牧師室より 2019年9月号 「ゲームやテレビに負けてたまるか!」

♫ わくわく・・・どきどき・・・うきうき・・・どきどき・・・
お金じゃ買えないものってあるよね〜♫

今年も8月の初めのJOY JOY キャンプでは子どもたちの元気な声が教会のジムにあふれました。今年のテーマは「わくわくタウン2」。教会のジムに突然現れた不思議な町で「〜のためにどうすればいいか?」という使命を受けて、買い物をする、という設定です。18年前の「わくわくタウン」が楽しかった、という声を当時の子どもたちから聞いて、いつかもう一度JOY JOY キャンプのテーマにしたいと考えてきて、今年ついにそれが実現!今年も「買い物の時間」は大盛り上がりでした。私は個人的には「探検」とかをテーマにしたほうがいいんじゃないかなあと思うのですが、何で子どもたちは、そんなに買い物が楽しいのでしょうかね。一説には「いつも、お父さんやお母さんが買い物をしているのを見てるけど、お金とかさわれないし、『自分ももっと自由に買い物したい!』と思っているんじゃないかな?」ということですが、さて、どうなんでしょうか?

今から50年くらい前、私が子どもだった頃は、教会はたくさん子どもであふれていました。クラスの中でも必ず何人か、友達が教会に来ていたものです。そして、みんなで聖書を覚えたり、休まないで来たりすることを競ったものです。でも、いつ頃からか、教会に来るのは、ほとんどが、「親が来ているから」という子どもたちになりました。他の子たちには教会は「関係のないところ」になったのです。「テレビとかゲームとか、他の楽しいことがあるから・・・」と言われたりするのですが、もしそうだったとしたら、それは他の楽しいことに負けている教会の問題でしょう・・・ということで、とにかく楽しいプログラム、そして、でも、楽しいだけでは終わらない中身のあるプログラム、をと考えてきました。子どもも大人も、楽しいことって、大切ですよね。でも、楽しいだけじゃ物足りなくなる。だから、これからも、本当に楽しい、本当に心に届く働きを続けていきたいと思います。

今年も思ったのですが、もしかしたら、今年のJOY JOY キャンプに来た子どもたち、会うのがこの時だけかもしれない、もしかしたら、来年は都合が悪くなったり、日本に帰国したり、他の地に引っ越したりして、もうJOY JOY キャンプには来られないかもしれない、そう思うと、何としてでも、「十字架にかかって、私たちの罪を赦してくださったイエス様」「そこまでして、私たちを愛してくださる神様」のことを話さなければ、と思うのです。そのことをなんとか伝えたい、子どもたちの心に残るものとして受け止めてもらいたい、そのように思うのです。これから、いろんな楽しいこともある、でも、それに負けないくらいの、辛いことや悲しいこと、やるせないこと、悔しいこと、全てを投げ出したくなること、そんなことを経験するだろう子どもたちに、「神様は、君のことを本当に大切に思っているんだよ」ということをわかってほしい、わかって、何かあった時に、また「教会に行ってみようかな」と思ってほしい、そのように思って準備してきました。

「わくわくタウンで買い物する」という毎日だったのですが、でも、本当に大切なものはお金では買えない。目にも見えない、そして、その大切なものを神様はくださるんだよ、と子どもたちにお話ししました。伝わったかなあ、どうかなあ、と思います。なんとか、子どもたちの心の中で、その聖書の言葉の種が、芽を出し、実を結ぶ時が来ますように。

「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」コリント人への第二の手紙4:18

秋からも、教会の働きはそのことを伝えていく、また表していく、生きていくことが中心になっていきます。一人でも多くの方に、この神様の愛が届きますように。

牧師室より 2019年8月号 「ほんとうに大切なもの」

「今度の土曜日、こちらの公園の南口で、うちの息子がお話をするから、ぜひ、来てくださいよ」

それは、20年以上お会いしていなかった友人の誘いでした。私がサバティカル休暇期間中、5月に日本に3週間ほど帰ることを人づてに聞いた彼は、日本に着いたばかりの私に声をかけてくれました。それは、東京の大きな公園のホームレスの人たちのための集まり。社会的にはある程度認められる地位にある彼が、毎週土曜日の朝、そんなに一生懸命ホームレスの方々のためにご奉仕しているのはどうしてなんだろう、という気持ちと、その息子さん、小さい時からちょっと天才肌だったなあ、どんな青年になっているのかなあ、という気持ちとで、幸い、時差ぼけで朝早く目が覚めたこともあり、出かけてみました。

最初に賛美歌を歌って、お話があって、そこまでは想像通りだったのですが、そのあと「さあ、食べ物や援助物資を配って解散かな」と思ったら、なんと、そこから15人くらいずつのグループに分かれて、今聞いた聖書の話の感想や、自分がどうしてここにいるのか、という話を始めたのです。それが、みなさんなんだか、生き生きと話をされるのです。「興味はあるんだけれども、まだ信じられないんだよねえ」という方が、一生懸命質問をしたり、すでにこの働きを通してクリスチャンになった方が、「僕も本当に惨めだったけど、イエス様に出会って、変わったんだよねえ」と自分の体験を話されたり、みなさんが心を開いて、本音で話をされているのです。「ああ、なんだかいいなあ」と思いました。モノや肩書きを失って、プライドも奪われた人々(「いや、自分はプライドがあったから、ホームレスだったんだなあ」と今は援助を受けて、家も仕事も得た人が言っておられて、それはそれで、また考えさせられましたが・・・)が、一人の人間として、神様を求めて、互いに向き合って、話をしている、住むところや仕事を見つけた人たちも、やはり、同じところに立って、話している。いや、この世では立派な肩書きを持っているような人も、そんなことはどうでもいいこと、として、一人の人として、向き合っている。それは美しくもエキサイティングなひと時でした。

それがあまりに魅力的な集まりだったので、私もそれから毎週土曜日の朝、その公園に通いました。

私たちはいつの間にかいろいろなものを身にまとって、身につけて、持ち物を増やして、でも、それによって失ってしまっていることもあるんじゃないかなあ、と思います。そういうものを一度全部おろして、一人の人間として互いに向き合ったり、神の前に出たりすることができればいいのに、と思います。

今年のJOYJOYキャンプのテーマは「わくわくタウン2」。お金じゃ買えないものあるんだよ、神様は、それをみんなにくださるんだよ、ということを子どもたちに伝えることができたら、と、また日々の教会の歩みの中で、そのことが自然と伝わっていくような働きができればいいなと思っています。

「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」コリント人への第二の手紙4章18節

牧師室より 2019年7月号「痛みの中で見えてきたこと」

月報でもおしらせしてきましたが、4月のイースターの後、6月半ばまで、サバティカル休暇として2ヶ月間のお休みをいただいて、教会の牧師としての働きを離れて、休息と研修の時をもってきました。多くの皆さんのお祈りに支えられて、また、留守の間を守ってくださった信徒の方々、近隣の教会の先生方、日本からご奉仕に来てくださった加藤義人先生など、みなさんのお働きによって、このような時を持たせていただいて心から感謝します。

2ヶ月にわたる特別なサバティカル休暇の最後の2週間、いよいよ復帰に向けて、心の準備をしたり、学んできたことのまとめをしたりしようと思っていた時でした。なんだか、胸から背中に痛みを感じるようになりました。普段はそういうことがあっても、いつの間にか忘れてしまうのですが、今回は、どんなに時間が経っても無くなりません。というよりも、何をしていても忘れていられないほどの痛みになっていきました。帯状疱疹でした。夜は眠れない、昼間は痛みで何もできない、市販の痛み止めを飲んでもおさまらない、そんな痛みが数日続きました。最後はお医者さんに行って、抗ウィルス剤と、市販の痛み止めの量を増やして、何種類か併用して、なんとかおさまっていきました。この原稿を書いているのは痛みが始まってからちょうど4週間後ですが、まだ痛み止めを少し飲んでいます。

サバティカル休暇が始まる時に、この2ヶ月間が終わった時には、リフレッシュして生まれた変わった自分、確信に満ちて、今までと違ったレベルのリーダーシップを発揮する自分を夢見ていました。「こんなことを学びました」とプレゼンテーションができるようにと思っていました(確かにいくつかのよき学びの機会も与えられました)。しかし、実際、このサバティカル休暇で学んだことの一番のことは、自分の弱さであり、愚かさであり、情けなさだったのです。普段は講壇から「クリスチャンは困難の中でも、賛美をすることができます。感謝をすることができます」と語っていました。しかし、自分が痛みの中で出てくることといえば、「なんとかしてくれ!」「この痛みを取り去ってくれ!」だけでした。感謝も賛美も出てこない。それどころか、一番身近な家族に当たってしまったり、傷つくことを言ってしまったりする自分がいました。その自分の姿を見せつけられ、肉体的にも、霊的にも弱さを思い知らされたのです。

それは自分にとって必要なことだったと思います。いや、そのことこそ、今の自分にとって大切なことだから、この痛みが神様から与えられたのだと思います。神様は私が本当の自分の姿に気がつくようにと導いてくださったのだと思います。これからも、「自分」が何をしたか、何をしているか、ではなく、「神様が」どれほど大きな方で、弱い私の人生にどれほど素晴らしいことをしてくださるのか、それを見せていただきたいと思わされています。そのことを証ししていきたいと思います。これからも神様が私の歩みの中で必要なものを与えてくださいますように。

「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(コリント第二の手紙12:9)

牧師室より2019年5−6月号「内側から溢れるもので」

イースターの礼拝、礼拝後の愛餐会(お食事会)には久米小百合さんをお迎えしました。久米さんは今から40年くらい前に「久保田早紀」という名前で歌手をされていた方です。私も高校時代に彼女のミリオンセラーの「異邦人」をよく聞いていました。というかいつもテレビで流れていたのを見ていたんですね。ですから、今でも、どうしても「あの久保田早紀さんね」という目で見てしまうのですが、今回、ほんの少しですが、個人的にお話をさせていただいて、また音楽やお話を生で聞かせていただいて、やっぱり、その人の魅力というのは、内側から溢れてくるものだなあ、と思いました。

とても素敵な方です。とても楽しい方です。そして、イエスに出会って、その喜びにあふれている方です。それはYouTubeで昔の映像を探し出して見てみても、わからないものです。伝わってこないものです。でも、個人的にお話をする時には、その心にあるものがビンビン伝わってくるのです。今回久米さんをお迎えすることができて、本当によかったなあ、と思います。

私は4月23日から6月16日まで長いお休みをいただきます。その中で一番大切にしたいのは、自分の内側がどうか、ということです。どんなにノウハウを学んでも、どんなに正しい教えを語っていても、自分の内側が渇いてしまっているとするならば、心の中にあるものが枯れてしまっているとするならば、それは虚しいものです。内側に溢れるもの、それが周りに流れていく、そのような歩みをしたいのです。

「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。」ヨハネ4:13-14

私のライフメッセージです。このイエスの言葉を語り続けるために、もう一度、命の水の源である神様との関係に集中して、そこに目を留めて過ごしたいと思っています。どうか、お祈りください。神様が素晴らしいことをしてくださいますように。

牧師室より2019年4月号「いのちの勝利」

先月の月報で「今年は雪が少ないですねえ」と書いたとたんに雪が降って、その後も肌寒い日が続きました。私は庭に最初に咲くクロッカスの花で春の訪れを感じるのですが、一昨年は3月1日に、昨年は3月15日に咲いた花が、今年は3月26日にやっと開花。いよいよ春だな、と心から感じます。

そして、春の訪れを告げるお祭り、イースター。今年はこのイースターも4月21日と、いつもより遅いです。それはイースターが「春分の日を過ぎた最初の満月の次の日曜日」と決められているからです。今年は春分の日の翌日が満月だったので、次の満月は4月19日。その次の日曜日ということで4月21日となるわけです。

いつお祝いするかよりも大切なのが、その意味。イースターはイエスが十字架にかけられた後、三日目によみがえられたことをお祝いする日です。ですから、イースターのメッセージは「死に対するいのちの勝利」です。私たちすべての者がいつかは迎えなければならない死。その前には私たちは全く無力であり、そこに佇むことしかできません。ある人は、「人間は生まれた瞬間から死に向かって生きているのだ」というようなことを言うほどです。しかし、イエスはその死を打ち破ってよみがえってくださったのです。

それにはいくつかの意味があります。

まず第一に、イエスを復活させた神の力が今も私たちのうちに注がれているのだ、ということです。人類最大の敵、最後の敵である死を打ち破る力が、この世の中で、いろいろな悩みや困難の中を通っていく私たちのうちに注がれている、それはなんと心強いことでしょうか?どんなに大きな問題だとしても、この死の問題よりも大きな問題はありません。その一番の問題を打ち破った神の力は、私たちの人生の問題に、勝利を与えてくださるのです。

第二に、死の意味が変わってしまったということです。死はもはや無敵ではありません。絶対のものではなくなってしまったのです。恐れる必要は無くなってしまったのです。神はイエスによって永遠の命を約束してくださって、私たちを永遠の世界に迎えてくださるのです。「死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」(第一コリント15:55)

まるで死んでしまっていたかのようだった木々も芽を吹いていのちのあふれる春。イースターはこの自然界と一緒に、私たちも、イエスによって死の問題に勝利することができることを告げるのです。

今年のイースター、子どものためのJOYJOYイースターは4/7の午後3時半から。イースター礼拝と愛餐会(どなたでも歓迎の食事会)は4/21の午後1時半から。お待ちしています。

牧師室より2019年3月「春を待つ」

今年、ニュージャージーでは、本当に雪の少ない冬を過ごしてきました。11月に突然雪が降って、大混乱しましたが、そのあと、12月から2月まで寒い日はあっても、降るのはいつも雨。こんなに雪が少ない冬は今まであっただろうか?と思って調べてみました。すぐ見つかるのはニューヨーク市のの記録。教会のあるNJのメイウッドよりも雪が少ない場合もあるのですが、こちらの記録を見ると、ほんの7年前、2011-12年の冬は7.4インチしか降っていません。そして、2001-2年の冬はなんとたった3.5インチしか降っていないんですね。こんなにお天気バカの私でも、意外と覚えていないんだなあと思いました。

でも、3月に入っていきなり連日の雪の予報、早く春になってほしいなと思いますね。どんなに穏やかな、雪の少ない冬でも、早く春になってほしいものです。

そして、教会は3月6日にレントの期間に入ります。この言葉を初めて聞いた時には「アパートのレントと紛らわしいなあ」と思ったものですが、英語では「Lent」、アパートの方の「R」で始まる「レント」とは全く違う言葉。イエスの十字架への道をたどり、イエスの苦しみに心を向け、イエスの復活をお祝いするイースターを待ち望む時です。

21年間ずっとこの教会の牧師としてレントのテーマを考え、その学びを導いてきて、イエスが十字架に向けて歩んでいかれた思い、以前よりも深く感じるようになってきました。それまでは「イエスの十字架によって、自分も罪赦されてありがたいなあ」という程度だったのですが、このレントの学びを続けていく中で、「イエスはどんな思いで十字架に向かっていかれたのだろうか」というイエスの思いに心を向けるようになってきました。もちろん、ただの人間である私たちにはイエスがどんなことを考えておられたのかは完全にはわからないのですが、そこに思いを向けることによって、イエスの歩まれた道をたどること、イエスが人々を愛されたように、私たちが人々を愛するとはどういうことなのだろうかを考えることの大切さを感じています。

「キリストは、・・・おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」ピリピ2:8-10

今年のテーマは「イエスの苦しみ・私たちの苦しみ」です。私たち自身はどうして苦しみを味わうのか、3月8日から毎週金曜日夜7時半から9時まで、教会で学びをしています。是非お出かけください。

そして、「Lent」は語源をたどると「春」という意味があるそうです。春の喜びを少しずつ味わっていくこの季節に、私たちのために命を与えてくださったイエスの恵みを少しずつ味わっていくことができますように。

「牧師室より」2019年2月号「あなたは自由ですか?」

「真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ8:32)

子どもの頃から、教会は好きでしたが、そこは「自由」なところ、という印象はありませんでした。「ちゃんとしていないといけない」「終わったら遊べるから、それまではガマン」という感じだったと思います。ですから、初めてこのイエスの言葉に出会った時、とても新鮮だったことを覚えています。「そうか、イエスはわたしに自由を与えてくださろうとしているんだ!ああ、自分もこの自由が欲しい!」そう思ったことでした。

この自由を感じることができたのは、イエスの十字架の意味を深く知った時でした。いつも教会の建物に掲げられている十字架、キリスト教のシンボルのように使われている十字架、それが、私の罪のための身代わりだったことは子どもの頃から聞いていました。そして、それを信じてはいました。しかし、ある時、一つの出来事を通して、自分の罪深さを見せつけられ、打ちのめされていた時に、そんなわたしをも愛して、イエスは命を投げ出した、そのことの重みを感じました。それまでは、心のどこかで「自分は一生懸命やっているから、神に愛されるのは当然だ」という思いがあったのでしょう。でも、そうではない、自分がどうしようもない奴なんだ、とわかった時に、初めてこの十字架に表された神の愛がどれほど大きいのかを感じました。その時から、その神の愛への感謝、これによって、私は生かされています。それは「なんでも好きなことをしていい」という自由ではなくて、「この喜びをどのように表していこうか」「この与えられた愛にどのように応えていこうか」と内側から溢れる思いによって生きていく自由なのです。

イエスは「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28-30)と言われました。この「わたしのくびきは負いやすい」というのは、「あなたにぴったりフィットする」という意味です。私たち一人ひとりを造ってくださった神は、私たち一人ひとりにぴったりフィットする使命を準備してくださっています。そこに生きることです。

この一年、私たちの教会はこのことを強調して歩んでいきます。お一人でも多くの方々が、この神様が与えてくださる自由、内側から溢れてくるいのちの力を経験することができますように。

牧師室より2019年1月号「新しい年に」

「新しい年に」

あけましておめでとうございます。

今年もどうぞよろしくお願いします。

イエスは「救い主なんて私には関係ない」と思っている人々と、「救い主なんて私には必要ない」と思っている人々、その2種類の人々の狭間に「居場所のない」方としてこられました。

つい先日、クリスマスイブのキャンドルライトサービスでお話ししたことです。今の時代も「救い主?そんなの関係ない」「救い主?そんなの必要ない」と思っておられる方々も多いのでは?と思います。けれども、神は、その両方の種類の人々に「そんなことないよ」と語っておられる、と。

神はまず「関係ない」と思っていた人々に「かいばおけ」に救い主を送ることによって、彼らの誤解を解こうとしました。救い主が生まれたのが「お城のふかふかのベッド」だったら、おとぎ話のお姫様、王子様に憧れることはあっても、自分と関係のあることとは思えないでしょう。「高級ホテルのスイートルーム」も別世界だと思うのです。しかし、救い主が「かいばおけ」に寝かされていたがゆえに、お告げを聞いた羊飼いたちは、それが自分たちとは別世界の出来事とは思わなかったのです。

新しい年、私には何ができるだろうかとずっと考えています。神様がしてくださったように、私も「関係ない」「必要ない」と思っている方がおられたら、「そんなことないんですよ」ということを少しでも伝えることができれば、と思っています。

年末年始、我が家にゲストで来られていた方は、あるテレビ番組に出演されて、その収録の時に、まさに、そのことを感じておられたそうです。番組のパーソナリティの方が「私には関係ない」と思っておられる・・・と。しかし、その収録(3時間!)の間に、そのパーソナリティの方の心が開かれていくことを感じられたそうです。番組として編集されたもの(3時間→30分!)を見た私も同じことを感じていました。おそらく、そのゲストの方の人柄なんだろうな、と思います。

「関係なくなんかないよ!」「必要なくなんかないよ!」という神のメッセージをどのように一人でも多くの方々に伝えられるのか、チャレンジは続きます。まずは、あなたにこの神の思いが伝わりますように!

「あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである。」ルカ2:12

牧師室より2018年12月号「サンタ来る?サンタする?」

「サンタ来る?サンタする?」

子どもの頃、うちにはサンタのおじさんは来ませんでした。

煙突がなかったから、ということもありますし、また、あまりいい子ではなかったというのもあるでしょう。でも、それだけではなくて、昭和40年代、多分、まだサンタさんが来る家が少数派だったのだと思います。両親が牧師だったので、教会ではクリスマスをお祝いするのですが、サンタさんとは無縁でした。ただ、クリスマスの諸行事が終わって、学校が冬休みに入ってから、デパートに連れて行ってもらって、好きなものを一つ買ってもらえるのが楽しみでした。7歳年下の末弟のところにはどういうわけかサンタが来るようになって、それは謎なんですが、それはちょうど、時代がそうなってきていたということもあるでしょう。でも兄たちとしては「なんだかなあ」という気持ちだったことを覚えています。

それから20年くらい経って、自分が子どもを持ったときに、「さて、どうしようか」と思いました。そして、それなりによーく考えて、こう言うことにしました。「サンタさんは、お金がなくて、お父さんやお母さんがプレゼントを買うことができないおうちの子にプレゼントをあげるんだよ。ウチはお金があって、お父さんがプレゼントを買うことができるから、サンタさんは来ないんだよ」と。まあ、なかなかいい言い方だなと思っていました。なんといったって、サンタさんのモデルになった聖ニコラオスは貧しい人たちにプレゼントをした人なのですから!
でも、この話もほどなく破綻します。息子がクリスマスの後に「え?〇〇君のところにはサンタさんが来たの?〇〇君のおうちはお金がないんだねえ!うちはリッチだからお父さんが買ってくれたよ!」と大きな声で言って回るようになるという、ちょっと考えれば「まあ、そうなるよね」という展開で・・・。

アメリカには「オペレーション・サンタ」という働きがあります(今年で106年目!)。郵便局に届いた「サンタさんへの手紙」の中から、「この子にプレゼントを贈りたい」と思ったものを選んで、プレゼントを買って、郵便局に持っていくと、それをサンタさんからのプレゼントとして配達してくれるというサービスです。プライバシーの問題もあるので、今では相手の住所や名前も知ることはできず、子どもたちがどんな風に受け取ってくれるかを知ることもできません。それはちょっと残念な感じがするのですが、子どもたちの安全を考えると大切なことですね。この時期、多く団体が同じような働きをしています。この季節、「受けるよりは与える方が、さいわいである」(使徒行伝20:35)と言われたイエスの言葉をほんの少しでも味わうことができればと思います。

みなさんにとって、良いクリスマスとなりますように!

牧師室より2018年11月号「感謝したいこと」

「感謝したいこと」

「今からお花持っていきます!」との電話から15分くらいで現れたのは近所のNさん。教会のメンバーでもある彼は、野菜もお花も上手に育てる名手です。今回も見たこともないような立派な鉢植えのカニサボテンを持ってきてくださいました。数え切れないほどのつぼみ、これからどんな花を咲かせてくれるのかが楽しみです。

サンクスギビングが近づいて、今、自分自身が一番感謝したいこと、それは何かなあ、と考えていました。そのときに、まず、思いついたのが、「洗礼を受けて喜びにあふれて歩んでおられる方々の存在」でした。信仰に導かれて、洗礼を受けた方々の存在は本当に大きな喜びです。

でも、もっと深いところで感謝していることはないかなあ、と考えてみました。もしも、それがなかったとしても、これがあるからやっぱり感謝、と思えること、それは何かあるかなあ、と。

「健康が与えられていること」「家族が仲良くしていられること」なども感謝しましたが、たとえそれさえも失っても、自分を支えているものはなんだろうか?一つ一つのことが削ぎ落とされて、そこに残るのはなんだろうか、と。

その時たどり着いたのが、

「神様をより深く知ることができていること」

「神様を近く感じることができていること」

「礼拝メッセージの中で力を与えられていること」

でした。

10月の「eお知らせ」でも書かせていただきましたが、今年の9月から「ひびみこデイリー」を毎朝発信して、その1週間の聖書の箇所から礼拝でもメッセージさせていただいている中で、本当に神様との関係がさらに豊かに、さらに深くされて、礼拝でも力をいただいて語らせていただいます。ああ、自分にとってそれがいちばんの喜びであり、力なんだなあと感じましたのです。

「洗礼を受けた方々の存在」「教会に集う人々が与えられること」などは、植物で言えば、花や実にあたるのでしょう。しかし、立派な花や実をつけさせるためには、しっかり根を張らせ、株を充実させなければいけません。それが日々の祈りであり、そこで語られたことを分かち合っていくことだと思うのです。見える結果を出すためには見えない部分に心を留めないといけないのですよね。

これからの歩みの中でも、もっともっと神様を知っていくことができますように。そして、豊かな実を結ばせていただくことができますように。

牧師室より2018年9-10月号「神の愛に満たされて」

「ああ、大変だ、もうアガペがない!」
「アガペを探しに行かなければ!」

今年のJOYJOYキャンプでは、「アガペ」をエネルギーに動くタイムマシンを舞台にしました。「アカペ」とは「神の愛」を表す「アガペー」というギリシャ語から名前を取りました。神様が私たちを愛してくださったその愛をエネルギーにして生きている、その私たちの思いを子どもたちに伝えたいと思ったのです。

また、その前、7月末から8月の初めまで、南カルフォルニアでのリトリートの講師のご奉仕に行って参りました。そのリトリートでいただいたテーマはずばり「生きる」。生きるためのエネルギーの源は、神の愛であることを思わされていました。

私たちは「オギャー」と生まれた時から、愛されなければ生きていけない存在です。親に愛され、周りの人に愛されて、それで生きていけます。それが生きるためのエネルギーになります。でも、成長していく中で、その人からのエネルギーが足りなくなる時があります。自分の中のエネルギーが枯れてしまって、誰か他の人にそれを期待するときに、期待を裏切られてがっかりするときもあります。そんなとき、他のところからの愛をもらう必要があるのです。

「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」第一ヨハネ3:16

イエスは私たちのために十字架の上で命を与えてくださいました。そこに、私たちが生きるためのエネルギーの源があります。そして、その愛をいただいて、私たちも周りの人々を愛することができるようになるのです。神の愛を求めていきましょう。