「御手の中で」

こうして、ここに書けるような事柄をあまり持ち合わせない私ですが、忘れられない思い出を2つ程お話しさせていただこうと思います。

1つは、去年の春先のことなのですが、5月頃のある日、アパートの非常階段の隣家の建物側の片隅に鳥の巣をみつけました。小枝を寄せ集めてそれは5,6mも離れた私の窓からは無関心でいたら気付かない程でした。オペラグラスで見ると孵ったヒナの小さな頭が2つ動いていました。朝な夕な見ているうちに忙しなくエサを運んでいる親鳥をみました。この辺りには珍しい山鳩でした。彼等を見ている私に気付いた親は一瞬ドキッとした風で暫くキョトンと私をみていました。その頃の気候はまだ定まらず、かなりまだ寒い日あり,強風あり、なんと強風を伴う大雨の続く日ありで、西側のL字型の踊り場の突端に危なかしくもある巣と中の子供達に随分気をもんだものでした。冷え込む晩には親は子供達といっしょだろうか(暗くて見えないが)、風の強い日には、巣ごと飛ばされないだろうか、嵐の日には、子供達はずぶぬれで大丈夫だろうかとか、野生に対して私が手を出すことがいけないのを承知しているので、ただただ窓から気をもむ日々でした。そして親が戻ってきて子供達のせわしげな食事風景を見る度ごとに、“君達元気でよかったね、神様に感謝しようね”と語っていました。ある時その日がきて、小鳥達は巣から這い出てヨチヨチ歩き始め、なにしろそこはファイアエスケープで、表面はスノコ状で、鋼鉄の板と板の間は3センチ位の板と同じ巾の隙間がありますから、そこに足をとられないかと又々気をもんだものでした。そうしてある日、大きい方の子が一人立ちして私が見た時、チビちゃんひとりが、残っていました。その土曜日の朝、チョコチョコするチビの周りを親鳥が行きつ戻りつしているのを見ました。“サア、貴方はもう飛べるのヨ、ソラ飛んでごらん”と言っていたのでしょう。2羽とも形は勿論、色も同じようで、なんとその時私は初めてエサをやっていたのはこの2羽で交代でやっていたのだと知りました。いつも同じのがやっているみたいなので、これはてっきり母鳥で父鳥は、責任放棄かなと思っていました。そうではなかったのです。感動でした。その美しい朝のうちにチビは一番近い木まで2,30メートルをちょっと戸惑って、でもどうやら飛んで彼等のドラマを見事に完結させました。こうして私が観察できる時間は限られていたのにほぼ全行程を見せてもらったこと、あたかも私が見られるように仕組まれていたかのように......なんと最上階のまるで屋根のない片隅に巣を作り、あの吹き付ける嵐を見事くぐりぬけた小さな命達を守るのには、神様の御手があったとしか考えられません。私はあの初夏の晴れた土曜日の朝、チビの初飛行を決して忘れないでしょう。

2つ目は随分昔の事なのですが、いつもつい昨日の事のように新鮮な想い出です。“今は昔”ある夏の日、私は初めてルーブル美術館のミレーの“晩鐘”の前に立っていました。足が釘付けになったように動けませんでした。ご存じのように“晩鐘”は思うより小さな、夕日に包まれてはいつつも、全体には暗い色彩の絵で農民夫婦が畑の真中で敬虔な祈りを捧げている図です。ルーブルには宗教画が数多くあり、ある一角は宗教画のみといったスペースがあり、当時教会にほとんど行ったことのない私にとっては意味がまるでわからず、素通りしたものでした。それが“晩鐘”の前でピタッと止められたのです。絵の中になにか深い精神性を感じたのです。神の存在を感じたと言ってもいいと思います。周りのほの暗い実りの畑、一日の労働の終わりを象徴する風景のせいでしょうか、祈る農民の姿があまりに自然だからか、あの絵に込められ滲みでる深みはどこからくるのでしょうか。つらい一日の終わり、鐘の音と共に、神に身を委ねて感謝の祈りを捧げる農夫、それは古代から延々と続く人間の日々の営みの基本です。ミレーは19世紀を生きたバビルゾン派の画家で、農民と彼等の生活を数多くテーマにしています。

日本人が子供の頃に教わる画家の一人です。彼の有名な絵の中でこの“晩鐘”は私にとって“超”特別です。私から絵に入って行ったのではなく、絵の方から私に飛び込んできたと言えると思います。大よそ本当に良質のものは、芸術作品とか発明発見でもこっちから探りを入れる前に向こうの方から(芸術作品の方から)語り掛けてくるものだろうと思います。少なくとも私にとってそういうことが多く、こうした所にも神様の御手を感じないではおられません。

さて私自身の信仰ですが、友人に誘われるままに教会に行き始め、錦織牧師や諸先輩の暖かい熱心な励ましをいただいて2年前に洗礼を受けました。今まで私が見、感じてきた神様の色々な御技の確信を私の中にも大きく見せていただけるよう、心から祈っていきたいと思います。
これからもいいものをたくさん観て、感じて、毎日の無事を感謝しつつ神様と共にある実感を味わい、主を見上げて歩んでいきたいと思います。

(なお、ミレー、コロー等、バビルゾン派の作品は貸出し出張中でない限り、今はパリ、オルセー美術館にあります。)

月報2004年12月号より

「涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とする」

「人生に、もし・・はない。」忘れられないドラマの台詞。与えられた三人のすばらしい息子たちと夫の深い愛に「もし、あの時・・」の人生はない。

誘われた「ベン・ハー」の映画がきっかけで、聖書に出会った。牧師と呼ばれる人のいない教会で「○○集会」と呼ばれ、一人の指導者を中心に、信仰篤い兄弟たちが祈りながら進めていく集会であった。

この世界には何か「真理」があるのではないかと、物心ついた頃から考えていた。続けて日曜日の集会にも集い、大きな疑問も反発もなく、聖書に真理があったことを喜び、毎回聖書の言葉やメッセージが深く入っていった。

誕生日プレゼントにいただいた「主の墓」の絵葉書が私に迫った。「ここにはおられません。よみがえられたのです。」聖書の言葉が英語で添えられていた。主が十字架にかかられたのは私の罪のためであったこと。葬られ、約束通り三日目によみがえってくださったこと。今も生きていて執り成してくださっていること。がその場に臨まれた主にはっきりと示され、感動に満たされた。その集会は洗礼に関してもとても慎重で、本当に神によって新しく生まれ変わっている(新生)のか吟味された。やがて、熱い思いと喜びで受洗。イスラエル旅行にも参加し、あの主の墓の前にも立った。

当時、その集会の指導者は「ユダヤ人」のことを聖書から特別に教えられていて、本も出版し、あちこちで講演会も行っていた。特別な賜物が与えられた指導者と集会だった。結婚も祈りながらクリスチャン同士。もちろん、結婚後に信仰を持った人もいたが、独身の姉妹が多かった。また、聖書の霊的な深い部分もよく語られ、信仰が大きく揺さぶられることもあった。

そんな頃、主人とのことがあった。同じ職場の彼にもこの救いを知って欲しいと誘い、彼は日曜日毎に集っていた。結婚を意識して誘ったわけではなかった。しばらくして、ある兄弟から彼のことで話を受けた。あまりにも非情で霊的に重い言葉に動揺し、震えた。耐えることが困難な言葉だった。後に、その言葉に大きくつまずいて転倒し、立ち上がることができずに、苦しみの年月を重ねることになってしまったのである。信仰生活と恋愛感情を心配しての助言だったと今は受け止められるが、当時は誰にも語れない重い言葉となって、私を苦しめ続けた。

純粋に信仰を第一として歩みたいと願っていた私は、教会からの助言を神のみこころだと受けとめ、従おうとして、一度は彼のことを主に返して、手を放した。しかし、次第に喜びのない信仰生活となり、自分の中の偽りと不信仰に苦しむ鬱状態になり、限界の日はやってきた。心配した姉妹方の助言も固くなった心は受けつけず、拒絶して教会を離れた。私は彼と結婚した。

結婚の用意をしながらも、自分を責め、教会が受け入れられない結婚を選択した自分は神に打たれるのではないかと、恐れた。みんな幸せに結婚準備をしていくのに、私はこんなに苦しんでいる。祝福される結婚が、苦しみの中で始まった。クリスチャンであるという事実。キリスト教でない式は挙げられない。彼の両親にも伝えた。全然面識のないその場限りの出張牧師。クリスチャンの出席しない教会式の挙式。後に、違う教会に移った同じ会社のクリスチャンが自分のところの集会に来てみたら、と誘ってくれたが、どこにも行けなかった。集会の駅近くになると、どこかであの兄弟姉妹に会うのではないかと恐れ、顔も上げられなかった。

妊娠、出産、流産・・。結婚生活は忙しく進んでいった。自分を責め、悪夢にうなされ、目覚めて、あぁ結婚したのだと思った。自分の内面や信仰が夢の中でも追ってきた。

そんな中、神様のあわれみの「時」が動いた。私たちはウィーンへと運ばれた。当時、とてもお世話になっていたYさんが家庭集会に集っている、と言い、私を誘ってくださった。事情を知らないYさんを用いて、神は私に「回復の時」を与えてくださったのである。同じ主にある祝福された集いだった。教会に戻ろう、と聖霊に押し出された。

そして、石川牧師夫妻に出会い、今までの重荷を初めて降ろすことができた。誰にも語れなかった、あの兄弟のあの言葉も初めて口にした。霊的なことが強調されすぎる危険性。「もちろん、信者同士の結婚が望ましい。しかし、信者の祈りによって相手が信仰を持つことも結婚生活で望む。」と言われ、信者と未信者の結婚式も挙げていると言われた。その後、ウィーンで、あの集会、あの指導者のことをよくご存知のK先生にお会いし、話を聞いていただく中でも私の傷はどんどん癒され、回復させられていった。K先生は「あなたは高い授業料を払ったのだと思う。」と言われ、本当に高い授業料を払った気がして、涙がボロボロこぼれた。「神は人生をトータルで見られる。」と先生は言われた。同じことを受けても、特別気にしなくて、悩まない人もいる。まじめで若かった私は、余計な苦しみを自分で背負ってしまったのかもしれない。と回復して後、牧師夫人に話したら「そういう性質も神様はあなたに与えてくださったものだから」と言ってくださった。

「他人に深い心の内を話す」ことで人は癒され、軽くなる。私は重荷を降ろす先、信頼できる信仰者を探し求めていたのだ。見えないところ、知らないところでの「祈りの手」も神様は見せてくださった。「私はあなたに誠実を尽くし続けた。」と主は語ってくださった。
人はそれぞれの弱さや性質の故に、回り道をしたり、必要のない苦しみを背負ってしまうことがある。牧師であってもクリスチャンであっても人をつまずかせることがある。そんなつもりではなかったのに、深い傷を負わせてしまう言葉もある。しかし、神様は一人ひとりの弱さもご存知で、しっかり包み込み「わたしの恵みは、あなたに十分である。わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われ、すべてのことを働かせて益としてくださるのである。マイナスや苦しみがプラスに転じて「用いられるもの」となる。
私はこういうことを通して、信仰から離れている人のために、また、ご夫婦そろっての救いのために祈るように導かれている。痛みを知っている者が祈れる祈りがある。主はあの時の私の叫びを聞いて、夫を救ってくださった。
ハンブルクの宣教師夫人は言われた。「主はこの結婚をあわれんでくださったのです。」と。本当にあわれまれたのだと思う。

また、今度はアメリカに運ばれてきた。「もういいです。十分です。」と信仰のない者は新しい地での新しい戦いを恐れ、後ろのものを振り返る。しかし、「見よ。私は新しいことをする。今、もうそれが起ころうとしている。」と言われ、「この戦いはあなたがたの戦いではない。しっかり立って動かずに、主の救いを見よ。」と言われる。目が見たことのないもの。耳が聞いたことのないもの。そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものをここでも体験させてくださるのだと教えられる。確かに主は涙の谷を過ぎるときも、泉のわく所としてくださった。

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたの病をいやし、
あなたのいのちを穴から贖い、
あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
あなたの一生を良いもので満たされる。
あなたの若さは、わしのように、新しくなる。」 詩篇103篇 2-5

月報2004年11月号より

「心の方向性」

1.突如教会へ
私は宗教色の無い家庭に育ちましたが中3の秋、「これからは教会に通います」と家族に宣言しました。ミッションスクールに進学希望で、キリスト教の空気を知っておきたいという下心からです。初めて行った教会は古い学習塾を借りて礼拝を守り、同年代は殆どおらず、お説教は難解。結局入試後も通い続けましたが、何が私の心を捉えたのでしょう。「人はパンだけで生きるのものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである。マタイ4;4」「見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。コリント第二4:18」のん気に日々を過ごす当時の私でしたが、生きていくとはただ働いて、食べて、蓄えて、何か見えるものを残してというだけのことではないだろうとは思い始めていたようです。教会で心の内側が探られる必要性を感じていたのかもしれません。

2.気休めの死生観
その後2年半程して、元気に布団を干していた母が突然気分が悪いとしゃがみこんだきり昏睡、1日もせずに40歳で亡くなりました。1度だけ意識が戻り病室で二人だけになった時、母は限界を悟ったようで私の手を握り、自分はもう助からないであろうから10歳の弟の面倒を頼むということと、その弟を可愛がってくれる人とならば父の再婚を認めて欲しい旨言いました。突然のことに私は「わかったから」としか答えられず、これは大きな後悔となります。なぜ励まして「元気になれるよ」と言わなかったのか。せめて「お母さん死なないで」くらい言えなかったものか。でもそれらは皆気休めにしか思えず、死に行く母の切羽詰った眼差しを前に言葉がなかったのです。今なら、イエス様は重荷に苦しむ人を受け止めて下さること、信じる者には全てを益として下さること、「イエス様はよみがえりであり、命であって、イエス様を信じる者はたとい死んでも生きる。ヨハネ11:25」そう言って手を握り返せるのにと思います。

3.人がつくる神
お葬式は仏式で行われ、母は突然「仏様」と呼ばれるようになりました。葬儀屋さんは勿論、親戚の人々もそう呼び始めます。母は仏様になりたかったのか?旅行の行先にだって皆様々なリクエストがあるのに、こんな大切な問題(死後の行先)を生きて残る人達が決めていいものかと感じました。数日後新しい仏壇と位牌を前に「今日、魂を入れてもらってきたからこの位牌をお母さんと思い拝みなさい」と言われた時には?マークが私の体中から大噴出でした。何故この板切れが母なの?魂って出し入れできるもの?誰にそうする力や特権があるというの?仏壇や位牌は金色飾りの演出で神々しく見えましたがどう考えても誰かがこしらえたものです。神様とは人間を創り、守って下さる方と思っていたのに、これでは人間が作った神様(仏壇、位牌)を人間が守っていくということではないか?ちょっと考えただけでもひっかかる点が沢山ありました。

4.乗り越えるべき壁
聖書の最初に天地創造を宣言され、人が作った物の中には収まりきらないと言われるイエス・キリストの父なる神様こそ本物ではと思うようになりましたが、全知全能の神様は私にとって母がどれ程大切であったかご存知の筈、愛なる神様ならどうして私をこんなに悲しませるのか納得できず、教会に行けなくなりました。大きな壁に心塞がれて9ヶ月が過ぎましたがその間毎週末、次の日曜礼拝のプログラムが切手の無い封筒に入って我家のポストに落ちるのです。牧師先生が黙々と届け続けて下さいました。けれども週報が届く度、その壁に引き戻されるようで苦しく、開封せず引出しに入れてしまうことが何度もありました。

5.応答
週報の封筒には私の名が手書きされていて、その字を見るだけでも聞こえてくる声がありました。「死ぬということについて考えてみなさい」とのメッセージを母は命がけで発してくれたように思え、無駄にはできないと感じました。そして「どうして?」と神様を責め続けていても解決に辿り着かないと考え始めていました。死を考えると命を扱いなさる神様に繋がっていきますが、それはどう生きるのかを考えることにも繋がっていきます。「神様、どうして?」から「その神様の前にあって私はどう生きるのか?」にやがて心は向けられて行きました。では神様を見上げた時私は何を問われたのでしょう。神様を理解できたかということではなく、神様を信じられるかということでもなかったように思います。私には理解する力は勿論、信じる力さえなかったのです。非力な私に神様が問われたのは私の「心の方向性」でした。何を願うのかということです。「あなたは神のすることが理解できず、信じることも難しいと言うので一つだけ尋ねましょう。あなたは神を信じたいのですか?」……人生のどこかで決断せねばならぬこと、少なくとも死ぬ直前にはどちらかの返事をせねばならぬことと思われました。先延ばしにしていると思わぬ時に母のように生涯を終えてしまうかもしれません。「私は神様を信じたいのです」そう答えました。

6.神様の招き
「信じたい」ただそれだけの応答を神様は受け止め、洗礼を授け信仰のスタートラインに立たせて下さいました。それから少しづつ心の中に光が射し込んでくるようになり、以前は聞いてはいても自分との繋がりがピンとこなかった罪や救いについてゆっくりとですが実感し、神様に愛されていることが信じられるようになっていました。自分の決心で教会に通い始めたと思っていたことや、週報が届くこと、それに重苦しさを感じることの中にさえも神様の働きかけと絶え間無い招きが見えてきました。母の命と引き換えと思われていたメッセージはイエス様の十字架によって信じる者全てに与えられる永遠のいのちに覆われ、家族を失う私の悲しみにはひとり子を十字架につけて手放す父なる神様の痛みが繋がっていきました。信じてみて初めて見えてくる景色があることに気付かされました。私の命は死に向かってではなく、神様の愛に励まされながら救いの完成に向けて1日1日進んでいるのだと思えるようになりました。

月報2004年10月号より

「神の導きによる海外勤務12年間」

1992年10月10日、私の海外生活が始まった日でした。それまで海外に行ったこともなく、飛行機に乗るのも初めてでした。最初の勤務地はオーストリアのウィーンでした。
ウィーンには92年10月から97年12月まで約5年間滞在しました。もちろん、会社の命でのことで、特に希望してこの地を選んだのでもありませんでした。赴任当初2年半ほどはただ海外での生活と仕事に慣れるために必死で、知らぬ間に歳月が過ぎていった感じでした。妻も3ヶ月、2歳半、3歳の3人の子育てと言葉のわからない中での生活は大変でした。
95年になると、会社に私を含め3人いた日本人が続けて2人減員され、私一人で現地会社に取り残される状況となりました。これには、私もまいってしまいました。そんな頃、妻はウィーンの日本人教会に集うようになりました。妻は私と結婚する前からクリスチャンであり、ノンクリスチャンである私との結婚には大きな障害がありました。その為に一時的に信仰から離れる状況にたたされていました。彼女の信仰を回復させる機会にめぐりあったのでした。ウィーン教会の石川牧師夫妻を通して神によって完全に回復させられたのでした。私はこのような妻の心の動きに当初は気が付きませんでしたが、石川牧師の誘いにより度々土曜日の午後に牧師宅にて聖書の学びをする様になりました。また、日曜日の午後にはウィーン日本語キリスト教会の礼拝にも出席する機会を持つ様になりました。
しかし、会社生活しかなかった私にはその内容はなかなか入り込めないものでしたが、家族と一緒に礼拝には行く事にしました。そのうちに神の愛と恵みにより、私が生かされていること、その支えがイエス・キリストであることが家族や会社の人々・仕事を通してわかるようになりました。
そんな生活をしている内に、突然、神は私に次なる海外生活をドイツ・ハンブルクに移されました。ハンブルクでも神は私と家族にハンブルク日本人教会をお与え下さり、その地で98年11月に当時の牧師、メッツガー牧師から受洗することになりました。涙が出ました。ハンブルクは兄弟姉妹の少ない教会ですが、現在では河村牧師を中心に神の愛に満たされています。今年の夏にはヨーロッパキリスト者の集いの主催教会として、神の力により成功されたと聞いています。
私たちの海外生活も10年を越えた2003年夏になると、もうそろそろ日本への帰国になるだろうと考えていたのですが、神はまたも、次なる海外生活を米国に与え11月には当地へ異動しました。米国は会社にとっては世界中で最も重要な拠点で、何も力を持たない私などでは勤まらないと思うのですが、今は自分が仕事をしているのではなく、すべてが神様により与えられ、時間が過ぎているという不思議な状態です。いまこそ聖書によって、信仰によって生かされなければならない試練の時期だと思って、日々祈っています。人生は聖書の言葉と信仰です。その中で神により人は生かされています。感謝です。
ニュージャージーの日本語教会は大きな教会で、私にとってそれまで経験した海外の教会とは異なり、兄弟姉妹の年齢のバランスも良く、組織だった働きのできるもので非常に安心できます。

『あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。』
ヨハネの福音書 5章39節

環境の大きく変わる海外での生活には人生観の変化があります。これから、神は何を私にされるのか、私には分りませんが、これからもただ神を信じる事で身を委ねるのみです
妻とのめぐりあわせ、ウィーンとのめぐりあわせ、石川牧師、メッツガー牧師とのめぐりあわせ、これらひとつひとつが別々のものでないことには驚きを感じます。すべてが繋がっているのです。
更に、これが予想もしていなかったドイツでの受洗、そして米国での今日と繋がっているのです。私自身、海外生活を始める前にこんな事があるとは到底考えてもみなかった事です。神の働きです。

月報2004年9月号より

「初心」

神様に初めて出会い、イエス様を救い主と受け入れてから9年が経ちます。以前から、教会や信仰書などを通じて、初心に戻るという表現をよく耳にしましたが、今になってようやくその意味がわかりつつある気がしています。

13歳に母親が急死したとき、私は自分が罪人と知りました。それは、母親に対して生前に犯した自分の罪を見つめるきっかけとなり、いくら悔やんでもどうすることもできない思いをしたのと、私の中で静かに少しずつ消えていった母への思いからです。それでも何とか自分の罪を誤魔化しつつ5年が過ぎた18歳のとき、私は人間関係で初めて苦しみ、自分が罪人であることを認めざるを得なくなりました。教会へ行かなければ、そんな切羽詰った思いを与えられて、友達の教会を訪ねました。教会の方々が新来者の私のために、私の心に聖霊が入ってくださって神様を知ることが出来るようにと祈ってくださる中で、私は私の心に聖霊が入ってきたのをはっきりと感じました。その瞬間、特別な予備知識がなくても、私には神様の存在を知ることが出来ました。本で学んだことでも、人から説明されてわかったのでもありません。私は論理的に物事を捉える傾向があり、頑固な頭の持ち主ですから、自分で納得できなければ信じることなどできなかったはずでした。その私にふさわしく、私が頭で考えて悩んだりする必要はもう何もないというほど明確に神様ご自身が私の前に現れてくださったと思います。神様が生きたまことの神様であること、愛に溢れた方であること、私の罪をも赦してくださった神様であること。そしてイエス様のこと、聖霊のことまでも。その後、教会に集い続け、聖書をよく読みましたが、それはあの瞬間に解き明かされた神様の謎を再確認するようなものでした。それはまるで使徒たちが五旬節の日に聖霊に満たされて、他の言葉で話し始めたかのよう(使徒2:4)、何とも不思議な経験でした。触れられた私は涙に溢れ、どのようにも表現することが出来ない安堵感に包まれました。ハレルヤ!神様の救いとは何とも不思議で何とも素晴らしいものです。

それから私は熱心に神様を追い求めました。求める中で、幾度も壁にぶつかりました。神様を信じているのになぜと思うこともありました。神様が御心を示してくださったと信じて歩んだ道が閉ざされたこともありました。もちろん神様を知った恵みがあまりにも大きいので、何があっても導きと最終的には受け入れることができ、今もかろうじて神様を信じられていますが、正直、神様を信じる前よりも、神様に出会ってからのほうが、苦しんできたような気がします。神様を信じているからこそ期待も膨れ上がっているのでしょう。この世でキリスト者として生きていくのは戦いです。それほどに信仰を妨げようとするものは多く大きく、それほどに罪の性質が私たちにははびこっているからです。信仰の戦いの中で試されたとき、神様を知りたい、神様の御心を知りたい、と激しく求めた時期がありましたが、そのとき私が出会ったのは伝道者の書。ソロモンに深く共感しました。「空の空、空の空、いっさいは空である。…… 私は心を尽くし、知恵を用いて、天が下に行われるすべての事を尋ね、また調べた。これは神が、人の子らに与えて、ほねおらせられる苦しい仕事である。私は日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕らえるようである。(伝道者の書1:2、13-14)」そんな時の私の信仰は求める気持ちは強くても、いくら一生懸命に聖書を読んでいても、決して前向きと言えるものではありませんでした。信仰書に出てくる長老の如く、何も恐れない平安に包まれた笑顔が溢れ出るような信仰や、天国ばかりに憧れを抱いて、今日を生きる姿勢には欠けていました。でも私は一体何をしようとしていたのでしょう。「人は神のなされるわざを初めから終わりまで見きわめることはできない(伝道者の書3:11)」のです。私は自分の頭であらゆることを理解しようとしていました。聖霊の助けがなければ、自分の頭では神様を知りえることができなかったではないですか!クリスチャンとして歩み始めて私はいつの間にか、霊的な範囲を超えて、自分であらゆることを知ろうとしていたのです。神様のこと、イエス様のこと、神様がなされるあらゆることというのは、霊的な助けなしにわかることはできないものでしょう。そしてそれはすぐにわかることばかりでもないでしょう。私たちが信じている神様は偉大な神様なのですから。

信仰にはきっと私がまだ知らない幾つかの局面がこの先もあるのでしょう。そんな局面を幾つか経験して、奥義のようなものを掴んでいくものかもしれません。でも今の私は、信仰とは、何年信じてきたから、どれだけ知識を増したからではなくて、何年信じても、どれだけ知恵や知識を増しても、そんな中で如何に初心に戻り、謙遜になれるか、ということかもしれないと思い始めています。神様に、「私は罪人です、今すぐにでもどうか救ってください」といった、初めて神様を知ったときのような切羽詰った祈りを、今の私は捧げられていないからです。主人の食卓から落ちるパンくずでもいいのでいただきたい(マタイ15:27)、そんな必死な思いをいつの間にか忘れ、神様の偉大な愛に安易にそして軽々しく甘えすぎている自分に気づかされているからです。

初心に戻る。それは本当に永遠に信頼することが出来る。永遠に私を裏切らない。永遠に私を愛してくださる。そんなお方に初めて出会ったとき、自我からも世的な思いからもすべて解放されたあの瞬間です。あの聖霊に満たされた瞬間。喜びと安堵感に溢れ涙が止まらなかった瞬間。私たちが信じている神様がどんなに素晴らしいお方か、私は本当に覚えているでしょうか。13歳で人は私を去っていくと悟った私に、「私は決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。(ヘブル13:5)」そう言って下さった神様を知った喜びはどんなに大きかったでしょう。私は今一度初心に戻り、神様に出会った喜びに溢れたいと願っています。

月報2004年8月号より

「数えてみよ 主の恵み」

♪数えよ ひとつづつ 数えてみよ 主の恵み♪

これは幼い頃から教会でよく歌った聖歌ですが、最近よく頭に浮かんできます。 私は熱心なクリスチャンホームに生まれ、幼い時から教会に通い聖書に触れて育ちました。その頃はただ友達と“遊ぶ”のが目的で教会に通っていましたが、小学5年の秋に映画伝道会『塩狩峠』(三浦綾子作)を通して、自分の罪と神様の大きな愛を知り信仰を持ちました。それまで何気なく覚えていた聖書の言葉が少しずつ理解できるようになりとても嬉しかった事を覚えています。

しかし高校に入学した頃、教会には義務感から出席はしていましたが全くのスランプ状態に陥りました。“自分ももっと劇的な体験がしたい!そうすればもっと神様を信じれるのに”なんて思ったりして...そんな状態を見兼ねてか?両親より“高校生の集まりに参加したら?”と言われhi-b.a.(高校生聖書伝道教会)に参加するようになりました。「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハネ3:3)という聖書の言葉より、“あなたは本当に新しくされていますか?クリスチャンホームだからとか昔から教会に通っているからとか全然関係ないんですよ!”と言われ、甘えていた自分に気づき目が覚めた思いでした。その後、高校・大学生活を通して様々な集会・キャンプ等に参加し、み言葉を学び・多くの信仰の友と出会えたことは私にとって今でも“宝物”です。

就職してからは今まで自由に使えていた時間が減り、日曜日の礼拝の時間ですらだんだん惜しく思うようになりました。“今週は仕事で大変だったから...”色々な言い訳が頭に浮かんできて、第2のスランプの始まりです。仕事の方も“どうして会社はもっと私に良いポジションを与えてくれないのか?もっと良い仕事があるはずだ!”と不平を言いながら全ての面で天狗状態でした。しかしその後、結婚そして離婚という苦しい経験を通して人生に絶望し完全に自分を見失った状態になりました。“こんなはずじゃ。なかったはずだ”と思う毎日が続きました。

ある日、突然上司に呼ばれ“NJの会社に行かないか?”と言われビックリ!入社時より海外勤務の希望を出していましたが、まさか15年目に叶うとは夢にも思っていませんでしたし、NJの会社は今までの仕事と全く別の分野の会社で会社名すら良く知らず、NJがどこにあるのかも知りませんでした。(NJはジャージー牛乳のイメージからアメリカ中部の田舎だと思っていました。ごめんなさい)“人生の再起をかけて、アメリカに行こう”と決意したのでした。

複雑な気持ちを持ちつつも新しい生活に期待してJFK空港に降り立ちました。アメリカでの最初の日曜日に“そうだ。新しい生活のスタートだから教会にも行こう!説教がしっかり理解できる日本語の礼拝がいいなぁ。”と思い、インターネットで調べていたところ高校時代にお世話になったhi-b.aの宣教師(クラーク先生)が協力牧師を務めるこの教会を見つけました。残念ながらクラーク先生はすでにリタイアしてお会いできませんでしたが、教会の皆さんに支えられ励まされ“我が家”に戻ってきた感じがしました。“放蕩息子帰還”です。

NJでの新しい生活も2年が経過しました。昨年は妻と教会で出会い結婚し来月には子供が生まれる予定です。本当に感謝です。

今振り返ってみると、数え切れない神様の恵みを受けて歩んできたと思います。また、多くの方々の励ましと祈りに支えられてきました。神様に感謝すると共にこれからも全てを委ねて歩んでいきたいと思います。

『あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。』 (コリント? 10.13)

月報2004年7月号より

「人の一生は神の計画で始まり…」

人の一生は神の計画で始まり、そして終わる事の教えが与えられ、毎日導きに従って生きる様に務めています。

私が14才の時、母は病気になりました。「神様、母を元気にして下さい。」と必死に祈りましたが、その祈りは聞き入れてもらえず、1ヶ月程入院して母は亡くなりました。子供の私にとって、母は愛のかたまり、私の生きて行くすべてで、その母を亡くしたのはこの世をなくしたのと同じでした。こんなに願って祈っても神様は母を私から取った。神様は何処にも居ないのだと強く感じたのを覚えています。

友達の誘いで神田のYMCAに導かれ、英語を学んでいました。毎年ゴールデンウィークの5月に山中湖のYMCAのキャンプに行き、聖書を読み、讃美歌を歌い、キャンプネームを付けられ、楽しいキャンプでした。私は宗教には関心はありませんでしたが、イエス様が生まれた所、そして死んだ場所をいつか見られたらと思っていました。

その後、主人と出会い、一年後再び日本に来まして、結婚し、ハネムーンに4ヶ月半の世界旅行をしました。アメリカ生活が一年経った頃、姉からの知らせで父の体が良くないとの事で急いで帰国し、父を見舞いました。しかし、その時の2回目の世界旅行の途中レバノンの地で主人は倒れ、急死しました。どうして自分だけ死んだのと・・・。旅先で私だけ一人ぼっちにして。主人に嘆き、悲しみましたが、主人も私一人残して、死にきれない思い、それでも死ななければならないのは私よりもっと辛かった事かと・・・。それを思うと「ごめんなさい。自分勝手で。」と今でも胸が詰まります。主人の死の2ヶ月後に父が亡くなりました。

私にとって大事な人を次から次と失い、何のために生きているのかと思った事が何度もありました。一人でアメリカで生きて行くのは苦労の連続です。しかし神様はアメリカ人(クリスチャン)をそばに置いて下さり、根気強く私を教会に導いてくれました。そして91年のビリーグラハム宣教大会の時にイエス様を私の救い主として受け入れることを決心しました。それまで、私にばかり、どうして不幸が重なるのだろうと思っていましたが、私のような罪深い者を招いて下さるイエス様を信じてから、それらのことは神様の御業が私の上に現れるためという考えに変わりました。主人と2回目の世界旅行で行く予定になっていたイスラエルの聖地旅行も92年にアメリカの教会の人達と素晴らしい旅行が出来た事はかぎりない喜びでした。もし主人と一緒に聖地に旅行をしていたら、何不自由ない旅行で終り、何不自由ない生活をしていたかもしれませんが、神様はクリスチャンになる機会は与えて下さらなかったかもしれません。愚かな罪人の私をも見捨てる事なく、93年に受洗を与えて下さった神様に心から感謝しています。

いろいろの事がありました。その中でも、2002年には病気で入院、そして手術と、私にとっての初めての出来事が起こりました。しかし、それによって神様が本当に生きており、共に居て下さるのを知りました。私には想像も出来ない事がいろいろと起こり、ただただ感謝です。このMaywoodの教会に導かれ、牧師先生、奥様、家族の皆様には大変お世話になり、誠の生きた信仰を見て、私はこの教会にと決めました。教会の皆様のお祈り感謝しております。私の良き友達の助けで今も頑張っています。素晴らしい人達を置いて下さり、神様に心から感謝しております。

「苦しみにあったことは私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」 (詩篇119:71)

月報2004年6月号より

「僕の親は二人とも聖書学院卒業生だったので…」

僕の親は二人とも聖書学院卒業生だったので、僕は小さい頃から絵本になっている聖書など、神様、又はイエス様の存在は知っていました。小さい頃はイエス様が語った百匹の羊の話し、ノアの箱舟、イエス様の十字架等、僕はこう言うのは意味も、何の事を示しているのかも分からなく、只、毎日の様に母さんと父さんと一緒に読んでいたのを覚えています。

三歳になって初めてニュージャージーの教会に来ました(というより、連れて来られました)。最初はイエス様の事を学んだり、そう言う事が目当てで通っていたのではなく、友達と遊んだり、お菓子食べたり、遊びの場として通っていました。その頃もイエス様を信じていました。しかし、それはイエス様を本当に信じていたのではなく、祈りに答えてくれるから、そして、天国と言う所に行ける為に信じていたものでした。

十歳になったから、礼拝の話を聞こうと決心しました。これも神様からのメッセージが聞きたかったのではなく、褒めて欲しかった、又は「良い子だね」と言われて、自己満足を得るためにでした。最初の内はもの凄く眠くなる様な、「良く皆起きていられるな」と皆さんに聞いたい位、詰まらない物でした。
その一年後、ある高校生を始め、次々と僕に近い年齢の友達が洗礼を受けていました。これは僕にとってハッキリ言って悔しいものでした。僕は牧師の子供なのに、僕より友達の方が先に洗礼を受けたからです。ストレスがたまったのか分かりませんけど、何故か関係の無い家族、又は友達に八つ当たり等の罪を犯す回数が日に日に増し、ドンドンイエス様から離れて行き、そんな自分自身がまた嫌いになりました。しかし、少しずつですけど、その内に神様の導きによって絵本になっている聖書、又は漫画化された聖書を又真剣に読むようになり、普通の聖書も買ってもらって、読む様になりました。

二年前の11月、修養会が僕の教会でありました。教会学校の先生の提案、そして僕の自己満足という二つのきっかけがあって、(これも主の導きですけど)僕も大人の集会に参加することになりました。その時、ある集会後の分かち合いの時に、その牧師先生から色々教えてもらって、それから聖書だけじゃなく、メッセージも真剣に聞くようになりました。

それながらも、「人を傷つけ、嘘をつき、罪を犯して平気な顔でいられるクリスチャンなどいて良いのだろうか?」と自分に何度も聞き直しました。そこに、聖書にある聖句、「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちを清めます。もし、罪は無いと言うなら、私達は自分を欺いており、真理は私達のうちにありません。もし私達が自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私達を清めてくださいます。」(第一ヨハネ、一章 七―十節)がある方の証に出てきました。神様の光、そして罪の赦しを示している箇所です。この箇所を読んで、どのような人間でも、どの様な罪を犯しても、神様に自分の罪を言い表すのなら、神様は正しい方であるため、罪を赦し、イエスの十字架によりサタンから解放されることが分かりました。この箇所のおかげで、神様の愛を自分なりに理解出来ていた僕は洗礼を受ける決心が出来ました。

初めは自己満足の為に礼拝に出席し、遊びの為に教会に通っていました。しかし神様の導きによって、その方の証を聞けて、僕は救われました。「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」 (箴言 19:21) 主に感謝します。

月報2004年5月号より

「今亡き私の母は、大正8年生まれでした…」

今亡き私の母は、大正8年生まれでした。私の若い時に、度々聞かされた事を、今でも懐かしく思い出します。それは、母の実家の隣が教会で、讃美歌の美しい歌声をよく耳にしていたこと。その当時の模様を笑みを持って話してくれました。そして又母はクリスチャンではありませんでしたが、聖書を世界最高の文学書とも言っていました。

私もやがて婚期を迎えるようになり結婚相手に選んだ彼は、なりたてホヤホヤのクリスチャンでした。当時の私はクリスチャンではありませんでしたし、特別私は意識してクリスチャンの方を選んだわけではありません。偶然そうだったのです。その私達にも二人の娘が授かり、夫の意志で幼児洗礼を受けさせました。私に関しましては全く強制的な態度はとらず、自ら進んで受けたくなったら受ければよい、という考えでいました。この様に幸せな日々は過ぎ去っていき、私どもの家族に危機が訪れました。クリスチャンである夫は私よりも離婚という事に対して一層の罪悪感を抱いた事と思います。また私もこのアメリカという異国での離婚は、より一層厳しい状態へ追い込まれるのだという不安もありましたが、結局は離婚に踏み出しました。そのような中で、これからは後ろを振り向かず、たとえ茨の道であっても覚悟して突き進んで行こうという力は、不思議とありました。

それから私の子育て奮闘記が始まりました。その当時私は多くの生徒を抱え、とても忙しくしていました。でもそのような中で娘たちにもそれぞれピアノ、ヴァイオリンを勉強させました。精神的に余裕のない私は、娘達にとても厳しい練習を強いました。それはまた技術向上のためでもあったのですが、私は娘達にとりましたら、まるで「サタン」ママのようだった事と思います。勿論音楽的な事も教えましたが、それはあくまでも私の押し付けに過ぎませんでした。彼女たちが自然にわき上がるものではありませんでした。人々からはお褒めを頂ける程の演奏まで成長しましたが、彼女等の音楽の泉は干からびて行く方向に向かっていくように思われました。二人とも比較的素直な性格の子供達なので、それを受け止める力はとてはとても大変なものだったのではなかったかと思います。私も時々は反省する事もありましたが・・・。

そのような中、私の母の重い病気がきっかけでクリスチャンになる洗礼を受ける事になりました。その当時の私は「罪の赦し」という事をはっきりと理解していませんでした。しかし、異国で生活していました私の願い、気持ちを伝えて、受け止めて下さる方は神様以外にないという思いが自然と湧き上がりました。おぼろげに母から聞いていた教会、夫を通じてうっすらと感じていた神様の存在が、今、母の病気を通じて私にとって本当に必要なものになっていたのではないかと思いました。
よく人様から「二人の子供は素直にスクスクと育っているな」と言って頂きましたが、私の心の中は「親はなくても子は育つ」のだという思いと、姿形は目に見えぬ方に守られているのだという満足と感謝の念で一杯でした。しかし、その一方で私の心にはそれとは裏腹に依然自己中心的な考えがはびこっていました。娘達も年頃になり、私によく反抗するようになりました。もう私の言う事を聞く娘達の姿は其処にはありませんでした。二人の娘達は「同じ釜の飯を食った」という処から、とても仲が良く、お互い慰め合い、良き理解者であったようでした。しかし、事私に関しましては、赦せない部分が多くあったようです。その頃から私も娘達に対して反省する事が多くなりました。厳しい練習をすることにより多くの事を犠牲にさせ、苦しい思いを一杯させてしまったという後悔の念に苛まれ、もう一度子育てをやり直せるものであればやり直したい・・・という思いになりました。罪の意識を強く感じる様になり、つらい毎日が続きました。それは自分だけが辛いという事ではなく、娘達の辛さを感じ取って感じる辛さでした。しかし、人間の絆というものは不思議なもので、私が悔い改めの思いに至る中で、娘達との距離が縮まっていくように思われました。聖書からの聖句「さらに、私達が罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、私達の罪をご自分の身に負われた。その罪によって、あなたがたは癒されたのである」(ペテロ第一の手紙2章24節)イエスの十字架に心からひざまずく思いです。そして少しずつ少しずつでしたが、娘達の希望に叶えられる様に私も努力し、今では伸び伸びと好きな道へと進んでいるという満足感で一杯です。

私がつくづく「クリスチャンであって良かった」と思う事は「考え方」の面で、です。生きている間に、小さい出来事から大きい出来事の中で、紙一重の決断の選択次第で良い方向に向くか、悪い方向に向くかという事があります。そこでその人の人生観が伺われると思います。そのような時に、大きく影響を与えてくださる力は、神様を絶対と思う所から生まれてくるものではないでしょうか。神の御手の中で生かされ、心豊かに生きていく希望を与えてくださる神に心から感謝いたします。そして、一人でも多くの方々にこのような考えを伝えるものとして用いてくださる事を強く願います。

アーメン。

月報2004年4月号より

「私は、小さい頃から教会に行っています…」

私は、小さい頃から教会に行っています。私は、一つのきっかけで教会に通い始めました。四歳のある日曜日の事です。私と妹は買い物に行きたかったのですが、日曜日でおもちゃ屋さんが開いていなかったので、買い物に行けませんでした。そしてお母さんが、「日曜日にはみんな教会に行くんだよ。」と言うので、私も教会に行ってみたくなりました。その次の日曜日、私たちはニュージャージー日本語教会に初めて行きました。それから七年間、ずっと教会に通っています。

最初のうちは、日曜日には何もする事がなくて、他の子供達と遊びたいので教会に行っていました。けれど、教会学校で少しずつ神様のことを知るようになって、神様の話を聞きたいから教会に行くようになりました。そしていつの間にか、日曜日に教会に行くことがあたり前なことになっていました。

私は、いつもイエス様の話を教会学校で聞いていました。イエス様が私達一人一人のために十字架につけられ、死んでくださったことも知っていました。でも、三年ぐらい前までは、本当に信じていなかったと思います。そして、二年くらい前になって、イエス様の十字架の本当の意味を知りました。イエス様の十字架があるから、私は救われて神様と共に生きることができることがわかって、とてもうれしかったです。

二年前の修養会の時、2日目の夜の集会の後に、修養会に参加した子供達と栗栖先生とのディスカッションがありました。その時、私は神様が本当に私のことを愛してくれていることがわかって、イエス様と神様のために生きることを決心しました。その年、私は神様のことをたくさん知るようになりました。そして、私の友達は一人一人洗礼を受けて、クリスチャンになりました。クリスチャンになった友達を見て、私も洗礼を受けたいという気持ちが湧き上がりました。私もイエス様と共に生きていきたいと思いました。

2003年6月22日に私は洗礼を受けました。夏休みに日本に行くことになっていましたが、私は絶対に日本に行く前に洗礼を受けたかったのです。日本では子供の誘拐事件やいろいろな事件が起こったりしていて、神様に守ってもらいたかったからです。聖書の中に、「たった一羽の雀でさえ、あなたがたの天の父が知らないうちに、地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえ一本残らず数えられています。ですから、心配しなくてもいいのです。あなたがたは、神にとって、雀などより、ずっと大切なものではありませんか。」(マタイの福音書10:29-31)と書かれています。それを読んで、私は安心しました。私は、神様が日本で私達家族を守ってくれることを信じて、日本へ行きました。そして、無事に帰ってきました。

私はこれからも、イエス様との歩みを続けていきたいと思います。一心不乱に神様のために生きたいです。そして、他の人を教会へ誘って、イエス様のすばらしさを知らせたいと思います。