<牧師室より>2021年10月号「踏み出すときに開かれる道」

先月の月報で、NYでの礼拝をスタートすることをお知らせしました。「沖へこぎ出しなさい」との聖書からのメッセージを受け取って、踏み出す思いを書かせていただきました。そして、9月12日、ついにその日がやってきて、第1回のNYマンハッタンでの礼拝がスタートしました。初めての場所で、わからないことや、あれ、こんなはずじゃなかった,などということもあるだろう、当日になってバタバタすることあるだろうと思い、何度も確認し、緊張して会場に向かいました。早く着いたのですが、駐車スペースを探してぐるぐる回りました。結局有料駐車場に車を止めて、会場に歩きました。一緒に祈りつつ、準備を進めてきた皆さんと現地で合流し、会場に入りました。予想通り、バタバタ準備をしましたが、いざ、始まってみると、本当に自然で、いつものNJの教会でささげている礼拝と全く変わらないように思いました。期待していた以上の方々がおいでになり,心から感謝して共に神様に礼拝をささげました。

聖書の中に、エジプトの奴隷から解放されたイスラエルの民がヨルダン川を渡る場面が出てきます。時は麦の収穫の時期、ヨルダン川は上流の山々の雪解け水で水量が増えていました。そのような時に民はこのヨルダン川を渡って向こう側に行くようにと、神から導きをいただいていたのです。せめて川の水量が少ないときにしてくれたら、どんなに楽だったろうか、と思ったことでしょう。しかし、神はこのタイミングで「進みなさい」と民のリーダーに語りました。その語りかけに彼らは従ったのです。そして、このように書かれています。

「箱をかく者がヨルダンにきて、箱をかく祭司たちの足が水ぎわにひたると同時に、-ヨルダンは刈入れの間中、岸一面にあふれるのであるが、- 上から流れくだる水はとどまって、はるか遠くのザレタンのかたわらにある町アダムのあたりで、うず高く立ち、アラバの海すなわち塩の海の方に流れくだる水は全くせきとめられた」(ヨシュア記3:15-16)

民の先頭を歩く人々の足が水に着くと同時に、その川の水は枯れ、乾いた地になりました。そして、民はそこを通っていくことができたのです。

私たちの歩んでいく道にも、しばしば、先がはっきりと見えないのに、完全に準備ができているわけではないのに,踏み出していくことを求められるときがあります。そんなとき、踏み出したときに見えてくる道があるのです。踏み出したときに開かれる道があるのです。ですから、勇気を出して踏み出していくことが大切なのです。

NYマンハッタンでの礼拝、10月はまた第2週、10日の日曜日午前10時15分からです。教会の礼拝はいつでもそうですが、クリスチャンであるなしに関わらず、皆さん大歓迎です。是非お出かけください。詳しくはこちらのチラシをご覧になってください。神様がこれからも道を開き続けてくださいますように。

<牧師室より>2021年9月号「沖へこぎ出しなさい」

ずっと祈ってきましたが、9月12日から、まずは毎月1回からですが、第2日曜日の午前中に、NYでの礼拝をスタートします。NY市の郊外に位置する私たちの教会には、ずっと、NY市から来られる方々が多くおられました。また、車の便が必要な方々のことを覚えて、送迎の車も出してきました。それでも、「自分はクリスチャンだから、NJの教会に来ることはできるけれども、クリスチャンではない友達を誘うことは難しい」との声を聞きながら、なんとか、NYでも礼拝をささげることができないだろうかと祈ってきました。

それが、2020年からの牧師としての任期を更新するかどうか、祈っている中で、この任期の中でNYでの礼拝をスタートすることができないだろうかという思いが強くされていきました。元々、2020年の9月スタートを目指していたのですが、コロナで多くのことが制限される中で、この計画も延期になりましたが、この延期を通して、2021年の初めからは、このために心に重荷が与えられた方々と共に語り合い、祈り合い、備えることができました。そして、今年の6月2日のNYでの礼拝のための祈り会のために準備をしている中で、

「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」ルカ5:4

の聖書の言葉が心に響いてきました。この言葉は、夜通し働いて、でも、何も獲れずに、がっかりし、疲れ果てて、網を片付けていた漁師のペテロに向かってイエスが言われた言葉でした。ペテロはいろいろ言いたいことはあったでしょう。理由をつけて、イエスの言葉から逃げることもできたでしょう。しかし、最終的にはこのイエスの言葉に従った時に、網が破れそうになるくらいの多くの魚が捕れたというのです。この言葉を心に与えられたときに、私自身は、これをNYでの礼拝をスタートするための、神様からの語りかけと受け取りました。従うときに、祝福が与えられる招きであると思わされたのです。

どうか、皆さん祈ってください。この働きを通して、神様を知る方々が起こされますように。イエスに出会い、イエスに心を触れていただいて、新しくされる方々が起こされますように。また是非、お知り合いをご紹介ください。一人でも多くの方々に届くことができますように。案内はこちらから。

「期待通りに行かなくても」

先月の月報では「オンラインからin-personへ」と題して、「オンラインだからできることもあるけれども、やはり私たちはin-personを大切にしていこう」と訴えました。ワクチン接種の広がりによって、6月末には人口900万人のNJ州の日々のコロナ感染者数が100人台まで落ち、あちらこちらの病院でコロナ病棟が必要がなくなり、閉鎖されていきました。多くの規制が撤廃され、社会の中には平常の生活への回帰に向けての期待が高まっていました。それが、この1ヶ月で、一日の感染者数が何倍にもなり、病院に入院する方々も増えてきています。変異株の広がりによって、ワクチンを打っても、重症化は避けられても、感染をとどめるのは難しいということも起こってきているようです。ちょっと雲行きが怪しくなってきたなあ、と思います。

実は先月号の月報を準備していたときにも、全くこのようなことが想像できなかったわけではありません。ですから、「こんなことを書いて大丈夫かな。あまりにも楽天的すぎはしないだろうか?」とも考えました。しかし、私たちがこの後どういうことが起こってくるかわからない、だから、「ちょっと早すぎた」と撤回することがあるかもしれない、でも、私たちはその場その場で、最善の選択をしていく、そのことの大切さを思わされています。

聖書の中にこのような言葉があります。

「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」(箴言19:21)

私たちはいろいろ計画するけれども、結局は神のみ思いが実現していくのです。だから、「どうせ考えたってダメだよ」ではなく、計画が変わるかもしれないということを心に留めて、人間としての限界を受け止めて、謙虚になって、神様を信頼して、その場その場での真摯な決断をしていくのです。最善の計画を立てていくのです。そこにこだわるのではなく、オープンな心を待ちながら、最善の選択をしていくのです。

多くの方々がワクチンを打っている現状で、これ以上あまり大きな広がりは起こらないことを期待しています。今までの研究の通り、感染者が重症化しないことを祈ります。しかし、決して自分の願っているデータや研究だけを選んで信じるのではなく、謙遜な思いで、与えられた状況の中で、最善の選択をしていこうと思います。神様がこれからの歩みも守り導いてくださいますように。

<牧師室より>2021年7月号「オンラインからin-personへ」

「おお、久しぶり・・・っていうか、いつも、画面越しで会っていたのですけどね・・・なんだか、やっぱり違いますね」そんな会話をどれだけしたことでしょうか?

新型コロナウイルス感染の状況が落ち着いて、いろいろな規制が緩和されている中で、6月は教会の礼拝以外のいろんな集まりも、少しずつオンラインからin-personに変更されてきました。「Ridgewood聖書を読む会」「Friday Nightオアシス」、そして、子どもたちのための「JOYJOYキッズクラブ・チャレンジクラブ」はin-personでの集まりをスタートしました。また、昨年オンラインで新しくスタートした「親子クラス」もピクニックを教会で持つことができました。教会の礼拝もZoomでつないで、オンラインでも参加できるようにしていますが、それでも、少しずつ、教会堂に集まる方々が増えています。そこで本当に感じることは、「やっぱり会うと、違うね」ということです。

いろいろなご事情で、どうしても集まれない方々、また、遠く離れていて、近くに日本語教会や、通える教会がない方々にとって、このオンラインでの働きは、本当に大きな助けになっていることと思います。コロナ感染が広がって、必要に迫られて、スタートしたオンラインでの働きですが、私たちの思いを超えて、大きな可能性を持っていると思います。今、教会でもたれている集まりの中にも、このままオンラインで集まっていくことがいいのではないだろうか、というものもいくつかあります。

それでもなお、やはり、物理的に集まる中で伝わることがたくさんあります。対面で会うことによってできる会話もあります。可能な限り、時間と労力を費やして、物理的に集まって礼拝をささげ、励まし合い、祈り合っていくことによって生まれる関係があります。それはやはり神様が、私たちにこの物理的な体を与えてくださったからでしょう。

「あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました。 ・・・わたしが隠れた所で造られ、地の深い所でつづり合わされたとき、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。 あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。」詩篇139:13-16

教会は心を大切にする、という側面があります。聖書の中にも「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(サムエル記上16:7)という言葉があります。しかし、私たちはこの体を離れて、この地上で生きていくことはできません。この体は神様が与えてくださった大切なものなのです。だから、礼拝をささげるときも、互いに思いを伝えるときも、体全体を用いて、思いを表していくのです。

このまま感染状況が落ち着いて、日常を取り戻す日が一日も早く来るようにと祈っています。もっともっと自由に、何の心配もなく、神様が与えてくださったものすべてをもって礼拝し、励まし合い、祈り合うことができますように。

<牧師室より>2021年6月「感謝しよう」

昨年の終わり頃から始まって、今年になって大統領が代わってから本格化したワクチン接種。3月ごろからは多くの人々に行き渡るようになってきて、5月には一気にその効果が出てきたのでしょうか、規制が緩和されていく中、NJ州の感染者数は1ヶ月で5分の1に。ほぼ規制も解除され、日常が戻ってくるのでは、と期待が広がっています。最新の技術でスピード承認されたことなど、心配がないわけではないですが、このワクチンの効果は本当にすごいなあと思います。

考えてみたら、私たちは子どもの頃からたくさんのワクチン接種を受けてここまできました。天然痘も、結核も、狂犬病も、はしかやインフルエンザ、ポリオ、ジフテリア、黄熱病、日本脳炎、B型肝炎、破傷風も、まだまだ色々ありますが、ワクチンがあるから守られている、というところがあります。

でも、考えてみれば、私たちの体の中で私たちを守っているのはワクチンではなくて、免疫なんですね。私たちの中に元々あった免疫力がワクチンによって呼び覚まされて、私たちを守っているのですね。真摯に研究を続けてこられた科学者の皆さんの努力に感謝すると共に、私たちのうちに免疫を与えてくださった神様にも感謝します。

「高ぶりが来れば、恥もまた来る、 へりくだる者には知恵がある。」(箴言11:2)

信仰と科学は対立的に説明されるときもあります。教会が科学者たちの研究の成果を軽んじた時代もありました。今でも科学を否定するのがクリスチャンの信仰だと思っている方々もおられます。しかし、科学は元々、神が造られたこの世界をより深く理解するために発展してきたもの。神様は科学も用いて、私たちを癒し、生かし、支えてくださるのだと思います。そのための道具です(だからこそ、科学が神にとって代わってしまってはいけないのですが・・・)。私たちはこのコロナ禍の中で、テクノロジーの助けをもらって、教会の集まりを続けてきました。公衆衛生学や疫学によって、どのように集まることができるかを教えてもらいました。そして、今、ワクチンの効果で再び自由に集まることができるのではないか、というところまで来ました。本当に多くの人々の働きに支えられています。科学者の皆さんの真摯な研究に対して、本当に謙虚な気持ちをもって、歩ませていただきたい。今、1年あまり続いた自粛生活から、ちょっと解放された気持ちになって、そんなことを思わされています。

<牧師室より>2021年5月号「教会って何?」

みなさん、「教会」といえば、どんなことを思い浮かべますか?

大聖堂、トンガリ屋根の上に十字架がついている、きれいなステンドグラス・・・などを思い浮かべる方が多いのではないでしょうか?しかし、実は、それは「教会堂」であって、「教会」ではありません。聖書で「教会」というと、「人々の集まり」のことを指しているのです。美しい教会堂、それはすばらしいものです。しかし、そこにどんな人々が集まり、どんなことがなされているのか、の方がずっと大切なのです。

イエスは、弟子のペテロが「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と告白をしたときに、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう」(マタイ16:18)と言われました。ここで、イエスが「わたしの教会」と言われたのは、建物のことではなく、人々の集まりのことでした。そして、「教会堂」は教会の人々が集まり、また地域に対して働きを進めて行くために用いられていくものです。

わたしたちの「教会」が創立してから33年が経ちましたが、そのスタートの頃からずっと「教会堂」を求めてきました。わたしたちの地域で新しく教会堂を建てる場合には、クリアしなければならない規制が多くて、「土地を買って、そこに教会堂を建てて・・・」というプロセスは本当に困難です。そこで、すでに教会堂として使われている建物を購入することを目指して、積立をしながら、候補物件を探しています。先月、一つの教会堂候補物件が売りに出されました。わたし自身がニュージャージー日本語キリスト教会に集うようになってから26年半になりますが、今までの経験の中で、一番わたしたちにふさわしいと思われるような建物でした。ですから、その建物を買うことができればと思いました。あまり時間がありませんでしたが、共に祈りました。購入のためのオファーも入れました。しかし、残念ながら、わたしたちはこの教会堂を手に入れることはできませんでしたが、そのプロセスの中でずっと思わされていたことがありました。「教会堂」も大切だけれども、「教会」がもっと大切だ、ということです。もしも、この教会堂がわたしたちに与えられたとしても、「教会」が「教会」として更に整えられなければ、神様は喜ばれない、神様の栄光は現されない、そう思わされてきました。ですから、「神様、教会堂を与えて下さい。そして、そのプロセスの中で、教会を教会として整え、守り導いて下さい」と祈らないではいられませんでした。

今回の候補物件は、他の教会が買うことになりました。それはそれで、神様の働きのために用いられるのですから、わたしたちにとっては喜ぶべきことです。そして、またわたしたちは、神様が教会堂取得のために道を開いてくださることを祈りつつ、「教会」が更に整えられ、成長していくようにと願っています。一歩一歩の歩みの中で、神様が素晴らしいことをしてくださいますように。みなさんも、どうか覚えてお祈り下さい。

<牧師室より>2021年4月号「この国で共に歩むこと」

ハッピー・イースター!

厳しかった冬、地面を覆っていた雪が融けて、色とりどりの花が目を楽しませてくれる季節になりました。春の訪れを告げるイースターは、イエス・キリストの復活を祝う日です。イエスは、私達にとって、最大の敵で、究極の敵であり、最後の敵である死を打ち破ってよみがえられました。

「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。」(第1コリント15:55)

しかし、私達の敵はそれだけではないですね。もしかしたらこちらの敵は更に巧妙かもしれません。それは、このイースターのお祝いに水を差すように、アメリカ広がっているアジア系の人々に対する嫌がらせやヘイトクライムです。私自身は人生の半分をアメリカで過ごしていますが、実際にそのような偏見で嫌な目にあったことはありませんし(忘れてしまった可能性はありますが・・・)、反対に多くの人々に助けられ、支えられて、ここまで来たことを感じています。しかし、それは単に私が恵まれていたというのもあるでしょうし、また、生活のほぼ全部の時間を日系コミュニティーの中で(私達の教会は決して人種や国籍で区分けをしているのではなく、「日本語」というコミュニケーションの手段で集まっていますが、実際にはアジア系のみなさんがほとんどです)過ごしているがゆえに、わからないのだと思います。実際、子どもたちに聞くと、少なからず、アジア系であるがゆえの差別や偏見を受けることもあるようです。この敵は、私達を分断させ、互いの間に不信感を植え付け、共に歩んでいたお互いが対立するように仕向けるのです。

このような時に、私達はどうすればいいのかと思います。他のマイノリティーの人々と連携をして声を上げることも必要かもしれません。差別や偏見の実態を明らかにして、問題の本質が何かを社会に問いかけることも必要でしょう。しかし、それと共に、聖書が語っていることを私達の現実に当てはめて実践していくことが大切だと思います。

「だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。 」「悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマ12:18&21)

偏見や悪意に対して、愛をもって答えていく、そこに私達は招かれています。問題から目をそらしてしまうのではなく、問題に目をつむって我慢してしまうのでもなく、問題のない世界に逃げ込んでしまうのでもなく、そして、また、ただ単に被害を声高に叫ぶことに終始するのでもなく、神の愛を頂いて、出ていって神の愛を伝えていくその使命に立たせていただこうではありませんか。

<牧師室より>2021年3月号「進み寄って、並んで行きなさい」

3月11日は東日本大震災からちょうど10年の日です。3月7日にはわたしたちの日曜日の礼拝を東日本大震災のメモリアル礼拝としてささげます。この日を覚えて、大切な方、大切なものをなくされた方々、今も痛みの中に歩んでおられる方々のために慰めをお祈りします。

メモリアル礼拝に備えて当事者の方々、支援活動をされている方々からのメッセージが届き始めていますが、それに触れる時に、次の聖書の言葉が心に響いてきました。

 

「進み寄って、・・・並んで行きなさい」(使徒行伝8:29)

 

自分たちも被害を受け、多くのものを失った人々や教会が、この聖書の言葉の通りの行動をして、地域の人々のところに進み寄って、歩調を合わせて、並んで歩んでおられます。津波や原発事故で建物を失い、新しく建てられた教会堂に、地域の人々をお招きしている教会、また、出ていって復興住宅の集会所で人々と触れ合う集まりをもっておられる教会、地域のリーダーと手を携えて人々に仕えている教会、今の新型コロナウィルス感染拡大によって働きが制限されている中でもなんとかして、地域に仕える働きをされている皆さんの姿に、心揺すぶられる思いがします。わたしたちもそこに歩調を合わせて、並んで歩んでいくようにと招かれていることを感じています。

 

「10年間、このメモリアル礼拝を続けていこう」と語ってきました。今年で区切りをつけて、わたしたちの教会の東日本大震災のメモリアル礼拝はこれが最後になりますが、これからも、続けて祈っていきましょう。続けて心を向けていきましょう。

 

3月7日、メモリアル礼拝は午前10時から、Zoomを使ってオンラインでささげます。ぜひ、皆さんご参列ください。Zoomのアクセスのリンク等、ご希望の方は、pastor.jccofnj@gmail.comまでお問い合わせください。共に祈りをささげましょう。

2021年2月 <牧師室より> 「心を合わせて共に祈る」

皆さんは「祈り」に対してどんな印象を持っておられますか?就職活動での「お祈りメール」のように、あいさつ程度で実体のないものという感じでしょうか?または、「困ったときの神頼み」のような、ろくに自分の努力もしないで、祈るなんて神にすがっている哀れな人々のすることだと思われるでしょうか?

しかし、祈りは、わたしたちの届かないところにも届く神の御手を動かす力あるものなのです。

わたしたちの教会は「彼らはみな、・・・共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた。」(使徒行伝1:14)という聖書の言葉を頂いて、新しい年をスタートしました。わたしたちは「共に祈ること」「心を合わせて祈ること」そして、「ひたすら祈ること」を神さまからのチャレンジとしていただいたのです。

そんな新しい年をスタートしてまもなく、わたしたちはその「共に心を合わせて、ひたすら祈る」ということを、実際に、具体的に経験することになりました。教会に集う方のご家族が新型コロナ感染で入院されたのです。持病もなく健康な50代の男性です。でも、息苦しさを覚え、血中酸素濃度も下がって、入院したくてもなかなか入院させてもらえないこのアメリカの国で、入院となりました。なかなか病状が回復しない、いや、悪化していく中で、ほんとうにわたしたちは、共に祈ること、心を合わせて祈ること、ひたすら祈ることに導かれていきました。感染拡大防止のために昨年12月から再度完全にオンライン化した教会、でも、この共に祈る、ということは生き続けていました。そして、心を合わせて祈ること、ひたすら祈ることを、このことを通して経験させていただいたのです。聖書の言葉を分析して、学ぶこと以上に、実際の祈りの課題を頂いて、そのことについて心を合わせることがどれほどわたしたちを祈りに導くことかと思わされました。幸いなことに、その方は、その後回復し、無事退院されて、自宅療養中ですが、まだまだ完全な癒しのために、続けて祈っていくことの必要を感じます。そして、このような状況が続く中で、お互いの健康が守られ、また、心が支えられていくようにと祈らないではいられません。

祈る時に、もう一つ大きな事があります。それは、わたしたち自身が変えられていくことです。祈りは単なるお願いではありません。神さまと一緒に過ごす一時です。神さまとの会話です。心にあることを何でも神に訴え、答えを待ち望むのです。何でも相談するのです。その時に、わたしたち自身も変えられていきます。自分のなすべきことが示されます。声をかけるべき方のことが浮かんできます。

「神様助けてください」との一言の祈りが人生を変えた、という方も知っています。みなさんもぜひ、試しにでもいいですから、一言祈ってみてください。神さまは、あなたに答え、あなたの歩みを導いてくださいます。また教会では共に祈り合う時も持っています。ぜひ、ご連絡ください。自分では祈れないけれども祈ってほしい、という課題がある方もご連絡ください。(教会は祈祷料とかはいただきません、ご心配なく・・・)神さまが祈りに応えて素晴らしいことをしてくださいますように。

2021年1月 <牧師室より> 「共にささげる礼拝をめざして」

あけましておめでとうございます。2021年もどうぞよろしくおねがいします。

クリスマスを過ぎて、少しずつ日が長くなっていること、気が付かれましたか?私の住んでいるNJでは、夜が明ける時間はほぼ変わらないのですが、日が沈む時間が一番早い時に比べると10分くらい遅くなっています。冬の寒さはこれからが本番ですが、昼間の時間はどんどん長くなっていきます。確実に春はやってくるのです。パンデミックの中で新しい年を迎えることになりましたが、必ず良い方向に向かっていくのだと希望を持っていきましょう。そして、困難の中でも、わたしたちと共に歩んでくださる神を信頼していきましょう。

わたしたちの教会の礼拝は、11月の末からまたオンラインに戻りました。しかし、昨年の春は録画のYouTube配信のみでしたが、今回はZoomで共に礼拝をささげ、そして、メッセージの部分だけを録画でYouTube配信しています。

ここに、わたしたちは「なんとかして『共に』礼拝をささげたい」という思いを込めています。教会は「建物」ではなく、「人の集まり」であり、そして、礼拝は日々の歩みの中で、「個人で」ささげるものであると共に、日曜日に「集まって、共に」ささげるものだからです。YouTube配信だけだと、その向こう側で礼拝をささげている一人ひとりのことを想像して、感じることはでき、フィードバックをいただくことによって、共に礼拝をささげている事がわかるとしても、やはり、一人ひとりで礼拝をささげている感じが否めません。もちろん、それが意味がないというわけではないのですが、Zoomのような会議システムを使うと、「人の集まりとしての教会」をより感じることができるのです。

ただ、それが苦手な方もおられるでしょう。テクニカルな問題で難しさを感じておられる方々もおられるでしょう。「ビデオ会議システム」として作られているので、音質が犠牲になっているところはあります。言葉を交わそうとするとちょっとしたタイミングの悪さに難しさを感じる場面もあります。

そして、何よりも「匿名でいられることの方が助かる」という場合もあります。私もそのように感じる場面もあります。匿名で覗きに来る、という思いで教会に来られる方々を、わたしたちはいつも歓迎します。そのためにも、YouTube配信も続けていきます。また、聖書の中には、誰にも気付かれないように、後ろからイエスに触った人の話も出てきます。そして、その後ろから触った人にも、イエスから力が流れ出て、病が癒やされたことが記されています。(そして、その後、その人はイエスの前に出て、人々の前でどんな事が起こったのか、話すことができるようになりましたが・・・)ですから、どんな思いで神に近づく人も、神は喜んで迎えてくださるのです。

今年、いつまでこのような生活が続くのか、と思います。しかし、どんな状況の中でも、心からの礼拝を神にささげることができますように。

「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」詩篇50:15