白髪背負う

 「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。(イザヤ書46:4)」

 この夏、1人で里帰りをしました。2ヶ月間実家に滞在し、母の部屋に布団を敷いて寝起きしました。今までは子供たちと帰省するのが常で、実家ではお客さん気分。さんざんもてなしてもらうのに、2週間も居ると毎回、両親と衝突していたのが、今年は波風一つ立たず、ほっと安堵したのと同時に、それだけ親が歳を取ったのだと寂しくもなりました。

 傘寿を過ぎた両親の毎日はとてもスローテンポです。予定があるのは病院に行く日ぐらいで、あとはほぼ家の中で過ごします。父は規則正しく過ごす性分で、朝早く起きて新聞を郵便受けから取り、テーブルに広げて老眼鏡をかけて一通り目を通す。それからテレビ欄の番組表を調べて、見たい番組を色ペンで囲み、軽く朝食をいただいた後は指定席に腰かけてテレビをみながらうつらうつらと午前中を過ごす・・・。午後もまた、しかり。唯一の楽しみは、毎週水曜日の午後に友人たちと行き会うゴルフのショートコースです。約束をとりつけず、来られる人だけが来ればいいという、ごくごくゆるい集まりを続けています。

 母はゆっくりめに起きて過ごします。週2回のデイサービスがない日は、ひるげの匂いに誘われてようやく部屋から出てきてきます。食べ終わるとまた部屋に戻り、何をするでもなく横になって、また夕食の時間に顔を見せます。以前の母はとても多趣味で活動的。若い頃に教員免許のほか茶道と書道の師範資格を取り、子育てが落ち着くと調理師免許、60代でネイルアーティストの資格を取りました。洋服や靴が大好きで、私の楽しみは実家から母の服を貰ってくることでした。そんな母が、今ではたった3、4着の服を着回し、朝から着替えもせずパジャマで過ごしているのです。母の代わりように愕然としました。

 ふたりは自活してくれていますが、いわゆる老々介護です。「老々介護」。聞いたことのある言葉でしたが、両親の生活がまさにそのもの、と気付いたときはショックでした。もともと膝を悪くして歩行が困難な母でしたが、去年の暮れに転倒・骨折して一気に身体の衰えが進み、父が家事の全てを担うようになりました。母が家のことを切り盛りする姿しか見た事のない私にとって、父がこれほどマメに家事をしてくれるのを見るのは嬉しい発見ではありましたが、2人の姿に自分自身の将来を重ね、「歳はとりたくないものだ・・・」と正直、思いました。

 日本人の平均寿命は男女とも80歳を超えていますが、健康問題が日常生活へ制限を与えない期間を表す“健康寿命”なるものは、男性で70代前半、女性で70代半ばです。こんな数字を見ると、「元気に自活できるならいいけれど、我が子や周囲の負担になるようならば、早く逝きたい・・・」と、つい心の中で願ってしまいます。超高齢化が進んで介護保険制度が崩壊するかもなどと言われる日本で、年配者が社会の重荷とみなされる風潮が強い社会で、アンチエイジングなどということばが市民権を得て、老いることが悪いかのようになった世の中で、長生きしたいとは到底思えないのです。希望を見いだせないのです。

 でも、聖書の価値観は違います。老いることが祝福の象徴、老いることは光栄なこと、「白髪は輝く冠(箴言16:31)」だといいます。

 キリスト者であるヘルマン・ホイベルスという人が「人生の秋に」という本で「最上のわざ」と題して、こう書いているそうです。

楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう。

若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見てもねたまず、人のために働くよりも謙虚に人の世話になり、弱ってもはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること。

老いの重荷は神の賜物、古びた心に、これで最後のみがきをかける。

 なにか活動が出来なくなったとしても、働きではなく存在そのものに大きな意味や喜びがある。効率とか生産性に意味と価値を与えるこの世の中で、聖書の言葉は老いることへの祝福を語ってくれています。

 この夏、私が一番うれしく思ったのは、母が再び教会へ通うようになったことです。母は洗礼を受けてはいますが、久しく礼拝に集えていませんでした。教会の人間関係に失望したり、自分の願った通りの教会生活を送れなかったりして、通うことを止めてしまったのでした。そんな母が、土曜日の晩から備え、日曜日の朝は早起きして身支度を整え、礼拝に出席するようになったのです。教会から帰ってくると、母の顔つきは明るく、楽しいお喋りが始まります。その姿にクリスチャンではない父は驚きます。町内会の集まりは嫌がるのに、教会の集まりへは進んで出掛ける様子を不思議がります。

 でも、当然なのです。教会は安心して集えるところ。そこには愛があり支え合いがあります。そこでは、働きでなく存在を大切にして受け入れてくれます。高齢者であれ働き盛り世代であれ、1人の存在として見なしてくれます。とは言え、人間の集まりですから気の合わない人がいるかもしれません。ときに、失言や行き違いから、失望したり傷ついたりするかもしれません。でも、イエス・キリストという模範がいて、聖書を読むことで整えられ、大切な戒め「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい(マルコ12:31)」を守ることによって、それぞれが理想の姿へと変えられていく過程にあるのです。

 里帰りも終わりに近づいたころ、「別れが寂しい」と、はばかりもせずに言う両親と離れるのは後ろ髪を引かれる思いでした。もっと滞在を伸ばせないか、日本にしばらく移り住んで両親の生活を支えられないか、とさえ考えました。でも、母が日曜日ごとに教会へ行きはじめたことで、私の心配は安心へと、心残りは希望へと変えられています。母は神様からの語り掛けによりリセットされ、リニューアルされ、新しい力を得ると期待しています。今までも母をずっと運んできてくださった神様が、母が年老いた今も、これからも、同じように運んでくださるから大丈夫だと。背負ってくださるから大丈夫だと。そしていつか、私のことも同じように運び背負ってくださるでしょうと。

 主は良いお方です。神様に心からの感謝をささげ、全ての栄光をお返しいたします。

2024年9月号<牧師室より>「まず仕えることから」

早いもので、今年も2/3が過ぎました。

2024年はイザヤ書527節の「良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神は王であられる』とシオンに言う人の足は。」という聖書の言葉をいただいて、歩んできました。

この言葉から、教会が聖書の教えを伝えることの大切さを感じると共に、地域コミュニティの中で歩んでいくことの大切さを思わされます。

聖書は繰り返し、この世に出て行きなさい、周りの人々に仕えなさい、と語っています。

地域とのつながりを考えるときに2つの出来事を思い出します。一つは今年の2月号でもご紹介した、9-11直後に出席したセミナーの講師の「特別なことが起こってから『私たちには何ができますか?』と聞いても遅い。何もないときからいつもコミュニティの中に生きていないとダメだ」という言葉。もう一つは、東日本大震災の時の先輩牧師の経験です。

東北の沿岸部の教会の牧師をされていたその先輩は、幸いにも津波が教会の手前で止まり、電気も止まらなかったので、「教会は電気が通じています。携帯の充電が必要な方は、ご利用ください」と窓に貼っていたそうですが、誰も尋ねてくる人はいなかったそうです。それで、教会のメンバーの医療関係の方と一緒に避難所に行ったときに、「〇〇寺のご住職が説話をしてくださいます」とアナウンスがされ、人々が集まっているのを見たそうです。同じ「宗教関係者」なのに、自分は「私は牧師です」と避難所に入っていくことも許されずに、医療関係者の補助者としてしか入れない、この扱いの違いは何か?と思いながら、この先輩牧師は、まず、誰も見ていないところで仕えることから始めたそうです。まずは、全国から送られてくる支援物資が人手不足で倉庫に雑然と山積みになっているのを見て、「この倉庫の整理をさせてください」と申し出られました。そして、小さなことから一つ一つのことに忠実に歩んでいく中で、地域の方からも、役場の方からも信頼を得て行かれ、やがて、地域や役場の方から「相談したい」と話がくるようになったそうです。

 そのように、教会と地域コミュニティのつながりを深めていくために、昨年の10月、初めての試みとして、「アメリカで快適に暮らす為に知っておきたい情報」というテーマで、NJで高齢者支援をされている方々にお話をしていただきましたが、今年はその第2弾、9月21日にラトガーズ大学の天野先生をお招きして「認知症について私たちが知っておくべきこと」というテーマでお話をしていただきます。自分自身がそのようになるかもしれないことを覚悟して、またそのような方に接するときの心構えなど、私たちには本当に大切なテーマだと思います。是非ご参加ください。詳しくはこちらの案内をご覧ください。今、このような助けを必要としているどなたかのところに届きますように。

「主の采配の確かさ」

在籍していた神学校の突然の閉鎖に伴い、昨年9月より大都会NYから牧場だらけのKYの田舎町に移り、リバイバルが起こって御霊が力強く働いている神学校のコミュニティでの生活と学びが始まりました。ケンタッキーにはあまり日本人へのアウトリーチの機会がなさそうと勝手に思っていたので、日本人人口が全米で三番目に多いNYCでの日本人伝道の思いを一度神さまにお返しするという自分にとってはかなり辛い覚悟を決めて、神さまに導かれるがまま何も知らずに雲と火の柱を追いかけてケンタッキーに来ました。ところが、神さまは私には予想もできない方法で私を次の宣教の地、ケンタッキーに導いたことが到着して程なくして分かりました。

ケンタッキーに引っ越す直前、コロラドでお世話になった牧師先生ご家族が私のアズベリー行きを知って「ケンタッキーに私たちの親友でアメリカ人のご主人と日本人の奥さんのL夫婦がいるよ」と連絡がありました。そのLさんご夫婦は一度2022年にナッシュビルであったRJC(Reaching Japanese for Christ)の地域カンファレンスで一瞬だけお会いしたことがあり連絡先も交換していたので、ケンタッキーに着いたら連絡してみようと思っていたのですが、全く別件でLさんたちの方からそのあとすぐ突然連絡が入りました。やりとりをする中で、LさんたちもISI(私が所属する留学生ミニストリー団体)のスタッフとして20年以上ポートランドで留学生に仕えるかたわら日本語教会も開拓し、そして2年ほど前に神さまから中西部に移動するように示されて何も分からないままただ神さまの導きを信じてケンタッキーの地へ引っ越してこられたことを知りました。ISIの働きはLさんが来るまでケンタッキー州にはなく(全米でもケンタッキーとテネシー州だけなかったそうです)、私もNYのISIチームからはケンタッキーにはISIの働きがないと聞かされていたので、今Lさんたちがケンタッキーの地でISIの働きを始められたばかりとのことを聞いてびっくりしました。Lさんたちも過去2年間ケンタッキー、レキシントンエリアでの留学生伝道やアメリカ人教会のミニストリーの働きをいろいろと探っていく中で実は日本からの留学生が多いこと、そしてトヨタ系の自動車産業の工場がある関係で日本からの駐在家族もかなりいることがわかってきて、「日本語が話せてミニストリーに重荷のある女性を与えてください」と祈っていたところに私がやってきて驚いたそうです。

Lさんたちは息子さんがアズベリー大学に通っており、家もキャンパスから15分ほどの近さだということも分かって、ケンタッキーに引っ越してきて数日とたたないうちにLさんたちと早速お会いしました。神さまが不思議な形で私たちを繋いでくださったこと、私の日本人伝道への重荷とLさんたちの助け手を求める祈りを神さまが聞いてくださったことに共に感謝と驚きの祈りを共に捧げました。LさんたちがUK(University of Kentucky)でCru(編集注:以前キャンパスクルセードという名前だった学生伝道団体)と協力して2022年に始めたBonfireという留学生ミニストリーに私も早速参加し始め、そこで何人かの日本からの交換留学生とも出会いました。Centre Collegeという別の大学にも日本人留学生が10人弱いることが分かって、その子たちとも交流を始めました。また、Lさんたちや他にもアズベリーで繋がった近隣のクリスチャンの方々を通して、レキシントンエリアのアメリカ人教会が取り組んでいるESL(英会話)ミニストリーに参加している生徒さんの半数以上が日本人の駐在妻さんたちであることも知りました。ESLミニストリーに携わっている方に誘われて9月末にお邪魔したホームパーティでお会いした方々は実際8割以上の方が日本人、しかもみなさんトヨタ系ということで私の地元の愛知県出身…すぐにローカルトークで打ち解けることができ、何人かの日本人ご家族と顔見知りになりました。パズルのピースがぴったり当てはまるかのような神さまの正確な采配と配置に鳥肌が立つ思いでした。

そして、Lさんたちと出会って3週間ほど経った頃、「一緒に日本語教会を始めませんか?」と誘われました。日本人へのアウトリーチの大きなニーズとそこへのアメリカ人教会の試みを見、また私がそこに送られてきたこともあって「今が動く時だ」と確信されてのお誘いだったそうです。こうして2023年10月からケンタッキー、レキシントンでの日本語教会開拓が始まりました。アズベリー神学校のカフェテリアにLさんたちをお招きして、ランチに集まってくる神学生たちで私がその時点で知っている限りの日本人に重荷のある人たちに声をかけ、ランチをしながら教会のビジョンを分かち合い、ネットワーキングを行いました。その中で何人かの神学生たちが興味を示してくれ、後に多くの点で尊い助けの手を差し伸べてくれました。

この開拓教会は、みんなで話し合って「いずみコミュニティチャーチ」という名前になりました。レキシントンにある南部バプテスト派で日本人駐在妻さんたち向けにESLミニストリーを長年続けてくださっている大きな教会が快く教会の中高生向けのクラスルームを貸してくださり、礼拝がスタートしました。最初はLさんご家族、求道中の駐在妻さん、そして私の6人だけの小さな集まりでしたが、UKやCentre Collegeの日本人留学生、アズベリー大学の日本にルーツや重荷のある学生たち、また駐在のご家族など、毎週神さまが人を送ってくださって、教会が始まって8ヶ月経った今は平均して30人前後が集う教会になっています。2月に行った餅つきのイベントと礼拝には、なんと近隣の日本人家族や留学生たち合わせて100人以上もの参加者もありました。10人弱、レギュラーで来てくださっている未信者の方々もおられ、とてもミッショナルな教会です。

また、UKのBobfireミニストリーで出会ってから個人的にも共にバイブルスタディを始め、EC23にも一緒に参加した日本人の交換留学生の女の子、Rさんがこの4月に私たちの教会で洗礼を受けました!彼女の洗礼式はお部屋をお借りしているアメリカ人教会のメイン礼拝の中でLさんを通して執り行われました。これはいずみコミュニティチャーチにとっての最初の洗礼式でしたが、長年日本人のためにESLミニストリーを続けてきたこのアメリカ人教会にとっても初めての日本人の洗礼式で、礼拝堂は大きな大きな天の喜びで満たされていました。RさんはEC23に参加したあと、積極的にBonfireでも私たちの教会でも賛美チームに入って賛美のリードをしてくれるようになったり、UKの他の交換留学生たちに一生懸命神さまのことを分かち合ったり、周りの留学生たちのことを想いやったり、本当にさらに生き生きとしたキリスト者の姿に変えられていきました。彼女の洗礼式や喜びに溢れていく姿を見て、いずみコミュニティに通ってくださっている求道中の40代の男性の方が、「自分もそろそろ洗礼について真剣に考えたい」とRさんに伝えにきてくれたと聞きました。キリストによって変えられていく彼女の姿は未信者の方々だけでなく私たち「種を蒔く者」にとっても本当に大きな励まし、慰め、希望でした。Rさんは5月の頭に日本に本帰国し関西方面で信仰生活を始めています。関西にいる私が信頼する姉妹たちに繋いではいますが、どうぞこれからのRさんの信仰の歩みと、またご家族の救いのためにお祈りいただけると幸いです。

このようにして、一度お返しした日本人伝道への思いを神さまはケンタッキーの地でさらに私の愛知県出身という出生までもが生かされるような形で聞き届けてくださいました。またアズベリー神学校のカウンセリング修士も、全米の神学校で5校しかないカウンセリング認定を受けているプログラムで、以前いた神学校よりもさらに良い環境とカリキュラムの中で学べることになりました。学費や寮費が支払えるか分からない中でケンタッキーへ来ましたが、到着して数日後に学費はほぼ全額卒業するまで奨学金が与えられること、寮費もNYCにいた頃の一ヶ月分の家賃で一学期住めることがわかり、アドナイ・イルエ=「備えの主」の養いの業と恵の大きさに心がいっぱいで賛美の思いで溢れました。ウィルモアの小さな田舎町もとてもあたたかいコミュニティと美しい牧歌的風景の広がる素晴らしい場所で、NYCという都会の喧騒に当てられてすり減っていた私の心と魂を癒し潤してくれるようでした。NYCでの日本人伝道のニーズは未だとても大きく、私も引き続きそのためにお祈りしていますが、現在IPPUKU(私が携わっていたISIの日本人留学生ミニストリー)の元スタッフがもう一度活動を再開させようといろんな方たちに連絡を取り、また私もオンラインでミーティングを重ねたりしています。ぜひこの霊的な砂漠地帯であるNYCでの日本人ミニストリーのため、共にお祈りください。

あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。” イザヤ書 43章2節

神さまと歩む道は平坦な道とは約束はされていません。水の中や火の中を通ることもありますが、この聖書の箇所でそれらが私たちに致命的なダメージを与えることはないよう神さまの守りの手がいつも共にあることが約束されています。私もこの激動の一年を振り返る時に、常に神さまの慰めと支えの手があったこと、いつでも必要な安息の時を主は備えていてくださったこと、そして神さまの御計画がいつでもベストプランであることを体験しました。これからも神さまの養いの手を取り、キリストだけを握って導かれるところどこにでも主の道を見出したいと思います。お祈りやあらゆる形での多くの方の支援にも心から感謝しつつ。

2024年8月号<牧師室より>「開かれる道、閉ざされる道」

日本から戻ってきて10日ほど。やっと落ち着いて、18日間の日本滞在を振り返る事ができています。

多くの方々に祈られて、派遣されて、迎えられた日本での日々、本当にエキサイティングな日々でした。5年ぶりの日本で、6年ぶりの各地訪問。久しぶりの方々との再会も長い年月を超えて、まるでずっと共に歩んでいたかのような感覚に襲われる一方で、若者たち、子どもたちの成長には驚かされます。また、初めて出会う方々も何人もおられて、それはまた特別な一時でした。

日本に着いた翌日から東北から北海道と3泊4日の巡回、まず暑い東京から離れて、NJに近い気候で過ごしたのは正解でした。その後、東京での土曜日の帰国者集会と日曜日の礼拝メッセージ。

そして、月曜日からの3日間は今回の日本訪問の中心的な目的である、出身教団の日本ホーリネス教団の小田原での夏季聖会でのご奉仕でした。今から32年前に祈って送り出してくださった皆さんに、日本に帰ることもなく、そのままアメリカにいることになった自分が受け入れられるのだろうかと緊張と不安を感じていました。しかし、そこで神さまが私の心に語ってくださったのは、自分がどう思われるかよりも、神さまが語りなさいと言われることを語ることの大切さ。平安と自由な心で大胆に聖書からのメッセージを語ることができました。

そして、そのまま、土曜日まで東海から関西方面の各地で皆さんと時間を過ごし、東京に戻ってきました。そして、2回目の日曜日、池の上教会での礼拝と午後の伝道会にも、NJの関係の方々が多く来られて、喜びの再会を果たし、ご奉仕も終えました。

ところが、翌朝判明したまさかのコロナ陽性。日本でも5類感染症に移行して、以前のような対応は必要なかったとしても、帰米までの予定はすべてキャンセルして、活動自粛生活に入ることになりました。

最後の5日間は東京近郊で集まりを持ったり、個人的にお会いしたり、訪問させていただく方がいたりと、すごく楽しみにしていたので、とても残念でした。NJから送り出してくださった皆さんに対しても、18日間の中の5日間も部屋に籠もって過ごすことになるのは申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

脅かされていた日本の夏の暑さも、確かに大変でしたが、汗拭きタオルを忘れないように、ということだけ気をつければ、それほど体調に影響することもなく過ごしていたのに、また、コロナの症状もごく軽く、1日半だけ、解熱剤がないとちょっとだるい、という程度。前回感染してから2年間、全く何も気にしないで生活することができていたのに、このタイミングでとは・・・という思いでした。

でも、落ち着いて考えてみると、残念は残念ですが、この日本訪問の準備をしている中で、どうしてもお会いして共に祈りたいという方々との予定がどうしても合わなかったり、久しぶりの日本訪問で連絡がつかなかったり、そういうことの連続でした。その一方で、パズルがぴったり合うかのように隙間の時間に予定が合って、お目にかかることができる人もおられました。「開かれる道もあり、閉ざされる道もある」、このことは、私自身の人生、以前からそうだったな、と思わされます。

「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と言っている者たち、よく聞きなさい。あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。あなたがたはむしろ、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきです。
ヤコブの手紙 4章13~15節

静まって、わたしこそ神であることを知れ。 わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、 全地にあがめられる。
‭‭詩篇‬ ‭46‬:‭10‬ (口語訳‬)

予定どおりに行かないことがある、祈ってきて、時間もかけ、労力もかけて準備したことなのに、道が閉ざされることもある。それも神さまの御手の中にあることなのです。

今回、各地を走り回っていた自分に、神さまが「落ち着いて、静まって、祈りなさい」とブレーキをかけられたのではないか、という思いもあります。また、「自分がやらなければ・・・」という気負いも手放すようにと言われたのかもしれません。

実際、私が行けなくなった東京での集まりは、皆さんで集まって、そこに私がオンラインで顔を出す、という形になりましたが、とてもいい集まりになったようです。また、ちょうど出張で東京に行かれるNJの教会の方に同行して、お母様にお会いし、信仰告白に導かれたら、洗礼式をするという願いも持っていましたが、それは東京で牧師をしている実兄が代わってくれることになり、洗礼式をしてくれました。私だったら、その後、次に訪問するのはまた1-2年後になりますが、東京で牧師をしている兄ならば、しばしば訪問する事もできそうです。

とは言え、やはり、残念な気持ちはあります。その中で、「すべてのことがともに働いて益となる」(ローマ人への手紙 8章28節)という神の御業を見せていただけるようにと祈っています。

祈ってくださった皆さん、迎えてくださった皆さんに心から感謝しつつ。

「主の柱が動く時」

昨年の7月1日、2年間在籍していたマンハッタンにある神学校の大学院からメールがありました。

「来月末(8月末)で学校がなくなります。」

突然、なんの前触れもなく知らされたニュースに初めは頭が追いつかず、ただ、「神さまはまた何か企んでおられるな…」という予感だけがありました。学校閉鎖のアナウンスから学校が実際閉鎖されるまで2ヶ月もないというありえない状況の中で、悠長に悩んだり決断したりする間も許されない中で、ただ神さまの声のする方に向かって進むというシンプルだけれども究極の信仰の試練に突然飛び込むことになりました。

そのうち、学校からこれまで取得した単位を移行できる全米の提携神学校のリストが届きました。ただ、私の在籍していたプログラムは神学修士ではなくカウンセリング修士だったので、他の神学生たちに比べて神学校でカウンセリングの修士が取れる提携校は限られ、結局マサチューセッツかケンタッキーにある神学校の2択だけでした。通常、大学院受験は教授や(神学校であれば)牧師からの推薦状を数枚、学校側から出されるテーマに沿ったエッセイ、あらゆる出願手続き、そして面接などの過程を何ヶ月もかけて行います。それを数週間もない期間で全部済ませなければならないなんて…と気を失いそうになりました。もう全部諦めて日本にすっ飛んで帰りたい気持ちもありました。それでも、これだけ激しい大嵐のチャレンジに私を招いた神さまだから、何か私には想像も出来ないような計画をお持ちに違いない、と感じました。また、心配した知人から電話がかかってきて、「ガリラヤ湖で弟子たちと大嵐に会った時、キリストは枕して休んでおられたから、神さまは大嵐の只中にあっても日和ちゃんにきちんと休息も与えてくださるから、大丈夫。」と祈りと共に励ましてくれました。「この嵐をあなたと共に通ります、でも通るからには神さま私を養って、祝福してください!」と祈りました。

そこから大急ぎで2択に絞られた神学校の両方にコンタクトを取り始めました。するとすぐにケンタッキーの方の提携校、アズベリー神学校から連絡が帰って来ました。この私の置かれた異例の事態に理解を持ってくださり、急ピッチで出願手続きをサポートしてくれました。このアズベリー神学校はケンタッキーの小さな田舎町にある神学校で、ジョン・ウェスレー(18世紀の神学者)の教えを土台とした福音派、ウェスレー・ホーリネスの流れを汲んだ神学校です。正直私には昨年まで全くと言って良いほど面識のない神学校でした。昨年の2月、この神学校の併設大学であるアズベリー大学でリバイバル(現地の人たちはへり下りの意味を込めてOutpouringと呼んでいます)という聖霊が力強く働いて信仰が大規模に覚醒するという出来事があり、そのニュースを私もSNSを通して見てとても励まされました。それ以降いつか訪ねてみたいと思っていた矢先に出願してみるということになり、自分でも驚いていました。

アズベリー神学校との出願・受験手続きは驚くほどスムーズに進みました。私のミニストリーでのメンターたちも超多忙なスケジュールの合間をぬって推薦状を速やかに送ってくださり、教会の青年も仕事のあと明け方近くまでかけて私のエッセイの英語を添削してくれ、また多くの方の背後の祈りに支えられて、出願から面接・合格通知まで10日足らずで終わってしまいました。こうして、今御霊が力強く働いているアズベリー神学校への道が急に開かれました。

ただ、留学生ビザの制限があり、住んでいたNYCからオンラインでケンタッキー州の神学校であるアズベリーの授業を受講することは許されず、私はどうしても残りの1ヶ月も満たない短期間で留学生用の在留書類発行など含めた一通りの入学・転校手続きをし、そして8月後半から始まる新学期までにケンタッキーのキャンパスに引っ越しも完了しなければいけないという、とても無理難題なスケジュールに思えました。もし秋学期が始まる9月までにキャンパスへ行くことができなければ、諦めて日本に帰国し、一からまた留学の準備を始めなければならないという大きなプレッシャーもありました。しかもこの時点では学費や寮費を払える見込みも立っておらず、何もかもが未知でした。

一方、マサチューセッツの神学校はNYからも比較的近くまたアクセスもいいので、大好きなNJの教会やNYCのミニストリーチームにも頻繁に戻って来られそうで、転校するとすればこちらの学校の方が理にかなってるように思えました。しかし、なぜかこちらの学校からは最初に問い合わせのメールを送って以降音沙汰が一切なく、返事を待っているうちにあれよあれよという間にアズベリー神学校への合格が決まってしまいました。アズベリーからの合格通知が届いたくらいのタイミングでようやくマサチューセッツの神学校からもメールがありましたが、それによると、私に何回もメールを送ってコンタクトを取ろうとしていたけれども全然私に連絡がつかなかったとのこと。私も何回もスパムメールなども入念に確認してメールを何回か送りましたが返信メールは見当たらず、本当に謎でした。でも、この時点ですでにそちらの学校は最終の面接期間を終えてしまっていました。私の状況の緊急性を加味して、特別に私のためだけに面接の機会を作ってあげるよとオファーもしてくださいました。しかし、その時なぜ神さまはアズベリーとのやりとりを驚くほど早くスムーズに進めて、もう一つの学校との連絡を止めておられたのだろうと思い巡らしました。論理的に考えたら、こんなギリギリのタイミングでこれまで7年過ごしたコミュニティ近くの神学校ではない遠いケンタッキーの地に、誰も何も知らない場所に行くことは無謀で筋が通っていないようにも感じました。ですが、その時私の中に浮かんだのは、出エジプトのこの場面でした。

主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。” 出エジプト記 13章21節

イスラエルの子らは、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで旅立たなかった。” 出エジプト記 40章36~37節

イスラエルの民たちは、雲と火の柱が動けば動き、止まればその場に留まり、そうして40年間荒野を旅し続けました。その柱がいつ動くのか、民たちは知りませんでした。もしかしたら、夕食の準備をしかけていたのに柱が動いたから急に荷造りをして移動しなければいけない、なんてこともあったかもしれません。神さまのタイミングは、必ずしも私たちが思うベストタイミングであるわけではなく、また私たちが準備できているかどうかに限らず神さまが進む時は私たちも進む。そして何より、神さまがその荒野の旅路にいつも寄り添い、私たちの必要をマナによって常に満たし、行くべきところへ導いてくださる。そのようなイスラエルの民たちの荒野での日々を思った時、今私の目の前の柱も動いて、それはケンタッキーの地へ向かっているのだと感じました。大好きなNJの教会の主にある家族のみなさん、重荷を持って全力投球してきたNYCでの日本人伝道、そして素晴らしいミニストリーチームやメンター、そんなみなさんとの突然の別れとミニストリーを手放すことがとても辛く、ケンタッキー行きを決断してから2日間ほどは泣き腫らしましたが、2日間たくさん泣いてからは心を決めいろんなものを手放して神さまの養いの手だけを握って、7年過ごしたNYの地を去るための準備を始めました。

ケンタッキー行きを決めてから実際に引っ越すまでの1ヶ月弱の期間は怒涛の日々でした。お世話になった多くの方々やミニストリーで出会った学生さんたちとお別れの挨拶をして、引っ越しの準備をして、教会のキッズキャンプを手伝って、転校に必要な書類を集めたり提出したりして、送り出しの祈りを浴び、とても濃厚な時間でした。そうして8月末、5つのダンボール箱と3つのスーツケースでケンタッキー州レキシントン郊外のウィルモアという小さな町に引っ越しました。レキシントンの空港についた時、アズベリーからお迎えのボランティアがあり、博士課程にいるインドからの留学生でヘプセバさんという方が私を空港で出迎えてくれました。このヘプセバ(Hephzibah)はイザヤ書62章4節に出てくるヘブライ語で、「わたし(神)の喜びは彼女(この文脈では女性名詞化された神の民、イスラエル)にある」という意味です。実は私がNYCで最後に長期レジデントとして住んでいたクリスチャンゲストハウスの名前もHephzibah Houseで、NYのヘプセバからKYのヘプセバへ託されたような不思議な出会いでした。そのヘブライ語の意味のように、神さまがこのユニークな方法で「わたしはあなたを喜んでいるよ」と愛を伝え、ケンタッキーに歓迎してくれているように感じました。

あなたはもう、「見捨てられた」と言われず、あなたの土地は「荒れ果てている」とは言われない。かえって、あなたは「わたしの喜びは彼女にある」と呼ばれ、あなたの国は「夫のある国」と呼ばれる。それは、主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。” イザヤ書 62章4節 

Hephzebah Houseで過ごしたNYC最後の2ヶ月間、大嵐のような日々を送る中で神様は何度も私に「あなたはわたしの喜びの花嫁、あなたはわたしの愛する娘」ということを伝えてくださいました。Hephzibah Houseの壁にこのイザヤの言葉が書かれていて、毎日それを見る度に試練の中で神様の愛が拠り所となり、次の人生の通過地点へ行くための備えの期間となったと今振り返ります。こうして7年間のNYでの生活を終え、KYでの新たな歩みが始まりました。

(9月号に続く)

「日本での新生活の意味・主のご計画を尋ねる」

私たち家族は、この3月に日本に本帰国しました。駐在に終わりが来ることは分かっていましたが、子供たちにとって「日本は遊びに行くところ」であったため日本での新生活への不安は隠しきれていなかったと思います。

帰国して数か月がたった今、フェイスブックを眺めると、夏休み入りしたアメリカの皆さんの投稿が目に飛び込んできて、楽しかった思い出が蘇ってきます。庭でのBBQ・ハンバーガー、海や公園、礼拝堂・ジムでの愛餐会、そしてマンハッタンの喧騒。まだ五感で思い出せるので、あたかも日本に一時帰国しているような気持ちにすらなります。

アメリカでの生活・経験を総括するには日が浅いものの、良い信仰の輪(教会)に加えられこと、大きな怪我、病気、事件に見舞われることが無かったことに感謝しています。しかし、何よりも妻の受洗、そして新たな命が家族に与えられたことは私が渡米した当時の期待をはるかに超える祝福でした。主のご計画が人智をはるかに超えたものであることを経験することが出来たと思います。

この半年を振り返ったとき、転勤に伴うドタバタ(5人家族の引越・家探し、仕事の引継、子どもたちの転校)だけでも大変ですが、子どもの高校受験と私の大学院の受験をこなさなければならず、「走りながら考える」とはまさにこのことだと感じる毎日を過ごしました。これだけ多くの出来事を同時並行的に進められたのは、家族が実質的な司令塔と仰ぐ妻の段取り力に他なりません。整然とした新居でコーヒー片手にホッとするとき、神様が妻の健康を守って下さったことに感謝せずにはいられません。

「えっ!これから大学院に?何故?」と質問された時に、5分も10分も使って経緯を説明するわけにもいかず簡潔な受け答えをしてきましたが、祈り求めていた進学にいたった経緯をご紹介します。

経営大学院に初めて興味を持ったのは20代の後半でした。不景気が普通の状態である学生時代を過ごし、少し上向いたと思ったらリーマンショックに見舞われ、漠然とした不安感を持っていました。思い描いたような仕事(=海外駐在)も出来ず焦りがありました。ニッチな領域の手に職的な仕事をしてきたため、経営大学院って意味があるのだろうか?手に職の方がいいのでは?決して勉強自体が好きな性分ではなく、大学時代の成績も褒められたものではなかったため、何となく気になりながらも自分に言い聞かせるように目の前の仕事と家族に集中してきました。

念願叶ってアメリカに来た当初は日本で担当していた業務領域をアメリカで担当するスペシャリスト的な仕事が与えられました。しかし、駐在の後半には経営陣を補佐する仕事が与えられ、尊敬する同僚の視野の広さ、思考の深さに魅了され、体系的にビジネスを学ぶ意欲が掻き立てられました。

一時帰国の際に学校訪問し目的と手段(進学)にズレがないかを確認したり、費用対効果を検証した上で、テスト対策・願書づくりの日々が6月から始まりました。受験は2回(年)までと決めていたため「ご計画ですよね。信じます。先取して感謝します。」と祈る日々が続きます。11月には受験のために弾丸で一時帰国し、2月には長男と一緒に3週間滞在し、長男の高校受験の傍ら、私も受験に臨みました。そして無事に合格を頂き、4月から会社員、夫・父、学生という三足の草鞋を履く生活を送るチャンスを得ました。仕事においても海外子会社を再編するプロジェクトを任され、大学院での学びを実践で活かせる役割を得られました。

今は日本での生活にもすっかり慣れましたが、片道1時間、電車に揺られて通勤・通学する毎日は案外苦痛ではなく、むしろ課題・自習の貴重な時間で座席に座ることは許されません(寝てしまいます)。自分のキャリア、家族の経済的な自由を目的に進学したことは偽らざる本音なので、一日の働きを終え寝床に入る時、「この道は神様が与えて下さったが、なぜ与えられたのか。キリスト者としての私は期待されているのか。両立が難しくて困難に至るような計画ではないですよね。試練は与えないでください。」と神様に聴きながら、気が付くと朝を迎えます。

“主は言われる、わたしがあなた方に対して抱いている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。”
エレミヤ書29章11節

一切が益となる計画を神様は用意してくださっています。主に感謝しつつ、私が御心から逸れず常に主を仰いでいられるようお祈りください。

2024年7月<牧師室より>「互いに励まし合う」

「7月の日本、昔とは暑さが違いますよ、気をつけて!」

7月に日本を訪問する予定だという話をすると、多くの方々にそのように言われます。調べてみたら、最後に7月に日本に帰ったのが、2005年。19年前です。その時も、とにかく暑くて、「これからは夏に日本に行くのは難しいな」と思ったのを覚えています。 その時よりも暑くなっているとしたら、どんな感じなのでしょう。そして、自分もその頃は40代、今は60代ですから、昔のようにはいかないかも・・・と心配しながらも、久しぶりの日本を楽しみにしています。

27年前にニュージャージー日本語キリスト教会の牧師になってから、間が短い時には毎年一度、間が開いてしまっても、2-3年に一度日本を訪問して、帰国された方々の集まりや訪問、メンバーの日本の家族の訪問を続けてきました。しかし、コロナ禍があって、とても間が開いてしまいました。今回、日本の所属教団からの招聘を受け、7月半ばに日本に行く用事ができたので、それに合わせて2週間半の予定で日本を訪問します。前回は2019年5月でしたので、6年ぶりになります。その間に天に召された方々、病を負われた方々、また、連絡がつかなくなってしまった方々もおられます。教会から足が遠のいてしまった方々もおられるでしょう。間が開いてしまったことの難しさを感じています。

日本に帰国された方々には、一日も早く、日本で教会につながって、そこで歩んでいただきたいと願っています。どこにいても、自分の住んでいるところのそばにある教会につながって、その教会を通して神さまに仕えていただきたいと思います。「自分が信仰を持った、あの教会は良かったなあ」と思って、地元の教会と比べるのではなく、謙遜になって、地元の教会で仕えていくようにお勧めしています。しかし、実際のところ、困難を感じる方々もおられます。ですから、励ましは必要だなあと思わされています。私たちの教会の歴史の中では、実際に牧師だけではなくて、出張や旅行で日本に行く方々が、帰国された方々に声をかけ、連絡を取ったり、日本に先に帰国された方が、戻った方々を励まし、サポートしてくださったりしてきました。そのような互いの励ましによって、私たちは支えられてきたのだと思います。

「自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。」(ヘブル人への手紙 10章25節)

今年の日本訪問でも、そのような働きができるようにお祈りください。互いに励まし合い、力をいただいて、立ち上がっていく時となりますように。日本の方々、お目にかかることができるのを楽しみにしています。予定はこちらから。

<集会紹介>「NY礼拝」(2024年6月)

2021年9月にNY礼拝が始まってから間もなく3年になろうとしています。「もう3年」ですが、「まだ3年」です。

私(錦織)がニュージャージー日本語キリスト教会に集うようになったのは30年前、1994年の秋だったのですが、その時も、NYからNJにある教会に集ってこられる方が多くおられました。ある方々は自家用車で、また、ある方々は毎週NJからの奉仕者が運転する教会のミニバンに乗って、集ってこられていました。

1997年にこの教会の牧師としての働きを始めたときに、マンハッタンの大学に通うクリスチャンの学生から相談されて、学内でのバイブルスタディーに行くようになり、そこから教会に来るマンハッタンやクイーンズの学生たちが増えてきました。洗礼を受ける学生たちも起こされてきました。その頃から「平日はこのように自分がNYに来て、集まりを持つことができるけれども、日曜日はNJの教会まで来るのが大変だから、そこで止まってしまう学生たちがいる、何とか、NYで礼拝はできないだろうか」と祈り始めました。

大学でのバイブルスタディーはクリスチャンの学生たちが卒業して、2-3年で終わってしまったのですが、その後も、「自分はクリスチャンだから、NJの教会に来ることはできるけれども、クリスチャンではない友達を誘うことは難しい」との声を聞きながら、なんとか、NYでも礼拝をささげることができないだろうかと祈ってきました。

そして始まったNY礼拝、毎月第2日曜日の午前中にマンハッタンのスタジオをお借りして集まって、礼拝をささげています。場所と時間は違いますが、ほぼ、NJと同じプログラムで、同じメッセージをお話しています。いつもNJまで来られる方々も、なかなかNJまでおいでになるのが難しくて、NY礼拝だけに来られる方々もおられます。住んでいるのはNJだけれども、車がないのでNYの方が便利な方や、旅行で来られる方、ウェブページを見て来られる方、ご高齢の方、若い方、いろんな方が集われています。まだ、このNY礼拝から洗礼にまで導かれる方は出ておられませんが、一人でも多くの方々に、聖書のメッセージを、イエス・キリストの福音を伝えたいと願っています。

今月は6月9日(日)午前10時15分から、場所はRipley-Grier Studios #2B (2階)    939 8th Ave (55thSt. & 56thSt.の間)。是非お出かけください。

2024年6月<牧師室より>「コミュニティーの中で生きる。再び。」

 今年の2月号の月報で「何かが起こってから、『私たちは〇〇教会の者ですが、何かできることはありますか?』と聞いても、それからでは遅い、教会がいつもいつもコミュニティの中で生きていないと、いざという時に教会に手を差し伸べてもらおうなんて人は誰もいない」という9-11の後に参加したセミナーの講師の言葉を紹介しました。それからずっと、私たちは、コミュニティーの中に生きる、そのためにはどうすればいいのか、という課題をもらって歩んでいます。

 数年前にJCCカフェが始まったときも、地域の方々の憩いの場となる様にという願いででスタートしました。実際に毎回多くの方々がおいでくださり、時間を過ごしてくださり、その目的を果たしていたと思います。この働きはコロナ禍で中断して、奉仕をしてくださる方々が引っ越して行かれたりして、まだ再開の目途は立っていませんが、また少し違った形でも、このような場が持てればと思います。また、親子クラスやキッズクラブ、クロッキー教室、JOYJOYキャンプなども、私たちがコミュニティーの中で生きる働きの一つになっていると思います。でも、まだまだ多くの日本語を使う方々に届いていない、まだ出会っていない、そんなことを思わされます。一つ一つの働きがもっともっと多くの方々に届いていくものとなりますように。

 昨年9月にはフリーマーケットとNY男声合唱団のミニコンサートをもって、教会の存在を知っていただく、一歩でも教会の建物に入っていただく、という時を持ちました。とても良いときとなりましたし、これも「コミュニティーの中に生きる」ということの表れになったと思います。

今年は6月22日(土)にフリーマーケットと今度はNY混声合唱団にミニコンサートをしていただいて、更に多くの方々とのつながりを作っていきたいと願っています。昼の12時から午後4時がフリーマーケット、午後4時から5時までがミニコンサートです。是非お出かけください。

昨年の男声合唱団も、今年の混声合唱団も、合唱団の方からお声かけをいただいて、共にやりましょう、やらせてください、ということから始まっています。更にこの地域でコミュニティー作りをしておられる皆さんと共に歩んでいくことができますように。

「良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。
平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、
『あなたの神は王であられる』とシオンに言う人の足は。」
イザヤ書 52章7節

私は教会で育ったからクリスチャンなのか? 〜生態学を通して信仰の自立を考える〜

1.はじめに

2024年5月に大学を卒業いたしました。中高生時代に体調を崩していたので、親元を離れてのアトランタでの大学生活にご心配をおかけしましたが、多くの方にお祈りしていただき支えられましたことに感謝しています。さまざまな壁にぶつかりながらも、充実した日々を過ごすことができました。

大学での4年間を振り返ると、自分で言うのもおこがましいですが、学業と信仰が互いに影響し合いながら大きく成長できたように思います。生態学を学ぶ中で、またクリスチャンとしてのアイデンティティが芽生えたこの期間を通じて神様の恵みを深く実感したので、そのことをお証しさせていただきます。


2. 幼少期と信仰の始まり

ニュージャージーで生まれ育った私にとって、平日は英語の現地校、土曜日は日本語学校、日曜日は教会という生活が幼少期から高校卒業するまで「当たり前」でした。母がクリスチャンなので、物心がつく前から地元の英語教会やニュージャージー日本語キリスト教会に通い、教会学校やジョイジョイシンガーズ、ジョイジョイキッズクラブ、ジョイジョイキャンプなどに参加していたので、自分が神様に愛されていることを耳にタコができるほど聞いていて、知っていました。

最初は母に教会に連れて行かれていましたが、小学1年生の時に神様の子どもになりたいと自ら願い、洗礼を受けました。中高生になると、教会のミニストリーを手伝うようになり、少しずつスタッフとしての役割を担うようになりました。礼拝では和英通訳をするなど、さまざまな奉仕に加わる機会に恵まれました。英語と日本語を活かしながら礼拝のために、教会キッズのために、教会のご奉仕をするのは純粋に楽しかったのを覚えています。当時、私が発案した工作の企画や賛美動画の活動を教会の大人やユースの仲間が喜んで応援してくださったことによって、私の与えられた賜物が用いられていると感じ、教会生活やご奉仕に積極的にになれたのだと思います。 


3. アトランタでの大学生活

COVIDで最初の1年リモート授業を余儀なくされましたが、2年目の夏から大学進学のために親元を離れてアトランタでの生活が始まりました。リベラルアーツの小さい女子大だったので、理系文系問わず興味のある分野を少人数の授業で受けることができました。脳科学専攻の一方、ジャーナリズム・公衆衛生学・化学を副専攻として学び、生態学の部活の部長を務めたり、昆虫を用いた微生物の研究をしたりなど、いつしかスケジュールの詰まった大学生活を送っていました。

教会に行くかどうかを自分で決めるようになり、毎週アトランタ日本語バプテスト教会に通いました。新しい教会生活のスタートでしたが、ニュージャージーの教会もアトランタの教会も、同じ神様を礼拝する場であり、主のもとに帰る場所であり、神の家族と会える場所だと感じました。大学から離れて数時間、日本語でメッセージを聞ける、教会の皆様と交われる環境に身を置くことができ、徐々に教会が心の拠り所となりました。

アトランタの教会では、礼拝の賛美チームに参加したり、教会学校で祈り課題を共有したり、月に一度の愛餐会で共に食事をしたりしました。また、礼拝後にはキッズとお絵描きをしたり、本を読んだり、宿題を手伝ったりする時間を過ごしました。教会の外でもご自宅に招いていただいたり、キッズとザリガニやイモリを探しに行くこともありました。

たとえ寝不足でも、試験に追われていても、日曜日の朝は教会に行こうと思えたのは、信仰の支えがあったからこそです。1週間大学でヘトヘトになって教会へ駆け込み、主のもとで憩い、力をいただいてまた出ていく、1週間がんばれるというふうに、学業と信仰が互いに影響し合い、私の生活を支え、大きく成長させてくれたように思います。


4. 信仰に対する葛藤と挑戦

同時に、信仰に対する葛藤も感じるようになりました。アトランタで出会ったアメリカ人や日本人の友達に、自分の信じている神様についてうまく説明できず、悔しく情けない気持ちになることが何度もありました。礼拝に来てもらっても、主の祈りを唱和した時に「今のはカルトっぽくなかったかな?」と心配することもありました。

大学では、私が教会に通っているクリスチャンだと知っている人はいるものの、聞かれなければわざわざは言わないようにしていました。私の大学は非常にリベラルな校風で、キャンセルカルチャーが激しいと感じていたため、学問で不自由を感じないために、私は必要でない情報は無闇に言わないスタンスを取っていたのです。

例えば、クリスチャンのキャンパスミニストリーがLGBTQに関する声明を出すよう学生から求められ、保守的すぎる、寛容でないと大学のコミュニティーから追い出されるということがありました。このような環境で、自分の信仰をどう表現するか、どのように維持するかについて多くの葛藤を感じていました。


5. 信仰と学問の共生

生物学の研究を進める中で、神様の偉大さを感じました。例えば、昆虫が特定の微生物と共生することによって得られる利益や、生態系全体におけるその役割を理解することで、神様の計画の緻密さと精巧さに感嘆しました。

しかし、これらの分野に関する知識が深まるにつれて、疑問も増えました。例えば、遺伝子操作の発展は生命の神秘を解明する一方で、倫理的な問題も引き起こす可能性があります。進化学においては、自然選択や突然変異のメカニズムを理解することで、神様が創造された生命の多様性の素晴らしさを解明できる一方、クリスチャンとして進化論と創造論の間で揺すぶられることもありました。

こうした疑問に直面する中で、神様が与えてくださった知識と技術をどのように使うべきか、クリスチャンとしてこの道の研究者として進んでいく場合どうあるべきかについて考えるようになりました。科学の進展を通じて神様の偉大さを証しする一方で、倫理的な問題に対しても慎重に対応することが求められるからです。これは大きな挑戦です。大学院進学に際し、この道を突き進むことが正しいことなのか神様に喜んでいただけることなのかと、大いに悩んだ部分でもあります。けれども今は、信仰と学問の両立についてさらに多くを学び、クリスチャン研究者としての自分の立ち位置を再確認しながら歩んでいこう、と思わされています。


7. 神様を受け入れる選択

生態学では、最初に定着した種がその後の生態系に大きな影響を与えることを「先住効果(Priority Effect)」と呼びます。複数の生物種が新しい環境に導入される際、どの種が最初に到着するか、その数や環境への適応度の違いによって、それぞれの生物種の成長能力や最終的なコミュニティーの構成が変わります。
私の信仰も、まさにこの先住効果のようだと感じます。母が私を毎週教会に連れて行き、様々な教会の集まりに参加させてくれたことで、私の信仰の基盤が築かれました。この最初のエクスポージャーがなければ、私の信仰は異なるものになっていたかもしれません。大学生活を通じて、私は自分の信仰が、母や育った環境からの影響だけでなく、私自身の選択によるものであることに気づきました。

最初に与えられた信仰の環境が、神様と共に歩み続けたいという私の意志によってさらに強固なものとなりました。このようにして、信仰は単なる環境による「エクスポージャー(exposure)」だけでなく、私自身の「選択(selection)」によっても形成されていったのです。

時折クリスチャンでない生き方に揺れ動き、教会から離れそうになりましたが、聖霊様による信仰生活の免疫(Immunity)に守られているのだと思います。最初に形成された信仰が成長し、大学生活を通じてさらに深く「定着(establishment)」したと感じています。

学業と信仰の両面を通して、私は信仰生活が自分にとってどれほど重要であり、それが私の人生にどれほど深く根付いているかを実感しました。このプロセスを通じて、信仰が私自身の意思と神様との関係に基づいていることを確信しています。これからも、神様の導きと共に成長し続けていきたいと思います。


8. 結論

私は、クリスチャン家庭で育ったからではなく、自らの意思で神様を受け入れました。まだ弱さや葛藤はありますが、これからも神様の愛に満たされ、神様のご臨在の中で生き生きとした信仰生活を送りたいと祈っています。

   『雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、
  地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、
  種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。』 <イザヤ書 55:10>