「数えてみよ 主の恵み」

♪数えよ ひとつづつ 数えてみよ 主の恵み♪

これは幼い頃から教会でよく歌った聖歌ですが、最近よく頭に浮かんできます。 私は熱心なクリスチャンホームに生まれ、幼い時から教会に通い聖書に触れて育ちました。その頃はただ友達と“遊ぶ”のが目的で教会に通っていましたが、小学5年の秋に映画伝道会『塩狩峠』(三浦綾子作)を通して、自分の罪と神様の大きな愛を知り信仰を持ちました。それまで何気なく覚えていた聖書の言葉が少しずつ理解できるようになりとても嬉しかった事を覚えています。

しかし高校に入学した頃、教会には義務感から出席はしていましたが全くのスランプ状態に陥りました。“自分ももっと劇的な体験がしたい!そうすればもっと神様を信じれるのに”なんて思ったりして...そんな状態を見兼ねてか?両親より“高校生の集まりに参加したら?”と言われhi-b.a.(高校生聖書伝道教会)に参加するようになりました。「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハネ3:3)という聖書の言葉より、“あなたは本当に新しくされていますか?クリスチャンホームだからとか昔から教会に通っているからとか全然関係ないんですよ!”と言われ、甘えていた自分に気づき目が覚めた思いでした。その後、高校・大学生活を通して様々な集会・キャンプ等に参加し、み言葉を学び・多くの信仰の友と出会えたことは私にとって今でも“宝物”です。

就職してからは今まで自由に使えていた時間が減り、日曜日の礼拝の時間ですらだんだん惜しく思うようになりました。“今週は仕事で大変だったから...”色々な言い訳が頭に浮かんできて、第2のスランプの始まりです。仕事の方も“どうして会社はもっと私に良いポジションを与えてくれないのか?もっと良い仕事があるはずだ!”と不平を言いながら全ての面で天狗状態でした。しかしその後、結婚そして離婚という苦しい経験を通して人生に絶望し完全に自分を見失った状態になりました。“こんなはずじゃ。なかったはずだ”と思う毎日が続きました。

ある日、突然上司に呼ばれ“NJの会社に行かないか?”と言われビックリ!入社時より海外勤務の希望を出していましたが、まさか15年目に叶うとは夢にも思っていませんでしたし、NJの会社は今までの仕事と全く別の分野の会社で会社名すら良く知らず、NJがどこにあるのかも知りませんでした。(NJはジャージー牛乳のイメージからアメリカ中部の田舎だと思っていました。ごめんなさい)“人生の再起をかけて、アメリカに行こう”と決意したのでした。

複雑な気持ちを持ちつつも新しい生活に期待してJFK空港に降り立ちました。アメリカでの最初の日曜日に“そうだ。新しい生活のスタートだから教会にも行こう!説教がしっかり理解できる日本語の礼拝がいいなぁ。”と思い、インターネットで調べていたところ高校時代にお世話になったhi-b.aの宣教師(クラーク先生)が協力牧師を務めるこの教会を見つけました。残念ながらクラーク先生はすでにリタイアしてお会いできませんでしたが、教会の皆さんに支えられ励まされ“我が家”に戻ってきた感じがしました。“放蕩息子帰還”です。

NJでの新しい生活も2年が経過しました。昨年は妻と教会で出会い結婚し来月には子供が生まれる予定です。本当に感謝です。

今振り返ってみると、数え切れない神様の恵みを受けて歩んできたと思います。また、多くの方々の励ましと祈りに支えられてきました。神様に感謝すると共にこれからも全てを委ねて歩んでいきたいと思います。

『あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。』 (コリント? 10.13)

月報2004年7月号より

「人の一生は神の計画で始まり…」

人の一生は神の計画で始まり、そして終わる事の教えが与えられ、毎日導きに従って生きる様に務めています。

私が14才の時、母は病気になりました。「神様、母を元気にして下さい。」と必死に祈りましたが、その祈りは聞き入れてもらえず、1ヶ月程入院して母は亡くなりました。子供の私にとって、母は愛のかたまり、私の生きて行くすべてで、その母を亡くしたのはこの世をなくしたのと同じでした。こんなに願って祈っても神様は母を私から取った。神様は何処にも居ないのだと強く感じたのを覚えています。

友達の誘いで神田のYMCAに導かれ、英語を学んでいました。毎年ゴールデンウィークの5月に山中湖のYMCAのキャンプに行き、聖書を読み、讃美歌を歌い、キャンプネームを付けられ、楽しいキャンプでした。私は宗教には関心はありませんでしたが、イエス様が生まれた所、そして死んだ場所をいつか見られたらと思っていました。

その後、主人と出会い、一年後再び日本に来まして、結婚し、ハネムーンに4ヶ月半の世界旅行をしました。アメリカ生活が一年経った頃、姉からの知らせで父の体が良くないとの事で急いで帰国し、父を見舞いました。しかし、その時の2回目の世界旅行の途中レバノンの地で主人は倒れ、急死しました。どうして自分だけ死んだのと・・・。旅先で私だけ一人ぼっちにして。主人に嘆き、悲しみましたが、主人も私一人残して、死にきれない思い、それでも死ななければならないのは私よりもっと辛かった事かと・・・。それを思うと「ごめんなさい。自分勝手で。」と今でも胸が詰まります。主人の死の2ヶ月後に父が亡くなりました。

私にとって大事な人を次から次と失い、何のために生きているのかと思った事が何度もありました。一人でアメリカで生きて行くのは苦労の連続です。しかし神様はアメリカ人(クリスチャン)をそばに置いて下さり、根気強く私を教会に導いてくれました。そして91年のビリーグラハム宣教大会の時にイエス様を私の救い主として受け入れることを決心しました。それまで、私にばかり、どうして不幸が重なるのだろうと思っていましたが、私のような罪深い者を招いて下さるイエス様を信じてから、それらのことは神様の御業が私の上に現れるためという考えに変わりました。主人と2回目の世界旅行で行く予定になっていたイスラエルの聖地旅行も92年にアメリカの教会の人達と素晴らしい旅行が出来た事はかぎりない喜びでした。もし主人と一緒に聖地に旅行をしていたら、何不自由ない旅行で終り、何不自由ない生活をしていたかもしれませんが、神様はクリスチャンになる機会は与えて下さらなかったかもしれません。愚かな罪人の私をも見捨てる事なく、93年に受洗を与えて下さった神様に心から感謝しています。

いろいろの事がありました。その中でも、2002年には病気で入院、そして手術と、私にとっての初めての出来事が起こりました。しかし、それによって神様が本当に生きており、共に居て下さるのを知りました。私には想像も出来ない事がいろいろと起こり、ただただ感謝です。このMaywoodの教会に導かれ、牧師先生、奥様、家族の皆様には大変お世話になり、誠の生きた信仰を見て、私はこの教会にと決めました。教会の皆様のお祈り感謝しております。私の良き友達の助けで今も頑張っています。素晴らしい人達を置いて下さり、神様に心から感謝しております。

「苦しみにあったことは私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」 (詩篇119:71)

月報2004年6月号より

「僕の親は二人とも聖書学院卒業生だったので…」

僕の親は二人とも聖書学院卒業生だったので、僕は小さい頃から絵本になっている聖書など、神様、又はイエス様の存在は知っていました。小さい頃はイエス様が語った百匹の羊の話し、ノアの箱舟、イエス様の十字架等、僕はこう言うのは意味も、何の事を示しているのかも分からなく、只、毎日の様に母さんと父さんと一緒に読んでいたのを覚えています。

三歳になって初めてニュージャージーの教会に来ました(というより、連れて来られました)。最初はイエス様の事を学んだり、そう言う事が目当てで通っていたのではなく、友達と遊んだり、お菓子食べたり、遊びの場として通っていました。その頃もイエス様を信じていました。しかし、それはイエス様を本当に信じていたのではなく、祈りに答えてくれるから、そして、天国と言う所に行ける為に信じていたものでした。

十歳になったから、礼拝の話を聞こうと決心しました。これも神様からのメッセージが聞きたかったのではなく、褒めて欲しかった、又は「良い子だね」と言われて、自己満足を得るためにでした。最初の内はもの凄く眠くなる様な、「良く皆起きていられるな」と皆さんに聞いたい位、詰まらない物でした。
その一年後、ある高校生を始め、次々と僕に近い年齢の友達が洗礼を受けていました。これは僕にとってハッキリ言って悔しいものでした。僕は牧師の子供なのに、僕より友達の方が先に洗礼を受けたからです。ストレスがたまったのか分かりませんけど、何故か関係の無い家族、又は友達に八つ当たり等の罪を犯す回数が日に日に増し、ドンドンイエス様から離れて行き、そんな自分自身がまた嫌いになりました。しかし、少しずつですけど、その内に神様の導きによって絵本になっている聖書、又は漫画化された聖書を又真剣に読むようになり、普通の聖書も買ってもらって、読む様になりました。

二年前の11月、修養会が僕の教会でありました。教会学校の先生の提案、そして僕の自己満足という二つのきっかけがあって、(これも主の導きですけど)僕も大人の集会に参加することになりました。その時、ある集会後の分かち合いの時に、その牧師先生から色々教えてもらって、それから聖書だけじゃなく、メッセージも真剣に聞くようになりました。

それながらも、「人を傷つけ、嘘をつき、罪を犯して平気な顔でいられるクリスチャンなどいて良いのだろうか?」と自分に何度も聞き直しました。そこに、聖書にある聖句、「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちを清めます。もし、罪は無いと言うなら、私達は自分を欺いており、真理は私達のうちにありません。もし私達が自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私達を清めてくださいます。」(第一ヨハネ、一章 七―十節)がある方の証に出てきました。神様の光、そして罪の赦しを示している箇所です。この箇所を読んで、どのような人間でも、どの様な罪を犯しても、神様に自分の罪を言い表すのなら、神様は正しい方であるため、罪を赦し、イエスの十字架によりサタンから解放されることが分かりました。この箇所のおかげで、神様の愛を自分なりに理解出来ていた僕は洗礼を受ける決心が出来ました。

初めは自己満足の為に礼拝に出席し、遊びの為に教会に通っていました。しかし神様の導きによって、その方の証を聞けて、僕は救われました。「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」 (箴言 19:21) 主に感謝します。

月報2004年5月号より

「今亡き私の母は、大正8年生まれでした…」

今亡き私の母は、大正8年生まれでした。私の若い時に、度々聞かされた事を、今でも懐かしく思い出します。それは、母の実家の隣が教会で、讃美歌の美しい歌声をよく耳にしていたこと。その当時の模様を笑みを持って話してくれました。そして又母はクリスチャンではありませんでしたが、聖書を世界最高の文学書とも言っていました。

私もやがて婚期を迎えるようになり結婚相手に選んだ彼は、なりたてホヤホヤのクリスチャンでした。当時の私はクリスチャンではありませんでしたし、特別私は意識してクリスチャンの方を選んだわけではありません。偶然そうだったのです。その私達にも二人の娘が授かり、夫の意志で幼児洗礼を受けさせました。私に関しましては全く強制的な態度はとらず、自ら進んで受けたくなったら受ければよい、という考えでいました。この様に幸せな日々は過ぎ去っていき、私どもの家族に危機が訪れました。クリスチャンである夫は私よりも離婚という事に対して一層の罪悪感を抱いた事と思います。また私もこのアメリカという異国での離婚は、より一層厳しい状態へ追い込まれるのだという不安もありましたが、結局は離婚に踏み出しました。そのような中で、これからは後ろを振り向かず、たとえ茨の道であっても覚悟して突き進んで行こうという力は、不思議とありました。

それから私の子育て奮闘記が始まりました。その当時私は多くの生徒を抱え、とても忙しくしていました。でもそのような中で娘たちにもそれぞれピアノ、ヴァイオリンを勉強させました。精神的に余裕のない私は、娘達にとても厳しい練習を強いました。それはまた技術向上のためでもあったのですが、私は娘達にとりましたら、まるで「サタン」ママのようだった事と思います。勿論音楽的な事も教えましたが、それはあくまでも私の押し付けに過ぎませんでした。彼女たちが自然にわき上がるものではありませんでした。人々からはお褒めを頂ける程の演奏まで成長しましたが、彼女等の音楽の泉は干からびて行く方向に向かっていくように思われました。二人とも比較的素直な性格の子供達なので、それを受け止める力はとてはとても大変なものだったのではなかったかと思います。私も時々は反省する事もありましたが・・・。

そのような中、私の母の重い病気がきっかけでクリスチャンになる洗礼を受ける事になりました。その当時の私は「罪の赦し」という事をはっきりと理解していませんでした。しかし、異国で生活していました私の願い、気持ちを伝えて、受け止めて下さる方は神様以外にないという思いが自然と湧き上がりました。おぼろげに母から聞いていた教会、夫を通じてうっすらと感じていた神様の存在が、今、母の病気を通じて私にとって本当に必要なものになっていたのではないかと思いました。
よく人様から「二人の子供は素直にスクスクと育っているな」と言って頂きましたが、私の心の中は「親はなくても子は育つ」のだという思いと、姿形は目に見えぬ方に守られているのだという満足と感謝の念で一杯でした。しかし、その一方で私の心にはそれとは裏腹に依然自己中心的な考えがはびこっていました。娘達も年頃になり、私によく反抗するようになりました。もう私の言う事を聞く娘達の姿は其処にはありませんでした。二人の娘達は「同じ釜の飯を食った」という処から、とても仲が良く、お互い慰め合い、良き理解者であったようでした。しかし、事私に関しましては、赦せない部分が多くあったようです。その頃から私も娘達に対して反省する事が多くなりました。厳しい練習をすることにより多くの事を犠牲にさせ、苦しい思いを一杯させてしまったという後悔の念に苛まれ、もう一度子育てをやり直せるものであればやり直したい・・・という思いになりました。罪の意識を強く感じる様になり、つらい毎日が続きました。それは自分だけが辛いという事ではなく、娘達の辛さを感じ取って感じる辛さでした。しかし、人間の絆というものは不思議なもので、私が悔い改めの思いに至る中で、娘達との距離が縮まっていくように思われました。聖書からの聖句「さらに、私達が罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、私達の罪をご自分の身に負われた。その罪によって、あなたがたは癒されたのである」(ペテロ第一の手紙2章24節)イエスの十字架に心からひざまずく思いです。そして少しずつ少しずつでしたが、娘達の希望に叶えられる様に私も努力し、今では伸び伸びと好きな道へと進んでいるという満足感で一杯です。

私がつくづく「クリスチャンであって良かった」と思う事は「考え方」の面で、です。生きている間に、小さい出来事から大きい出来事の中で、紙一重の決断の選択次第で良い方向に向くか、悪い方向に向くかという事があります。そこでその人の人生観が伺われると思います。そのような時に、大きく影響を与えてくださる力は、神様を絶対と思う所から生まれてくるものではないでしょうか。神の御手の中で生かされ、心豊かに生きていく希望を与えてくださる神に心から感謝いたします。そして、一人でも多くの方々にこのような考えを伝えるものとして用いてくださる事を強く願います。

アーメン。

月報2004年4月号より

「私は、小さい頃から教会に行っています…」

私は、小さい頃から教会に行っています。私は、一つのきっかけで教会に通い始めました。四歳のある日曜日の事です。私と妹は買い物に行きたかったのですが、日曜日でおもちゃ屋さんが開いていなかったので、買い物に行けませんでした。そしてお母さんが、「日曜日にはみんな教会に行くんだよ。」と言うので、私も教会に行ってみたくなりました。その次の日曜日、私たちはニュージャージー日本語教会に初めて行きました。それから七年間、ずっと教会に通っています。

最初のうちは、日曜日には何もする事がなくて、他の子供達と遊びたいので教会に行っていました。けれど、教会学校で少しずつ神様のことを知るようになって、神様の話を聞きたいから教会に行くようになりました。そしていつの間にか、日曜日に教会に行くことがあたり前なことになっていました。

私は、いつもイエス様の話を教会学校で聞いていました。イエス様が私達一人一人のために十字架につけられ、死んでくださったことも知っていました。でも、三年ぐらい前までは、本当に信じていなかったと思います。そして、二年くらい前になって、イエス様の十字架の本当の意味を知りました。イエス様の十字架があるから、私は救われて神様と共に生きることができることがわかって、とてもうれしかったです。

二年前の修養会の時、2日目の夜の集会の後に、修養会に参加した子供達と栗栖先生とのディスカッションがありました。その時、私は神様が本当に私のことを愛してくれていることがわかって、イエス様と神様のために生きることを決心しました。その年、私は神様のことをたくさん知るようになりました。そして、私の友達は一人一人洗礼を受けて、クリスチャンになりました。クリスチャンになった友達を見て、私も洗礼を受けたいという気持ちが湧き上がりました。私もイエス様と共に生きていきたいと思いました。

2003年6月22日に私は洗礼を受けました。夏休みに日本に行くことになっていましたが、私は絶対に日本に行く前に洗礼を受けたかったのです。日本では子供の誘拐事件やいろいろな事件が起こったりしていて、神様に守ってもらいたかったからです。聖書の中に、「たった一羽の雀でさえ、あなたがたの天の父が知らないうちに、地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえ一本残らず数えられています。ですから、心配しなくてもいいのです。あなたがたは、神にとって、雀などより、ずっと大切なものではありませんか。」(マタイの福音書10:29-31)と書かれています。それを読んで、私は安心しました。私は、神様が日本で私達家族を守ってくれることを信じて、日本へ行きました。そして、無事に帰ってきました。

私はこれからも、イエス様との歩みを続けていきたいと思います。一心不乱に神様のために生きたいです。そして、他の人を教会へ誘って、イエス様のすばらしさを知らせたいと思います。

「大きな力の働きにより」

クリスマスプレゼント、サンタクロース、トナカイ、モミの木。幼いころの私がキリスト教と聞いて思いつく言葉を書き並べてみました。キリスト教、イコール、クリスマスだと、完全に勘違いしていましたね、今思えば。小学校の頃、教会という所は時々ただでお菓子をくれるらしいといううわさを聞き、少し違和感があったこともあります。幼稚園や小学校低学年の頃、何度も繰り返し学校の先生や親に言われたのは、知らない人にお菓子やお金をあげると言われたら、危ない人なので走って逃げなさいという教えでした。高校生になり、見かけたことのあるクリスチャンは、金髪の二人組の若い男性で、真夏の暑い沖縄でもネクタイを締め、自転車で走っている人達でした。自転車用のヘルメットにネクタイ姿は、当時の私には奇異に思われ、友達と笑いのネタでした。クリスチャン人口密度の高いと言われる(ということも最近知ったのですが)沖縄で生まれ育ってもこれくらいの知識しかありませんでした。
私が初めて礼拝に参加したのは、NJに引っ越してくる半年前でした。中国系のマレーシア人の友人がクリスチャンで教会に通っていると聞き、「えーー、アジア人なのに?」と実は思っていました。「ワザワザ西洋の神様を信じなくてもいいのに」とも思っていました。彼の教会は土曜日の夕方にも礼拝を行っていて、別にお金がかかるわけじゃないし、彼が毎回ピックアップしてくれるという送迎付きなので、土曜日の夕方の暇つぶしに通うだけでした。アメリカ人ばかりの教会でしたが、牧師の話し方が面白く(内容より笑いを期待してばかりいましたが)、短い間でしたが通い続けました。NYでの仕事が決まり、最後の礼拝の時に、友人に誘われて牧師に挨拶に行きました。その時の牧師はとても優しく暖かい目をしていたのが印象的だったのと、その友人の強い勧めもあり、引越し先でも教会に通う事にしました。
家から車で5分くらいの所に日本人の教会があるのをインターネットで知ったのがきっかけでした。(すいません、その頃から遅刻ばかりで…)日本語での礼拝に参加して初めて、アメリカ人の牧師が一番伝えたかった事を理解する事ができました。理解できても、罪の自覚とは別な事件の話で、なかなか受け入れられずにいました。少しずつ教会から離れていった頃、一年ほど前の9月11日の事件について考える様になりました。気づかされたのは、あの時の自分の奥底に潜む醜さでした。私は逃げるのに一生懸命で自分の事だけを考え、周囲の事は何一つ考えていませんでした。人を突き飛ばしたり、押しのけたりして逃げる事はなかったものの、イザそういう場面に直面したら、自分の事はさておいて他人を助ける事ができたか、と聞かれても答えられませんでした。ようやく自分の本性と対面し、「これかぁ、礼拝で錦織先生が口をすっぱくして言い続けていたことは」と気づきました。たまたまその後、レストランで友人と食事をしていた時、外から中の様子を覗き込む中国人がいました。よくみると中国人ではなく、教会でお世話になっている(これからも宜しくお願いしまーす)G夫妻でした。満面の笑顔で手を振って下さりました。そろそろ戻ってきなさいといわれた気がし、再び教会に通いだしました。
学びを始めた頃は、いつか受洗したくなったときにできるように、と軽い気持ちでした。というのも、いつ日本に帰るか分からないし、家族の理解を得る事はできないと思っていたからでした。弟は心の病を患っており両親は世話の為に沖縄を離れられず、遠く離れたアメリカでいきなり、私は今日からクリスチャンです、と言えば心配するだけだからです。という、私の小さな思いとは別の所で大きな力が働き、出会いから結婚、そして結婚式の為の両親の渡米、そして受洗と、教会に再び戻ってから大激震の一年でした。これからの歩みにおいて何が準備されているのかとても楽しみです。教会の中で一番の新米ですがこれからもよろしくお願いします。

ロリー・ロナルドさんの証

(旧姓ヘギ、フジテレビで放送された[NY地区では2003年11月]、「通常の8-10倍の速さで老化が進んでいくプロジェリアという病気を持って生きているアシュリーちゃん」のお母さんです。ご本人の承諾をいただいて、http://www.progeriaproject.com/kids/Ashley/thennow.htmに掲載されているものを全文翻訳し転載致します。今から2年くらい前に書かれたものです。)

私の名前はロリー・ヘギ。アルバータ州の南部に10歳の娘、アシュリーと住んでいます。私の人生はアシュリーがプロジェリアという病気であることを知った時に全く変わってしまいました。しかし、もう一つわたしの人生を変えた出来事がありました。それは、3ヶ月前、イエス・キリストが私の罪を赦し、私との個人的な愛の関係を始めて下さったことです。

振り返ってみると、私はいつも愛の神の御手によって、危険から守られてきました。そして究極的には神のことを聞くことができるところへと導いて下さったのです。

12歳の時のことを思い出します。私は氷が割れて、氷の下に閉じこめられてしまいました。その時には友達が氷の割れ目から私の髪の毛をつかんで引き上げくれました。私はどのようにしてそこで助かったかよく分かりませんでした。半分凍った川をどのようにして岸までたどり着いたか何も覚えていないのです。私は自分の人生の中で、そのようにしてたくさんの事故や危うい出来事をすり抜けてきたことをいくつも思い出すのです。

私は自分の人生を自分の方法で歩んできました。私は規則とか責任とかを無視することが得意でした。学校を中退し、家出をして、盗みをはたらき、嘘をつきました。酒に、麻薬におぼれました。

私は17歳の時に妊娠しました。妊娠中だけはお酒や麻薬はやめました。私は自分のお腹の中で育つ赤ちゃんを産みたいと思ったのです。9ヶ月後、とっても素晴らしい贈り物が与えられました。アシュリー・ブルックです。母親となったことによって、私の歩みは少し変わりました。しかし、それでも、私は今までの自分の誤った選択や生活のストレスによる痛みや後悔を麻痺させてくれる、間違ったものに頼り続けていたのです、私はあいかわらず孤独で、すべてのことを何もかも自分一人でやらなければならないと感じていました。だれもあてにできる人なんかいないと思っていたのです。

アシュリーは9ヶ月の時に、プロジェリアと診断されました。同じ病気の13歳の子の写真を見た時に、世界が崩れていくような思いになりました。何を言ったらいいのか、何をしたらいいのか、何を考えたらいいのか、全く分かりませんでした。私は娘を愛していましたし、この子こそ私にとってのすべてでした。そして、心のどこかで「どうにかなる」とも思っていました。彼女は成長するにつれて力や知恵、愛と勇気とを身につける様になっていきました。彼女は私にとっての人生の土台、生きる意味となりました。こんなことが起こるのには何か理由があると思うようになりました。「何かもっと大きなことがここで起こっているにちがいない」と思っていました。自分の考えが正しいことを願っていました。「この人生にはもっと大きなことが起こるにちがいない」と。

それからの10年間、アシュリーの現実とうまくやっていくために助けになってくれるためのいろんなものにどんどん依存するようになっていきました。私はキックボクシングに夢中になり、「NINJA」(Kawasakiのバイク)を持ち、ハーレーに乗り、人々の羨望の的になりました。しかし、心の中では、何か満たされていなかったのです。人生は意味がなく、虚しいものに見えました。

2001年の12月の下旬のある日、私はもう前に進めない、と思いました。このままではもう生きられない、一時たりとも生きられない、と思いました。私は孤独でした。たくさんの過ちを犯してきました。痛みをごまかそうとすればするほど、むなしさを埋めようとすればするほど、それは大きくなっていくのです。私は自分が人間としても、母親としても失格だと思いました。膝をついて泣きました。泣き続けました。私は自分が間違っていたことに気がつきました。自分が悪い人間だと思いました。「赦してください、私は罪を犯しました」という言葉が繰り返し出てきました。それを止めることができませんでした。膝をついて顔を伏せて、涙が川のように流れました。その時のことをはっきりと覚えています。どうして泣いているか、誰に向かって叫んでいるのか分かりませんでしたし、そんなことはどうでも良かったのです。私はどん底にまで落ちました。トロフィーも、バイクも、鍛え上げた体も、羨望のまなざしも、何の意味もない、自分には何もない、と分かりました。私はその時には知りませんでしたが、神はわたしの叫びを聞いておられたのです。そして、神はわたしに答えてくださったのです。幾日かのうちに、私は変わり始めました。私はアシュリーの部屋で赤い聖書を見つけ、それを読み始めました。わたしの心の中のむなしさは癒やされ始めました。私は自分の人生について、私が持っているものについて、新しい見方をすることができ、感謝をできるようになってきたのです。

私はすぐに、誰にも説明もしないで、今まで持っていた関係をすべて捨てて、引っ越しをしました。今までの人生の中で持っていたもの、人間関係、すべて離れました。それらのものは自分の人生にとってプラスにならないことを知っていたからです。私はそれまでの自分の経験から、それらのものは私に平安も、満足も、希望も与えてくれないことを知っていたのです。私に虚しい孤独な思いを与えて去っていくことを知っていたのです。ありがたいことに、私にはアシュリーがいました。私の支えでした。私は100パーセント彼女と共にいてあげられませんでしたが、彼女は100パーセント私と共にいてくれたのです。しかし、それでも、私の中には痛み、罪意識、孤独、悲しみがいっぱいだったのです。

その時、私はイエス・キリストについて聞くことができました。主は私を二人の方々が聖書を教えているところへと導いてくださいました。その時に、はっきりと神の子イエスについて、そして、イエスがこの世に来られたのは十字架の上で死ぬことによって罪人を救ってくださるためだった、ということを聞きました。彼らはイエスが私の罪のために死に、死人の中からよみがえり、私にあふれる命を与えてくださることを教えてくれました。イエスは「私はあなたに命を与え、豊かに与えるために来たのだ」(ヨハネ10章10節)と言われました。このメッセージを聞いた三日後に私は罪の赦しという神のプレゼントを受けいれました。その時のことを決して忘れません。神は本当におられ、私が神を知ることを願っておられたのです。私は救われました。神の恵みによって地獄から天国へと救われたのです。何という救いでしょうか。もう罪に縛られていないのです。私は自由になりました。「あなたがたは真理を知る。そして、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8章32節)

聖書は、私は今キリストの内にいるのだ、と言っています。私は物理的にはここにいます。しかし、私のふるさとは天国にあります。主をほめたたえます。私が見つけたものを紹介します。死の恐れからの自由、悪魔の力からの自由、罪の重荷からの自由を見つけました。信頼できる方を見つけました。神の言葉である聖書を読むと、私は平安と喜びと、満足と、希望を得ることができます。キリストのゆえに、私には永遠の命があるのです。

私はその時からアシュリーが私の人生の土台ではないことに気がつきました。イエス・キリストが私の人生の土台なのです。私もアシュリーも一緒にキリストという岩の上に立つことができるのです。

「神はそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じるものが一人も滅びないで永遠の命をえるためである。」(ヨハネ3章15節)

月報2004年1月号より

「先日、六ヶ月振りに車を運転しました。…」

先日、六ヶ月振りに車を運転しました。
理由は今さら隠しても仕方ありませんが、飲酒運転で免許を取り上げられていたからです。待ちに待った六ヶ月でしたが、正直なところ、いざ運転してみると、自分でも怖いぐらい六ヶ月のブランクはなかったかのように、違和感がなく、すんなり運転できてしまいました。世間的には自分の汚点となるようなことなので、まるで臭いものにふたをするかのように、このまま何事もなかった顔で、六ヶ月前の元の生活に戻ってしまうことは簡単ですが、私にとってこの六ヶ月は、神様が私を個人的に取り扱ってくださり、一緒に歩んで下さった貴重なときであったことを確信していますので、是非今日は皆さんにそのことをお証したいと思います。
まず、最初にショキングなことをお書きしますが、私は同じことで警察に捕まったのは、実は今回が3回目です。一回目は学生時代に、二回目は10年前、そして今回です。二回目の時は車を廃車にしてしまうほどの自損事故を起こしての結果、警察を呼ばざるを得なくなり発覚しました。
その他にも、警察沙汰にはなっていませんが、やはり自損事故で、右側両輪を歩道ブロックにぶつけてパンクさせ、レッカーされたこともありました。このように過去を思い返すと、私は今までに何度も問題をおこしてきたにもかかわらず、改めることができない自分であったことがわかります。毎回、その度に「もうやめよう、もうやめよう。」と思ってはきたと思うのですが、しばらくすると、その時のことを忘れてまた同じことを繰り返してしまう。自分では良くないことはわかっているけど止めることができない。これが私の中にある罪の現実でした。
聖書には罪についてこのように書いてある箇所があります。
「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それをおこなっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」
ローマ7章19-20節
そして神様はそのたびに警察を通して、私に警告を発してこられてきていたのに、私はこれまで無視し続けていたのです。
今回問題となったのは今年4月の初めに、NJ州北部の町で仕事仲間の送別会を4人でした時でした。その日は11時ごろまで食事して、お開きになりましたが、翌日ふたを開けてみると、そのうち2人が警察にお世話になっていました。ただ、もう一人の方は、その送別会の主役で日本に帰国がまもなくだったのでなのか、何のお咎めもなく、「気をつけて帰りなさい」と言われただけで、免除されたそうです。結局、その日私一人だけが捕まったので、周りの皆んなは、そんな私のことを一様に「運が悪かったね。」と思ってくれていたようです。今までならば自分もそのように思っていたかもしれません。しかし今回は、わたしは「守られた」と心から思うことができました。というのも、私が警察に拘束されていて、身元引受人として家内に電話がかかった時、家内は家の電話のコールIDに「Ramsey 警察署」と出ていたのを見て、体が震えたそうです。夜の12時過ぎに警察から電話だと交通事故で人を傷つけたか、傷ついたか。もしくはそれ以上のことが私の身の上に起こったのではないかと思ったそうで、実際は事故ではなく、私が警察にお世話になっているので引き取りに来てほしいとの連絡に、内心ホッとしたと言っていました。確かに家内が言うようにこのままどんどん突っ走っていれば、その不安が現実のものになっていたかもしれません。飲酒運転においては何が起こっても不思議ではなく、一旦、事故となれば、運・不運の問題では片付けられないのです。「これは決して、不運ではなくて、自分で止めることができない私の弱さを神様が知っておられ、神様ご自身がこのような形でストップをかけて下さったんだ。」と思えたからです。
それから家内は夜中の1時頃、眠っていた2人の子供たちを起こして、迎えにきてくれました。私は眠そうな子供たちの顔を見たとき、なぜか涙があふれてきて、ただ、「ゴメンね、ゴメンね」と繰り返しました。後からお兄ちゃんの方には、どうしてお父さんが警察に捕まったのか彼にわかるように説明しましたが、その時彼は、「どうしてお父さんは、やっちゃいけないことをやったの。」と子供なりの素朴な質問をされ、私は返事につまりました。そして、その言葉がまるで、神様からのことばのように思え、私はハッと気付くことができたのです。
聖書にはこのようにも書いてあります。
「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」 ローマ8章11節
私は前の2回までは、まだクリスチャンではありませんでしたので、聖書を読んだこともなければ、神様の存在やその私に対する愛などは知りませんでした。しかし今回は明らかに、この聖書の御言葉通り、死に向かって突っ走りかけていた私の罪のからだを、主があわれみ、そこから救って下さったと身をもって体験しました。六ヶ月免許停止は私にとってこのように主によって取り扱われた大事な「聖め」の時となりましたが、しかし現実的には、この地においての私たちの生活を大きく揺るがす可能性を秘めたものでもありました。なぜなら、私にとって車は単に通勤だけではなくて、顧客周りの大事な足となっていましたので、車が運転できないならば、日本帰国は免れないだろうし、仮にこの地に残れたとしても、この車社会において物理的に六ヶ月を乗り切るのは至難の業と思えたからです。しかし、神様はそのことにも配慮して下さり、道を用意してくれていました。
会社の判断は、「周りの者が協力して助けるなら、特に問題は無し。」となり、車に代わる通勤方法を探すと、なぜか私は New Jersey Transit (鉄道)の最寄駅に歩いて5分の距離に住んでいて、朝6時半の電車に乗ると会社には9時前入ることができるようになっていたのです。幸い私は朝型人間でしたので、朝早いのは、全然苦にならなく、又夏の間だったので、冬のように朝晩暗く寒い中を歩いて行く必要もありませんでした。その他、この六ヶ月間にはいろいろな不自由を経験したり、その度たくさんの方の愛情に助けられてきました。しかしこのように無事乗り越えることができたのは、やはりそのすべてが主の御手のうちにあり、守られたからであったことは、今終えた自分の実感であり、紛れも無い事実として受け止めています。
思えば、今年の半分をこのことに費やし、気が付けば、残すところあとわずかとなりました。去年の今頃はこのような一年になるとは思いも寄らなかったですが、確かに主が私を取り扱ってくださった大事な一年となりました。そのすべてのことに感謝しつつ。
「主よ。まことにあなたはいつくしみ深く、赦しに富み、あなたを呼び求めるすべての者に、恵み豊かであられます。」 詩篇86篇5節
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」 詩篇103篇2節

月報2003年12月号より

「神様への感謝」

2~3年前にアカデミー候補となった映画「About Schmidt」という題名の映画をご覧になりましたか?最近我が家ではDVDを借りて見る機会が多く、家内に「是非見たほうが良い!!」と薦められ一緒に見ました。一度目はなかなか身にしみる場面が多く、「なるほど、気を付けなくてはいけない」と感じました。その後数日、数週間が経過しても、どうもこの映画のことが頭から離れず、今度はDVDを買い、一人でじっくりと見ました。
主人公のWarren Schmidt は66歳、結婚42年、オマハの大きな保険会社のAssistant VP の職を最後にリタイアする当日の場面から映画は始まります。主人公自身の人生への思い、特にサポートをするアフリカの孤児Nduguへの手紙を媒体としての自己発見、妻との関係、娘との関係等を中心に話しが進みます。
映画の一つのテーマは、Warren の不満・怒り、「自分の人生は何であったか、会社仕事、自分は何かに貢献出きたか?」「妻はいつも自分をコントロールする、彼女の小さな仕草や趣味が気に入らない!」「娘はとんでもない輩と結婚しようとしている、許せない!」、そして、もう一つのテーマは感謝、「退職直後に脳梗塞で急死した妻への感謝」、「全く気に入らない娘のフィアン家族への感謝」、「Nduguへの感謝」。
私は今年で50歳となり、Warren の年までにはもう少し時間がありますが、会社・仕事・妻・娘とかなり身にしみる映画の設定で、とても共感できる映画でした。しかし、どうも何かが足りないという思いがずっと残っていました。考えてゆきますと、示される事は、足りないものは「神様への感謝」と思えてきました。自分との関係、家族との関係、知人・友人との関係の前に「神様との関係」。そして、「神様に似せて創られ、生かされていることへの感謝」、この根源的な部分の神への感謝、自分の支配でなく、神の支配への委ね、この大切な部分が描かれていない事が映画への消化不良の原因と確信出来ます。Warren から怒り・不満がなくならない。しかし、ふと自分を振り返ると、Warrenとあまり変わらない姿が見えてきます。自分に対して、そして会社・仕事・対人関係の不安・怒り・恐れ。自分では解決出来ない、どうすれば良い。自分には出来ないが、神様には出来る。全てをゆだね、全てに感謝し、生かされている自分がいると考えると、不思議いや当然、不安・怒り・恐れが去り、平安が与えられます。
1991年12月22日にJCCNJで正木牧師から洗礼をうけ、「あなたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。」 ヨハネ15-16の御言葉を頂きました。洗礼から12年、やっと神様の大きさ、偉大さを痛感しています。洗礼にあたり、この御言葉を語られ正木牧師を通して、特に私に選んでくれました神様に感謝です。
その後のWarren は教会、神様につながり、神様の力により沢山の実を結んだという「About Schmidt 2」を楽しみにしています。日々、働いて下さる神様に感謝!思いやり深い家族、特に妻に感謝です!

月報2003年11月号より

「無言の宣教」

去る4月16日朝、弟の毅が安らかに天に召されました。長い間教会の皆様にお祈り頂きましたことを遅れば
せながら心から御礼申し上げます。

この日は奇しくも私の72歳(年男)の誕生日で弟が俺の命日を忘れるなよと言っているような気がしていま
す。

さて、弟は長い間私達の家族の中で唯一人のクリスチャンでした。彼は小学生の時同級生で親友だった上野さんという方のご一家が敬虔なクリスチャンホームだったことから教会に導かれ高校一年生のとき洗礼を受けた様です。この上野家というのはお父様が東京朝日新聞社の社主というえらい方でありながら子供たちの友達が来るとお母様ともども一緒になって子供たちの話題に入って下さるような素晴らしいご家庭でした。翻って小学校6年生の時に父を亡くし、私とは歳が離れすぎていて家に帰っても話し相手もなかった弟が温かい上野家に惹かれて行きそのベースにあるキリスト教に親しみを感じたのは自然の成り行きだったのでしょう。

弟の偲ぶ会の席上、多くの方々から私の知らなかったことも含めて弟にまつわる様々なエピソードが語られました。その多くは「仲人口半分」に聴いてもいずれも弟は面倒見がよかった、弟に感化された、弟のお蔭でクリスチャンになった、というような話で彼はそんなに「偉大」だったのか!・・・という思いを抱かざるを得ませんでした。そして会の後で前出の上野さんが私に「タックン(毅のニックネーム)と出会えた事は本当に幸運でした。

私たちは真実盟友でした。彼は色々な意味で私の人生を変えてくれました。」と言って下さった時はじーんときて涙が出そうになりました。上野さんに弟が感化されたとばかり思っていたのに逆に弟が上野さんの人生を変えたなんて・・・・盟友というのはお互いに感化しあい向上しあうものなのか、そう思うと今までの人生に盟友といえる友人を持ち得なかった自分が薄っぺらで情けなく思われ、無性に弟が羨ましく感じられました。

同時に今、私が救われているのは実は弟のお蔭ではないのか、という思いが次第に大きくなってきました。弟は私に対して一言も宣教めいたことは言いませんでした。しかし弟の生きざまは全てが愛に満たされ、クリスチャンの生き方を具現していた様に思えます。私が受洗するにあたっては教会の皆様に引っ張り上げて頂いたりお尻を押して頂いたりしました。それは勿論有難く、私の救いの為の直接的なfactorでした。しかし、もし弟の存在がなかったらきっと傲慢で頑なな私は教会に足を踏み入れることすらしていなかったと思います。神様は弟を通して私を愛の道に導いて下さったのではないでしょうか。

天国の毅に感謝をこめて。

月報2003年10月号より