「生かされている喜びと感謝」

もし、私が神を知らなかったなら、この肉の体はとうの昔に滅びていたに違いないことを自分自身よく知っています。誰でも1度や2度は命にかかわる危険を、長い人生の間には経験することがあると思いますが、私はすでに5回も6回も神様に助けていただいたのですから、「もはや、生きているのは私ではない」という実感を強く持って生きています。

まだ幼かった頃、ペニシリンなどの抗生物質はなく、アズキ氷を食べ疫痢にかかった私はただ食塩注射を受ける以外治療の方法はなかったそうです。医者が「だめかも知れない」と言ったそうですが、母は神様に全てを委ね祈ったそうです。その母の祈りによって私の幼い命は生かされました。

母の父はカナダの神学校を出た牧師でしたし、母の兄も牧師でしたので、姉を始め、私や弟、妹たちは皆、生まれるとすぐ伯父から幼児洗礼を受けていました。

太平洋戦争も激しくなり、中学1年生の私たちも軍需工場へ動員され武器の生産に当たっていました。旋盤を教えられた通りに操作し、魚雷の部品を作っていたのです。ある日、空襲警報がなったと思った途端、工場は艦隊戦闘機の機銃掃射を受けました。一瞬、旋盤の下に身を隠し無事でしたが、無数のリンゴ大の雹がトタンの屋根を一気に撃ちつけるような衝撃に、12歳の少年であった私は死の恐怖を感じました。

ある晩、同じように空襲警報が鳴り、姉や弟たちと共に自分たちで掘った庭の防空壕に潜り込み避難しました。「お母さん、早く。」という私の声に答えて母は言いました。「小さい2人の子供がいるし、私はここにいます。神様に祈っていますから心配しないでください。」と言って家の中にいました。それを聞いて、私は子供ながら「お母さんは、凄い信仰の人だな。」と思いました。遠く空に飛行機の爆音が聞こえたと思った時、ドーンという鈍い衝撃音が聞こえました。(遠くに機影が見えたり爆音が聞こえる時が一番危ないのです。)当時、神戸市葺合区の山手に住んでいましたが、爆弾は100メートル程離れた林の中に落ち、家は何の被害も無く、私たちは守られました。このような生死の問題は、全て神様のご計画の内にあることで、自分ではどうすることも出来ないことであったのですが、「神様が私たちを守ってくださっている。」との実感を与えられました。(父は英語の達人で、その当時情報部付き陸軍少佐としてシンガポールに出征していて不在でした。)

しかし成長するにつれ、そのような神様のとりなしや恵みをすっかり忘れて自己中心的な生活に溺れるようになっていました。教会には行かないし、信仰告白はしないけれど神は肯定するという身勝手な信仰を持っていました。

大学生の時、2人の友人と京都保津川鉄橋(単線)を無謀にも渡っていた時、列車が走って来て、あわやはねられそうになったことがありました。汽車が鉄橋に入って来たのは3人が鉄橋を渡りきり、線路の両側の草むらに身を投げ出した直後でした。「バカヤロー」の機関士の怒声だけが耳に残っていますが、間一髪、神様の憐れみが3人の命を救ってくださいました。機関士の怒声を人の声としてではなく神の警告と受け取るべきであったのです。しかしそれからも私は自ら求めて危険と罪の中に身を置く生活から抜け出すことはできませんでした。

社会人となり、会社勤めも10年を過ぎ、課長の立場を与えられていましたが、「自分(我)」の思いの虜になったような生活をしていました。飲酒居眠りで大阪・奈良間のハイウェイであわや即死の事故を起こしました。シートベルトもエアバッグもない1960年代の車ですから、無傷で助かるはずのない死の谷への転落でしたが、血一滴流すことなく生還を許されました。この出来事を通して、不信仰な私にも、十字架でキリスト様が血を流されたのはこの罪深い私のためであったことがはっきりと示され、闇夜のハイウェイで天に向かい「神様、ありがとう。」と叫び、感謝しました。

「父のもとに立ち帰りたい」と願いながら優柔不断な生活をしていた私に、神様の戒めがくだる日が来ました。マンハッタンのミッドタウンで、パンクした後輪のタイヤを取り替えるためにジャッキで車を持ち上げていた時のことでした。サイドブレーキを引かず、ブレーキの踏み込みも甘かったために、車が前に傾きジャッキがスナップして飛ぶ危険が起こりました。私は、どんなことがあっても、回りで見ている人々に当たらないで欲しいと必死に神様に祈りました。「当たるなら、どうか私に当ててください。」と祈りました。妻は冷や冷やしながら私の側で成り行きを見守っていました。その祈りは聞かれ、勢いよくスナップして自由を得たジャッキのバーはまるで矢のような速さで飛んできて、私の右前額部を打ちました。メタルバーが私に向かって垂直に飛んで来ていたなら、体のどこかに突き刺さって大怪我をしていたと思います。すぐに救急車が呼ばれ、エマージェンシーホスピタルに運び込まれました。診察の結果、怪我は7針の裂傷で、脳には異常を認められませんでした。私はまたもや神様の許しによって残る者とされました。

やがてジャスティン春山先生によって堅信礼を受け、再び神様との関係は修復され、同じように堅信礼を受けた長女、信仰を告白した次女・妻とともに家族全員がキリストを信じる者とされました。

このような命にかかわる色々な経験を経て、今日在る私は、「最早自分のものは何もない。全ては神様のもの。何なりと用いてください。」と、キリスト誕生2000年、70歳の誕生日に祈り願いました。主に仕え、教会に仕え、そして隣人に仕えることが、70歳からの私の人生だとの確信に導かれ、献身の思いに至り、JTJ宣教神学校で学びを始めました。働きながら学ぶことにはチャレンジもありますが、そのことによって主が喜んでくだされば、それは何にも勝る幸いだと信じて、感謝して励んでいます。

「わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」

イザヤ書46章4節

月報2000年12月号より

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