「この度、ニュージャージー日本語キリスト教会に…」

この度、ニュージャージー日本語キリスト教会に転入会しました。NJに1年前に引越して来た際、通える教会があるなら行ってみよう、と思い、インターネットで調べたら、家から遠くない所に日本人教会があることを知りました。洗礼を受けて9年、母教会のある日本を離れて8年経って、今この教会に出会えたのは、神様が導いて下さったのだと確信しています。メンバーとして受け入れられたこと、奉仕できること、嬉しく思います。私がどうやってキリストと出会い、今日まで至ったかを証しさせて頂きます。

私は、18歳で故郷の石川県から上京し、東京女子大学へ入学しました。プロテスタント系のキリスト教大学で、そこでキリスト教と再会しました。実は幼い頃、教会付属の幼稚園に通い、神様や聖書のお話には触れていましたが、ほとんど忘れていました。キャンパスでは、キリスト教や文化に触れられるクラスや行事が多くありましたが、関心がありませんでした。それどころか、当時日本の大学生は、大学の授業は出ずに、バイトやインターンで社会勉強をするのが主流で、私も、あまり重要じゃないと思っていた聖書のクラスを丸2年間サボって、バイトに明け暮れていました。ところが、大学2年も終わる頃、キャンパスの掲示板であるポスターを見て価値観が変わりました。

「NGOスタディーツアー バングラデシュに寺子屋を贈ろう」と書かれポスターでした。国際ボランティアのようなものだろう、と思い、興味があったので参加することにしました。そのツアーの準備会で、主催者のアジア基督教教育基金(ACEFエイセフ)の事務局長がおっしゃったことで、私はただのボランティア活動ではないことを知りました。「私たちの目的は、【援助】や【与える】ことでなく、共に祈り、働くことによって、初等教育の普及に【協力】することです」。

協力するために祈るとはどういう意味か、よくわからないまま出発しました。バングラ滞在中、色んなことが初めてで新鮮でしたが、「共に祈る」のも初めての経験でした。毎日共に祈る時間があり、意外と心地よいものでした。目を閉じて、時には手をつないで、祈りたい人から順番に祈る。どれも感謝に溢れていて、また謙虚でした。今日1日無事に過ごせるよう、現地の人達との交わりがスムーズにできるよう、今日の働きに皆が感謝を持って取り組めるよう、というように、祈りって具体的だな、と思いました。また、祈りとは、神様にお願いばかりするものではなく、全てに感謝を示すこと、また全ての心配やわざわいを神に委ねることだ、とも知りました。振り返ると、電気も電話もなく、文化の全く異なったアジアの田舎で真に学ぶことは、祈りなしではできなかったと思います。

ツアーの後もエイセフの活動に積極的に参加し、また大学にあるキリスト教センターの常連になり、そこで初めてクリスチャンの大学生たちと出会いました。その頃、信仰を持つってどういうことだろう、と考え始めました。聖書を開いても難しそうで、イエスが私たちの罪のために死なれた、ということもピンときませんでした。それでは納得がいくまで調べようと思い、聖書や他の宗教についても分からないところを聞いて調査しました。そこで、旧約聖書と新約聖書の違い、ユダヤ教とイスラム教も聖書と繋がっていること、聖書に記されている預言が実際に起こったこと、など、驚くこと発見がたくさんありました。そして、もっと知るために日曜日の礼拝にも行ってみようと思いました。不思議と自然にそう導かれました。

バングラデシュと出会って9ヶ月経った1998年12月、私は、エイセフの友人が通っている国際基督教大学教会を、初めて訪れました。その日は、たまたまアドヴェント第1日曜日で、礼拝後、青年会の学生とリーダーのポール副牧師らに、夕方からキャロリングがあるからどう?と誘われ、キャンパス内を一緒に歌いました。この教会は大学内にあるので学生が多く、青年会にはキリスト教に興味のあるノンクリスチャンの学生も何人かいました。クリスチャンとノンクリスチャンが分かち合う話はとても刺激的で、ここで私の抱える疑問を解決できるかな、と期待し通い始めました。この頃、青年会の仲間を通して、初めて哲学の書物に出会い、様々な思想を知るのにとても役立ちました。

大学卒業後、1年間カナダに留学し、そこで見つけた小さな日本人教会に通いました。マタイにある、「求めなさい。そうすれば与えられる」を心に留めて、あなたが真理ならば私にも教えてください、と祈り続けました。そして、日本に帰国する直前、青年会の友人が私にこういったのです。「神様はいつでもようこの心の門を叩いておられるよ。でも、その門を開けるかどうかを決めるのはようこなんだよ」その時、ふっとこれまで問い続けてきた疑問や疑いがあまり気にならなくなりました。

イエス様、あなたを受け入れます、それだけでいいのだ、と分かりました。カナダでの教会最後の日曜日、私は特別賛美で、Change My Heart, O Godを賛美しました。You are the potter, I am the clay, so mold me and make me, this is what I prayと歌いながら祈りました。そして、その春の2001年ペンテコステの日に、国際基督教大学教会で、洗礼を受けました。

その1年後からは、仕事と勉学のためにアメリカで暮らし始め、移動も多かったので、教会探しをしませんでした。徐々に神様から遠く離れていきました。大学院を卒業した2006年の秋、念願の教員免許が取れて、公立高校で働き始めて1週間後、妊娠していることが分かりました。信仰を持っているならば、神様からの授かり物と喜ぶはずなのに、私は違いました。大変な過ちを犯してしまった、と思いました。その時、未婚で、結婚する予定もなかったからです。母教会に祈ってもらいましたが、私は素直に祈れませんでした。私達2人は大人げない態度で、産むか産まないか、結婚するかしないか、いや、結婚は絶対にしたくない、と言い争う日々が続きました。一度にいろんな決断をしなければならなかった、プライドも邪魔し、お互いに譲れないことがたくさんありました。

そして家族に状況を伝えたとき、どんなに叱られるだろうと思いました。ところが誰も叱りませんでした。それどころか、私の両親はノンクリスチャンで、彼の方はクリスチャンでしたが、皆私たちを喜んで受け入れてくれました。数ヶ月後、私は現在の夫と結婚しました。決して喜びに満たされたものではありませんでしたが、息子の真(まこと)が産まれる頃までには、私たち家族が出会えてよかった、思えるようになりました。人生最大の苦難でしたが、神様は、この失敗を、何と幸いに変えてくださった、信仰の小さかった私、これからはすべてを神に委ねよう、と悔い改めました。

その数年後、次は夫が突然失業しました。この時も家族、友人、教会が毎日祈ってくれ、どんどん転職への道が開かれ、このNJにたどり着きました。私は、妊娠・結婚・失業を経験して、私たちが自分で解決しようにもできない問題は無数にあるけれど、神様にその全ての重荷を委ねてよいこと、しかも最善の道を用意してくださる、というのはすばらしいめぐみだ、と心からそう思い、それは感謝のほかありません。

終わりに、私の信仰生活はこのように弱いものでしたが、これからは、知識だけでなく、主に信頼し、御言葉を実行できる者として、歩んでいきたいと願っています。

アーメン。

月報2010年8月号より

松岡広和牧師のメッセージ

今回は6月13日の礼拝でメッセージをしてくださった元僧侶の牧師・松岡広和先生が、どのようにご自分がクリスチャンになったか、お話しくださった内容を、許可をいただき、ここに掲載いたします。先生は仏教についてとても深い知識をお持ちですが、その話をする時よりも、この「証し」をされる時の方が何倍も輝いた顔でお話をされるのが印象深く残っています。

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」  コリント第2の手紙 5章17節
私は以前、僧侶でした。2歳上の兄がすでにお寺を継いでいましたので、私はお寺を継ぐ必要はなかったのですが、自分は何のために生きているのか、真理とは何かを知りたいと思い、自ら望んで僧侶の道に入りました。仏教系大学に入学し、仏教を学びました。多くの厳しい修業も試みました。しかし仏教について学べば学ぶほど、いろいろな疑問や矛盾を感じ、かえって迷うようになりました。
さらに大学院に進んで仏教を研究していましたが、その大学院に韓国から留学しに来ていた僧侶と親しくなったことがきっかけで、私は、韓国語、そして韓国という国に興味を持つようになり、韓国語教室に通い、2ヶ月に一回くらいのペースで韓国を旅行するほどになりました。私の通っていた大学が、韓国のソウルにある仏教系の大学と姉妹関係を結んでいて、交換留学生の制度がありましたので、指導教授の薦めもあって、1989年、私も交換留学生として、韓国のソウルに留学することになりました。通常、留学生生活というと、経済的に苦しいものかと思いますが、当時の私はすでに僧侶として働いていたので結構貯金があり、また円が高かったので、経済的にはかなり余裕がありました。そしてそれまでは実家で親と暮らしていましたが、初めての一人暮らしと言うことで、自由を感じました。さらにそれまで韓国に住みたいと思っていたので、夢がかなったという思いがありました。この世の喜びをすべて手にしたかのような感じでした。しかし、しばらくして体験したことは、いくらお金があっても、いくら自由があっても、いくら夢がかなっても、そういうことで人間は幸せにはなれない、ということでした。特に不愉快なことがあったわけではないのですが、自分はなぜ生きているのかという疑問が解決されていなかったので、日本にいても、韓国へ行っても、心の空しさは同じだということに気が付き始めました。
その年の暮れのことでした。ソウルで知り合った同じ日本人留学生から、友だちが通う教会のクリスマス会に一緒に行こうと誘われました。僧侶だった自分は、教会とは初めから関係がないと決めつけてはいましたが、韓国に来た一つの経験として、教会に行ってみてもいいのではないかと思い、ある小さな教会に顔を出してみました。
ところがそれがきっかけで、日曜日の礼拝や食事会に足を運び、さらにその教会の聖書の勉強会に通うことになったのです。もちろん、神様を信じようとしたのではなく、韓国語の勉強にもなるし、聖書を宗教的教養としても知ることができて、一石二鳥だと考えたのです。聖書の勉強会は、青年会の会長をされている方との一対一での学びで、創世記を読み始めました。知識を身につけるためにと思って始めたものですが、第1回目から、聖書のことばが私の胸に響いてきました。

「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。」 (創世記 1章31節)

神様はひどく喜ばれるほどに全てのものを完璧に造られた、ということが私の胸に響き、仏教とはずいぶん違うな、と思いました。ご存知のとおり、仏教では、全てのものは移ろい行くものであると教えられています。生じては壊れ、生まれては死に、「諸行無常」という見方をしていますが、聖書では「初めから全てのものはすばらしい」と言っていて、この時私は、もしかしたら私が今まで求めていた真理というのはこの聖書の中にあるのではないかと思い始めました。その後1週間に1度の聖書の勉強を続けていましたが、毎回聖書のことばが胸に響き、もしかしたら神様はいるのかも知れない、いるのであれば信じてみたい、という気持ちに変えられていきました。
聖書の学びも3ヶ月ほどすると、聖書の中心的なメッセージがわかってきました。それは、自分は神様の前で「罪人」であり、その罪のために、イエス・キリストが十字架にかかられた、ということです。だから、悔い改めて、イエス・キリストを信じるなら、救われるというのです。
しかし、このようなメッセージは、知識として頭の中では理解できていながら、いくら考えても、自分が罪人であることがわかりませんでした。ですから、イエス・キリストが私の罪のために十字架にかかられたと何度も聞いても、どうしても納得できませんでした。自分が罪人であることがわからなければ悔い改めることはできない、悔い改めることができなければ救われない、と思い、自分は信じられない、救われない、聖書の勉強もやめようと思うようになりました。
そんな中で、学んだことの感想文を青年会の礼拝の中で読む順番が回ってきました。悔い改めについての学びの感想文でした。追い詰められて、全然実感はないけれど、もし自分が悔い改めたとしたら何と言うかをとにかく言葉にして書いてみました。「神様、私は罪人です。どうぞお赦しください。」と書きました。すると、不思議なことに実感がないながらも次の言葉も浮かんできました。「私はあなたに造られておきながら、あなたを無視してきました。どうぞ赦してください。」さらに続きます。「赦されるような私ではありませんが、どうぞ赦してください。」「私はあなたの顔につばを吐きかけたものです。」そのような調子でとうとう悔い改めの言葉が1枚の紙を埋めてしまいました。その原稿を教会に持って行き、とにかく読み上げて、自分の順番を終わらせようと思いました。青年会の礼拝でこの原稿を読み始めました。学んだ内容の要約を読み終わり、悔い改めの言葉「神様、私は罪人です。どうぞお赦しください。」を読み始めたところ、突然、涙があふれてきて、私は泣き始めてしまいました。自分でもビックリしました。そして、大きな声で泣きながら続けて悔い改めの言葉を最後まで7読みました。
その瞬間、私の内面がすべて変えられました。神様はいらっしゃるという信仰と、聖書は神様のみことばであるという強い確信が与えられました。それからは救われた喜びに満ちあふれた毎日が続きました。神様がいらっしゃると言う確信は、自分の頭で考えて達した結論ではありませんでした。イエス様を信じて悔い改めた瞬間に、その確信は私の心に満ちていました。たとえ全世界の人が神様などいないと言ったとしても、自分一人になったとしても、それでも神様はいらっしゃると言うことができる程の強い確信でした。それと同時に、自分は死んだら天国に行くことができる、その天国も作り話ではなく実在するもので、間違いなくその天国に行くことができる、という確信も与えられました。この確信により、人間が必ず遭遇しなければならない死に対して恐怖はなくなりました。むしろ喜びに変わりました。死んだら、言葉で表現できないほどすばらしい天国が私を待っている、と思うとうれしくなりました。
この喜びが抑えきれず、周りの人に伝えずにはいられませんでした。学校の友達、先生と会う人毎に、「私は救われました。うれしいんです。神様はいらっしゃるんです。」と言いました。周りの人には、表情も変わったと言われました。それまで部屋にいる間はいつも韓国の歌謡曲を聞いていましたが、そのような音楽にも興味がなくなり、部屋で聴く音楽も讃美歌に変わりました。
こうして私がクリスチャンになった時、やはり多くの反対・迫害がありました。しかし、まわりからどんなに反対されても、どんなことを言われても、本当の真理を知ったという確信はびくともしませんでした。聖書の中にも迫害に関する記事・みことばがいくつかあります。「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(第2テモテ 3章12節) そのようなみことばを読むたびに、自分が反対・迫害に遭っているのは、聖書のみことばどおりに生きている証拠だという確信がさらに与えられ、反対・迫害があるたびに喜びがあふれるようになりました。これは人間の力ではなく、聖霊の働きだと思います。反対・迫害に負けまいとしてがんばったのではなく、負けることができないという体験をしました。

そして、仏教大学も中退して、僧侶としての道も捨てました。留学を終えて、1991年春に日本に帰ってからも、神様は何もかも捨てた私を、「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ 6章33節)のみことばどおり、日本での就職、教会、住居、結婚、母との関係の和解と、すべての面で守り導いてくださいました。

その後しばらくサラリーマン生活を続けていましたが、「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイ4章19節)という聖書のことばが心に響き、神様が私を呼んでいらっしゃると思い、神学校で学ぶことになり、神様は私を牧師の道へと導いてくださいました。
神様はすべての人が救われ、天国に行けるようになることを願っておられるのです。ですから私のように、僧侶として最もイエス・キリストから離れている人間ですらも救ってくださったのです。僧侶を辞めてから救われたのはなく、そのままの姿で神様は私を救ってくださったように、多くの方が、そのままの姿でイエス様の前に進み出て救いの恵みに与れるよう願います。

アーメン。

月報2010年7月号より

「私にとり親子関係、親にまつわる問題は…」

私にとり親子関係、親にまつわる問題は長い間にわたり大きな重荷でした。色々な親子の関係、つながりがあると思います。良い関係はとても羨ましいばかりです。例えば、いつも喧嘩ばかりしているが、仲が良い親子、何でも相談できる親子、両親が子供から尊敬されている、偉いと思われている関係、一緒に遊べる親子、この様な親子関係は良いものです。一方、悪い親子関係となると、例えば、親父が偉い人・立派な人で、子供としては対抗意識や劣等感をもってしまうような関係、 母親の躾が厳しく、子供が反発してしまう関係、両親の子供への期待値が高く、子供は押しつぶされてしまう関係、親は時間・努力を使わず、子供の気持ちをお金で紛らせようとする関係、一方的な溺愛の関係、夫婦仲が悪く、子供も巻き込んでしまう状況・環境、アビュース(虐待)状態の親、子供が親を軽視・軽蔑している関係など、これも色々あります。又、一方的に良い関係ばかりでなく、良い関係と悪い関係が混ざっている親子、或いは、ある時期は良いが、何かの契機で悪くなるようなこともあるでしょう。

夫婦でも親子でも友達でも、片方に良い又は悪い思いがあるが、他方の思いは全く別の場合もあることでしょう。私の場合も、父親・母親の視点から見た私たちの親子関係をどうであったか解かりません。ここでは一方的に、私からの思いとなりますが、そこには良い関係の記憶は思い出せません。幼い頃の自分の親子関係は記憶していませんが、思春期から青年期へ向けては、私の知識と自我の発達とともに、私には、例えば、親には全く相談しない、親は全く頼りにしない、自分で何でも決めるという傾向や態度がありました。これは、今思えば、自分が一方的に両親を軽視・軽蔑している事の裏返しの行動だったのでしょう。大学生になってからは、「親から離れたい」「関わりたくない」と言う気持ちが非常に強くなりました。

何故そうなったか、何が嫌であったか、何が私の気に入らなかったのでしょうか。両親の視点から見ると、色々の、それなりの理由、背景等があったのでしょうが、その頃の私の視点で見ると、 例えば、親が真っ当な職に就かない、賭けマージャンばかりしている、酔っ払って、道路で寝てしまう、愛人に子供を作る、計画性がまったく無く、人に振舞ったり、無駄遣いしたりなどしているの親の姿が記憶に浮かび、それらの一つ一つが嫌で、気に入らなかった記憶が有ります。

その両親と和解する為に、私には、長い時間と神様の助けが必要でした。

父親との関係では、両親が離婚した40年ほど前にさかのぼります。その後父親とは20年ほどは全く連絡を取らずにいました。その初めの20年程の間、私には、一言で言えば、強い「赦さない」という思いだけがありました。今から20年程前に、ある契機があり、父親とその新しい家族に会い、少しずつ心の棘が取れていったのが次の20年でした。丁度その20年くらい前に私たち家族は、 転勤でサンフランシスコからニュージャージーへ引越しました。 ニュージャージーの知人の紹介で1988年にJCCNJへ導かれ、1991年に受洗しました。その頃の私には、親子関係が大きな重荷・傷であり、ニュージャージーへ、そしてJCCNJへ導かれたのは、ひとえに神様の働き、計画であっと思えます。今振り返りますと、この20年は、執念深い、肉の思いが強い私が少しずつ変えられていった20年でした。「許せない」から「80過ぎても毎朝早くから水泳で頑張っているな」「家族を大切にしているな」「きっと姉と私に対しても、メ悪かったなモと思っているのだろう」などと思えるまでには、長い年月が必要でしたが、これも神様の計画、時間であったと思います。

母親に対する思いは、「赦さない」という感情ではなく、「どうしょうもない・関わらないように」という感覚です。母親は、計画性が無く、いつも行き当たりバッタリ、直ぐに人を頼り、信用してだまされる、その日暮しで、人に良い顔ばかりして自分と家族が守れないような人と、私は見ていました。一方の私は、計画することが大好き、ケチんぼで、人は信用せず、執念深く、人に冷たく・厳しく、自分と家族には、甘く・優しくというタイプです。この様な乖離した性格・性質ですと、 一緒に暮らしていると、如何しても私には我慢出来ないことばかりが目立ってしまいます。ですから、出来る限り早く母親から離れたいと思っていました。その様な母親に対する思いを、「まあ良いじゃないか」「88歳にしては結構がんばっているな」「ありがとう」「楽しい時を一緒に過ごせず残念だな」の様に変えてくれたのも、神様の働き、力です。

この様に両親に対するネガティブな感情・思いが、「許容」「受け入れる」「感謝」の様なポジティブな思いに変わって行くには長い年月が必要でした。今振り返ると、それも、全てが神様の御計画の一部と思われ、感謝しています。残念と思えることは、効率主義、怠け者の私が振り返ると、もっと早く自分が変わっていれば、自分も随分メ楽だったろうなモと感じるところです。この20年程のクリスチャンとしての歩みも、次の御言葉に子供の様に、素直に従えることはなかなか出来ず、その歩みは、小さな一歩の積み重ねであったと思います。

(聖書箇所)
l マタイ7章1~5節: <リビング・バイブル>
人のあら捜しはいけません。自分もそうされないためです。なぜなら、あなたがたが接するのと同じ態度で、相手も接してくるからです。自分の目に材木を入れたままで、どうして人の目にある、 おがくずほどの小さなごみを気にするのですか。材木が目をふさいで、自分がよく見えないというのに、どうして、「目にごみが入っているよ。取ってあげよう」などと言うのですか。偽善者よ。 まず自分の目から材木を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、人を助けることができます。
l ルカ7章36~38節: <リビング・バイブル>
天の父と同じように、あわれみ深い者になりなさい。人のあら捜しをしたり、悪口を言ったりしてはいけません。自分もそうされないためです。人には広い心で接しなさい。そうすれば、彼らも同じようにしてくれるでしょう。与えなさい。そうすれば与えられます。彼らは、ますに押し込んだり、揺すり入れたりしてたっぷり量り、あふれるばかりに返してくれます。自分が量るそのはかりで、自分も量り返されるのです。

最後に、もし赦せないという思いを持たれている方がいらしゃるならば、早く、神様に降参して、 神様の真理に従うことをお勧めします。赦すことにより、赦されることを実感して欲しいと思います。

アーメン。

月報2010年6月号より

「私は、物心が付いてから、…」

去る4月25日にJCCNJの清水桃子姉のお母様である清水晴美姉が函館シオン教会で洗礼を受けられました。今月は、函館シオン教会の増井牧師の了解を得て、清水姉が洗礼式でお証された文章に少し手を入れて、ここに掲載させていただきます。ちょうど、日本に一時帰国されて、函館の教会で礼拝を守られた桃子姉も、お母様の洗礼式に立ちあうことができました。神様が特別に道を開いてくださったことに感謝します。ハレルヤ!

1.私は、物心が付いてから、孤独でさ迷っていました。それはきっと、両親の不仲、毎日のように起こるトラブル・・・愛を感じられない生活の中できっといつも愛を求めていたからだと思います。そして、思春期に両親の離婚、置き去りにされた悲しみから、言葉で説明できない寂しさや苦しみをいつも持っていましたが、考えると辛かったので、生きていく手段として、それを封印していました。

2.そんな私も結婚し、二女一男に恵まれて人並みに生きてきたと思っていましたが・・・三年くらい前に夫婦関係の中でどうにもならない苦しみに出会いました。どうやって生きていけばいいんだろうと一日一日をやっと過ごしていましたが、そうしているうちにNYから一時帰国していた長女が、苦しんでいる私を見てとても心配し、このシオン教会を訪ね、「私のお母さんを助けてください」とお願いしてくれました。
しばらくして、教会の方から、「集まりにいらっしゃいませんか?」というお手紙を頂きました。そのお手紙は、会った事も無い私に対する溢れるばかりの温かい言葉で綴られていました。あまりにも嬉しくて、心に沁みて、涙で文字が滲んで見えなくなるくらいでした。お手紙を頂いた直後に長女の牧師先生がNJから日本に来られ、足を伸ばしてわざわざ私に会いに来てくださいました。2,3時間くらいの会話の中で「心の中にイエス様の泉を持ちなさい」というお話がとても印象に残りました。そして「心の泉」という言葉を胸に抱え、招かれたミニチャーチに参加しました。
何回か参加した後にそのミニチャーチが「泉」だということを知り、大変驚きました。それにそこのお宅はお名前が、イエス様が「泉」の話をされた井戸端に関わるお名前だったのです。何ということでしょう!!神さまの素敵なユーモアで作られた、まるでシナリオのような導きを感じました。
それからも月に1,2度参加し、パンパンに膨れ上がった心の内をメンバーの方々に聞いて頂いたり、祈って頂いたりしているうちに、少しずつ自分も変化していきました。そして少し楽になった心の隙間に神さまが入ってくださいました。
クリスチャンである長女とその牧師先生と「泉」の方々を通して神さまを知ることが出来て、本当に良かったと思います。

3.それからいつも、問題が起きたときには、心のお母さんである姉妹にお話をしたり、神様のお考えはどうだろうか・・・と問いかけたり、祈ったりしています。
また時には、長女の牧師先生にお話をして、御言葉を教えて頂いたりしています。すると神さまが、私に知恵を与えてくださり、祈りを聞いてくださいしました。
何故か、夫も少しずつ変わっていったのです。。人格や存在も否定され続けてきた私も以前のように心が動揺することも少なくなりました。他の人に対しても、その人の苦しみを、その立場になって考えられるようになり、私に出来ることがあれば、自然に協力できるようになりました。

本当に日々祈れることを感謝いたします。そして、今、牧師先生の方々、「泉」のリーダーとメンバーの方々、教会員のみなさま、そして長女の立会いのもとで洗礼を受けられる神さまの素晴らしいご配慮に感謝いたします。

アーメン。

月報2010年5月号より

「Blessed Assurance」

母が日本で洗礼を受け、家族で教会へ導かれ、中学2年のクリスマスに父、双子の妹と共にこの教会で正木牧師より洗礼を授かりました。
洗礼を受けた次の夏、日本へ本帰国となり、千葉の松戸へ引っ越しました。反抗期だったのか、家族とけんかするたびに{イエス様は・・・}と促されるのをうざいと思うようになり、日曜日は昼過ぎまで寝て、いつのまにか教会へ行かなくなりました。でも、両親がまた海外転勤となり、一家で暮らしていたアパートでひとり暮らしを始めたとき、寂しさを感じて、教会に戻りました。
放蕩息子は父の元を離れて遊びに明け暮れた後、無一文になり、父親のもとへ戻りました。が、私の歩みは一回離れて戻るに限らず、洗礼を受けたときから5年前まで行ったり来たりでした。それは都合よく、自分勝手に離れたり戻ったりの繰り返しでした。今考えてみれば、サタンの働きだったのでしょうか。洗礼のときにまかれた信仰の種は地面にしっかりと根を張ることができなく、鳥につっつかれたりされていたんですね。
クリスチャンカレッジへ進学して、最初は必須のキリスト教教義やチャペルにも積極的に参加していました。でも、授業やバイブルスタディで信仰を問われたとき、または聖書の話をするときは優等生かのように期待されている答えを口にしていました。週末になれば、大学の近くのクラブやバーへ出かけ、朝早くまで遊んで、その足で教会へ行ったりもしていました。物事がうまくいっていると、自分で何でも出来ると信じるようになっていました。大学3年生の春、ワシントンDCに引っ越して、インターンシップしながら、全米のクリスチャンカレッジから集まった学生ら40名と過ごす機会が与えられました。その一学期の終わりにプログラムの友達らとお祝いに飲みに出掛けました。しかし、そのことがプログラムにばれて、学期終了2週間前にして、停学の危機に陥りました。責任とは、自分の行動の結果を受け入れること。そのときは本当に砕かれ、プログラムの教授、クラスメートの前に罪を告白し、赦されて、プログラムを終了できました。このときのような逆境に遭うと、必死に主を求めていました。でも、それもいずれか冷めていたような気がします。
このパターンは大学を卒業して、大学院のためにニューヨークへ戻ったときも一緒でした。どころか、ニューヨークへ戻ってからは、教会にも全く行かず、以前よりもさらに神様が喜ばれない生活を送るようになりました。子供たちに罪の話をするときに「心がちくっと痛むこと」とか話したりしますね。チクチクする感覚がいつのまにか感じられなくなるんですね。心が麻痺していました。でも、そんな生活はいつまでも続きませんでした。大学院を始めたのは2002年で、それからの2年間、自分で頑張ればどうにかなる、自分さえ頑張ればと自分に言い続け、神様には喜ばれない生活を続けていました。さらに、大学院生助手になり、授業料タダになり、心配されていた就労ビザも就職も、とんとん拍子で決まり、頑張れば自分でなんでもできると思うようにもなりました。でも、疲れが出てきます。体にも心にもよいはずがありません。満たされない思いで、なにか寂しく思うと、いつのまにか賛美歌を口にすることも何度もありました。けど、そのときの私には、教会へ行くことはできませんでした。教会は罪人のためにあるといいますが、自分のしたことを考えると恥ずかしくて、足が進みませんでした。偽善者を装うのもできないほど心が疲れていました。
2004年10月にワシントンDCへ遊びに行きました。日曜日、友達の教会のWashington Community Fellowshipへ行ったところ、ユースの牧師先生のPastor Faithのメッセージは神様はあなたに変化を起こしたい、変えたい、Bring Changes into Your life.とお話していて、もしあなたが主に変えられたいのであれば、そのChangesのひとつひとつのステップに主は確信を持って、あなたを支えてくださるというメッセージでした。このChangeは今までになく難しいとも忠告していました。でも、第一コリント10章13節を引用し、約束しました。神様は真実な方で、私を待っていることを。
「あなたがた会った試練はみな人の知れないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることの出来ないような試練にあわせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」 (第1コリント10:13)
その間自分のしらないところで、家族は祈っていました。大学時代からの友達何名かも私のために祈ってくれていました。私も祈りました。
そして、2004年12月にやっとブルックリンへ引越し、今までの生活を見直す機会が与えられました。今までの生活は自分が頑張ればという生活、物事がうまくいっていると、何でも出来る、自分中心でした。でも、見直していく中、私には神様が必要、いや、神様なしで生活するのは出来ないと思うようになりました。でも、教会には素直にいけませんでした。周りにどう思われるか、と人の目を気にしていました。神さまが自分を受け入れてくれるか、私は清くない、罪人。私のことをよいクリスチャンと思っていただろう教会の兄弟姉妹に顔が合わせられない。教会に行くことは主を賛美し、礼拝することなのに、自分のことで頭がいっぱいで、躊躇していました。
でも、不思議に同じDCの友達の実家でクリスマスを過ごした後の日曜日、小雪が降る中、JCCNJへ向かいました。ルート78からルート80と知らないはずの道を車は自然に教会へ向かったように思えます。この放蕩娘を両手を広げて迎えてくださったのは、他ならず、主イエスでした。
第2コリント5章17節に「古いものは過ぎ去り新しいものが生じた」とありますが、私にもそのような変化があったのです。。それは、自分だけではどうにもできない。主はぶどうの木にたとえて、「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからです。(ヨハネ15章5節)」とおっしゃいました。実がなるにはイエス様につながっていないければいけない、ということを確信しました。 そして、心から私にとって欠けることができない神様の存在を確信しました。
あれから、5年も経ち、みなさんの祈りに支えられ、アンディと結婚し、昨年にははな(Hanna)を授かりました。今までのような信仰の上下はないものの、忙しさの中で自分だけで頑張りすぎていることを発見するたびに本当に学んでいない自分に落ち込むばかりです。今後も課題ばかりの信仰生活ではありますが、主に大いに期待し、自然に自分を主にゆだねてついていけるようにと祈るばかりです。

月報2010年4月号より

「神様の時」

父の体調がおもわしくないと母からの電話があったのは、昨年12月の20日くらいだったと思います。その前から食欲がかなり落ちていたという事でした。その後いくつかの検査を行ったようですが、はっきりとした原因がわからず、その間にも通院して点滴を受けていました。最終的に細胞を取って検査をし、母からその結果を聞いたのは1月21日(木) の夜でした。母はまず「驚かないでね。」と落ち着いた声で言い、病名が胃癌であったと報告してくれました。既に癌の末期であり、手術も抗癌剤治療も受けられない状態でした。父は即入院をし、自分の病気のことも知っていました。いずれは親の死に直面するであろう、と漠然とは思っていたものの、こんなに突然そのような日がやってくるとは夢にも思っていませんでした。その知らせを聞き、大きな衝撃はありましたが、心の中には不思議と平安がありました。もちろん、全てを支配しておられ、不可能なことを可能にする事ができるお方に、「父の病を癒して下さい。父の癒しを通して神様の栄光をあらわして下さい。」という祈りもささげましたが、それ以上に、「このことが神様のご計画であるならば、神様の御心が行われますように。私自身が神様に全てをお委ねすることができますように。」と祈っていました。

子供達のことや仕事のことがあった為、最初は2月の半ばに日本へ戻る計画を立てましたが、23日(土)の朝に再び母と話した時には「それでは遅いかもしれない。すぐにでも帰らなければ後悔するかもしれない。」という思いが押し迫ってきました。また、主人にも「後のことはどうにでもなる。他の事は心配しなくてもいいから。」と励まされ、二週間の予定で帰国する決心をしました。そして、24日(日)の朝、一
人で日本へ向かいました。飛行機のチケットを直ぐに取ることができた事も、半日で出発の準備ができた事も、仕事の引継ぎができた事も神様の導きを感じました。飛行機の中では、「私の心の中の思いをちゃんと父に伝えることができるように。」と祈り続けました。そして「できることならば、もう一度2人の孫達に会えるように、それまで父の命を守って下さい。」とも祈りました。それは、「どうしてもっと頻繁に日本へ帰って、孫達に会わせてあげなかったのだろう?」という、どうしようもない後悔の思いが湧き上がってきたからです。

25日(月)、成田から仙台へ直行し、自宅近くにある父の入院する病院に着いたのは夜の7時頃でした。それから父が天に召されるまでの約5日間を共に過ごすことができたのは、神様が私達へくださったプレゼントだったと思います。それは、日本を離れていた約22年間のブランクを取り戻すかのようでした。

父はアメリカを訪れたことが2回あります。1回目は私の結婚式の時で、2回目は約2年半前の我が家の引越しの時に一人で手伝いに来てくれました。もともと整理整頓が得意で几帳面、手先が器用な父でしたので、荷物を丁寧に箱に詰めてくれたり、掃除をしてくれたり、また引越し後は箱から荷物を出して片付けてくれたりと、大助かりでした。その他にも、時間の空いた隙に庭の雑草をきれいにむしってくれたり、土を掘り起して花の種をまいてくれたり、庭に石を敷いてくれたりと、2週間の滞在中ずっと働き通しでした。せっかく来てくれたのだから、せめて1日か2日どこかへ遊びに行こうと提案しても、「今回は引越しの手伝いに来たんだから時間がもったいない。また今度ゆっくり遊びに来るから。」と言って、結局その2週間の滞在は、最初から最後まで引越し三昧でした。日本へ帰ってからも、庭や一緒に買った植物が気になったようで、しょっちゅう電話で、「ちゃんと雑草取ってる?水をやってる?」と聞かれました。父が種をまいてくれた花は、季節になると、きれいに咲いています。そして、これからも咲き続けることでしょう。

そのアメリカ滞在中のある日、父と私が2人きりになる時間がありました。父は、いきなり私の前に正座をし、「本当に申し訳ない事をした。どんなにか傷つけてしまった事か。どうか赦してほしい。」と頭を下げて謝ってきました。それは父が、まだ幼い私と母の前から当然姿を消し、ある女性と行方不明になったことについてでした。そして父は「本当にバカな父親だったよなぁ。」と、何度も何度も繰り返し言っていました。あまりにも突然の事で、私は何と反応していいのかわからず、「まだ小さかったし、よく覚えてないよ。」と誤魔化してしまいました。父は「そんなことないでしょ。」と言いましたが、その時の私は、父と向き合う事から逃げてしまったのです。

そのことが昨年の10月頃、教会のある学びの中で示されました。知らず知らずのうちに父に対して何となく冷めた思いを持っている自分、心の底から父を赦していない自分、幼い頃に受けた傷がまだ癒されていない自分。人を赦すことをしなければ、本当に癒されることはできないのではないかと思いました。そして、このまま父を赦すことをしないならば、また赦していると伝える前に父が召されるようなことがあれば、どんなに後悔しても後悔しきれないだろうと思いました。そのことを同じグループの数人に分かち合い、祈ってもらいました。ですから、父の病気を知った時には、「こんなに直ぐに、こういった形で私の祈りが聞かれるなんて。神様は本当に不思議なことをされるお方だなぁ。」と思いました。でも、このようなことがなければ、人間はきちんと向き合うことなんて出来ないのかもしれません。しかし、その時にふと、「もしかしたら、あの時には既に父の体に異変が起きていて、神様が私にあのような思いを与えてくださったのでは?」とも思いました。

私が病院に着いた月曜日、父は個室に移されていました。母から電話で聞いてはいましたが、すっかり痩せ細り、体に何本もの管を付け、酸素吸入マスクをしている父の姿を目にした時には、「こんなにも悪いのか、、、」と、一瞬動揺してしまったのではないかと思います。私を見た父は驚いた顔をし、泣いていました。お見舞いに来て下さっていた方々も居られたのですが、すぐに父と2人きりになる時間が与えられました。いつどうなるかわからない様子の父を前にして、「あの事を今すぐにでも言わなければ。」という思いにかられ、勇気を出して話を切り出しましたが、その途端、父は涙を流して頷きました。言葉を選びながら話しているうちに、「自分も罪人の一人にすぎないのに、メ赦すモなど、なんて傲慢なのか?本当に人を赦すことができるのは、神様・イエス様以外の誰でもないのに。」という思いが沸いてきて、途中から何をどう言っていいのかわからなくなりました。しかし父は、私の言いたいことを理解してくれたようで、何度も頷いて聞いてくれました。そして、私が「あの事があったから、イエス様に出会うことができたんでしょ?ママにも感謝しなくちゃね。」と言うと、また大きく頷きました。

その後担当の先生から今までの経過と現在の状況を詳しく伺い、父がいつ危険な状態になってもおかしくないということも聞いたので、早速その晩から病室に泊まって父に付き添うことにしました。病院の先生方、特に看護師さん達は皆さん親切で優しく、誠意を込めてお世話して下さり、本当に感謝の気持ちで一杯でした。父も事ある毎に、看護師さんに「ありがとう。」と言い、また何度も何度も「感謝だなぁ。」と口にしていました。「信仰のすばらしさと難しさを味わっています。この時にも主に感謝。出会いのすべてに感謝。瓶いっぱいの感謝捧げます。妻に感謝。」入院中、父が自分で書いた最後の言葉です。聖書にある『わたしの恵みはあなたに対して十分である。』(第二コリント12章9節)という言葉も何度となく繰り返していました。

父と過ごした最後の夜、父はかなり呼吸が苦しく、何度も何度も看護師さんを呼んで痰を吸引してもらったり、体の位置を直してもらったりしました。しかし私は時間を惜しむように、その合間をみて、子供の時にどこへ行ったとか何をしたとかなど、思い出せる限り父に話しました。私が「覚えてる?」と聞くと、首を大きく振って「うんうん」と頷いたり、「そんなことまで覚えてるの?」とでも言うように、目を大きく見開いたりもしていました。また、「一番好きな聖書の箇所は?」と聞くと、「イザヤ53章」と答え、「好きな賛美は?」の質問には、「たくさんありすぎてわからないから、後で教える。」と答えました。私は、父が一番好きだと言ったイザヤ53章をはじめ、両親が通う教会のジェンキンズ先生が教えて下さった聖書の箇所を次々と読みました。また、以前から聞いてみたかった事のいくつかを質問してみました。母は私が3歳の頃から教会へ行くようになりましたが、父が初めて教会へ行ったのは私が10歳の時でした。その間、父が教会へ行くことは一度もなかったのですが、私は父が母の留守の隙にこっそりと聖書を読んでいたのを何度か見たことがありました。「教会に行く前から、聖書の中に真実があると思っていたの?イエス様が救い主だと信じていたの?」と聞くと、大きく頷き、息をすることもままならない、やっと絞り出した声で、「ママには知られたくなかったから。本当にバカだった、くだらない見栄を張って。」と言って涙を流していました。また、まだ私が幼い頃、家には祖母の位牌(いはい)があったのですが、ある日それがなくなっていたのです。その頃はまだ教会に行っていなかった父ですが、川で焼いたという話を最近になって母から聞いていました。その理由を父に訊ねると、「ただの木だと思ったの。そこには魂がないって。」と言いました。そして、「アメリカに行くことを許してくれて、ありがとね。自分のやりたいと思うことをさせてあげたいと思ったの?それとも、心配だけど、神様にお任せすれば、必ず守ってくださる、と思ったの?」と聞くと、「後の方。」とだけ答えました。

召される日の朝は、「お風呂に入りたい。」と言い、病室に来る先生や看護師さん達が困るほど何度も訴えていました。ある看護師さんからは、「岡崎さん、我慢強くて何にも言ってくれないんだから。もっとワガママ言って下さいよ。」と言われていたくらいでしたので、強い口調で何度も何度も懇願する父の姿に、私も看護師さん達も驚くほどでした。父が召されてから、私は中学生の時に父から言われた言葉を思い出していました。「日曜日は神様の御前に出る聖別された日だから、ちゃんとお風呂に入って体をきれいにして礼拝に行くんだよ。」今になってみれば、あの日、父は天国に行く、神様に会う準備をしたかったのかもしれません。

1月30日(土)の午前11時半頃だったと思いますが、父は突然両手を高く上げ、「主よ、超自然的に、、、」と、繰り返し言っていました。おそらく、「超自然的に神様の元に引き上げて下さい。」と言いたかったのでしょう。病室には母と私の親友も一緒でしたが、私達は父の腕を両方から支え、まるでそれは聖書の出エジプト記に書かれてあるように、アロンとフルがモーセの腕を支え続けた時の光景を思い起こすかのようでした。その父の姿は、本当に神様と話しているようでした。そして、私達は祈り、賛美を続けました。しばらくすると、父が待っていたジェンキンズ先生が到着し、更に祈りはささげられ、聖書が読み続けられました。12時半をしばらく過ぎた頃、いよいよ最期の時がやって来ました。もう自分の力では起き上がることのできなかった父でしたので、ジェスチャーで体を起こして欲しいと訴え、そのようにしてあげると、正気に戻ったようにカッと目を見開いて自ら酸素吸入マスクを外し、指や他の部分に付けていたセンサーも次々と取り、腕に付いていた点滴の管までもむしり取ろうとしました。それまでも音や違和感が嫌だと言い、何度も外そうとしたことはありましたが、その時とは違って、まるで「もうこんなものは必要ない。私はこれから主の御許に行くのだから。」とでも言っているかのようでした。そこに居た者は皆圧倒され、誰もそれを止めることなどできない気迫を感じました。そして、最後の力を振り絞るかのように、それはまるで意を決して天国へ向かって行くかのように、自分の体を更に前へ乗り出したかと思うと、次の瞬間にはガクっと首を垂らして動かなくなったのです。その時まだ心臓は動いていましたが、「あ、行ってしまった。もうここには魂はない。」というような不思議な感覚に包まれていました。先生方、看護師さんも病室に駆けつけ、他にもお見舞いに来て下さった方々
に囲まれる中、聖書の詩篇23篇が朗読され、祈りと賛美で父を送り出しました。まさしく、メ天国への凱旋モという言葉がピッタリで、それは見事な旅立ちでした。

父が召された後に行われた前夜式も告別式も素晴らしく、神様の臨在を強く感じ、主の御名を崇めました。そこでは福音と希望が語られ、一人の信仰者の真実の証しが語られました。クリスチャンではない親戚は、キリスト教の葬儀に初めて参列し、多?の戸惑いを覚えたようではありますが、「クリスチャンは死への考え方が全然違うんね。死が終わりではなくて、その先に希望があるんだね。」と口々に語っていました。神様は、一人の人間の死をも用いて、多くの者の心に触れて下さいました。それは、父の一番の願いだったのではないでしょうか。『私にとっては、生きることもキリスト、死ぬこともまた益です。』(ピリピ1章21節)
今回の一連の出来事が、全て神様のご計画の中で導かれていた事を、いま改めて実感しています。2週間という限られた滞在の中で、父と時間を過ごすことができた事、父が召される瞬間に立ち会う事ができた事。もし病室に父を残したまま、こちらに戻って来る事になっていたとしたら、どんなにか心残りで辛かった事でしょうか。そして、前夜式と告別式に参列できた事。そのことによって、天国の希望と喜びという強い確信が与えられ平安が増し加わった事、懐かしい方々にお会いできた事。その他にも様々な事を通して、神様の絶妙なタイミングに何度も驚かされました。特に感謝したい事は、神様に全て委ねる事ができた(それも神様の助けなしではできなかった事ですが)時から(私が委ねる前から神様のご計画があったとは思いますが)、心に平安が与えられ、全てが備えられ、神様の御心が行われる、不思議なように事がスムーズに運ばれて行くのを目の当たりに見せて頂いたことです。その中で一つの例を挙げますと、ちょうど一時帰国中の錦織先生が、2月1日の夜に仙台に立ち寄り、父のお見舞いに来て下さる予定を立てておられました。父が召されたのが1月30日でしたので、生きている父にはお会いして頂く事はできませんでしたが、先生が他の方々と会われる予定を全く変更する必要もなく、父の前夜式に間に合うように仙台に到着され、式に参列して頂けたのは、神様のご計画とお導き以外の何ものでもないと感じています。『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。』(伝道者の書3章11節)

最後まで感謝にあふれ、謙虚で、優しく、しかし心の中は熱く燃え、強い信仰に立っていた父。一人の信仰者として心から尊敬しています。今回大勢の方が病室を訪ねて下さり、また色々な方のお話を伺がって、いかに皆さんが父の容態を心配し、愛して下さっていたのかを知る事ができました。このように離れて生活し、二人の孫達とも数回しか会ったことがない中で、父のことをメ仙台のお父さん、おじいちゃんモと呼んで慕って下さる方々が回りに与えられていた事は、私にとって大きな慰めでした。また、何十年ぶりに会った親戚から、父の幼?の頃の思い出話を聞いたり、私が知らなかった父の意外な面を発見し、父の事を今までにないほど身近に感じるようになりました。そして、愛おしく思うようにもなりました。今はしばしのお別れで寂しく思いますが、やがていつの日か天国で再会できる事を楽しみにしています。そのような希望と平安が与えられている事に感謝します。

今年の初めに、私が与えられた聖句は、『見よ。わたしは新しいことをする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。』(イザヤ書43章19節)でした。この聖句に目が留まった時、「神様は何をなさろうとしているんだろう?」と思いましたが、また同時に、いつも私が支えれている聖句『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。??主の御告げ。?? それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』(エレミヤ書29章11節)を持って語りかけて下さいました。父の事を通して、「このことだったのか。」と神様の御心がはっきりと示され、またその素晴らしい御業を見せて頂きました。これからも主の御業を見せ続けて頂きたいと願っています。

最後になりましたが、父の事を、また私達家族の事を覚えて祈り支えて下さった皆様、メールやお電話等で励まして下さった皆様、また私が不在の間、こちらに残る家族のために毎日お食事を届けてサポートして下さった皆様、本当に有難うございました。心より感謝を申し上げます。

月報2010年3月号より

「父が日本人、母がスペイン人。僕が生まれたのはイタリアです。…」

父が日本人、母がスペイン人。僕が生まれたのはイタリアです。

それからの20年間の間に、ドイツ、フランス、日本、スペイン、イギリス、アメリカなどに暮らしてきました。ある国の常識はこの国の非常識。違う国には違う文化、違う価値観があること。僕が受けたレッスンでした。モ違うモと言う事に僕は虫歯のように敏感だと思います。例えば、子供の時の僕は外人である事をとても嫌いました。毎日、外見だけで違う目で見られるのが大嫌いでした。それに我慢が出来なくて、日本にいた時に母に酷い事を言った事を今でも後悔してます。

でも文化が違っても、人にはあるモ変わらないモ共通点があると気づきました。

人は人の心を求めると思います。
感謝して感謝されないと心が満たされないと思います。
言葉や文化の常識を超えるようなレベルの心のつながりを人は同じ国でさえ求めてると思います。

どの信仰でも人を幸せにするためにある物だと思います。
どの信仰でも心のつながりを大切にしてると思います。
クリスチャンになることを選ぶ前も後も今でもそう思ってます。

でも一ヶ月前まではそれは神様を信じる理由にはなりませんでした。

信じるキッカケ。

ある日。

NJにある日本人教会の錦織先生に出会う機会がありました。

“信仰のことをどう思ってる?”と先生に聞かれました。

それをキッカケにNJに戻る度に先生のご家族と共に話をしていきました。

“変わる物と変わらないもの。”

いつかこの話をされた時に、

今の家庭関係、今の健康、今の所有物、今の友達関係、今の仕事の夢、今の人の愛、

これら全てに自分の幸せが乗っている事に気づきました。
変わったらどうなるでしょう?想像は大体できます。悪い方に。

自分の人生とクリスチャンのことをもっと真剣に考えるキッカケになった一つです。

変わらない物の中に、モ死モがあります。
“人生の究極である死を明日直面するとしたらどうする?”
これはお父さんから聞かれた事です。

家族にも助けてもらえない。
健康は死に向かって走る。
所有物の何が助けてくれるでしょう。
友達の誰が救ってくれるでしょう。
仕事の夢は。。?

必ず来る人生の最後。何がどうやって想像できない虚しさ、絶望や孤独を癒してくれるのでしょう。
この会話で命拾いをしたのかもしれません。
変わらない物に神様がいるのかもしれない。。

洗礼を受けたのは、その話を聞いた一週間後です。
メ今、生き方を変えたい。。。じゃないと。モと思ったからです。

神様が僕にどんなことをしてくださったのかは正直、今でもわかりません。
でも少なくとも根本的に人生の価値観と優先順位を考え直させるものが僕の中にあると思います。

違う国の文化や言葉、考え、宗教、マイノリティーの人達、友達や家族、
僕はクリスチャンになって、もっと人と人との心のつながりを今まで以上に大切にしたいと思ってます。

最後に洗礼に導かれたことに、僕はどうしても感謝したい事があります。それは母さんと父さんとバアちゃんです。僕がクリスチャ ンにならなくても、酷い事を言ってもずっと愛してくれると感じているからです。それだけは変わらない気がしてたまらないです。彼らみたいになりたいからキリスト教に興味を持ち続けられたと思って います。

そういう人達を僕の周りに置いてくれたのが神様なのかも知れませんね。

月報2010年2月号より

「私にはトモミチという名の友達がいました。…」

私にはトモミチという名の友達がいました。私が初めて幼稚園に行った日に出会った友人の名です。父の転勤の都合のため、他の皆より多分2ヶ月くらい遅れて入園した私にとって、彼の存在は励ましであり、大きな助けでした。「トモミチ君、しんじ君の面倒見てあげてね」と云う先生の言葉に私達の出会いがあったように記憶しています。当時の私の写真を見ると、私の書いた絵がまるで彼の作品のコピーのように似ていることが分かります。私はいつも彼の作るものを真似していたのですから当然のことでしょう。その関係は、卒園するまで、それぞれが違う小学校に通うようになるまで続きました。
そのトモミチ君が亡くなったという知らせを聞いたのは、小学校に入って間もない5月頃のことだったと思います。ある日、母から虫垂炎(当時は盲腸って呼んでました)の手術でお腹を開いたら、腹膜炎を併発していて手遅れだったということを教わりました。小学一年生だった私がその出来事を理解し、その説明が深く心に刻まれたのは、彼が本当に大切な友達だったからに他ならず、死というものが何であれ、もうトモミチ君に会えない!ということは分かったのでした。

それから30年以上もたったある日のこと、私は車を運転しながら「トモミチ!」と突然頭の中で叫んでいました。その2ヶ月くらい前に妻が妊娠したことがわかっていました。初めてのことでしたから、ドクターからの指示の全てが新しく、新鮮なものでした。ところが、ある日の検診の時に血液検査があり、その結果が私達に大きな不安を与えることになりました。「お子さんに何か問題がある可能性があります。でも、血液検査の結果は完璧ではないことが多いので、羊水検査をしましょう」と云った内容の説明があったのです。妻はドクターに云われるがまま羊水検査を受けることになりました。トモミチ君の名前が頭をよぎったのは、その検査結果を待っているある日のことだったのです。結婚した頃から、私には女の子が与えられたらこの名前というアイディアがあったのですが、もし男の子だったらどうするかなぁ?と考えていたからです。そして、何故だか分かりませんが、彼の名前が浮かんだその瞬間、検査結果は思わしくないに違いないという不思議な確信まで得てしまったのです。

私は家に帰ってから妻にその次第を伝えました。そして、男の子だったら「トモミチ」という命名案が私達の間に生まれました。その数日後、私が家に一人でいた時にドクターからの電話がありました。「結果が出ました。ダウン症です。あとはお二人で考えてください。詳しくは次の検診日に、、、」という短い内容の電話でした。血液検査は正しくないことが多いと云って気休めを云っておられたドクターの声は低く、力の無い感情を殺したものでした。その検査結果を妻にその日のうちに伝えたかどうかは覚えていません。でも、伝えた時のことは覚えています。私からの言葉を聞いた時、妻は「やっぱなぁ。そうじゃないかって思ってたんだ。」と云い、多分涙を流していたと思います。多分というのは、私が妻の顔を見る事が出来なかったので見ていないからです。次の検診日にドクターから説明を受けたのですが、なぜか「あとはお二人で考えて決めてください。」というあの同じ一言が加えられました。どういう意味?と思いつつも、私にはその意味を尋ねる勇気がありませんでした。ただ、その日から私の中で葛藤の日々が続くことになりました。考えてって何を考えるんだ? 何を決めるんだ? それって要するにこの子を諦めろってこと? 諦めても良いってこと? その場合、何が起こるんだ? そんなことして良いのか? 医者が良いってんだから良いんだろ? 人殺しじゃない! じゃぁ、普段教会で「命は何によっても取り戻せない。」と聞いているイエス様の言葉は無視して良いのか? 私の心の中は、ぐちゃぐちゃに乱れました。

多くの人が聖書を読むようになって、心に刻まれる言葉はいくつもあります。たとえば、エレミヤ書というところには、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。��主の御告げ。��それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」と書いてあり、ローマ書には、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」とあります。私も既に聖書から何度も、また牧師のメッセージから、いくつかの信仰書からもそれらの事を心に焼き付けられていましたし、時には友人などにその恵みを語ることがある程でした。しかし、このお腹の中に居る子供の存在によって、これらの聖書の言葉に持っていた確信が揺るがされたのです。まるで「あなたがこれまで証ししたそれらの言葉は本当であるか、あなたは本当にこれを信じるか?」と誰かに問い質されているような気がしました。そして、私はなんとかして、聖書が別のことを教えてくれないか、聖書の中をくまなく探したりしたのです。

その数日後のことでした。家に帰ると玄関に奇麗なブーケが届けられていました。「は、なんだぁ?」と思って部屋に持って入ると、小さなカードが挟んであるのが目に止まりました。そして、そこに手書きされていた短い言葉を見た私の目からは止めどなく涙が溢れ出て、私の心は神様のご計画をしっかりと受け止めることになりました。こう書いてありました。「わたしのエンジェルをよろしくおねがいします。天使ガブリエル」 (注:ガブリエルとは、天使の中でリーダーとされている存在で、イエスが生まれる前、母マリアに話しかけたのもガブリエルでした)

私たちは多くの場合、子供を“授かる”と云います。聖書にもそのような表現がありますので、間違えでは全くありません。でも、子供を“預かる”と受け止めるならば、その存在は恐らく“自分の”子供よりもずっと大事な存在になるのではないでしょうか? 私には妻のお腹の中にいる子供を神様から預かっているのだということがよく分かりました。その任務は大変なものかも知れませんが、神様があなたに任せたいと云われるのであれば、お受けしないわけにはいかないのでした。不思議なことに責務を受け取ったその日から、私はこの子供の誕生が待ち遠しくなりました。そして、少しでも元気な状態でお預けくださいと願い、祈る毎日となったのです。聖書のコリント人への第一の手紙にはこうも書いてあります。「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」 私は聖書の言葉を自分自身の考えで解釈するのではなく、更にそれを信じることを選びました。

いよいよ生まれるというその日は、あっという間にやって来ました。どこまで慌てて良いかも分からず、カメラさえ持たずに分娩室に付き添った私でした。9時間くらいの分娩で生まれて来たその子は、「ホ~」という口をしながら、その目ではっきりと私を見つめてくれました。神様から預かったトモミチ君(知道と漢字を付けました。道であるイエス様を知っている、また知らせる人という意味です)との初対面の瞬間でした。その子が私達夫婦の目にどれだけ可愛く映ったかは、親バカの域をはるかに超えて言葉では到底表現出来ません。数日後に家を訪問してくださった錦織先生がこのように祈ってくださいました。「神様、知道君にこのパパとママを与えてくださってありがとうございます。」 まさに“授かる”ではなく、“預かる”を肯定していただいた瞬間でした。

生まれて数ヶ月たったある日の土曜日、私は知道と二人で留守番をしていました。すやすやと眠る子の顔を見つめながら、そっとギターを弾いていた私は幻を見たのです。どこかの広い青空の下にある大きな宮殿のようなところの庭で、この子が楽しそうに走り回っている姿でした。私は白い柵のようなところに座って、ギターを弾きながらその姿を追っていたのです。「あぁ、ぼくはこの子といつまでも一緒に生きていこう。永遠に。何も急ぐことはない。神様から受ける永遠は果てしない。」その幻を見た私の心はとても平安でした。神様から受けた約束からしか得られない平安です。

知道と共に初めて日本に訪れたのは、2003年のことです。彼の祖父母、私達の両親に知道のことを紹介するためでした。彼らにとってもショックな宣告であると分かっていましたので、電話やメールでは伝えられないでいたのです。会ってもどのように伝えることが出来るか悩みましたが、共にクリスチャンである両親は、その孫をそのままに受け入れてくれました。クリスチャンであることがこれほど有り難いことであるかを覚えるひと時でした。

健康上はこれまで、心臓に穴が見つかったり、甲状腺に問題が見つかったりもしましたが、皆様の祈りと励ましによりここまで守られて来ました。何人かの専門医に見ていただいた心臓の穴は、素人の目には分からないほど、自然に塞がってしまいましたし、甲状腺は毎日ご飯粒2つ分ほどの大きさの薬を飲むだけで守られています。イエス様が地上を歩まれた時、多くの病人を癒されたと聖書にあります。しかし、もしイエス様が今、知道の目の前に現れたとしても、イエス様は彼を癒すことはされないと思います。また、私達もそのようなことを願わないはずです。この子が“普通”になってしまったら、それは別人であって、私達が今愛して大切にしている“預かりもの”ではなくなってしまうからです。これまで共にこの子をサポートしてくださった何人ものドクターやナース、セラピスト、デイケアのおばさん、学校の先生、教会の皆さん達にどれだけ感謝しても到底足りません。ある先生は「トモがこのクラスにいてくれて良かった。子供達はトモと一緒に過ごして、人を助けること、人に優しくすることを学ぶことが出来た。」と云ってくださいました。知道が生まれる前に妻に示された聖書の箇所、ヨハネの福音書には「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」という盲目に生まれた人について語られたイエス様の約束の言葉があります。沢山の方々と共に、この子を通して現される神様の栄光を見させていただきたいと願っています。

2歳年下の弟に最近身長が抜かされてしまった小さい7歳です。色々なことが少しずつ他の子達よりも遅れているようですが、誰からも好かれ、友達になってしまうところ、純粋さ、オリジナリティ、頑固さやこだわり、我が道を行く姿、誰にでも世話好き等は私達もかなわない桁外れのものを持っています。かつて幼稚園の時のトモミチ君がそうであったように、私は自分の子として生まれたトモミチ君から沢山のことをこれからも学んで行くことになりそうです。私達夫婦が神様に知道の良き理解者、友達のような弟をと願って生まれた子、真友(まさとも)が成長して行く中で、“知道を受け入れる”という試練が待っていることも想像しています。これもまた神様の栄光が現されるために必要なことと理解しています。教会の皆さんや子供達、これから出会う方々が、知道との関わり合いの中で得るものが沢山あることを願っています。どうか特別視しつつ、でも偏見は持たず、甘やかすことなく、そのままの知道とおつきあいいただけますように。それこそまさに神様が私達一人一人に対して、してくださっていることです。この2009年のクリスマスの時期、永遠におられる方、恵み深い愛そのものであるイエス様の父なる神様のお名前が崇められますように。

月報2010年1月号より

笹川雅弘牧師の証

10月に日本で持たれた『家の教会セミナー』に錦織牧師が参加した時に、15年ぶりに笹川雅弘師と再会しました。笹川師はビジネスマンとして1993年から1997年初めまでNJで生活され、JCCNJで共に歩んだ仲間です。その後、神学校に進み、新潟福音教会の牧師として奉仕されています。今回、どのようにして牧師になるように導かれたのか、2004年時点で書かれたお証をお送り頂きました。感謝して、ここに転載させていただきます。

献身から牧師一年目にいたるまでの証し(2004年7月時点)

1984年のイースターに受洗後、最初に直接献身への召命を意識し始めたのは、その6年後に、NEC米国法人の駐在員として、テキサス州ダラスでの生活が始まってしばらくしてからの頃でした。ダラスで与えられた教会、ダラス第一バプテスト教会は、教会全体では会員一万人以上というメガ・チャーチでしたが、その一部である日本人礼拝部は、多い時でも礼拝出席者20名程度の小さな群でした。ここで神様は私に、幾つかの経験を通し、直接献身へ向けての道を備えられました。
ひとつは、日本人礼拝部の属していたバプテスト教会を中心とする、地域全体を覆う力強い教会の働きです。日本では「少数派」としてのキリスト教会が、そこではダラスという大都会の中でまぎれもなく、社会の柱、人々の誇りとして地域の隅々に浸透し、生きて働いていたのです。 この体験はその後、日本の教会はどうしたらこれに近ずけるのか、なぜいつまでも「1%」なのか、という問いと救霊の思いが強くされる源となっていきました。もうひとつは、日本人教会員の何人かの方々から、たびたび直接献身の勧めをいただくようになったことです。冗談半分ではなく、真剣に「お祈りしています」と言われると、やはり真剣にその祈りを受け取らざるを得ません。一方、ダラスでは二人目の子供が与えられ、家族を養う責任は重くなり、それを支える、会社からの手厚い福利厚生、楽しいゴルフ生活など、それはそれで、文句のつけようがありません。しかし、この頃から、「このままで本当にいいのか」という問いかけが心の奥から聞こえてくるようになりました。
このような心の葛藤を抱えたまま、3年後にはダラスからニュージャージーのオフィスへ転勤となりました。ニュージャージーでは3人目の子供が与えられ、会社での責任も重くなり、状況としては、直接献身は現実からますます遠ざかっていくように思われました。一方、「本当にこのままでいいのか」という心の痛みは、目を向けると、いつもそこにありました。その感じは、大事な手紙を受け取った後、どのような返事を書いたら良いかを迷っているうちに時が経過し、思い出すたびに落ち着かなくなる、という、あの気持ちに似ていました。
アメリカでの、計6年半の勤務を終了し、1997年1月にNEC本社へ戻ると、今度は仕事で超多忙な毎日が始まりました。これは私にとって、仕事の成功を通して主の栄光をあらわすという道が与えられている、自分に言い聞かせるには好都合でしたが、やがて大きな転機が訪れました。それはまず、過労による3週間の入院でした。静かに自分自身の生き方について考える時が与えられました。続いて、自分の信仰の姿勢が、会社文化の中で苦況に立たされることになりました。過労で入院する程身を削って達成した実績で、会社の表彰状と記念品は手に入りましたが、それは残念ながら、主の栄光をあらわすことには、つながりませんでした。直後に行われた社内での昇進試験では、営業実績や部長の推薦よりも、「人に従うよりも神に従う」という毅然とした姿勢が、結果として役員面接などでマイナス評価につながり、昇進は見送られました。「神に従うより人に従う」ということが会社で成功する為の条件であり、仕事の成功を通して主の栄光をあらわす、というビジョンが意味を持たない、という現実に直面した時、私はこの会社を離れる決心をしました。
「収穫は多いが、働き手が少ない」(マタイ9:37)というみ言葉が決心を迫る一方、忘れられなかったのが、アメリカで体験した、神に従う信仰と、仕事の成功が、相反しない世界でした。クリスチャン経営者によって、神に従う信仰と、仕事の実績が正当に評価され、報いられる会社。そして家族との時間も十分に確保できる会社。私は、そのような会社が日本に存在しないものだろうか、と考えて悶々としていました。そんなある日、求人雑誌をめくっていると、IT関連の新興アメリカ企業が営業マネージャーを募集していました。企業データを見ると、ベンチャー企業として10年前に起業してから急成長を遂げ、給与体系は公平な実績連動システムで、成績次第でストックオプションも与えられるという、アメリカンドリームを彷彿とさせる会社でした。日本法人経営幹部のほぼ全員を占めるアメリカ人は、私の願い通りクリスチャンで、若さと力にあふれていました。彼らとの面接の結果採用が決まり、私は、ビジネスマンとしての仕事の成功を通して主の栄光を証しするという生き方に再度挑戦することになりました。
いわゆる、日本の大企業文化の中で育ってきた私にとって、新しい職場は刺激に満ちた訓練の場となりました。アメリカ流の体系的で徹底した営業訓練とその実践は、伝道実践の知恵にもつながるところがあり、また、役職、年齢などにとらわれず、正直で風通しの良いフラットなコミュニケーションの中から生まれる活力は、日本企業のみならず日本のキリスト教会も見習うべきカルチャーでした。しかし、この会社の問題点は、四半期ごとの営業成績で社員が厳格に評価される為、短期決戦で実績を稼ぐことにほとんどのエネルギーが費やされ、購買の稟議に時間のかかる大企業を相手に、じっくりと時間をかけて信頼関係を築いていく、というゆとりが無く、結果として会社としての信頼感を失っているという点でした。私は、短期決戦の積み重ねでがむしゃらに成長する会社から、大手企業との信頼関係構築に十分時間をかけ、結果的に高度成長を長期に渡って持続できる会社へと変わる必要を幹部に訴え、結果として私自身がそのような市場、つまり、短期的には結果は得られないが、1年単位で腰を据えて取り組めば、結果として、大きく継続的な契約につながる可能性のある市場を担当することになりました。
1年以内に結果を出す、という条件のもと、私は某大手企業、及び政府機関との間で関係構築を進め、半年後には、具体的な商談とその規模、契約のタイミングなどが見え始めてきました。このプロジェクトが成功すれば、巨額の報酬と役員昇進への道も開けてくる。そんな皮算用が頭をかすめるようになった頃、私は、長い間、出せないでいた、例の、大事な返事のことを思い出しました。政府機関との信頼関係維持という意味でも、契約が成立すれば、もう会社を辞めることはできなくなる。今回の契約とともに、もう後戻りできない所へ向かって、私は走り続けることになる。このような胸騒ぎは、私が、毎日、激流のような時間の中で、すがるように聖書を読み続けていなかったならば、もしかしたら、おこらなかったのかも知れません。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」というイザヤの召命への応答のことばを読んでいると、この世での自分の人生が終わる時、なぜあの時、私はイザヤのように応答できなかったのか、と後悔している自分の姿が、頭に浮かびました。それは、何ともいたたまれない、人生の敗北者のような気持ちでした。すると、神様は実に不思議な方法で、そのまま突っ走ろうとしていた私の足を、止められました。
私の採用を決め、入社後も私を理解し、支援してくれていた会社の最高責任者が、突然ヨーロッパへ異動することが決まったのは2000年3月でした。結果を出す期日まであと数ヶ月ありました。そして、トップを任された新任のアメリカ人は、私がしばらく全く実績をあげていないことに目を留め、事情を十分に確認しないまま、「最近の実績を見ると、どうも、あなたはこの会社に向かなかったのではないかと思う。」と、私が自主的に退職することを求めてきたのです。その瞬間、私は、たとえようのない平安が訪れるのを感じました。自分でも、なぜ、こんな時に、こんなにうれしいのか、不思議でした。そのせいか、私は、その場で、事情説明や、釈明をしようという気に全くならず、その場で退職に同意し、退職条件の覚え書きにすぐサインをしてしまいました。
こうして私は3月末日から4月30日の正式退社日まで、未消化分の有給休暇を消化することになりましたが、この最後の一ヶ月間は、サタンとの激しい闘いがありました。妻は、会社に対しても、私に対しても、大いに憤慨していました。今、連絡を入れて詳しく事情を話せば、まだ会社へ戻れるかも知れない。そんな思いとの格闘の中で、ダビデのあの告白が、騒ぎ立つ心の波を鎮めてくれました。詩篇16編2節、「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」
弱音を吐いては献身の思いから逃げ回っていた私は、同じように往生際の悪かった、モーセの召命の記事に慰めを感じます。そのモーセが召命に従ってエジプトに向かい出発した直後、モーセは、なぜか、主に殺されかけた所を、妻のチッポラに助けられました。次は私の勝手な想像です。「チッポラは、モーセが突然エジプトへ帰ってイスラエル民族を救い出す、と言い出すのを聞いて、最初は唖然とし、次第に憤慨し、毎日ぶつぶつと文句を言っていってモーセを悩ませた。モーセは、そんなチッポラを、何という足手まといだろう、この先が思いやられるわい、と思っていた。そんな矢先に、この事件が起きて、モーセとチッポラの心は、再びひとつに結ばれた。」少し強引に、このように解釈することで慰めと希望を見出そうとしたりしていました。私が会社を辞めたことを残念に思っている妻と、そんな妻に、つい、苛立ちを感じてしまう私のこころがひとつにされ「私と私の家族は、主に仕える」と喜んで告白できる日が来るのを、日々祈り求めました。
私が意を決して神学校へ通い始めても、妻は断固として反対の姿勢を崩しません。私は仕方なく、授業のある日は神学校の独身寮に身を寄せることに。思いがけない「単身赴任」生活の始まり。このときは互いに真剣に離婚を考えるほどの、史上最大の夫婦の危機でした。妻は祈る。「神様、どうか主人が神学校で挫折して、砕かれて、再び会社員に戻れますように。」一方、私も祈り返す。「主よ、どうか妻が砕かれて、主と私に従うことができますように。」こんな「砕き合い合戦」の末、勝利を収めたのは_そのどちらでもなく、二人揃って主の前に砕かれる、という結果に。妻が反対を続けていたとき私は内心、「とうとう召命に従ったモーセの最初の危機を救った妻チッポラとは正反対だな」と心で裁いていたのだが、自分自身が何年もかけて格闘してきたところを、妻もまた通っているのだ、という配慮もなくただ裁いていた自分を恥ずかしく思いました。ただ今振り返ると、あの時の反対があったからこそ、より真剣に召命の確信を求めつつ学ぶことができたのだと思います。神学校最終年次には、その妻も聴講生として神学校の授業に参加するようになっていました。解決を待ち続ける忍耐の時は長く感じられますが、その忍耐の期間を無理に縮めようと焦らず「主に立ち返って静かにする」(イザヤ30:15)ことの大切さを互いに教えられたように思います。
神学校卒業後派遣された新潟福音教会は、今までキャリア豊かな人格者である牧師によって牧会されてきた、百人教会。社会人経験が17年あるとはいえ、「新卒」教師にとって、受け取ったバトンはずしりと重かったというのが正直なところでした。でも、これまでのさまざまな試練の中で、主のご計画を信じて主にのみ従い、ただ主に委ねることの大切さを心に刻み込まされてきたせいか、この1年間、そのバトンの重みに押しつぶされることから守られてきました。あれほど反対していた妻も、私よりもよっぽど元気に明るく群れに気を使っています。また、派遣されてからこの1年の間に受洗へと導かれた9名の方々のことを思うとき、胸がいっぱいになります。この魂のために、そしてこれから導かれようとしている魂のために、今までの試練があったのか、と思うと。また、自分が主の前に砕かれ、主に謙虚に従うようにされることだけが試練の目的ではなく、その究極の目的は福音による救いが人々の魂に届いていくためであったのだ、と思うと。
この一年間に新潟福音教会で受洗へと導かれた方々の上にも、例外なく、悲しみと試練がありました。けれどもそれらすべてが、イエス・キリストのうちにある新しい永遠のいのちへ移されるために用いられたこと思うとき、耐えがたい悲しみに涙するときにそれが「永遠の祝福のために与えられた天からの賜物」であるということを知ることのできる神のことば、福音の尊さを改めて噛みしめます。
「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」(ヤコブ1:2)
「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。」(第一ペテロ4:12,13)

笹川雅弘プロフィール
1959年、神奈川県横浜市生まれ。1983年日本電気(株)入社、翌年に受洗。その後約6年半のアメリカ駐在を含む計17年間の会社員生活の後、伝道献身者としての召命を受け東京基督神学校へ入学。2003年3月同校卒業後、日本同盟基督教団・新潟福音教会へ派遣され、現在に至る。

月報2009年12月号より

「キリストの体」

「大恐慌以来の経済危機」のさなか、今年一月、私は金融機関からレイオフされた。希望通りの社内転職を果たし、「もう一生これでいける」とまで思ったドリームジョブ(産業調査のアナリスト)を手にしてから、僅か三ヶ月後のことだった。その社内転職から三ヶ月ほど前のこと、私が職場で担当していた顧客のファイルが紛失するという事態が発生、私は上司に、そのファイルが元々存在しなかったと証言するよう、圧力をかけられた。「そもそも存在しなかったのだから、紛失したのではない」との論理を貫きたいがための裏工作である。彼もクビが懸かっているから必死である。私は一瞬たじろいだ。だが、嘘をついてその場を凌いで神様を泣かすよりは、たとえ責任を問われたとしても、寧ろ真実を語る方が正しいと感じた。だから敢えて圧力を撥ね除け、「私はこの目で確かに見た」と主張。果たして、「紛失」は東京本部にも重大視され、私が所属する部全体が始末書を出す破目に・・・。

金融業界におけるリストラに歯止めはかからず、私は求職期間中、労働市場が丸ごと消滅してしまったかのような無力感を覚えた。面接もあるにはあったのだが、反応が悪い。以前と違って、求人側の職務要件に応募側の経歴が完全に合致しない限り、どこも採用には踏み切らない構えだ。長期戦の悪い予感。一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月・・・。これといった話が無いまま、時間だけが過ぎていった。求職中は会社に行かない。勿論残業も無い。だから肉体的には仕事をしている時と比べて楽なことは確か。また、見かけ上は家族と過ごせる時間も多い。ところが実際にはそれを心底楽しめない。早いところ仕事を見つけなければ家族が路頭に迷う・・・。そんな精神的なプレッシャーは想像を遥かに上回った。それとともに夫婦喧嘩も極まってゆき、幼い子供たちへの発達心理学的な悪影響も心配された。分かっていても、お互い罪深い者同士のこと、止めるに止められない・・・。こんな「嵐」のような日々が続いた。

五月始めのある日のこと。いつものように、自宅の地下室にある、私が「会見の幕屋」と呼ぶ一角で、「神様が示される最善の土地で、最善の時に仕事を与えて下さい」、と必死に祈っている最中、聖霊から、「仕事はお前に与えるから心配はいらない」との約束と平安が与えられた。更にその瞬間、私のために祈って下さっている方々一人一人の顔が連続写真のように浮かび上がって見えた。聖霊はその時、「この人たちはキリストを構成する体」であり、「お前(=私)もその一部」なのだ、というメッセージを私に伝えた。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか(第1コリント3:16)」。「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい(1ペテ2:5)。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである(ヨハネ15:5)」。これらの御言葉が互いに混ざり合って一つのイメージとして伝わってきた。祈りのネットワークを拡張してもらい、キリストの「体の働き」を利かせた矢先の、天的啓示である。わたし的には、ダマスコへ向かう途上、自分が迫害していたクリスチャンが実はキリストの体なんだというパウロが神様から見せられた啓示に匹敵するほどの劇的なものだった。

祈りが終わり、即、妻に伝えた。彼女もすんなり受け入れた。我が家に再び平安が戻ってきた。それからの私たちの祈りは、感謝の祈りに変わり、私たちを平安で満たして下さる神様に賛美を捧げた。就職に関する不安がなくなった後、家内と二人で、再就職に関する具体的な希望をそれぞれ書き出して、それを互いに持ち寄って祈ることにした。祈祷課題は、「通勤・勤務時間が短くなること」、「向こう三年間、妻が家で子供の面倒を見られるように、私一人で家計を支えられること」、「仕事が性格と能力にあったもの」、「興味が持て、やり甲斐を感じつつも、忙殺されないこと、」等。「どんな願い事であれ、あなた方のうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれをかなえて下さる(マタイ18:19)」との御言葉に従った。

当初、職のあるところだったら何処へでも引っ越すつもりでいた。だから日本やカリフォルニアにも就職活動は及んだ。いいと思える話も無い訳ではなかったが、いずれの場合にも神様は不思議と道を閉ざされた。しかし、キリストの体に関する啓示を受けた後、当地NJ/NY地域での就職を祈って下さっていた「祈りのセル」の姉妹たちと心が一つになり、NY・NJ地域での仕事が与えられるように祈り始めた。今の仕事につながった第一面接が設定されたのは、それから間もなくのことであった。それはそれまでに持ち込まれた話とは違い、神様が一歩一歩を導いておられることが随所に感じられた。問題もあった。例えば、条件面では以前の水準を大きく下回ること。そして保険業は未知の分野であること。だから、始めのうちは、ただひたすら黙々と神様の導きに従うだけだった。けれども、面接が進み、上席者と会ってみると、その人は「この人の下で働きたい」と思えるような魅力的な人だった。結局、プロセス全体が昨今の常識では信じがたいとんとん拍子で進捗し、あれよあれよという間に採用通知を得た。レイオフから既に7ヶ月が経とうとしていた、8月初旬のことだった。

また、私の職歴の一部分が評価されたのではなく、私のキャリアパスの始めから終わりまですべてが気に入られたので、「この人でもいい」ではなくて、「この人しかいない」という種類の採用となった。条件面でも、求人広告からかなりアップグレードしてくれた。お陰で基本給だけで言えば以前の水準を上回る条件提示をもらった。平安で満ち満たして下さる神様が与えて下さった素晴らしい転職となった。この就職難の時代にあって、万軍の主は、多くの天の御使いを忙しく働かせてくれたことは想像に難くない。逆に、レイオフされなければこんないい仕事は得られなかったであろう。オファーが出た日、私たち家族4人は輪になって座り、手をつないで心を合わせ、神様の御手による大いなる御業を褒め称えた。

蓋を開けてみれば、妻と共に書き出した祈祷課題は全て叶えられていた。「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、その通りになる(マルコ11:24)」との御言葉が、身近な形で成就した。

休職中の「嵐」の吹きすさぶ時にも、皆さんの励ましにも支えられ、主イエスが「船長」である限り、「船」は沈没する訳はないと信じ、毎日荒波を乗り切っていた。しかし、嵐の中を航海したこの経験は、試練を通して救って下さる主イエス・キリストの恵み・憐れみだった。実は、それは主が私たちを愛してくださっているが故の祝福であった。「(私たちは)それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。(ローマ5:3-5)。」

教会内外の兄弟姉妹からの励まし、祈りのセルでの「二人または三人による」祈り、祈りのネットワーク展開、キリストの体の啓示体験、妻との祈りを通して叶えられた具体的な祈祷課題の数々・・・。この7ヶ月間で、私はキリストの体をより深く体験し、クリスチャン生活は一人だけでは成立しないことを学んだ。今後とも、キリストの体の奥義を更に深く知り、自らも「生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられ(1ペテロ2:5)」たいものだと願わされる。

月報2009年11月号より