「8月25日、牧師夫妻は休暇でアトランタに…」

8月25日、牧師夫妻は休暇でアトランタに行った帰り道にノースカロライナ州Ashevilleの田中裕兄・亘代姉をご訪問して、楽しい一時を持たせて頂きました。田中兄姉の一人娘・陽子姉は1993年12月19日にJCCNJで洗礼を受けて、歩んでおられましたが、30歳の誕生日を迎える直前、1997年1月に突然主の御許に召されて行かれました。しかし、そのことを通してご両親は信仰に導かれ、今もBiltmore Baptist Churchで信仰生活を送っておられます。今回、そのお証をインタビュー形式でお伺いしてきました。2009

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<お二人の背景>
錦織牧師(P): 今日はこのような機会を与えてくださってありがとうございます。お二人が、初めて教会とか、イエスさまとか、聖書とかに初めて触れられたのはどのような時だったのでしょうか?

田中兄(Mr): 実は私は母を通して知りました。母が聖書を持っているのを知ったのは大学に行くときでした。父は早く亡くなっているのですが、その後、母は島根でカトリックの神父さんの身の回りのことを手伝っていたんですね。その時に母が聖書を持っているのを知りました。しかし、私はそれに触れたこともありませんでしたし、読んだこともありませんでした。でも、もっと早く、3歳か4歳くらいの頃ですが、「主よ、御許に近づかん」という讃美歌をいつも歌っていたことを憶えています。

P: 奥様のほうは?

田中姉(Mrs.): 私は仏教の家庭に育って、まったく聖書とか、キリストとかに触れるチャンスはありませんでした。彼岸ごと、法事ごとにお墓参りするのが習慣でした。別に仏教を勉強していた訳ではありませんが、それを習慣的にするのが当然の家庭でした。

Mr.: 私のほうは家の宗教としては神道でした。もともとは禅宗であったようですが、神道になりました。ご多分に漏れず、家には神様と仏様の両方がいました。母はクリスチャンの背景から来たのですから、複雑な思いだったと思います。伝統の中に嫁いできたのですから、それに従わないということはできなかったのです。その後、聖書を自分で手に入れたのは、大学の時に、文学の一環として、手に入れたのですが、それはそれっきりでした。信仰の書物として読んだことはありませんでした。嫌悪感とか、そのようなものは一切ありませんでしたが、ただ、関心がなかったんですね。

<生前の陽子姉の姿から>
P: そのご夫妻にとって、イエス様のことを知るためにはやはりお嬢さんの陽子さんの存在が大きかったわけですよね。

Mr. & Mrs.: はい、それがなかったら、今でも迷っていたでしょうし、イエス様のことを知ることもなかったのでは、と思います。

Mrs.: もちろん、陽子はNCに来るたびに聖書を持ってきていましたし、教会に行っていることは知っていましたけれども、それについて、娘は自分からは一言も言いませんし、キリスト教というのはわたしたちの人生とは何の関わりもないことだと思っていたのです。

P: では、陽子ちゃんが洗礼を受けるとか受けたとか、そのような話を聞いたことはなかったんでしょうか?

Mr. & Mrs.: 聞いてませんでした。(笑)

Mr.: ある時、私はニュージャージーの陽子のいたところに行った時に、聖書があることに気がついたのです。そのことには一言も触れなかったのですが、友だちの里香ちゃんが、教会に行っているというんですね。そして、ルームメートになってくれるというのですが、でも、自分が行っているとは一言も言わないわけです。その時に思ったのは、ルームメートになる人が、教会に行くような人だったら安心だなあ、と思ったことです。おまえは何するんだ?といったら何もしていないというのです。で、「土日何しているんだ?」と聞いたら、「教会で遊んでいる」と言うんですね。

Mrs.: そして、里香ちゃんの結婚式が陽子が亡くなる1年前、96年にありまして、私も招待されまして、その時、結婚式の翌日の日曜礼拝に娘が「お母さん、どうしても一緒 に行こう」と言い、強引に連れて行かれました。私はあのユニークな娘のお母さんと思われるのがいやだなあ、なんて思いながら~。教会では聖書をめくるのをてきぱき手伝ってくれたりしましたが、なかなか馴染めなかったことを覚えています。礼拝後皆さんに温かく迎えられ陽子の働きなど聞かされました。それよりも皆さんがすごくいいお顔をしていらっしゃると感じた事、何か違うように思わされました。思えばその時こそイエスさまにつながる出発点だったかもしれません。

Mr.: ある時NYから車で一日でNCに来たことがありました。明くる日、見ましたら、聖書があるんですね。あれ、教会に行っているって言っていたけど、本当に行っているのかな、と思いましたが、ただ、まだ野球したり、遊びに行ったりしていると思っていましたから、聖書に触れている、ということはわかりましたが、娘が教会に行くと言うようなことは想像していませんから、読んでるって、そんな読む資格があるのかよ、と言った覚えがあるのです。

Mrs.:  NY生まれの娘が難しい漢字が読めるとは思っていませんので、どうして聖書が読めるのか、と思ったら、全部カナがふってある、って言うんですね。その時、聖書を初めて見ました。ああ、全部カナが振ってあるんだなあって。(笑)

Mr.: 飾りで持っているのかなあ、と思いましたが、また、ひょっと見ましたら、印がついているんです。ああ、読んでいるんだ、と思いました。だけど、自分からは全然、一言も言わなかったです。

Mrs.: でも、一つだけ抵抗したことがありました。毎年、お正月に交通安全のお守りのお札を日本から取り寄せて陽子にも送っていたのですが、ある時、NJに行ったら、それが放ってあるんですよね。「どうしてそんなことをするんだ」と思いました。未だ私は神様のことを知りませんでしたから、ケンカではないですが凄く怒ったんです。その時は彼女は何も言わなかったのですが、後で、だんだん神様のことがわかるようになって、ちゃんとどうして説明してくれなかったのか、と思いましたねえ。説明されても、その時は反発したと思いますが。

Mr.: 私は娘が何か変わったな、と思ったのは、それまで私がいろいろと頼みごとをすると陽子は一番にしてくれていたんですが、ある頃から、やってくれていないんですよね。「何でやっていないんだ」って聞くと、「忙しいから」と答える。「教会で忙しいんだ」って言う。それで、変わってきたかなあ、と思いました。年と共に変わってきたのかなあ、人間が成長するんじゃなくて、生意気になってきたなあ、と思った、その程度でした。
初めて、本当の意味で陽子がどのように変わったのかを知ったのは、陽子の死の時でした。その時に初めて知ったのです。

Mrs.: もっとクリスチャンのかおりを出してくれていたらよかったんですがね。(笑)

Mr.: でも、もし、あのときに本人がわたしたちに言ってきた場合、果たしてそのように率直に受け入れて、動くことができたかというと、わかりません。あれだけ大きな、彼女の死ということが起こって、初めて動いた、動かされたということの中に神を感じますね。

<陽子姉の召天>
P: そうですか、その陽子ちゃんが亡くなられたのは突然だったんですよね。

Mr.: そうです。土曜日の朝に僕が電話したんです。そうしたら、風邪声だったんで、「大丈夫か」って言ったら、「大丈夫、ちょっと休めば直るから」と言うんです。「ママ呼ぼうか」と言ったら「いい」って言うもんですから、「後から電話するからね」と切ったんです。

Mrs.: そして、私は後から電話したんですが、その時は苦しかったみたいで「後から電話するから・・・」と言って切れたんです。そして、翌日、電話したら、皆さんが集っていて、ギルさんが話してくれたんです。

Mr.: 妻の電話に出ている声が止ったので、「これは何かあったな」と心の中に思いました。

Mrs.: 前の子供の時もそうだったのですけれども、体調に問題はあったんです。やはり薬がずっと必要な体で、一応日常生活には問題はないんですけれども、大病とか熱が出たときは特別なケアをしなければいけなかったのです。普段の薬も忙しい、とか言って飲んでいなかったり、すぐにドクターに連絡しなかったりで、手遅れになってしまったんじゃないかなと思います。それも神様の御手の中にあったんだと思いますが。

Mr.: 忙しかったことは忙しかったようですね。机の上に薬も出ていて、飲まなければいけないと思っていたようです。

Mrs.: 定期的にもちろんお医者さんには行っていたことは確かだったのですが。

Mr.: 今から思うと、行くべき地に召されたんだと思います。30年の短い間でしたけれども。

Mrs.: またそれと共に長かったとも思います。遺伝的な問題があって、前は助けてもらえなかったのですが、アメリカでいいお医者さんに巡り会えて、治療ができて、30年生かされたと思うと、感謝ですね。

<教会に導かれる>
Mrs.: しかし、娘が亡くなった時に、皆さんから励まされたのが、「天国で会えるんだよ」ということだったのです。教会に初めて行った後、その頃から聖書に対する興味というか、あったようにも思ったんですが、やはり、本当に読み始めたのは陽子が亡くなった後です。陽子の聖書を読んでいました。でも、教会には行っていませんでした。ある日、会社のクリスチャンの人に「教会に行きたいんだけれども・・・」と言ったときに、今の教会を紹介して頂きました。それからもう、12年通っています。主人共々もう10年ほど、奉仕もさせていただいています。

Mr.: 本当にタイミングよく、と言いますか、たまたま僕の部下に紹介してもらったんですね。カトリックだけはわかりましたが、メソジストもバプテストもわからない自分が教会に行くとは思っていなかったんですが、とにかく行ったところが今の教会なのです。初めて行った時には、びっくりしました。音楽はやかましいし、人は親切なんだけど、教会に対するイメージと違って・・・。

Mrs.: 太鼓やボンゴやギターやタンバリン 、でもプロ級の方のAmazing Graceよかったです。

Mr.: いやあ、耳が痛くなるほどで、ショックでしたね。

Mrs.: でも、今でも教会はそうですが、好きですね。教会は好き嫌いじゃないんですが・・・。でも、オルガンだけの教会よりも賛美している気持ちになります。英語がわからないからかもしれません。

Mr.: 私の場合は、その時の説教が心に残っているのですが、その基本はどこにあるかというと、NJの教会での1年目のメモリアルサービスと、その前の葬儀の時に与えられた言葉が残っていましたね。後から、ヨハネの14章の言葉だとわかるわけですが、「私はあなた方のために場所を準備して帰ってくる」という言葉でした。その時は単純にそれを受け取りました。普通だったら、そんな夢物語みたいなこと・・・と思っていたと思います。しかし、子供の死に直面して、どこに行ったのか、ということを自信を持って語っておられる、皆さんが本気で信じている、どうしてそうなんだ?という思いがありましたね。

Mrs.: 私が決心したのは、1周年のメモリアルサービスをした時なんですが、いま考えると、どうして1年以上も時間がかかったのかと思うくらいです。でも、その時はまだこだわっていました。親戚とか、友だちとか、その人達に対して、言わなければ言わないで済むのかもしれないのですが、それが気になってのばしのばしになっていました。主人は半年前にこちらで洗礼を受けたのです。こちらの教会でメッセージを聞いて、前に出たんです。でも、私は英語はわからないし、、まだその時は主人は、おまえも来い、とも、行こうとも言わなかったし。未だ先だ先だと思い込んで、1年経って、中野雄一郎先生が背中を押してくださって、一晩で決心しました。「いつまでも廊下で教室を眺めていても進級しないよ」と先生に言われて、飛び込んだのです。もちろん、それまで、聖書は読んでいましたから、すぐに決心出来たのですが。だから、皆さんがおっしゃるように感動して涙が流れて、とか、そういう経験はできなかったのですが、でも、やがてイエスさまの前に立たせて頂けるときには感動で涙があふれるだろうことを思い浮かべます。

Mr.: 私の方は全然妻とは違いまして、おっちょこちょいと言いますか・・・。

Mrs.: だから、主人が洗礼を受けてから、少しは変わってくれるかなあ、と思っていたのですが・・・。(笑)もう、亭主関白は変わらないし・・・。教会に行くと、みんなご主人達は奥さんのドアを開けてあげるのを見たりしているんですよ。椅子を引いてくれるとかね。ああ、クリスチャンってああいう風になるんだって。(笑)

Mr.: 私の場合は、教会に行き始めて、2ヶ月くらい経ったころですか。教会のメンバーの方が訪問して来られたんです。最初は断ったんです。教会のReach Outというプログラムで、最初に教会に行ったときに、住所と名前を書いたのですが、クッキーか何かを持って来られておいて行かれたと思います。その時は事前の連絡もなく、準備もできていなかったので、お断りしたのですが、それからまたしばらくしたら、また訪問があったのですが、今度は牧師が夫婦で来られました。それでお話をしたのです。わたしたちのことをお話ししましたら、「とにかく、飛び込みなさい、信じなさい、後はそれからでいい」ということを言われたんです。私も「こんなところでくよくよしているくらいなら、まず信じることだ」と思ったのです。そして、その時に信じるお祈りをしたのです。その瞬間に思ったことは、私は伝統も周りの人々もすべて失うんだということでした。そう思うと周りが真っ暗のように思えました。しかし、「信じます」と思ったときに、真っ暗な中に白い光のようなものが見えたように思いました。あとはまっしぐら、かどうかはわかりませんが、とにかくやっております。それが65歳くらいの時ですから、若い方々と違って、人生の大半をすごしているわけですから、それはもう一回生まれ変わるつもりになるのは大変なことです。

<信仰者としての歩み>
P: そして信じてから学ばれる、ということだったんですね。こういうことだったのかと。

Mr.: そうですね。悩んだこともありました。知れば知るほど重くなることもありました。クリスチャンになったら、もうわかっているものだと思っていろいろ話しかけてこられるわけですね。私はこれからいろいろ学びたいと思ってクリスチャンになったわけなんですが、周りはみんなわかっていることを前提に話してこられるんです。子供の頃から教会に来ている人々がたくさんいるアメリカの教会で、みんなの前で、「この田中さんは仏教、神道の世界から、すべてをなげうってクリスチャンになった」と非常にユニークな存在として、貴重な存在として紹介されて、期待を持ってみんな話しかけてくるんです。それは重荷でした。(笑)自分はどうかって自分ではある程度わかっている訳ですからね。そして、相談する人が近くにはいなかったですから・・・。

P: クリスチャンとして歩んでいる中で、神様がこういうことを通して支えてくださった、ということはありますか?

Mr.: 私の場合はこういう病気(小脳変性症)を持っていますから、いつ主に召されてもおかしくないので、この人生の中で生かされている中で、神の助けがなかったら、今ここにいないと思います。毎日毎日が生かされているなあ、という思いです。どのようにこの恵みにお応えしたらいいのか、わからないのが今の自分自身です。感謝しているのは、日常の小さなことから、アメリカに来たことも感謝だし、またこうしてノースカロライナに来たことも恵みでしたね。子供が亡くなったことも、子供は天国に行けたし、私も行くのだ、という大きな希望がありますね。ここは教会も近いし、教会を通して神を信じる人たちが、集って一つの場に生き、そこに私が置かれているのも大きな恵みだし、私生活に帰って、この神を信じる人たちのケアセンターにおられることも、この中で生きることを与えられていることも、「与えられている」と信じる僕を造っていてくださることも、妻と共に歩めることも、・・・私はクリスチャンになっても、ホントに余り変わっていないのですが・・・(笑)、彼女と共に歩めるのも、大きな恵みだと思います。こうやって先生達と仲良くなれるのも、誰かが作ったんじゃないですからね。

Mrs.: 私はイエスさまが共にいてくださるということだけで十分ですね。病気の時でも喜びの時でも恵みを数えることができるのですからね。恐れないでいいことですね。これからいろいろなことが起こるでしょうが、イエスさまが共にいてくださる、ということが何ものにも換えられないことです。こういうところ(Deerfield Retirement Community)ですから、お休みの度に家族の方が来られますが、いいなあ、と思ったりすることもあるのですが、喜ぶ人と共に喜び、悲しむ人と共に悲しみたい、とそのような願いが与えられたことが幸せだと思います。

Mr.: 市民権を取ってアメリカ人になるなんてことは、クリスチャンになる前には考えられませんでした。日本人は日本人、アメリカ人はアメリカ人だと思っていました。でも、クリスチャンになって、そんなことは全く問題ではないんだということがスムーズに受け入れられるようになりました。もちろん、日本は愛していますが、もっと広い意味で、神の国に生きるんだ、ピリピ3章20節にあるように、わたしたちの国籍は天にある、わたしたちの市民権は天にあるんだと思わされています。

Mrs.: この世ではわたしたちは旅人なんですよね。市民権は天にあるんですね。そんな気持ちを抱けるのは幸せですよね。私は4歳前に母親を亡くしたり、娘の死を経験したり、それらが試練だと思っていましたが、エレミヤ29:11「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」の言葉が励ましになり、支えになりました。戦争で家が焼けて、集団疎開をして、つらい思いをしたこともありました。父が再婚した母がとてもよい人で、守られたり、いい経験もあるのですが、どうして私はこんななのかなあと思ったこともあります。絵に描いたような幸せな人がいるのに・・・。それも神様のご計画のうちに置かれていたんだと思うとやはり希望が持てます。そして今、最近英語で覚えた聖歌、Turn Your Eyes Upon Jesusを愛唱しています。
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今回、このようにゆっくりお話をさせて頂くときが与えられて、信仰者としての田中兄姉の姿に励まされて帰ってきました。そして、陽子姉が天に召されたこと、それは本当にヨハネ12章24節の「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」その御言葉通りのことだったんだと思わされます。遠く離れて信仰を守っておられる兄姉のために続けてお祈りください。

月報2009年10月号より

「私は1930年にカルフォルニア州のオークランドで…」

私は1930年にカルフォルニア州のオークランドで、日本の秋田県からの移住者の両親の元に生まれました。そのころ、オークランドの日系住民達の社会生活は、プロテスタント教会か、仏教のお寺か、を中心に営まれていました。他の多くの団体がそうであったように、移住者達に提供されていたのは、宗教的なものであるよりも、ソーシャルな、また文化的な活動でした。ですから、そこでは特別に深い個人的なコミットメントを要求されるわけでもなく、自分が何の宗教を信じているか、ということについて、とても受け身的な意識しか持っていなかったと思います。そして、私自身、そのような大人の姿勢を見ていて、宗教的アイデンティティーについては、同じように受け身的な意識を持っていました。

第二次世界大戦の時に、日本人と日系アメリカ人が西海岸から強制収容されたときにも(私たちは、1942年から1945年まで、ユタ州中部に強制収容されました)、この宗教的な受け身の姿勢は続いて、何ら変わることはありませんでした。実際のところ、私は、強制収容所でも教会に行った記憶がありません。そして、1945年、私たちはニューヨークに引っ越してきました。

私の子ども時代、少年時代を通して、宗教一般について、余り真剣に捕らえてはいませんでしたし、もちろん、聖書を読んだこともありませんでした。聖書を読むようにと言われたこともありませんでしたし、私の両親も、普段は聖書を読んでいませんでした。そればかりか、私はすべての宗教というものに対して、軽蔑の念を抱くようになってきていました。この軽蔑の念は、1947年から1951年にかけて、City Collegeで学ぶようになって、更に強くなっていきました。大学時代、私は無神論を当然のように信じている左翼の政治サークルで活動するようになったのです。

私が最初に真に宗教的な経験を持つようになったのはFordham Universityで、イエズス会の司祭と共に哲学を学び始めてからでした。彼は、宗教的な純粋さと、哲学的な緻密さを併せ持っているように見えました。この司祭は私のヘーゲルについての博士論文のメンターであると共に、私のスピリチュアルな指導者でした。ですから、私にとってのカトリックの教えは宗教的であると同時に哲学的なものでありました。今日に至るまで、私は知的な関心と、霊的な関心とを分けて考えることはできません。これは、Fordham Universityでのローマ・カトリックと、イエズス会の哲学との両方にポジティブな出会い方をしたおかげだと思っています。

私は33歳の時に、イエズス会の司祭によってローマ・カトリックの洗礼を受けました。私は1962年にFordham UniversityからPh D.を受けて、Manhattan CollegeというChristian Brothersが経営するローマ・カトリックの大学で教えるようになりました。それからずっと47年間、Manhattan Collegeで教鞭を執っています。

しかし、2、3年のうちに、私はローマ・カトリック教会に失望するようになりました。それは、彼らが告白するキリスト教の理想と、無神経かつ物質主義的な実践との間の大きなギャップを目の当たりにしたからです。私はマルクス、ニーチェ、フロイド、サルトル、カミユなどについて学び、コースを教えるようになっていきました。

私が、妻あやえと出会ったのは、そんな時でした。彼女はNew York Universityで英語を学んでいました。私はそのころ、ポスドク向けの奨学金を受けてColumbia Universityで中国語と日本語を学んでいました。実は、彼女と私の父とがマンハッタンの日米合同教会で会ったのが始まりだったのです。彼女は日本でプロテスタントの洗礼を受けていました。彼女が私のプロポーズを受けてくれたときに、私はイエズス会の司祭に結婚式の司式をしてくれるようにと頼みました。しかし、私の教区の司祭は、ローマ・カトリック教会では、そのようなカトリック以外の人との結婚の時には、カトリックの儀式で結婚式を挙げて、子どもはカトリック信徒として育てなければいけない、と要求しました。私たちはそのような誓約書にはサインはできませんでした。そして、結婚式自体はカトリック教会でいたしましたが、娘はプロテスタントの教会で洗礼を受けました。

結婚してからは、私の父と妻と、娘とが日米合同教会に行き、私は家に残っていました。

1988年の夏に、ニュージャージーで始まったばかりの教会の初めてのファミリー修養会(リトリート)が持たれました。その時、妻は、自分では会場までどうやって行ったらいいかわからないから、車を運転していってほしいと頼んできました。まだ宗教というものについて反感を持っていた私は余り気が進みませんでした。彼女は集会には出席しなくていい、外をぶらぶらしていればいいから、とまで言います。そして、最終的には私は抵抗する思いを乗り越えて、修養会に出席したのです。驚いたことに、私がそこで会った人々、当時の正木牧師を始め、後藤さん、梅本さん、中條さん、催さんといったニュージャージー日本語キリスト教会の創立メンバーの皆さんは、親しく私に語りかけてくださり、またその信仰的に純粋な姿は私に深い印象を与えてくれました。韓国人であった催さんご夫妻は特に、私を歓迎してくださいました。その暖かさが私の抗う気持ちを溶かし、私はMaywoodにある教会に続けて集うようになっていきました。翌年には私はこの教会のメンバーになり、その後、教会が二つに分かれる危機の時には役員にもなったのです。

私の場合はサウロがダマスコへの道で経験したような劇的な出会いがあったわけではありません。それよりも、ゆっくりと、目立たないで、教会生活が浸透していくような歩みがあったのだと思います。キリストの愛を直接感じるよりも、教会のメンバーの生活を見ている中で神の臨在を感じるようになっていったのです。実際のところ、これが多くの人がキリストを知るようになるようになる道であり、最も効果のある伝道の方法であると、私は信じています。

私の人生で一番大きな危機は1997年の春にやってきました。私は67歳でしたが、中程度に進んだ前立腺ガンの診断を受けたのです。私は、同じような経験をした方々と話をして、手術を受けることにしました。そして、1997年6月に、radical prostatectomyという施術を受けました。その時には、教会の皆さんにお祈りをして頂きました。実際のところ、無理矢理、そのようにさせられたのです。礼拝の後に、人々が私の周りに集り祈ってくださいました。

手術の日、錦織牧師(そのころは牧師は空席で、錦織師は教育主事でした)は、私と共に祈るために、lower ManhattanにあるNYUのメディカルセンターに来られました。しかし、その時には私はもう手術の準備のために会うことはできませんでした。その日の午後、手術の後私がリカバリールームにいると、まだ麻酔が覚めない中で、イエス・キリストにお会いしたように思いました。しかし、それはもう一度病院まで来られた錦織牧師だったのです。今日まで、私はこれは幻覚ではなかったと確信しています。私は神様に、錦織牧師に、そして、私のために祈ってくださったすべての方々に深く感謝しています。私の回復は、ちょっとガスがたまった痛みがあった以外は、すべて順調でした。術後の傷の痛みも、合併症も何もありませんでした。5年以内に再発しなければいいというところ、手術から12年も経っていますから、私は統計的には完治した、ということになります。

78年間の人生、そして、クリスチャンとして、ニュージャージー日本語キリスト教会のメンバーとしての21年間、また2-3年のローマ・カトリックとしての日々、そして、宗教に対して無関心だったり、反感を持っていたりした数え切れない年月を通して、私の人生のすべては働いて最高に導かれたのだと確信しています。これこそが、「神の導き(摂理)」ということの本質的な意味だと思います。

マルクスやニーチェ、フロイドのような無神論者についての私の研究は、彼らの洞察力や、自由で制限のない、批判的な思索の価値を認めることによって深められていきました。同じようにローマ・カトリック教会とのつながりは、哲学を大切にすることと、組織の権威の必要性と危険性の両方とを教えてくれました。

最後に、クリスチャンの生活は、普通の限界の中に留めておくことはできず、マザー・テレサが、どうしてあなたは、カルカッタの路上で死んでいく人々、貧困にあえぐ人々を助けるために人生をささげたのか、と問われたときに、「彼らの中にキリストの顔を見るからです」と答えたように、限界を超えていくのだとわかってきました。

最後に証を終えるにあたって、私の好きな聖句を挙げます。

「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。」ローマ14:7

「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」 ローマ8:31、35、38-39

月報2009年9月号より

「主は私を造りかえてくださいました。…」

主は私を造りかえてくださいました。私にとって大きな「奇跡」を与えてくださいました。この「奇跡」は、聖書の中にも書かれているような、主がたびたび人々の間で行っておられたもの、また今のこの世の中でも起こりうる「奇跡」といわれているものとは違って、ある日ある時突然、というものではありませんが、私の場合はそれはそれは長い時間が必要でしたが、これも私にとっては「奇跡」と言えるものです。

私が洗礼を受けるまでの歩みを振り返るときに、「母」の存在が節目節目で大きな役割を果たしていたように思います。

日本で生活していた頃、私は教会との関わりは皆無でした。教会の建物の中に入ったことはありましたが、一度も礼拝に出席することはありませんでした。もちろん、聖書を読んでみたいとも思ったこともありません。でも、そんな中で、私の母は、クリスチャンではありませんでしたが、教会、讃美歌、聖書を良いものとして捕らえていたように思います。

このような私でしたが、この地、アメリカでは、違った者へと導かれていきました。ある時、クリスチャンであった私の知人から、教会の礼拝前の音楽サービスでバイオリンを弾いて一緒にお手伝いをしてもらえないかとの申し出がありました。バイオリンは、そもそも私の意志で習い始めた楽器ではなく、母の思い入れの強い楽器でした。そして、私はその申し出を引き受けました。そこで一年くらいはお手伝いをしていました。その期間はお義理で礼拝に出席していましたが、全く十字架の意味は理解していませんでした。

しかし、このような私でしたが、牧師さんのお説教なさっている姿に惹かれるものはありました。英語の苦手な私は、ジレンマを感じながらでも、何をお話ししているのかをしっかり知りたいという思いに駆られていきました。

そんなある日、別のクリスチャンの友人から、日本語で聞ける礼拝に来られませんか、というお誘いを受けました。お説教の中身に興味がありましたそのころの私は、すぐにお誘いを受け入れました。そこはピーター島田という牧師がしている礼拝でした。初めて出席した礼拝の終わりに、先生はおっしゃいました。「来週は、私が日本への伝道のために行く前の最後の週です。洗礼を望んでいらっしゃる方は是非申し出てください。」それを伺いながら、私にとってはまるで関係ない別世界のことと思っていました。

ところが、その週、不思議なことが起りました。日本から涙声で姉から電話をもらいました。母は、寝込むことこそしていませんでしたが、以前から、決して体の丈夫な方ではありませんでした。しかし、その時、病院に運び込まれて、診察したあとの医師の話で、あと半年持つか持たないかという弱った状況だとのことでした。それを聞いて、私は姉と共に電話口でただただ泣くばかりでした。

電話を切ったあと、私はこれまでにしたことのなかった祈りを、手を合わせて主に向かって真剣にささげました。涙を流した必死な思いの祈りでした。これが私の生まれて初めての主に向けた祈りでした。その時、頭をよぎる思いがありました。「私の思いを母に伝える架け橋になってくださるのは神様しかいない、私は洗礼を受けよう」。その時の私は、あきれるほど無知な者でした。洗礼の意味もわからず、聖書の中身も全く知りません。十字架の意味、人間の罪、悔い改めなども何も知りませんでした。もちろん、信仰告白もできません私でした。しかし、そのような私をピーター先生は快く引き受け、洗礼へと導いてくださいました。

洗礼式はそれはそれは一生忘れられないほど、私にとって感激的なものでした。一生分の涙を出したようにも思われました。その場で「神は愛なり」というお言葉も頂きました。感謝の念が体中に満ちました。それから間もなくして、不思議なことが起りました。母の状態が徐々に良くなり、回復に向かいました。そして退院できるまでになり、私のいるアメリカに来ることもできるようになりました。そして、おまけとして頂いた余生を2年くらい過ごすことができました。

このように洗礼に導かれたのでしたが、しかし、ここからがクリスチャン生活の厳しさを味わう時期でもありました。十字架の重み、御言葉に従う難しさ、祈ることの難しさ、主を仰ぐことの難しさ等が、次々に起ってくる私の人生の中での悩みが、まるで試験の中の難問への答えを生み出す時の苦しみのように耐えられないものでもありました。このような闘いの中でも、決して離れることのできない神の存在を、時には不思議に思ったりしていました。私が神を無視しようと思えば思うほど、私を離そうとしない神の愛を感じながら、まるでお米から良いお酒ができるように、主は長い長い時間をかけてゆっくりゆっくり発酵させて、私のくびきを負うために必要なものを、備え整えてくださいました。少しずつ霊の目が開かれていくような気もしていきました。成長へと導いて訓練してくださる目に見えない神の存在をまざまざと見せつけられたようでもありました。

そして、このような中で、牧師の口を通して語られる説教、聖書勉強、兄弟姉妹(※)との語らいの中で、十字架の意味、罪の赦し、恵み、御言葉のありがたさ、祈ることの大切さ、いつも感謝を忘れないでいることの大切さ、などの教えが深く深く心にしみこんでいくうちに、少しずつ少しずつ造りかえられていく自分があるという思いにかられました。今から思えば、すべての悩みが、私が造りかえられる貴重な機会であったと思います。

「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」                                  ヘブル12章11節

と同時に、私の心の中には、未だ曇りガラスのようにすっきりしていない思いもありました。あのような洗礼の受け方以外に私が洗礼を受ける機会はなかったのだろうか、何もわからないまま洗礼を受けて良かったのだろうか、という思いが、私を苦しめました。長い間、兄弟姉妹(※)の洗礼時の信仰告白を伺う度に、それが、信仰告白をしていない私を劣等感へと追いやるのでした。

そんな私に与えられたのがこの聖書の言葉です。

「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。」
伝道の書3章1節

私はこの御言葉によって慰められ、私に合った時に私は洗礼を受けたのだという確信を持つことができました。

しかし、主はいろいろな出来事を通して、もっともっと私を強く訓練してくださいました。決して私の思いが主から離れなければ、主は私の道を備えてくださると。
私は元々マイナス思考の強い人間でした。それがプラス思考へと造りかえられていくのが自分でも強く感じます。もちろん、今の自分の姿が100パーセントプラス思考だというのではありませんが、御言葉の強いメッセージから与えられる慰め、励まし、戒め、愛を通じて、私は自分自身の殻を砕き、こだわりから解放されてプラス思考へと変えられていきました。まだまだその途上ですが、冒頭に書きましたように、このことが私に起った「奇跡」です。

私は、私の祈りが主に聞かれるという時は、私の信仰が主の御心にかなうものであれば、いつでもそのようになる、という思いに立たされています。私の信仰は「ウサギとカメ」の話の中のカメでありたいと常日頃思っています。到達点までの道のりを焦らずに大いに楽しんで、悩んで、独りよがりにならず、常に主にお伺いして、いつでも人に対して、喜んで差し上げる愛を与えられる人間でありたいと願っています。

まだまだ信仰に対して未熟者ですが、主にあって自分がいるんだという思いに感謝します。

※教会ではキリストにあってわたしたちは家族なのだという思いで互いのことを「兄弟姉妹」と呼ぶことがあります。

月報2009年8月号より

「小さい頃の私はとても怖がりで、…」

小さい頃の私はとても怖がりで、寝ている間に地震・雷・火事が起こらないよう、また泥棒も入らないようにと、“かみさま”(この頃はまだ聖書の示す唯一の神様のことを知らなかったのですが)にお願いをして、どこで覚えたのかわかりませんが、地震の分10回、雷の分10回、火事の分10回、泥棒の分10回、と数えながら胸の前で十字を切ってから眠りについていました。小学校4年生の時、同じクラスの友達に誘われて教会学校に通い始め、そこで教えられた神様を何の疑いもなく信じるようになり、夜寝る前のお祈りも自分で考え出した方法から、教会学校で教えられた神様へのお祈りに自然に変わっていきました。教会学校では、聖書の言葉とイラストが入った小さなカードをご褒美としてもらうのを楽しみに、毎週欠かさず暗唱聖句をしていましたが、その聖書の言葉の意味はほとんど理解していなかったと思います。それでも自分を愛し守ってくださる神様がいらっしゃるということだけは確かに信じていました。

その神様が私を罪の刑罰から救うためにイエス様を身代わりとして十字架につけられたことを心から信じたのは、中学生のために持たれた夏休みのバイブルキャンプに参加した中学2年生の時でした。自分が罪人であることを聖書を通して示され、その罪の刑罰から救うために、私の身代わりとなって十字架で苦しみを受けられたイエス様を自分の救い主として受け入れました。

幼い頃から心の中に蒔かれた信仰の種は、それからしばらくは純粋に神様の望まれるように生きたいという思いを与えられ、何の障害もなく育てられて行きましたが、次第にいくつかの問題にぶつかっていくようになりました。野球が大好きだった私は、高校で野球部のマネージャーとしてはりきっていましたが、春から秋まではほとんど毎週日曜日に試合があり、礼拝に出席できない日が多くなっていきました。礼拝をしばらく休むと教会に行きづらくなり、試合のない日でも礼拝に行かない時がありました。教会の高校生会の先生から礼拝に出席するようにと電話がかかってきますし、何よりも神様が私に望んでおられることはわかっているのですが、言われれば言われる程、それをうっとうしく思うようになり、不遜にも「私のことはもう放っておいてください。愛してくださらなくて結構です。」と思うようにまでなりました。それでも教会の先生や友達からの連絡は続き、心の中で色々な葛藤を覚えながら聖書を読んでいたある日、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2章8節)という御言葉を読んだ時に、神様の愛にギブアップせざるを得ませんでした。なぜか心が素直になり、神様が賜物(プレゼント)としてくださるものを黙って受け取ろうと思いました。
その後、できる限り教会に行くようになり、しばらくして洗礼を受ける決心を促されました。当時一緒に暮らしていた祖母がとても熱心な仏教徒でしたし、日常の生活の中で多くのことが当たり前のように仏教のしきたりで行われていた7人家族の中で、高校生の私がただ一人のクリスチャンとしていくつかの問題にぶつかることは容易に予想できましたし、とてもそのことを戦い抜く勇気がありませんでした。祈りつつも、「自信がありません。」と告げると、教会の先生は「クリスチャンとして完全になったから洗礼を受けるのではなく、イエス様を自分の救い主として信じ、神様から助けをいただきながら、神様とともに歩んでいく決心を表すことが洗礼を受けるということなのです。本当に神様に頼って生きるなら必要な助けは与えられます。」と教えてくださり、洗礼を受ける決心をしました。

洗礼を受けるまでも、また受けた後でさえも、捨てきれない自我やプライド、その裏返しのコンプレックスに苦しんだ時期が多くありましたが、ありのままの私を「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」(イザヤ書43章4節)と言ってくださる神様の愛により、また、「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力がわたしをおおうために、むしろ大いに喜んでわたしの弱さを誇りましょう。」(第2コリント12章9節)の御言葉により、小さく弱い自分を受け入れることができるように変えられました。また自分の思い通りに事が進まないと気がすまなかったのですが、「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。-主のみ告げ。-天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ書55章8~9節)と言われる神様に全てを委ねることができるようになり、平安が与えられるようになりました。

こどもの頃、教会学校でよく歌っていた賛美歌の中に「やさしい主の手にすべてをまかせて旅ができるとは何たる恵みでしょう。」という歌詞があります。小学生の時に教会学校に通い始めた頃から主の手に引かれてここまで導かれてきたことを心から感謝します。今までもこれからも変わらず愛し導いてくださる神様を信じて、平安の中に歩み続けたいと願っています。

月報2009年7月号より

「私はもう大丈夫、といつの日か神様に背を向け、…」

私はもう大丈夫、といつの日か神様に背を向け、毎日慌ただしい生活を何年も過ごしていました。そんなある日(2008年8月)突然の母からの電話でした。その頃私は、すべてがうまく順調に行っているかのような生活(もちろん、悩み・問題は山ほどありましたが。)でしたので、父の事は、穏やかな海に突然襲う災害の様でした。私は娘たちを主人と義母に頼んで、すぐに帰国しました。ICU(集中治療室)に寝ている父は、幾つもの管が頭や体を通り、顔や体中は膨れ上がり、すっかり変わり果てていました。そしてその父の膨れ上がった手をしっかりと握りしめ、このまま父を失ってしまうのではないかという不安と恐れでいっぱいの母や兄妹と父に、この様な状況ではありましたが、会うことができたことを、忘れていたはずの神様に少しだけ心を向け、感謝しました。今まで長い間、神様を無視し、周りにあるこの世のものに満足し、自分の物事がうまく行かない時、ちょっと苦しいなぁと思う時、自分が必要な時だけの神様でした。アメリカに帰って、短かった2週間の滞在を振り返って、この様な悲しい状況ではありましたが、約5年ぶりに父や家族に会えたこと、そして家族をはじめ、周りの皆が人生の中で何かしら問題を抱え、心を痛め、悩み苦しみ、その解決が見つからず、他人には関係ないことだと一人で我慢して苦しんでいること、自分がその場に接した時に、自分の力ではどうしようもなく、何もできないものであること、そして、道行く人々の生活は慌ただしく、外面的な必要は満たされても、自分中心の自分勝手な悲しい生き方だなぁと思いました。まさにその姿は、私自身の姿なのでした。
「 顔が、水に映る顔と同じように、人の心は、その人に映る。」箴言27章19節

そして、病院に入れ替わり立ち代わり来る多くの人たちを見て、一人ひとりが何らかの理由を持ってこの病院に訪れていること、患者さんやその家族たちの信頼に懸命に働くお医者さんや看護師さん達、その背後で働かれている多くの人達、温かく見守る患者の家族達や見舞い客の人達、また中には、見舞いの来ない一人ぼっちの寂しそうな患者さんたちを見て、そこに来る一人ひとりが弱い人達(患者さんや病の人を持った家族に人達)の立場に親身に寄り添って人を思いやり、支え、慰め、励まし合う愛がそこに一番にあったこと、そしてその愛は、私が背を向けて無視していた神の愛なのでした。

「 世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」 ヨハネの手紙第1 3章17~18節
「 神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」 ヨハネの手紙第1 3章23節

自分がいかに自分中心の身勝手な生活をしていたか、今まで周りを見る余裕もないほどに、自分は・・、自分が・・、自分の・・、自分に・・、の毎日だっただろうか。そして私はもう大丈夫なんだと高慢になり、人を見下げ、人を思いやることなど米粒一つほどもない情けない者でありました。

「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』」 ルカの福音書23章34節

と言われたイエス様が、十字架の上で、私の罪のために身代わりとなって死なれ、その流されたあがないの血によって、信じ、救われた恵みに感謝しました。

1994年4月には、恵みによって受洗に与り、神様があふれんばかりの恵みを与えてくださり、内側からの本当の喜びに満ち溢れていました。しかし、数え切れない恵みもいつの日か自分だけのもの、そしていつの日か神様の存在さえ忘れていました。その神様をどんなにか長く悲しませていただろうかと心の目が開かれ、その愛に埋もれ、立つことすらできず、子供の様に泣きじゃくり(迷子の子がやっとお母さんに会えて抱かれて安心して泣いているかの様に)悔い改めました。顔を上げると窓一面にどこまでも広がる青い空が眩しい位輝いていて、吸い込まれるように見上げていると、月報の表紙にあったあの御言葉が心いっぱいに広がるのでした。

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」 詩篇46篇10節 (2008年御言葉)

わたしはここにいる。お前がいかに小さく弱いものであり、無力であるかを知れ、と、それは大変深く、大変重く、大変力強い語りの様な響きの様なささやきの声でありました。神様の目から見る私は、本当に小さな者であり、完全に弱く、無力である自分であることを認めずにはおられず、教え、知らされました。

「私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。」 伝道者の書 3章14節

どんな時にも決して変わらない愛で、こんな私をも愛し続けてくださっていた神様。また、あわれみ深い神様はすでにこの愛の教会をも備えてくださっていたこと、その背後にはイエス様が粘り強い忍耐を持ってこんな私のためにとりなしていてくださっていたこと、そして教会の愛する先生、愛する多くの兄弟姉妹達がずっと祈り、支え続けていてくださったことに心より感謝致します。

「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」 ヨハネの福音書 10章3~4節

毎週礼拝で先生を通して正しく、大胆に御言葉が語られ、その命の御言葉をいただき、いつも私の助けとなり、力となり、生きているのではなく、生かされていることに感謝致します。

「神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」 ヨハネの福音書 6章33節
「イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。』」 ヨハネの福音書6章35節

自分一人でクリスチャンであること、教会を離れてクリスチャンであることはとても難しいことであり、神の家族の一員として常に主が共にいてくださっているこの愛の教会で、
お互いに温かさと光を分かち合い、また、こんな私を覚えていてくださり、祈っていただいて、今は色々な事情でお休みしている愛する兄弟姉妹の皆様方を覚え、お祈りさせていただき、共に分かち合い、共に神様を礼拝することができます様に。

「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」 コリント人への第1の手紙 12章27節

これからもイエス様の十字架の愛を覚え、これからも共にイエス様のことを少しでも多くの人々に伝え、神様が私たちのためにしてくださったすべてのことを人々に分かち合うことができますように、共に神様の御心に生きて従う小さな器として用いていただき、仕える者とさせていただきたいと日々、そのようなものに新しく変えられ、主に喜ばれる正しい歩みができます様に続けてお祈りください。

「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。」 ローマ人への手紙 10章14節

月報2009年6月号より

「先月号の月報に掲載された…」

先月号の月報に掲載された住田美香姉(※)のお証しを私が最初に聞いたのは、3月のレント集会の場所でした。お証を伺いながら、「ずいぶん昔、私にも似たようなことがあったなぁ。」と、様々なことを思い巡らしていました。神様は美香姉の証しを通して、私に忘れかけていたことを思い出させ、神様がどのように私の人生に介入して下さったかを改めて確認させて下さったのです。

美香姉と同じような経験をしたと言いますのは、私にもどうしても入りたい高校があったということです。その学校でなければ駄目だと思っていました。とても仲の良かった友人も同じ高校を志望しており、入りたい部活も同じだったことから、高校生になった時の自分達の姿を想像しては将来のことについて二人でいつも語り合っていました。学校の先生からも塾の先生からも「絶対に大丈夫」という太鼓判をもらっており、自分でもそう信じていました。しかし、試験当日は、どの教科のテストを受けていても手応えがあまりないのです。「あれ?どうして?こんなハズじゃないのに、、、」と思うような問題が少しずつありました。自信のある教科でもそうでした。「え?もしかしたら、私、駄目かもしれない?!」というような思いが何度も頭の中をよぎり、焦りを感じながら問題を解いていたことを今でも鮮明に覚えています。試験が終わり、合格発表の日までの間、私は真剣に祈りました。「神様、絶対にあの学校でなければいけないんです。今まで私は一生懸命がんばってきました。どうぞ、この努力に報いて下さい。合格して神様の栄光をあらわして下さい。」と、何とも自分勝手な都合の良い祈りだったでしょうか。祈りながら、「やはり不合格なのでは?」という思いが湧いてきて、それを打ち消すかのように、ガチガチになりながら何度も何度も同じ祈りを繰り返していたように思えます。それは、とても苦しい祈りでした。しかし、ある瞬間から「やるべきことはやりましたから、あとは神様にお任せします。どのような結果が出たとしても、それが神様の御心だと思えるようにして下さい。」という祈りに変えられ、それからは一気に気持ちが楽になったのです。そして合格発表の日、私は親友と共にその高校へ向かいました。私の中には相変わらず、「もしかしたら駄目かもしれない。」という思いはありましたが、心は平安でした。その思いは見事に的中し、合格掲示板には私の受験番号は見つかりませんでした。しかし、それがわかった瞬間、不思議なように解放感と爽快感が与えられ、「あの(滑り止めで受けていた)高校へ行くのだ。」という前向きな思いに早々と切り替わっていました。そのように思えるように、神様が私の心を守って下さったことを感謝しました。一緒にいた親友は合格していたのですが、「同じ学校に行けない。」と言って泣き出し、私が友人を慰めるという始末でした。親に報告の電話をかけた時も、落ち着いていたように思います。その日の夜、中学の担任の先生から電話をいただきましたが、試験の結果に先生もショックを受けているようでした。その時の15歳の私なりに感じたことは、「人間が言う“絶対”というものは無いのだ。自分の力、人間の力というのは、いかに小さく当てにならないものなのか。神様に委ねることは難しいけれど、委ねた時に神様は平安を与え道を開いて下さる。」ということでした。私が入学した高校は、ミッションスクールの女子校で、のんびりとした校風でした。友人にも先輩にも恵まれ、やりたかった部活動にも熱中し、充実した高校生活を送ることができたのは、やはり神様が私をそこへ導いて下さったのだと思わされます。

さて、大学受験ですが、先にも言ったように、私の入学した高校はのんびりとした校風で、“受験戦争”などというような雰囲気を殆ど感じさせない学校でした。そんな中で過ごした私は、自分の実力を知っていましたし、でも妥協はしたくないという思いもありましたので、初めから現役での合格は狙っておらず、高校卒業後は予備校へ行くつもりにしていました。今はどうかわかりませんが、あの頃は「予備校に行くのは当たり前」みたいな風潮があったのです。予備校生活は本当に楽しく充実したものでした。各地の高校から集まった今まで会ったことのないような様々なタイプの人達、2浪または3浪している先輩達は経験豊かでとても大人に見えました。あっという間にたくさんの友人ができ、多くのことを語り合い、とても良い刺激を受けました。講師の先生方の講義も興味深く、学ぶことは山ほどありました。信仰の面でも、本当の救いの喜びがわかり、クリスチャンの友人が与えられ、燃やされました。たくさんの友人を教会に誘いましたし、水曜日の夜の祈祷会も欠かすことがありませんでした。ところが、私の心の中には大きな問題があったのです。それは、自尊心・プライドの高さ、価値観の貧しさです。確かに学びたいこと、入りたい学部はありました。しかし、私にとって、大学で何を勉強するかよりも、有名大学へ行くことの方が大切だったように思われます。有名大学に入れないのならば行く意味がない、東京の有名大学だけしか受験したくないと思っていました。結果を言いますと、私は予備校生活を2年間送り、東京の有名大学だけを受験し、そして見事に全敗しました。あれだけ受けたのですから、一つくらい受かっても良さそうなものですが、どの大学からも合格通知は届きませんでした。「大丈夫だろう」と思っていた大学にも受かることができませんでした。そうして、アメリカの大学に進むことになったのです。アメリカへは中学2年生の夏休みにホームステイで来たことがあり、「いつかまたアメリカへ行きたい。大学を休学してアメリカの大学に留学するか、大学を卒業してからアメリカで勉強してみたい。」などと、漠然には考えていましたが、その時の私はどうしても東京へ行きたい、日本にいたいという思いがありましたので、すぐに日本を離れるということは全く考えられませんでした。しかし、神様は私のプライドをガタガタに崩し、私に恥をかかせ、そして日本では行く場所がないというところに追い込むという方法をとって、私をアメリカに送りました。そのようなことがなければ、日本を離れる決心は到底つかなかったでしょう。

あの挫折を経験してから早いもので21年が経ちましたが、いま思えることは、もしもあの時日本の大学に行っていたならば、たとえクリスチャンであったとしても、自分の価値観はどのようなものになっていただろうか?どのような人生を送っていただろうか?ということです。私は最近まで自分の学歴にコンプレックスを持ち、日本の受験に失敗した結果アメリカの大学へ入ったことを人に話すことをしませんでした。けれど、今は違います。確かにあの時、神様が働かれ、このアメリカに導いて下さった。神様は私の人生に計画を持っておられる、ということを確信できるようになったからです。私をアメリカに送り出して下さった神様は、私をこの地へ導き、更にはこの教会へも導き、そして仕事も家族も生活の基盤も与えて下さいました。これから先、神様が私を、また私の家族をどのように導かれるのかわかりませんが、今までもそうであったように、この聖書の御言葉を心に留めて神様に委ねて行きたいと思います。

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ。―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』(エレミヤ29:11)

まだまだ自尊心が強く、足りない者ではありますが、最近経験したこと、職場における出来事、与えられた聖書箇所、勉強会での学び、礼拝のメッセージなどを通して、いかに自分が傲慢であるということ、砕かれなければならない存在であるということを改めて示されています。神の子であられるイエス様が、弱く小さな赤ん坊の姿をとって貧しい馬小屋でお生まれになられたように、自分を低くし仕える者とさせて頂きたいと心から願い祈らされています。

※教会では、互いにキリストにあって兄弟姉妹という意味で、男性なら~兄、女性なら~姉という呼び方をするときがあります。

月報2009年5月号より

「3月8日の礼拝で、木戸ブライアン先生の…」

3月8日の礼拝で、木戸ブライアン先生のメッセージの中で語られた「私達はいつ神様に頼ることができるのだろうか」という言葉が心に残りました。その後の中高科のクラスでの分かち合いの時にも、「神様に信頼することの難しさ」を感じました。
私は小さい頃から母と妹とこの教会に通っているので、私にとって神様とイエス様の存在は「なんとなく」当たり前と言うか、いつも存在している、神様のいない世界は考えられないくらいです。でもそれだからと言って、神様に頼るということは簡単ではありません。やはり小さな頃は感情的にだけ神様を信じていて、知識的に信じていないところがあったと思います。ファミリーキャンプの中高科の集会の時にある先生から、「感情だけで信じていると、何かの時にそれが崩れてしまう。頭でも神様を信じていないと、どこかでこけてしまう」という話を聞きました。強い信仰を持つためには、知識も持っていないといけない。それは何故かと言うと、私達の感情はいつも変化しているし、感情は何にでも変わってしまうから、感情ではなくて知識を土台にしないと、本当に神様に信頼することができないということです。
私なりの考え方はこんな感じです。私達は皆「重力」を信じています。今ここでボールを持ってテーブルの上に放すとそのボールは落ちてしまうから、それを見て「ああ、重力は本当にあるんだな」と信じている。けれど、何故そうなるのかは学校で重力について勉強しないとわからないし、物理を勉強して地球と太陽の関係を学んで重力の法則を理解することができて、それで初めて確信をもって「このボールは落ちるんだな」と信じることができるのです。
でもそれとは違って、知識的に神様を信じるということは、やはり難しいことだと思います。学校では理科の時間に「進化論」のような非聖書的なことも習っているし、友達と宗教について話をすると異なった考えの人もいて、自分の中でもどこかで説明できていないところがあるとフラストレーションを感じていました。ファミリーキャンプの先生から、「旧約聖書の中には、キリストの誕生から復活までとても多くの預言が書かれているけれど、それを一つ一つ読んでみるとどれも本当にキリストにあてはまっている」と言われました。確かにすべての預言は無視することのできないほどの多くの証拠となっていることに気づいて、それによって私はキリストを確信することができたんだなと思います。私をこのように導いてくれたキャンプの先生にとても感謝しています。
神様に頼るということは本当に難しいことだと思います。錦織先生もメッセージで何度も話してくださいますが、トラブルや思い煩いだけではなくすべてを神様にお捧げしなければだめだし、自分の夢や希望、計画もすべて捨てて神様に頼るということは、私にとって難しくてとても怖いことに思えたからです。
私はあと3ヶ月で高校を卒業します。振り返るとこの4年間は私にとってとても楽しい4年間でした。多くの友達に出会えたし、いろいろなクラスでたくさん勉強することができたし、いい経験もたくさんしました。しかし、実は私は8年生の時、今通っている高校には絶対進学したくないと思っていました。Bergen Academyという学校がとても気に入っていて、それ以外の学校には行きたくありませんでした。入学試験があって私は筆記試験は合格しましたが、その後の面接と楽器演奏のオーディションで落ちてしまいました。学校の先生や友達からも「美香なら入れるよ」と言われたりしていたこともあって、不合格となった時はとてもショックで、「神様、どうして?なんで?」としか思えませんでした。そして不本意ながら、町の公立高校へ進学することになりました。
今になって振り返ってみると、Bergen Academyに進学していたらそれなりに高校生活を楽しんでいたと思うけれど、Pascack Hills(通っている高校)で経験できたようなことを得ることはなかったのではないかと思います。Pascack Hillsは公立高校だからいろいろな人達がいます。いい人もいれば、ドラッグをやっているような生徒もいます。様々な違った考えを持った人達にたくさん出会えたことがPascack Hillsでのすばらしい経験のひとつです。4年間すばらしい先生の指導の下でコンサートバンドのメンバーとして演奏することができ、また今年はマーチングバンドの指揮者になったり、リンカーンセンターのユースコンサートでの演奏と大好きな音楽でもすばらしい経験ができました。8年生の頃の私にはこんなすばらしい4年間が待っているなどとは当然予想することはできなかったし、たとえできていたとしても、自分が思い描いていたのと違う学校に進学するということに納得できていなかったと思います。今になって考えると、あの時の私は神様のことを聞いていなかったし、神様を信頼することができていなかったと思います。自分で自分の将来を決めようとしていたのだと思います。
去年の夏、6週間の数学キャンプに参加しましたが、その2週目の時、「私はそんなに数学できてなかったんだ。数学ってこんなに難しかったのか」と心細くなった私は、友達が与えてくれた御言葉にすごく励まされました。
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」(伝道者の書 3章11節)
今、私はどの大学に進学するかという大きな選択をしなくてはなりません。「あそこに行ったらこういうことをしよう」と計画を立てるのが好きな私には、神様にゆだねるということはとても難しいことに思えます。たくさんある夢や計画をすべて神様にゆだねるのはやっぱり怖いです。しかし、8年生の時、私は自分の望んでいたのとは違った道に進むことになったけれど、それは神様が私に与えてくれた道であって、その道を進んだことによってとてもすばらしいことがたくさんあったし、後になってみるとそれは美しいということがわかります。そして、その経験によって現在のこういう自分が在るのだと思います。今、私はそのことを神様に感謝しています。この経験があるので、進学する大学を決める時も8年生の時のように「絶対この大学」とは考えずに、神様にゆだねて、神の導きを信じて進んでいきたいと思っています。

月報2009年4月号より

「主の御名を賛美いたします。…」

主の御名を賛美いたします。

3年前の私の病気に際して戴いた教会の皆様のお祈りにあらためて心から感謝します。

2006年2月の末、私は東京の自宅から徒歩3分の所に新設された順天堂大学医学部付属病院で総合的に身体検査を受けました。今後この病院にお世話になろうと思ったからです。

その結果、大腸の上行結腸に3CMくらいのガンが発見されました。私の友人には大腸ガンを切り取って元気に暮らしている人が何人もいるので「あなたはガンです」と言われても「ああそうか、切ればいいんだ」と思っただけでした。しかし「あなたは糖尿があるし、心筋梗塞もしているので、手術にはかなりのリスクが伴います」というので「どんなリスクで確率はどれくらい?」と聞くと、「5分5分の確率で手術の最中または直後に心筋梗塞や脳梗塞を起こす恐れがあります。病院としては、もしそうなってもすぐ対応する準備はしますが」とのことです。これにはちょっと暗い気持ちになりました。

私自身は本来体が弱く60歳くらいまで生きられればいい方だと言われていたのに、もう75歳だから今死んでも十二分に元は取れている。今目標としている日本人男性の平均寿命78歳だってもう目と鼻の先だ。だから死ぬのはそれほど怖くありません。それでこのままにしていて残された寿命はどれくらいでしょうか?と聞くと「2年間は何も起きないでしょう、3年目も大丈夫かもしれない、4~5年目には必ず腸閉塞になって苦しんで死ぬでしょう」とのこと。最後に苦しむのは困るけど、それだけ時間があるなら手術は受けまいと決めました。

その後いろんな方とお会いする機会がありましたが、みんな私も家内も元気そうで明るい顔をしていると驚かれたそうです。とてもガンの「宣告」を受けた人とは思えないと言うのです。それは私にはとても不思議に思えました。しかし私たちが平安を保てたのは私たちがクリスチャンであることにあると気付かされました。勿論、年齢的なことも大きかったと思いますが、私たちには既に天に永遠の命が用意されているのだということが無意識のうちに死を恐れない安心感を戴いていたのだと思います。

ただ私は何もしなかったわけではなく、3月初めに帰ってくる予定を5月初旬まで延ばし、かねてよりガン治療に著効があると聞き知っていた温熱療法に丸2ヶ月通いました。また、この間、気功治療も受けました。その後、6月に新谷先生の内視鏡検査と転移の有無を調べるCT検査を受けたところ、「ガンは治っていません。今なら転移はないようだからリスクはあっても取ってしまった方がいいですよ」と言われました。ここでも私は手術を拒否、そこで、新谷先生は「では10月にもう一度診ましょう。その時治っていなかったら切る他はありませんよ」と言い残して日本に行かれました。

10月に受けた再検査で私のガンが快方に向かっていないことが確かめられ、新谷先生は私に有無を言わせず、その場で手術担当医のアポイントをとり、アレヨアレヨと言う間に、11月1日の入院手術が決まってしまいました。そして手術。私は麻酔にsensitiveだから気をつけてと言っておいたにもかかわらず、2日の朝まで覚醒せず、その間に心筋梗塞を起こしてしまいました。でも、私は目が覚めて神さまに感謝しました。ガンは取れた、そして、心配していたside effectは心筋梗塞でよかった。
実は私は入院の前にお祈りしたのです。「神さま、私に何か起きるのでしたら、脳梗塞だけはならないようにお願いします。もし脳梗塞になるのでしたら、すかさず天に召してください」と。弟を脳梗塞で亡くした私は、脳梗塞のつらさと家族にかける負担の大きさを身にしみてわかっていましたから。こうして2週間後、私は晴れて退院しました。

この経験を通して私は神様に守られていることを実感しました。第一に初期の段階でガンが見つかったこと。第二にガンと聞いても平安を保つことができたこと。第三に代替治療もトライしてうまくいかないことを納得した上で新谷先生が背中を押して手術に向かわせてくださり、ガンの恐れを取り去ることができたこと。第四に脳梗塞を回避できたこと。そしてもう一つ、子供たちが誰か一人付き添いに来ることを相談し、日頃余りコミュニケーションのない一番下の娘が飛んできて、私と家内のサポートをしてくれ、また、ゆっくり話をする貴重な時間を持てたこと、これらはすべて神さまのみ恵みによるものと言う他ありません。本当にクリスチャンであることの喜びを感じて感謝しております。

月報2009年2月号より

「アメリカ滞在も思いがけなく長くなりました。…」

アメリカ滞在も思いがけなく長くなりました。初めての駐在でNew Yorkに来ましたが、その後、2度目はHouston、3度目は又、New Yorkでした。3度目の駐在の話が持ち上がった時は、子供たちと日本に残る積もりでした。長女は高校生、長男は中学生になっていて、日本の生活にやっと慣れて、もうアメリカには行きたくなかったこと、主人のお酒の問題があったことでした。主人は一人で行く積もりでいたところ、2つの条件が出されました。それは 「お酒を止める事」と「家族同伴」ということでした。これまでの2度の駐在で、お酒の上での問題が多々あり、上司がこの条件を出したのでした。

結婚してから、主人がずいぶんお酒飲みだということを知りました。最初のNY駐在時は多くのお酒の上での武勇伝を残し、帰国時には、「加藤はピアノバーを一軒持つほど飲んだ。」と言われ、Houston駐在の時はますますひどく、連日泥酔状態で車を運転して帰ってくるので、心配で眠れずにいても、「酔ってなんかいない。うるさく言うな。寝ていろ。」と、取り合わず、いつも喧嘩になってしまいます。子供たちは海外転勤の度にとけこむまでの苦労、ようやく慣れて楽しくなった頃に帰国、の繰り返しの中で、家庭を顧みない主人への怒りと不満がいっぱいで、どこにこの思いをぶつければよいのか分からない毎日に、子供たちに怒りをぶつけてしまうような日々でした。主人を憎むようになり、離婚を考えましたが、子供が学校を出るまで、と言い聞かせて過ごす毎日で、家庭は崩壊をたどる一方でした。そして帰国。子供たちは帰国子女の受ける様々な悩みを体験しながら、それでも3年経ってだんだん日本の生活にも馴染み始めた頃に3度目の転勤の話でした。長女は大学受験の準備も始め、秋の修学旅行を楽しみにしていて、長男は中学で得意の水泳で力を現し始めた頃でした。主人は日本に帰ってからも相変わらずの深酒で、真夜中に酔って意識をなくすほどになってタクシーの運転手に担ぎこまれるような毎日で、お酒とタクシー代に家計費も消えてしまうような経済的にも苦しい生活で、3度目の転勤には全く一緒に行く積もりはありませんでした。

その頃、テレビで「くれない族の・・」というドラマがあり、くれない族というのは、ああしてくれない、こうしてくれない、と言う主婦たちのことだと知り、私もそうだなあ、と思わされていました。分かってくれない、家族のことを考えてくれない、子供たちのことも協力もしてくれない・・と、不満ばかりで、では、私は主人のことを理解してあげようとしただろうか、何をしてあげてきただろうか、と考えるようになりました。お酒を止めるという条件を受けるのなら、家族同伴という条件も受けて、もう一度なんとかやり直すことが出来るかもしれないと思い、子供たちを説得して、1986年9月、3度目のアメリカにやってきました。

しばらくは主人はお酒を飲まずにいましたが、又、飲み始め、連日、酔っ払って朝帰りをするようになりました。子供たちも暗い表情で学校に通い、長女は日本の高校生活、友達を思って、落ち込んで頭痛や腹痛で学校を休み、泣いて過ごす日々で、どうしたらいいのか途方にくれる毎日でした。日本を発つ前にクリスチャンの友人が聖書を下さって、ピリピ書4章6節を開いて示してくれました。「何事も思い煩ってはならない。ただ、事々に、感謝をもって祈りと願いをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るであろう。」とありました。神の平安とはどういうものだろうか、と思いました。子供の頃、家の裏に教会があって、礼拝にも出ていたことがあったのですが、その頃には聖書を持っていたことすら忘れているほどでした。けれど、そのすっかり忘れていた学生時分の聖書が持ってきた荷物の中にありました。又、その頃読み始めていた三浦綾子さんの本を読んでいるうちに、聖書を読みたい、知りたい、と思うようになりました。そんな時に聖書を読むという家庭集会に誘われました。当時Philadelphiaにおられた島田牧師が近くに来られたその集会の日は長女が頭痛で学校を休んでいたのですが、先生とみなさんが手をつないで祈って下さって、帰ってみると娘はさっぱりとした顔つきで本を読んでいました。祈りがきかれた?・・・と不思議な気持ちがしました。次の集会の時に、誘ってくれた友人と12月のクリスマス礼拝の時に洗礼を受けることになってしまいました。なんの準備もなく突然、洗礼ということになり、戸惑いを覚えましたが、娘も一緒に受けたい、と言います。ふと思い出しことは、Houston時代に近所の教会のサマーキャンプに娘を入れた時、帰ってきた娘は「私、イエス様を信じて神様の子供になったの」と言っていたことでした。そして1987年クリスマスに、友人と娘と一緒に洗礼を受けました。自分の中にこれ程の涙があったのか、と思うほど涙があふれて止まりませんでした。心の中の怒り、悲しみ、憎しみなどが涙で洗い流されるようでした。

洗礼を受けた後は、全てが輝いて見え、嬉しくて仕方がなく、神様が下さる平安というのが分かりました。でも主人はと言えば、相変わらずの深酒で、やめたいと思ってもやめられないでいるみじめな姿に心が痛みました。断食して祈ろう、と思い始め、4月のある早朝から、「神様、主人を捕らえているお酒から解放して下さい。哀れんでください。」と外を歩きながら涙で祈りました。祈り始めて3日目くらいでしょうか。朝帰りの主人が、お酒を止められない、と絶望している時に、島田牧師と会う機会が与えられました。話の後で、先生の後をついて信仰告白の祈りをしたそうです。その日からお酒を口にしなくなりました。飲まなくなったのではなく、飲めなくなったのです。お酒から解放されたのです。本当に不思議なことでした。そして、私達から半年後の6月に洗礼を受けました。その後、日に3箱も吸っていたタバコからも解放されて、神様の圧倒的な御業には、主人も全面降伏という感じで、それからの主人の変わりようは驚くばかりでした。これまでの苦しみは神様に出会うためであったと分かりました。全てが感謝に変わりました。
「苦しみにあったことは、私にとって良いことです。これによって私はあなたの掟を学ぶことが出来ました。」   詩篇119篇71節

信仰を持ったら全ての苦しみがなくなるのではない。でもどんな状況の中でも主がともにいてくださり、全てを益としてくださる、ということは本当に素晴らしいことです。
1989年に乳がんの診断を受け、手術をすることになりました。手術がまじかに迫っていた8月9日の朝、眠りの中で声を聞きました。「そればかりではなく、艱難をも喜んでいる。なぜなら、艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを知っているからである。そして希望は失望に終わることがない。なぜなら、私達に賜っている聖霊によって、神の愛が私達の心に注がれているからである。」飛び起きました。すぐに聖書を開いてみて、ロマ書5章3~5節の御言葉を見つけました。神様の御声を聞いたのです。もう病気も手術も怖くなくなりました。手術後、病院の中で私ほど喜びに満たされていた患者はなかったと思います。点滴のポールを持って病院の廊下を歩きながら賛美があふれました。神様がともにいて下さる喜びでいっぱいでした。
それからも色んなことがありましたし、これからも試練が来ることでしょうがどんな時も神様に信頼することを学んでいます。神様は早すぎることなく、遅すぎることなく、最善の時に最善を成して下さることを知りました。信仰を持ったばかりの時には、20年も経てばもっともっと信仰も成長して、と思っていたのに、相変わらず弱く欠けだらけの足りない者です。それでも、神様の約束は変わることなく、一方的な愛を注いで下さっていることに感謝でいっぱいになります。

「山は移り、丘は動いても、わがいつくしみはあなたから移ることなく、平安を与えるわが契約は動くことがない。」とあなたをあわれまれる主は言われる。(イザヤ書54章10節)
この主に信頼して、生涯、従って行きたい、と願っています。

月報2009年1月号より

「パズル」

アメリカに来て1年半、この教会に来るようになって約半年が経ちました。
生まれてからすぐに日本へ行き、それからずっと同じところに住んでいて、1度も「転勤」を経験したことのなかった私にとって、この引越しはすごく大きな出来事でした。

引越しが決まったのは2006年の秋頃、中学1年のときでした。父の仕事の都合上、いつかは必ずアメリカに引っ越すときが来る、というのは分かっていましたが、実際にそういうこととなると、そう簡単なことではありませんでした。
まずは転校したくないということ。しかも中学受験をしてやっとの思いで入った学校。ちょうど学校にも慣れ、楽しくてしょうがないという時に転校なんて、正直ありえないと思いました。しかし現実は現実。引越しの準備は着々と進んで行き、とうとう引越しはやってきました。初めて転校をし、たくさんの人との別れを経験しました。
また、新しい生活への不安とは反対に、同じクラスだった帰国子女の友達が英語をぺらぺらしゃべっているのを見て、「アメリカに行けばすぐに英語なんてしゃべれるようになる」単純にそう思って羨ましがり、わくわくしながらニューヨークの空港に着きました。

しかし、待ち受けていたのは、想像以上の苦労でした。
新しい学校、新しい友達、新しい環境、カルチャーショック。しかも英語がしゃべれないので、言いたいことも思うように言えず、かなり疲れていました。学校に行っても、日本人が何人かはいるもののなんとなく落ち着かず、毎日のように、日本に帰りたいと思っていました。改めて今までの友達の存在の大きさを感じました。
そして一番大きかったのは、教会がないことでした。
私が洗礼を受けたのは2001年クリスマス、小学校2年生のときでした。母がクリスチャンなので、小さいときから母に連れられて教会に行っていて、教会に行くのが当たり前のような感じでした。たくさんの人たちに囲まれ、神様の愛にあふれた生活でした。
引っ越して最初の頃は、母と一緒に近所のアメリカ人の教会にも行きましたが、なんとなく居心地が悪くて、それも何度か行っただけで行かなくなってしまいました。
それから約一年、教会に行かない日が続きました。まぁ日曜日に教会に行かないんだったら、友達とも遊べるしそれでもいいかなぁ、とか思っていました。
しかし、教会に行かない生活は今までと違っているような感じがしました。自分の中で教会の存在が大きかったことに改めて気づきました。
とは言っても、教会がない。アメリカ人の教会しかないかなぁ・・・。と思っていたとき、母がちょうどインターネットでこの教会を見つけてきて、行ってみることになりました。
初めて行ったときは緊張していましたが、行ったら中高生の人たちが迎えてくれて、すごく嬉しかったです。それから毎週通うようになりました。中高生の集会もあり、教会に来るのがすごく楽しく思えました。

そしてこの前の夏、一人で日本へ一時帰国したときのことです。ずっと帰りたいと思っていた日本。すごく楽しかったけど、1つ感じたことがありました。それは、時間は進んでいるということでした。前の学校に行ったとき、みんなすごく成長していて、自分は全く成長してないかのように思えました。また、教会にも新しい人、知らない人が増えていて、あ、やっぱりものなんだと思いました。一年以上も経っているのだから変わっていてあたりまえなのに、なんとなく寂さと焦りを感じました。
そんなとき、教会のこどもの祈り会でこの御言葉を聞きました。

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。  創世記12:1、2

寂しさと焦りは消え、ふと、神様は何か意味があって私をアメリカに行かせたんだ、沈んでばっかいないで、今おかれている場所で頑張らなきゃいけないんだと思えるようになりました。

8月、アメリカに戻ってくると、Joy Joy Campとファミリーキャンプがありました。いつも以上に神様のことに触れることが増え、すごく祝福されたときでした。
また、キャンプを通して中高科のみんなとも仲良くなれました。学校にも友達はたくさんいるけど、やっぱり教会の友達っていいなぁと思いました。何でも安心して話せるし、何よりも、神様っていう共通点がある。すごく大事な存在です。

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせるようなことはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。コリントの信徒への手紙一 10:13

すべては神様の計画であって、無駄になるようなことはひとつもない。もしここに引っ越してこなかったら、あのときこの教会を知ることがなかったら、すべてのことが今と全く違ったかもしれない。この、パズルのような道を神様はすべてまっすぐにして待っていてくださる。試練があっても絶対に乗り越えることができる。そして、今ここにいるのも神様の計画の内。
すべてを備えてくださり、導いて下さる神様に感謝します。

月報2008年12月号より