神さまからのプレゼント〜父との祈り〜

私の両親は典型的な日本の仏教徒です。

私は、両親の救いは、長い間、毎朝祈ってはいましたが、召される直前にでも、イエス様を受け入れてくれるか、私のとりなしの祈りによって、天国にいけたらいいなーと思っていました。

しかし、2018年7月、父が召されるひと月前に、私は父と心を一つにして祈ることができました。主が私の日々の祈りをお聞きになったのです。

父は、私を、生涯、とても可愛がってくれました。私も、父が大好きでした。

あの祈りがなければ、あっという間の、父の死は、私には、受け入れがたいものだったと思います。今、父が天国にいることを覚えて、平安でおります。

また、未知なる所だった天国は、愛する父との再会を期待する、親しみ深い所になりました。

そのお祈りのこと、加えて神様が私になさった善いこと、お計らいをお話ししたいと思います。

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両親は、80歳をすぎても、年齢に比べてとても健康だと言われていました。

旅行によく出かけ、日常は、電車に乗るより、自転車で用事を済ませるような夫婦でした。

しかし、父は、2016年に階段から落ちて、加えて、緑内障も進み、視界が狭まり、怖くて外出する機会が減り、筋肉が落ちて行きました。

そんな話を聞く頃、我が家の長女が2018年5月に大学を卒業する予定で、夫も何年も日本に行っていなかった為、私たち家族は、その正月に、アジアに旅行に行く計画を立てました。

私たちと20年近く、旅行をしていない両親とも、一緒に箱根に行くことにしました。

旅行が決まった後、気がついたのですが、その日は、偶然、父の誕生日で、私たち家族とともに旅行先で誕生日を祝うこととなりました。

―それが父の最後の誕生日となりました。

5ヶ月後、長女が大学を卒業し、友達と日本を旅行し実家を訪れると、父がとても弱くなったと、私に伝えて来ました。母と話すと要介護2になったということ、私はすぐに日本に行きました。

私はひと月強、実家に滞在しました。

初めの頃は、父は、自分でトイレに行き、ご飯を食べ、動けてもいました。

頭は、以前のままで、記憶力もしっかりしていて、体だけが弱ってしまっていたので、いつも、“情けないなあ”と、言っていました。私はその姿を見ては、心を痛めていました。

ある日曜日に、母たちに用事があり、私が父と2人で過ごすことになりました。

その日、教会礼拝に行けなかったので、私は、父と一緒にお祈りをしようと思いました。

両親が、昔、カリフォルニアの家に遊びに来たときに、Japanese Christian Church of Walnut Creekの礼拝に出席したり、信仰の友らの家族と、食事を何度かした際には、お祈りを一緒にしましたが、父と2人で祈るのは初めてです。

もし、一緒に祈ることを断られたらどうしよう、と思いながらも、勇気を出して、“今日は日曜日で、普段は、私は、教会に行くのだけれど、今日は行かないから、一緒にお祈りをしてくれる?”と聞きました。

父は、“はい”と答えました。

“お祈りの最後には、一緒にアーメンと言ってね“と言い、シンプルな祈りを始めました。

父は、始めはただ、聞いていました。

少し経つと、父が大声で”アーメン“と叫び出しました。

普段は穏やかで、大きな声を出すタイプではありません。

また、この頃には、声はか細くなり、普段は、父の顔の近くに耳を寄せて、彼の話を聞くようにしていました。

その父が、言葉の合間合間に、”アーメン“と大きな声で叫び、父の部屋の中は、不思議な空間になりました。

私は、涙がぼろぼろ出てきて、膝に落ち、祈り終わった後は、何も言うことができませんでした。

私が部屋から出終わるまで、その後で父が、”アーメン、アーメン、アーメン“となんども繰り返していました。

私は自分の部屋に戻ってから、しばらく呆然としました。

聖霊様のご臨在を実感しました。

何を祈ったのか、全く覚えていません。

ただそれは、まさしく、父と、心を一つにして、神様に祈りを捧げたときでした。

延命治療はしない、点滴もしない(手から試みたのですが、血管が細くなりすぎて、体の中に入っていかず、病院で、首から入れると言われて、父が断りました)、自分の口から、普通にご飯を食べて、自分の家で最後を迎えるーと言う、父の意思を尊重して、日々、過ごしていきました。

私が帰国する頃には、自分で食事は取れず、食欲もかなり落ち、体もとても細くなっていました。

これからしばらくは、寝たきりの状態になるのかなと思いながらも、おしゃべりもしっかりしていましたし、まさかこれが最後の別れになるとは思わずに、私は、父に、“また来るからね、元気でね”と言って、アメリカに帰りました。

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一月後、お昼ご飯に、大好きなスイカを、食べようとして、そのまま意識不明になりました。

母は、本当に突然だったと言っていました。

母が、主治医に電話をすると、先生はお昼休み中で、たまたま実家近くにご飯を食べにきていたので、すぐに駆けつけてくれました。先生が看取ってくださったので、自宅での死亡でしたが、解剖の必要もありませんでした。

父の死後の顔は、とても穏やかで綺麗でした。最後まで平安だったのだなと思いました。

どこまでも憐れみ深く、愛のお方、全てを最善へと導かれるお方、その主の御手の中に守られながら、主の元へと発って行った父は、本当に、本当に、幸いです。

詩篇236

命のある限り恵と慈しみはいつも私を追う。

主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。

アーメン

イエス様の大きな恵み

神様に出会う前の私は、神様がこの世に存在しているなら、何故自分の人生には辛いことが起こるのかと、目には見えない神様の存在を否定していました。そればかりか、自己中心的でプライドの塊、不平不満ばかりで心の中には大きな荒地が広がっていました。外面ばかり気にしていましたので、人の視線がいつも気になり、周りのことに振り回されて自分を見失い、満たされない何かがいつも心の中を渦巻いていました。

自分の人生をどうにかして変えたくて、1996年、先輩がニューヨークに2、3ヶ月滞在するということを聞き、私はその時の仕事を辞めてニューヨーク滞在に便乗することにしました。当時のボスは私に「仕事を辞めて今更何を考えているんだ」と反対しましたが、私は「今しかない」との思いでニューヨーク行きを決断しました。滞在中は思っていたより大変なことがたくさんあり、楽しいことよりも辛いことの多い滞在でしたが、何故か一度帰国してから、再度、今度は一人で渡米しました。その後ニュージャージーで私の専門である幼児教育の仕事が見つかり、現在の夫とも出会いました。彼はクリスチャンでしたので、私と会う度にイエス様の話をしました。でも「もうイエス様の話は聞きたくない」と拒否したことも度々ありました。時にはマンハッタンの教会にも一緒に行きました。そこで出会った日本人の方に、ニュージャージー日本語キリスト教会を紹介されました。なかなか一人では行けませんでしたが、ある韓国人の女性との不思議な出会いを通して、ついにニュージャージー日本語キリスト教会に行く日が来ました。

初めて足を踏み入れたニュージャージー日本語キリスト教会には、何かとても温かい安心できるものを感じました。そして毎日曜日教会に行くようになり、その年2000年12月10日に錦織牧師から洗礼を授かりました。ただただ嬉しかったのを覚えています。「この私がクリスチャンになった」と。私はミッションスクールを卒業していて、日本では教会付属の幼稚園に勤めていました。神様はその時から私をずっと待っていてくださったのです。

その翌年2001年12月に現在の夫と結婚しました。その年の9月11日の世界を揺るがす大惨事で夫は失業していましたが、「山の上での結婚より谷での結婚は上に上がって行けますからね」との、笑顔いっぱいの錦織牧師のお言葉に「それもそうだ」と納得して結婚しました。でもそれは上り坂ではなく、もっともっと深い谷底に降りて行く下り坂だったのです。私は夫の仕事が数ヶ月で見つかると思っていました。でも1年経っても2年経っても見つかりません。ようやく4年目に仕事が与えられ喜んだのも束の間、1年程で失業しました。結婚して今年で19年、その間夫が働いた期間は5年程です。男性は働くのが当然と思って育って来た私にとって、自分の夫に仕事がないことは信じ難い事実で、簡単には受け入れられませんでした。大変感謝なことに私の仕事は順調に途切れることなくありましたが、夫には仕事がないばかりか、家でブラブラしているという状況に耐えられず、頻繁に喧嘩をしました。何度も離婚を考えました。

でも、19年間、多くの問題を抱えながらでも生活できたのは、神様の大きなご愛と恵み、そして守りと支えがあったからです。食べるものがなくて困ったり、家賃が払えずに苦労したことは一度もありません。神様が全ての必要を満たしてくださいました。神様を知らなければ、私はこの試練から逃げ出していたでしょう。神様を知らない人から見れば、私の人生はとても奇妙で不思議に写っていたと思います。そうです。神様は人知を超えた不思議をなさるお方です。「神には、なんでもできないことはありません。」(ルカによる福音書1章37節)  自分の人生は何なのか。何故生きているのか。何故試練が続くのか。とずっと悩み彷徨って来た私を慰め助け出してくださったのは、天地創造主なる全能の神様だけです。この試練は父なる神様からの愛なる訓練だったのです。

 

「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」ヘブル人への手紙12章11節

 

私は神様に心からの感謝をささげます。この神様の訓練がなければ、神様の大きな、深い、天よりも高いご愛を知ることはありませんでした。どんな境遇の中にも神様は共にいてくださいます。試練に耐え脱出する力と道を備え与えてくださいます。

2000年12月に洗礼を受けて浮かれていただけの私は、イエス様の十字架と復活の意味が全く理解できていませんでした。この神様の愛なる訓練を通して、イエス様が私の罪のために十字架にかかり私の罪を赦してくださった。そして3日目に復活されて今も生きてとりなしてくださっていることを聖霊様を通して教えていただき、悔い改めに導かれました。イエス様はご自分の命を私のために捨ててくださり、天の父はひとり子を惜しまずに私の罪のために十字架に差し出し、そして永遠の天国の国籍と永遠の命をくださったのです。

 

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」ヨハネによる福音書3章16節

 

COVID-19の影響で、2020年6月に、私が11年間勤めていた幼稚園が閉園しました。ショックでした。言葉になりませんでした。夫に仕事がないばかりか、私までも仕事を失い、この先どのように生活していったらいいのかと悩み苦しみ、神様に祈りました。形あるものは全てなくなることを実感しました。でも非常事態宣言が解除後、閉園した幼稚園の多くの保護者の方からご連絡をいただき、現在フルタイムの仕事はありませんが、引き続き私の専門である教育の仕事に携わることができています。神様がこのように仕事をくださり、養ってくださっていますことを心から感謝しています。

 

今も私の信仰は途上にありますが、これからも主を信頼して、真実なる神様の御言葉が記されている聖書に従って歩んで行きたい、この素晴らしい神様のご臨在と恵みに感謝し、喜んで主を賛美して行きたい、そして神様の福音を人々に伝えていくことができますようにと日々祈っています。このアメリカに来たことも神様の導きです。神様にお会いするための神様のご計画だったと確信しています。ニュージャージー日本語キリスト教会に行くために不思議な形で出会った女性も、神様が備えてくださいました。教会では牧師先生始め、牧師夫人、そして愛する兄弟姉妹方のお祈りに支えられていますことに感謝します。

今日も神様が私を生かしてくださり、罪だらけの不完全で弱い小さな者にも力を与え、永遠に変わることのない大きな愛と恵みを日々注いでくださっていますことに心より感謝申し上げます。

 

「イエスキリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない」ヘブル人への手紙13章8節

 

「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」哀歌3章22節

「祈りが与えられている恵み」

昨年11月24日、洗礼を受けさせていただきました。洗礼までに導かれた証を書かせていただきましたが、また機会を与えてくださりありがとうございます。

昨年2月信仰告白に導かれ、10月錦織先生に受洗したいと伝え、11月24日洗礼を受けさせていただきました。クリスチャンになって一年になりました。私が、思い描いていた一年後とは現在の状況は大きく異なっていました。COVIDー19が突然現れ、全世界に影響を与えました。多くの方が病に苦しみ、そして亡くなる方の数も私達の想像を遥かに超えました。目に見えないウィルスへの不安、私達の日常生活は大きく変化し、当たり前だったことができなくなったこと、特に家族以外の人と会うことができないことは大きなストレスともなりました。そして、個人的には、日本への本帰国が延期となったことでした。しかし、このような状況下の中で、神様は私に多くのことを気づかせていただき、そして与えてくださいました。感謝です。

洗礼後、私はクリスチャンとして、これから神様とともに歩めることに嬉しさを覚えていました。それと同時に不安も持ち合わせていました。それは、2020年夏に本帰国の予定があったため、日本へ帰国しても教会が見つかるだろうか、このNJにいるときのように信仰生活が守られていけるかなどでした。ですから、本帰国までの間に、イエス様と出会ったこのNJの地で、兄弟姉妹との交わりや、スモールグループでの学び、また私にとってチャレンジでしたが、聖歌隊やハンドベルなどのご奉仕を通して、クリスチャンとしての歩みを学べる機会を増やしていけたらと考えていました。

しかし、3月、COVIDー19で私達の生活は突然変化しました。No school、Stay home。買い物へ行くにも大変な状況になってしまいました。そして、教会もオンライン礼拝、スモールグループもZoomとなり、何もかも初めてのことで戸惑い、不安を抱える毎日となりました。私は本帰国までにクリスチャンとして色々なことを学びたい気持ちでしたので、このような状況になり、どのように歩めばよいかわからなくなりました。

Zoomを通して、以前より参加していた子育て中のお母さんたちのスモールグループであるJoy Joy奥様会やRidgewood聖書を読む会などに続けて参加し、神様の御言葉より力をいただき、Joy Joy奥様会で皆さんと共に祈りを続けていましたが、なかなかCOVIDー19の状況は良くならず悲しいニュースばかりの毎日に、私の心が落ち着くことはありませんでした。しかし、皆さんと共に祈りをささげているときは、神様から平安を与えられ、祈りがもつ力を改めて思わされました。私は、毎週木曜日、朝晩祈祷会が行われているのを知り、参加したい思いがあるものの、なかなか参加することができませんでした。それは、祈ることが苦手で、Joy Joy奥様会など知っている方たちの中でやっと祈ることができる私にとって、お会いしたことのない方たちの中で、祈ることは難しいと感じたからです。家族以外の誰とも会うことのできない毎日、一日中家族が家にいることで家事も増え、自分の時間をとることが難しくなり、日に日に少しずつストレスを感じていく自分がいました。この状況の中で平安を与えてくださる方はただ一人、私が信じている、主である神様で、祈りが苦手でもいい、どうしてもこの祈祷会に参加をしたいと強く思いました。この思いが強くなったのは、聖霊様が働いてくださり、導いてくださったからだと思います。そして、この祈祷会を通して、神様は多くのことを私に教え、気づかせて下さり、力を与え、平安を与え、慰め、助けを与えてくださいました。

絶えず祈りなさい。(第一テサロニケ 5:17)

  あらためて、私達クリスチャンには、祈りがあたえられていること、そして、祈りを聞いてくださる方、神様がわたしたちと共にいてくださることに、感謝を覚えました。

そして、共に祈る兄弟姉妹を与えてくださったことも、神様からいただいた恵みでした。参加する前は、お会いしたことのない方たちやお話しをしたことのない方たちと、ともに祈ることが、私にはできるだろうかと不安でしたが、なかなか人と会えない中で、オンラインを用いて、遠くに住んでいる方たちや普段お話しをしたことのない方たちと交わる機会、祈る機会を与えてくださいました。

祈ることが苦手な私に、神様はCOVIDー19という厳しい状況下を用いて、祈祷会に参加するように招いてくださいました。そして、この祈祷会を通して、ゆっくりゆっくりと私の歩幅に合わせて神様は私を洗礼まで導いてくださったように、祈りについて…神様はゆっくりゆっくりと今も私に教えて下さっています。祈りとは、神様との対話、神様との親しい交わりであり、そして、神様は特に私に足らなかった、とりなしの祈りについて教えて下さいました。今までの私は、自分の願い、思いを中心にお祈りをしていました。祈祷会で、創世記を皆さんと読みすすめている中で、創世記18章の、ソドムとゴモラのために、神様の前に立ち、熱心に神様と向き合う、アブラハムのとりなしの祈りをする姿に思わされました。

創世記28章で、ヤコブは、父イサクから祝福を受け、母リベカの兄ラバンのところへ向かう旅を始めました。しかし、ヤコブは旅の途中、不安を覚えているところに、神様はヤコブに「わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守る。」と語ってくださり、ヤコブは「私はそれを知らなかった。」と応える姿に思わされました。私は日本での信仰の歩みに関して、先が見えない不安ばかりに目を向けている自分であることに気付かされました。この聖書の箇所から、弱さや困難を覚えているとき、私達は神様がそばにいて下さっていることに気づくことができないことがあり、そのような時、神様は私達の前にあらわれ、力強い言葉を語りかけてくたさる方で、主は、私がどこに行っても、守ってくださり、信仰が歩める場所に導いてくださる方、

あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。(詩篇37:5)

神様に目を向けること、そして、神様を信頼し、神様に委ねることを、祈祷会を通して、あらためて教えていただきました。

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いを、キリスト·イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:6-7)

私の大好きな御言葉です。神様に感謝を持って祈りと願いをささげる。このCOVID-19が落ち着いたあと、神様は今までとは違う新しい道を作ってくださることを期待し、神様の御心を尋ね、神様に委ね、これからもゆっくりゆっくり信仰の歩みをすすめていけたらと思います。

聖霊様に導かれて

私が洗礼に導かれて行った時のお話をさせて頂きます。

私の若い頃から、クリスチャンではなかった母が、しばしば、聖書は世界最高の書物だと言っていました。また、母は、教会や賛美歌を美しいものとしてとらえていたように思います。しかし、残念ながら私の日本での生活では殆ど教会に行くチャンスはありませんでした。

しかし、アメリカの生活が始まった頃からは少しずつですが教会に足を運ぶチャンスに恵まれる様になりました。何故ならば、元夫がカトリックのクリスチャンであったからです。夫の行動には素直に従って付いて行っていましたし、彼からの特別の強制も無かったので、自然な感じで教会に足を踏み入れていました。それから年月が経ち私達夫婦にも色々な試練が起こりまして、細かな話は致しませんが離婚に至る迄になりました。

そうこうしているうちに、子供達との三人の新生活にも大分慣れてきていた頃に、あるクリスチャンのピア二ストの友達の誘いで教会の礼拝前の音楽奉仕に参加させて頂く事になりました。そこは現地の教会でした。奉仕の後、すぐ帰るのも失礼な様な気がしまして、英語の弱い私でしたが、解らないながらも、どうにか礼拝の終りまで出席するようになりました。唯々牧師さんの素晴らしい人柄が滲み出ていたお説教に聞き入っていました。勿論英語なので理解する事は難しかったのですが、それなりに不思議な世界に浸っている自分がいました。そして、何時しか聖書の世界を知る上でも日本語の教会に行きたいという思いになっていました。

その様な矢先、別のクリスチャンの友人から、「私の行っている日本語教会に来ないか」との誘いがありました。「実は私も日本語教会に行きたかった」という事を告げ、直ぐOKの返事を致しました。彼女は祈りのハンナ(聖書のサムエル記に出てくる熱心に祈った女性の名前)と言うあだ名が付いている位祈りを大切にしていました。多分祈りの中に私を見たのでしょう。突然の誘いに不思議さも感じない訳では有りませんでしたが。

そこの教会の場所はニュージャージー日本語キリスト教会がお借りしているザイオン教会の様に立派な建物ではなく、一人の教会員の家でした。私にとっての「教会」のイメージは、外目に見ても教会だとわかるような建物だったので最初は少し驚きました。このような所でも教会として成り立っていけるのだろうか、と思いましたが、友達がいたので大丈夫という安心感はありました。私にとってのそこでの最初の礼拝で心に留まったのは、説教以外の話で、牧師さんが「来週は日本に行く前の最後の週なので洗礼を受けたい方のチャンスですよ!」と言われたことでした。勿論それは私にとっては全く無縁の世界という思いで聞いていました。

その同じ週に、私に思いも寄らない事が起きました。日本からの姉の電話で、母が半年もつかどうか解らない状態である事を医師から告げられた事を知らされたのです。その電話口で二人で暫く時間も忘れ、泣き崩れていた事を覚えています。
それから直ぐに、祈り方も知らない私は生まれて初めて手を合わせ、「神さま」という言葉を口にし、私の思いを神様に聞いて頂きました。その祈りの中で、礼拝のときに牧師さんの言っていた事が思い出されました。洗礼を受けるという事の意味も、何も知らない私は、直ちに洗礼を受けて、神さまに、私の思いを母に告げるパイプ役、橋渡しになって頂こうと思いました。
聖書の勉強もした事が無く、中身も全く解らず、心の準備も十分に与えられずの洗礼でしたが、牧師は心から喜んで授けてくださいました。この牧師は、洗礼を受けたいという気持ちが先ずは大切で、それから聖書の世界を知る方が深く理解出来るのだという御考えをお持ちの方でした。
でも本当に何も知らなかった私には学びもとても大変なものでした。しかし、洗礼を受けた後で振り返ってみた時に、人にはそれぞれ洗礼を受けるタイミングがあって、私にとってはこの様なスタイルが相応しい形だったのだと、思いました。

いよいよ迎えました洗礼式は涙涙でした。全く泣く事を予想していなかった私は人前で大泣きした恥ずかしさで一杯でした。人前で泣く事は当時の私には実に恥ずかしい事でした。お願いだから私の涙を止めて下さいと、洗礼中ずっと願っていました。その当時の私は、流した涙がどういうものなのか、どこから来たのか、全く理解出来ませんでした。その涙を通して、私は不思議なものを見ました。勿論聖霊という言葉、存在すら知らない私だったので、目に気流の様なものが見えましたが唯の目の錯覚という思いでいました。今から思えば全てが聖霊様に導かれていた私の洗礼式迄の行程ですが、十字架によって贖われた私の罪を示す涙だったのだいうことがわかります。涙で終わった洗礼式も、今では、私の罪がきよめられた喜びの証しとなっています。不思議な事に、それから半年と言われた母の命も、三年の時間を与えて頂く事が出来ました。感謝の喜びでいっぱいです。
聖霊の働きは、陰の力、縁の下の力と目立たない存在です。私の日々の祈りの中でも、神さま、イエス様と頻繁に呼ばさせて頂いておりますが、聖霊様をこれからも沢山お呼びして、祈りの中心になって頂きたく思っています。
聖霊様有難うございます。この様に聖霊様によって今回の証しを書けるこの時にも感謝致します。これからも宜しくお願い致します。

「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない。」

コリント第一の手紙12章3節

振り返って神の祝福を実感する – 福音と共に成長した証し-

わたしは子どもの頃、神の言葉と福音のメッセージを聞きながら育ちました。両親はクリスチャンで、私と弟を毎週欠かさず教会に連れて行きました。そこで私は、神が人間を創造されたこと、罪がどのようにしてこの世に入ってきたのか、そして私たちを地獄から救うためにイエス様が犠牲になられたことを学びました。子どもの頃,わたしたちは永遠の命と永遠の苦しみについて常に思い知らされていました。教会の長老たちが口癖のように言っていたのは「もし今夜死んだらあなたはどこに行くのか?」という言葉でした。自分がこのままでは地獄に行くのだと知っていましたが、小さな子どもだったわたしにとって、死はとても抽象的に思えたので、あまり深く考えたことはありませんでした。母は病院で薬剤師として働いていたので、家にいない夜が多かったのですが、父は母が働いていた病院の前を車で通ると必ず 「さあ、おかあさんに手を振って!」と言っていました。ある日、母の働いていた病院の前を車で通り過ぎた時、「ここがママの職場 」とは思わず、「ここは病気の人がいる場所 」と思ったのです。わたしの祖父はその何年か前に亡くなっていたのですが、亡くなる数日前に両親に連れられて、もう一度祖父に会いに病院へ行きました。ベッドで寝ている祖父を見て、なぜいつものように起きて私たちに話しかけてこないのだろうと不思議に思ったことを今でも鮮明に覚えています。それが祖父だとはわからないほどでした。帰りの車の中で、これらの記憶や考えが頭の中を駆け巡り、死はとても現実的で怖いものだと気付きました。教会の日曜学校で、先生が「天国に行く唯一の方法は、あなたの罪を背負って十字架で死んだイエス・キリストを信じることです」と言っていたことを思い出しました。両親に毎日怒られていたので、自分が罪人であることを知っていました。そして、両親に対して、何度も「ごめんなさい」と謝ったのと同じように、自分は罪人であり、自分ではどうすることもできないことを神様に悔い改めなければならないと思いました。そして、その夜、私はキリストを受け入れたのです。私はとても幸せな気持ちになりました。その時はまだ8歳でしたが、それくらい幼くても、救いの喜びを味わうことができたのです。

ここまでは、私がどのようにしてキリストのもとに来たのかということを書いてきました。しかし、正直なところ、私のライフスタイルが変わるようなことは何もありませんでしたし、一人の人がイエス様を信じる時に経験するような試練は一つもありませんでした。これは神を中心とした家庭で育った者の特権だと思います。しかし、キリストを受け入れた後に私の試練は始まりました。私はクリスチャンになったことをすぐに両親に話しましたが、私の行動は何も変わらず、あまり簡単に信じたように見えたのでしょう、両親は信じてはくれませんでした。このことにとても傷つき、私は自分がクリスチャンであることを隠して学校生活を送っていました。クラスメートは、私が通っていた教会が他の教会に比べてとても厳しいことを知っていたので、いつも私のことを「良いクリスチャンの女の子」と思っていたり、私がどうやって楽しんでいいかわからないとか、私がとても頑固者だと思っていたりしました。そのため、自分がこの教会の一員であることが恥ずかしくて、恥ずかしくて、クリスチャンであることは、ルールを守らなければならないので、私の人生はつまらないものになってしまうのではないかと思いました。それに加えて、私は学校で唯一のアジア系の生徒だったので、自分の文化を楽しむ機会もありませんでした。学校に馴染むために、クラスメイトと同じように話したり、同じ音楽やテレビ番組に興味を持とうとしたりして、「クールなアメリカ人の女の子 」と思われるようにしていました。大学に入ると、また状況が変わりました。私が所属していた教会の正式なメンバーとなったので、私が守らなければならないルールはより厳しくなりましたが、それに従うのではなく、それとは正反対に生きようと思いました。その中には、女性はスカートを履いて頭を覆わなければならない、クリスチャンではない人と付き合ってはいけない、礼拝の中では楽器は使ってはいけない(全てはアカペラでした)、一切の例外なく日曜日の礼拝には出席しなければならない、そうでないならば、献身的なクリスチャンとは言えない、などのルールがありました。私はこれらの教えの多くには同意できず、反抗的になっていきました。聖書にはこれらの規則についての説明がなかったからです。大学では、教会の教えに反していたとしても、自分のやりたいことは何でもやり、自分が正しいと思うことは何でもすることを選びました。そして、私は自分が、共同体の一員であるという感覚や、さばかれないで愛される体験することを切に求めているのだとわかりました。私とは異なる霊的背景や文化的背景を持つ友人ができましたが、彼らは私が教会で生涯を共にしてきた人たちよりも優しさを見せてくれたのです。悲しいことですが、この時、私は強い信仰を持ったクリスチャンは、自分たちとは違っている人たちに対しての心を持っていないのだと信じるようになり、「良いクリスチャン」にはなりたくないと、神様から離れ始めていました。私は、教会と学校の二重生活をしていて、とても葛藤していました。私の両親、特に父は、この時期に私が幸せではなく、自分の霊的な成長に苦労していることに気がついていました。私たちは家族としても、教会と同じ価値観を受け入れるのに困難を感じるようになり、閉じ込められているように感じていました。このような状況は、家族でその教会を去ることを決意するまで4年間続いたのです。

私の弟は、子どもの時からニューヨークのディスカバリーキャンプという日本人クリスチャンのサマーキャンプに毎年通っていました。そこで彼は同じ日本人の友達と出会い、その友達の多くが私たちの近くに住んでいることがわかりました。そのキャンプの仲間のうち、弟と特に仲良くなった一人の子が、ニュージャージー州メイウッドにある教会に来てみないかと弟を誘ったのです。弟と父は、2017年の11月にニュージャージー日本キリスト教会(JCCNJ)を訪問しました。父はJCCNJの自分たちを歓迎してくれる雰囲気とそこでの人々との交わりにとても満たされて、数週間後に母と私を連れて行ってくれました。私は、それまでの教会を去ることについて父と同意するのに時間がかかりました。ずっと共に歩んできた仲間たちのところを去ることについて、私たちは口論になり、私は3日間泣き続けました。しかし、父の言葉が私にその教会を去る決意を与えてくれました。「あなたは、幸せかい?幸せならここにいてもいいが、神はあなたに賜物を与えたのだから、ここにいてもその賜物を使うことはできない。神は私たちが成長するためにはここを離れる必要があると言っているのだと思うよ。」一ヶ月後、私は初めてJCCNJの礼拝に行きました。最初の頃は、私が育った教会とは全く違っていたので、JCCNJを受け入れるのがなかなかできませんでした。しかし、少しずつですが、想像以上に日本の教会が好きになりました。JCCNJに来たことで、私は本当に新鮮な空気を吸うことができました。私は自分らしくいられるようになり、神様から与えられた関係を通して神様の愛を学び直すことができました。

「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」エレミヤ29:11

これらの経験は、私の想像をはるかに超えた素晴らしい未来を神様が準備してくださっているということを確信させてくれました。生涯の友だちもでき、生まれて初めて、教会だけでなく、自分の人生全体に神様を受け入れたいと思いました。今では、家族や仕事、そして友人たちと生きていく私の人生を神様が祝福してくださっているのだという確信を持って歩んでいます。そして、心から喜びをもってイエス様への愛を宣言できます。アーメン

Looking Back and Realizing God’s Blessings – A Testimony About Growing Up with the Gospel

As a child, I was surrounded by the word of God and the gospel message. My parents were both Christian and brought my brother and I to church every week without fail. There, I learned about God created man, how sin was brought into the world, and Jesus’s sacrifice to save us from Hell. As kids, we were constantly reminded about eternal life and eternal suffering. A big phrase all the elders used was “if you died tonight, where would you be?” and I knew that I would be going to Hell, but death for a small child seemed like a very abstract concept so I never thought about it too much. My mom worked as a pharmacist in the hospital, so there were many nights when she was not home. Every time my dad drove us past the hospital where she worked, he would always say “wave to mom!” One day, when we drove past her hospital, instead of thinking “this is where mom works,” I thought, “this is where sick people live.” My grandfather passed away a few years before and a few days before he died, my parents brought me to the hospital to see him one more time. I still have a very distinct memory of seeing my grandpa sleeping in the bed and wondering why he wasn’t waking up and talking to us like he always does. I did not recognize him at the time. So in the car, on the way home, these memories and thoughts ran through my head and then did I realize that death was a very real and scary thing. I remembered that in Sunday School, the teacher would say that the only way to go to Heaven is to believe in Jesus Christ who died on the cross to bear all your sins. My parents would yell at me everyday so I knew that I was a sinner, and just like I repent to my parents many times, I had to repent to God that I was a sinner and could do nothing to help myself. I received Christ that night and was felt very happy. I was only 8 years old at the time, but I was able to enjoy the joys of salvation even at a young age.

This testimony of how I came to Christ but honestly, nothing life altering to my lifestyle and I did not have to face any trials a child to believe in Jesus. This comes with the privilege of growing up in a God-centered household, however, it was the time after I received Christ where my trials began. I told my parents right away that I became a Christian, but they were skeptical because my behavior didn’t change and it seemed too easy. This hurt me very much and I would go through my school days just keeping it to myself that I was Christian. My classmates knew the church I went through was very strict compared to other churches so they always pictured me as “the good Christian girl” or that I didn’t know how to have fun or I was very stuck up. This made me shameful and embarrassed that I was part of this church and that being a Christian would mean that my life would be boring because I must stick to the rules all the time. In addition to that, I was one of the only Asian students in my school so I didn’t have an opportunity to enjoy my culture either. As I went through school, in order to fit in, I would try to talk like my classmates and be interested in the same music and TV shows as my classmates so I could be seen as a “cool American girl.” When I went to college, things changed again. I joined as an official member at my church so the rules became more strict, but instead of following, I decided to live in the complete opposite way. Some rules were that women had to wear a skirt and head covering at all times, no dating non-Christians, no instruments during worship (everything was acapella), and you must attend Sunday worship without exception in order to be seen as  devoted Christian. I did not agree with many of these teachings and went through a rebellious stage because there were no explanations to these rules in the Bible. In college, I did whatever I wanted and chose to do whatever I felt right to do, even if it was against the teachings of the church. I realized that I craved a sense of community and experience love with no judgement or conditions. I have made friends who come from different spiritual and cultural backgrounds than me, but they have shown me more kindness than people I have known for my whole life in the church. As sad as it sounds, at this time, I created a belief that Christians with strong beliefs lack heart for others created differently from them, so I started to push myself away from God because I did not want to become that person of a “good Christian.” I was very conflicted living this double life, one for church and one for school. My parents, especially my dad, could see that I was unhappy and struggling with my spiritual growth during this time. Our family as a whole, were having a difficult time accepting the same values the church did and feeling like we were trapped. This progressed for 4 years until we decided as a family to leave that church.

My brother, went to a Japanese Christian summer camp in New York called Discovery Camp every year when growing up. There, he met many friends who were also Japanese and we found that many of these friends live close to us. One camper who was particularly close with my brother offered him to come visit his church in Maywood, New Jersey. My brother and dad visited the Japanese Christian Church (JCC) of New Jersey in November 2017. My dad was very pleased with the welcoming atmosphere and fellowship at JCC and brought my mother and myself weeks later. It took a long time for me to agree with my father to leave our church. We argued and I cried for 3 days thinking about leaving certain friendships. But it was what my dad said that gave me the determination to leave – “Are you happy? If you are, you can stay, but God gave you a gift and you will not be able to use your gift staying here. I believe God is telling us that we need to leave in order to grow.” A month later, I went to my first JCC worship. I was very stubborn to accept JCC in the beginning because everything was so different from the church I grew up in. Slowly, though, I have come to love the Japanese church more than I could every imagine. Coming to JCC has really given me a huge breath of fresh air. I was able to be myself happily and relearn God’s love through the relationships He gave me. In Jeremiah 29:11 it says “For I know the plans I have for you, declares the Lord, plans for welfare and not for evil, to give you a future and a hope.” These experiences of my life really affirmed my belief that God has a wonderful future waiting for me that is far beyond my imagination! I have made lifelong friends and for the first time in my life, I want to incorporate God into my whole life, not just at church. Now I live with certainty that God has blessed my life with family, work, and friends and I can declare my love for Jesus with joy from my heart!! Amen!

「今までの歩み」

私は兵庫県朝来市という田舎の出身で、小学生の私が学校から家に帰るときよく目にしたものといえば酪農家、又は肉牛を育てているおじさんが牛を散歩しているところでした。そんな田舎ですから、クリスチャンは周りにはほとんどいません。その私がなぜ神様を知るようになったかお話します。

私は幼いころから地元にある少年少女のためのオーケストラに所属しており、打楽器を1 0歳ぐらいからそこで始めました。本当はピアノが大好きでピアニストになりたかったのですが、中学校の先生に「ピアニストなんかなれるわけない」と言われてピアノの道はあきらめました。でもクラシックが小さいころから大好きで音楽の道へすすむことになり、打楽器だったらなんとかなるかも、と言われ、当時はほとんど嫌いになっていた打楽器で先に進むことになりました。今思えば、このときから全部神様の御手の中にあったんだなあと思い感動しています。

大学は京都市立芸術大学へ進みました。そこで出会った先生が京都芸大の教授兼、牧師先生でした。先生は日曜になると家で礼拝をされます。学校でも神学の授業をされていたので、私もその授業を受けていましたが、その時はなんとなくいい話だなぁとは思いましたが、キリスト教自体には全く興味をもちませんでした。聖霊様のお働きなしには、神様の事は理解できないんだということを身をもって体験しました。先生はとても厳しかったですが、学校に真面目に来ない生徒にも、留年した生徒にも、また優秀な生徒にもいつも平等に接されていて、知らない間にとても尊敬していました。周りにもクリスチャンになった先輩や後輩がたくさんいました。 キリスト教には関心がなかったのですが、クリスチャンってみんな親切だなあという印象を抱いていました。

日本での大学生活は苦しみの連続でした。一番私を苦しめていたのはボーイフレンドとの関係だったと思います。私は彼氏という存在にひどく依存し、私を助けてほしい、救ってほしい、そんな思いがいつもありました。その気持ちがいつも暴走して、結果いつも相手を傷付けてしまい、最終的には嫌いあって別れるということばかりを繰り返していました。今では、こうなってしまった原因がなんとなくですが想像できます。私は13歳の時に父を胃ガンで亡くしました。その時、父親という絶対的な存在だと思っていた人が弱っていく姿を目の当たりにしました。急に細くやせこけて、自分で瞼も閉じられなくなった父、床に伏せって泣く母。もしかしたら私は家族から得られる心の土台的な何かをどこかに忘れてしまったのかもしれません。母には自分の悩みなどはほとんど相談しなくなりました。母が私の悩みをひとりで受け止められるか分からなかったのです。そして、ボーイフレンドの中に心の支えを見出そうとしていたのだと思います。でもそんなことがうまくいくはずもないことにずっと気づかず、結局は寂しさを積み重ねることを繰り返していました。

大学4回生になり、就職の時期が来ました。そのころすべてのダメージが体に表れていた時期で、よく体調を崩していました。夢とか目標とか何にもなかった私は人に勧められて自衛隊の音楽隊のオーディションを受け、なぜか落ちました。近所の高校生が受かっているのになぜ、と思いましたが、それもそのはずです、私は楽器の練習を全然していませんでした。何をするべきなのか、道が全く見えなくなっていました。実家に帰ってバイトしようと思いましたが、その道を選べば音楽はやめることになります。牛が散歩するほどの田舎に音楽の仕事はほとんどありません。私はそれでも良いと思いました。自分が演奏することに価値があるとは思えませんでした。でも私の先生だけがいつも励ましてくださいました。本当に尊敬する先生から「続ける事が大事」と言われたので、そうですか、じゃあ続けます、そのぐらいの軽い気持ちで続けることになりました。とはいえ、大学院に行くお金は一切ありませ ん。ちょうどその時、シンガポールに全額奨学金がでて、生活費ももらえる大学がある、ときいてシンガポールに行くことにしました。 シンガポールに行ってからもまだ同じ問題を抱えていましたが、ある夏休み、日本へ帰った時にクリスチャンの友達にこのことを相談しました。そうすると、「瑞生ちゃんの悩みは教会でしか解決できんと思う」と言われました。その言葉にすぐ従いました。本当に変わりたかったのです。そして自分の打楽器の先生が牧師をされている教会へ行きました。牧師の奥さんが「何か祈ることある?」と聞かれたとき、とっさに父親がいないことがたまに寂しいといいました。そうするとその方が「そっか、お父さんのことも神様に預けようね」とおっしゃいました。その言葉が自分にはとても衝撃でした。仏教の考え方では死んだ父を礼拝する感覚が強かったのですが、死んだ父よりその上の存在がいるとは考えたことがなかったのです。神様はあなたを愛しています、とはよく聞くけど、神様が私も、そして私の家族も愛している、と聞くことが本当にうれしくて涙がでました。

シンガポールに帰ってからしばらくは当時のボーイフレンドと付き合っていましたが、その人はヒンドゥー教徒であったため、 イエス様だけが道だということが納得できず、何回も大げんかをしました。私もほぼ知識がなかったのでかなり流されかけ、そして教会でも異教徒の彼をあまり歓迎する雰囲気でなかったのでかなり苦しみました。でも神様に「真実を教えてください」と祈っていくとき、 やっぱり逃れられない真実、「イエス様だけが道であり、真理であり、いのちである」をいろいろな方法で示されました。

 

「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)

 

そしてその人と別れてから、そのことをまっすぐ受け入れることができました。今思えば、神様は本当に私のことを離さずにいてくださって、いつも守ってくださっていたのです。そしてイエス様の十字架で示された愛をもって神様は私たちを愛してくださっていて、こんな小さなものを贖ってくださったことを感謝しています。

私のような田舎の出身者が、ジュリアード音楽院まで来ることができたのは、奇跡としか言いようがないと思います。小さい頃から英才教育を受けたわけでもなく、なにより田舎に住んでいたのでコンサートもほぼ聴きに行ったことがなかったです。私は正直今でもなんでこんな人生になったのかよく分かりませんし、特に名をあげたいとか、有名なオーケストラで働きたいと思ったことも一度もないです。周りの人と比べると経歴も情熱も知識も明らかに欠けていたので、なんでここにいるんだろうといつも不思議でした。でも、そんな私だということは神様は百も承知でここまで導いてくださったと思うので、神様のご計画の1パーツとして栄光をあらわすことができたらと、小さいながらに願っています。

これからの予定は、半年ほどは日本に帰ってオンラインで授業を受けようと思っています。日本に帰っても、ニューヨークに戻ってきても、イエス様をもっと知っていけますようにと願っています。イエス様を知る事が私の人生に大きな喜びをもたらすこと、そしてなによりも神様がそれを喜ばれることを確信しています。

最後まで私の証を読んでくださってありがとうございました。

「想定外の高校生活を通して神様に気づかされたこと」

病気をしていた長い間、皆様にお祈りいただいたことを感謝します。高校時代、いろいろな体調不良が続き、Sophomore(高校4年のうちの2年生)だった2018年春ごろから体調を崩し、学校を休みがちになり、手術や、何人ものドクターによる治療を受けても痛みがとれず、夏はほとんど薬により眠り続け、2018年秋のJunior (高3)になっても初日しか登校できませんでした。回復しない不安、同い年の子に遅れを感じる焦りが日に日に強くなり、精神的にも追い詰められていました。

そのような中、出席日数が足りないと、当時通っていた高校に呼び出され、ドクターズノートを複数の担当医師から入念に書いてもらって家庭学習を受けていたにもかかわらず、テストは指定時間に受けるようにとか、冬休み返上で課題を提出するようになど、学校側の正しい理解と協力が得られず、体力的・精神的な限界もあって転校することを決意しました。

当時は体の薬への拒否反応か、夜飲んだ薬も次の日の昼までうなされる程の通常より強い副作用の症状に悩まされました。しかし、午後から夕方にかけては、どうにか机に向かうことができたので、それまでの現地校のようにベルが鳴ったら次の教室に向かう時間割でなく、自由な時間帯に学習できる学校を求めていました。その結果、兄の友人が卒業した、TIHSという日本の通信制の高校に転入することができました。

TIHSは、日本の高校卒業、アメリカの高校卒業、またその両方を選ぶことのできる、リモート(コンピュータを通じて)のみでも卒業できるという最新型の学校でした。本校はワシントン州にあるのですが、私は日本で治療を受けることになる可能性もあったので、東京にある日本校に2019年2月に編入しました。ニュージャージーの自宅から一歩も出ずに高校の学習が続けられるという、当時の私にベストの環境を神様が備えてくださったことを感謝しています。TIHSは「オンラインスクール」とも少し違い、ワシントン州認定の高校カリキュラムに基き、週1度のスカイプ面談でラーニングコーチの指導があり、各教科の勉強を基本的には生徒が自主学習で進めるシステムです。学習目標の設定、自習、成果物の提出、単位審査を通して、各自に合ったペースで単位制学校だったので、私の健康状態による学習の遅れに対してもすごく理解があり、薬が変わって1週間動けなくても、体調の許すときにぶっ通しで勉強したりできたので、私にはうってつけでした。この画期的な学校システムは、周りに説明が難しいこともありましたが、未開拓地を切り開くパイオニアになれた気がして、体調が優れず部屋でうずくまっている私にも、コンピュータからアクセスできる数時間により世界が広がりました。今振り返ると、このレアな体験こそ、神さまが私に、「ネットの可能性」と「現場に執着しない」という、2つのことに気づかせるために導いてくださったのだと理解しています。

神様を通して気づかされたことの1つは、私がいるこの時代は、テクノロジーを使いこなせば可能性は思っているよりも広い、ということです。TIHSに転入する前も、別段コンピュータに疎いわけではありませんでした。しかし、一度も対面したことがない先生の元で学習をしディプロマを取得できる時代だとは、TIHSと出会うまで本当の意味で意味がわかっていませんでした。リモート学習とは、例えば、物理は解説ウェブサイトなどを通し動画や練習問題を解き、提出物はグーグルプラットフォームを通して日本へ数秒で提出でき、質問はメールで日本やワシントン州などと無料でやりとりができ、ビデオ通話で学習のアドバイスなどを受けるということです。実際学習を始めると、スペイン語でも、物理でも、自分のペースで教科書や解説動画を理解しようとするので、現地校で授業を受けていた頃よりも自分の勉学に責任を持ち、理解できていない学習範囲の動画をくり返し見て、わからないまま次の範囲へ進まないようになりました。そして、残り2年分の単位を1年弱で履修し終わり、同級生よりも半年早く卒業にこぎつけたのです。このように、ネットはもはや新しいツールとしてこの時代にあるだけでなく、使い方によれば学校制度や地理的制約といった社会のシステムまで変えているのだということをTIHSで身をもって体験しました。そして、この新たなネットの可能性を知った私は、テクノロジーを正しく理解し、使いこなせる人になりたい、と強く思うようになりました。(TIHSで学習していた頃は、数年後にはこのネット学校が普及するのだろう、と感じていましたが、2019年12月に卒業してから半年も経たずに現実にこのCOVID19状況下でリモート授業が社会に浸透した今、リモート教育を使いこなせる先生方に出会え、教えてもらえたことに感謝しています。)もちろん、新しいテクノロジーに飛びつくのでなく、どう使いこなせば可能性が広がるか等、必要性を見極める力も重要であることを充分理解しつつ、これから開発されるであろう新たなツールに柔軟に対応できる能力をつけたいと思うようになりました。

そして体調が次第に回復し教会へ行けるようになった頃、「今できること」の一つとして、教会の中高生たちと賛美動画を作成しYouTubeで配信する「B.I.G. Praise House」のプロジェクトを始めたい、という思いに導かれました。JCCNJに通うユースは、日本語と英語を使えるので、賛美歌を2か国語で歌い、アメリカにいる日本人、日本にいるクリスチャン、世界中の日本とアメリカに興味がある人に届けたい、とそれなら療養中の私にも出来るのではないか、と思ったのです。初めは中高生グループに動画作成に協力してもらえるかの不安、動画編集への不安、著作権への不安、発信した反響への不安など、色々と不安を抱えていたのですが、

「ですから、わたしの愛する兄弟たちよ。
堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。
あなた方は自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているのですから。」
コリントへの手紙第一15章58節

Therefore, my brothers, stand firm. Let nothing move you.
Always give yourselves fully to the work of the Lord,
because you know that your labor in the Lord is not in vain.”
1 Corinthians 15:58

のみことばに後押しされ、教会の仲間たちにこの企画を提案したら、思いの外、好意的に受け止めてもらえ、ピアノが得意なメンバー、ギターが弾けるメンバー、ボーカルで参加してくれるメンバーなどに恵まれ早速プロジェクトが動き始めたのです。著作権も、賛美したい曲の権利を持ついくつかの団体から返信をしてもらい、金銭の発生がないならと、承諾していただけました。動画編集も、友達からソフトへのアクセスアカウントを貸してもらえて、YouTubeで編集の仕方を少しづつ勉強し、なんとか1本目の賛美動画が作れました。いざアップロードしてみると、初めはメンバーの知り合いが視聴者のほとんどでしたが、1年が経った今、初期の動画は3千回の再生回数を突破していて、アメリカや日本に加え、最近は台湾やタイなどからも多くアクセスされているようです。このように、当初願っていたよりも広い地域から反響があり、直接面識のない方から「God Bless all of you!! God Bless Japan!! Greetings from Brazil!」とコメントしていただけたことにより、このプロジェクトを通して世界に賛美を届けることは格別大げさなことではないのだと実感し、心からの喜びを感じました。(COVID19で自粛している間、何年も会えていない遠くに住んでいるクリスチャンの友達にも多く参加していただけたり、礼拝堂で共に賛美できなくなった教会メンバーと賛美するなど、賛美動画も進化し続けています。最新の動画は、東京、アムステルダムとニュージャージーからの歌声が1つになりました。https://youtu.be/cmDcOu7uZCg

私が神様を通して気づかされたことの2つ目は、私がいるこの時代は、「場所にこだわらなくてもいい」ということです。TIHSは完全にオンラインの学校だったので、2019年12月の卒業後、年末の日本への旅行で学校を訪問するまでは、担当の先生を含め学校の先生方と画面上でしかお会いしたことがありませんでした。また、行ったことがないワシントン州の高校ディプロマ(卒業証書)が家に届いたときは、頭では理解していたにもかかわらず、驚きました。元気なころの私は、教室で先生から教わらないと熱心な指導は受けられない、各教科を深く理解するには学校へ通わないといけない、という固定概念を持っていたのです。しかし、TIHSの、校舎に執われないシステム実体験したことにより、今後は学校以外のことでも「場所」にこだわらなくてもいいのではないかと考えるようになりました。例えば1年ほど前、大学で何を学ぶかを考えていた際に国連の日本スタッフ募集のガイダンス説明会へ話を聞きに行ったのですが、難民キャンプに医師は必要だが、歯科医は送っていない、今のところ必要ないと言われました。その頃、近所の歯科医院で働かせてもらっていて、将来歯科医になる夢を持ち始めていた私は、歯科が国際機関でさえ後回しにされていることを知りショックでした。難民キャンプで腕から血を流している少年の傷口を治療する方が、虫歯だらけの歯を治療するよりも優先順位が高いことは分かっていても、国連スタッフから聞いた歯科は国連で必要とされていないという言葉が私の中から消えませんでした。なぜなら、いくら難民キャンプの少年の腕の傷を治しても、歯の健康が保たれていなければ、栄養を摂取できず、せっかく治療した傷口も、自己修復機能が衰えた影響で、雑菌などが完治しない傷口から入り悪化する可能性や、骨に栄養が届かず、折れやすくなる可能性も十分考えられるからです。そして、このCOVID19の影響で、医師さえも自由に現場へ行けなくなった今、歯科は感染リスクが高いため、私が勤めている地元の歯科医院も2ヶ月以上の閉鎖が続きました。考える時間が増えたこの自粛期間中に、私は、COVID19が解決したとしても歯科の弱点と向き合いたいと思うようになりました。私が思う歯科の弱点とは、内科医はリモートで診察ができ、薬を処方することが可能になったのに比べ、歯科はリモートで診察しようにも口の中を写す高性能の機材が必要だったり、虫歯の色が見えにくかったりすることに加え、虫歯を遠隔で治療するのは難しいということです。しかし、治療が必要な歯を何ヶ月も放棄していると、その歯は想像以上に悪化し、神経にまで進行してしまうと、痛いだけでなく、脳卒中を引き起こす原因になると言われており、このCOVID19で緊急事態宣言明けを待たざるを得なかった歯科の現状をこのままにしておきたくないと思ったのです。遠隔でも治療する方法や予防する方法を見つけられたら、次のパンデミックまで待たずとも、難民キャンプにいる患者さんの力になれるのでは、と考えています。このリモートと歯科の融合を模索する中、最近普及しつつある「イビザライン(Invisalign)」という新しい歯科矯正技術に今後の歯科の可能性をすごく感じました。それは、初めの診察時にペン型の小さな3Dスキャンナーを使い、患者さんの歯のデータを、えずくことなく型取りし、コンピュータに3Dの模型を作り、従来の矯正では2週間ごとにワイヤーを締めに矯正専門医のオフィスへ通わないといけなかったのが、この技術では3D模型を使い、微妙に違う形のプラスチックのマウスピースを3Dプリンターで作り、1週間ごとに新しいマウスピースを装着し、歯が徐々に動き、綺麗な歯並びに変わる仕組みになっています。このInvisalignは、診察の回数を減らすことができ、経過が順調であれば夜のみの装着でも効果が期待でき、ワイヤーがないので歯磨きやフロスも普段通りできる、画期的な技術だと私は捉えました。歯ぎしりする癖がある人は奥歯の噛み合わせが合わなくなってしまうこともあるようですが、歯科の世界でのこの進歩が遠隔治療へつながっていくのではないかと期待でき、ワクワクするのです。まだ遠隔で虫歯を治療する方法は見つかっていませんが、TIHSで「場所にこだわらない方法を見つければ良い」という新しい概念に気づけたおかげで、歯科も現地へボランティアに行くことが全てではなく、ニュージャージーからでも力になれる方法があるはずだと思い、今後の歯科の可能性を模索しながら歯科医になる道を歩みたいと今は願っています。

具体的に歯科医になる第1歩として、この秋からの大学進学することが決まりました。TIHSへ編入した頃は、大学進学の目処が立っておらず、学校の特殊性から興味がある各大学に問い合わせをしなければならず、受験できる大学も限られてしまいました。

Delight yourself in the LORD and he will give you the desires of your heart.
Commit your way to the LORD; trust in him, and he will act.”
Psalm 37:4-5

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」
詩篇37篇4-5節

のみことばの通りに、大学進学の準備に間に合って体調の回復が与えられ、大学の門戸が開かれたことに感謝しています。Agnes Scott College というジョージア州のアトランタ郊外にある女子大に進学することに決心しました。そこで4年後デンタルスクール受験の準備をする予定です。しかし、歯科医になることは私の自己満足でなくVocationなのか、神様の私へのコーリングは歯科医になることなのか、まだはっきりとわからないでいます。しかし、確実に言えるのは、私がニュージャージーに生まれ、日本語と英語の能力を身に付けられる環境を与えられ、日米両国の文化の中で育って双方の「良い所どり」ができる視野を養ってくださったことは、全て神様のご計画だった、ということです。私は、この与えられた生い立ちを活かし、グローバルスタンダードを目指す一人として歩みたいと願っています。歯科で言えば、先進国と呼ばれる日本やアメリカでも、現状はお金がある家庭は歯ブラシやフロスなどが使え、虫歯になれば治療ができる一方、貧困に悩まされる地域では歯ブラシの習慣がない家庭もあり、40代で全部の歯を失う人も多くいます。私が目指したい歯科のグローバルスタンダードとは、格差がなく歯科予防の指導を受けることができ、歯科医院が身近な存在になり、生涯入れ歯を作らなくていい人が、どの国でも普通になることです。(しかし、グローバルと、世界を目指す前に、私はニュージャージーのBergen Countyという偏った地域にいる限り、アメリカさえ知らないのだと、トランプが当選した時や、最近のBlackLivesMatterの運動を通じて、これまで以上に思うようになりました。)これまでと違う世界を知るため、私はこれからの4年間、住み慣れた地元を離れ、景色の違うアトランタへ行く決意をしました。アメリカ南部の経験したことがないので、今心の準備をしているところです。さらに、健康不安を抱きながら初めて親元を離れ、感染が拡大している州へ行くので、守られますように、4年間の学びが全うできますように、教会が与えられますように、そして、経済的な支えがありますように。これまでも沢山お祈りで支えていただきましたが、これからもお祈りしてください。

誠実なる神様に守られて

NYでコロナウィルスの感染が拡大し始めた3月2日の仕事帰りの地下鉄の中、ルームメートから今月末でアパートを出ようと思っているので、契約を引継ぐか出ていくか決めて下さいというメールが入っていて呆然としました。一か月を切っている中で、仕事をしながらのアパート探し、片付け、引越し、しかもコロナウィスル感染が拡大しつつあるこの環境下で。

頭が真っ白になる中で「神様、助けて下さい!!!」と祈りました。NYでのアパート探しは簡単ではなく今月中に見つけて引越せるのか。。。不安な気持ちでいっぱいでした。でも「神様に不可能はない!必要を満たして下さる神様が絶対素晴らしいことをしてくださる!主よ、あなたが栄光を現して下って御業を成して下さったら証を書きます!」と祈り、ふっとよぎるマイナスな思いを口にはしないようにして「必ず主が栄光を現して下さるから大丈夫!」と自分自身に言い聞かせ祈りました。

錦織先生、SGメンバーに連絡をしてお祈りをお願いし、知り合いの方々に不動産屋さんを聞いたり、教えてもらったウェブサイトをチェックして連絡をしたりと行動を起こしましたが、すぐには動きがなく、更なる祈りのサポートの必要性を感じ、祈り手の皆さんへのリクエストも出させて頂きました。皆さんのお祈りに支えられながら行動していく中で、会社の同僚経由で知り合ったブローカーの方が物件を紹介してくれることになりました。私の希望はクイーンズのアストリアかフォレストヒルズでした。フォレストヒルズのお隣のレゴパークで紹介できる物件があるということで内見の約束をしました。

3月5日内見に行く日の朝、内見を予定していた部屋は決まってしまったとの連絡がありました。同じビルに家賃は少し高くなるけれども空いてる部屋があるので興味があれば今日見せられると言われ、丁度その週末にフォレストヒルズにあるアパートのオープンハウスに行く予定にしていたので、そのアパートを見に行った後、フォレストヒルズのアパートに行って祈ってこようと思い、バジェットを超えていて興味のない物件ではありましたが内見に行くことにしました。

他にハーレムやブルックリンのアパートも紹介されましたが、私の希望はアストリアかフォレストヒルズであることを再度伝えたところ、その後、電話があってフォレストヒルズの物件が出てきたので興味があればレゴパークのアパートを見に行った後、紹介できると言われ、二つ返事でOKしました。

その新たな物件についての詳細をメールで送ってもらい、内容を見た時に「あっ、これだな」っという思いが来ました。そして実際にアパートを見た時に「ああ、ここだ!」っと思いました。今回はアパートの希望のリストを書き出して祈ってはいなかったのですが、私が思っていた条件をクリアしていました。まだリノベーション中で完成するのが3月中旬頃とのことでした。私の中では心は決まっていましたが即答はしませんでした。その翌日、メールを送っていた不動産屋さんの1つから1件アストリアで紹介できる物件があるとのメールがありました。もう遅いんだけどなぁと思ったのですが、そこを見ることでフォレストヒルズのアパートが神様が備えて下さっている場所だというコンファメーションになるように感じ、翌日内見に行くことにしました。

思った通り、アストリアの部屋を見ることでフォレストヒルズのアパートが神様からのものだと確信し決断することが出来ました。今回は御言葉を頂くことはありませんでしたが、アパート探しを始めた時からいつも「神様の御心の場所だと私にはっきり分かるようにしてください!」と祈っていて、まさにその祈りは聞かれ、「ここだ!」と迷うことなく決断することができ、主に感謝します。

信じられない速さでアパートは見つかりましたが、その後引越すまで祈りの課題は次から次へと出てきました。まずは審査です。コロナ感染拡大の影響でアジア人に対する差別も増えている中で審査が通るのか不安でしたが無事に通り感謝でした。次はリノベーション。当初3月18日に完成、19日に契約、21日に引越しの予定でしたが、リノベーションが延びて、契約が23日の週前半頃になるとの連絡がありました。NYで外出禁止令が出るのも時間の問題という状況の中で、さらにリノベーションが延びたらどうしよう。。。と不安を感じ祈りました。次は引越しの日。23日の週前半に契約が出来たとしてその週後半の天気予報はほぼ雨。晴れの日に引越しが出来るように祈っていたところ、20日に連絡があり、翌日21日に契約、22日に引越しをすることになりました。そして引越し。コロナ感染拡大で自粛が進む中、2人で来る予定の引越し屋さんがもしかしたら1人になるかもしれないという話を契約直後に聞いて、「えっ、明日引越しできるの?明日の夜から外出禁止令出るけど・・・」と最後の最後まで祈らされ、また祈って頂きました。当日は無事2人で来てくれて、天候も晴れ、外出禁止令が発効される3時間前に引越しが完了しました。本当にギリギリ間に合って引越しができ、主のタイミングの凄さに畏れつつ感謝しました。

神様がなして下さったことはこれだけではありません。いきなり1ヵ月以内に引越さなくてはならなくなって呆然とする私に追い打ちをかけるようにルームメートからインターネットは13日で切るのでその後は自分で対応して下さいという連絡がありました。コロナの影響で在宅勤務となりネット環境は必須です。切れる日が近づいてきてモバイルWiFiを買わないといけないなぁと思っていたところ、丁度大家さんの息子さんが電話をくれたので、今回の経緯を話し相談をすると隣人にインターネットを使わせてもらえるよう交渉してくれることになり、切れる前日から使わせてもらえるようになりました。更にもし3月中に引越し先が見つからなかったら4月も今払っている分の家賃で住めるように大家さんであるお父さんに交渉してくれるとも言ってくれました。助け人を与え、万が一のバックアッププランをも備えて下さった主に感謝でした。

「神様が素晴らしい御業をなして下さったら証を書きます!」っと神様に約束してスタートしたアパート探しでは「神様助けて下さい!」と祈る度に神様は祈りに応え、御業を成して下さいました。そんな誠実な神様に対して、日々の忙しさや体調が良くないことを言い訳に約束を守れていなかったことをここに悔い改めます。引越しをして2か月が過ぎましたが、やっと神様がなして下さった素晴らしい御業についてお分かちできること、そして祈りでもって支えて下さった兄弟姉妹に心から感謝します。

最後に、リノベーションが延びて不安を感じていた時に祈り与えられた御言葉をシェアします。

主は、あなたを守る方。
主は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、
夜も、月が、あなたを打つことはない。
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、
あなたのいのちを守られる。
主は、あなたを、行くにも帰るにも、
今よりとこしえまでも守られる。(詩編121:5-8)

「勲(いさお)なき我を」

以前、高校生の私がどのよう救われたかについて、20189月の月報に「地のちりにひとしかり」と題して証しさせていただきました。今日はその後どのようにしてNYに来たかをお話しさせていただきます。

私は中学3年の時に福音に触れ、高校1年で洗礼を受けました。その後、泉州から株別れした心斎橋キリスト集会では、20名ほどの高校生が救われ、私は若い信仰の仲間たちと、バイブルサークル、ムディー映画会、バイブルキャンプと忙しい毎日を過ごし、大学生になっても、礼拝、福音集会、トラクト配布や路傍伝道など、大阪市内を忙しく駈けずり回っていました。ところが、4回生の春に信仰の大スランプ?が訪れました。

神の愛を伝えながら、人々への愛が冷めていくこと。全能の神を信じながら、人を恐れること。日本語だけで聖書は理解できるのか。ユダヤ人を知らずして、旧約の神を理解できるのか。平和な日本で信仰は成長するのか。それは自分の信仰への疑念にはじまり、やがてクリスチャン・コミュニティーのぬるま湯の中で生きてきた自分への自己嫌悪に変わりました。迷いと不安と焦りの中で私が出した答えは、ニューヨークでした。

1981年の秋、23歳の私はJFK空港に降り立ちました。所持品はダッフルバッグ2つと200ドルだけ。2年間は大学のESLで英語を学び、長期滞在を望んで永住権を申請しました。NY商工会議所の事務局長にスポンサーをお願いし、3年で永住権を取り、その後すぐ日系の証券会社へ転職を企てました。ウォール街に行けばユダヤ人と出会えると考えたからです。経済の知識も金融の経験もない私でしたが、とにかく某大手証券会社に履歴書を送付し、証券業務の知識を即席で詰め込んで、面接に望みました。

面接官は30代の某国立大学出のエリート駐在員でした。彼にとって私の履歴書はただの紙切れです。証券業務への熱意を必死でアピールしましたが、反応はいまいち。するとなぜかその場に、金色のネクタイをした体格のいい怖そうな人が現れました。新設の営業部の部長でした。私の履歴書を一瞥するや、「なんやおまえも大阪か。」そして若い面接官に向かって一言。「こいつ取ったれ。」これで採用が決まりました。

配属は新設の営業部で、日系の機関投資家へ日本株を売り込む7人の営業マンを補佐する仕事でした。株式の約定の仕組み、為替の決済方法、配当金の支払いや税金と手数料の計算など、知らないことだらけです。取り扱う金額は億単位で、毎日が緊張の連続でした。金融バブル期で朝8時から10時まで残業続きです。ユダヤ人との接触は皆無でしたが、財務分析の基本、景気指標の読み方や証券取引法など勉強になりました。

 

そんな中、1987年10月19日、株が大暴落しました。ブラックマンデー「暗黒の月曜日」と呼ばれます。NYダウ平均が508ドル下落しました。それは歴史的な暴落で、たちまち全業務が縮小され、営業部も解体されました。私は会計管理の事務に回され、そこで1年間ほど退屈な業務を強いられました。そんなある日、一本の電話がかかってきました。転職を斡旋するヘッドハンターでした。

紹介されたのは、金融システムの開発と販売を業務とする米系の会社でした。金融の自由化で、日本の銀行はリスクの高い金融商品を扱いはじめていました。それはデリバティブと呼ばれる金融派生商品で、その複雑な取引には運用管理システムが必要でした。その会社は自社の金融システムを邦銀に販売する営業を求めていました。私は英語も金融の知識も中途半端でしたが、とにかく日本語のプレゼンができるという理由で、面接後すぐに採用されました。

幹部も社員も若く、ほとんどがシステムとファイナンスの専門家でした。上司は大手銀行出身の30代後半の金髪碧眼の超イケメンの営業マンでした。ドイツ系アメリカ人らしい結果第一主義者で、ノルマを達成できない年上の部下を5人解雇しました。それでも私にはマーケティングの基礎や効果的なプレゼンの方法を丁寧に指導してくれました。この人物が、後に私の信仰の転機になろうとは思いもよりませんでした。

入社して2年間、ロンドン、パリ、フランフルト、香港、シンガポール、邦銀の海外支店を回り、出張続きの営業で多忙を極めました。そんな中、イケメン上司のお姉さんが3人の幼い子供たちを残して乳がんで亡くなりました。社員全員が葬儀に参列することになりました。葬儀会場は、見上げるような荘厳な建物でした。中央の祭壇の両端にはには大きな巻物があり、正面の壁には、なんと十字架でなく、巨大なダビデの星が刻まれていました。

それは教会堂ではなく、シナゴーグでした。上司はドイツ系ユダヤ人でした。そればかりか、参列した30名余りの社員のほとんどが、胸ポケットからヤマカを取り出して、頭に被りはじめました。開発部のマイクも、テクニカルサポートのダグも、みんなユダヤ人でした。私は2年間も、ユダヤ人の上司に指導され、ユダヤ人と仕事をし、ユダヤ人と交流していたのです。まるで狐につままれたようでした。 

その時、私が今まで抱いていたユダヤ人への神がかった憧憬が消え去りました。みことばが心に迫りました。「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。」(ヨハネ539)パウロの証言が胸をつきました。「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。」(ピリピ3:8)

自分が知るべきお方は、主イエスであったこと。渡米して10年。神さまが示してくださった単純な真理でした。私は主イエスを知る知識と知恵を求めて父なる神に祈りました。やがて、旧約聖書の霧が晴れ、新約聖書の真意が明確に示されました。私のために御子をお与えになった父なる神の愛が、そして、私のために命を捨てられた御子イエスのあわれみが、再び私の心を満たし、賛美と感謝が溢れ出ました。

いつからか、神の前に善きしもべであろうと努力し、教会の中で善き兄弟であろうと奮闘し、人の前で善きクリスチャンを演ずるあまり、はじめの愛から離れてしまった自分。自己改善と自己修養ために費やしてしまった10年間。そんな私に、主イエスは優しく語りかけてくださいました。「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ2232

放蕩息子(ルカ15:11-32)を喜びの涙で抱きしめた父親のように、神さまは私を迎えてくださいました。あれから、妻が信仰を告白し、洗礼を受け、2人の子どもが与えられました。父親は最上の着物と指輪と靴と肥えた子牛を放蕩息子のために用意していました。同じように、神さまも受けるに値しない私に善きものすべてを備えておられました。この父なる神と御子イエスに、栄光と賛美が帰されますように。アーメン。

勲(いさお)なき我を、かくまで憐れみ、イエス愛し給う、み許に我ゆく。