「9月30日、私は・・・リッジウッドのベツレヘム教会にて・・・」

9月30日、私は5歳の娘エミリー、10か月の息子ウィリアムと共に、リッジウッドのベツレヘム教会にて洗礼を受けました。立ち会って下さった錦織先生はじめ、駆けつけて下さった日本語教会の方々、個別に祝福のメッセージを下さった方々、神の家族になる喜びを共に感じて下さり心より御礼申し上げます。

私のキリスト教との関わりは幼稚園とカトリックの私立中高でした。片道2時間かけて通学していたのですが、中1のある日、通学のバスの中で読む本がなかったので、聖書を手に取りました。この学校では6年間通して、週1時間「宗教」という科目が設定されているのですが、この日は「宗教」がある日だったので、カバンの中に聖書が入っていたわけです。旧約聖書から読み進めてみると、これがなかなか面白い。神と人との関わりを巡る物語に魅了され、しばらく行き帰りのバスの中は毎日聖書を読んでいた記憶があります。とはいえ、新約聖書に入った途端に、説教臭くなり面白くない、などと感じ、そのままになってしまいましたが。

中高では、附属の修道会のシスター達が教員もしており、「宗教」を教えていました。このシスターがこれまた揃いも揃って厳格で恐くて怒った顔つきをしていて、中学生の私には、何が楽しみで生きているのか分からないような人達に見えました。自発的に読むのと違い、「宗教」の時間に読まされる聖書には興味が持てず、シスターの話も絶望的に退屈で、何を聞いても右から左へ抜けていくばかりでした。「宗教」の定期試験は論文形式でしたが、適当に書いて最後を「神様は本当に素晴らしい」「神の栄光を讃えます」などとまとめておけば、評価はAがつくので、舐め切っていました。私にとって「宗教」もミサも昼寝タイムでした。
私自身、それ以来ずっと神様に無関心なままでした。それが変わったのは、2015年に一家で誰も知り合いのいないニュージャージーに引っ越してきて、3か月ほど経った頃、友人に誘われて、クロッキー教室に行った日のことです。絵を描いたあとは聖書を開き牧師先生のお話を聞く時間もあったので、びっくりしました。教会主催の教室とはつゆ知らず、錦織先生に「何か教会関係のお仕事をされているんですか」などという、とんちんかんな質問をしてしまったのを今でも恥ずかしながらよく覚えております。(独身司祭しかいないカトリックしか知らなかった私は、妻帯してよい牧師という職業のことをよく知らなかったのです。)

この初めてのクロッキー教室が一生忘れない日になった理由はもう一つあります。実はその前日、悲しい出来事があり、私は喪失感に打ちのめされていました。お腹の赤ちゃんが8週で亡くなっていることが分かったのでした。1週前は元気に動いているのも見えたのに。酷かったつわりもピタリと止まり、しかし腹部はまるで鉛の玉が入っているかのような重苦しさでした。外出する気分ではなかったのですが、元気を奮い立たせて出かけたところ、絵を描いている間は悲しみを忘れている自分がいました。また、この日、実に25年ぶりに聖書を手にしたのですが、錦織先生が開いた箇所に書かれた言葉は、まさにその時の私が最も必要としていたものだったのです。「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、すべての人に示しなさい。主は近い。何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人知では到底はかり知ることの出来ない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、イエス・キリストにあって守るであろう。(ピリピ人への手紙4:4-7)」これは、大きな悲しみ、苦しみや悩みがあっても、神様に心の内を、自分の願いをすべて打ち明けたなら、「人知では到底はかり知ることの出来ない」レベルの平安が私を守ってくれる、という約束なのだ、というお話でした。

この日、神様は私を絵と言葉で癒して下さっただけでなく、ニュージャージーにまだあまり知り合いのいなかった私に多くの友人を与え、日々を豊かにして下さいました。特に、クロッキーをきっかけに、月に2度の日本語教会のスモールグループ「奥様会」には3年弱お世話になっていますが、牧師夫人の範子さんのおいしいランチを頂きながら、小さな子供を持つママたちとの、子育ての悩みや喜びを共有し家族のために共に祈る時間に、今までどれほど救われてきたか分かりません。その後二度目の流産、そしてようやく第二子ウィリアムを授かった時も、「奥様会」の仲間たちは多大な心の支えになってくれ、この素晴らしい出会いにただ感謝するのみです。

神様はまた、いつも最善のご計画を私に用意して下さっていました。エミリーが生まれてから3年間は、私は専業主婦をしていましたが、ずっと、どこか大事なものが人生に欠落しているような、自分のアイデンティティが崩れ落ちていくような、そんな感覚を持っていました。日本にいた時はフルタイムで高校教員として仕事を続け、アメリカに来てからは大学や補習校で仕事をしながら大学院で研究生活を送り、とにかく突っ走ってきたので、突然自分が何者でもなく「母」「妻」でしか無くなった時に、苦しくなってしまったのです。

そんな時、「奥様会」の友人が、学校で音楽を教える仕事の空きがあると知らせてくれました。最初は自分の専門分野とは違うと思い躊躇したのですが、強く勧めてくれたその友人の言葉に背中を押され、応募してみたところ、採用されました。約一年の勤務期間、これほど自分の趣味と仕事内容が一致したことは初めてで、天職ではないかと思えるほど、生徒たちと一緒に作る音楽が楽しくて、毎日が幸せでした。途中で妊娠が分かり時期を見て校長に報告に行ったときも、私は出産後も仕事を続けたいと強く望んでいることを伝えたのですが、学校に産休も育休も無いため、一旦退職しなければならないと言われました。やり切って満足して去るのであれば、もう振り返ることもないのですが、年度途中だったこともあり、自分の中でやり残したこと、これから生徒たちとやりたいことがたくさんあったので、大変に後ろ髪を引かれる思いでした。こうして私は出産3週間前に退職しました。

その後、二人目育児に専念する毎日の中で、私は出来るだけ、失ったもののことは考えないようにしていました。でもふとした時、授乳中や一息ついた時には記憶が蘇り、息が詰まりそうになるのです。なんとも言えない寂しさや悔しさがこみ上げ、なぜ辞めなければならなかったのかと、どうしたらまた戻れるだろうかと、どうにもならない思いを巡らせる自分がいました。赤ちゃんは可愛いし、この上ない恵みであったと思う一方で、退職に関していまだ納得のいっていない自分がいて、そのうち夢にまで見るようになりました。その繰り返し見る夢の中では、私は音楽教員なのですが、教室に行くと後任の音楽教員がいて「あなたはもう辞めたんですよ」と言われたり、合唱指導にてこずっている彼女を見かねて私が指導をすると、生徒たちの合唱が見違えるように良くなるとか、それはぽっかり穴が開いたような、それでいて傲慢な、自分の心の内をあらわした夢でした。その夢から覚めた時には、いつも何とも言えない嫌な気持ちになるのです。

それが、ある日を境に、悪夢にうなされることも、授乳中に無念さのあまりに窒息しそうな気持ちになることも一切なくなったのです。今年3月に私たちはリッジウッドに引っ越しをしたのですが、引っ越しを決めた後で気付いたのは、家の斜め前がベツレヘム教会だったということでした。オープンハウスの日は雪が降っていて気付かなかったのです。すると5月のある日、夫が突然日曜礼拝に行くと言い出しました。青天のへきれきでした。夫は信仰心の篤い家庭に育ち幼少の頃に洗礼を受けていますが、出会って10年、教会へ行くことはおろか、彼がクリスチャンらしい行動や言動を取ったのを見たことがなかったからです。夫はその次の日曜日も、そのまた次の日曜日も、子供たちを連れてベツレヘム教会に行きました。私はというと、家で自分一人で過ごす日曜の朝をのんびり満喫していました。一緒に礼拝に行くという考えはありませんでした。当時はウィリアムが夜中何度も起きてその度に授乳していたため、慢性的な寝不足で頭痛もあり、礼拝なんか行くぐらいなら家で休んでいたい、というのが本音でした。すると夫は「じゃあスリープトレーニングが完了したら、一緒に礼拝に行こう」と言い出しました。私にはなぜ夫がそんなに教会に行きたがるのか、まるで分かりませんでした。7月になり、ウィリアムのスリープトレーニングは無事成功し、夜を通して寝てくれるようになりました。私もまとまった睡眠が取れるようになり、体調も回復し、もう礼拝に行くのを断る理由が無くなったなどと考えていたとき、夫が言いました。「I have found my faith again.」と。

そういうことだったのか、と思いました。家探しを始めたその日に行ったオープンハウスで即決した家。目と鼻の先に教会。あれだけ神様から背を向けて生きていた夫が一度も欠かさず毎週日曜は礼拝へ。すべて神様のご計画のうちだったのです。そして次は私の番でした。夫の強い後押しを受けて、7月下旬から、私も家族とともにベツレヘム教会の日曜礼拝に行くようになったのです。あまりに熱心な夫に引きずられる形ではありましたが。そして忘れもしない8月5日、私にとって2回目の礼拝で生まれて初めて聖餐式でキリストの体と血を頂いた日。その日の朝、私は例の嫌な夢を見て目が覚め、何とも言えない鬱々とした気持ちでした。重い足取りで教会に入ったはずなのに、礼拝の1時間、神様の言葉を耳にし、賛美歌を歌い、静かな祈りの時間を過ごしていた間、悪夢のことは全く忘れていて、とても穏やかな気持ちで家に帰ってきたのでした。浄化されたような、救われたような感覚でした。「自分の方が子供たちを引き付ける楽しい音楽の授業が出来るのに」「制度上の理由で私を辞めさせるとは、学校にとってどれだけの損失になるかなんて上は考えてもいない」と、向けどころのない怒り、失望、思いあがった傲慢な考え・・・どれもネガティブな気持ち。そんなものが沸き上がる毎日に疲れ、神様にもっと救われたい。もやもやした気持ちから解放されて、神様が与えてくださった赤ちゃんとの生活を、もっと心から楽しめるようになりたい。そんなふうに素直に思えたのです。この日初めて、神様にすべて委ねたい、安らぎたい、と思え、洗礼を受けようと決意しました。そして、この日以来、悪夢を見ることもあの窒息しそうな感覚に陥ることもなくなりました。今では、仕事のことも、いずれ神様が私にとって一番良いタイミングで、私の進むべき道を用意して下さると信じ、平安の中に、失ったものではなく自分が持っているものに感謝をしつつ、日々過ごすことが出来ております。

ちょうど1年ほど前になりますが、錦織先生に聖書の学びのコースを受講させていただいた最後に、「今はどのようなお気持ちですか」と洗礼のことを聞かれて、今は準備が出来ていないしきっかけもないと答えた私に、先生は「では僕は待っています」とおっしゃいました。「クリスチャンになってすべてを神様に委ねる人生はとてもラクなんです」とも。神様の存在を信じる気持ちはずっとあったけれども、聖書も読破していないし、日曜礼拝に休まず行く自信はないし、クリスチャンになる資格はないと、私は勝手に思い込んでいたのです。しかし神様の愛はいつもそこにあり、私がそのことに気付けず神様を信頼できていなかっただけなのでした。

こうして私たちは家族4人で、ベツレヘム教会のメンバーになり、日曜礼拝を守るようになりました。エミリーとウィリアムを教会に育てて頂けることはこの上ない喜びです。夫は教会に通った子供時代の経験から、私はキリスト教系の幼稚園に通った経験から、子供たちの健全な人格形成のためにキリスト教教育をしたいと思ってきました。やはり大きな存在、大きな愛に守られているという安心感の中で自己肯定感を育み、感謝の気持ちや他者への愛を持つようになって欲しいと考えるからです。ここまで神様が一つ一つ導いてくださったこと、家族で同じ方向に心を合わせて歩んでいけることの恵みに感謝しつつ、私の証しとさせて頂きます。

「この世に、命を授けて頂いてから半世紀・・・」

この世に、命を授けて頂いてから半世紀以上、そしてその半分以上をクリスチャンとして生活している私ですが、洗礼を授けて頂いたボーンアゲインの頃の、純心な主への思いは、様々な困難により、強まる様でもあり、ゆるんで行く事も、多かれ少なかれ・・・のようです。
人生は、バラ色だの、楽しむものだのと、若い頃は夢多き日々を送っておりましたが、辛い日々の方が多いのでは?でも、その中で鍛えられているのです。

両親がクリスチャンだった母ですが、クリスチャンではない父と結婚をして、その父が肝癌で亡くなる2年前に、二人はアメリカに来て、NJ日本語キリスト教会の初代牧師から洗礼を授かりました。その後、母は晩年をアメリカで私と一緒に過ごして天国へ召されました。

私には、歳の離れた3人の兄がおり、兄弟みんな東京の玉川学園で、小学部からキリスト教の礼拝を受け、賛美歌を賛美し聖書を学びながら、青春時代を過ごしておりました。
ところが私はどうした事か、高等部卒業後、友達の反対をもおしきり、大阪のPL女子短大へ進みました。寮生活で、リーダー的な立場で、異教の教えにどっぷり浸かり、なんとも、変った宗教人生の、スタートを歩んで来ました。日本人の多くの方は、色々な様々な宗教や、教育を受けられて、こんなに柔軟な考え方、教育経験を持っておられる人種は、少ないのではと思います。

そんな中で、私がクリスチャンになれたのは、アメリカに元夫と来て、息子も生まれ、贅沢な人生を送っていた時でした。そんな生活だったのですが、親離れが出来ていない、お互いの生活に危機が起こり、近所に住んでいたNJ日本語キリスト教会の方に救われました。

そこで、家族3人で、洗礼を授かり、めでたしメデタシ・・・とは終わらず・・・。

元夫も、新品クリスチャンになった頃は、日本語教会の初代牧師のカバン持ちをするなど、熱心な教会活動をしていました。でも、何が起こるか、人知では計りしれません。その後、マンハッタンの日米合同教会に移籍する事になりました。
その時も、熱心に家庭集会を開いて、近所のクリスチャンでない方も招いたり、有名な、アーサー・ホーランド先生や、森祐理さんも、家に宿泊して頂いたりした事もあるほどの、信仰に恵まれていたファミリーだったのですが、その後、離婚、息子との別離が続きました。洗礼を授かりクリスチャンになって、イエス様を主として、愛の家族として生まれ変ったはずなのに・・・今の私には、全てを善き事にして下さる神様の御業は、まだまだ先が見えません。

私の証しでつまずく方も、おられるかもしれませんが、いまだに、クリスチャンではない方とキリスト教の話をすると、「だからクリスチャンって・・・」と言われると、抵抗出来ずに、なんと頼りない不信仰な私です。

でも、試練と共に祝福もあります。カルフォルニアに住んでいる兄家族が全員、義姉とお母様、娘と新婚でコリアンの夫5人全員もが、同時にクリスチャンに、なれたのです。また日本に居る一番上の兄も、強力な母の願いで、日本で洗礼を授かりました。残るは、真ん中の兄だけですが、来年の母のメモリアルに、カルフォルニアで集合する時をチャンスにと、祈り願っております。

今年は、カルフォルニアで、NJ日本語教会の牧師が講師で、「生きる」という事をテーマにリトリートがもたれました。素晴らしいリトリートでした。日本から一番上の兄も来て本当に恵まれた集会でした。
そこで、今までアメリカ人教会と日本語教会とフタマタで、ご奉仕を両教会から避けていて、ただ、礼拝と賛美の栄光だけを、毎週頂くという、なんとも、ズウズウシイ教会生活をさせて頂いていた事を、悔い改めさせて頂きました。気が変らないうちに、すぐに、転入届けを出させて頂き、又、元の古巣へ、戻って来る事が出来ました。

このきっかけになった事の一つをご紹介します。

私の住んでいる部屋はコンドの8階にありますが、元々、母が日本から持ち込んだ家具や、荷物が満杯で身動き出来ない状態でした。ところがクーラーを直しに来た人が栓を閉め忘れるという考えられない事件が起き、ほとんどの物が水びたしになり、ダメージを受け、カーペットも全て取り外しとなりました。費用は相手の保険が殆んどカバーして下さいました。それは、母が亡くなってから、半年たってからの事でした。
多くのものを処分してガラガラになった部屋に、スペースが出来たところに、日本語教会の聖歌隊リーダーが、ルームメイトとなってくださいました。その方と行動を共にする事が増え、礼拝だけではなく、家庭集会や他の集会にも、顔を出すようになりなりました。この事も、主のご計画の一つでしたのでしょう。

色々様々な出来事を通して、主は導き又、たまには、試されるのです!

私には、「キリスト教の教えを伝える」というよりも、「イエス様の愛を感じて頂く様に伝える」方が、平安で居られます。イエス様が、「わたしのくびきを負ってわたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に、休みが与えられるであろう。わたしの、くびきは負いやすく、荷は軽いからである。」(マタイ11-29~30)私のために準備されたカスタムメイドのくびきは、なんと有難い事でしょう。無理する事は無い。全て疲れている人は、イエス様の所に来なさい、とも言って下さっている安心感はなんとも言えない喜びです。

再び洗礼を授けて頂いた教会に戻り、聖歌隊にも入れて頂き、新しく又生まれ変わった私のこれからの歩みは、まだまだベビーの様に危なっかしいですが、皆様の御協力を得て、一歩ずつ進歩している様ですので、宜しくお願い致します。

牧師室より2018年11月号「感謝したいこと」

「感謝したいこと」

「今からお花持っていきます!」との電話から15分くらいで現れたのは近所のNさん。教会のメンバーでもある彼は、野菜もお花も上手に育てる名手です。今回も見たこともないような立派な鉢植えのカニサボテンを持ってきてくださいました。数え切れないほどのつぼみ、これからどんな花を咲かせてくれるのかが楽しみです。

サンクスギビングが近づいて、今、自分自身が一番感謝したいこと、それは何かなあ、と考えていました。そのときに、まず、思いついたのが、「洗礼を受けて喜びにあふれて歩んでおられる方々の存在」でした。信仰に導かれて、洗礼を受けた方々の存在は本当に大きな喜びです。

でも、もっと深いところで感謝していることはないかなあ、と考えてみました。もしも、それがなかったとしても、これがあるからやっぱり感謝、と思えること、それは何かあるかなあ、と。

「健康が与えられていること」「家族が仲良くしていられること」なども感謝しましたが、たとえそれさえも失っても、自分を支えているものはなんだろうか?一つ一つのことが削ぎ落とされて、そこに残るのはなんだろうか、と。

その時たどり着いたのが、

「神様をより深く知ることができていること」

「神様を近く感じることができていること」

「礼拝メッセージの中で力を与えられていること」

でした。

10月の「eお知らせ」でも書かせていただきましたが、今年の9月から「ひびみこデイリー」を毎朝発信して、その1週間の聖書の箇所から礼拝でもメッセージさせていただいている中で、本当に神様との関係がさらに豊かに、さらに深くされて、礼拝でも力をいただいて語らせていただいます。ああ、自分にとってそれがいちばんの喜びであり、力なんだなあと感じましたのです。

「洗礼を受けた方々の存在」「教会に集う人々が与えられること」などは、植物で言えば、花や実にあたるのでしょう。しかし、立派な花や実をつけさせるためには、しっかり根を張らせ、株を充実させなければいけません。それが日々の祈りであり、そこで語られたことを分かち合っていくことだと思うのです。見える結果を出すためには見えない部分に心を留めないといけないのですよね。

これからの歩みの中でも、もっともっと神様を知っていくことができますように。そして、豊かな実を結ばせていただくことができますように。

2018年10月21日 『神と共に歩む』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: 出エジプト記20章1節〜17節

 

  • 十戒・・・十戒の全体像、十戒こそ、神と共に歩むガイドライン。
  • イエスの言葉、マタイ22:36-40「神を愛しなさい」「自分を愛するように隣人を愛しなさい」。
  1. 神を愛しなさい。
  • 私の他に何者をも神としてはならない(1)・・・神を神としなさい。
  • 刻んだ像を作ってはならない(2)・・・神様を形の中に、自分のイメージの中に、閉じ込めようとしてはなりません。
  • 主の名をみだりに唱えてはならない(3)・・・神を自分のために利用してはならない。

→神様をあなたの子分にしていないだろうか?

  1. 隣人を愛しなさい
  • 6つ目から9つ目は、明らかな周りの人との関係における戒め
    殺すな(6)、姦淫するな(7)、盗むな(8)、偽証をするな(9)
  • 人格を大切にしなさい・・・「神のかたちは人格である」
  • 「自分がしてほしいように、人々にもしなさい」マタイ7:12
  1. 自分を愛しなさい
  • 「自分を愛するように隣人を愛しなさい」
  • 安息日を覚えなさい(4)・・・ただ、主の前に愛されている存在として、主に作られて、受け入れられている存在として「ある」。
  • 隣人のものをむさぼってはならない(10)・・・神様が与えられたもの、神様が託されたもの、そこに感謝をしなさい。
  • 父と母を敬え(5)・・・神があなたをあの両親のところに送られた。
  • 全ては最初の言葉が土台・・・「私はあなたを導き出した者である」
  • いつも神様の愛、神様の恵みが先。
  1. イスラエルの民はエジプトから解放されて、十戒を与えられましたが、あなたは神様からどんな解放を与えられているでしょうか?
  2. 神を愛すること、自分を愛すること、隣人を愛することの中で、一番難しいと思うことは何ですか?

 

牧師室より2018年9-10月号「神の愛に満たされて」

「ああ、大変だ、もうアガペがない!」
「アガペを探しに行かなければ!」

今年のJOYJOYキャンプでは、「アガペ」をエネルギーに動くタイムマシンを舞台にしました。「アカペ」とは「神の愛」を表す「アガペー」というギリシャ語から名前を取りました。神様が私たちを愛してくださったその愛をエネルギーにして生きている、その私たちの思いを子どもたちに伝えたいと思ったのです。

また、その前、7月末から8月の初めまで、南カルフォルニアでのリトリートの講師のご奉仕に行って参りました。そのリトリートでいただいたテーマはずばり「生きる」。生きるためのエネルギーの源は、神の愛であることを思わされていました。

私たちは「オギャー」と生まれた時から、愛されなければ生きていけない存在です。親に愛され、周りの人に愛されて、それで生きていけます。それが生きるためのエネルギーになります。でも、成長していく中で、その人からのエネルギーが足りなくなる時があります。自分の中のエネルギーが枯れてしまって、誰か他の人にそれを期待するときに、期待を裏切られてがっかりするときもあります。そんなとき、他のところからの愛をもらう必要があるのです。

「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」第一ヨハネ3:16

イエスは私たちのために十字架の上で命を与えてくださいました。そこに、私たちが生きるためのエネルギーの源があります。そして、その愛をいただいて、私たちも周りの人々を愛することができるようになるのです。神の愛を求めていきましょう。

2018年10月7日 『祝福の約束』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: 創世記12章1節〜3節

 

「三つの願い」のストーリー。
あなたならば、何を願う?
私たちが願うべき「神の祝福」
1)「祝福」って何?
状況ではない。内側にあふれて外側に流れていくもの。
アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、イスラエルの歴史。
「祝福」は困難の中にあっても神によって与えられる力。
ブドウの実が熟して触ると果汁があふれてくる様子。
あなたは触ると何が出てくるか?
愚痴や文句、怒りが出てくることはないか?
2)呼ばれたら応える!
アブラハムは招かれて、神様に答えた。その通りに従った。4節。
自分を支えているもの、それを神様ゆえに手放した。
安定した生活、人の繋がり、慣れた土地
→頼るものは神なんだというところに立った。
神の約束を信頼した。
約束の子供が与えられるまでこれからさらに25年
ガタガタした時もあった。でも、そこでも神との関係に生きた。
3)やっぱりイエス様!
神の祝福はアブラハムとその子孫に。
その子孫というとユダヤ人、ユダヤ民族?でも究極的にはイエス
ガラテヤ3:16
そして、イエスを信じる者たちへ(ガラテヤ3:6-9)
イエスの十字架によって、神と共に歩む。
<テイクアウトQuestions>
1)あなたは今、何を求めているでしょうか?
2)「祝福」は何でしょうか?祝福されている人は周りにいますか?どうしてそう思うのですか?あなたは祝福されていますか?
3)祝福をいただくためには何が必要でしょうか?

2018年9月30日 『人の弱さ』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: 創世記11章1節〜9節

 

過ちを犯した人の言葉「自分の弱さと未熟さを自覚しました」
星野富弘さんの言葉「私は自分の弱さを自ら認めたくなかった・・・」
私たちは弱い存在。聖書はそのことをどのように語っているのか?
その中で私たちはどのように生きるべきか?
1)私たちの弱さ
アダムとエバの罪・・・神のように。逃げる、隠れる、責任転嫁をする。→それから罪が広がっていった。
カインの罪・・・妬み。
ノアの時代の罪・・・神に従うよりも、自分の好みを優先する
バベルの塔の罪・・・力を合わせて神に届く。
私たちの弱さ・・・もっと良く生きたいのだけれどもどうにもならない
でも一番弱さは、自分の姿を認めないこと。
2)弱さを持って生きる
弱さは克服しなければいけないような先入観。
→弱さを隠す。攻撃されると怖い。
⇔でも、聖書は弱さに神の恵みが注がれ流のだということを語る。
バベルの塔を建てた人々、「みんなで力を合わせる」
 力を合わせることによって、神に届こう
力を合わせることによって、散らされるのを防ごう
・・・地に満ちよ、と言われた神の言葉に対する不従順。
弱いから、神が必要。「神を信じるなんて、弱い人だ」?
神の前にひれ伏す。(ヨシュア記5章13−15節)
「一つになる」ことが変わる・・・神の前にへりくだることによる一致
<テイクアウトQuestions>
1)人は弱いものでしょうか?強いものでしょうか?強くなるべきでしょうか?そのままでいいでしょうか?どうしてそう思いますか?
2)バベルの塔を建てた人々の問題はなんだったでしょうか?
3)弱さを抱えて生きる私たちにとって、大切なことはなんでしょうか?

2018年9月23日 『罪の始まり』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: 創世記3章1節〜13節

 

 

・神が造られた世界・・・ならば、なぜ悲惨や不条理があるのか?
・神が造られた人間・・・ならば、どうしてこんなに問題があるのか?
・聖書の答え・・・罪が入ってきたから。
1)罪の本質
・サタンの誘惑「すべての木の実を食べてはいけないと?」
「あなたの目が開けて神のようになることを知っている」・・・神は意地悪、偽り者・・・神への信頼が揺るがされる。
・「あなたが神になる」
・・・神を神としないで、自分を神とする・・・これが罪の本質。
2)罪の結果
・恥ずかしい・逃げたい。
→「必ず死ぬ」・・・そこで倒れて死んだのではなかった。
・
神から離れてしまう・・・霊的な死。肉体の死も世の中に入って来た。
・責任転嫁・・・人に対して、神に対して。マタイ7:3
3)一筋の光
・15節・・・サタンに対する救い主の勝利。
・21節・・・皮の衣。
⇔アダムとエバのイチジクの葉・・・自分で自分の恥を隠そうとした。・・・すぐに萎れてしまう。
神はそれに代えて、皮の衣を作った。・・・動物が犠牲になった。
これはイエスの予表だった。神は救いの道を準備しておられた。
<テイクアウトQuestions>
1)罪の本質は何でしょうか?それが自分の中にもあると思いますか?
2)罪の結果、私たちにはどんなことが起こったでしょうか?それが自分にも影響を与えていることを感じますか?
3)その罪に陥ってしまった人間のために神様はどんな道を備えてくださったでしょうか?

2018年9月16日 『私たちの使命』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: 創世記2章4節〜9節

 

先週の休暇→「良い休暇というのは、その休暇が終わった時に、やる気を持って仕事に戻りたくなっているようにさせるものである
日曜日の夕方、月曜日の朝の気持ちは?金曜日の夕方の気持ちは?TGIF?
なんのために仕事をしている?
「生活の糧」「教会や牧師を支えるため」「職場で伝道するため」

「早くリタイアして、もっと教会のために・・・」
私たちの使命は「福音を伝えること」
・・・「全世界に出て行って全ての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)など。
しかし、世の始めからの私たちの使命・・・創世記1:28「地を管理する」創世記2:15「アダムにエデンの園を守らせ、耕させた」
→仕事をしなさい、この地を管理しなさい、土を耕しなさい。
「神のかたち」・・・「霊的な部分」「人格」(先週)
→神の代わりに地を治める。
それが変わってしまったのが、罪を犯して、神から離れたことの結果。
「一生苦しんで地から食物を取る・・・額に汗をしてパンを食べ、ついに土に帰る」(創世記3:17-19)
・・・労働が苦痛になり、人生の意味を見失う。
イエスによって、私たちを愛で満たし、神と共に歩み、労働の祝福を経験させてくださる。
祝福を運ぶ器として、仕事の中でも、祝福を持ち運ばせてくださる。
<テイクアウトQuestions>
1)あなたにとって仕事はなんでしょうか?どうして仕事をするのでしょうか?なんのために仕事をするのでしょうか?
2)神様は天地創造の時に、人にどのような意味で仕事を託されたのでしょうか?神はあなたにどんな思いで仕事を託されたのだと思いますか?
3)罪によって、苦痛となってしまった仕事を、もう一度祝福として受け止めるためには何が必要でしょうか?あなたが今の仕事を神からの使命として受け止める時に、どんなことができるでしょうか?

2018年9月9日 『世界への神の情熱』

説教: 錦織学牧師

聖書箇所: 創世記1章1節〜4節

 

聖書は神の存在の議論ではなく、「はじめに神が」でスタートする。
神がこの世界を造られた。偶然ではない。
神は愛をもって、情熱をもって、この世界を造られた。
1)喜びをもって世界を造られた神
2節:世界が始まる前、混沌の時から神の霊が、世界を覆っていた。
そして、神は「光あれ!」という言葉から、世界を造られた。
一つ一つ「これはよかった」「ああ、これは素晴らしい!」と感嘆の声をあげながら、造られた。
ちゃちゃっと造られたのではない。一つ一つゆっくりと造られた。
2)ご自身のかたちに私たちを造られた神
26節:自分に似せて造る・・・自分に似た存在は嬉しい。
「神のかたち」・・・霊的な部分・・・神との交わりに生きる。
神を愛したり、礼拝したり、祈ったり、従ったりできる存在。
外側ではない、内側の問題。
関先生・・・「神のかたちは『人格』」・・・人格的に生きるのは人が幸せになること。傷つくのは人格が支配されること。
その神のかたちが神と共に歩んでいく時に、一番満たされるように造られている。強制ではなく、無理やりではなく、自分の決断で、自分の判断で、「あなたを愛します。崇めます。従います」と歩む時に、私たちの心は一番満たされる。
そのために、神は私たちと歩むために、イエスを与えた。
それが神の情熱。イザヤ9:7
<テイクアウトQuestions>
1)はじめに神が天地を創造された、という聖書の最初の主張は、あなたにどんなことを語りかけてきますか?
2)神のかたちが「霊的な部分」「人格」というときに、それが誰かに支配されるときに深い傷を受けるということは感じたことがありますか?どんなときですか?
3)神がこの世界に対してもっておられる情熱はどのようなものでしょうか?あなたはそれにどのように応えますか?