5.「信じること、救いと受洗」

受洗という言葉を始めて伺ったのが実は愛餐会のときに三村兄と一緒にポトラックパーティーの食べ物を取るために列に並んでいる時でした。今から思えばこれも主の導きでした。もし三村兄と一緒に食事を取るために並んでいなかったら、受洗の恵みを授からなかったかもしれません。そしてその後の週にお二方の受洗式に立ち会うに及び、私も導かれたいと強く思うようになりました。

それから私が洗礼を受ける決心をするまではいくつかの紆余曲折がありました。ひとつはお墓のこと。ひとつは時間的なこと。一番大きかったのは自身の気持ちだったでしょう。

まだ十分に決心がついていない状況でしたが、錦織牧師とのman-to-manの学びが始まりました。学びの中で、牧師は余り難しいことは言われませんでした。ただ、イエス様が私たちの罪を負って、十字架に掛かられて、三日の後によみがえられ、今も聖霊様を通して、私たちと共に居られることを信じなさいということでした。それから、私たちは罪深い存在なので、それを主の前で悔い改めなさいとも教えていただきました。

私にとって、すぐに主を信じることが出来るようになっていたのは、その時点で自身の無力さを悟っていたためかもしれません。それまで自分が如何に自惚れていたか、如何に自信を持ちすぎていたかが、直ぐに分かりました。そのため悔い改めることに余り抵抗がありませんでした。また、2000年前に十字架の後復活した主を信じること、それによって主より愛され救われるということ、これらも私にはたやすい事でした。

そして、2005年2月20日に錦織牧師の手によって主に祝福されながら洗礼を受けることが出来ました。洗礼を執り行って頂いた錦織牧師とともに主イエス様に感謝しています。

(神林兄の証は4月号の月報からの続きです。 この後次回の6月号の
月報で完結です。)

月報2005年5月号より

「神様との会話」

少なくとも私にとって、神様との会話は、ほかの誰かとの会話とは随分違うものである。

“あ”と言えば“うん”と言うように、すぐに反応があるものではなく、返事が自分の思いと全く違う方向にころぶことも多い。こちらからの語りかけは、かなり自分の都合を並べたものが多い。そして最後に取ってつけたように、ご用のために何かできることがあれば..、などと言ってる。それなのに、神様からのメッセージは、いつも驚くばかりに不思議な形で届けられる。人の目にそれは“まるで一方通行どうしの会話”と映るのだが。

或る時は、誰かとの会話の中でひらめきを与えられたり、礼拝や集会のメッセージから励ましを得たりする。聖書を読んでいると心に響く聖句に出会う。“聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅い者であれ”(ヤコブ1:19)と、ただ人を諭すだけでなく、神様は、勝手な祈りを辛抱強く聞いて下さり、祈りが自分のことばかりなってしまう時には、或る人々のことを脳裏に浮かばせ、自我の思いを阻む。ハッとして、この人のためにも、あの人のためにも祈れということだ、と理解し、指し示しめされた人々のために懸命に祈りを始める。

或る日、新しい仕事のことで小さな悩みを抱え、直ぐにでも答えが欲しい時があった。教会に行くも当番で聖日メッセージを聴けないことが分かっていた。そんな時、礼拝前の勉強会で答えとなるみ言葉に出会った。“知恵の欠けた人がいるなら、その人は、誰にでも惜しげなく、咎めることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし少しも疑わずに、信じて願いなさい。”(ヤコブ1:5-6)励まされ、気持ち新たになることが出来た。それ以降、“このしもべに知恵を与えたまえ”という心からの願いは、主の祈り、ヤベツの祈り共に通勤電車の中で捧げる祈りの一つとなった。

真っ直ぐに答えが出る時もあるし、ヒントを感じるだけの時もある。メッセージをもらった、と喜んでも、暫くすると同じような問題に再度ぶつかることもある。どうして人(私)は反省しても、すぐ同じ失敗を繰り返してしまうのだろうか。そんなことを考えていると、アフリカ女性伝道者が車内に乗り込んで来た。”Jesus loves you! Jesus died for your sin and for my sin, too…”下手な英語で彼女はしきりに繰り返していた。“そうなんだ。もう何度も聞いていることだけれど、まさにそれなんだ。”三浦綾子さんがかつで言っていた。“人間の一番大きな罪は自分と他人を計る物差しが違うことだ”、つまり自己中心の罪ってことを。同じことを繰り返し、進歩の見えない、そんな私のために、そしてあの人のために、イエス様は十字架に掛かって下さったのだ。黄泉に下り、よみがえり、いつも生きてとりなしをしてくれている。だから、人の苦しみにも、一方的な叫びにも神様は最善の時にベストな方法で答えて下さる。“神様のなさることは時に適って美しい”(伝道者の書3:11)という、み言葉どおりに。でも、悲しいかな、私には、その不思議なわざに気づくのに時間がかかることが多いのである。

神は霊ですから神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。
(申命記 8章14節)

月報2005年5月号より

4.「ハーベストタイムとニュージャージー日本語教会」

ハーベストタイムとの出会いは、私にとってはクリスチャンとして歩むきっかけを与える大きな出来事でした。

もともとハーベストタイムを見始めたのは妻でした。私は教会には興味がありましたが、ひとりで行くことには躊躇があって、妻が一緒で無ければおそらく教会の扉をノックできなかったと思います。ハーベストタイムを見るのもそうであったかもしれません。何時しか、妻と二人で毎週見るようになっていました。

ハーベストタイムでは毎回ゲストを招いてその方の証についてのインタビューと関連した聖書の御言葉の紹介をされるのが非常に印象的でした。そして毎回何か頷けるようなものを感じていました。私の帰国が決まった直後、何か寂しいものがあったのでしょう、あるいはこれが心の渇きだったのでしょうか、ハーベストタイムと関係のある教会にとにかく行ってみたいと強く思うようになっていました。そんな中で見つけたのがニュージャージー日本語教会だったのです。私が住んでいたのはニュージャージーのMadisonという町でしたが、ここから一番近いのがMaywoodのニュージャージー日本語教会でした。

とにかく私にとってニュージャージー日本語教会は不思議な力を持っていました。最初にノックした扉はなんと裏口だったのです。扉を開けてくださったのは大清水姉でした。礼拝堂に導かれた後、まず驚いたのは生演奏による讃美の時間でした。そして礼拝堂に集まっておられる皆さんが首を左右に振りながら楽しく讃美をされている光景を見たとき、Nashvilleの教会の神秘的なクリスマスミサの雰囲気と余りにも異なっていたので、とても不思議な印象さえ受けました。しかし、それもつかの間で、これまで歌ったことも無い讃美歌を口ずさんでいたのです。

暫くすると、greetingが始まり、教会に集まっている方々が誰彼となく握手を始められたのです。私はこれで礼拝は終わりなのかなと勘違いしましたが、このgreetingの時を通して、初めて出会った方々から本当に厚い歓迎のお言葉を頂くことが出来ました。初めて飛び込んで行った妻と私でしたが、皆さんは本当に友達のようにして歓迎してくださったのです。このような暖かい歓迎は、私のおぼえている限り初めてのことでした。これで私の教会に対する考え方が変ったのでしょうか、次の週も、またその次の週も何故か足を運ぶようになっていました。

月報2005年5月号より

3.「二度目の渡米生活」

何時しか基礎分野での研究者としての生活に終止符を打つことになり、 臨床試験のマネジャーとしての職務につき、 2003年から、 海外臨床試験マネジャーとしてニュージャージーに赴任することになりました。 臨床試験はかなり困難を伴うものですが、 依然として私は自分の能力を過信していました。 きっと成功するという自身を持って取り組んでいました。

ところが、臨床試験というのは本当に難しいもので、単に自然科学の力だけでは解決できない難しい問題を持つものなのです。

そんな中で、 突然の帰国命令を受けました。 これは本当に予想外の展開だったのです。 海外赴任している者にとっては決して驚くには足りないことなのかもしれませんが、 高校二年になる娘の学校のこと等を考えると、 3ヵ月後の帰国というのはやるせないものでした。 と同時に、 自身が本当に無力な存在であることをつくづく感じました。

そしてこれが神を求めるきっかけになりました。

* この後、 神林兄の「証」は 4. 「ハーベストタイムとニュージャージー日本語教会」 5. 「信じること、救いと受洗」 そして 6. 「帰国後のクリスチャンとしての歩み」 と来月号以降へ続きます。

月報2005年4月号より

2.「米国留学時代におけるキリスト教との出会い」

1991年から1993年までの2年間米国ナッシュビルのVanderbilt大学に留学する機会を得ました。 娘が近所の教会に所属する preschoolに通っていました。 教会からの案内もあってクリスマスの時にその教会へ行きました。 印象に残っているのはハンドベルによる賛美でした。 礼拝堂の中を薄明かりにして、 とても神秘的な雰囲気の中でのハンドベル演奏でした。 初めてのアメリカ生活の中で体験した神秘的な教会の雰囲気というのはすごく新鮮でした。 それでも私は救いへとは導かれませんでした。

その後も私はキリスト教に何となく興味を持っていたのでしょう。神を信じるというよりはむしろ歴史的なキリスト教的な考え方を持つということにとても興味がありました。 ある書物の中で、現代の自然科学はキリスト教的な背景が無ければ生まれて来なかったかもしれないと示唆するものがあって、 とても興味を抱いたことを覚えています。 これは必ずしも、キリスト教哲学に基づいて現代科学が築かれたということを意味しているのではありません。 神の存在があったからこそ、 対立する概念の中で自然科学に対する理解が深められていった、 つまり現代科学の基礎を築くように主イエスが導いてくださったのではと理解しています。 それほどに主イエスの存在は偉大であったと思わざるを得ません。 エジプト文明、 メソポタミア文明、 インダス文明、そのほか中国においても文明は芽生えしたが、 実際に現代の自然科学の基礎はキリスト教社会・文化の中で活躍された哲学者、 自然科学者から生まれてきたといっても過言ではないと信じています。

私は大学では理学部の化学科を専攻しました。その後製薬会社の研究所に勤務し、一研究者としての人生を歩みました。 研究に関してはそれなりの自信を持っていました。 研究の世界ですから、 もちろん結果はやってみなければならない世界ですが、 どのように自身の仮説を実証していくかという科学的な考え方についてはかなりの自信を持っていました。 それは私自身が当時無神論を自負できた理由の一つになっていたかもしれません。

私は人生の中で三度自然科学の分野で成功を収めたと自負していました。 ひとつは大学院の時、ひとつは入社した後に研究に携わりそれによって留学前に学位を取得したとき、 三度目は留学期間でのことでした。 そういう自分は神をも知らず、 ただ自身の力を信じたおろかな科学者であったのでしょう。 今から考えると不思議なものですが、 特に三回目の成功を収めたのは、折も折りクリスマスの頃で、 家族とWashington DCでクリスマスの休暇をすごした直後に研究室で結果を見て成功していたことに気づいたという経緯がありました。 その時には思わずクリスマスプレゼントと関係者に知らせたように記憶しています。 もしその時に主を信じていたならば、 その後はもう少し平安な人生を歩み始めていたかもしれませんが、 実際にはその成功は自分の行った業績という考えを持つことしか出来ず、 結果的にそれが間違いであったと悔い改めています。

月報2005年4月号より

1.「幼少時代におけるキリスト教との接点」

多くの日本人がそうであるように私は無神論の家庭で生まれ育ちました。 幼少のころは神道のことすら知らないにもかかわらず、毎年正月には近くの神社をおまいりするという、昔ながらの日本の文化の中で育ちました。 しかし、それがどのような意味を持つのか、そしてそれがかつて日本を戦争へと導いた神道と関係があるということすら教えられることも無く、 単に文化の一つとして肌で馴染んでいたに過ぎません。 何故か人が他界すると手を合わせて拝むということも、 宗教的な背景について一切教えられることなく、 これも単に習慣として馴染んで来たに過ぎません。 このようになんとなく習慣としてごく普通に日本人が行っていることを習ったものの、 そこにはなんら宗教的な背景はありませんでした。 このような無宗教な背景が、 おそらく他の多くの日本人がそうであるように、 私もまた神とは無関係の無神論者として育った理由になっていると思います。
一方では必ずしもまったくキリスト教と無関係でもなかったかもしれません。 敢えて記憶をたどり寄せてキリスト教との接点を探るならば、 私の小学校時代の知り合いの父親が牧師をしていたように記憶していますので、 それぐらいかもしれません。 こんな形で「牧師」、「教会」には少し触れる機会はありましたが、 それ以上のものはありませんでした。 また、 それ以後も、成人して米国留学をするまではキリスト教徒の接点はまったくといっていいほどありませんでした。

月報2005年4月号より

「ラザロよ。出て来なさい。」

アメリカに来て初めての大雪。青空の中、キラキラ輝いて美しい。 1月23日。 日曜日。 大雪のため外出禁止令が出され、いつもの午後からの日本人教会の礼拝も思いがけなく「お休み」となった。 へぇぇ。 こんなこともあるものだ・・・。
前夜、三人の子供たちに雪かきをしてもらっていたので、その朝はとても楽だった。 良い天気だったこともあり、雪の中でキャッキャッ。子供と共にワイワイ楽しく雪かきを続けた。
初めて海外に出た12年前。みんなあんなに小さくて、三人の年が続いていたこともあって、それはそれは大変だった。 多くの方々に助けていただいたなぁ。 それが今、こんなに大きく成長して、力仕事では戦力にもなり頼もしく、多くの面で支えられている・・・。 何とも言えない深い感謝に包まれて、祝福も真っ白な雪の中にあふれていた。
そして、昼過ぎ。その朝の連絡で「今日はそれぞれの家庭で礼拝を・・・」 ということでもあったので、母はその提案をした。 意外にも素直に応じた息子たち。 早速 一番日当たりの良い暖かい寝室に集合。 ベッドに入り込んだり腰を掛けたりしてそれぞれの姿勢で臨む。
「礼拝が雪で休み」ということに少々興奮気味の末っ子六年生が急に「僕が司会。 今日は大スケ牧師がメッセージ。賛美のリードはショウ平さん。 証はいとうナルミさんにお願いします。」と一人で勝手に仕切り出す。 夫は別室での仕事を片付けて、遅刻出席。
毎週の礼拝の流れを参考に、懐かしい聖歌をそれぞれ手に選曲。 この教会で良く歌われている乗りの良い「今風の賛美歌」は歌詞もなく、うろ覚えなので、残念ながらパス。 無茶苦茶元気良く、数曲賛美。
「使徒信条」も「主の祈り」もある。 そして、聖書朗読。 賛美しながら、今日はどこを読むべきかと思い巡らす。 そうだ。教会学校の今日の箇所「ラザロの復活」にしよう。 それがいい。 ヨハネの福音書11章の1節から44節までを一人一節ずつ家族五人で順に読む。 長い箇所である
イエスが愛しておられたマルタとマリヤの兄弟ラザロが病んでいた。 助けを求めたけれど、イエスには考えがあって、すぐに駆けつけることはされなかった。 死んで四日も経ったとき、弟子たちをつれて悲しみの姉妹のもとにやって来られた。 イエスは涙を流された。 多くの人たちがあれこれ言ったり思ったりしている中、父なる神に祈った後、大声で「ラザロよ。出て来なさい。」と叫ばれた。 すると、死んでいたラザロが長い布で巻かれたまま出て来た。 という有名な箇所である。
多くの奥義で満ちている。 一つ一つの隠された深い部分をみんなで一緒に考えてみようと思った。 「わたしは、よみがえりです。 いのちです。 わたしを信じるものは、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じるものは、決して死ぬことがありません。」
この部分からリョウ太に迫ってみた。 もし、事故か何かでリョウ太が急に死んでしまうことがあったとしたら、リョウ太は必ずイエス様のもとにいるという確信があるのか・・・と。 お母さんは、リョウ太がイエス様のところにいるのかな、どこにいるのかな、と思いながら悲しみ過ごすのはいやだ、と以前にも何度か聞いたようなことを質問してみた。
すると、少し照れて「うぅぅぅん。80%ぐらいかな。」とはにかむ。 「えぇぇぇ。80%の確信か・・・。」「じゃぁ。うぅぅん。90%・・・。」「・・95%・・・。」母の顔を見ながら、少しずつ少しずつ数字を上げてきた。 そうか。でも、お母さんは100%イエス様のところにいるから心配しないでね。 お葬式も盛大に教会で伝道葬式にしてね。 といつものように結んだ。 祈っているよ。早い時期に(最終的には)100%の確信の三人でありますように。
そして、司会者が大スケ牧師にメッセージを振ってきた。 すると、何を思ったのか、この牧師。 何の熟慮も感じさせない思いつきの口調で、「ラザロよ。出て来なさい。」というこの言葉は、ラザロだけに言っているのではありません。 リョウ太くん、あなたのことでもあるのです。 「リョウ太よ。出て来なさい。」という意味でもあるのです。 と、急に初めからおかしなことを言い出した。 何言っているの。 これはラザロに言ったんだよ。と一笑した母はその後しばらくして「はっ」とした。 本当にそうかもしれない。 そういうメッセージでもあるのだ、と神様から語られた気がしてうなった。 そうだ。みんな一人ひとり、名前を呼ばれて、深くて暗い墓の中から今の状態から「出て来なさい。」と声をかけられているのだ、と思った。 違う方向から光が差した気がした。
そして、牧師は「声を聞いたら、出て行きましょう。」と締めくくった。 長い布にグルグル巻かれたそのままの状態で出て行ったらいいのだ、と教えられた。 父はすぐに「そうだな。そういうことだな。」と自分の状況を重ねて同意していた。
母の証は「主よ。あなたの愛しておられる者が病気です。」この箇所から。 夫のために結婚前に一度。 今、再びここから切に祈らされていることを話した。 子供たちを前にして深い部分は省略したが「あなたの愛している者が病んでいます。」 「主よ。来てご覧ください。」 「その石を取りのけてください。」と必死に祈っていることを伝えた。 この姉妹たちのあの時の祈りはそのまま今の私の祈りである。イエス様は考えがあって「なお二日とどまられた。」 「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものである。」 この言葉に信頼している母の祈り心を語った。 母は子供たちにも父親のために具体的に祈るように、課題も問題も出している。 よく理解して応援している息子たち。欠けの多い父だけれど、みんな父のことが大好きで、とても尊敬していて、いつもやさしく接している。 母の鋭い言葉も子供たちの「弁護の盾」は見事にポンとはね返す。 時にはこの盾、鋭い矢もきれいに吸収して飲みみ、細かく砕いてしまうこともある。
「Jesus wept.」この小さな家族にも主は心をおいてくださり、痛みを共有してくださっている。 父もこの日、思春期の子供たちの前で、自分の弱さや現状を抵抗なく出しながら、多くの慰めを得ていた。
最後の祈りはショウ平くん。 この子は真ん中でまた丁度難しい14歳。 今、?マークが付くことも多い子だが、この子のこの日の祈りは琴線に触れた。 まぁ。 何と素直で従順なストレートの祈りか・・・。 心に響いた。 今のこの子からこんなにすっきりした祈りが出るとは思わなかった。
新たな発見と驚きの家庭礼拝。 いつもだと誰かに逃げられそうだけれど、また時々しようね。 君たちから声がかかることを大いに期待して・・・
「主があなたを呼んでおられます。」
「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」

ハレルヤ アーメン

月報2005年3月号より

「Equipper Conference 2004 に行って」

私は2004年の年末から2005年の元旦までCAのリトリート、Equipper Conference (EC)に行ってきました。そこで人生最高の時間をすごしてきました。色んな人に出会い、すばらしい先生方のメッセージを毎日二回ずつ聞き、熱い賛美を歌い、燃やされました。ECで神様の愛の事も語られましたけど、今回私を燃やしたのはユースの事でした。ユースでどう伝道していけばいいのか、どうやって皆に神様の事を伝えることができるのか、その事ばかり思わされました。

私はこのECに行く前に少し悩んでいました、『何で私がこの中高生の集まりを仕切っているんだろう。経験はないし、リーダーシップがすごいわけでもない、聖書を端から端まで知ってるわけでもない。』と思っていました。ですが、その日、杉本先生のメッセージでこう語られたのです『何かを変えるのに知識はいらない、過去、どの大学から出たのかなんて関係ない、ただ必要なのは情熱だ。』そして、その同じ日に佐藤先生が言われた言葉は『渡った橋は燃やせ、そうすればあなたはもう後戻りはできない。過去を捨てなさい、過去に戻るな、前に進みなさい。』この日私はああそうなんだ。と思いました。
その日は納得程度で聞いていましたけれど、次の日の盛永先生の説教には悩まされました。先生はおっしゃいました『イエスはあなたの愛す人を救います。そしてその愛した人が救われない限りあなたも救われない、あなたの命の意味がない。』と。そして最後に聞かれました『あなたの願いは何ですか?』私はどうしようかと思いました。何をどうすれば私の命に意味があるのか、必要とされるのかと。そう思っているとポール鈴木先生が高校生用のクラスで話してくれました。私たちの命は短い、私達の命全部を神様にささげてもたりないのに何を待っているのですか?何をのろのろとしているのですか?神様が必要としているのですから早くいきましょう。私は目が覚めたようでした。あ~そうなんだやっぱり私が今やるべきことはユースなんだと思いました。私ができる限りがんばってみよう、一人ではなく皆でがんばろうと。

私が自分の悩みを解決して最後の日を迎えると神様は私が考えていた事よりもはるか超えた事を用意していてくれました。最後の日、杉本先生は日本のクリスチャンの事を話してくださいました。日本は多神教であり、自分がスーパーマンになろうとしている。自分で道を決め、自分の力で生きる。そのせいか今私探しがはやっていると教えてくれました。杉本先生は言いました『人はスーパーマンになれないから、スーパーマンを作ったんだ。私探しなんてできない、私は自分なんだから。探せるわけがない。』皆クスクス笑いながら聞いていたら、先生は『人は安全な所を探しているから色々やるんだ。ノンクリスチャンに神様のことを伝えるのは簡単じゃない、だけどもし伝えなかったら求めている人はどうする。』最後に先生はアインスタインの言葉を教えてくれました『私は天才ではない、ただ一つの事に情熱を持っただけだ。』私は心を打たれました。何もいらない、情熱だけで何かは変わる。その夜、大倉先生の祈りの中で、悔い改めた人は前に出てきなさい、神に仕える人、宣教師、牧師になりたい人は、出てきなさい。その時私は前に行きました。神様は私を宣教師に使ってくれるらしいです。

その夜は400人皆が泣き、半分の人が前に出て、抱き合って祈りました。あんなに祝福された場面は私の人生で初めてでした。そしてそれを体感できた事が本当にうれしかったです。ECに行けたことを心から感謝しています。

月報2005年2月号より

「Equipper Conference 2004 に行って」

私は2004年の最後の一週間、カリフォルニアで行われた日本人クリスチャンのためのEquipper Conferenceに参加しました。初めは高校生の参加者はかなり少ないと聞いていたので、ちょっと緊張していました。でも、神様は私に素晴らしい体験を用意してくれていたのです。

思っていたのとはまったく正反対で、特別の高校生用のプログラムが今年初めてできたぐらい私のようなteenagerの仲間たちがいっぱいいました。一人一人とものすごく仲良くなり、お互いのために祈り会い、本当に賛美と交わりのときが聖霊様に満たされた気がしました。そして、色々な先生たちに会うことが出来て、色々な説教を聴くことが出来ましたが、特に二つの事が心に残りました。一つ目は、ワークショップの時にHi-Ba のポール鈴木先生がペテロがボートから出てイエス様の所に行くために水の上を歩こうとしたときの話を語ってくれたことです。そして、ポール先生は皆に、“あなたたちにとってボートとははなんですか?自分の高いプライドかもしれない。心配事かもしれない。今まで努力してきたことでもいい。でも、そのボートから今日降りて、何も恐れずイエス様の元へ行こうじゃありませんか。イエス様を見上げて毎日を生きようじゃありませんか”と言われました。そして、次の夜の集会で、大倉先生が“ここに私がおります”と言う題で説教をしてくださいました。メッセージの中で先生は、自分がどこにいるのか分からない時でも神様は私たちのことをずっと探し続け、いつも見守っており、生きる目的を与えてくれることを教えてくださいました。その二人の先生方のメッセージを聞いて、改めてこの御言葉を思い出されました:“心をつくして主に信頼せよ。自分の知識にたよってはならない”(箴言3:5)。

Equipperを通して、どんなに自分が努力して頑張って生きていこうとしても、神様の計画、使命、そして導きに耳を傾けていかなければ、人生を無駄にしてしまっていると言うことが明らかになりました。すべて主に委ねれば心に平安が与えられるし、本当の幸せの意味が知ることが出来ると分かりました。最近は、将来どこの大学に行こうか、何になろうかと、ものすごく悩み、自分の力でで行くべき道を選ぼうとしていたということに気づきました。でも、これからはどうしていいか分からない時、心配せずにもっともっと祈りの力を信じていきたいと思います。そして、神様が共にいつもいるというこの安心感と素晴らしさを周りの人々に積極的に口で語るだけではなく、自分の毎日の態度や行動でもっと伝えていけるようにお祈りしていきたいと思います。Equipperに参加できたこと、そしてその一週間学んだことすべてに心から感謝します。

月報2005年2月号より

「僕がキリスト教という‘言葉’に初めて…」

僕がキリスト教という‘言葉’に初めて出会ったのは、まだ日本に住んでいる頃でした。日本の小学生ならこう習うかもしれません。“フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えた。”と。その頃の僕は、キリスト教が一体どういう宗教なのか全然わかりませんでしたが、一つだけは自分の中ではっきりしていました。当時小学3年生の僕は、キリスト教によい印象を持つことができなかったのです。何故なら教科書には、キリスト教徒は迫害され処刑された、というようなことしかのってないからです。“何故キリスト教徒はそんなことをされたのか。そうだ、きっと怪しいことをしていたに違いない。”と勝手に思い込んでしまいました。このことはそのうち忘れてしまい、僕が小学校4年生の時に、アメリカのニュージャージーに引っ越しました。このことが、後に僕の人生を大きく変えることを知っていたのは、神様だけでした。

初めて教会のイベントに参加したのは、確か2000年の野外礼拝でした。僕の目的はただ一つ、友達と遊ぶことだけでした。この後、教会にも家族で行き始めるのですが、僕は礼拝に出たかったわけではなかったのです。ただ友達に会えるから行っていたのです。まだ神様を信じているわけでもありませんし、聖書も自分から読もうとしませんでした。教会に行き続けたら、教会学校で学んで、礼拝にも少しだけ出るようにはなりました。これも、友達がそうしたいるからでした。けれども、今思うと神様はその友達を僕に遣わせてくれたのじゃないのかと感じます。彼らのおかげで教会に行き続けることができたのですから。

しかし、この後の2001年にイギリスに引っ越すことになってそこに住み始めたときに、はっきりとした変化が僕にみることができたのです。イギリスのミルトンキーンズという町にはその頃日本人の教会がありませんでした。しばらく教会にいけない日々が続きました。以前の僕なら、このようなことは気にもかけなかったはずです。けれどもそこには、教会を求めている僕がいました。アメリカを離れるときにもらった漫画聖書を毎日のように読みました。そのうち牧師先生が来ることを信じながら。そして2002年の冬に来てくれました。小島美子先生がミルトンキーンズに来てくれたのです。それからは毎週のように礼拝に出席し、教会でもらった聖書を読みました。2003年になると、家族で学びを始めました。純粋に、神様のことをもっと知りたかったのです。

学びを始めてから2ヶ月ほどたってから、小島先生に洗礼のことについて聞かれました。その頃僕は、クリスチャンになれるのは徹底的に勉強した人だけ、そして何よりも、善い生活を行ってる人だけだと思っていました。僕の考えを先生に伝えると、僕の予想していた答えと違う答えが返ってきました。先生は、そんなことないんだよ、神様はありのままの私たちを受け入れてくださるんだよ、洗礼はゴールじゃなくてスタートラインなんだよ、と教えてくれました。この瞬間、僕は洗礼を受ける決心をしました。洗礼を受けたのは、2003年の4月20日のことです。

洗礼を受けてから11ヶ月ほど経った3月からアメリカに来るまでの間に、今まで以上に神様を感じることができる出来事が沢山ありました。3月半ば、僕は内臓にちょっとした異常があるということで入院していました。その2週間後には日本に引っ越すことが決まっていたので、家族で焦っていました。そんなときに、タイの教会の近藤先生が、知り合いに東京の大学病院の教授をしている人がいるから連絡してみるといってきてくれたのです。順天堂大学病院の稲葉先生はすぐにOKしてくれました。また、日本についたらすぐに入院できるように手配してくれました。彼もクリスチャンでした。最初入院中は食べることも許されず、検査の毎日でした。そんなときに近藤先生がほとんど毎日のように来てくださっては聖書の話をしてくださったことには本当に感謝です。知り合いのクリスチャンの方々も励ましに来てくれたり、日本に帰ってからもしばらく会ってない友達が来てくれたり、錦織先生のお父様や後藤兄*のお姉様との出会いなどがありました。ここまで連続的な出会い方や励ましがあるでしょうか。確実に、神様が働いてるに違いありませんでした。また、アメリカに留学するための交渉がなかなか進まない、もしうまくいっても学生ビザが1年しか出ないというときも、神様は僕にもっと好条件の学校を用意してくれました。その学校の手続きが、信じられないほどにスムーズに行ったのです。父がアメリカに出張中に学校を訪問することができ、入学のためには通常面接が必要なところ、偶然そのとき学校の幹部の方と話すことができたので、面接はいらないといってくれたのです。これは偶然でしょうか。そうではないと思います。

このことで沢山の人が祈っていてくれたと聞きました。本当に感謝です。その祈りに神様が答えてくださったのだと信じます。“わたしはぶどうの木、あなた方はその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなた方は何もできないからである。” (ヨハネによる福音書15章5節)

この言葉を身を持って感じました。神様やイェス様につながっているクリスチャンだからこそ祈りが届き、働いてくださるのだと実感しました。これからの歩みの中でも、多くの人とつながって、神にあって生きていけたらと思います。証しする機会を与えてくださった主に感謝。

注(*) 教会では、皆キリストにあって神の子であるという意味で、互いのことを    『兄弟』『姉妹』と呼ぶことがあります。

月報2005年1月号より