「助け手と共に逃れの道をも備えて下さる神様」

私が聖書を読み始めたのは、IL州に留学している大学時代のことです。日本から遊びに来ていたクリスチャン女性との出会いが大きく影響しています。彼女は、それまでに出会ったクリスチャンとは違い、とても活発で魅力的な人でした。ちょうど彼女と私は、好きな人が出来たところで意気投合し、仲良くなりました。彼女が、「私は何も心配していないんだ~。彼なのか彼じゃないのか、神様に聞くだけだから。」と言ったのです。私も運命の人を信じていたので、そのことを話すと、「だったら、その人が神様からの人なのかどうか、神様に聞いてみたら?」と言われ、彼女から聖書をもらい、読み始め、神様からの答えを求めて祈るようになりました。彼女と共に礼拝にも出るようになり、彼女が日本に帰る前には、日本人の宣教師夫婦も紹介してもらいました。このご夫婦も、とても素敵で、あ~、こういうクリスチャンだったら、なっても良いな~と思ったことを覚えています。そこでの交わりが楽しくて、私はバイブルスタディに通い、聖書とは、クリスチャンとは、ということを学んでいきました。卒業後、日本に帰ってからも神様を求め続けることが出来たのは、心に触れられる御言葉があったからです。

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。-主の御告げ-それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。(エレミヤ書29章11節)

この御言葉を読んだ時、神様は私にどんな計画を持っておられるんだろうとワクワクして、私はいつか必ず神様に出会うんだと思わされました。卒業後もバイブルスタディのメンバーと手紙のやり取りを続け、その中に、神様がこう語られた、神様がこうされた、と書いてあり、私は、そのような経験をしたことがなかったので、「神様、もし本当にあなたがおられ、私を知っていて下さるのなら、私に体験させて下さい。」と祈りました。

その数ヶ月後に、シンガポールでの仕事の話があり、シンガポールに行きました。それは、新しく立ち上げた現地の会社の社長の秘書兼経理の仕事で、社長が使いこんでいたお金を整理することがメインの仕事でした。最初、彼は私も取り込もうとしていたようですが、そういうことが大嫌いな私は、彼を追及し、結果、別の人を雇われ、仕事を取り上げられました。それでも日本側にはレポートを提出しなくてはいけないので、取り上げられたファイルをコピーさせてもらい、自分の仕事をしました。人生初のいじめに遭い、シンガポールの気候にも慣れず、辛い時期を送っていました。毎週教会に通い祈り、眠れない夜、神様に「助けて下さい。次の仕事を与えて下さい。」と祈る日々でした。

そんな中、友達の教会で集会があり、オーストラリアから預言の賜物がある姉妹が来るということで参加しました。その時に、仕事についても語られました。「仕事… 大変ね~。あなたを監視している人がいるけど、大丈夫。神様が、その人の更に上からあなたを見守っていて下さるから。もうしばらく我慢しなさい。時が来たら、あることが起こってあなたはそこから動くから。」預言は吟味する必要がありますが、仕事が大変で助けを神様にいつも祈っていた私にとって、この言葉は大きな励ましとなりました。そして、その言葉通り、その2ヶ月後に、仕事を辞めることになりました。辞めることを告げた次の日に、教会から連絡があり、家庭集会に誘われました。その集会のホストの女性は日本語ができる人で、私の現状を伝えると、彼女はとても驚いていました。というのも、彼女はご主人の都合で、会社を辞めるところだったのです。彼女の会社はドイツのメーカーで、ちょうど日本の企業との取引が始まり、きちんと日本語で対応できる人を後任として入れたいということで、すぐにレジュメを作り、彼女に出してもらいました。そして、面接に行き、あっという間に仕事が決まりました。この一連の出来事を通して、私は、神様が本当におられ、私を知っていて下さることを確信しました。

その確信を頂いてからの神様と歩む人生は、祝福を多く頂きながらも、試練もたくさんありました。でも試練は永遠に続くことはなく、いつも神様は助け手を送って下さり、逃れの道もその都度備えて下さいました。

あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(Iコリント10:13)

JCCNJに導かれたのも、試練の中にあり、更なる試練が訪れる前のことでした。VA州で大学院を卒業し、仕事でNYに来ましたが、家と会社の往復だけの忙しい生活で、日曜日に礼拝を守るのが精一杯の日々でした。私は日本人クリスチャンの集まりに対して恐れがあったので、ローカルの教会に通いつつも、NYには共に祈り合える姉妹もおらず寂しい思いをしていました。そんな中、ある人との会話の中で、はっと思わされました。アメリカ人のその人は、中国人伝道に重荷があるような気がするけれども、本当にそれが神様からの召しなのかどうか分からない状況の中にいました。その人との会話の中で、私は、日本人に対して重荷があることを話し、「はっきりと自分の召しが分かっていることは、神様からの祝福だね。」と彼に言われた時に、私は言っている事とやっている事が全く逆であることに気付かされたのです。あ~、私は日本語の教会に行かなくちゃいけなんだなぁと思わされ、主に祈り、私の行くべき教会へと導いて下さいとお祈りしました。

日本語の教会を探し始めた時、VA州で通っていた日本語のバイブルスタディのリーダーが、JCCNJで礼拝を守ったことがあり、良かったよ~と薦めてくれたのですが、NJまで通うのは無理だと思っていたのでJCCNJは全く考えていませんでした。でも その話を別の姉妹にしたところ、彼女がウェブサイトをチェックしてくれて、マンハッタンから送迎があることを教えてくれました。私は、毎日帰りが遅く、なかなか調べられない中、神様は、姉妹方を通して私をJCCNJに導いて下さいました。初めて教会に来た日は、不安な思いがありましたが、皆さんが気さくに話しかけて下さって、私は居心地が良く、それから通い始めました。その数ヶ月後に、会社からノルマを超えられなかったらレイオフもあり得るという話が出たのですが、その前にJCCNJに導かれた事は、神様の憐れみであり、助けだったと思います。次の道について神様に祈る中、会社をレイオフされる数週間前の10年目の受洗記念日に、永住権当選の書類が届き、神様は次の道をも開いて下さいました。

無事に永住権を取得しアメリカに戻ってきましたが 今も試練はあります。仕事はまだ与えられていませんし、長い間祈っている結婚も、家族の救いもまだです。でもこれらの試練も必ず終わる時が来ると信じています。これからも神様が立てて下さっている将来と希望を与える為の計画を期待して待ち望み、体験させて頂きたいと思います。

※教会では、「天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである。」とのイエスの言葉から、互いを「兄弟」「姉妹」と呼ぶことがあります。

月報2012年3月号より

「いまわのときまで」

私の母はアルツハイマー病のため、認知症患者用のグループホームに2010年の春まで3年半入居していました。私は娘達と共に毎年夏に帰国して母を見舞っていましたが、ホームは実家から通うのに2時間近くもかかる場所にあったため、毎年せいぜい4~5回通うのがやっとでした。2年目に訪ねた頃から、母は私のことが認識できなくなったようでした。イザヤ書に、“女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、この私はあなたを忘れない。”(イザヤ書 49:15)とあります。母は病気なのだから仕方がないとわかっていても、“起きるはずがない”と思い込んでいたことが起きて、それまで自分が大好きだった聖句がとても虚しく聞こえるように感じました。
2009年末から翌年にかけての冬、母は血圧が低くベッドから起き上がれない日が多くなりました。食べ物の飲み込みも悪くなり、ホームのスタッフからは、状態が悪化した時に医療介護が無いグループホームでは対応できないので、できるだけ早く医療介護の整った老人ホームへ転居するように勧められました。グループホームは実家から通うには遠いところにはありましたが、小規模でスタッフの方々がとても良く面倒を見てくださる施設でしたので移りたくはなかったのですが、そのまま病状が進んでしまってからでは間に合わなくなるかもしれないと、2010年3月に実家から徒歩で5分とかからない場所にある老人ホームへ移ることになりました。
母が移転して10日程経った3月末に、イースター休みの次女と共に帰国して、1週間ほとんど毎日母を見舞うことができました。初めて母の滞在するホームに行った日、母の乗る車椅子を押して5階のエレベーターホール横の大きなガラスドアの前に立って、外に見える景色を母と眺めていました。実家の直ぐ側の公団住宅とバス通りが見え、その先傾斜に沿って目をやると、なんと母が所属する溝ノ口教会の十字架が見えたのです。その時の驚きは何とも表現ができないものでした。病のために聖書を読むことも賛美をすることもできなくなって久しいのに、主は実家のそばに母をもどしてくださっただけではなく、長年通った教会の十字架が見える場所に住まわせてくださったのです。あの時、母には十字架が見えていたのか、自分の教会の十字架だとわかっていたかどうか、私には分かりません。今思えばむしろあれは、主から私へのメッセージだったのだと思います。それまでの数年間、イザヤ書のあのみことばの一部分に囚われていた私に、主は「みことばの本当の意味から目をそらすな!」と語られたように思えました。
こうして母の入居先がちかくなったことで父は毎日のように母を見舞うことができ、それによって母の状態も落ち着いたようで、また食べられるようになりました。私もその年(2010年)と昨年、夏に滞在していた間は、週に4-5回母を訪ね、食事の世話をしたり部屋で一緒に音楽を聞いたりしました。数回聖書を音読してみたのですが、あまり反応はなく、母の信仰が守られているのかと不安になることもありました。
昨年の11月23日、急遽日本へ向けて出発しました。母が入居先の老人ホームで右肩甲骨の辺りを打撲し、内出血がひどく輸血が必要となり、整形外科のある病院に入院することになったのです。父は春頃から食欲不振に悩まされていましたが、腎臓癌のために右側の腎臓が2倍ほどの大きさに肥大していることが10月の検査で分かりました。そのため、11月末頃に入院して腎細胞の生体検査を受けることにはなっていたのですが、診察をした腎臓内科の医師から即入院して検査するように言われ、父と母がそれぞれ別の病院に急遽入院することになったのです。
実家に着いてみると、父は入院はしたものの、祭日や週末などで肝心の生体検査をいつやるのかわからないと言って、母の入院していることを理由に一晩も泊まらずに帰宅していました。翌日から私は、毎日母に昼ご飯を食べさせるために入院先の病院に通いました。母はアルツハイマー病がかなり進んで、食べることに対する興味も薄れており、また食べ物を飲み込むこともよくできなくなっており、一時間かけてもほとんど何も食べてくれない日が続きました。母のベッドの横でいつまで経っても減らない昼食の盆を見ながら私はとても虚しくなり、「頼むから食べて!主よ、私は何のために此処にいるのですか?」と心の中で叫んでいました。
一週間程で母は退院しホームに戻りましたが、ほとんど摂食できず体力不足のうえに肺炎を発病し、血中酸素量が下がり、退院からわずか5日で治療のためにホームと同じ建物内にある内科のクリニックに再入院となりました。父の生体検査もその週に行われることになり、2日後に父も都内の病院に入院しました。それからの5日間、午前中は父の病院へ行き、帰りに母の病室に赴くという日が続きました。父の検査は無事終了し、順調に回復して予定通りに退院しましたが、母の肺炎は抗生物質を投与し続けていても病気の進行を遅らせるのがやっとという状況でした。その頃からでしょうか、私が母の病床でする祈りが、癒しを願う祈りというよりは主の守りを求める祈りへと変えられました。私だったら、今、何を主に求めるだろうか?「癒してください。でももしもそれが御心でないのならば、みことばの約束の通り、最後まで共にいてください。どうか守り支えてください。」と主に願うのではないだろうか。こんなことを思いながら、母の手を握り祈りました。
延命処置になることはしたくないという父の意向により、総合病院に移って人工呼吸器を使って治療を続けることは断念しました。肺炎は両肺に広がっていて、母は酸素を充分に取り込むことができず、酸素マスクを付けてもかなり呼吸が苦しそうになりました。しかし意識はかなりしっかりしていたので、私の祈りを聞きながら私の手を強く握り返したり、好きだった讃美歌が聞こえてくると一緒に賛美したかったのか声を挙げることもありました。上半身を震わせるようにして息をする母の姿に、十字架の上で苦しまれたイエス様のことを思わされました。
今思うと、母が個室に移ってからの最期の3日間は、私と母がお互いにそれぞれの信仰を支え合うために主から与えられた時間だったのではないでしょうか。私はしゃべることもできなくなってしまった母の祈りを祈り、母は苦しみの中にあっても最後まで主を信頼して生きる姿を私に見せてくれました。母の教会の牧師が訪問してくださった時のこと、母は初め眠っていたのですが、牧師の「聖書をお読みします」の一言に急に目をぱっちりと開け、聖書朗読の間、じっと天井を見つめていました。体は衰弱し切っているのに、母の目には確固たる意志を感じさせるような強さがありました。
「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒行伝16:31)母を天に送って葬儀の準備を進めて行く中で、このみことばがずっと私の中にありました。アルツハイマー病になるずっと前から、母は「たとえ家の都合で自分のお葬式が教会でできなくても、骨は分骨して半分を実家の墓に、残りの半分を教会の墓地に納めてもらいたい」と言っておりました。やがて母は、病気のために教会に通うことも聖書を読むこともできなくなってしまいましたが、その間に主は父の心に母の願いを叶えてやりたいという強い思いを与えて下さり、母は望んでいたとおりに教会で葬儀を執り行うことができ、また、骨も半分ではなくすべて教会墓地に納めることとなりました。母はそんなことになったとは知らずにこの世を去りました。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル人への手紙13:5)という主のことばを信じて、母は主にすべてをお委ねしたのだと思います。まさに、みことばを信じる信仰によって母は救われました。そして、そんな母の最期を見届けることによって、私も救われました。

主をほめたたえよ、わが魂よ、主をほめたたえよ、
われ生ける限りは、主をほめたたえ、
わがながらうるほどは、わが神をほめうたわん。
(詩篇146:1~2・交読文より)

月報2012年2月号より

「賛美と踊りと私」

詩篇150編には『どこで』『どうして』『何を持って』『誰が誰を』ほめたたえるのか書かれています。賛美の形は本当に様々。大切なのはそれが神様をほめたたえる行為である事。私が神様をほめたたえながら踊る時、神様はその賛美の中に住んでくださいます。

‐神様との出会い、受洗の証し‐
私は2004年9月、18歳の時にイタリア・ミラノスカラ座バレエ学校へ編入留学しました。初めての海外、イタリア語での生活に必死で、友達を探す余裕はありませんでしたが、留学生活が半年ほど経った頃、私はミラノ市主催のイタリア語教室に通い始め、そこでリー・ウンジョンという韓国人のオペラ歌手志望の女の子と出会いました。彼女はミラノ賛美教会という韓国教会の信者で、牧師は日本人伝道を使命としていて、そこには日本人のグループもあるのだということを教えてくれました。そしてある日「日本人の素晴らしい歌手が歌うから絶対来て!!!!日本人も沢山いるから!!!」と彼女から猛プッシュを受け、教会のコンサートに行きました。その歌手は工藤篤子さん、賛美の歌を通して伝道しておられる方です。その時は誰にも挨拶せずにさっと帰ったのですが、次の日曜日も私を教会に誘う彼女に押し切られるように、私は日本人のグループの方たちと一緒に初めての礼拝を捧げました。礼拝が終わってから牧師夫人が「聖書の勉強はじめませんか」と声をかけてくださり、私は「勉強したいです」と答えました。こうして受洗前の学びが始まり、神様が全ての創り主であること、自分が罪の性質を持った人間である事、それから解放されるにはイエス様の十字架が必要であることなど素直に信じました。嫉妬深い自分が醜く、いくら頑張って練習しても認めてもらえず、それでもプライドだけは高く自分の負けを認められない。人前で素直になれない。こんな醜い心の中は誰にも見せられない。その頃の私はこのままの私を受け入れて改良してくれるものが必要でした。それはまさにイエス様の十字架でした。このようにイエス様を心にお迎えした私は喜びにみたされました。私の暗かった心は神様の栄光の光で輝き始めました。

‐踊りの賜物‐
2005年7月4日に洗礼を受けた後もイタリアでの生活は続きました。でももう独りではなく神様と一緒でした。生まれたばかりの赤ちゃんのような信仰者だった私を祈って支え育ててくれたのはミラノの信仰の家族でした。特に内村伸之牧師、まり子夫人とは2007年から1年半ほど共同生活をさせていただき、その中で沢山の試練、誘惑、祝福を受けました。私はそのころ、学校を終えてヨーロッパでダンサーの仕事に就くという夢を抱いていました。オーディションの情報を集めてはあちこち飛び回り、そしていつも落胆してミラノに戻ってきました。
そんな私をいつも暖かく迎え入れてくださる内村先生ご夫妻ですが、ある日、見るに見かね、このように声をかけてくださいました。「神様の声を聞いていますか?」「踊る仕事を見つけることは本当に神様があなたに計画しておられること?」「今ミラノにいる事にどんな神様の計画があるだろうね?」正直あまり聞きたくなかったです。バレエの世界は本当に厳しく、仕事を見つけられる人はほんの一握りです。その一握りに入る為に毎日必死に練習します。バレエの事に詳しくない人に口を挟まれるのが私は大嫌いでした。内村先生は私の気持ちを良くわかっておられたと思いますが、その時は、私がその場を立ち去ることを許してくださいませんでした。とても悔しかったですが、事実私は神様を知ってからも自分の願いに縛られ神様の介入を無視して生活していました。内村牧師夫妻は私と真剣に向き合い、ふわふわした言葉ではなく高慢な私の心を砕く為の、鋭く痛い、愛で満ちた嘘のない真実な言葉で諭してくださいました。そして私は自分の部屋でうずくまって祈りました。敗北感でいっぱいでした。『私たちは良くても悪くても、あなたを遣わされた私たちの神、主の御声に聞き従います。私たちが私たちの神、主の御声に聞き従って幸せを得るためです。』(エレミヤ42章6節) 心に突き刺さった言葉に納得するのは私の敗北を認める事を意味していましたが、聖霊様によって、凍っていた心が融かされ、涙となって流れ、私は敗北を認め「主の御声に聞き従います」という告白に導かれました。そして自分の夢をあきらめました。「神様、踊る事があなたの御心でないなら私は手放します。でもこの心に空いた穴を埋める為にあなたが私に願う賜物をすぐに与えてください」と祈りました。神様のために私を用いていただけるなら何でも良かったです。私の中の優先順位が変わった瞬間でした。
『私は彼らを彼らの地に植える。彼らは私が与えたその土地から、もう引き抜かれる事はない』(アモス9:15)   『人の歩みは主によって確かにされる。主はその道を喜ばれる。その人は倒れてもまっさかさまには倒れはしない。主がその手を支えておられるからだ。』(詩篇37:23・24) この御言葉が与えられてから私はミラノ賛美教会に植えられているんだという確信と共に主の助けによる平安を与えられました。
このオーディションで最後、バレエは諦めます、とお祈りして、ミラノから200kmほど離れたビチェンツァという街にあるバレエ団のオーディションを受け、神様の憐れみでバレエ団に採用される事になりそこで4年間踊りました。「そんなに踊りたいなら踊りなさい。しかし私のために踊りなさい」という主の声が聞こえてくるようでした。一度手放した踊りを神様が私の元に戻してくださったこの時から踊りは賜物になりました。ダンサーとして生活しながら思うのは、踊っているときに神様ではなく私自身が主役になっているということです。舞台の上で目立ちたい、どうしたらもっと綺麗に見えるだろう、この人よりも前で踊りたい・・・というように私自身にスポットライトを当てようとしている事に気づきます。そして踊れる事を当たり前のように思い、同僚へのライバル心など自分の心の汚さに落ち込む事や、神様から与えられた五体満足の体に文句を言う事もあります。その度に「私が持っているもので神様から与えられたものでないものは一つもありません、自分を誇りません」、と悔い改め、踊りによって神様を讃え、神様の愛・平安・光・喜び・救い・真実さ・・を表現したいと願う心に変えられることは私が毎日受けている大きな恵みです。『私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身はイエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。「光がやみの中から輝き出よ」と言われた神は私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。私たちは、この宝を土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかにされるためです。』(�コリント4:5-7) これは私の23歳の誕生日に与えられた御言葉です。私は喜びに満たされて、神様を踊りによって伝える事が出来ると確信しました。私が踊っているときに放っている神様からの光は、まだまだ小さく消えそうなろうそくの火かも知れませんが、それでも誰かを照らす事は出来ると信じます。そして、踊りによって私たちの造り主を讃え伝えるために、私の踊りに影響力が与えられるよう祈ります。私は今の自分の姿を愛していますが、今の状態に満足せず私が反射させる神様の光がもっともっと強く暖かく輝くように変わっていく事を願います。

愛する神様、あなたの栄光のため私を踊らせて下さい。私がもっとあなたを知るように。そしてあなたを宣べ伝えさせてください。

月報2012年1月号より

「スモールグループを始めて」

「いまだかつて、誰も神を見たものはありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」
第一ヨハネ4章12節

2010年4月、川崎招待キリスト教会で「家の教会」(スモールグループの一種)のセミナーに参加させて頂きました。今でも深く印象に残っているのが、数人のリーダーの方たちの証です。「家の教会」を始めるまでその効果や継続性に対して懐疑的であったこと、始まってからグループ内で感情的なもつれが生じて苦しんだこと、これまでずっと自分が精神的に頼っていたのは神様ではなく他人であったことを示されたこと、などをお分かちしてくださいました。証の中で、この方たちは時間が作れないはずだったのに「家の教会」を始めてから作れるようになった、集中祈祷で神様に自分の葛藤を全て注ぎだして自分の罪が示された、「家の教会」リーダーとなり一回り成長することができた、と報告してくださいました。
私達は不可能だと思うとき、何も頼るものが無いときに、また自分の弱さを知るときに、神様の示しに従うことができるか試されるように思います。私も最近、なぜ自分がリーダーになる必要があるのか?他にもっと適した人がいるではないか?という思いが心を占める経験をしました。一つには日本では小学生の頃から班長や学級委員などが選ばれる時に、面倒くさいからやりたくないから他の人にやらせようというクラスの雰囲気があったり、またリーダーには必要な知恵や助け手が与えられず孤軍奮闘するというイメージが定着しているからといえるでしょう。しかし神様の選びは、日本の公立学校でお荷物のように選ばれる学級委員などとは異なり、必要なサポートも与えられ、いつも最後には私たちを生かしてくださると信じる必要があります。
さらに最近、なぜリーダーを経験する必要があるのか?という記事を読む機会がありました。確かに適材適所という言葉が示すように、全員が同時にリーダーになる必要は無いですし、逆に方向が決まらずにグループがバラバラになってしまうように思えます。聖書にも「あなたがたはキリストの体であって、ひとりひとりは各器官なのです。」とあります。ではなぜ、それでも自分がリーダーに相応しいと思えなくても私たちはリーダーを経験する必要があるのでしょうか?それはリーダーを経験したことがある人は、他の人がリーダーになった時に、リーダーを尊重し、自分がどうグループに貢献することができるか考えることができるからだ、といいます。私もこれまでリーダーの方の苦労を知り、自分にできる貢献をすることによりグループをまとめる手助けをするという視点があったか?と反省させられました。リーダーを批判することばかりしてきたのでは無いか?と。
わたしたちのスモールグループは、短期的にニューヨークに滞在している方も含めて、女性7名で守っています。週一回のペースで集うことについて時間的な懸念がありましたが、いまのところ一人のメンバーの洗礼式があった週を除いて、欠かさず持つことができています。スモールグループの目的は、御言葉の分かち合い、霊的・精神的なサポート、アカウンタビリティー、祈祷課題や感謝報告を安心して分かち合える場所となることなどです。そして、ただの自助グループではなく、常に神様から頂いている恵みに満たされるような場所となることを願っています。
今わたしたちのグループが願っていることは、このグループが伝道の器として用いられることです。NJの教会にいくことができないNYにおられる方々のための飛び地伝道所としての働きができるように、切にお祈りしています。

月報2011年12月号より

「この一年を振り返って」

私にとって皆さんと過ごすことのできた一年間はあっという間でしたがとっても実りの多い一年でした。お一人お一人にお会いできたこと、祈りあえたこと、礼拝を共に守れたこと、行事に参加できたこと、挙げても挙げてもつきないほど私の中で神様に感謝でいっぱいになります。
昨年の10月末、まだ半袖で過ごしていたヒューストンから念願のニューヨークにとりあえず3ヶ月、仕事のため一人でやって来ました。アパートにスーツケースとかばんひとつで着いた時、アメリカに初めて来た時を思い出しました。夜になってももちろん夫は帰ってこないし、夜寝るときも一人だし、寝てるときもいびきは聞こえてこないし、なんだか慣れない生活が始まるんだという実感が沸いてきました(次の日主人は週末を使って来たのですが)。
仕事初日の前日、ニュージャージー日本語教会に初めて夫婦で行きました。ニュージャージーの教会に行こうと思った理由は10年前のサマーキャンプで、イエス様は私の罪のために十字架に架かってくださったと私の心に力強いメッセージをされたのが錦織先生でしたので、もう一度お会いできることを楽しみにしていたからでした。礼拝中の挨拶の時間やお茶の時間に本当にいろんな方に声をかけていただき、とっても歓迎された気持ちになり、次の週も来たいと思いでいっぱいになりました。仕事も、同僚も、生活も慣れないこと続きで不満がたまっていた次の週、やはり礼拝中の挨拶の時間に「今週もお目にかかれてうれしいわ。」とか「お元気でしたか?」という簡単な挨拶からでも神様の愛が伝わってきて胸がいっぱいになりました。次の週もまた来たいと思い、次もそのまた次もと結局一年お世話になりました。
仕事にも生活にも慣れていくうちに色々ハッと気付かされました。JCCNJでは受難週の集会、地域の集会、修養会、集まる毎に小さいグループに分かれ祈ることが多く、それほど親しい仲ではない私にも祈りの課題を分かち合って、ただおしゃべりをするだけではなくて、私のためにも祈ってくれるという関係が私には新鮮で、これって兄弟愛だなーと思わされました。一人ひとり課題があり、大変な中を通ってはいるのですがそれも分かち合い、共に今与えられている自分の役割に忠実に歩んでらっしゃる集まりで、すばらしいと思います。
もうひとつはヒューストンでは、いつから夫と一緒に教会にいかなくなったのか覚えていないくらいで、私にとってそれは優先順位の低いことだったことにも気づかされました。夫にとってもJCCNJは男の人もいて話ができる人がいるまた行きたくなる場所だったのだと思います。大好きだった仕事ですが優先順位が変わり、妻であることも神様の召しであることを喜んで受け入れられるように私も変えられていきました。

聖書の中でパウロが皆さんを訪ねたいと何回も出てくる気持ちが今はもっと理解できます。皆さんと交われ、教えられた一年私たち夫婦には宝物です。またお会いできる日を楽しみにしています。

月報2011年12月号より

「洗礼に導かれて」

私は明治生まれの父と大正生まれの母の元、2男4女の6人兄姉の末っ子として躾の厳しい家庭に育ちました。そんな私が家族の大反対を押し切って国際結婚をして2人の娘に恵まれました。言葉も習慣も育ちも違う二人ですから、喧嘩もよくしました。
私の家庭は仏教ですが、夫はカトリックだったので娘たちは生後3ヶ月で幼児洗礼を受けました。私と神様との出会いはこの時からです。しかしながら、私は親の反対を押し切って結婚したので、親不孝をしている思いから、国籍と宗教は親の生きている間は変えない方がいいと考えて居ました。
母は80歳を過ぎてから、胆石、胆管炎、腎臓結石と3回の手術をしました。86歳の時には動脈瘤が見つかり、手術をする筈だったのですが、若い人なら血管も弾力性があり、手術にも耐えられるけど、母は年齢的にも血管がおせんべいの様にバリバリになっている為に、体力と血管が手術に耐えられるか、五分五分だと主治医からお話がありました。選択肢は好きな物を食べて普通に生活をさせて上げて3~4ヶ月か、手術をして、万が一成功してもずっと病院で完治をするまで耐えられるかどうか、という話でした。そして父の下した判断は今のままで好きなようにさせて上げたいという事でした。そして兄から連絡が有り、最後のお別れになるかも知れないので直ぐに帰って来るようにと言われて、急遽、母の看病に帰りました。
その頃、夫はアメリカ空軍をリタイヤして教師をしていたのですが、横須賀基地の中にある軍人の子供達が通う学校に移動が決まっていました。9月には転勤になるのでそれまでは、母に頑張って居てほしいと思っていたのですが、7月末に母は亡くなり、父からは9月に帰ってくるのだからお葬式にはかえって来なくてもよいとの事でした。今も母を思い出すと亡くなった姿を見ていないので元気に笑っています。
父は70歳の時に大腸癌を手術してそれから20年再発もなく元気になって、陶芸に没頭して母が生きている時から二人で仲良くやっていましたが、母がなくなって、2年後に腸閉塞で亡くなりました。その頃、私は日本に居たにもかかわらず仕事をしていたので、父は元気だったし何時でも会えると思っていました。知らせを受けて病院に駆けつけた時には、手術中でした。それから2日後に目を覚ます事もなく亡くなりました。私は母の時はお別れが出来ていたのですが、父は突然だったので、悔いが残りました。
その頃、夫は横須賀基地内の学校を辞めて、日本の大学で講師として教鞭を取っていました。日本には2年の滞在のはずが11年も住んでいました。
その間には次女が結婚して、二人の孫が出来て、長女も結婚して、待望の赤ちゃん(ジャック)が生まれました。しかし出産して3日後に退院する直前に心臓に2箇所も欠陥が見つかり、直ぐに手術をしなければ命にかかわるということで、大手術を受けました。
私は、産後の手伝いに日本から来るはずだったので急遽日にちを変更して飛んで来ました。病院に直行してジャックを見た時には声も出ないくらいのショックでした。胸には大きな絆創膏が貼ってあり体中に管が着いていて、顔はパンパンに腫れあがり、可哀想で涙が止まりませんでしたが、それでも大きな泣き声ですごい生命力を感じました。娘はこの子は神様が授けてくれたんだから大丈夫だと気丈に看病をしていました。
ほんとに神様はこの子を助けてくれるのか半信半疑な気持ちでした。娘夫婦は朝に晩に病院内の教会で祈り、自分達が行っている教会の牧師さんや仲間には励まされ、お祈りをしてもらっていました。それから10日後、副作用もなく、傷口は痛々しいのですが、7ポンドの小さなジャックは家に帰ってきて、傷も日増しに完治していき、この時は、神様ありがとうってほんとに感謝しました。

私の夢は、将来は夫と孫の面倒を見たり、ホリデーには家族で集まったりして、みんなで楽しく、そして老後はあちこち旅行などして、ゆっくりと過せたら、なんて思っていました。子育ても夫の転勤先にも付いて行って、仕事もして、慣れた頃には又移動でしたが、その夢に向かっていました。
でも、夫の夢は、私とは同じ方向に向いてなく、残り少ない人生で、もう一度青春を取り戻したい、その思いが年齢を重ねる事に大きく膨らんでいったようです。
それから、私の苦悩の日々が幕を開け、5年間は精神的にズタズタになっていました。娘達にも心配を掛けてしまい、疲れ果てて、40年間の結婚生活に幕を降ろしました。親の離婚は大人になった娘達にも深い傷を負わせてしまいました。私は親の反対を押し切って結婚したのだし、夫も離婚なんて絶対しないと言っていたので、一人になってこれからどうしたらいいか、日本に居る兄姉たちは日本で暮らしたほうがいいと言ってくれたのですが、とにかく長女の居るニューヨークに行こうと決心をして、今まで両親の位牌を置いて、毎日朝のお参りは欠かさずしていた私が、心機一転、位牌を兄に頼んで、私は孫の命を救ってくれた神様のところへ、娘の教会に行きたいと思っていました。
ところが、娘たちはもう完全なアメリカ人であって、日本のように親との同居なんて、考えないし、有り得ない事。そこへ私がボロボロでやって来たのだから、青天の霹靂です!「しかし、今は母を受け入れなくては・・・。来てしまったのだから。」というところだったのでしょう。
それからは私と娘と婿殿の葛藤の日々が続きました。娘達の教会に行っても英語なので分らず、パスターも教会の方々も、私のお友達探しをしてくれるなど、優しい方ばかりでしたが、毎週行っているうちに、自分にあった教会を探したいと思うようになりました。2箇所ばかり行ったのですが、なかなか、「ここだ!」という教会にめぐり合えませんでした。離婚の手続きのために、娘が親の間に入って苦しんで傷ついて、気の毒な事をしました。娘はパスターや教会の皆様にお祈りしてもらっていました。そのときにはわかりませんでしたが、私もその祈りの中で、神様に助けていただいたのだと思います。
そして、月日は一年以上も過ぎて、娘夫婦と私の間の溝が大きくなっていく中で、神様にニュージャージー日本語キリスト教会に導かれました。あの時の感激は今も思い出します。やっと出会えた・・・と思いました。ほんとに嬉しかったです。
そして錦織先生との面談、バイブルの勉強、礼拝、一日も欠かさずに楽しくて仕方がありませんでした。そんなある日、初心者のためのバイブルの勉強をしていた時です。終わりに近付いてお祈りをする頃に、二人の若い女の子が入って来て先生と挨拶をしました。その瞬間、私はこの一人の女の子が別れた夫の新しい奥さんだと気づいたのです。
それは、夫が新しい人と住んでいた所から、ニュージャージーに引っ越して来ているのを娘達にメールで知らせて来ていたからです。娘とミツワや美容院、ドクターに行くたびに「会わなければいい」と何時もヒヤヒヤしていたのに、教会で出会うなんて・・・。私は礼拝堂に入り、彼女が前の方で座っている姿を見ながら、夫に対しての悔しさとか未練とかではなく、やっと好きな教会に出会えて、神様に助けを求めて来ているのに、何で、こんな事が起きるのか、私は直ぐに席を立って教会を出ようと思いました。でも、何で私が出て行かなくちゃいけないの?神様が導いてくれたんだから、何故?こんなひどい出会いを神様は私にさせるのか?涙が止まりませんでした。
そして先生のお話を聞いてるうちに、逃げない。ここは私が救われる教会だから。そして、神様が助けてくれました。この日から私の洗礼を受ける決意が固まったように思います。
今思えば、あの時の出来事は、神様が何時もヒヤヒヤして毎日を送っている私に、「私を信頼しなさい」と、荒治療をして下さったような気がします。そして10月21日に洗礼を受ける事が出来、感謝してます。

これからは迷う事無く神様の導いて下さる道を歩んで行きたいと思います。

“The Lord will watch over your going out and coming in from this time and forever.” Palms(詩篇)121:8

月報2011年11月号より

「911を振り返って」

ちょうど10年前の今日9月11日、忘れもしない雲ひとつない真っ青な秋空でした。私はちょうど第一機めが突っ込んだ世界貿易センターノースタワーの道を挟んで西側のワールドファイナンシャルセンターの20階、世界貿易センターに面した東向きの窓の近くの席で働いていました。
第一機目が突っ込んだとき、朝7時から働いていた私は、自分の席を離れて仕事を一緒にしていた一人のアナリストの個室にいましたが、ビルの上の階が吹っ飛んだのかと思うくらいの爆発音と激しい振動を感じました。驚いて窓をみたところ、燃えている瓦礫が滝のように降ってきていたのが見えました。これはただ事ではない。とっさにそう思いました。窓側に座っていた人達の顔が引き攣り真っ青になって“Get out!!”と叫び、一斉にみんなが非常階段に向かって走り出しました。自分のカバンを席まで取りに戻るかを一瞬考えましたが、走り出した人達のただならぬ雰囲気に圧倒され、一緒に流れに吸い込まれるように非常階段に向かいました。
非常階段から降りて外に避難したのは、私たちのビル南側のロータリーのところで、ちょうど世界貿易センターサウスタワーと同じストリート上にいました。ノースタワーからまっ黒な煙が大きく南へ流れているのが見えました。少し経って誰かが飛行機が突っ込んだらしいと言っていましたが、最初は商業用セスナ機かヘリコプターか何かだと思い、テロだとは夢にも思っていませんでした。
爆発音と同時に逃げた私たちは、何が起こったのかの事実も情報もわからないまま、ただ為す術もなくボーっと煙を見ていたのですが、そのうち何かがパラパラと落ち始めました。誰かが「あれは人だ!」と叫びました。それは紛れもなく飛び降りている人間の姿でした。信じられない光景でした。
あの人は朝、地下鉄で隣に座っていた人かもしれない。信号で止まっていたとき、前にいた人かもしれない。前を歩いていた人かもしれない。もしかしたら私が知らないだけで同じ時間に通勤してすれ違っていた人かもしれない。その人達が私となんら変わらないこと、その人を自分の生活の一部に見たように思えて見るに耐えられなくなり、ハドソンリバーの方に目を背けました。ちょうどその時対岸のNJ側で、ニューアークに行くには低い高度で飛んでいる飛行機が一機見えました。それが、後ほどマンハッタンに向きを変えサウスタワーに突っ込んだ2機目の飛行機になるとは、その時私は思いもしませんでした。
周りにいた人達は、口に手を当てながら“Oh my god!”“Oh shit!”思い思いに叫びながら見ていましたが、2機目が突っ込んだとき、サウスタワーのほぼ真下にいた私達の誰一人、声を発することができないほどの衝撃でした。一瞬の不気味なまでの静まり返った静寂、そして次の瞬間、人々は絶叫しながら南に向かって一斉に逃げ始めました。それは対岸の火事だと思っていたことが、自分の身に危険が及んでいることを感じ取った瞬間でした。かわいそう、大丈夫なの?あの人達はどうなるの?と思っていたことが、他人事ではなく、まさに今、自分に降りかかっていることなんだと認識した瞬間でした。
転ぶ人もいました、かばんを投げ捨てる人もいました。靴も散乱していました。逃げている最中は何がなんだか分かっていませんでした。しかし、ある程度南に逃げてグラウンドゼロから少し離れたところに行けば、そこはまるで何もなかったかのように穏やかなバッテリーパークシティーの住宅地域で、公園と川辺にプロムナードがあり、快晴の青空の下、暖かい日光を浴びてプロムナードの石の上に腰を下ろしていると、30分も経った頃でしょうか、落ち着きを取り戻して、明日どうやって会社に行けばいんだろう?とか、このまま家に帰ってもいいかな?とか、アパートの鍵も財布も携帯も置いてきたしどうしよう?などと呑気な事を考えていました。
その時です。ゴォーという地響きみたいな音に気づき、目を上げてみると目の前でサウスタワーは上から押し潰されるように崩壊し始めました。崩壊して行ったそのサウスタワーの80階で少しだけ私は働いていたことがありました。私はあそこに居たかもしれないと思いながら、これって本当のことですか?目の前で起こっていることが現実だとどうしても思えず、ショックで突っ立っていました。足が動きませんでした。もくもくと煙がこちらに向かって押し寄せてくるのが見えました。まるで映画のようでした。「戦場みたい。」戦争をしらない私が言うのも変ですが、何故かそう思えました。
そこに居た知らないチャイニーズアメリカンの女の子と、気がつくと手を繋いで一緒に走って逃げていました。どちらが言葉をかけたわけでもなく話した記憶もなく、たまたまそこに居合わせて、でも思うにきっと、同じ思いを無意識のうちに感じ取っていたのかもしれません。一人で逃げても二人で逃げても死ぬときは同じで状況は変わらないのですが、不思議と手のぬくもりが恐怖を和らげ、一人じゃないと感じることができて、そのぬくもりに何故か涙が出そうなほど励まされ勇気付けられました。
人間は一人では生きていけないものですね。実は2機目が突っ込む前、私はノースタワーから手を繋いで2人で飛び降りている人達を見ました。とてもショックでしたし、もし自分だったら、とは思いましたが、それでも全く自分のことのようには思えませんでした。なぜなら肉眼であっても、私は安全なところで見ていたからです。一人で飛び降りても二人で飛び降りても地面に叩きつけられて死ぬのは同じですが、その時、私はその人たちの気持ちがすこし分かったように思いました。どんなに怖かったでしょうか。2度のタワー崩壊の灰を2度被り、その後私はCNNのレスキューボートでチェルシーピアまで無事戻ってくることができました。
多分多くの方々は、リアルタイムで奇跡的に助かった生存者と、亡くなられた方々の話をニュースで聞いていらっしゃると思いますが、私が働いていた野村證券も2名の日本人の方が亡くなられました。皮肉なことにその2名の方は、NY支店で働いている方ではなく、世界貿易センターのノースタワーであるセミナーに参加するために、前日東京からこられた出張者のお二人でした。当日彼らは朝7時に私と同じフロアーでセールス、アナリストの人達と会っています。そしてその後、セミナー前に最上階にあるウィンドーアンダーザワールドに朝食を食べに行かれ亡くなられました。嫌な言い方を許されるとすれば、わざわざNYに死にに来られたとも取れるこの皮肉な運命に、なんとも納得できない気持ちでいました。普段なら居ない人がなぜか被害に遭われた。いつもなら居る人なのに、子供がぐずったから、出掛けに何かが起こったから、下にベーグルを買いに行ってたから等、偶然とは片付けられないようなエピソードを山ほど聞きました。一体これは何なのだろう?私たちには考えも及ばない何かがあるように感じてはいましたが、それは「運命」とか「宿命」とか、そういうもののように思っていました。
その当時の私は、宗教と政治、お金は切り離せないものだと思っていました。自分の宗教をリスペクトしないから相手を殺す。そういう宗教も存在していますし、日本で宗教とされる神道や仏教は、冠婚葬祭など伝統的な儀式的な意味合いが主であって、政治色の強い過激的なものは感じられず、宗教なんてそれでいんじゃないの程度に思っていました。ジョンレノンのイマジンの歌詞のように、天国や地獄がないと思えば、宗教がなければ、人は殺し合い死ぬこともない。戦争や飢餓、貧しさをなくす為に、すべての人類が国や宗教を超え兄弟として世界がひとつになることが、宗教より大切で必要なことではないだろうかと当時は思っていました。
しかし、10年経った今、その時と今の私の大きな違いは、私はクリスチャンであり、神様の存在を信じていることです。この世には、神様が本当にいるの?と思うようなことがあります。天災、戦争、テロ、虐待、いじめ、飢餓、貧困等があり、この先もなくならないでしょうし、人間の残虐さ、身勝手さを見る度に、この人のためにも神様は死んだの?と疑問を感じることもこれからもあるだろうと思います。自然の恐ろしさに何故こんな惨いことが起こるの、神様がいるのに?と何度もまた同じところに戻り、立ち止まることもあるだろうと思いますが、それでもクリスチャンになった今、私は信じない者ではなく信じる者になりたいと思っています。
聖書を学ぶようになってこの世が本番ではなくリハーサルのようなもの、この世が全てではないことを学びました。キリスト教とされる私たちが信じている神は、宗教ではなく真実であることを知りました。
何故信じる者になりたいと思うようになったかというと、それは、礼拝のメッセージを通して繰り返し繰り返し聞く神のみ言葉と、真実で正直なクリスチャンの証の中に、ただの知識や絵空事ではないものを感じ取ることができたからだと思います。
人は他人を100%理解することはできません。相手の立場に立つことも難しいです。同じものを見ても聞いても、人それぞれ感じ方も心に残るポイントもリアクションもそれぞれです。しかし、テロリストも含め亡くなった全ての人に共通していることは、その一人ひとりに生きてきたストーリーがあり、一人ひとりの思いがあり、産んでくれた母親がいて父親がいて家族友人がいること、神様から命を受けこの世に存在していたこと。正義と悪だけで単純に片付けられないひとりひとり命の重みがあったこと。を思います。生も死も私たちの理解を超えて、神のみの領域のように思えてなりません。洗礼を受けるまで多くの疑問をぶつけては、納得できないと神を信じられないと思っていた私ですが、私たちの理解や納得自体が、すごく小さなことで、私たちの理解を遥かに超えた大きなものがいっぱいあることを、自分の理解力をどれだけ過信していたのかも思うようになりました。
アブラハムのように行き先(将来)が見えなくても、ノアのように何の兆しが見えなくても、自分が何ができるわけでもなく何も変えられなくても、自分が願っていることが叶わなくても、それを超えてもっとずっと先にある、神様が用意してくださっているものを信じて、神様と共に働く者になりたいと思いました。信じること(信仰)にしか得ることができない希望を、私も持ちたいと思いました。

最後に、イマジンではなく、このマザーテレサの祈りを911と震災で亡くなられた方々と遺族に捧げます。911と震災を通して私たちがさらに神様に近づけますように、私たちが愛ある人へ導かれますように、そして、神様と共に働く者とさせていただきたいと願いを込めて、お読み致します。
『兄弟姉妹の中にあなたを』マザーテレサ
主よ、私たちの目が
兄弟姉妹の中にあなたを見出しますように。
主よ、私たちの耳が
苦しむ人々の叫びを聞き取りますように。
飢えと寒さ、恐怖と抑圧に
さいなまれる人々の嘆願を。
主よ、私たちの心が
互いに愛し合うことを学びますように
あなたが私たちを愛されたようにその同じ愛で。
主よ、あなたの“霊”を
今日も私たちにお与えください。
あなたの名において
私たちがひとつの心
ひとつの魂となれますように。アーメン。

月報2011年10月号より

「一人の人のために立ち止まる」

この夏、私はIris Relief Japanというクリスチャン伝道チームのボランティア活動に2週間参加して、3月の地震と津波で大きな被害を受けた仙台と石巻に行きました。この体験は、私の人生において最もすばらしい体験と言っても過言ではないような、驚異的なものでした。

アイリス・チームの活動は、福音を伝えることを第一としています。毎日私たちは避難所や仮設住宅に出かけたり、仙台の街を歩き回って、多くの人々と話をして、傍らに座って話を聞き、祈り、御言葉を語り、時には癒しや奇跡も行いました。私達は聖霊に完全に覆われて、神様は常に私達の行動の中心にいてくださいました。

この2週間の間とても多くのすばらしい出来事が起こりましたが、その中から仙台の路上で伝道中に出会った一人の男性についてお証ししたいと思います。私達は2回、夜中の仙台の繁華街を歩き、酔っぱらいや売春婦達に伝道しました。少し怖い経験でしたが、2週間の体験の中で一番心に残るものになりました。

2回目に夜の繁華街に出ていった時のことです。私のチームが裏道に入ってパチンコ店の横を通り過ぎた時、メンバーのうち二人がそのパチンコ店に入るように神様から語られるのを感じました。正直なところ、私は怖くて中に入りたくありませんでしたが、通訳をしなくてはならないので、仕方なく彼らについて中に入って行きました。パチンコ店に入るのは初めてで、そこはまるで地獄のような情景でした。ずらりと並んだパチンコ台の前で、人々は催眠術にかかったかのようにスクリーンに見入っている。スクリーンには怪物や燃えたぎる炎などが次々と映し出される。そして凄まじい音!小さな金属の玉が機械からジャラジャラと流れでて、タバコの煙と体臭が混じってひどい悪臭が充満していました。

それでも私達は神様に「誰に話しかければいいのですか?」と問いかけながら進んで行きました。ぐるっと一周して入口近くに戻ってくると、そばに漫画が並んだ本棚があり、その横のソファーで一人の男の人が漫画を手に座ったまま眠っていました。私達が彼を見ていると、急にその手から漫画が落ちて彼は目を覚ましました。今から思えば、あれはきっと「この人に語りかけなさい」という神様からのGOサインだったのでしょう。

その人は、津波で自宅が全壊してしまい、自宅付近の避難所で2ヶ月生活した後、生活を立て直そうと仙台市内に出てきたのだそうです。私達が訪れた頃、仙台市の中心地はかなり平常に戻っていて、東京と同じようでした。しかし、彼は仙台で住む所を見つけられず、ただ市内を放浪していたのです。話を聞くうちに、私達3人は神様から同じようなことを語られました。それは、この人は行き場がなくてさまよっているだけじゃなく、心も魂も失ってしまっていて、何かを求めているのだということでした。彼は答えを探していました。どうしてあんな津波が起こったのか、何故善人が死んで悪人が生き残ったのか、何故自分は死ななかったのか。もし死んでいった人々を生き返らせることができるのなら、自分は死んでもかまわないと彼は話してくれました。

私達は彼に、神様は津波の被害に深く悲しんでおられる、決して津波が起こることを望んでおられたのではないと伝えました。神様が天地を創造された時、地震や津波は造られなかった。平和だった世界に罪が入ったことで、すべてが変わってしまったということ、そして、神様は私達に自由な意志を与えてくださったから、人は善と悪の両方を行うのだということも話しました。

彼に聖書を手渡してお祈りをして、近くの教会の連絡先を教えました。最後に彼はこう言いました。「電話するよ。この聖書読んで分からないことがあったら、この番号に電話するよ。」私は彼が、聖書を読んでみよう、電話してみようと思ったのだと信じています。

このパチンコ店の男の人の話は、災害に見舞われた多くの人々がたどってきた道と似ているのではないでしょうか。だからこそ、この話は私にとって一番思い出深い話なのだと思います。彼には神様が必要です。地獄のような状況で疲れ果て、心に深い傷を負い、多くの疑問を抱えているのです。仙台では多くの人々が同じような状況にあります。しかし、神様は働き手を送られます。イエス様を送られたように、人々を愛するようにと私達を遣わされます。そして、私達が人々を愛し、寄り添い祈る時、神様が私達のうちに働いてくださるのです。

この他にも病気やケガの癒しや奇跡など、もっとすごいことも体験しました。でも、このパチンコ店でのでき事のような体験のほうが、私の心には強く響いています。私達がIris Reliefでしたこと、人々と話をしたり寄り添うこと、それは2000年前にイエス様がされたことを思い出させてくれました。マタイ、マルコ、ルカ、そしてヨハネの福音書にはイエス様が一人の人のために立ち止まり、その人の横に座り、苦しみ悩みを聞き、祈り、その人を愛したという記述がたくさんあります。これこそが、神様が私達一人ひとりに求めておられる務めなのだと思います。一人の人のために立ち止まり、その人と話をするためならパチンコ店にでも入っていく、そしてその人を愛して救いへと導く。

Irisのメンバーは確信をもってこの方法で活動しています。一人ひとりのために立ち止まり、ハグして、神様の愛を降り注ぐ。もう一度繰り返しますが、その人を私達が愛した時、神様が私達のうちに本当に働いてくださるのです。最後にIris Reliefのリーダー、Yonnieが私達に教えてくれた言葉で締めくくりたいと思います。

「私達の仕事は人を愛すること、その人を癒すのは神様のみわざ」

月報2011年9月号より

「11年前、私が家族と共に…」

初めての礼拝
 11年前、私が家族と共にアメリカの西海岸のサンノゼに着いたばかりの頃でした。私の父の知り合いのTさんに台湾系キリスト教教会へ連れていってもらったのが、教会との付き合いの始まりでした。Tさんが、「誰でも外国へ来たばかりの時は、知り合いも無くとても不安なものだ。そういう時、教会というコミュニティで仲間を見つけたり情報交換や情報収集をする場でもあるから来たらいいよ。」と教えてくれました。なるほど、お祈りや礼拝以外にも、教会にはそんな利用方法もあるんだと知りました。不慣れな外国生活でしたので、毎週礼拝にも家族で参加をしました。そのついでに情報を仕入れることも出来ました。その教会では中国語での礼拝、中国語の聖書しか置いていなかったので、私は数回でギブアップしてしまいました。始めて教会に足を踏み入れた私にとっては、未知の世界に等しかったのです。唯一のより所である聖書が無くてはと思いました。サンノゼでの1年は過ぎ、その間私の妻は洗礼を受けました。主がわれわれ家族をこの地を目指すよう、導いてくれたことに感謝します。

聖書
サンノゼでの生活も1年を迎える頃、日本でも仕事で4年間生活をした経験のある、Sさんから1冊のポケットサイズの日英対訳の新約聖書をプレゼントされました。この聖書はSさんが日本に滞在していた頃に購入したものとの事。これでやっと私も自分の聖書を持つことが出来たと大変喜んだのですが、新約聖書はマタイの福音が冒頭にあります。たいていの人は誰でも、書物は1ページ目から開いて読もうとするでしょう。しかしこのマタイの第一章の17節までを読んで理解することは、至難の業のように思えてなりませんでした。こんな系譜のような長い文章を暗誦するなんて出来るわけが無い。最初から大きな高い壁にぶつかったような気持ちでした。何の予備知識も無い私が読むのはやはり無理がありました。いつか読むぞと、常にコートのポケットには入れて持ち歩いてはいました。しかしニュージャージーの教会へ行くまでの数年間、聖書を開いて読むことは稀でした。

ニュージャージーで再び
メリーランドで1年半を過ごした後、8年前にニュージャージーに越してきました。ここの生活にも慣れ、暫くは移動も無いだろうと、5年程前、ニュージャージーの北部で私の妻が教会を探していたところ、付近の中国系のスーパーであるクリスチャン同士の会話を耳にし、問い合わせたところWyckoffにキリスト教教会があることを聞き出しました。中国語での礼拝だったので、当初は私の妻だけが礼拝に参加をしていました。暫くの後、英語の礼拝もあるからと妻に誘われました。少しでも英語が解るなら行った方がいいと、私も娘と共に英語の礼拝に参加するようになりました。私も一生懸命集中して聞いていると、メッセージの輪郭がぼんやりとだけですが伝わってきました。また、メッセージを聞き終えた後“心地よさ”のようなものも感じました。

Sinと罪
私が英語の礼拝で特に興味を示したキーワードが“SIN”という句でした。礼拝ではSINまたはSINNERという言葉が頻繁に出ていたのを覚えています。それからそれが“原罪”と日本語で訳されていることを知りました。日英対訳の聖書でも”Sinは罪”と訳されているので注意をすれば解るのですが、私の知っているレベルの英語では、罪人はCriminalという言葉しかありませんでした。Sinには私の知っているCriminalとは別の意味があるんだと。私の持っていた新約聖書だけでは物足りなく感じました。そもそもコンサイス聖書などは、聖書を読んだことのある人が旅行用に持参するのには便利だが、礼拝では旧約をよく参照することがあるから、旧約の無いこの聖書は私にはとても不便でした。どうしても日英対訳の新旧約聖書でしかもNIV版の訳がいいと、オンラインでその聖書を買い求めました。自分で聖書を買ったぞという満足感がありました。手元に届いた時、真っ先に読んだのが、“伝道者の書“でした。聖書の内容にもこんな文学的な箇所があるんだと感動しました。
ニュージャージーに来てから、われわれ家族にとって教会はすでに情報収集の場としてではなく、神様に祈りをささげられる教会としての神聖な場所でした。

聖書の読み方
以前ハーベストタイムと言うテレビ番組がありました。フジサンケイニュースのあと、テレビをつけっぱなしにしていると、次がこの番組であったのを覚えています。私が実際に観たのはそのホームページにあるルカの福音を扱った19回から成る放送でした。聖書の内容について、どのように聖書を読んだらよいのか、解りやすく説明がしてありました。その頃は英語の礼拝にも行かなくなりました。しかし、妻は私に、日本語の教会に行くことを勧めてくれました。インターネットで検索した結果、付近のいくつかの教会のホームページが掲載されていました。教会の中にはカルト集団もあると聞かされていました。何度もそれらの教会の主旨を読み返しました。私の目にとまったのが“福音主義信仰に立つ単立教会”と書いてあった本教会のホームページでした。この教会へ行ってみようと決心したのはこの一言に尽きます。いや、それ以前にも何度もここの教会のホームページは開いていたのですが。

決心
実は今年の春、中国語教会のL牧師のお母様が天に召されました。私もよく知っているL牧師でしたので、葬儀から帰ってきた妻に私は、「どうだった?」と何気なく聞きました。私の質問自体が妙な質問でしたが、「満面幸せそうな微笑をたたえてたよ」と私の思惑を察したように妻は答えました。私は信じました、そして感じました。この方も主を信じ、主にすべてを委ね、生死をも越えて主と共に歩んでおられるんだと。今でもこの一件は強く私の脳裏に焼きついています。私の曖昧な気持ちを打ち消して、新たな生まれ変わりを決心するエピソードでありました。「信じるものには永遠の命がある」ヨハネ6:47
今年の3月の第一日曜に私の聖書と決断を持って、この教会の礼拝に参加しました。心の霧が拭き取られたようにすっきりしました。毎週の礼拝で語られる御言葉が静かに私の中に染み入り、魂の渇きが癒される思いがしました。3月中旬から錦織牧師宅での聖書入門コースを受講、最後の受講が終わった時点で私は錦織牧師に信仰告白と洗礼のお願いをいたしました。受講以前から洗礼を受ける決心は固まっていましたが、錦織牧師へ告白した時はかなり緊張をしていたのを覚えています。
6月12日晴れて洗礼を受けることが出来ました。主イエスキリストを信じ、主と共に歩むことは、生まれ変わった私にとってのよろこびであります。この証しを通して私は“自分の魂は生かされているんだ“という実感と共に、私に信仰への導きと生命を授けてくれた神様へ感謝いたします。「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない」ルカ21:33

月報2011年8月号より

「生かされている使命」

「私の家も流され、家族とも会えず、病院には沢山の方が集まっているのに、食べ物も、薬も限界で・・、私も廊下で寝ているんです・・。」震災5日後に、ニュージャージーから石巻の病院に電話をしたときに、電話に出た看護師はそう言いました。それが始まりでした。

今回4,5月と一時帰国し、東北の被災地でのボランティアに行って参りました。宮城県塩釜/多賀城に2週間、石巻に1週間、一度関東に戻って、再び宮城県山元町に15日間、郡山の友人を訪ねた後、石巻の河北町に1週間、それぞれの避難所で看護師ボランティアの活動でした。
この間、被災地の教会を訪問する時間が与えられ、配るための教会案内を頂いたり、物資や聖書を届けてくださる方、助け人も、活動場所へ送られ、共に祈り会うことも出来ました。それは、私一人の行いではない、主が共にいて下さり、皆様の、多くの祈りとサポートをひしひしと感じ、心が熱くなる2ヶ月間でした。
被災地の悲惨さは、想像を絶するものでした。
くの字に折れた電柱、そこに突き刺さった漁船。小学校のプールや家屋に突っ込んだ、車や船。百メートル以上も流された家屋の一部、粉々になった瓦礫の山。2階建ての屋上に乗ったバス。鉄骨の枠だけ残った教習所とぺっちゃんこのバス。真っ黒焦げの学校と積み重なった真っ黒焦げの車やドラム缶もろもろ。海岸近くは、頑丈な堤防が崩れ、コンテナーやドラム缶がゴロゴロ転がり、家屋は基礎だけ残して完全に流された後が・・。
そこには、3月12日から入っておられる自衛隊や警察の方が安否の確認のため必死で作業をしておられたり・・・。
何か思い出のものを・・・と探しに来られる人。今でも毎日海に家族を探して来る人・・・。
言葉に表せない悲しみや悔しさの叫びもありました。
子どもを守るための涙祈り、そして原発の現場で必死で作業される方々のための祈りも捧げられました。

ボランティア活動は、避難所の診療や往診の介助、健康相談、生活の援助、あるいは夜勤の看護などでしたが、掃除や下痢便で汚れたものを洗って明け暮れた日もありました。その合間に皆さんのお話を聞いたり、聖書を開いて祈ったり、「教会があそこにあるからね。」と教会案内をお渡ししたり・・・。

避難所で出会った9歳のK君、高熱後お部屋にいなかったので探し当て、「お部屋に帰ろうか?」と声をかけると、「うわーっ」と大声を上げ、しばらく泣きじゃくるのでした。お母さんも、「子どもの前でも夫の前でも、涙なんか見せられない。・・・でも怖かった・・・。夫は流れる車の上を飛び越え逃げて来たけど、職場も流され、仕事もなくなった。家も車も流され、借金だけが残った・・・。」「奇跡的に家族が無事だった。」と。共に涙の祈りをしました。

ボランティアの合間に訪問した、海のそばのN小学校では、全員屋上に避難し、無事だったと聞きました。私は消防団の許可をいただき、中に入りました。現場の狭い屋上で、あの雪も降る寒い夜、先生や子供たちはここでどんなに怖い思いをしたか、想像しただけで身体が震え、涙が溢れてきました。
2階建て学校の教室全部は波に飲まれ、もちろん周りの家屋も土台だけを残して流されていました。
帰る家も親も失った子どもたちがいるそうです。そのような中、M先生は、ご自分の家も流されたのですが、「一人の小さな手」を歌いながら子供たちを励ましておられるそうです。

もう一つ訪問した宮城県南部S中学校のクリスチャンの若い女性のF先生、4月から派遣された新任教師です。(他県にも合格していたのですが・・・)、「神さまがここに遣わされたのですね。」と使命に立っておられました。放課後に子どもたちと一緒に瓦礫と泥かきの掃除に汗を流したり、子供たちの為、涙の祈りをしておられました。

避難所で出会った方の中には、涙ながらに「最初、自分が助けられたことを喜べなかった。何をしてもらっても『ありがとう』というのが精一杯で、複雑だった。」と語る方もおられました。「でも、周りの方と少しずつ話してみたら、その人の悲しみや苦しみも知って、夜も寝ないでケアーしてもらって・・・、少しずつ、生きてみようかなって思った。今はありがとうって、心から言えるようになってきて、周りの人に一緒にお茶飲もうって言えて・・・。」

ある男性は、「もう分かったよ。分かったから、あんたは家族の待っているアメリカに帰ったらいいよ。自分にはこれから仕事は見つからないかもしれないけど、ボランティアでもして人のために生きるよ!」と、人前で「生きるよ」声を上げられたことが嬉しくて、私は、ここに来て良かった・・・と思いました。

また、石巻の避難所で、ある晩、教会のボランティアによる豚汁の炊き出しがありました。玄関の外での配膳後、一人の方がゴスペルを歌い出し、踊りの輪が自然に大きくなってきたのです。
それまでは、あまりにも悲しみが大きすぎて、避難所では公に歌ったり、踊ったりなど出来なかったそうですが、不思議なように避難者さんが集まって来ました。
「流された友だちと一緒に踊りたかった。」とさらっと笑顔で語る女性。
「いいなあ、こんなの、一番、妻と一緒に見たかったな・・・。」「でも仲間がいるんだ。ほら!」と語る男性。家族も失った悲しみの中、励ましあいながら生きている姿がありました。

また私は、避難所の中に暖かくてしっかり結び合わされた絆を見ました。それはお互いに苦しみ悲しみを分かち合いながら、支えあっている様子でした。
でも被災地はまだまだ、大変です。仮設住宅に移り、周りは変わっても、心の傷や大きな問題が襲ってくるような、孤独との闘いがあるでしょう。実際、私のいる間にも、避難所から、お一人のご婦人がいなくなって、3日後に山でご遺体で見つかったという痛ましい出来事にも出遭いました。

また、今回の震災で愛する家族も何もかも失った方にとっては、どれほど大きな悲しみでしょうか。孤独と悲しみを担ってくださるイエス様の十字架からの慰めと救いがありますように。ただ、神に生かされていることの奇跡に希望を見出していただきたいとこれからも祈り続けたいと思っています。

そして、私自身、気付かされたことですが、改めていのちの尊さを思い知らされました。今まで当たり前のように生きてきたこと、家族、周りの環境にも、もう一度目を止め、今あるのは神様に生かされていることなのだということを覚えたいと思いました。神の栄光のために生かされている使命があることに喜びをもって生きていきたいと願わされました。

帰米前日の夜、ホームレスの支援を長くされておられる奥田先生とお会いするときがありました。「先生、支援を長くされていると、裏切られることもありますよね?」の質問に、先生は、「そうだな、自分もたくさん裏切ってきたからな・・・。」次の場所に移らなければならず、会話は中断しましたが、神様の前では、支援者も、支援される者も同じ罪人なのです。ただ、多く赦されている者が多く愛することができるのだ、という聖書のメッセージを思い出させられました。

「神は、いかなる患難の中にいる時でも私たちを慰めて下さり、また私達自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。」(第2コリント1章4節)

どれだけ心の叫びを聞き、共に祈ることがどれだけで来たのか分かりませんが、これからもこのNJでできることを続けていきたいと思います。被災地の方々にまた世界中に神さまの救いと恵みがありますように、心からお祈り致します。

月報2011年7月号より