異動させてくれなければ会社を辞めます』という自分勝手な祈りをしたところ、有り難いことに祈りが聞かれました。この体験を通して、機会があれば聖書を通読してみようと思っておりました。

こちらに来てから「ハーベストタイム」を毎週観るようになり、昨年の8月から「リビングライフ」を用いて聖書日課を始めました。そして聖書のことをもっと良く知りたいと思い、昨年の11月から導かれて礼拝に出席するようになりました。

11月の終わり頃でしょうか、家内に「赦された罪人になるのは、それ程難しいことではない」という難解な問いかけをされました。意味も分からずに、どうしたらよいのかを聞いたところ『私は罪人です。どうか私の罪を赦して下さい。イエス様、どうか私の心の中に入ってきて下さい』と祈ればよいとのこと。それがどのような意味か分からないまま、その夜祈りました。それを家内に伝えたところ大感激し、その感激ぶりにかえって自分自身が激しく動揺することとなり、真剣に「罪を赦された罪人」とは何かを家内にたずねたり、改めて「罪」をキーワードに聖書を読み始めました。

その過程を通して、感謝なことに自分の赤裸々な姿や罪について多くを示されました。ただその時点では「自分で何とかしよう、もう少し努力してから」という気持ちを拭い去ることが出来ずに、「洗礼を受けるには絶対的に準備不足」だと思い込んでいました。そのような時、錦織先生から「洗礼を受けるということは信仰の出発点に立つことです」との励ましをいただいて、受洗の決心をしました。

今でもそうなのですが、自分の努力で…という思いが根強く心に残っており、神様にそれを強く示されたのが「禁煙」を通してです。もちろん禁煙するしないは魂の救いとは無関係です。しかし洗礼を受けるに際して、大きな懸念として私の心に残っていました。この機会を逸するなら、もう一生タバコを止められないかもしれない。今から思うと「何を大袈裟な…」と思えるほどでしたが、その時は切実でした。先ずは洗礼の二週間前から止めよう…しかし止められません。毎日眠る前に『どうか禁煙する意志を、そして力を与えて下さい』と祈りました。一週間前になっても祈りは聞かれません。昨年の12月は特に仕事も忙しく、通常であればとても禁煙出来る状態ではありません。そのような中で洗礼の日は迫って来ました。 三日前になって、とうとう禁煙自体を諦めるところまで追いつめられました。そして『神様申し訳ありません。自分では、もうどうすることも出来ません。どうか助けて下さい』と祈りました。自分では出来ないと分かった時に、神様に明け渡すことができました。自分の力では何一つがんばっている訳ではなく、祈った晩から禁煙を続けさせていただいています。

受洗してからやっと三ヶ月が経ちました。信仰のスタートラインに立ったばかりで、日々新たな試行錯誤と自己中心な自我との闘いがあります。聖書を読み『御心を心に与えて下さい』と祈りながらも、自分の欲望や思いを最優先して日々を生きている自分の姿に気づかされます。今は御心に聞き従っていける従順な信仰を持てるように、どうか神様に成長させていただけるようにと祈っております。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」 エペソ人への手紙二章八~九節

月報1999年5月号より

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