私は2006年にNJのある教会で洗礼を受けております。この文章製作により、今年2026年1月にしていただいた会員入会式がちょうど20週年目の年だと気付きましたが、これも証しの一つかもしれません。
はじめて自分の経験を文章にする機会に、いままでの20年間を振り返って考えてみました。イエス様に見つけられ、以前の自分ではなくなった事、その後のさまざまな経験は、最初から導かれ何かにデザインされていたのかな、と思います。その過去の長い間にしてきた、どんなに苦しい時でも心の落ち着きと平安をくださる「祈り」とは、おまじないでも、直ぐに何か状況を変える(事もありますが)ようなものでもありません。物事は偶然かのように、とても自然に長い期間でもの事が動くため説明にも掴みどころもありません。また、その長い期間の中で、それぞれ自分にだけ心当たりのあるインダイレクトに知らされるメッセージやふとした不思議な思い付き、きっかけなどは、とてもパーソナルな事で、自分でも何かよくわかりません。でも、その時点では祈った結果が反対でも、自分の器量に合って結果ふさわしく収まることが多いです。不思議に思えば思うほど、更なる祈りへと連ねられ、あまり苦しまなくてもよい程度の状態へといったん落ち着かされ、そして又、新たな神様にすがらなければならない問題とともに毎日を現在進行して今があります。目に見えない霊的な働きを今でも不思議に思うわたしを、更なる信仰へと導き、祈りと忍耐を持続させるための状況を与え、操り、働かれるのが、神様こその御業なのだな、と、いつも思います。「愛する者に試練を与え」、それは、「耐えられないほどの試練に遭わせることはない」、そして 「思い煩ってはならない」とも聖書で数回教えられていますが、神様への信頼と不安定な自分の信仰との模索の毎日です。そして祈ることから離れていると、気分が淀んでくるのがわかります。今は、主日(日曜日)の礼拝だけは第一に守るように、と訓練中です。以前、毎週日曜日の仕事の予定をことわった後すぐ、その仕事が倍になったことがあります。その逆の経験もありまして、主日(日曜日)を選ばずにした企画がみな大失敗に終わったこともあります。
去年のイースターからJCCNJの礼拝に行き始めて以来、神様が明らかに私を助けてくださいました。教会へ行きはじめたのは、働いている学校や、移動、変わり目などの影響で、実は、その時期は本当に経済的に落ちこんだ時期でした。心配と不安な毎日でしたが、それでも半年ちかく、まわりの方々のたくさんの証し、協力、励ましとともに教会へ行き続けてゆくうち、ある時期に入って突然思ってもみなかった人や、昔の知り合いの家族など、全く予想外の人たちから同時に連絡が来るようになりました。ある知らないクリスチャンの学生からは、「祈っていたら私のところに繋がった」と言われましたが、それには驚きました。自分の祈りも自分で信用できない時もありますが、そのクリスチャンの学生を通して、私の全てについては全く神様に知られていることを再び納得しました。そして、これらの出来事はすべて経済回復につながる結果となり、しかも全く無理を必要としない環境へと導いてくださいました。神様はわたしを試されたあと、明確にその時期の経済状況を変えて下さったのです。
最近の事では、長いあいだ絶対に欠かせなかったサプリメントを飲んでいましたが、気がつくと何故か全く問題がないので購入の必要がなくなりました。とても感謝しています。
再びですが、神様が恵みを与えて下さる前には、試練と新たな信仰ステップの時期が必要ということも今まで以上に学びました。その試練を乗り越えられるまではとても落ち込む事もありますが、今では、「又次のテストが来た」、と、はっきり思えるようになりました。良いことがあって浮かれていると、又、悩みや苦労が訪れます。その厳しい状況の中でもイエス様は、「どうしても必要な事は一つだけ」(ルカ10:42)であり、どんな時にも、まず神様をほめたたえる事が私達の使命だと教えられています。「栄華を極めたソロモン」(マタイ6:29)でさえも、幸せを追求し、いつの時代でも日の下で繰り返される人間の虚しさを語った最後で、「結局のところ・・・神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(伝道者の書12:13)と、ありますが、私にもその結論しかありません。しかし、イエス様は、「主よ、主よ、という者ばかりが・・・」 御心に叶うわけではない、とも指摘されました。自分の解釈に走り、自分のことだけで精一杯な今現代の生活の中で、神の声に見聞き、従う、御心を行う、というのは実のところどういう事なのかな、とよく思います。
どうか、私の全てを見通されている神様御本人、イエス様の御旨にすこしでも近づくことができますように、Amen。
