牧師室より2018年12月号「サンタ来る?サンタする?」

「サンタ来る?サンタする?」

子どもの頃、うちにはサンタのおじさんは来ませんでした。

煙突がなかったから、ということもありますし、また、あまりいい子ではなかったというのもあるでしょう。でも、それだけではなくて、昭和40年代、多分、まだサンタさんが来る家が少数派だったのだと思います。両親が牧師だったので、教会ではクリスマスをお祝いするのですが、サンタさんとは無縁でした。ただ、クリスマスの諸行事が終わって、学校が冬休みに入ってから、デパートに連れて行ってもらって、好きなものを一つ買ってもらえるのが楽しみでした。7歳年下の末弟のところにはどういうわけかサンタが来るようになって、それは謎なんですが、それはちょうど、時代がそうなってきていたということもあるでしょう。でも兄たちとしては「なんだかなあ」という気持ちだったことを覚えています。

それから20年くらい経って、自分が子どもを持ったときに、「さて、どうしようか」と思いました。そして、それなりによーく考えて、こう言うことにしました。「サンタさんは、お金がなくて、お父さんやお母さんがプレゼントを買うことができないおうちの子にプレゼントをあげるんだよ。ウチはお金があって、お父さんがプレゼントを買うことができるから、サンタさんは来ないんだよ」と。まあ、なかなかいい言い方だなと思っていました。なんといったって、サンタさんのモデルになった聖ニコラオスは貧しい人たちにプレゼントをした人なのですから!
でも、この話もほどなく破綻します。息子がクリスマスの後に「え?〇〇君のところにはサンタさんが来たの?〇〇君のおうちはお金がないんだねえ!うちはリッチだからお父さんが買ってくれたよ!」と大きな声で言って回るようになるという、ちょっと考えれば「まあ、そうなるよね」という展開で・・・。

アメリカには「オペレーション・サンタ」という働きがあります(今年で106年目!)。郵便局に届いた「サンタさんへの手紙」の中から、「この子にプレゼントを贈りたい」と思ったものを選んで、プレゼントを買って、郵便局に持っていくと、それをサンタさんからのプレゼントとして配達してくれるというサービスです。プライバシーの問題もあるので、今では相手の住所や名前も知ることはできず、子どもたちがどんな風に受け取ってくれるかを知ることもできません。それはちょっと残念な感じがするのですが、子どもたちの安全を考えると大切なことですね。この時期、多く団体が同じような働きをしています。この季節、「受けるよりは与える方が、さいわいである」(使徒行伝20:35)と言われたイエスの言葉をほんの少しでも味わうことができればと思います。

みなさんにとって、良いクリスマスとなりますように!

牧師室より2018年11月号「感謝したいこと」

「感謝したいこと」

「今からお花持っていきます!」との電話から15分くらいで現れたのは近所のNさん。教会のメンバーでもある彼は、野菜もお花も上手に育てる名手です。今回も見たこともないような立派な鉢植えのカニサボテンを持ってきてくださいました。数え切れないほどのつぼみ、これからどんな花を咲かせてくれるのかが楽しみです。

サンクスギビングが近づいて、今、自分自身が一番感謝したいこと、それは何かなあ、と考えていました。そのときに、まず、思いついたのが、「洗礼を受けて喜びにあふれて歩んでおられる方々の存在」でした。信仰に導かれて、洗礼を受けた方々の存在は本当に大きな喜びです。

でも、もっと深いところで感謝していることはないかなあ、と考えてみました。もしも、それがなかったとしても、これがあるからやっぱり感謝、と思えること、それは何かあるかなあ、と。

「健康が与えられていること」「家族が仲良くしていられること」なども感謝しましたが、たとえそれさえも失っても、自分を支えているものはなんだろうか?一つ一つのことが削ぎ落とされて、そこに残るのはなんだろうか、と。

その時たどり着いたのが、

「神様をより深く知ることができていること」

「神様を近く感じることができていること」

「礼拝メッセージの中で力を与えられていること」

でした。

10月の「eお知らせ」でも書かせていただきましたが、今年の9月から「ひびみこデイリー」を毎朝発信して、その1週間の聖書の箇所から礼拝でもメッセージさせていただいている中で、本当に神様との関係がさらに豊かに、さらに深くされて、礼拝でも力をいただいて語らせていただいます。ああ、自分にとってそれがいちばんの喜びであり、力なんだなあと感じましたのです。

「洗礼を受けた方々の存在」「教会に集う人々が与えられること」などは、植物で言えば、花や実にあたるのでしょう。しかし、立派な花や実をつけさせるためには、しっかり根を張らせ、株を充実させなければいけません。それが日々の祈りであり、そこで語られたことを分かち合っていくことだと思うのです。見える結果を出すためには見えない部分に心を留めないといけないのですよね。

これからの歩みの中でも、もっともっと神様を知っていくことができますように。そして、豊かな実を結ばせていただくことができますように。

牧師室より2018年9-10月号「神の愛に満たされて」

「ああ、大変だ、もうアガペがない!」
「アガペを探しに行かなければ!」

今年のJOYJOYキャンプでは、「アガペ」をエネルギーに動くタイムマシンを舞台にしました。「アカペ」とは「神の愛」を表す「アガペー」というギリシャ語から名前を取りました。神様が私たちを愛してくださったその愛をエネルギーにして生きている、その私たちの思いを子どもたちに伝えたいと思ったのです。

また、その前、7月末から8月の初めまで、南カルフォルニアでのリトリートの講師のご奉仕に行って参りました。そのリトリートでいただいたテーマはずばり「生きる」。生きるためのエネルギーの源は、神の愛であることを思わされていました。

私たちは「オギャー」と生まれた時から、愛されなければ生きていけない存在です。親に愛され、周りの人に愛されて、それで生きていけます。それが生きるためのエネルギーになります。でも、成長していく中で、その人からのエネルギーが足りなくなる時があります。自分の中のエネルギーが枯れてしまって、誰か他の人にそれを期待するときに、期待を裏切られてがっかりするときもあります。そんなとき、他のところからの愛をもらう必要があるのです。

「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」第一ヨハネ3:16

イエスは私たちのために十字架の上で命を与えてくださいました。そこに、私たちが生きるためのエネルギーの源があります。そして、その愛をいただいて、私たちも周りの人々を愛することができるようになるのです。神の愛を求めていきましょう。