2025年5月号<牧師室より>「天国の希望に生きる」

3月の最後の日曜日の礼拝が終わった後、車でノースカロライナ州の息子の一家のところを訪問してきました。第一の目的は、息子のお嫁さんが歯医者なので、1年ぶりに診てもらうためでした。月曜日に到着して検診とクリーニング、虫歯が見つかったので、火曜日に治療。それで水曜日から木曜日ににかけて、ノースカロライナ州にいる他の知り合いの方々を何人か訪ねて回りました。

最初に訪問したのが、2月半ばまでNJにおられたご夫妻。こちらのご夫妻の息子さんのご一家もノースカロライナにおられて、息子さんのそばにしばらく滞在する、ということだったのですが、出発前後に90歳のご主人が弱ってこられて、あまり歩けない状態になってしまっていました。私がお会いしたときにはもうほぼ寝たきりの状態でしたが、とても輝いた顔をしておられて、「このようなときが与えられて、人生を振り返って、神さまの恵みを思い巡らしています」と言っておられました。元々、ご主人は昔からのクリスチャンで、奥さんが3年ほど前に洗礼を受けられた方です。おそらくこれが最後にお会いするチャンスだろう、と思っていましたが、このように輝いて最期の時を過ごせるのは何という幸いかと思わされました。(ご主人は4月28日に主の御許に召されていかれました)

その後にご訪問したのが、28年前、私がまだこの教会の牧師になる前にお嬢さんを天に送られた方です。ご主人がまだご健在の頃、お証しを伺って2009年の10月号でご紹介させていただきました。https://jccofnj.org/akashi200910 で読むことができます。今回もお一人で施設に入っておられるこのご婦人が、天国の希望を持って、先に天に行かれたお嬢さんとご主人との再会を待ち望みながら、でも、この地上に生かされるならば、できることをしていこうと、新しいことに挑戦しておられる姿に励まされました。

私はキリスト教が「死んだ後に天国に行く」ということばかりに集中して、余りにも彼岸的になってしまって、「この世のことはどうでもいい」と、世界で紛争が起こってもなんとも思わなかったり、環境問題に無関心になってしまうのは間違っていると思います。ですから、「死んだ後の天国」のことよりも、「私たちがどう生きるか」「神と共に生きる幸い」を主に語ってきました。しかし、今回、天国の希望を持ちながら、この地上で平安をいただいて歩んでおられる皆さんにお目にかかって、この天国の希望は、この地上での歩みをも豊かにするのだと思わされています。

「私たちの国籍は、天にあります」(ピリピ3:20)

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