2024年4月<牧師室より>「信じられない者への招き」

ハッピーイースター!

いつまでも肌寒い日が続いていますが、今年もイースターがやってきました。

このイースター、イエス・キリストが十字架につけられて、葬られたあと、3日目によみがえられたことをお祝いするお祭りです。今年も3月31日にはイースター礼拝と、礼拝後には愛餐会(ポットラックでのお食事会)を、また、4月6日には子どもたちのためのJOYJOYイースターを持ちます。是非お出かけください。

復活したイエスにお会いした、という人々がいる中で、イエスの十二弟子の中にもそれが信じられなかった人がいました。それはトマスという人です。イースターの日の夕方、イエスが弟子たちのところに現れて、本当にご自分がよみがえったのだと伝えた時、たまたま、トマスはそこに居合わせませんでした。他の弟子たちが喜びにあふれて「トマス、イエス様はよみがえったんだよ!」と言っているのを見て、彼はどんなに寂しい思いになっただろうかと思います。「どうして、私がいるときではなく、私がいないときにイエスは来られたのだろう」と思ったことでしょう。勢い余ってか、トマスは「私はイエスが十字架で手に釘を打たれたその傷跡に指を入れ、脇腹の槍の跡に手を差し入れてみないと、決して信じない」とまで言うのです。

それから1週間後、トマスがいるところに、イエス様が現れて、トマスが言っていたとおりのことを告げます。「さあ、あなたの指を私の手の釘跡に、あなたの手を私の脇腹に入れてごらんなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と。

そこで、トマスは「わが主よ、わが神よ」と答えるのですが、この場面、多くの画家たちによって描かれています。その代表的なものが、16世紀末から17世紀初めにイタリアで活動していたカラヴァッジオの絵です。

このトマスがイエスの脇腹に指を突っ込んでいる絵を初めて見たときには、本当にびっくりしました。私の想像では、トマスはイエスの言葉に、ただひれ伏すしかなかったのでは・・・と思っていたからです。「じゃあ、いいですか、指入れますよ」みたいな事をするだろうかと。今でもそのように思っています。

しかし、カラヴァッジオの絵をよく見てみると、トマスの手はイエスの手にしっかりと握られています。トマスの手を脇腹にぐっと引っ張っているのは他ならないイエス自身の手なのです。これは聖書に書かれていることではなく、あくまでもこの画家の解釈なのですが、イエスの脇腹の傷跡にトマスの指が入っているのは、彼の好奇心や「触らないと信じないぞ」という頑固さではなく、イエスの招きであり、イエスが「ほら触ってごらんよ」と手を引っ張ってくれたからなのです。

イエスは今も私たちを招いておられます。信じられないならば、調べてごらん。さあ、あなたの手を伸ばして調べてごらんと招いておられます。その上で「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言っておられるのです。

今年のイースター、一人でも多くの皆さんが、復活のイエスにお会いすることができますように。

2024年3月<牧師室より>「3月は嵐の季節」

3月になりました。

今年も我が家の庭で一番最初に咲くクロッカスの芽が出てきました。朝晩は氷点下に下がっても、昼間はすっかり春の日差し。今月10日にはサマータイムが始まり、19日のthe first day of spring(日本では20日の春分の日)を過ぎると、昼間の時間の方が長くなりますね。いよいよ春がやってくるな、と楽しみになります。

でも、油断は大敵です。1993年の3月、もう30年以上前になりますが、アトランタの大学で勉強していた時、春休みにフロリダのオーランドに行きました。アトランタを出る時にはレンギョウの黄色い花が満開でした。半袖短パンで2-3日楽しく過ごして、アトランタに戻ろうと思って高速に乗ったら、あちらこちら木々がなぎ倒されています。途中でガソリンを入れようと思ったら、軒並み停電でガソリンを入れられません。そして、フロリダとは思えない寒さ。フロリダ州を抜けてジョージア州に入る頃には雪が降り出しました。アトランタに電話をしたら、吹雪でとてもじゃないけど帰れないと。あとで分かったのは、その時、アメリカの南東部から東海岸を、後にstorm of the centuryと呼ばれるようになる嵐が襲っていたのでした。ニュージャージーも大雪だったようです。

実は3月は嵐の季節なのです。アメリカには “March comes in like a lion and goes out like a lamb” (3月はライオンのようにやってきて、羊のように去って行く)という言葉があります。この時期は冷たい冬の空気と暖かい夏の空気がせめぎ合って、特に前半は、しばしばとんでもない嵐になることがあります。

聖書の中にも嵐の場面が出てきます。それはもっと小さい規模のものですが、イエスの活動していたガリラヤ湖で、何度か、イエスと弟子たちは嵐に遭っています。湖で嵐に遭った弟子たちはどんなに不安だったことでしょうか。しかし、イエスはその嵐の中でも平安を保っておられて、「しっかりしなさい、わたしである、恐れることはない」(マタイの福音書14章27節)と言われ、嵐を鎮めておられるのです。

私たちの人生にも嵐がやってきます。イエスに従う道も万事順調、順風満帆ではないのです。でも、その時にも、イエスは私たちに「恐れるな。私がいるから」と語ってくださり、平安を与えてくださいます。皆さんの中にも今、嵐の中を通っておられる方もおられることでしょう。イエスはその嵐の中にも共に行ってくださいます。「主よ、助けてください」と祈ってみてください。神さまはあなたを支えてくださいます。

<牧師室より>2024年2月号「コミュニティに生きる使命」

良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。
平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、
「あなたの神は王であられる」とシオンに言う人の足は。
イザヤ書 52章7節

私たちの教会は、この聖書の言葉をいただいて、2024年をスタートしました。
この言葉は、教会が、神さまからの平和と解放、救いのメッセージを託されて、出て行く使命を頂いていることを示しています。

それは、言葉によって聖書に表された神の愛、神の救いを伝えるということはもちろんですが、それだけではなく、私たちの行動によって、神の愛を表していくということも大切なことだと思わされています。

9-11の同時多発テロの直後、社会全体が大きな痛みを通る中で教会は何ができるだろうかと、いくつかのセミナーに参加している中で、「何かがあってから、『私たちは〇〇教会の者ですが、何かできることはありますか?』と聞いても、それからでは遅い、教会がいつもいつもコミュニティの中で生きていないと、いざという時に教会に手を差し伸べてもらおうなんて人は誰もいない」との講師の言葉は衝撃でした。今頃になってこんなセミナーに来ているようではダメだと言われているような、でも、これからの生き方が問われるのだとチャレンジをいただいたような思いになりました。

それから22年、ずっと私たちの教会が、そして、私自身が、コミュニティの中で生きるとはどういうことなんだろう、何ができるんだろう?と問い続けています。今年は特別にそのことを考え、受け止め、実践していく年となる様にと願っています。

 今月は14日のAsh Wednesdayから教会はレントの期間に入ります。教会の歴史を通して、この期間はイエスの十字架での苦しみを覚えて、聖書を味わい、悔い改め、人々に仕える時として重んじられてきました。

 私たちの教会でも、2月16日から3月29日のGood Fridayまで、毎週金曜日の午後7時半から9時まで、教会に集まって、レント集会を持ちます。今年は「受難週からのメッセージ」。受難週とは、イエスが十字架にかかった最後の一週間です。その一週間に起こったいくつかの出来事から、神さまが私たちに託されたメッセージについて学んでいきます。教会に集うのが難しい方のためにオンラインでの参加もできるようにします。是非、ふるってご参加ください。オンラインでのアクセスを希望される方は錦織牧師(pastor.jccofnj@gmail.com)までお問い合わせください。

<牧師室より>2024年1月号「神の恵みによって」

明けましておめでとうございます。

 私たちの教会は1988年元旦にスタートしました。2024年の1月1日に36周年を迎えます。最初はいつまで続くかと思った、と伺っていますが、ここまで守られてきたのは、ただ神さまの恵みであり、憐れみによるものであったと思わされます。

「神の恵みによって、私は今の私になりました。」
(コリント人への手紙 第一 15章10節)

 私が初めてこの教会に足を踏み入れたのは1994年の秋でした。その2年前に日本での牧師の働きを中断してやってきたアメリカ。最初のサンディエゴも、次のアトランタも、知り合いを頼って生活を立ち上げました。しかし、誰も知り合いがいないニュージャージーの大学院に進むことになり、まだEmailとかウェブページとか、あまり普及していない頃でしたから、「キリスト教年鑑」という名前の、日本の教会と世界各地の日本語教会の連絡先が載っている分厚い本を開いて、「神学生としてご奉仕する場はないでしょうか?」とNY周辺の教会に手当たり次第手紙を書きました。その中で、ただ一つ、お返事をくださったのが、ニュージャージー日本語キリスト教会だったのです。「何も約束はできないけれども、とにかく一度来てごらんなさい」と。そのお返事に励まされて、9月の初め、この教会に一歩足を踏み入れました。

 それから、間もなく30年。牧師としてご奉仕をさせていただくようになって、27年。本当に素晴らしい喜びもたくさん経験しましたが、痛みや悲しみ、戸惑うことも何度もありました。そして、私が来る前には、もっと大きな危機があったと伺っています。それでも、ここまで守られてきました。誰かが頑張ったとか、あの人がいたからとか、そういうことを超えて、本当に神さまの憐れみによるものだと思わされます。

 この世界の経済と文化の中心地であるニューヨーク周辺には、これからも日本語での教会の働きが必要でしょう。日本語で人々を支え、励まし、神さまの恵みを伝える教会が必要だろうと思います。そのために、これからも、願わくは、ニュージャージー日本語キリスト教会が用いられてほしいと思います。これからも困難が襲ってきたり、逆風の中を歩んだりするときがあると思います。それでも、ここまで守ってくださった神さまが、これからも一歩一歩導いてくださることを信じています。

2024年の元旦は午前11時から元旦・創立記念礼拝をいたします。また礼拝後にはお餅を準備しています。是非お出かけください。新しい年、神の前に出て祈りをもってスタートしましょう。

<牧師室より>2023年12月号「暗闇が深いところにこそ」

メリークリスマス!

 12月になりました。クリスマスまでいよいよ3週間を切りました。街がイルミネーションで華やぎ、お祝いムードに染まるこの季節ですが、世界に目を向けると、痛みを感じないではいられません。ウクライナはロシアの侵攻から2回目のクリスマスを迎えようとしています。そして、ハマスとイスラエルの間の停戦も一週間で終わり、また本格的な戦闘が再開しています。現地からのニュースに接すると本当に心が引き裂かれるような思いになります。私たちがもしもこの痛みを完全に失って、自分たちだけが良ければそれで良い、と思ってしまってはいけないのだろうと思います。

 クリスマスはイエスの誕生を祝う日。しかし、実際にイエスが生まれたのは12月ではないだろうと言われています。12月ではイエスがお生まれになった夜、羊飼いたちが野宿しながら羊の群れの番をしていた、という聖書の記述と合わないというのです。では、なぜ、12月にクリスマスを祝うようになったのかというと、緯度が高く冬の日中の時間が短いヨーロッパで、これから日が長くなっていく、太陽が帰ってくることを祝っていた冬至の祭りに、暗闇を照らす光として来られたイエスの誕生を合わせて祝うようになったのだろうと言われています。

 聖書の中に、イエスの誕生について語っているこのような言葉があります。

「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネの福音書1章5節)

「すべての人を照らすまことの光が、世に来ようとしていた。」(ヨハネの福音書1章9節)

 イエスは暗闇を照らす光だと、暗闇に勝利する光だと、またすべての人を照らす光だというのです。この暗闇は「一人一人の個人の心の暗闇」だとしばしば言われます。私もそう思います。イエスは私の心の暗闇も照らし、私の心も造り変えてくださいました。しかし、それだけに限定されないのではと思います。この暗闇を照らす光、すべての人を照らす光は、今、暗闇のような状況にある人々のところに届き、その暗闇を照らす光なのだと信じます。そして、私たち自身も心を照らされて、光とされて、出て行くのです。世界の反対側のことも忘れてはなりませんが、身近なところにも暗闇の中に置かれている人々もいるでしょう。そこにも私たちは光を届ける使命があるのです。

「起きよ。輝け。まことにあなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。」(イザヤ書60章1節)

 今年のクリスマス。私たちの心がイエスによって照らされて、私たちも光とされて、光を世にもたらす存在とされますように。

<牧師室より>2023年11月号「痛みの中でのサンクスギビング」

 11月になりました。

 アメリカで11月と言えばサンクスギビング。この国では各地から郷里に帰ってきて、家族で過ごす方々が多いようです。私たちの教会でも2019年以来4年ぶりになるサンクスギビングの愛餐会(食事会)をします。また、この機会に以前こちらにおられた方々で戻って来るという方々もおられて、賑やかになりそうです。楽しみにしています。

 しかし、ひとたび世界に目を向けてみると、ロシアによるウクライナへの侵攻は続いていて、戦争の中で2回目の冬を迎えようとしています。そして、10月にはハマスによるイスラエルへのテロ攻撃、またそれに対してハマス殲滅を目指すイスラエルの反撃が続いていて、多くの人々が苦しんでいます。こんな状況の中で、私たちはサンクスギビングを心から楽しめない思いにもなります。

 しかし、実際のところ、アメリカでの最初のサンクスギビングも、万事順調、順風満帆の人生を歩んできた人たちによってではなく、多くの苦しみを経験してきた人々によって祝われたのです。ピルグリム・ファーザーズと呼ばれる人々はイギリスで迫害を受け、困難の中に歩んでいました。そんな彼らが自由を求めて船出した大西洋を渡る航海と、ようやく到着した新大陸での例年にない厳しい冬の寒さによって、乗り込んだ人の半分は命を落としたといいます。希望の船出が悲惨な結果になって、彼らはどんなに大きな痛みを経験したでしょうか?その痛みの中にいた彼らが、現地の人々の助けによって得た初めての収穫。そこで祝われたのがアメリカでの最初のサンクスギビングだと言われます。

 ですから、私たちは今も世界各地で、そして、もっと身近なところでも、痛みの中にある方々のことを心に留めながら、与えられている神様からの恵みに感謝して、サンクスギビングをお祝いするのです。この時期、多くの団体が困難の中にある方々のための働きへの協力を呼びかけています。私たちもこのような働きに心を向けて、出来ること、なすべきことを求めていこうではありませんか。

 今年のサンクスギビングが、多くの人々にとって、感謝と慰め、癒しに満ちたものとなりますように。

<牧師室より>2023年10月号「この国で共に生きる」

私がこの教会の牧師としてご奉仕を始めたときには、ご高齢の方々はそれほど多くはありませんでした。しかし、26年経って、ご高齢の方々のサポートの機会が増えてくる中で、自分が今まで知らなかったことがこれほどあったのか、と思い知らされています。そして、それらの情報は、教会の皆さんにためにも、私自身のためにも、もっと早く知るべきだった、ということばかりです。もし、この国で生まれ育っていれば、当たり前のように知っていて、互いに話題にしたり、共有したりしていたことかもしれません。しかし、日本からやってきた私たちにとっては「そうだったのか!」「へえ、そうなんだ?」ということがどれだけあるかと思わされます。

 その経験から、今回、10月21日の土曜日の午後、私自身が教会の方々のサポートのために、いろいろな方々に助けていただく中で、大きな力となってくださっている「ライフデザインサポート」の方々にセミナーをしていただきます。この国で歩んで行く中で、特にシニア世代や、そこにさしかかろうとしている皆さんにとってはもちろん、どの世代にとっても必要な情報をお話していただきます。詳しくはこちらの案内をご参照ください。多くの皆さんのご参加をお待ちしています。

 しかし、改めて考えてみれば、たまたま、今まで私たちの教会にシニア世代の方々がそれほど多くなかっただけで、教会の周りには、どれほどたくさんのサポートや情報を必要としている方々がおられるだろうかと思います。

 イエスは「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」(マタイの福音書 25章40節)と言われました。

 これを機会に、もっともっと、私たちが多くのことを学び、生活のあらゆる側面において、この地域の日本語を使う方々と共に歩んでいくことができるようにと願っています。

<牧師室より>2023年9月号「空の鳥を見てごらん」

8月の最後の日曜日は「ピクニック礼拝」。多くの皆さんが参加されて、楽しい時を持ちました。礼拝後のサンドイッチのランチや、その後のレクリエーションも良かったのですが、私自身はそれと共に、緑豊かな公園での礼拝の中で、イエスの言葉に従って「野の花に目を留める」ことを実践してみて、新しく目が開かれる思いがしました。

礼拝のメッセージの中で「では、皆さん、自由に歩き回って、野の花をじっくり見る時を持ちましょう」とアナウンスして、10分ほどそれぞれで野の花を見る時をもっていただきました。正直なところ、当日の朝、会場の公園に来てみて、かなりしっかりと刈り込みがなされていて、元々あまり花の多くない8月の下旬、「花なんて咲いてないじゃん」と言われるんじゃないかと思いました。でも、注意して見てみると、普段は目に留まらないような小さな花がいろいろ咲いているのですね。そして、その一つ一つ、花びらの形、その数、おしべが出ているかどうか、など、それぞれに個性があって、いくら時間があっても足りないくらいでした。ちょうど今、NHKの連続テレビ小説「らんまん」の主人公が這いつくばって、草花に見入っているのが、こんな感じなんだろうかと分かるような気がしました。

イエスは「野の花を見てごらん」と言われた後に、「その一つ一つの野の花よりも、神はあなたの事を何倍も大切に思い、心にかけておられるんだよ」と言われるのです。

「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。」

マタイの福音書 6章30節

これからいい季節になります。散歩をしたり、空を見上げたりするときに、自然の中に込められた神さまのメッセージに耳を傾けてみませんか?

<牧師室より>2023年8月号「宝物を探しに行こう」

 今年もJOY JOY キャンプがやってきます。
 今年のテーマは「JOY JOY 探検隊〜宝物を探しに行こう」です。5日間、20人の子どもたちと、毎日宝物を探しに探検に行きます。

 我が家の「宝物」と言えば、「松井秀喜選手のバット」です。

 もう20年も前ですが、ヤンキースの試合を見に行った時、松井秀喜選手が空振りしたバットが手から滑って観客席にいた私達のところに飛んできました(その時の様子はこちら)。「これはさすがに返さないといけないだろう」と思って係の人に渡したのですが、その時、球場全体で大ブーイング!「何だ?何か自分はブーイングされることしたか?」と思っていたら、周りの人が「あの係の人にブーイングしているんだよ!あれはおまえのものだ!もらってこい!」と口々に言ってくれて、係の人を追いかけて、無事いただいて帰ることができました。それから、野球を見に行く度に、良くもこの大きな球場の中で、自分のところに飛んできたな、と思います。特別な神さまからのプレゼントだったと思います。

 でも、当時良く思ったものですが、もしも強盗に銃を突きつけられて、「おまえの家の宝物を持って行くぞ!」と松井のバットを奪われたら、間違いなく「どうぞ!」と言うだろうなあ、でも、もう一つの我が家の宝物であるその頃小さかった自分の子どもたちに同じことが起こったら、絶対に命をかけて、「自分はいいから・・・」と自分の身を差し出しても、子どもたちを守るろうとするだろうな、と。実際、本当に大切な「宝物」は決して「モノ」ではないんですよね。

 今回のキャンプで子どもたちに是非見つけて欲しい2つの宝物があります。それは、一つは「神様の愛」、そして、もう一つは、「自分自身」です。聖書の中に、天国(=神さまの愛に満たされた人生と死の向こう側にも続く命)という宝物を見つけたら、喜びにあふれて、全財産を売り払ってそれを自分ものにするだろう、というイエスの言葉があります。

「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」(マタイの福音書 13章44節)

 私達がこの宝物を自分のものにするために、すべてを投げ出してもちっとも惜しくないだろう、というのです。それくらい価値があるのだよ、というのです。でも、この言葉にはもう一つの意味があります。それは、立場をひっくり返すと見えてくることです。宝を探しているのはイエスであり、宝物は他でもない、私達だというのです。イエス自身が、「私達」という宝物のためには、すべてを投げ出しても惜しくない、と言ってくださったのです。実際、イエスは十字架にかかって、私たちの代わりに罪を負ってくださいました。そこまで私達は愛されているのです。

 今年のJOY JOY キャンプも、子どもたちの安全が守られて、子どもたちが、神さまが自分たちの事を宝物としてくださっていること、そして、愛されている喜びを知ることができるようにお祈りください。

<牧師室より>2023年7月号「自由とされたのだから」

「ああ、またやられた!」18年前の初夏。庭に日本の野菜を作ろうと一生懸命になっていた頃、本当に毎年、グランドホッグとの戦いに苦戦していました。ネットを張ったり、動物の嫌う匂いのスプレーを蒔いたりいろいろ試しましたが、敗戦続き。これはもう捕らえるしかない、とワナを買ってきて、捨てるクズ野菜を餌に、庭に仕掛けました。そうしたら、かかるわ、かかるわ、家族で住んでいたのでしょうか、次々とグランドホッグがかかります。後でネットで調べてみたら、この地域では許されていないようですが、そんなことも知らず、山に連れて行っては、放すことを繰り返していました。

 グランドホッグは昼行性。朝にワナをかけて、夜は変な動物がかからないように閉じておくのですが、ずぼらな性格の私は、ついつい閉じるのを忘れてしまい、ある朝はオポッサムがかかっていました。あまり可愛くない動物なのですが、ワナを開けたら、一目散に逃げていきました。

「あ、また変なのがかかっている!」7月5日の朝、前の晩にワナを閉じるのを忘れてしまっていて、何か動物がかかっていることに気づきました。あたり一面砂ぼこり。かなり暴れていたようです。今度は何がかかったのかな、と近づいてみて、「わっ」と血の気が引きました。ワナにかかっていたのはなんとスカンクだったのです。「どうしよう・・・」と思いました。自分の愚かさを悔いました。逃がすためには近づかなければいけない、近づいたらスプレーをかけられる。まともに食らったら、何日も匂いが消えない・・・。

その後の顛末を詳しく書いているととても長くなってしまうので、詳しく知りたい方は、以前毎日書いていたこちらのブログの記事を。

結論を言うと、最後は覚悟を決めて、すべて捨てていい服で身を固めて、頭には目のところだけ穴を開けた紙袋をかぶって、スカンクのスプレー攻撃を全身に浴びながら、近づいていって、ワナを手で開けて、スカンクを逃がしたのですが、ワナの扉を開いても、スカンクはおびえて、奥の方から動かないんですね。それで最後はワナの一番奥のスカンクがいるところをバンと一発蹴ったら、慌ててワナからでて、逃げていきました。

そのワナの奥でおびえていたスカンクの姿を思い出すと、私達も同じように狭いところでビクビクしていることはないか、と思わされます。神さまは私達のところに来て、私達を解放しようとしてくださっているのに、私達はその神さまの思いに気がつかないで、おびえて、逃げて、閉じこもっていることはないだろうかと。聖書のメッセージは解放のメッセージです。神様が与えてくださる自由を受け取って感謝して歩んでいきましょう。

「真理はあなたがたを自由にします。」ヨハネの福音書 8章32節