2025年4月<牧師室より>「共に歩まれる方」

先月の月報でのホームレスの方との関わりのこと、個人的に何人かの方から、「その後、どうなりましたか」と質問を受けています。皆さんが心にかけて、祈ってくださっていることに感謝します。実はそれから会えていないのです。毎週、彼のいるところを訪問しているのですが、暖かくなってきて、歩き回っているのでしょうか?サポートしてくださっている方々いるのでしょうか?荷物はあるのですが、私が行くときには、本人はそこにいないのです。でも、一回は、「いないなあ」と思って、帰ろうとUターンできるところまで行って戻って来たら、そこにいて、「あ、いた!」と思って今度はまた車をパーキングして、戻って来たら、またいなかった、ということもあったので、まだ、そこで生活をしておられると思います。車で片道30-40分かかるところなので、1週間に何度も行くことはできないのですが、例えば、朝早い時間とか、夕方遅い時間とか、ご訪問できればと思わされています。

前回の月報では書かなかったのですが、彼と最後に会ったときのことを思い出します。その日は冷え込みが緩んで、前の週は寝袋の中に潜り込んでいた彼が、少し起き上がって、座ることができたので、私も横に一緒に座って、持ってきたホットココアを一緒に飲んで話をしていました。ほんの10分ほどの時間だったのですが、歩道に座ってそこから見える風景が、立って話をしていたときとは全然違っていました。歩道に落ちているごみや彼自身か他の誰かが吐いた唾。立って見下ろしていたときには気がつかなかったものが、目に入ってくるのです。ああ、分かっていなかったな、と思いました。いや今も分かっていないと思います。

よく、JOYJOYキャンプのヘルプをしてくれる中高生に「子どもたちの視線で話せよ。君たちと子どもたちは全然視線が違うんだからね」と話をするのですが、自分もそれができていないことを思い知らされました。

今年もイエスの復活をお祝いするイースター(復活祭)がやって来ます。復活されたイエスと出会った弟子たちの証言の一つに、「エマオへの途上」と言われる記事があります。2人の弟子たちがエルサレムから郊外のエマオへの道を歩いていました。彼らはイエスが神から遣わされた救い主だと信じて、イエスが彼らをローマ帝国から解放してくれると期待していたのです。そのイエスが十字架で処刑されて、自分たちの夢が破れて、トボトボと歩いていたのです。そこにイエスが共に歩まれました。聖書はその時の様子をこのように語っています。「話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。」(ルカの福音書 24章15節)そして、イエスは彼らの言葉に耳を傾け、その心の叫びに耳を傾け、そして、「救い主は人々の罪のために死んでよみがえることは聖書に預言されていたじゃないか」と彼らを諭すのです。

復活のイエスは私と同じ歩調で歩いてくださる方です。全く違った視野を持っておられるのに、私たちの視線で見てくださる方です。私たちの弱さや愚かさもすべて受け止めて、共に歩んでくださる方です。しかし、それだけで終わらずに、私たちの心を燃やし、力を与えてくださる方です。この復活のイエス様の愛と力をいただいて、歩んでいきたいと思わされています。

4月20日にはイースターの礼拝と愛餐会(食事会)が持たれます。今年のイースターが、皆さんにとって、そのイエス様の復活の愛と力を知って歩み始めるときとなりますように。

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