2018年9月16日 『私たちの使命』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: 創世記2章4節〜9節

 

先週の休暇→「良い休暇というのは、その休暇が終わった時に、やる気を持って仕事に戻りたくなっているようにさせるものである
日曜日の夕方、月曜日の朝の気持ちは?金曜日の夕方の気持ちは?TGIF?
なんのために仕事をしている?
「生活の糧」「教会や牧師を支えるため」「職場で伝道するため」

「早くリタイアして、もっと教会のために・・・」
私たちの使命は「福音を伝えること」
・・・「全世界に出て行って全ての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)など。
しかし、世の始めからの私たちの使命・・・創世記1:28「地を管理する」創世記2:15「アダムにエデンの園を守らせ、耕させた」
→仕事をしなさい、この地を管理しなさい、土を耕しなさい。
「神のかたち」・・・「霊的な部分」「人格」(先週)
→神の代わりに地を治める。
それが変わってしまったのが、罪を犯して、神から離れたことの結果。
「一生苦しんで地から食物を取る・・・額に汗をしてパンを食べ、ついに土に帰る」(創世記3:17-19)
・・・労働が苦痛になり、人生の意味を見失う。
イエスによって、私たちを愛で満たし、神と共に歩み、労働の祝福を経験させてくださる。
祝福を運ぶ器として、仕事の中でも、祝福を持ち運ばせてくださる。
<テイクアウトQuestions>
1)あなたにとって仕事はなんでしょうか?どうして仕事をするのでしょうか?なんのために仕事をするのでしょうか?
2)神様は天地創造の時に、人にどのような意味で仕事を託されたのでしょうか?神はあなたにどんな思いで仕事を託されたのだと思いますか?
3)罪によって、苦痛となってしまった仕事を、もう一度祝福として受け止めるためには何が必要でしょうか?あなたが今の仕事を神からの使命として受け止める時に、どんなことができるでしょうか?

2018年9月9日 『世界への神の情熱』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: 創世記1章1節〜4節

 

聖書は神の存在の議論ではなく、「はじめに神が」でスタートする。
神がこの世界を造られた。偶然ではない。
神は愛をもって、情熱をもって、この世界を造られた。
1)喜びをもって世界を造られた神
2節:世界が始まる前、混沌の時から神の霊が、世界を覆っていた。
そして、神は「光あれ!」という言葉から、世界を造られた。
一つ一つ「これはよかった」「ああ、これは素晴らしい!」と感嘆の声をあげながら、造られた。
ちゃちゃっと造られたのではない。一つ一つゆっくりと造られた。
2)ご自身のかたちに私たちを造られた神
26節:自分に似せて造る・・・自分に似た存在は嬉しい。
「神のかたち」・・・霊的な部分・・・神との交わりに生きる。
神を愛したり、礼拝したり、祈ったり、従ったりできる存在。
外側ではない、内側の問題。
関先生・・・「神のかたちは『人格』」・・・人格的に生きるのは人が幸せになること。傷つくのは人格が支配されること。
その神のかたちが神と共に歩んでいく時に、一番満たされるように造られている。強制ではなく、無理やりではなく、自分の決断で、自分の判断で、「あなたを愛します。崇めます。従います」と歩む時に、私たちの心は一番満たされる。
そのために、神は私たちと歩むために、イエスを与えた。
それが神の情熱。イザヤ9:7
<テイクアウトQuestions>
1)はじめに神が天地を創造された、という聖書の最初の主張は、あなたにどんなことを語りかけてきますか?
2)神のかたちが「霊的な部分」「人格」というときに、それが誰かに支配されるときに深い傷を受けるということは感じたことがありますか?どんなときですか?
3)神がこの世界に対してもっておられる情熱はどのようなものでしょうか?あなたはそれにどのように応えますか?

 

「地のちりにひとしかり」

今年の3月に妻と共に日本語教会に転入しました。錦織先生をはじめ、教会員の皆様に愛をもって受け入れていただき、感謝でいっぱいです。今日は私自身がどのようにして主イエス・キリストを信じ、救われ、クリスチャンとしての歩みをはじめたのかを証しさせていただきまます。

1970年、私は大阪のカトリック系ミッションスクールに進学しました。それは中高一貫の男子校で、大阪城の南、大阪冬の陣で真田幸村が徳川家康の東軍に対峙して布陣した真田山にありました。校舎の屋上には大きな聖母マリア像が建ち、そのやさしい目が校庭を見下ろしています。当時の公立の中学生の男子は丸坊主が一般的でしたが、私たちには短髪がゆるされ、大阪では「ボンボン学校」として有名でした。月に一度、全校生がステンドグラスの講堂に集められ、ミサに参加させられます。ステージに祭壇が設けられ、豪華なガウンに身を包んだ祭司が、一列に並んだ会衆の口に丸くて小さい煎餅を入れいきます。また銀のカップを高々に持ち上げるや、それを一気に飲み干します。キャンドルと香の香りに満ちたその儀式は厳粛な雰囲気に満ちていました。ただ、学校生活といえば、カトリックの教育方針のもと、厳格な校則と膨大な量の宿題に追われる多忙な毎日でした。成績は中の下、スポーツも取り立てて得意でなく、目立たない平凡な生徒でした。人前では従順で真面目な生徒を装いつつ、その心の中は、何の取り柄もない平凡すぎる自分への不満でいっぱいでした。

クラスメートは裕福な家庭に育つ「ええとこの子」ばかりでした。親が心斎橋を中心に関西割烹を数店も経営していたり、白浜の豪華なリゾートホテルを所有していたり、都銀のエリートバンカーであったり。それにひきかえ、私の父は輸出用のサングラスを生産する小さい町工場で経理として働いていました。母は自宅を洋裁店に改装して、四国や山陰地方から住み込みで上阪する若い娘たちに洋裁を教えながら、地元のおばちゃんを顧客にして洋服のリメイクやリペアで収入を得ていました。ところが、中学2年の夏ごろから、父の勤めていた会社が傾きはじめました。アメリカが電撃的に新しい金融政策を発表したのです。それはドルと金の交換を停止し、10%の輸入課徴金を導入するというものでした。これで固定相場制が終焉し、1ドル360円の時代が終わり、ドルは暴落しました。ニクソンショックです。この円高によって、日本の輸出業者の収益が激減し、ほどなく父の勤めていた会社も倒産しました。私の学費に加え、四天王寺にある私立の仏教系スクールへ進学した妹の学費も加わり、もはや父の収入をあてにできなくなった母は、洋裁店で稼いだ資本を元手にアパート経営をはじめました。食べるに困ることはありませんでしたが、家計に余裕はありませんでした。そんな経済状況の中、親の苦労も努力も知らない世間知らずの私は、裕福な家庭環境にあるクラスメートが妬ましく、失職した父や懸命に働く母を見下しはじめていました。

中学時代は吹奏楽部でフレンチ・ホルンを吹いていました。全国大会に出場することを目指し、土日を返上して練習する毎日でした。中学2年の時に大阪大会で優勝し、有力候補と期待されながら、近畿大会では3位に終わりました。私が大事なパートで失敗したのが原因でした。先輩部員たちからは冷遇され、コンクールでの失敗に責任を感じて退部せざるを得ませんでした。その後、目標もなく、ぶらぶら暇をもてあましている時、福音集会の看板を目にしました。大阪南部の泉州にある和泉キリスト集会(プレマス・ブレザレン)が、大阪市内ではじめて開く特別伝道集会でした。それはカトリックのミサとは対照的で、小さい公民館の会議室で行われた50人ほどの集会でした。ただ、そこではじめて聞く聖書のメッセージは衝撃的でした。はじめて聖書を手にしました。読まれた聖句は創世記の1章1節でした。「はじめに神が天と地を創造された。」そこで宇宙を創造された方の存在を聞きました。自分はこの方に生かされていること。自分の人生には目的と意味があることを知りました。

もはや自分の取り柄のなさとか、クラスメートの裕福さとか、すべてがどうでもよくなりました。天地創造の神がいるという事実に心踊りました。その日から2年間、毎日聖書を読み、福音集会に通い続けました。ところが、クリスチャンとの交わりと聖書の知識が増えるに従って、神の存在に対する喜びと感動が徐々に薄れて来ました。聖い神と汚れた自分の心に大きな隔たりを感じ始めたからです。虫歯程度に考えていた自分の罪が、神の前には癌以上の深刻な問題であると教えられていきました。自分のわがままさ、自己中心、ねたみ、両親を見下す傲慢な心など、自分は神の怒り以外に何も値しない人間であることに気づきました。そこで一大決心をして、神の怒りを静めるために善行にも励みました。過去に犯した罪のリストを作成し、善行によってその罪をひとつずつ償おうとしたのです。ところが、努力すればするほど、新たな罪に気づかされ、自分の罪が累積債務のように増えていきました。

そんな重い心に沈んでいた高校時代、岐阜県高山市での二泊三日のバイブルキャンプに参加しました。それは若いクリスチャンたちが乗鞍岳の自然の中に集い、賛美あり、ゲームあり、証しありの楽しいキャンプでした。でも、私はひとり罪の重荷に押し潰されて、どんなプログラムも楽しむことができません。自分は神に嫌われている。自分はいつか神に裁かれ、神の手によって滅ぼされてしまう。もはや救いをあきらめ、疲れ果てた私は、人目を避けて、誰もいない場所を見つけて一人跪いて祈りました。「神さま、もういいです。今すぐ私を裁いてください。自分は罪だらけです。頭の上からつま先まで。もうどうにもなりません。」それは救いではなく、裁きを求める祈りでした。しかし、その祈りに対する応答はなく、しばらく静寂の時が続きました。すると自分のあわれな姿が、癒しをもとめてイエス様の足元に跪く全身をツァラトに冒された病人と重なりました。その瞬間、耳を疑うようなイエス様の言葉が心に届きました。―イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「私の心だ。清くなりなさい。」

涙がとめどなく溢れ出ました。父なる神とイエス様の思いは、私の罪に対する激しい怒りではなく、私の無力さに対する深いあわれみでした。溢れる涙を手で拭いながら、私は祈りつづけました。「こんな罪人をどのようにして清められるのですか。」次の瞬間、すべてが理解できました。「父よ。彼らをお赦しください。」これは自分を十字架に釘付けた者たちのために、イエス様が十字架で捧げられた祈りです。あの十字架の祈りこそ、私の罪を赦すためのとりなしでした。流された血潮は、私の魂を贖うための代価でした。そして、暗闇の苦しみは、私が受けるべき永遠の裁きの身代わりでした。私の悔い改めを待たず、神は赦しを用意し、惜しまずご自分の御子を犠牲にされました。赦しは神のあわれみであり、救いは神の一方的な恵みでした。心にのしかかる罪の重荷がすべて取り除かれ、平安と喜びで心がはじけそうでした。あの日から40年余りの年月が流れました。今、日本語教会に導かれ、あの日と同じ喜びと感動で主の愛を賛美できる恵みを感謝しています。

「地のちりにひとしかり、なにひとつとりえなし、今あるはただ主の愛にいくるわれぞ。御救いを受けし、罪人にすぎず、されどわれ人に伝えん、恵み深きイエスを。」

2018年8月26日 『愛されたから』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: マタイによる福音書22章34節〜40節

規則はいつの間にか一人歩きし、目的を見失う。
律法はまさにそういう状態。→イエスは本質を教える。
神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する。
申命記6:5とレビ記19:18
神を愛する
心を尽くして・・・intention, 意志、心の方向性。
精神を尽くして・・・全存在をかけて
思いを尽くして・・・知性、intelligence
これは、まず神が愛してくださったから。

神が私たちに心を向け、全存在をかけ、最高の愛を表された。
第一ヨハネ4:10
自分を愛する
自分を愛する・・・あたりまえ?
自分が愛せない問題→周りの人との問題へ。
比較?幼児体験?人の言葉?

⇔いろいろあるけれども、自分はこれでいい。と受け入れる。
神に愛されている自分を愛する。イザヤ43:4
隣人を愛する
神を愛する人は隣人を愛する・・・第一ヨハネ4:20
隣人とは誰?・・・レビ記19:17-18
憎んではならない、ねんごろにいさめなさい、

彼のゆえに罪を身に負ってはならない、
仇を返してはならない、
恨みを抱いてはならない
・・・愛しなさい。
テイクアウトQuestions
1)あなたは神を愛していますか?それを妨げているものはあるでしょうか?
2)あなたは自分を愛していますか?それを妨げているものはあるでしょうか?
3)あなたは隣人を愛していますか?愛せない人はいませんか?愛するために何が必要だと思いますか?

2018年8月19日 『時間を超える神の愛』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: ヨハネの第一の手紙3章16節

今年のJOYJOYキャンプのテーマ
「さあいこう!タイムマシン『アガペごう』の大冒険」
「アガペ」・・・アガペーというギリシャ語「神の愛」
ギリシャ語の4つの愛
フィリア・・・友愛
ストルゲー・・・親子の間の愛
エロース・・・男女の間の愛、価値のあるものを愛する愛
アガペー・・・無償の愛、犠牲の愛
世には色々の愛がある。素晴らしい愛がある。
しかし、イエスが十字架にかかったことによって、私たちは「アガペー」の愛を知った。
私たちが神に背を向けている時から、神は私たちを「アガペー」の愛で愛している。(ローマ5:6-8)
神に愛された者は、今度はわたしたちの周りの人々に愛を注いでいく。命を与えていく。日々、命を与えていく。
テイクアウトQuestions
1)自分の愛と、神の愛はどこが似ているでしょうか?どこが違うでしょうか?
2)神はあなたの人生にどんな素晴らしいことをしてくださいましたか?感謝すべきことは何でしょうか?
3)神の愛に応えて、私たちは何ができるでしょうか?あなたが愛すべき人は誰でしょうか?その人のためにできること何でしょうか?

2018年8月5日 『神のものは神に』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: マタイによる福音書22章15節〜22節

 

 

「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」政教分離?
ヘロデ党・・・親ローマ⇔パリサイ派
この対立する2つのグループが反イエスで協力。
ローマに納税すべき?
イエスの答えは「納税にはYES、でももっと大切なことがある」

→神のものは神に返しなさい
1)何が神のものか?
全てのものの十分の一・・・マラキ3:8-12
神様への信頼。神様を第一とする信仰告白。
才能・・・マタイ25:14-15
私たちの時間、人生、周りの人々、神様が私たちに託されたもの。
私たち自身・・・神のかたちの刻まれた者(創世記1:27)
2)どうやって返すのか?
十分の一献金は単純。
神のもとに帰る。自分の考えで生きてきたことを悔い改めて、神に帰る。
一瞬一瞬、神がほめたたえられることを求める。
神に身をささげて生きる=修道院や伝道者になることではない。
与えられたところで神を第一として歩んでいく。
仕事を通しても神の栄光を表す。
3)何がそうさせるのか?
神がそのように造られたから。そこに祝福があるから。
イエスが全てを与えてくださったから。
第一コリント6:19-20
テイクアウトQuestions
1)あなたが神に返すべきものは何でしょうか?どうしたらいいと思いますか?
2)私たちが神に全てをお返しすべきなのはどうしてでしょうか?どうしてそれができるのでしょうか?
3)私たちが神に返すべきものを自分のものにしてしまうことはあるでしょうか?神に返すのが難しいものはあるでしょうか?

2018年7月29日 『婚宴への招き』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: マタイによる福音書22章1節〜14節

 

パーティーに招かれるのも、来てもらえるのも。うれしい。
神様は楽しみにして、準備をしてこられた。
しかし、人々は2つの反応で神の招きを拒んだ。
1)招きを受け入れなかった人々。
ユダヤ人に向けたメッセージ。
神はあなた方を招いたのに、あなた方はそれを侮辱で返した。
→エルサレム滅亡の預言。
私たちはどうだろうか?
畑、商売・・・仕事。神様より仕事?

仕事は神様が与えてくださっているもの。創造の初めから。

問題は神様から任された仕事が、神様よりも大切になること。
お金も、才能も、家族も神様から与えられたもの。
で
もいつの間にか、神様よりも大切になる。
アブラハムに「約束の子」イサクを捧げなさいと言われた神。

アブラハムはいつの間にか、イサクが神よりも大切になっていた。
神はひとり子を与えて、私たちを婚宴に招いておられる。
2)礼服を着なかった人々。
礼服を着てこなかった人が追い出された?どうして?
礼服は入り口に準備されていた。・・・その礼服を着なかったということは、自分の服に自信があった。礼服を着たくなかった。
私たちのために備えられた礼服はキリストの十字架。
「キリストを着る」ガラテヤ3:26-27
それを着ないということは、自分の力で神に受け入れられようと思っている。自分は大丈夫と思っている。
テイクアウトQuestions
1)王の招きに応えなかった人々はどうして応えなかったのでしょうか私たちも同じような理由で神の招きに応えないことはないでしょう
2)礼服を着なかった人はどうして着なかったのだと思いますか?私たちに当てはめるとどのような気持ちでしょうか?
3)神様は私たちにどのようなパーティーを準備しておられるのだと思いますか?

2018年7月22日 『砕かれた心』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: マタイによる福音書21章33節〜46節

 

砕かれた心・・・信仰生活の中でとても大切。
⇔傲慢な心、「プライド」
私はあの人よりも信仰深い、結構良い線いっている
 自分はわかっている・・・
砕かれた心に神の恵みが注がれる。
1)神の思いと人の思い
ユダヤ人に向けたメッセージ。
神はあなたがたにこの世界に祝福を運ぶ使命を与えられたのに、それに従わなかった。預言者たちを送ったのに従わなかった。ひとり子さえも殺そうとしている・・・そのことを指摘した。
私たちに対するメッセージでもある。あなた方はどうなのか?
神は私たちに愛をもって使命を与えられた。
裏切られても、裏切られても、招いておられる。ひとり子さえ送られた。
私たちはその神様の愛に対して、神を退けて、この世界を「私たちのものだ」と主張している。人生も、時間も、お金も、才能も。
そこに気づいて砕かれることが必要
⇔自分が砕かれない→神を砕こうとする
2)隅のかしら石イエス
「隅のかしら石」詩篇118:22-23の引用。・・・イエスのこと。
他に土台はない。他のもので代用することはできない。
この石によって砕かれる。イエスに出会う時に砕かれる。
「
罪を犯すから罪人なのではない。罪人だから罪を犯さないではいられない」
詩篇51:16-17 「神の受け入れられるいけにえは砕けた魂」
テイクアウトQuestions
1)神様は私たちに対してどんな思いを持っておられますか?どんなことをしてくださったでしょうか?今日の聖書箇所と、自分の今までの歩みから考えてみましょう。
2)私たちは神様からこの世界をどのように任されているでしょうか?
3)神様によって砕かれた経験はありますか?それはどんな経験だったでしょうか?

2018年7月15日 『悔い改めへの招き』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: マタイによる福音書 21章28節〜32節

 

兄が「行きます」→行かなかった
弟が「嫌です」→心を変えて行った
なのか、その反対なのかは写本の問題。
いずれにせよ、指導者たちへの悔い改めへの招き。

→私たちに対する悔い改めへの招き。
1)義の道への悔い改め
「義」は神様との正しい関係。
神は私たちを神と共に歩む者として造られた。創世記1:26-27
「罪」は神と信頼関係が壊れてしまう。
「神は意地悪で、本当は私たちを愛していなくて、私たちを騙していて」
(創世記3:4-5)
悔い改めは「神との関係に戻りなさい」ということ。

正しいことをする、間違いを犯さない、ではなく、
神との関係によって、平安をいただいて、自由を与えられて、生き生きとした歩みをする。
「義」は「羊」の下に「我」がいる・・・十字架の元に自分を置く。
2)神の国への悔い改め
「悔い改め」:普通は「メタノイア」:思いを方向転換する
ここの30, 31節は「メタメレオー」:関心の向くことを変える
自分のことから、神のことへ。
「神の国」は「神の愛の支配」「神の愛に満たされる生き方」
神の愛に感謝して歩む生き方へ。
「悔い改め」・・・罪を犯さないように頑張る???
「罪を犯すから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯す」

だから、悔い改めは、神の前の全面降伏。⇔自分は大丈夫
テイクアウトQuestions
1)「義」とは何でしょうか?それによって、私たちは何を得ることができるのでしょうか?
2)「悔い改め」とは何でしょうか?
3)悔い改めをためらわせるものは何でしょうか?どうしたら、悔い改めることができるでしょうか?