- 説教者 : 錦織学 牧師
- 聖書箇所 : マタイによる福音書6章33節
投稿者: jccnj
「私にはトモミチという名の友達がいました。…」
私にはトモミチという名の友達がいました。私が初めて幼稚園に行った日に出会った友人の名です。父の転勤の都合のため、他の皆より多分2ヶ月くらい遅れて入園した私にとって、彼の存在は励ましであり、大きな助けでした。「トモミチ君、しんじ君の面倒見てあげてね」と云う先生の言葉に私達の出会いがあったように記憶しています。当時の私の写真を見ると、私の書いた絵がまるで彼の作品のコピーのように似ていることが分かります。私はいつも彼の作るものを真似していたのですから当然のことでしょう。その関係は、卒園するまで、それぞれが違う小学校に通うようになるまで続きました。
そのトモミチ君が亡くなったという知らせを聞いたのは、小学校に入って間もない5月頃のことだったと思います。ある日、母から虫垂炎(当時は盲腸って呼んでました)の手術でお腹を開いたら、腹膜炎を併発していて手遅れだったということを教わりました。小学一年生だった私がその出来事を理解し、その説明が深く心に刻まれたのは、彼が本当に大切な友達だったからに他ならず、死というものが何であれ、もうトモミチ君に会えない!ということは分かったのでした。
それから30年以上もたったある日のこと、私は車を運転しながら「トモミチ!」と突然頭の中で叫んでいました。その2ヶ月くらい前に妻が妊娠したことがわかっていました。初めてのことでしたから、ドクターからの指示の全てが新しく、新鮮なものでした。ところが、ある日の検診の時に血液検査があり、その結果が私達に大きな不安を与えることになりました。「お子さんに何か問題がある可能性があります。でも、血液検査の結果は完璧ではないことが多いので、羊水検査をしましょう」と云った内容の説明があったのです。妻はドクターに云われるがまま羊水検査を受けることになりました。トモミチ君の名前が頭をよぎったのは、その検査結果を待っているある日のことだったのです。結婚した頃から、私には女の子が与えられたらこの名前というアイディアがあったのですが、もし男の子だったらどうするかなぁ?と考えていたからです。そして、何故だか分かりませんが、彼の名前が浮かんだその瞬間、検査結果は思わしくないに違いないという不思議な確信まで得てしまったのです。
私は家に帰ってから妻にその次第を伝えました。そして、男の子だったら「トモミチ」という命名案が私達の間に生まれました。その数日後、私が家に一人でいた時にドクターからの電話がありました。「結果が出ました。ダウン症です。あとはお二人で考えてください。詳しくは次の検診日に、、、」という短い内容の電話でした。血液検査は正しくないことが多いと云って気休めを云っておられたドクターの声は低く、力の無い感情を殺したものでした。その検査結果を妻にその日のうちに伝えたかどうかは覚えていません。でも、伝えた時のことは覚えています。私からの言葉を聞いた時、妻は「やっぱなぁ。そうじゃないかって思ってたんだ。」と云い、多分涙を流していたと思います。多分というのは、私が妻の顔を見る事が出来なかったので見ていないからです。次の検診日にドクターから説明を受けたのですが、なぜか「あとはお二人で考えて決めてください。」というあの同じ一言が加えられました。どういう意味?と思いつつも、私にはその意味を尋ねる勇気がありませんでした。ただ、その日から私の中で葛藤の日々が続くことになりました。考えてって何を考えるんだ? 何を決めるんだ? それって要するにこの子を諦めろってこと? 諦めても良いってこと? その場合、何が起こるんだ? そんなことして良いのか? 医者が良いってんだから良いんだろ? 人殺しじゃない! じゃぁ、普段教会で「命は何によっても取り戻せない。」と聞いているイエス様の言葉は無視して良いのか? 私の心の中は、ぐちゃぐちゃに乱れました。
多くの人が聖書を読むようになって、心に刻まれる言葉はいくつもあります。たとえば、エレミヤ書というところには、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。��主の御告げ。��それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」と書いてあり、ローマ書には、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」とあります。私も既に聖書から何度も、また牧師のメッセージから、いくつかの信仰書からもそれらの事を心に焼き付けられていましたし、時には友人などにその恵みを語ることがある程でした。しかし、このお腹の中に居る子供の存在によって、これらの聖書の言葉に持っていた確信が揺るがされたのです。まるで「あなたがこれまで証ししたそれらの言葉は本当であるか、あなたは本当にこれを信じるか?」と誰かに問い質されているような気がしました。そして、私はなんとかして、聖書が別のことを教えてくれないか、聖書の中をくまなく探したりしたのです。
その数日後のことでした。家に帰ると玄関に奇麗なブーケが届けられていました。「は、なんだぁ?」と思って部屋に持って入ると、小さなカードが挟んであるのが目に止まりました。そして、そこに手書きされていた短い言葉を見た私の目からは止めどなく涙が溢れ出て、私の心は神様のご計画をしっかりと受け止めることになりました。こう書いてありました。「わたしのエンジェルをよろしくおねがいします。天使ガブリエル」 (注:ガブリエルとは、天使の中でリーダーとされている存在で、イエスが生まれる前、母マリアに話しかけたのもガブリエルでした)
私たちは多くの場合、子供を“授かる”と云います。聖書にもそのような表現がありますので、間違えでは全くありません。でも、子供を“預かる”と受け止めるならば、その存在は恐らく“自分の”子供よりもずっと大事な存在になるのではないでしょうか? 私には妻のお腹の中にいる子供を神様から預かっているのだということがよく分かりました。その任務は大変なものかも知れませんが、神様があなたに任せたいと云われるのであれば、お受けしないわけにはいかないのでした。不思議なことに責務を受け取ったその日から、私はこの子供の誕生が待ち遠しくなりました。そして、少しでも元気な状態でお預けくださいと願い、祈る毎日となったのです。聖書のコリント人への第一の手紙にはこうも書いてあります。「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」 私は聖書の言葉を自分自身の考えで解釈するのではなく、更にそれを信じることを選びました。
いよいよ生まれるというその日は、あっという間にやって来ました。どこまで慌てて良いかも分からず、カメラさえ持たずに分娩室に付き添った私でした。9時間くらいの分娩で生まれて来たその子は、「ホ~」という口をしながら、その目ではっきりと私を見つめてくれました。神様から預かったトモミチ君(知道と漢字を付けました。道であるイエス様を知っている、また知らせる人という意味です)との初対面の瞬間でした。その子が私達夫婦の目にどれだけ可愛く映ったかは、親バカの域をはるかに超えて言葉では到底表現出来ません。数日後に家を訪問してくださった錦織先生がこのように祈ってくださいました。「神様、知道君にこのパパとママを与えてくださってありがとうございます。」 まさに“授かる”ではなく、“預かる”を肯定していただいた瞬間でした。
生まれて数ヶ月たったある日の土曜日、私は知道と二人で留守番をしていました。すやすやと眠る子の顔を見つめながら、そっとギターを弾いていた私は幻を見たのです。どこかの広い青空の下にある大きな宮殿のようなところの庭で、この子が楽しそうに走り回っている姿でした。私は白い柵のようなところに座って、ギターを弾きながらその姿を追っていたのです。「あぁ、ぼくはこの子といつまでも一緒に生きていこう。永遠に。何も急ぐことはない。神様から受ける永遠は果てしない。」その幻を見た私の心はとても平安でした。神様から受けた約束からしか得られない平安です。
知道と共に初めて日本に訪れたのは、2003年のことです。彼の祖父母、私達の両親に知道のことを紹介するためでした。彼らにとってもショックな宣告であると分かっていましたので、電話やメールでは伝えられないでいたのです。会ってもどのように伝えることが出来るか悩みましたが、共にクリスチャンである両親は、その孫をそのままに受け入れてくれました。クリスチャンであることがこれほど有り難いことであるかを覚えるひと時でした。
健康上はこれまで、心臓に穴が見つかったり、甲状腺に問題が見つかったりもしましたが、皆様の祈りと励ましによりここまで守られて来ました。何人かの専門医に見ていただいた心臓の穴は、素人の目には分からないほど、自然に塞がってしまいましたし、甲状腺は毎日ご飯粒2つ分ほどの大きさの薬を飲むだけで守られています。イエス様が地上を歩まれた時、多くの病人を癒されたと聖書にあります。しかし、もしイエス様が今、知道の目の前に現れたとしても、イエス様は彼を癒すことはされないと思います。また、私達もそのようなことを願わないはずです。この子が“普通”になってしまったら、それは別人であって、私達が今愛して大切にしている“預かりもの”ではなくなってしまうからです。これまで共にこの子をサポートしてくださった何人ものドクターやナース、セラピスト、デイケアのおばさん、学校の先生、教会の皆さん達にどれだけ感謝しても到底足りません。ある先生は「トモがこのクラスにいてくれて良かった。子供達はトモと一緒に過ごして、人を助けること、人に優しくすることを学ぶことが出来た。」と云ってくださいました。知道が生まれる前に妻に示された聖書の箇所、ヨハネの福音書には「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」という盲目に生まれた人について語られたイエス様の約束の言葉があります。沢山の方々と共に、この子を通して現される神様の栄光を見させていただきたいと願っています。
2歳年下の弟に最近身長が抜かされてしまった小さい7歳です。色々なことが少しずつ他の子達よりも遅れているようですが、誰からも好かれ、友達になってしまうところ、純粋さ、オリジナリティ、頑固さやこだわり、我が道を行く姿、誰にでも世話好き等は私達もかなわない桁外れのものを持っています。かつて幼稚園の時のトモミチ君がそうであったように、私は自分の子として生まれたトモミチ君から沢山のことをこれからも学んで行くことになりそうです。私達夫婦が神様に知道の良き理解者、友達のような弟をと願って生まれた子、真友(まさとも)が成長して行く中で、“知道を受け入れる”という試練が待っていることも想像しています。これもまた神様の栄光が現されるために必要なことと理解しています。教会の皆さんや子供達、これから出会う方々が、知道との関わり合いの中で得るものが沢山あることを願っています。どうか特別視しつつ、でも偏見は持たず、甘やかすことなく、そのままの知道とおつきあいいただけますように。それこそまさに神様が私達一人一人に対して、してくださっていることです。この2009年のクリスマスの時期、永遠におられる方、恵み深い愛そのものであるイエス様の父なる神様のお名前が崇められますように。
月報2010年1月号より
笹川雅弘牧師の証
10月に日本で持たれた『家の教会セミナー』に錦織牧師が参加した時に、15年ぶりに笹川雅弘師と再会しました。笹川師はビジネスマンとして1993年から1997年初めまでNJで生活され、JCCNJで共に歩んだ仲間です。その後、神学校に進み、新潟福音教会の牧師として奉仕されています。今回、どのようにして牧師になるように導かれたのか、2004年時点で書かれたお証をお送り頂きました。感謝して、ここに転載させていただきます。
献身から牧師一年目にいたるまでの証し(2004年7月時点)
1984年のイースターに受洗後、最初に直接献身への召命を意識し始めたのは、その6年後に、NEC米国法人の駐在員として、テキサス州ダラスでの生活が始まってしばらくしてからの頃でした。ダラスで与えられた教会、ダラス第一バプテスト教会は、教会全体では会員一万人以上というメガ・チャーチでしたが、その一部である日本人礼拝部は、多い時でも礼拝出席者20名程度の小さな群でした。ここで神様は私に、幾つかの経験を通し、直接献身へ向けての道を備えられました。
ひとつは、日本人礼拝部の属していたバプテスト教会を中心とする、地域全体を覆う力強い教会の働きです。日本では「少数派」としてのキリスト教会が、そこではダラスという大都会の中でまぎれもなく、社会の柱、人々の誇りとして地域の隅々に浸透し、生きて働いていたのです。 この体験はその後、日本の教会はどうしたらこれに近ずけるのか、なぜいつまでも「1%」なのか、という問いと救霊の思いが強くされる源となっていきました。もうひとつは、日本人教会員の何人かの方々から、たびたび直接献身の勧めをいただくようになったことです。冗談半分ではなく、真剣に「お祈りしています」と言われると、やはり真剣にその祈りを受け取らざるを得ません。一方、ダラスでは二人目の子供が与えられ、家族を養う責任は重くなり、それを支える、会社からの手厚い福利厚生、楽しいゴルフ生活など、それはそれで、文句のつけようがありません。しかし、この頃から、「このままで本当にいいのか」という問いかけが心の奥から聞こえてくるようになりました。
このような心の葛藤を抱えたまま、3年後にはダラスからニュージャージーのオフィスへ転勤となりました。ニュージャージーでは3人目の子供が与えられ、会社での責任も重くなり、状況としては、直接献身は現実からますます遠ざかっていくように思われました。一方、「本当にこのままでいいのか」という心の痛みは、目を向けると、いつもそこにありました。その感じは、大事な手紙を受け取った後、どのような返事を書いたら良いかを迷っているうちに時が経過し、思い出すたびに落ち着かなくなる、という、あの気持ちに似ていました。
アメリカでの、計6年半の勤務を終了し、1997年1月にNEC本社へ戻ると、今度は仕事で超多忙な毎日が始まりました。これは私にとって、仕事の成功を通して主の栄光をあらわすという道が与えられている、自分に言い聞かせるには好都合でしたが、やがて大きな転機が訪れました。それはまず、過労による3週間の入院でした。静かに自分自身の生き方について考える時が与えられました。続いて、自分の信仰の姿勢が、会社文化の中で苦況に立たされることになりました。過労で入院する程身を削って達成した実績で、会社の表彰状と記念品は手に入りましたが、それは残念ながら、主の栄光をあらわすことには、つながりませんでした。直後に行われた社内での昇進試験では、営業実績や部長の推薦よりも、「人に従うよりも神に従う」という毅然とした姿勢が、結果として役員面接などでマイナス評価につながり、昇進は見送られました。「神に従うより人に従う」ということが会社で成功する為の条件であり、仕事の成功を通して主の栄光をあらわす、というビジョンが意味を持たない、という現実に直面した時、私はこの会社を離れる決心をしました。
「収穫は多いが、働き手が少ない」(マタイ9:37)というみ言葉が決心を迫る一方、忘れられなかったのが、アメリカで体験した、神に従う信仰と、仕事の成功が、相反しない世界でした。クリスチャン経営者によって、神に従う信仰と、仕事の実績が正当に評価され、報いられる会社。そして家族との時間も十分に確保できる会社。私は、そのような会社が日本に存在しないものだろうか、と考えて悶々としていました。そんなある日、求人雑誌をめくっていると、IT関連の新興アメリカ企業が営業マネージャーを募集していました。企業データを見ると、ベンチャー企業として10年前に起業してから急成長を遂げ、給与体系は公平な実績連動システムで、成績次第でストックオプションも与えられるという、アメリカンドリームを彷彿とさせる会社でした。日本法人経営幹部のほぼ全員を占めるアメリカ人は、私の願い通りクリスチャンで、若さと力にあふれていました。彼らとの面接の結果採用が決まり、私は、ビジネスマンとしての仕事の成功を通して主の栄光を証しするという生き方に再度挑戦することになりました。
いわゆる、日本の大企業文化の中で育ってきた私にとって、新しい職場は刺激に満ちた訓練の場となりました。アメリカ流の体系的で徹底した営業訓練とその実践は、伝道実践の知恵にもつながるところがあり、また、役職、年齢などにとらわれず、正直で風通しの良いフラットなコミュニケーションの中から生まれる活力は、日本企業のみならず日本のキリスト教会も見習うべきカルチャーでした。しかし、この会社の問題点は、四半期ごとの営業成績で社員が厳格に評価される為、短期決戦で実績を稼ぐことにほとんどのエネルギーが費やされ、購買の稟議に時間のかかる大企業を相手に、じっくりと時間をかけて信頼関係を築いていく、というゆとりが無く、結果として会社としての信頼感を失っているという点でした。私は、短期決戦の積み重ねでがむしゃらに成長する会社から、大手企業との信頼関係構築に十分時間をかけ、結果的に高度成長を長期に渡って持続できる会社へと変わる必要を幹部に訴え、結果として私自身がそのような市場、つまり、短期的には結果は得られないが、1年単位で腰を据えて取り組めば、結果として、大きく継続的な契約につながる可能性のある市場を担当することになりました。
1年以内に結果を出す、という条件のもと、私は某大手企業、及び政府機関との間で関係構築を進め、半年後には、具体的な商談とその規模、契約のタイミングなどが見え始めてきました。このプロジェクトが成功すれば、巨額の報酬と役員昇進への道も開けてくる。そんな皮算用が頭をかすめるようになった頃、私は、長い間、出せないでいた、例の、大事な返事のことを思い出しました。政府機関との信頼関係維持という意味でも、契約が成立すれば、もう会社を辞めることはできなくなる。今回の契約とともに、もう後戻りできない所へ向かって、私は走り続けることになる。このような胸騒ぎは、私が、毎日、激流のような時間の中で、すがるように聖書を読み続けていなかったならば、もしかしたら、おこらなかったのかも知れません。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」というイザヤの召命への応答のことばを読んでいると、この世での自分の人生が終わる時、なぜあの時、私はイザヤのように応答できなかったのか、と後悔している自分の姿が、頭に浮かびました。それは、何ともいたたまれない、人生の敗北者のような気持ちでした。すると、神様は実に不思議な方法で、そのまま突っ走ろうとしていた私の足を、止められました。
私の採用を決め、入社後も私を理解し、支援してくれていた会社の最高責任者が、突然ヨーロッパへ異動することが決まったのは2000年3月でした。結果を出す期日まであと数ヶ月ありました。そして、トップを任された新任のアメリカ人は、私がしばらく全く実績をあげていないことに目を留め、事情を十分に確認しないまま、「最近の実績を見ると、どうも、あなたはこの会社に向かなかったのではないかと思う。」と、私が自主的に退職することを求めてきたのです。その瞬間、私は、たとえようのない平安が訪れるのを感じました。自分でも、なぜ、こんな時に、こんなにうれしいのか、不思議でした。そのせいか、私は、その場で、事情説明や、釈明をしようという気に全くならず、その場で退職に同意し、退職条件の覚え書きにすぐサインをしてしまいました。
こうして私は3月末日から4月30日の正式退社日まで、未消化分の有給休暇を消化することになりましたが、この最後の一ヶ月間は、サタンとの激しい闘いがありました。妻は、会社に対しても、私に対しても、大いに憤慨していました。今、連絡を入れて詳しく事情を話せば、まだ会社へ戻れるかも知れない。そんな思いとの格闘の中で、ダビデのあの告白が、騒ぎ立つ心の波を鎮めてくれました。詩篇16編2節、「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」
弱音を吐いては献身の思いから逃げ回っていた私は、同じように往生際の悪かった、モーセの召命の記事に慰めを感じます。そのモーセが召命に従ってエジプトに向かい出発した直後、モーセは、なぜか、主に殺されかけた所を、妻のチッポラに助けられました。次は私の勝手な想像です。「チッポラは、モーセが突然エジプトへ帰ってイスラエル民族を救い出す、と言い出すのを聞いて、最初は唖然とし、次第に憤慨し、毎日ぶつぶつと文句を言っていってモーセを悩ませた。モーセは、そんなチッポラを、何という足手まといだろう、この先が思いやられるわい、と思っていた。そんな矢先に、この事件が起きて、モーセとチッポラの心は、再びひとつに結ばれた。」少し強引に、このように解釈することで慰めと希望を見出そうとしたりしていました。私が会社を辞めたことを残念に思っている妻と、そんな妻に、つい、苛立ちを感じてしまう私のこころがひとつにされ「私と私の家族は、主に仕える」と喜んで告白できる日が来るのを、日々祈り求めました。
私が意を決して神学校へ通い始めても、妻は断固として反対の姿勢を崩しません。私は仕方なく、授業のある日は神学校の独身寮に身を寄せることに。思いがけない「単身赴任」生活の始まり。このときは互いに真剣に離婚を考えるほどの、史上最大の夫婦の危機でした。妻は祈る。「神様、どうか主人が神学校で挫折して、砕かれて、再び会社員に戻れますように。」一方、私も祈り返す。「主よ、どうか妻が砕かれて、主と私に従うことができますように。」こんな「砕き合い合戦」の末、勝利を収めたのは_そのどちらでもなく、二人揃って主の前に砕かれる、という結果に。妻が反対を続けていたとき私は内心、「とうとう召命に従ったモーセの最初の危機を救った妻チッポラとは正反対だな」と心で裁いていたのだが、自分自身が何年もかけて格闘してきたところを、妻もまた通っているのだ、という配慮もなくただ裁いていた自分を恥ずかしく思いました。ただ今振り返ると、あの時の反対があったからこそ、より真剣に召命の確信を求めつつ学ぶことができたのだと思います。神学校最終年次には、その妻も聴講生として神学校の授業に参加するようになっていました。解決を待ち続ける忍耐の時は長く感じられますが、その忍耐の期間を無理に縮めようと焦らず「主に立ち返って静かにする」(イザヤ30:15)ことの大切さを互いに教えられたように思います。
神学校卒業後派遣された新潟福音教会は、今までキャリア豊かな人格者である牧師によって牧会されてきた、百人教会。社会人経験が17年あるとはいえ、「新卒」教師にとって、受け取ったバトンはずしりと重かったというのが正直なところでした。でも、これまでのさまざまな試練の中で、主のご計画を信じて主にのみ従い、ただ主に委ねることの大切さを心に刻み込まされてきたせいか、この1年間、そのバトンの重みに押しつぶされることから守られてきました。あれほど反対していた妻も、私よりもよっぽど元気に明るく群れに気を使っています。また、派遣されてからこの1年の間に受洗へと導かれた9名の方々のことを思うとき、胸がいっぱいになります。この魂のために、そしてこれから導かれようとしている魂のために、今までの試練があったのか、と思うと。また、自分が主の前に砕かれ、主に謙虚に従うようにされることだけが試練の目的ではなく、その究極の目的は福音による救いが人々の魂に届いていくためであったのだ、と思うと。
この一年間に新潟福音教会で受洗へと導かれた方々の上にも、例外なく、悲しみと試練がありました。けれどもそれらすべてが、イエス・キリストのうちにある新しい永遠のいのちへ移されるために用いられたこと思うとき、耐えがたい悲しみに涙するときにそれが「永遠の祝福のために与えられた天からの賜物」であるということを知ることのできる神のことば、福音の尊さを改めて噛みしめます。
「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」(ヤコブ1:2)
「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。」(第一ペテロ4:12,13)
笹川雅弘プロフィール
1959年、神奈川県横浜市生まれ。1983年日本電気(株)入社、翌年に受洗。その後約6年半のアメリカ駐在を含む計17年間の会社員生活の後、伝道献身者としての召命を受け東京基督神学校へ入学。2003年3月同校卒業後、日本同盟基督教団・新潟福音教会へ派遣され、現在に至る。
月報2009年12月号より
